重要な主題に関する Paul C. Jong 師による説教
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イエスのバプテスマは、罪人救済の型
< ペテロの手紙第一 3:20-22 >
「わずか八人の人々が、この箱舟の中で水を通って救われたのです。そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。キリストは天に上り、御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えて、神の右の座におられます。
人は何によって
義人になれますか? |
| 神の恵みによって。
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神は、人間がこの地上に生まれる前に、すでに人間のことをご存じでした。神は人間が罪人として生まれることをご存じで、世の罪をすべて取り除いたバプテスマによって、信じる者をすべて救われました。信じる者をすべて救われて、ご自分の民となさいました。
こうしたことはみな、神の恵みによるのです。詩篇第 8 章 4 節には、「人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは」とあります。すべての罪から救われた、贖われた者は、神の特別な愛を受けています。そうした人々は、神の子どもです。
神の子どもになる前、義人となって神を父と呼ぶ権利を与えられる前、イエスの血と御霊だけを信じていた者は、何者だったのでしょう? 罪人、この世界で七十年、健康なら八十年生きるために生まれてきた罪人でした。
罪を洗われる前、イエスのバプテスマと血の福音への信仰をもつ前は、滅びる定めにあった、不正な人間でした。
使徒パウロは、自分が使徒となったのは神の恵みによるのだと語りました。同様に、私たちが今の私たちになったのは、ひとえに神の恵みによるのです。神の恵みに感謝いたします。造り主はこの世界に来られ、人類を救われて子ども、民となさいました。水と御霊の救済の恵みを神に感謝いたします。
神が人間を子ども、義人となさるのは、なぜでしょうか? それは、私たちが美しいからですか? それは、私たちがすぐれているからですか?
それとも、それは、私たちが善良だからですか? よく考えて、しかるべきところに感謝をささげましょう。
神が人類を創られたのは、ご自分の民としてともに天の御国に住むようになさるためです。神は、永遠にともに住むようになさるために人間をご自分の民となさったのです。それが、神が人間に永遠のいのちを恵まれた唯一の理由なのです。神が人間をご自分の民になさったのは、人間が美しいからでも、すぐれているからでも、他の被造物のどれよりも善良であるからではありません。唯一の理由は、神が人類を愛されているためです。
「そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。」(ペテロI 3:21)「わずか八人の人々が、この箱舟の中で水を通って救われたのです。」(ペテロI
3:20)
ごく少数が、一つの町から一人、一家族から二人が救われました。では、聖徒は他の人々よりもすぐれているのでしょうか? 少しもすぐれていません。私たちには特別なところは何もありませんが、それでも水と御霊への信仰によって、救われているのです。
私たちが救われているのは、奇蹟中の奇蹟です。そして、神を父、主と呼ぶことができるのは無条件の贈り物であり、恵みなのです。これは決して否定できません。まだ罪人であるのなら、どうして神を父、主と呼ぶことができるでしょう。
自分たちが救われたということについて考えるなら、神は人間を無条件に愛されていることがわかるのです。神に感謝する気持ちになりませんか?
神の愛と恵みなくしては、人間は生まれ、絶望的な生涯を送って死に、地獄に行くことになったはずです。神の目に子どもとなさるだけのものとしてくださった恵みと愛とに、ただただ感謝いたします。
イエスのバプテスマによって与えられたありがたい救済
ノアの時代の人々は
なぜ滅びたのでしょう? |
水(イエスのバプテスマ)を
信じなかったためです。 |
「そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。」ペテロの手紙第一には、わずか八人の人々が水を通って救われたと記されています。ノアの時代、どれだけの人間がいたのでしょう?
何人いたのかを知ることはできませんが、仮に百万人いたとしましょう。百万人の中からノアの家族八人だけが救われたのです。
その比率は、現在も同じくらいでしょう。現在、地球の人口は六十億人とされています。今イエスを信じている人々の中で、何人が罪を洗われているでしょう?
一つの町を見るならば、救われているのはごく少数でしょう。
私の町は人口二十五万ほどですが、何人が罪を贖われているでしょう? 二百人くらいでしょうか? では、比率はどのくらいでしょう? これは、贖いを受けている人が千人中一人もいないということになります。
韓国には、カトリックを含め、キリスト教徒が千二百万人いると推定されています。この中で何人が水と御霊によって新たに生まれているでしょう?
ノアの時代、地球の全人口のうちからたったの八人しか救われていないということを念頭に置きましょう。それによってすべての罪が取り除かれたイエスのバプテスマを信じる者すべての罪をイエスが洗い流されたと知り、信じるのです。
イエスがバプテスマと十字架上の血とによって人類全員を贖われたのだと信じる人は、多くありません。有名な「イエスの復活」の絵を見ましょう。ここには、復活された人々が何人いるでしょう?
人々がエルサレムの城からイエスに向かって下りて来ています。イエスは彼らに向かって腕を広げています。この人々の中に、神学者や聖職者は何人いるでしょう?
今日、世界には大勢の神学者がいますが、イエスのバプテスマを贖いの要となる真理であると知る人は、ほとんどいません。神学者の中には、イエスがバプテスマを授けられたのは、謙虚であったから、あるいは、より私たち人間のようになるためだと言う人々がいます。
しかし、聖書には、ペテロとヨハネを含め、使徒は全員、イエスのバプテスマによって人類の罪がその上に移されたのであるとあかししたと記されているのです。私たちもこれを信じています。
聖書の中で使徒たちは、人類の罪はバプテスマによってイエスの上に移されたとあかししています。これを信じさえすれば救われるというのは、神の恵みについての驚くべきあかしです。
贖いのバプテスマについて「おそらく」というのはない
神の限りない愛を
受けるのは誰ですか? |
イエスのバプテスマと血を
信じる人 |
人は、ただイエスを信じさえすれば救われるものだと考えがちです。どの教派も、自分たちの信仰による救済に確信をもっています。また、イエスのバプテスマはキリスト教社会の単なる教義に過ぎないと考える人が大勢います。しかし、そうではありません。私は数千冊の本を読んできましたが、救済に関する書物の中で、イエスのバプテスマ・血と神の救済との関係について、具体的に述べたものは、ただの一冊もありませんでした。
ノアの時代、たった八人が救われました。今日、何人が救われているかはわかりませんが、おそらく多くはないでしょう。救われているのは、イエスのバプテスマと血とを信じている人々です。多くの教会を訪ねてきて、真理の福音であるイエスのバプテスマを説く人がほとんどいないのを何度も見てきました。
イエスのバプテスマと血との贖いを信じないのなら、その人がどんなにまじめに教会に通っていようと罪人のままであり、救われていません。生涯忠実に教会に通っったとしても、心に罪があるのなら、まだ罪人なのです。
五十年間教会に通ったとしても、まだ心に罪があるのなら、五十年間の信仰はただの偽りに過ぎません。ただ一日真の信仰をもったほうが、はるかに良いのです。イエスを信じる人々の中で、イエスのバプテスマと血との意味を正しく信じる人々だけが、天の御国に入ります。
真の信仰とは、神の御子がこの地上に来られ、世の罪をすべて取り除かれるためにバプテスマをお受けになったと信じるということです。これが天の御国につながる信仰です。また、イエスがみなさんや私のために十字架上で血を流されたことも信じなければなりません。また、神に感謝して栄光をささげるために、これを知っていなければなりません。
私たちは何でしょう? 私たちは、イエスのバプテスマと血とによって救われた男女の子どもです。どうして神に感謝せずにいられるでしょう。イエスは人類をお救いになるために三十歳の時にヨルダン川でバプテスマを受けられました。これによって、主は人類の罪をすべて取り除かれ、人類に代わって十字架上で裁きを受けられました。
このことについて考えると、謙虚に感謝せずにはいられません。イエスがこの世界でなさったことは、すべて人類の救済のためなのです。第一に、この世界に来られました。バプテスマを受けられ、十字架につけられ、三日後に死者の中からよみがえられ、今は神の右手に座っておられます。
神の贖いは、例外なくすべての人間のものでです。イエスの救済はすべて、みなさんや私のためのものなのです。私たちは神の愛と恵みとのゆえに、神をほめたたえます。
ゴスペルに、次のような歌があります。「♫ 美しい物語。♫ この広い世界で神の愛と救済を受けているのは私。
♫ ああ、神の愛のすばらしさ。♫ 神の愛、神の愛 美しい物語。♫ この広い世界で救われて神の民となったのは私たち。私たちは神の愛に包まれている。♫
神の愛、神の恵み。?ああ、神の愛のすばらしさ。神の愛よ♫ 」
イエスは、みなさんや私をお救いになるために来臨されました。イエスのバプテスマもまた、私たちのためでした。福音は、ただのおとぎ話ではありません。これは、人間を骨の折れる日々から美しい神の御国へと引き上げる真理です。信仰は、神と個人との関係であることを念頭に置いてください。
主は人類をお救いになるためにこの世界に来られました。人類の罪を洗い流すためにバプテスマをお受けになり、十字架上で裁きを受けられました。
信仰をもつ者が神を父と呼べるのは、なんという恵みでしょう。どうしてイエスを救い主であると信じ、信仰によって罪から救われるのでしょう?
それは、神の人類への限りない愛のために可能になっているのです。救われているのは、先に人類を愛された神のおかげなのです。
イエスは人類の罪を一度で永遠に取り除かれた
「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは……私たちを神のみもとに導くためでした。」(ペテロI
3:18) イエス・キリストは人類の贖いのために、みなさんや私、悪い者をお救いになるために、一度十字架上で死なれました。
人間は一度で永遠救われるのですか、
それとも徐々に救われるのですか? |
| 一度で永遠に
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人類が神の裁きを免れるよう、主はこの地上で一度死なれました。人間が天の御国に入り、神の前で永遠に生きるよう、主はこの世界に肉の形で来られ、バプテスマと十字架上の死・よみがえりによって、人類の罪をすべて一度で完全に洗い流されたのです。
みなさんは、イエス・キリストがバプテスマと血とによって人類を完全にお救いくださったと信じていますか? イエスのバプテスマと血の福音を信じないのなら、救われることはできません。人間はとても弱いので、イエスがバプテスマと血とによって罪をすべて一度で永遠に、完全に洗い流してくださったと信じなければ、新たに生まれることはできないのです。
イエスは人類の罪をすべて取り除くためにバプテスマをお受けになり、人類に代わって十字架上で裁きを受けられたのです。イエスはバプテスマと血の贖いによって、罪人の罪のすべてを一度で永遠に洗い流されました。
罪を犯すたびに悔い改めなければならず、常に善良で敬虔であり、また教会に多くのものを捧げなければならないのだとしたら、人間が贖われることは不可能だったでしょう。
ですから、イエスのバプテスマと十字架上の血への信仰が、救済に不可欠なのです。人は水と血とを信じなければなりません。ただ良い行ないをすることは、罪の赦しとは全く関係がありません。
貧しい人に高価なスーツを買ってやったり、牧師においしい食物を供することは、なんら救済の役には立ちません。イエスは、バプテスマと血とを信じる者だけを救われます。神はイエスによって、そのバプテスマと血とで一度に永遠に人類を救われたのだと信じるならば、人は救われるのです。
神は聖書でこのようにおっしゃっているけれど、もっと深く考えなければならないと考える人がいるでしょう。これはその人次第ですが、みことばは記されているままに信じるものです。
ヘブル人への手紙第 10 章 1-10 節には、主が一度で救われたと記されています。イエスのバプテスマと血とを信じる者を神が救われたというのは真理です。そのように信じるのです。「♫
主は一度死なれ、人類を一度で救われた。兄弟たちよ、信じて救われなさい。イエスのバプテスマの下に重荷を下ろしなさい。 ♫」イエスは一度バプテスマをお受けになり、一度血を流されることによって、不信心と罪とから一度で人類を救われました。
「正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。」(ペテロI 3:18) イエスは罪のない神であられ、一度も罪を犯されていません。主は人類を罪からお救いになるために、肉の形でこの世界に来られました。バプテスマをお受けになり、人類の罪をすべて取り除かれました。イエスは罪と不正とから人類を救われました。
イエスがバプテスマを授けられたとき、人間の生まれてから死ぬまでの罪はすべて、イエスの上に移されました。そして、イエスが十字架上で血を流して死なれたとき、人類は裁きから救われたのです。イエスは罪人のためにバプテスマをお受けになり、身代わりとなって死なれました。
これが、イエスのバプテスマによる贖いです。イエスは罪人である人類すべてを一度で永遠に救われました。人間一人一人は、なんと弱いのでしょう。イエスは人間が生まれてから死ぬまでの罪をすべて贖われ、十字架上で裁きを受けられるために身を捧げられました。イエスを信じる者は、イエスがバプテスマと血とによって人類を一度で永遠に救われたということを信じるのです。
人間は弱いのですが、イエスは違います。人間は忠実ではありませんが、イエスは忠実です。神は、人類を一度で永遠に救われました。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ
3:16) 神は、人類に一人子をお与えくださいました。世の罪をすべてその上に移すために、御子がバプテスマをお受けになるようになさり、すべての人類に代わって裁きをお受けになるようになさいました。
なんという驚くべき救済でしょう。なんという驚くべき愛でしょう。愛と救済とを、神に感謝いたします。イエスのバプテスマと血、すなわちイエスのバプテスマと流された血、そしてイエスが神の御子であるということを信じる者を、神は救われます。
イエスを信じる者は、イエスのバプテスマと血の真理を信じて救われ、義人として永遠のいのちを得ます。みな、これを信じなければなりません。
誰が人類を救ってくださいましたか? 人類を救ったのは神ですか、それとも、救ったのは被造物の一つですか? 神であられるイエスが人類を救われたのです。私たちが救われたのは、神の贖いを信じたからです。そして、これが贖いによる救済なのです。
イエスは救済の主
「キリスト」とは、
どういう意味ですか? |
| 祭司、王、預言者
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イエス・キリストは神です。「イエス」とは、「救い主」という意味であり、「キリスト」とは、「油注がれた者」という意味です。旧約でサムエルがサウルに油を注いだように、王は油注がれました。祭司も油注がれました。預言者がその務めを果たすにも、油を注がれなければなりませんでした。
イエスはこの世界に来られ、祭司・王・預言者の三つの務めを果たされるために、油注がれました。天の祭司として、イエスは人類すべての罪を取り除くためにバプテスマを授けられました。
父なる神のみこころに従い、イエスは自身を罪のためのささげものとして、神の前にささげました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」イエスはバプテスマと十字架につけられることとによって、ご自分を信じる者たちの罪をすべて取り除かれ、救われました。
「なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。」(レビ 17:11)イエスはバプテスマを受けられた後、十字架上で血を流されました。こうして、人類の罪の贖いとして、神にご自分のいのちをささげ、信じる者が救われるようになさったのです。
イエスは十字架上で死なれて三日後によみがえられ、牢獄につながれた魂に福音を説かれました。まだ贖われていない人々は、罪の牢獄にいる霊的囚人のようなものです。イエスはその人たちに真理の福音、水と血の福音を説かれるのです。神は、人類をお救いになるために水と御霊の福音をお与えくださいました。それを信じる者は、誰でも新たに生まれることができます。
イエスのバプテスマと血とが罪人を救う
どうしたら神の前でじることなく
いられるでしょう? |
イエスの血とバプテスマを
信仰することによって |
イエス・キリストは人類の救い主です。それは、ペテロの手紙第一第3章21節であかしされています。「そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。」イエスのバプテスマの水は、罪人の救済になくてはならないものです。
イエスはバプテスマで罪を被られることによって、すべての罪人の罪を一度に洗い流されました。みなさんは、イエスのバプテスマを信じていますか?
イエスのバプテスマによって心から罪がきれいに洗い流されたと信じていますか? 心からは罪がきれいに洗い流されましたが、肉はまだ罪を犯します。
「新たに生まれる」ということは、その人が二度と罪を犯さないということではありません。私たち新たに生まれた者もまた、罪を犯すのですが、イエスのバプテスマへの信仰があるために、心には罪がないままなのです。ですから、先の部分では「バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであ」(ペテロI
3:21) るとしているのです。
イエスがすべての罪を洗い流してくださったのですから、また、神が身代わりの裁きを認めてくださったのですから、どうしてイエスを信じないでいられるでしょう。神であられるイエスがバプテスマと血とで救ってくださったことを知って、どうしてイエスを信じないでいられるでしょう。私たちは神の前に救われ、もはや良心にやましいところがありません。私たちには、神が人類を愛されないと言えないのと同様に、もはや神の前で、イエスが完全に罪を洗い流してくださらなかったとは言えません。
新たに生まれた後、良心はこれまでよりはるかに罪に敏感になり、罪を犯したときにはいつもそのことを告げてくれます。しかし、それで良心に少しでもやましく思うのであれば、イエスのバプテスマの力を思い起こすのでない限り、完全に罪から解放されているとはいえません。これが、良心に恥じるところがなくなるための唯一の道なのです。
良心の呵責に苛まれるとき、それは何かが間違っているのです。イエスのバプテスマの水は、罪の汚れをすべて洗い流しました。イエスはバプテスマによって人類の罪をすべて取り除かれ、良心までも洗い流されました。ほんとうにこれを信じるなら、良心はほんとうに清められたのです。どうしたら良心が清められるのでしょう?
イエスのバプテスマと血とを信じることによって、です。誰でも生まれたときから邪悪な汚い心をもっていますが、すべての罪はイエスの上に移されたと信じるなら、その汚れを消し去ることができます。
これが、新たに生まれた者の信仰です。これは自己催眠ではなく、意識的に認めることのできるものです。みなさんの良心は、きれいですか? きれいなのは、正しい生活をしているからですか、それとも、すべての罪がイエスの上に移され、みなさんがイエスを信じているからですか?
この信仰によってのみ、良心にやましいところがなくなるのです。
いのちのあることばもあれば、いのちのないことばもあります。どうしたら、すべての人々の良心をきれいにできるでしょう? 人が義人となり、良心に恥じるところがなくなる唯一の道は、イエスの完全な贖いを信じることです。
イエスのバプテスマによって人類が聖化されたと信じるとき、それは肉の汚れが除かれたということではなく、良心が神の前に清くなったということなのです。そのためにイエスはおいでになり、バプテスマを受けられ、十字架上で死なれ、死からよみがえられ、神の右手の座に着いておられるのです。
時が来れば、イエスは再びこの世界に来られます。「二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」(ヘブル
9:28) 私たちはイエスのバプテスマと血とを信じて罪のない者となり、主のおいでを待ち望み、お連れになるために主が来られると信じています。
信仰の臨床試験
大田教会で抜き打ちに臨床試験を行ないました。
大田教会のパク牧師は、ある夫婦に、イエスのバプテスマの意味には触れずに、この世には罪がないと告げました。夫の方は、教会に行くといつも説教中に眠っていました。牧師がみな、イエスのバプテスマを除いて福音を説いたために、毎日悔い改めをしなければならなかったためです。
イエスのバプテスマなしに
救われますか? |
| 決して救われません
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ところが、大田教会では、彼は目をパッチリ開いて説教を聞きました。罪がすべてイエスの上に移されたと聞いたためです。おかげで、妻は夫に教会に来るよう誘うのが容易になりました。
ある日、彼は教会でローマ人への手紙第 8 章 1 節についての説教を聞いていました。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」
そこで、「ああ、イエスを信じれば、罪がなくなるのだ。私はイエスを信じているのだから、私にも罪はないのだ」という考えがひらめきました。
そこで、義兄や大ぜいの友人に一人一人電話して、「あなたの心には罪がありますか? それならあなたの信仰は誤っていますよ」と言いました。これを聞いて、パク牧師はことばを失いました。この夫は、イエスのバプテスマを知らないのに、自分にはもう罪がないのだと言い張るのです。
そこで、夫婦の間でいさかいが起こるようになりました。妻は、それまではずっと信仰が深かったのですが、まだ心に罪がありました。ところが、夫は、自分には罪がないのだと言います。夫は教会にほんの数回行っただけで、すでに罪がないのです。
妻は、二人ともまだ心に罪があると確信していました。二人はそのことで口論するようになりました。夫は、「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」とあるのだから、自分には罪がないのだと主張します。それに対して妻は、自分の心にはまだ罪があると言います。
そんなある日、妻はこの問題であまりに腹が立ったので、パク牧師の所に行って、すべての罪はイエスの上に移されたというのはどういうことなのか、尋ねることにしました。
そこで、とある夕方の礼拝の後、夫を先に返すと、妻は残ってパク牧師に質問しました。「あなたが何かをおっしゃろうとしていることはわかりますが、重要な点が隠されているはずです。それが何なのか、教えてください。」そこでパク牧師は、水と御霊によって新たに生まれることについて話しました。
妻は、なぜローマ人への手紙第 8 章 1 節に「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」と書かれているのかをただちに理解しました。妻はその場で信じ、救われました。キリストの内にある者が罪に定められることのないように、人類の罪がすべて、バプテスマによってイエスの上に移されたことを彼女はついに知ったのです。
記されたみことばが理解できるようになりました。贖いの鍵はイエスのバプテスマであり、イエスのバプテスマの贖いによって人は義人となることができるのだと知ったのです。
ところで、夫は家に帰らないで外で待っていました。彼は、自分の罪がすべて清められたという妻のあかしを聞いてとても喜び、「では、あなたはもう贖われたのですね?」と尋ねました。
しかし、妻が牧師から話されたことを聞いて、夫は混乱しました。それまでイエスのバプテスマの福音を聞いたことがなかったのです。イエスのバプテスマなしでも、自分にはもはや罪がないと確信していました。そこで、二人はまた家で口論しました。
今度は立場が逆でした。妻は夫に向かって、心に罪があるのかどうかと問い詰めました。妻は、イエスのバプテスマを信じないで、どうして罪がなくなることがあり得るのかと尋ねました。良心をよくよく調べるようにと夫に促しました。言われて良心を調べた夫は、まだ心に罪があるのを知ったのです。
そこでパク牧師の所に行き、自分の心には罪があると告白しました。彼は尋ねました。「いけにえの山羊の頭に手を置いたのは、あれは、殺す前だったのですか、殺した後だったのですか?」それまでイエスの水と御霊の福音のことを聞いたことがなかったため、彼はひどく混乱していました。
それがこの霊的実験の要点です。イエスは世の罪をすべてご自分の上に移されるようにするためにバプテスマをお受けになる必要がありました。そうしてはじめて、十字架で死ぬことができたのです。罪から来る報酬は死だからです。
「ささげものの頭に手を置いたのは、殺す前だったのですか、後だったのですか?」こう尋ねたのは、手を置くこととイエスのバプテスマについて混乱していたためです。そこでパク牧師は、イエスのバプテスマの贖いについて詳しく説明しました。
その日、彼は初めて水と御霊の福音を聞き、贖われました。彼はただ一度福音を聞き、救われました。
これが、イエスのバプテスマを除外する実験でした。人は自分には罪がないと言うでしょうが、イエスのバプテスマなしには、まだ心に罪があるのです。人はよく、イエスは十字架上で死なれることによってすべての罪を清められたと言いますが、イエスのバプテスマと血とを信じる者だけが、ほんとうに神の前に罪がないと言えるのです。
パク牧師はこの夫婦によって、イエスのバプテスマへの信仰による贖いなしには罪を完全に贖われることはできないのだと証明しました。
罪人救済の型──イエスのバプテスマ
救済の型とは
何ですか? |
イエスの
バプテスマです。 |
「そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。」イエスは、人類の罪をすべて取り除いて良心を雪のように白くするためにこの世に来られました。イエスがバプテスマによって人類の罪をすべて被られたために、人はすべての罪を清められたのです。イエスはバプテスマと血とによって人類を救われました。ですから、すべての被造物はイエスの前に跪くのです。
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イエスを信じることによって人は救われます。イエスを信じて、人は神の子どもとなり、天国に行きます。イエスを信じて、人は義人となります。聖徒は忠実な祭司です。聖徒は神を父と呼ぶことができます。聖徒はこの世に生きていますが、それでも王なのです。
みなさんは、水と御霊による贖いを信じる者を神が救われると、ほんとうに信じていますか? 人間の贖いは、イエスのバプテスマを抜きにしては、完全ではあり得ません。神とイエスが真実であると認められる信仰とは、人類を完全に救ったイエスのバプテスマ、十字架、そして御霊の福音への信仰です。これが唯一の真の信仰です。
イエスがバプテスマによって取り除かれたときに、人類の罪は洗い流され、イエスが十字架上で血を流されたとき、人類の罪は贖われました。キリスト・イエスは、水と御霊によって人類を救われました。はい。信じます。
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