Sermons

[41-1] < マルコ 1:1-11 > バプテスマのヨハネの 務めを知っているか





< マルコ 1:1-11 >

「神の子イエス・キリストの福音のはじめ。預言者イザヤの書にこう書いてある。

『見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、

あなたの道を整えさせよう。

荒野で叫ぶ者の声がする。

「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。」』

そのとおりに、バプテスマのヨハネが荒野に現われて、罪が赦されるための悔い改めのバプテスマを説いた。そこでユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。ヨハネは、らくだの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。彼は宣べ伝えて言った。『私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありません。私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。』 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。そして天から声がした。『あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。』」



神の福音はどこから始まるのか


今朝の説教の続きとして、今晩、マルコの福音書第1章から、みことばを見ていきます。

この聖句の冒頭は、「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」と述べています。そして直ちに、バプテスマのヨハネの務めに関する説明が続きます。私たち全員が知っておかなければならないこと、そして絶対に確信していなければならないことは、神の福音がバプテスマのヨハネの務めから始まるということです。バプテスマのヨハネの務めは、イエスの務めの重要性とは比べものになりませんが、四つの福音書の執筆者は、イエスの務めについて伝える前に、バプテスマのヨハネの務めから、神の御国が始まるのだと示しています。主がバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになることによって、この世のすべての罪を一度で負われたときに、神の福音が始まったため、その後にのみ、主はそうした罪を十字架に運ばれ、死人の中からよみがえられることによって、神の福音を完成なさいました。

ですから、四つの福音書の執筆者たちは、イエスがご自分の務めの公生活を始める前にバプテスマのヨハネの務めがあったと伝えています。バプテスマのヨハネの務めは、神の福音のはじめとしてイエス・キリストのうちに導くという意味で重要です。四つの福音書に登場するバプテスマのヨハネは、イエスにバプテスマを授けることによって、イエスの上に世の罪をすべて移した人であり、旧約聖書のイザヤ書で預言された人でもあります。

次のように記されています。

「荒野に呼ばわる者の声がする。

『主の道を整えよ。

荒地で、私たちの神のために、

大路を平らにせよ』」(イザヤ 40:3)。

ここに触れている主役とは、バプテスマのヨハネです。聖書の他の箇所で、主は次のようにおっしゃいました。「見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整える」(マラキ 3:1)。そして、ここで「わたしの使者」も、バプテスマのヨハネを示します。

今日の聖句に記録されているように、次のようにあります。

「『荒野で叫ぶ者の声がする。

「主の道を用意し、

主の通られる道をまっすぐにせよ。」』 

そのとおりに、バプテスマのヨハネが荒野に現われて、罪が赦されるための悔い改めのバプテスマを説いた。そこでユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた」(マルコ 1:3-5)。

バプテスマのヨハネは、このみことばが指している人であり、バプテスマのヨハネについてあかししています。バプテスマのヨハネの務めが、人々をイエス・キリストに導くことであるとわかります。父なる神が御子イエス・キリストをこの地上に遣わされる六ヶ月前、御子の道を用意するためにバプテスマのヨハネを遣わされました。ここで、バプテスマのヨハネとは、「主の道を用意する者」であると、わかります。つまり、私たちを世の罪からお救いくださるために、私たちの主がこの世に来られ、バプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになる必要がありました。

イエスにバプテスマを授けたバプテスマのヨハネが、旧約聖書で遣わすと約束されたエリヤであると、主はおっしゃいました。バプテスマのヨハネの務めは、「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにすること」でした。バプテスマのヨハネは、イエス・キリストにバプテスマを授けることによって、その上に世の罪を移すという、わざをするように、神がお遣わしになった人でした(マタイ 3:15)。イエスが、バプテスマのヨハネから授けられたバプテスマを通して、この世の罪を一度で受けることができるようになったからです。このバプテスマは、神のすべての正しいこと(義)を実行するために、絶対に必要な務めでした。バプテスマのヨハネの主要な務めとは、イエス・キリストにバプテスマを授けることによって、その上にこの世の罪を移すことでした。このイエス・キリストのバプテスマは、旧約聖書の幕屋のいけにえの制度において、いけにえの動物の上に罪人の罪を移すという行為の、本物の実体だったのです。旧約聖書で、いけにえの動物が罪人の罪を負い、死んだのと同様に、主がバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになることによって、この世の罪をただ一度で負われたため、世の罪を十字架まで運ばれ、十字架で血を流されることによって人類の罪から来る報酬を支払われました。それは、イエス・キリストのこれらすべてのみわざ――この世に来られたこと、バプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになったこと、そして十字架につけられたこと――が、私たちをこの世の罪から救った救済を構成していたことを意味します。

したがって、父なる神は、御子をこの世に遣わされる前に、まずバプテスマのヨハネをこの世に遣わされ、ヨハネに神のみわざをさせました。イエス・キリストがバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになることによって、この世の罪をすべて一度に負われることができ、十字架で私たちのすべての罪のために裁きを受けられるように、父なる神はヨハネがイエスにバプテスマを授けるようになさいました。父なる神は、ひとり子をこの世に遣わされ、バプテスマのヨハネからご自分のひとり子に世のすべての罪を負わせるというバプテスマを受けさせることによって、すべての正しいことを実行するための準備をなさいました。ですから、父なる神は、バプテスマのヨハネを通してイエス・キリストにご自身の務めを完全に果たされたのです。

私たちは、バプテスマのヨハネが、従順でイエスのみこころに結びついて務めをしたことがわかると、彼はほんとうに神のしもべであるとみなすことができます。神のすべての正しいこと(義)を実行するために、バプテスマのヨハネがイエスにバプテスマを授け、イエス・キリストがバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになることによって、神のすべての正しいこと(義)を実行なさったことがわかると、私たちは神がバプテスマのヨハネとともにみわざをなさったことが理解できます。

神の救済の方法とは、ほんとうに公正で美しいものです。バプテスマのヨハネは、イエスにバプテスマを授けることによってイエスの上にこの世の罪を移したので、務めを欠かすことなく忠実に果たしました。したがって、イエスは神の小羊になられることによって、人類の罪を消し去るという、みわざのために根本的に準備されました。主がバプテスマのヨハネからお受けになったバプテスマによって、主は直ちに十分に、世の罪を運び去った神の小羊として、いけにえのささげ物になられたのです。バプテスマのヨハネが知っていること、見たもの、そしてイエス・キリストにバプテスマを授けることによって、イエスの上に罪を移すという務めを確認するために、バプテスマのヨハネは次のようにあかししました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ 1:29)。バプテスマのヨハネは、イエスが神の小羊であられ、そのためにバプテスマと十字架の両方によって、その罪から人類を救う救い主であられることをあかししました。バプテスマのヨハネが、この世に遣わされ、イエス・キリストにバプテスマを授けることによって、この世の罪をイエスの上に移しました。したがって、バプテスマのヨハネは、イエス・キリストがこの世の救い主であるとあかしするのに十分だった神のしもべでした。

霊的に言えば、バプテスマのヨハネの務めとイエス・キリストの務めのおかげで、水と御霊の福音を宣べ伝えるという、私たちのわざが可能になっているのです。父なる神は、御子イエス・キリストがバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになることによって、神の正しいこと(義)を実行することを望まれました。したがって、イエス・キリストは、バプテスマのヨハネから神の正しいこと(義)を実行するという、バプテスマをお受けになりました。この世でイエス・キリストにバプテスマを授けたバプテスマのヨハネのわざは、神のすべての正しいこと(義)を実行するわざだったのです。

バプテスマのヨハネがヨルダン川でイエスにバプテスマを授けなかったなら、この世の罪はそのまま残っていたでしょう。イエスがバプテスマをお受けにならなければ、イエスは十字架に掛けられるだけで、この世の罪を消し去ることが可能だったのでしょうか。それ故に、神はイエスの六ヶ月前にバプテスマのヨハネを遣わされ、ヨハネがイエスにバプテスマを授けることによって、この世のすべての罪を一度にイエスの上に移すという、わざをしました。この理由で、この事実を信じる人々が救いを受けることが可能になりました。そして、バプテスマのヨハネは自分自身について、こう語りました。「その方は私のあとから来られる方で、私はその方のくつのひもを解く値うちもありません。」 バプテスマのヨハネは、イエス・キリストがどなたであるか、そしてヨハネからバプテスマを受けることによって、ただ一度で世の罪をすべて取り除く神の小羊であられることについて、すべてのことをあかししました。それによってバプテスマのヨハネは、神のすべての正しいこと(義)を実行したイエスのバプテスマと十字架の血とを信じる人々を、将来、罪からの救済へと導きます。今、神の義に従う人々は、バプテスマのヨハネの務めとイエス・キリストの務めのあかしを救済として受け入れます。バプテスマのヨハネがイエス・キリストにバプテスマを授けたという証拠が、バプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになることによって、イエス・キリストがご自身の上に私たちのすべての罪を負われた救い主になられたと、信じることを可能にしました。



私たちも義のみわざをしているか


神の福音、すなわち水と御霊の福音を信じる私たちは、さまざまな形において、さまざまな場所で神のみわざを行なっており、神の正しいこと(義)を実行するために、そうしたすべてのわざをしています。バプテスマのヨハネのように、私たちは主の務めを用意し、水と御霊の福音を全世界に宣べ伝えるわざを用意している民でもあります。バプテスマのヨハネがこの世で行なったわざを見ると、水と御霊の福音を全世界に伝えるには、イエスにバプテスマを授けたバプテスマのヨハネのわざと、イエスがバプテスマをお受けになって、十字架につけられたことによって、ご自分に世の罪をすべて負われたことを宣べ伝えなければならないと、私は信じています。

バプテスマのヨハネはまた、人々が偶像を捨てて神に立ち返るように戒めるわざをしました。バプテスマのヨハネは、「あなたは神に立ち返らなければならない。そして、イエス・キリストが神の正しいことを実行なさった救い主であると知り、信じなければならない」と言うことによって、偶像を崇拝している人々の罪を指摘し、彼らを悔い改めさせ、神に立ち返らせました。しかしながら、みなさんと私は、当時のバプテスマのヨハネのように今はそのわざをすることができません。しかし、バプテスマのヨハネがイエスにバプテスマを授けることによって、世の罪をただ一度でイエスの上に移したことを、私たちはあかししています。私たちがそのような神の義のみわざを実際にあかししなければ、誰かが神のみわざをあかししなければならないと思います。ですから、水と御霊の福音を信じているみなさんと私に、神の義を委ねられ、私たちにこの福音を説くようにさせてくださいました。

創世記のみことばは、誰が誰を生んだかなどの系図を記録しています。それは、神のしもべが何年もの間、神とともに歩み、そのようになったと言い、信仰の子孫について語っています。神は、しもべを通して神のみこころを啓示されました。例えば、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブのような人々の信仰を見ると、神はそのような信仰の人を通して、そのみこころを啓示なさり、そのみこころを成就なさったことがわかります。当時、神はしもべを通して、このようなみわざをなさっておられ、今でも水と御霊の福音を信じるみなさんと私を通して義のみわざをなさっておられます。

イエスはまず、バプテスマのヨハネを遣わされ、それからこの世に来られ、特にバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになって、ご自分の上にこの世の罪を負われることによって救済の福音のみわざを始められたのです。ですから、イエスは父なる神のみこころに従い、バプテスマをお受けになって世の罪を負われ、十字架に向かうことによって、すべての人のためだった神のすべての正しいことを実行した救済をくださったのです。今でもイエスは、みなさんや私を通して神のみわざをなさっておられます。それは、多くの人々を本当に悔い改めさせるために、主が私たちに水と御霊の福音を伝道させることを意味します。

近頃、私たちは創世記に関する説教書を出版し、文書宣教を促進させています。創世記の第1章を翻訳し終えており、おそらく今週、電子ブックとしてウェブサイトにアップロードされます。私たちは今度、第2章に取り組み、まもなく電子ブックとしてアップロードします。最近、宣べ伝える時間はあまりありませんが、以前に宣べ伝えたことのある説教が非常に多くあります。創世記第2章から1冊、第3章から1冊、第4章から1冊も作成します。

私の説教から多くの本が出版されるのは、素晴らしいことだと言っているのではありません。私が言っているのは、創世記の各章にある神のみことばを通して、神のみこころを宣べ伝えることができるのは素晴らしいことです。聖書のさまざまな部分からさまざまな説明で、神のみこころを宣べ伝えることができるからです。以前に分かち合った説教を、真理の倉庫から取り出し、電子ブックを作成して伝道しています。そして、こうした本の内容は、まさに水と御霊の福音に焦点を当てています。この神の義の福音を伝道することは、バプテスマのヨハネの務めとイエスの務めをあかししているということです。私たちが少しずつ神のみことばを通して、水と御霊の福音の真理を宣べ伝えると、神のすべてのみわざが成就されることになります。

今まで水と御霊の福音を多くの人に伝えようと努力してきましたが、水と御霊の福音に関する本を読んで、心で信じることによって、真の救いを受ける人々はまだ非常に大勢います。すべての人が水と御霊の福音を知り、信じて、すべての罪からの救いを受ける時が来ています。こうするために、私たちは一生懸命に働き、神のみことばによるイエスの務めとバプテスマのヨハネの役割について、さらにあかししなければなりません。

みなさんと私がしている文書宣教は絶対に必要です。水と御霊の福音を全世界に宣べ伝える仕事は、すばらしいものです。バプテスマのヨハネがイエスにバプテスマを授けることによって、この世の罪をイエスの上に移しました。そして神は、バプテスマを授けられることによって、一度でイエスご自身の上に世の罪を負われ、血を流されることによって、世の罪を支払われたイエスの正しいみわざとヨハネの働きを通して、神の義を信じる人々に真の救済をお与えになりました。私たちは神の正しいしもべであることを知り、神のみわざを信仰によって行わなければなりません。バプテスマのヨハネが主の道を用意したように、みなさんと私も水と御霊の福音を世界中に広めるために努力しなければなりません。私たちは常に水と御霊の福音を宣べ伝える用意をし、信仰によって宣べ伝えなければならないのです。水と御霊の福音を宣べ伝えることなしに、人々の心にある罪を清めることはありません。この水と御霊の福音なしに、全世界は伝道されません。ですから、神の義の福音を広めたいのなら、信仰によってさらに自分自身を備えなければなりません。私たちは、女性が子供を産むために多くのことに備えるのと同様に、これを行わなければなりません。

水と御霊の福音を伝えることは、主が厳密に私たちにしてほしいことなのです。私たちが神の義を知り、それに絶対的な確信を持っている状態で神のみわざをしたなら、この神のみわざはどれほど価値があるでしょうか。私たちは水と御霊の福音を宣べ伝え、この仕事のために神に祈らなければなりません。私たちがこの課題に取り組むほど、神はこうしたすべてのみわざを成就なさるため、どんな仕事がこれ以上の幸せをもたらすことができるというのでしょう。この世界で最も幸せな人とは誰でしょう。私たちは水と御霊の福音を信じることによって、すべての罪の赦しを受けている民であり、神の義のみわざのために力を尽くして霊的に収穫する民でもあります。私たちが最も幸せな民になっているのは、こうした理由があるのです。

私たちが働いてきたものを収穫して食べることができるのは、祝福です。私たちが備えたすべてのものが、水と御霊の福音の説教や、多くの魂が罪の赦しを受けるために用いられるなら、私たちは満足することでしょう。私たちは、神から祝福を受けている民です。神の御前にほんとうに祝福された民なのです。私たちが神のみわざをしていて、神から祝福を受けていることに絶対的確信があるなら、みなさんと私はこのみわざのために生きなければなりません。みなさんと私が今しているわざは、主の御国の用意です。そのようなわざは、主の道をまっすぐにしているのです。

この頃、この世でイエス・キリストの務めを行うのは、どれほど難しいことでしょう。ほんとうに難しい務めとは、バプテスマのヨハネの務めをあかしし、イエス・キリストが神の小羊であることをあかしすることです。それゆえ、次のように記されています。「主の通られる道をまっすぐにせよ。」 これは、「主の道」が非常に難しい道であることを教えてくれます。主は計り知れない能力を持っておられますが、聖書はバプテスマのヨハネの務めとは、イエスが世の罪を負われて、私たちを世の罪からお救いくださるために、ご自分の上に世の罪を負われる必要があったことをあかししています。主は、私たちに神のみわざをさせることを強制なさいません。主は、世の罪から全人類を救うみわざを成し遂げられ、水と御霊の福音を信じる私たちを神の義の器として用いることを望んでおられます。ですから、私たちはほんとうに幸せな民になっているのです。

したがって、私たちは水と御霊の福音を、信仰の確信をもって宣べ伝えなければなりません。バプテスマのヨハネの務めは、私たちが今宣べ伝えている水と御霊の福音を成就するために絶対に必要なものでした。水と御霊の福音を含む本を発送していますが、最近はそれ以上の発送はできません。そのため、インターネットを通じて真の福音を宣べ伝えるために、ウェブサイトに電子ブックをアップロードし続けています。

全世界に住んでいる多くの人々は、水と御霊の福音がまだ何であるかを知りません。そして、この福音をまだ聞いたことがない人も非常に大勢います。私たちが水と御霊の福音を宣べ伝えようとするときでも、この使命を成し遂げるために何冊の本を出版しなければならないか、さらに何回この福音を宣べ伝えなければならないかについて、じっくり考えなければなりません。私たちは水と御霊の福音を宣べ伝え、多くの本を配布することによって、有毒な雑草の誤った教えを根絶やしにしなければなりません。サタンは多くの偽りの有毒な雑草の福音を植えたので、まずこれらの有毒な雑草を引き抜いて、代わりに水と御霊の真の福音の種を植えなければなりませんでした。

神の義のしもべがこれを成し遂げるために、どれだけ多くの努力をしなければならないのでしょうか。継続的に耕作されてきた畑なら、鋤(すき)か何かで畑を耕してすぐに種を蒔くことができますが、全世界に福音を耕作するための畑は、非常に長い間、耕作されていない畑なのです。例えば、数百年あるいは数千年もの間、放置されていた畑の場合、そのような土地を耕して種を植えて、そこで作物を育てる作業にどれだけの労力が費やされるかをおそらくご存じでしょう。そのような作業は、神の義の農民以外には誰も行うことができません。

バプテスマのヨハネとイエス・キリストがこの世に来られ、水と御霊の福音を成就なさったとき、本物のキリスト教が始まりました。そして、それはイエスの使徒たちと弟子たちがこの世で死ぬまで続き、その後しばらく続きました。しかし、残念なことにキリスト教がローマ帝国の公認の宗教であると告知されるまで、キリスト教は恐ろしい迫害にさらされていました。その後、このキリスト教はカトリックに変わり、1000年以上も暗闇に包まれました。この期間の後、マルティン・ルターは1500年代初頭に意図せずに宗教改革を始めました。そして、16世紀半ばに、ジョン・カルバンと他の宗教改革者がこの運動に加わりました。多くの宗教指導者がヨーロッパから現れました。そしてどうやら今日のキリスト教が、これの結果として生じたと彼らは言います。

しかしながら、これは全く本当のことではありません。世界の歴史とキリスト教の歴史を調べると、キリスト教は2000年前にイエスがこの世に来られ、バプテスマのヨハネからお受けになったバプテスマと、十字架で流された尊い血とを通して、世のすべての罪を負われることによって、罪人を罪からお救いくださったときに始まったことがわかります。

キリスト教はその時から始まりましたが、使徒たちの信仰を共有していた人々は、ミラノ勅令が発布された西暦313年頃に、この世界から姿を消し始めました。その後、この世界に偽の福音の種が蒔かれたのです。これは、イエスがバプテスマのヨハネからお受けになったバプテスマのない福音でした。それ以来、水と御霊の真の福音は知識としてさえも議論されていません。しかし、人々の心の畑には、劣化した福音だけが蒔かれ、その福音はとげのある低木のように広がっています。この世界でも、良い種を植えないと、雑草やとげのあるやぶなどが生えますし、霊的にも同じです。

水と御霊の福音を信じる私たちは、このような状況下でも、この真の福音を全世界に宣べ伝えています。私たちは今、水と御霊の福音の種をこの世全体に蒔いています。しかし、耕作されていない土地に水と御霊の福音の種を植えるためには、まずその土地から多くの雑草を取り除く必要がありますが、本物の福音の種を蒔く準備ができるように、土がすべての雑草を取り除かれるまで待つことはできません。したがって、私たちは霊的な世界全体を覆っている有毒な雑草を引き抜く仕事と、同時に福音の種を全世界に植える仕事の両方をしているのです。

私たちは少数の働き手たちとともに、救済の真理である水と御霊の福音を世界に宣べ伝えています。私たちは文書宣教によって、つまりインターネットや印刷物を通して神の福音を宣べ伝えているのです。ほとんどの働き手は現在、水と御霊の福音を全世界に宣べ伝える務めを支援するために、お金を稼ぐように働いており、そのような献身は祝福されます。

バプテスマのヨハネがこの世に来たときでさえ、人々は彼が誰であるかを認識しませんでした。それにもかかわらず、バプテスマのヨハネはイエス・キリストにバプテスマを授け、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ 1:29)とあかししました。バプテスマのヨハネは、あかししました。「彼は神の小羊。彼は、私からバプテスマを受けて、世の罪を取り除く神の小羊イエス・キリストなのだ。私よりもさらに力のある方であり、私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもない。」 バプテスマのヨハネは荒野に住んでいて、ユダヤ人に神のみことばを宣べ伝え、彼らの多くは神に立ち返りました。今でも、多くの人がバプテスマのヨハネのあかしについて聞いた後、イエス・キリストを救い主として信じるようになっています。彼らはバプテスマのヨハネの務めを見て、イエス・キリストを救い主として信じています。

バプテスマのヨハネはイエスにバプテスマを授けるわざをしたので、主はご自分の使命を果たすことがおできになりました。バプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになったので、主は効果的に十字架で死なれ、死人の中からよみがえられ、父なる神の御座の右に着座しておられます。それ以来、この全世界に生きるすべての人々は、水と御霊の福音を信じることによって、罪からの救いを受けることができるようになっています。バプテスマのヨハネの務めは、水と御霊の福音において絶対に必要だったので、このみわざをあかしできる人々が立ち上がり、水と御霊の福音を宣べ伝え、世界中の多くの人々にこの真理を信じさせました。この世でバプテスマのヨハネの務めとイエス・キリストの務めの両方を、この時代にあかしできるのは、幸運です。神の義と神の愛を信じる信仰を持って、バプテスマのヨハネの務めをあかししなければなりません。バプテスマのヨハネは、「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ」と叫び、私たちも同様に、主の水と御霊の福音をこの世に広く伝えるためには、神のしもべとして福音の宣教を忠実に支援しなければなりません。さらに、私たちはこの世で神のみこころが成就されるように熱心に取り組まなければなりません。みなさんと私は、私たちの救い主である神に祈り、義の務めを毎日果たさなければなりません。それは真実でしょうか、そうではないのでしょうか。



私たち神のしもべは、他の何よりも

水と御霊の福音を宣べ伝えることを目指している


水と御霊の福音を信じる私たちには、他の目的が何かあり得るのでしょうか。私たちは、神のみことばに忠実であり、神のしもべに主の道をまっすぐにするように告げなければなりません。水と御霊の福音を信じた後は、この世のものを目指すことはできません。私たちは食べたり、飲んだりするにもかかわらず、神の栄光のために生きなければなりません。何をするにしても、神の栄光のためにそれをしなければなりません。私たちは欠点がありますが、神の義を信じる信仰を持って取り組まなければなりません。みなさんも、このように信じておられますか。

信者のみなさん、水と御霊の福音を信じて仕える人々は、神のしもべです。私たちは、これに対する明確な信仰をもって取り組まなければなりません。バプテスマのヨハネの務めを知り、信じる代わりに、私たちはイエスがバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになって、この世の罪を一度で運ばれたという信仰によって、宣べ伝えなければなりません。私たちは、水と御霊の福音の真理を明確に信じる信仰の真っ只中にいます。ですから、私たちは神の義を宣べ伝えなければなりません。他の誰もがイエスを信じているから、イエスを盲目的に信じるのではなく、神の義である水と御霊の福音を信じる信仰を本当に持たなければなりません。そして、私たちは信仰によって神のみわざをしなければならないのです。私たちが本当にしている、この仕事がいかに貴重であるかを知り、そして主のみこころが私たちの努力によって成就されることを知る必要があります。



私たちは霊的なわざをしなければならない


私たちが水と御霊の福音を宣べ伝えるとき、主のみこころはこの世で成就されます。私たちは、神に用いられており、主の道をまっすぐにするのだという信仰の心をもって、この仕事をしなければなりません。そのような信仰によって神のみわざをするとき、私たちは霊的に力を得ます。

神のみわざをしているのに、疲れ果てるときがあります。私たちは自分の肉体を養うためだけに働いていたのだと、よく考えていたのと同じです。それはどのように消耗されるのでしょう。みなさんが誰かのために7時間あるいは8時間働いて来て、1日に50ドルの支払いを受けたとします。そして、みなさんがそのお金を取り、自分の肉体のためだけに生きていたとしましょう。そのような人生にどんな喜びがあるでしょうか。そのような人生をなんとか送っていくと、疲れ果ててしまいます。ヨーロッパ人が一年中一生懸命働いて数週間旅行に出かけることを喜んでいるのは、このためです。全員ではありませんが、多くのブラジル人は1年間働き、約1〜2週間開催されるサンバショーですべてのお金を使います。

もちろん、それも肉の感覚としては楽しいでしょう。彼らの状況では、おそらく風潮のせいでこのように暮らしており、豊かなライフスタイルを享受しながら、国の自然はとても素晴しいものです。しかし、私たちは自分たちの国でこのように生きることはできません。毎日頑張って働いても生計を立てることは難しく、そのように生活できても、どんな満足があるのでしょうか。特に私たち義人にとってどんな満足があるでしょうか。もし私たちがそのように生きていたら、主は私たちを叱責なさるでしょう。

そのような仕事をみなさんと私にお任せくださった神にほんとうに心から感謝します。バプテスマのヨハネと同じ役割をこのように私たちに任せてくださった主に感謝します。みなさんと私は一緒に神の義のみわざをしており、私はこの仕事をする価値があるとほんとうに感じています。みなさんの献金が水と御霊の福音の宣教に用いられるのを見て、私は本当に価値があると感じています。みなさんも、ご自分のしている仕事が福音を広めるのに有益であるという価値を感じておられますか。

やりがいを感じるので、このように働くことができます。さもなければ、このように極度の疲労になるまで働くことができないでしょう。この仕事に価値があると感じなかったなら、どうしてこの仕事ができるのでしょうか。私たちが働いたのと同じくらいに実を刈り取ることができたとしても、それは価値があるでしょうが、私たちは神のために少しの仕事しかしなかったにもかかわらず、神は価値のある収穫を数千倍から数万倍にして私たちに返してくださいます。私たちがこの世界でやりたいことのために働くのも良いことですが、私たちが今している仕事は、ほんとうに価値があります。この主の福音に仕える仕事は、ほんとうに価値のある仕事です。それは、ほんとうに貴重です。私たち全員にとって、ほんとうに価値があります。それは私にとってほんとうに価値があり、私はそれを楽しんでいます。なぜでしょう。霊的に価値があるので、この仕事をします。他にどんな理由があるでしょうか。価値があるので、私たちは神の仕事をします。水と御霊の福音を信じることによって、人々が罪の赦しを受けるのを見ているので、私たちはこの仕事をします。

信者のみなさん、この仕事が人間の魂を救う仕事ではなかったとしても、肉欲の方法でも人々に利益をもたらし、彼らが本当に繁栄し、私たちがする仕事のおかげで幸せになることができれば、それはそれだけの価値があります。人の肉のための善良な仕事でさえ価値があると見なされているのに、私たちは魂を救う仕事をしているんですよ。したがって、これはどれほどの価値があるのでしょうか。ほんとうにやりがいのある仕事です。これより価値のある世界の仕事は何でしょうか。これよりも貴重な仕事があれば、私たちはその仕事をするでしょう。私は、その仕事をするという挑戦に応じます。その仕事が神の仕事よりも価値がある場合、たとえば、ロケットを作ってロケットを打ち上げ、宇宙から世界を広く調査し、特定の場所で何が起こっているのかを見つける作業がもっと価値があるとしたら、そのような仕事に飛び込んでいるでしょう。しかし、そのような仕事をしたとしても、それほど価値はありません。それも、自分のエゴを満足させる仕事、つまり自分の肉の欲を求める仕事に過ぎません。

私たちは今、人々の命を救い、罪の赦しと永遠のいのちを受けるようにする仕事をしています。「私は感謝しますが、みなさんも神に感謝しなければならない。この世に生まれて、こんな仕事ができて何と嬉しいだろう」と考えるように、この文書宣教の仕事をしている宣教師や働き手が神に感謝しなければならないと、私が心で感じているほどに、この仕事は非常に素晴らしいものです。

全国のあらゆる宣教で働いている兄弟、姉妹、宣教師が何を考えているのかわかりません。彼らは私のような誰かに遭遇したので、彼らは一生を通じてそのような困難を経験していると思うかもしれません。私は海外で文書宣教をやっているので、「この本が発送されると、読者に霊的に大きな影響を与えるだろう」と思います。そのため、この仕事で私の身体は疲れきっていますが、心は幸せです。文書を翻訳あるいは編集している私たちの宣教師、現在コンピュータの前に座っているすべての聖徒たち、そして福音の宣教を支援するためにお金を稼いでいる働き手たち、そして様々な部分や様々な形態で仕えているすべての兄弟姉妹たち――彼らはみな、非常に価値のある仕事をしています。

そして、私はこれらの言葉で彼らを励まします。「直面する困難な事柄について考える代わりに、私たちは神に感謝しなければなりません。神の教会を除いて、私たちはどこに行き、神の仕事をするのでしょうか。」 そして、時に私は、彼らが不平を言って、もう仕事がとても難しいから、もうできないと言ったときは、彼らを叱責します。すると、みなさんは思うでしょう。「この平凡な男は、頑固になってきているだけだ。神の働き手が足りないので、こんなに苦労している今、自慢するのはやめてください。」 実際にそうです。確かにそうですが、実行可能なので、特定の仕事をするようにお願いしていますし、やらなければならないのでやるように言っています。そして、仕事に満足しているので、これを続けていきたいということです。それ以外の点では、この仕事が私たちを不幸にし、それが誰にも利益をもたらさなければ、私はみなさんに神のみわざをするようには頼まなかったでしょう。

そういうわけで、私は彼らに心の中でこう言います。「神に感謝しなさい。神に感謝しなさい。」 私たちには肉体があるので、とても難しいと感じることがあります。しかしながら、私たちはまだ神の義に感謝しなければなりません。私たちは、どこに行って、そのような神のみわざをすることができるでしょう。まだ新しく生まれていない今日のキリスト教徒のコミュニティを見ると、たとえ一生懸命働いても、一人の魂さえ救うことはできません。しかし、私たちはこの仕事をして、非常に多くの人々に罪の赦しを受けさせるようにしています。そして、これはどれほど感謝しているでしょう。私たちが家で行う仕事と、神の教会で行うすべての仕事は、すべて神のみわざです。これについて本当に誇りに感じます。私たちがしている仕事は、本当に素晴らしい仕事だと信じています。神が私たちにすばらしい仕事を託してくださり、私たちのしているこの仕事が水と御霊の福音の伝道に備えるための道だと、私は信じています。

私は、これについて本当にやりがいがあり、嬉しいです。体調が悪いときや、神のみわざが上手くいかないときは、不満を感じることもありますが、「幸せです。本当に幸せです」と思って、自分自身に言い聞かせています。「神は小さなスズメにまで気をかけているし、わたしたち人間をずっと大切に思っている」という賛美歌があり、私たちは本当に幸せな民です。みなさんと私は幸せな民です。私たちは本当に幸せです。この世に生まれてから主にお会いしたことは、どれほど幸せでしょう。そして、私たちが主に喜ばれる仕事をしていることは、どれほど幸せなことでしょう。これは本当ですか、そうではありませんか。難しいですが、それだけの価値はあります。

バプテスマのヨハネはこの世に生まれ、30歳で神のみわざを始めました。私たちはヨハネが何歳まで生きたか分かりませんが、三十何歳で亡くなったことはわかります。その後、ヨハネは殉教しました。簡単に言えば、ヨハネは短くて充実した生活を送っていました。ですから、バプテスマのヨハネはどれほど幸せだったことでしょう。

神の義に遭遇した後に、この仕事をしていることは、どれほど幸せなことでしょう。私たちは本当に幸せです。私たちは幸せな民です。したがって、私がみなさんにお伝えしたいことは、みなさんがしているすべての仕事は、みなさんがどんな仕事をしていても非常に幸せな仕事をしていると確信して、主のみわざをしなければならないということです。主のみわざを無頓着にするのではなく、確実に取り組まなければなりません。たとえ作業がすぐに完了しなくても、少なくとも一度に少しずつ行わなければなりません。中国の有名な賢者の一人は、1日でも本を読み飛ばすと舌が抜けると言いました。同様に、私たちは毎日少しでも、この価値ある仕事をしなければなりません。

私たちは、一日でそれほど多くの作業を行うことができず、その作業は退屈で面倒な場合があります。しかしながら、私たちはしている仕事がどれほど祝福された仕事であるかを、心で知っている必要があり、私たちは主の道を用意している民であり、主の道をまっすぐにする民であることを本当に知っていなければなりません。父なる神が御子イエス・キリストをこの世に遣わされる時、父なる神は御子に、次のようにおっしゃいました。「見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。」 ここでの「使い」とは、バプテスマのヨハネを意味するとお伝えしましたが、このみことばは私たちにも当てはまります。そのため、私たちは感謝しています。

イエスはガリラヤの小さな町ナザレから来て、ヨルダン川でバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになりました。それは次のように記されています。「こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天からこう告げる声が聞こえた。『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ』」(マタイ 3:16-17)。イエスが水から上がられたとき、天が開け、それから父なる神の声が天から聞こえました。「『あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。』」 イエスは父なる神のみこころを成就なさいました。主は、このみわざをなさるために、この世に来られたのです。主がこのみわざをなさるために、天の門が開かれました。主は、信じる民を天国に連れ去られるために、この世に来られたのです。

信者のみなさん、水と御霊の福音への信仰によって、バプテスマのヨハネの務めのように、イエスの証人となる生活を送ることによって、神に栄光を返してほしいと思います。