Sermons

[41-2] < マルコ 1:1-11 > 普通の人々とは違う生活を 送る者




< マルコ 1:1-11 >

「神の子イエス・キリストの福音のはじめ。預言者イザヤの書にこう書いてある。

『見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、

あなたの道を整えさせよう。

荒野で叫ぶ者の声がする。

「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。」』

そのとおりに、バプテスマのヨハネが荒野に現われて、罪が赦されるための悔い改めのバプテスマを説いた。そこでユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。ヨハネは、らくだの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。彼は宣べ伝えて言った。『私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありません。私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。』 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。そして天から声がした。『あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。』」


みなさん、今日の調子はいかがですか。今日は2月28日で、明日は3月1日です。今のところ、外気温は12度を下回っていますが、体感温度は氷点下を上回ると思います。3月がもうすぐで、春が来ているからなのかもしれません。春の温かい天候が間違いなく訪れると期待されているせいかもしれません。

春になると最初に咲く花は何でしょうか。レンギョウです。昔学校に通っていた3月に、一学期を始めました。学年の初めから約3週間が経過した後、学校から家に帰る途中で丘の上にピンク色のツツジが見えました。これらのツツジが山地全域を覆う赤みがかったピンク色に見えました。かつて学校に通っていた時代が思い浮かびます。

春になると、天候が暖かくなります。そして鳥が歌い、木の枝に新しい芽が芽生え、レンギョウが咲き、ツツジも咲きます。黄色の花、赤い花、花など、名前すら知らない野草がたくさんあります。私の記憶では、レンギョウが最初に咲くと思います。体調が悪くて病気に悩まされる時期があり、その冬は本当にひどいものでした。私はその冬の間に病気で寝ていたので、ただ春が来てほしかったですね。まだ冬だったにもかかわらず、韓国南部の日当たりの良い場所では、冬でも暖かく、レンギョウが芽生え、黄色い花を咲かせました。まだ冬だったのに、場所によってはそのように開花しました。夏には黄色のカボチャの花が咲き、とても素敵です。かぼちゃの花が満開の時は美しい光景です。かぼちゃの花は、花ではないと、からかって言う人もいますが、かぼちゃの花はとてもきれいです。カボチャの蔓がたくさんあり、カボチャの花が満開になると、たくさんのカボチャを収穫できます。

私たちはこの素晴らしい天候について話しています。しかしながら、神のみわざには終わりがないので、神のみわざを続けなければなりません。多くのお金が私たちの宣教にささげられる必要があるので、私たちは本を印刷して神のみわざをしますが、今のところ脇に置いていた多くの印刷物があります。

今日お話しする神のみことばは、マルコの福音書の第1章4節からです。バプテスマのヨハネの務めも、マルコの福音書の第1章から出てきます。次のように記録されています。「バプテスマのヨハネが荒野に現われて、罪が赦されるための悔い改めのバプテスマを説いた。」 バプテスマのヨハネは、人々を神に導くために懸命に努力しました。バプテスマのヨハネは、らくだの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていました。

これまで、私はバプテスマのヨハネの務めについてお話ししてきました。ですから、今日はこれらのことではなく、バプテスマのヨハネの生活についてお話ししたいと思います。普通の人とは違う生活を送ったバプテスマのヨハネについてお話ししたいと思うのです。



バプテスマのヨハネの生活


バプテスマのヨハネの生活は、一般の人々の生活とは非常に異なっていたことがわかります。バプテスマのヨハネの務めと生活は、イエス・キリストにバプテスマを授け、イエスが人類の救い主であることをあかしすることでした。バプテスマのヨハネの生活は、素朴のようなものです。なぜなら、バプテスマのヨハネは当時、すべての堕落した人々の罪を指摘し、これらの罪人を神に立ち返らせた大祭司の責任を果たさなければならなかった人物だからです。バプテスマのヨハネは、この仕事をするために、この世に属さない生活を送っていました。バプテスマのヨハネは、神のみこころと複雑に結びつけられていたため、そのような生活を送ることができました。バプテスマのヨハネに託された神のみわざがとても重要だったからです。

私は、水と御霊の福音のみことばを信じた後も、どのように自分の生活を送るべきなのか分からなかったので、落胆して歩き回っていた時期がありました。みなさんも私のような経験をしたことは分かっています。神のみわざが分からなかったので、水と御霊の福音のみことばを信じて、心に罪の赦しを受けていたのに、不思議に思っていた時期がありました。みなさんは、神のみこころを知らなかったので、みなさんは私のように心の中にそのような不安を抱いていたかもしれませんし、一度にどちらの道に行くべきなのかが分かりませんでした。おそらく私たちがこの世に生きていた信仰なしの過去の生き方から真の信仰生活に変えなければならなかったからでしょう。ですから、水と御霊の福音を信じた後、神の義を信じる信仰生活を送るために、生き方を変えなければなりません。古い考え方では生きられないので、神の義に従う信仰生活を送らなければなりません。信仰のない生活は、もはや水と御霊の福音に仕えることができないからです。そして、それが信仰生活のためでなければ、世の終わりまで主に従うことができないからです。みなさんと私は、水と御霊の福音を通して罪からの救いを受けることができて、私たちはこの世の人々の生活とは異なる生活を送ることができるようになりました。

私たちは、そのような信仰生活を最初からやりたくありませんでした。水と御霊の福音を信じて罪の赦しを受けているから可能だったのです。ですから、水と御霊の福音を信じる義人として、世の人々とは異なる信仰生活を送る必要がありました。私たちの主がお与えくださった救済、つまり、この水と御霊の福音を他の人々に宣べ伝え、救いを受けさせることもできるからです。私たちは水と御霊の福音を信じる民として、この世の人々とは異なる生活を送っているので、神の義を信じる信仰によって、さらに献身的に主に従わなければなりません。普通の人が追い求める豊かな生活を享受しなくても、私たちは献身的に主に従わなければなりません。この世界に住んでいる誰もが、自分の望むように生活を送りたいと思っています。人々は肉欲のことを楽しみたいし、このような普通の生活を送りたいとも思っています。しかしながら、私たちは水と御霊の福音を信じて仕える一方で、この世の人々のように生きてはならない理由を知るようになります。したがって、私たちは世の人々としての生活を送ることはできません。私たちは、信仰によって水と御霊の福音を宣べ伝え、神の御前に信仰を生き抜きたいので、この結論に至るのです。

ですから、私たちはさらに苦しみ、時には心を世に向けて広げ、それから再び狭め、それを狭めた後に広げます。そして、これを私たちの生活で繰り返し行なっています。したがって、みなさんと私は、「バプテスマのヨハネは、どのように荒野に住んでいて、人々の罪を指摘し、イエス・キリストが救い主であるとあかししたのだろう」と質問することによって、バプテスマのヨハネの生活について、さらに深く考えなければなりません。水と御霊の福音に仕える生活を送るために、同じような仕事をしなければなりません。私たちは、バプテスマのヨハネがすでに行なったそのような仕事もしていることがわかります。バプテスマのヨハネが荒野で世から聖別された生活を送ったように、神のみこころに従って生きなければ、私たちは神が託してくださったすべての使命を果たすことはできません。その代わり、信仰によって生きる運命を持つ人々になる必要があります。

水と御霊の福音を信じる私たちは、神の義によって「幼いバプテスマのヨハネ」のような生活を送っています。私たちは水と御霊の福音に仕えるために、一般の人々から聖別された生活を送らずにはいられません。絶対に神の義と主の導きに従う生活を送らなければならないのです。世から聖別された生活を送る方法とは、神の義を信じ、従う生活を送ることです。



旧約聖書に記された「ナジル人」の生活


旧約聖書の時代でさえ、「神に聖別された者」を意味する「ナジル人」の生活を送る人々がいました。サムソンがそうでした。「ナジル人」とは、聖別され、神にささげられ、世から離れて生活を送った者のことです。サムソンは、自分の髪の毛を切ったり、眉毛を剃り落としたりしてはいけませんでした。罪の赦しを受けた今、この世で水と御霊の福音に仕える人々は、外見が異なる場合がありますが、この信仰生活を霊的に送らなければなりません。おそらく忠実な人が神のみこころに近い生活のやり方には多少の違いがあるでしょうが、この霊的生活を根本的に送りたいと思う人々は、ナジル人の現代版だと思います。

みなさんも私も、このように主を信じて従いながら、世の人々のように生きたいと思っているのではありませんか。みなさんと私にも、そのような心はあります。しかしながら、ナジル人のような生活をしなかったなら、水と御霊の福音が全世界に宣べ伝えられるでしょうか。水と御霊の福音はまだ全世界で十分に宣べ伝えられていないので、私たちは世の一般市民のような生活を送ることはできません。私たちがこの世の普通の人々のように生きているなら、本物の福音の伝道は成し遂げられません。私たちは世の人々のように生きたいと思っていますし、そうすることもできますが、本物の福音の伝道を成し遂げる必要があるので、そのように生きることはできません。



私たちは神の義を信じて、主に従いたい


私たちは主の御前に他の神々がいないように努め、神の義を信じ、心に蓄積された世のすべての汚い残骸を振り払うことによって、信仰を生き抜こうとしています。そのためには、まず神の義への信仰生活とは何かを理解しなければなりません。私たち宣教師はまた、バプテスマのヨハネが荒野に住んでいる間に神のみことばを宣べ伝えたように、私たちが世の人々とは異なる信仰生活を送っていることを知っておくべきです。また、信仰によって神の義に従うために、肉の欲を捨てなければなりません。私たちが神の義のために生きることは、正しい生活であると言いたいのです。バプテスマのヨハネがしたように、この世から聖別された生活を送るのは、公正です。そうでなければ、信仰によって絶対に神の義に従うことはできません。「ああ、私の愛、私の愛」と言って、世の人々がするすべてのことをし、世の人々が好きである映画スターに魅了され、親衛隊のようなスターたちを追うことによって、どうして主に従うことができるでしょう。このように心が遠ざかると、神の義に決して従うことができません。

神の教会で働いている私たちの心の中に、こうした世のすべての考えや欲望が立ち上がります。しかし、私たちの心は、イスラエル人が荒野でバプテスマのヨハネに会ったように、バプテスマのヨハネが荒野で生きた方法のように、世とは異なり、本当に神の義とともにあるべきです。私たちは義の心を持っていなければならず、肉欲の人々の心のようであってはなりません。主の水と御霊の福音に仕えるには、このようでなければなりません。私たちは神の義に従うように心を定め、心をきよめ、信仰によってそれを確認し、本当に心を神に導かなければなりません。主に従うだけの心がなければ、どうして神の義に従うことができるでしょう。たとえ私たちが神の義に従いたいとしても、心がこの世の肉欲的な人々の心のようであるなら、神の義に従うことはできません。

ここに私たちの中学生や高校生の間には、世界中の十代の若者が好きなことを好きになって、そうしたものに従う中学生や高校生が大勢います。この世の悪に完全に流されてはいませんが、みなさんはおそらくそのようなことにある程度従うでしょう。それでも、主の水と御霊の福音に仕えるために、世の十代とは異なる心を持たなければならず、この信仰を保つためにバプテスマのヨハネのような聖別された信仰生活を送らなければなりません。私たちの肉はとても疲れますが、私たちはこのような神の義を信じる信仰によって生きています。神の御前で信仰によって生きることを心に定めれば、義にかなった生活を送ることができます。このように心をしっかりと掴んでいないと、そのような生活を送ることはできません。私たちは、この世から離れて聖別された生活を送る場合にのみ、神の義を信じる信仰によって、神の義に忠実に従い、仕えることができるのです。

バプテスマのヨハネのように生きられないなら、私たちは今、主に忠実に仕えているとは言えません。若者だけでなく、10代の若者も同じです。若者もまた、この世の普通の若者のように生きたいという願いを持っています。それは、成人の男性や女性、宣教師についても同じです。しかしながら、そのように生きるなら、神の義に従うことができるでしょうか。問題は、私たちがこの世の流れに従って生きるなら、水と御霊の福音に仕えることができるかどうかです。私たちは、世から離れて聖別された生活のためではないなら、福音に仕えることができないので、そのような生活を送らなければなりません。私たちはみな、荒野で神のみこころを宣べ伝えたバプテスマのヨハネの生活を送りたいと願わなければなりません。

信者のみなさん、私たちがこの世の人々と同じ生活を送るとしたら、主は他の働き手を呼び、この水と御霊の福音を地の果てまであかしなさいます。これを説明するには、私はある人を例にして話さなければなりません。しかし、私が彼を例として用いると、その人を怒らせるかもしれません。これを避けるために、例として自分自身を用います。



神の義を信じているため、幸せである


水と御霊によって来られた主にお会いした後、私は実際にそのような素晴らしい祝福を受けています。私は、この世のすべての義人と交わりがあります。私も神の仕事をすることができます。私はみなさんと一緒に神の義を信じて従う信仰生活を送ることができます。私はみなさんにお会いした後、このような霊的な交わりを持つことができ、義のみわざもすることができます。誰が私よりも幸せであり得るでしょう。私は主のうちに幸福な人です。

しかしながら、それについて肉体的な方法で考えてみましょう。肉欲的な人々は、「あなたの教会には、どれくらいの人が出席しているのですか」と私に尋ねます。水と御霊の福音を信じない人に出会うと、そういうことを聞きます。しかし、なぜ彼らは私にそのような質問をするのでしょう。彼らは私にそのような質問をするとき、私が毎月の報酬としてどれだけ受け取っているかを実際に尋ねているのです。そして彼らは私に尋ねます。「あなたはどんな車を運転してるんですか。」

私の肉欲的なプライドは、彼らが私にこうしたことを尋ねるときも、私のところに忍び寄ります。私は水と御霊の福音に出会ってから10年以上にわたって教会を建てることに務めてきました。そして、私よりも遅い時期に教会を建てた人も大勢います。しかし、こうした牧師の何人かは、巨大な宮殿の教会の建物を建て、素敵な新しい車で走り回っています。そして私に直接ではなく、間接的に、「私はリバイバル集会で説教していて、ある執事が教会の牧師のために新しい3,000ccヒュンダイ・グレンジャーを購入したんですよ」と言う人もいます。

人間感覚では、今持っている車よりも豪華な車で走りたいです。「私はあなたが運転している車よりも優れた車を運転することができる」と、彼らに言いたいです。すみません。私はこれを一人で言っているだけです。私はそのようなことを頭の中で新しく生まれていない牧師たちに思って、言っているのです。私は自分に語り掛けます。「汚れた愚か者よ。あなたの教会のメンバーがフルサイズの車であるグレンジャーを購入したいときは拒否して、代わりに小型車で運転すべきじゃないか。あなたはグレンジャーを乱暴に運転してるだけじゃないか。グレンジャーを運転するのに月に数千ドル以上の費用がかかるなら、誰かがあなたにそれを与えたとしても、それをどのように取ることができるのか。あなたは、少なくとも水と御霊の福音を知っているのか。あなたの会衆にも水と御霊の福音を説いているのか。教会のメンバーからお金を略奪するだけだ。」 人間的な考え方から、グレンジャーを運転していると誰かが言ったとき、私はより良い車で運転したいと思うのも事実であり、私はその人よりも自分のプライドを高めたいです。人間の感覚ではそのようです。

水と御霊の福音を宣べ伝える生活を送っていなければ、彼らが私にうらやましいことは何もないと、私は言っているのです。しかしながら、もし私がそのような豪華な車を運転したら、それは神に栄光をささげるでしょうか。そのような生活が水と御霊の福音に役立つなら、私はそうしますが、福音の伝道に役立たないのに、なぜ私はそのような高価な車を運転するでしょうか。しかし、神が私にお与えくださった水と御霊の福音は、彼らが享受する人生の喜びよりはるかに価値があります。多くのお金を持っている人々が、そのような車を運転して受け取る価値は、神が私にお与えくださった救済の価値ほど大きくないからです。私たちが宣べ伝えている水と御霊の福音は、彼らが享受するものよりもはるかに大きな価値があります。

しかしながら、それは私が世の人々のような肉欲の心を持っていないという意味ではありません。私もそのような心を持っています。しかし、私がこのすべてを考え直してみると、そのような生活は神の御前に適切ではありません。さらに、そのような車を運転した場合、他の宣教師たちはどのように感じるでしょう。彼らも、こうしたくないのでしょうか。このことが起こったとしても、水と御霊の福音に仕えるという心をかき乱さないでしょうか。したがって、それは適切ではありません。私はそのような肉欲の心も持っていますが、肉の欲には絶対に従いません。私にはそのような心がありますが、そのように生きることはできません。肉の欲を追い求めても、霊的には何も得られないからです。




私たちは、新しく生まれていないキリスト教徒の

聖別された生活とは異なる信仰をもって、

少なくとも信仰によって

聖別された生活を送らなければならない


私たちは、そうすべきです。そうしてはじめて、水と御霊の福音に仕え、神が私たちに託してくださったみわざを忠実に果たすことができるのです。この世の人々のように生きているなら、水と御霊の福音に仕えることはできません。彼らが生きているように生きていたら、どうしてこの福音に仕えることができるでしょうか。

信者のみなさん、私たちが肉のために生きただけなら、聖別された生活を送るのにどのようなメリットがあるというのでしょう。主はみなさんと私に、水と御霊の福音を世の終わりまであかしするようにお命じになりました。神の義のあかしの役割を果たすには、水と御霊の福音を信じて仕えなければなりませんが、この使命をこの世の人々と同じ心で果たすことはできません。主はそのような人を用いることさえできず、その人は主がそのような人を用いたとしても、このみわざを成就することさえせず、このみわざを正しく行わないでしょう。したがって、私たちは世俗的な心を私たちの考え方から引き離さなければなりません。

私たちは、神の義を信じ、従うことで、霊的な困難に苦しむべきです。私たちは自分の十字架を負い、肉の思いを否定しなければなりません。私たちが様々な困難に苦しむのは当然のことです。しかし、それに続く大きな報酬は何でしょうか。神の御前にそのような正しい生活を送っている人々、信仰を生き抜いている人々に続く利益はどれほど大きいのでしょうか。私たちは神の義のために懸命に働きますが、主がくださる祝福と比較することはできません。結果的に、信仰によってそれを計算すると、霊的生活を送る人々にはさらに多くの祝福が与えられます。そして、その結果とは別に、神の義に従う生活が公正なので、私たちは聖別された生活を送ります。みなさんと私は、バプテスマのヨハネが荒野に住んでいたように、信仰によってそのような生活を送っています。義人は信仰によってのみ生きるのです。

これこそが、私がここで言っていることです。たとえ神の御前に一日だけ生きるとしても、毎日私たちの肉欲の心から出てくる汚れた残留物を取り除き、神の義を信じる信仰によって生きなければなりません。汚れた残留物を心から取り除かなければ、神の義に従うことは困難です。主がそのような人々に新しい仕事をお任せになると、彼らは頭痛に苦しみ、肉において苦しむようになります。主はおっしゃいました。「ばらまいても、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでも、かえって乏しくなる者がある」(箴言 11:24)。この神のみことばは、水と御霊の福音に仕える人々を直接指しています。みなさんと私が神の義のために生きるとき、主は霊的に、そして肉体的に私たちを祝福してくださいます。したがって、私たちは霊的にも肉体的にも繁栄します。

その結果、水と御霊の福音を宣べ伝えるための義人の生活とは、日常生活の些細な期間とは別です。義人は、信仰によって大宣教命令を果たすために生きるのです。したがって、バプテスマのヨハネのように信仰生活を送らなければなりません。神は、このような私たちの心をまっすぐに定めなければならないとおっしゃいました。神は、みなさんと私にそのような心を授けてくださっています。神の教会で働いている兄弟姉妹や働き手たちを見ていると、いつも神に感謝する心があります。

バプテスマのヨハネが荒野で神のみことばを宣べ伝えたように、本当に水と御霊の福音に仕えるために、信仰によってそのような従う心をくださることによって、神が私たちを心から汚れた残留物を消され、肉の思いを消され、神のみわざを私たちにさせるという事実を、神に感謝いたします。そうでなければ、この貴重な福音の宣教を果たすことはできません。

みなさんと私には、バプテスマのヨハネが荒野で暮らしながら、主のみこころを叫び求めたのと同じように、神の義のために生きるという義の心と信仰を持たなければなりません。主が私たちにこの信仰とこのみわざを果たす責任を負う心をお与えくださったので、私たちはこのみわざをしています。そうでなければ、誰がこのみわざを肉体的な力で果たすことができるでしょう。この世の誰も、神の義を追い求める、神から与えられた心なしに、このみわざを成し遂げることはできません。

この世に生きている間に、肉の思いよりもむしろ、こうした霊的な考えで主に従うという心を与えられているので、私たちはそのような生活を送ることができます。そして主は、私たちがこのように生きることができるように、神のみことばと聖霊とによって、心から汚れた残留物を絶えず取り除かれます。主は私たちに全世界に福音を伝道するという目標を設定なさり、この目的に向かって走らせてくださいました。そうでなければ、私たちはみな霊的に死にます。信者のみなさん、私たちは誰もが生きたいと思う普通の生活を送る方法を知らないから、私たちはこのように生きていると思いますか。誰もが自分の願いに従って生きることができます。しかし、主はおっしゃいました。

「思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、

多くの者を義とした者は、

世々限りなく、

星のようになる」(ダニエル 12:3)。

新しく生まれていない信者は、私たちがこのように他の人々を導くことができるほどの信仰生活を送ることはできません。そのような信仰生活を送るためには、神の御前に水と御霊の福音を信じる信仰をもち、神の義に従うことを決意しなければなりません。「水と御霊の福音を宣べ伝えることは、私たちにとって正しいことだ。福音の宣教に多くの困難があるとしても、私がすべてを失ったとしても、神のみこころを成就するのに役立つなら、私はこの福音を宣べ伝えるのだ」と言うほどに、そのような心をもって生きなければなりません。それで、私たちの心の聖霊が喜ばれ、私たちを助けてくださるでしょう。聖霊は私たちの心を義の道へと導かれます。私たちは、神が助けてくださる場合にのみ、神の義のために生きることができるというのを心に留めておかなければなりません。神は私たちを助け、世の罪から救われ、そして神の義のために生きるように、そのような心を私たちに与えてくださることによって、私たちにそのような生活を送らせてくださいました。



バプテスマのヨハネは、世の人々から離れて

聖別された生活を送った


バプテスマのヨハネは、その誕生の時とは異なり、このように生涯を生きました。水と御霊の福音を今信じているみなさんも、世の人々とは異なります。私たちは水と御霊の福音を信じる前、他の人のように生きていましたが、水と御霊の福音を信じて罪の赦しを受けた後、私たちが今送っている生活は、それらとは遥かに異なります。「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(Ⅱコリント 5:17)と記されているように、私たちはこのようになっているのです。もちろん、私たちが新しくなった後でも、いくつかの肉欲のものは継続的に生じます。それにもかかわらず、この水と御霊の福音に仕えるために、私たちは本当にこうした多くの肉の枝を切り落とさなければなりません。こうしたものが非常にたくさんあります。しかし、それにもかかわらず、みなさんと私は神の仕事に専念しています。聖霊、神のみことば、水と御霊の福音、神の教会が私たちを手放さないので、みなさんと私は神のみわざをしているのです。

バプテスマのヨハネの生活について考えてみてください。バプテスマのヨハネの生活は、私たちの生活です。そのような生活を送ってきたのは、バプテスマのヨハネだけではありません。私たちもバプテスマのヨハネのように生きています。私たちの肉はこの世に暮らしていますが、みなさんはこの世から少し離れた生活を送っていることを認識しなければなりません。神の義のために生きている、みなさんと私、すべての義人は、信仰によってそのような生活を送らなければなりません。

韓国の有名な映画スターがほんの少し前に自殺し、そして人々は、「彼女がなぜそのように亡くならなければならなかったのか、わかりません」と言いました。しかし、私たち義人は彼女が自殺した理由を正確に知っています。この女性は罪と虚無感のために自殺しました。私たちはこれをどのように知ることができるでしょう。神の聖霊が私たちの心にあるので、これがわかります。この女優は定期的に教会に通っていました。このようにして、彼女は神の律法も知っていました。神の律法を知っている人は、心に罪があれば、苦痛のため、生きることができません。そのような人は食欲がなく、よく眠ることができないため、自殺する傾向があります。神の義を知らないこの世の人々は、罪によって抑圧されているので、罪の苦しみから解放されることがありません。多くの人々が罪のために自殺しています。水と御霊の福音に一度でも遭遇していれば、彼らは自殺しなかったでしょう。映画監督や記者は非常に悲しく、悔やんで、こう言います。「なぜ彼女が自殺したのか分かりません。彼女が直面していた困難を克服したなら、大スターになっていたでしょう。」 しかし、彼女には罪が多かったために、自殺する理由があったことはわかっています。

主がゴルゴタの丘に十字架を運ばれたとき、多くの人々が彼を哀れみ、泣きました。しかし、イエスは彼らにおっしゃいました。「わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい」(ルカ23:28)。これは、誰もが最初に自分自身のために泣かなければならないことを意味します。聖書には、次のようにあります。「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル 9:27)。つまり、心の罪のために、誰もが裁きを受けて地獄の火に投げ込まれるのは当然のことです。人は、この世界に生まれた後、どんな生き方をしても一度死に、火葬場に投げ込まれ、消えることのない永遠の火に投げ込まれます。これはすべての人間の避けられない運命です。

みなさんも私もそのような運命をたどっていたでしょうが、ありがたいことに、水と御霊の福音に出会いました。このように、私たちは信仰によって罪の赦しを受けています。したがって、私たちは神の子どもになっています。そして、永遠の命も受けています。そして主は、神の子どもとなった私たちに、この水と御霊の福音をこの世に生きているすべての人に宣べ伝えるように命じられました。私たちは主が命じられたみわざをしなければならない民になっているのです。私たちは神のみわざをするために、バプテスマのヨハネのような霊的な人になっています。なりたくもありませんでしたが、神の働き手になりました。信者のみなさん、神の教会で、時間の100%を肉の願いに従ってすべてを行う人が誰かいるでしょうか。実際に、私たちは非常に忙しいので、そうしたくても、そのようなことをすることはできません。これは本当ですか、本当ではありませんか。本当です。私たちが神のみわざをしないことが、私たちの滅びへの最短ルートです。神の義に仕えるために多くの作業をするのは良いことです。そうしないと、肉の欲に向かって心が引かれる傾向があるからです。

神の義に仕えるための作業が多くあったなら、肉の欲が心の底から浮かび上がってきても、すべての責任を果たすのに忙しいので、肉の欲に関心がある時間もありません。そして、私たちは、そのような肉の欲を満たすエネルギーはありません。したがって、これを行うことはできません。時には、私は神の義の作業を積み上げてきました。私は、死ぬ前に一生をかけてすべてを行うだけの力さえもないほど多くの仕事を計画して準備しました。そして私もみなさんが絶対に怠けないように義の仕事を十分に備えました。みなさんと私が心の中で余分な時間を過ごさないように、そしてバプテスマのヨハネのような生活を送るしかないように、私はこのようにそれを準備しました。

信者のみなさん、みなさんと私は水と御霊の福音を信じることによって、罪の赦しを受けました。では、水と御霊の福音を信じて罪の赦しを受けたと言うのに、どうしてこの世の民と同じように生きることができるでしょうか。荒野でいなごと野蜜を食べていたバプテスマのヨハネのように、世から離れて、このような聖別された生活を送るべきでしょうか、そうではないのでしょうか。そうです。そうすべきです。他人を罪の赦しを受けるように導くために、私たちはこのようでなければなりません。そうでなければ、どうして彼らは罪の赦しを受けることができるでしょうか。たった今、バプテスマのヨハネのように生きなければ、水と御霊の福音を世界中の人々に宣べ伝えることはできません。韓国のことわざは、「他の人と同じことをするなら、他の人を超えることはできない」とあります。私たちの信仰生活は、そのようなものです。私たちがしている信仰生活は、私たちが望んだからといって生じたわけではありません。神は、私たちをバプテスマのヨハネがしたように生きさせてくださっています。

バプテスマのヨハネのような生活を送るでしょうか、それとも普通の人々のように生活を送るのでしょうか。みなさんと私は、そのような生活を送ることを決めなければなりません。神の御前に心を正しくせず、このように生きなければ、私たちはこの世の普通の人々と同じになるでしょう。聖別された心で主に仕える私たち一人ひとりが「幼いバプテスマのヨハネ」です。私たちは、「幼いバプテスマのヨハネ」のように生きています。美味しいものを分け合い、肉において欠点があるため、他の人の欠点を助け合わなければなりませんが、信仰心はバプテスマのヨハネの信仰心のようでなければなりません。神は、みなさんと私にそのような信仰の心を与えてくださいました。そして、私たちにそのような信仰生活を送ることを可能になさっておられます。

神がみなさんと私にそのような生活を送ることを可能になさったことを、忘れずに生きてください。どのようにまっすぐな生活を送るべきかを深く考え、バプテスマのヨハネのような生活を送るべきです。状況が良くなったときにそういう生活を送ると言う聖徒もいますが、実はそれは状況とは何の関係もありません。一つはっきりしていることは、世界が困難になればなるほど、私たちが生きなければならない聖別された生活がますます難しくなるということです。私はそのような生活を生涯の終わりまで送ります。みなさんも私と同じことをするでしょう。そうして初めて、福音にもっと効果的に仕えることができるようになります。世界が滅ぼされたからといって、私たちは世界とともに滅びることはありません。他の人の生き方に関係なく、福音が全世界に宣べ伝えられ、主のみこころが完全に成就される日まで、心を正しく定めなければなりません。みなさんがまだ心の方向を定めていないなら、私はみなさんに主のために心を定めてほしいのです。

水と御霊の福音を信じる信仰によって生きなければなりません。みなさんは神の義のために生きなければならないのです。みなさんの心と思いが、諸刃の剣のように鋭くて用心深くなければなりません。みなさんが方向性なしで生きているなら、すぐに消えてしまう単なる霧のようになります。そのような生活は良くありません。多くの人々を正しい道に立ち返らせるような生活を送る必要があります。私たちにそのような生活を送らせてくださったことを、神に感謝いたします。神が、水と御霊の福音を信じる信仰によって、私たちに忠実な生活を送らせ続けてほしいものです。