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[41-3] < マルコ 2:23-3:6 > 肉の思いを捨てて、 神のみことばが私たちを導くと信じよう




< マルコ 2:23-3:6 >

「ある安息日のこと、イエスは麦畑の中を通って行かれた。すると、弟子たちが道々穂を摘み始めた。すると、パリサイ人たちがイエスに言った。『ご覧なさい。なぜ彼らは、安息日なのに、してはならないことをするのですか。』 イエスは彼らに言われた。『ダビデとその連れの者たちが、食物がなくてひもじかったとき、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。アビヤタルが大祭司のころ、ダビデは神の家にはいって、祭司以外の者が食べてはならない供えのパンを、自分も食べ、またともにいた者たちにも与えたではありませんか。』 また言われた。『安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。人の子は安息日にも主です。』 イエスはまた会堂にはいられた。そこに片手のなえた人がいた。彼らは、イエスが安息日にその人を直すかどうか、じっと見ていた。イエスを訴えるためであった。イエスは手のなえたその人に、『立って、真中に出なさい。』と言われた。それから彼らに、『安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか。』と言われた。彼らは黙っていた。イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆きながら、その人に、『手を伸ばしなさい。』と言われた。彼は手を伸ばした。するとその手が元どおりになった。そこでパリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちといっしょになって、イエスをどうして葬り去ろうかと相談を始めた。」


今朝、古い皮袋で新しいぶどう酒についてのたとえを用いて、私たちは信仰によって神のみことばに従って生きるべきだと説明しました。今日の聖句において、神は全く同じことを教えておられることがわかります。この一節を通して、主は私たちが肉の思いを捨て、神のみことばをありのままに信じ、それに応じて神のみことばに従うべきだと教えておられます。

神は、イスラエルの民に一週間のうちの一日を休むようにおっしゃり、この日を安息日と呼ばれました。古代ユダヤ人の安息日は、私たちが考えている主の日とは異なりました。彼らにとって、安息日は金曜日の日没から土曜日の日没まで続きました。ユダヤ人はこの安息日を非常に厳しく守ったので、イエスが安息日に救済のみわざを実行なさったときはいつでも、それを批判の大きな原因として捉えました。今日の聖句に示されているように、ユダヤ人は、安息日に穀物の穂を摘んでも、イエスの弟子たちを非難し、これがユダヤ人との多くの論争と議論を引き起こしたのです。

小麦は調理せずに生で食べることができます。手でこすったり、もみ殻を吹き飛ばしたりするだけでも簡単に剥がせます。もみ殻を剥がして、粒を噛むと、ガムのようになり、歯ごたえのある食感と相まって、とても美味しいのです。イエスの弟子たちは空腹だったので穀物の穂を食べましたが、一方でイエスが麦畑を通って歩いて行かれる間に、穀物の穂に刺されないように、弟子たちがイエスのために穀物の穂を手で摘んで道を作っていたのではないかと推測することもできます。

聖書では、パリサイ人の働きは常にイエスのみわざの障害として示されています。したがって、イエスは常にパリサイ人たちに囲まれていたので、イエスがみわざをなさっている間、パリサイ人たちがいなかったということはほとんどありませんでした。パリサイ人は、旧約聖書やタルムードなどの他の経典に従って、ユダヤ教を信じていました。彼らはイエスが真の神であるとは信じなかったので、律法の観点から常にイエスを見張り、イエスに立ち向かいました。イエスの務めや行動にいかなる誤りを見つける根拠は全くなかったにもかかわらず、パリサイ人たちは常にイエスと弟子たちを目障りなものと見なしていました。ですから、今日の聖句に示されているように、弟子たちが穀物の穂を摘んで食べたとき、パリサイ人はこの機会を利用して、安息日を聖く保つことを要求した律法を破ったとして、弟子たちを非難するために口論をしました。





イエスは、「わたしは安息日にも主である」 とおっしゃった


安息日は人間のために設けられたのであって、人間が安息日のために造られたのではありません。イエスが安息日に善を行なうことが正しいとおっしゃったのは、そのためです。この節を通して、主がパリサイ人のような今日の欠陥のあるキリスト教徒を叱責されていることも、ここで理解するべきです。パリサイ人たちは霊的な信仰生活を送っていたのではなく、彼ら自身の宗教的信念に従っている宗教生活を送っているだけでした。そこで彼らは、旧約聖書の律法を自分の信仰を判断するためのバロメーターとして解釈しました。言い換えれば、信仰をまったく考慮せずに、純粋に律法的な根拠に基づいて信仰生活を送っていたかどうかを判断したのです。

十戒の第四の戒めで、神はすべての人が畜牛や家畜の奴隷を含め、安息日に休むべきだとおっしゃいました。これに基づいて、ユダヤ人の長老たちは、安息日にユダヤ人が何歩踏み出すことができるか、そしてどれほど大きい品物を運ぶことができるかを指定する協議を通じて、詳細な法令を制定しました。ですから、パリサイ人の見解では、イエスとその弟子たちが常に自分たちの定めた規則に反しているように見えたのです。

しかし、イエスは実際にパリサイ人を偽善者であると非難なさいました。そのような叱責の結果として、パリサイ人はイエスをさらに憎むようになり、彼らは律法的根拠に基づいて、イエスと口論し、イエスを傷つけるためにあらゆる機会を捉えました。パリサイ人たちが安息日について議論し始めたとき、イエスは、ダビデがサウルから逃げていたときに何をしたかについて、彼らに話しました。当時、アビヤタルが大祭司のころ、ダビデは神の家に入るほどに、とてもお腹が空いており、聖所の中に置かれた供えのパンを食べました。祭司だけがこの供えのパンを食べることができたとしても、ダビデは自分が供えのパンを食べ、ともにいた者たちにも与えたという律法に、無知だったのでしょうか。いいえ、もちろん違います。安息日が人間のために設けられたのと同様に、供えのパンが人間のために作られたことを知っていたので、ダビデはこうしたのです。イエスの答えは聖書的に健全で完全なものだったにもかかわらず、パリサイ人はイエスが律法を無視していたと異端を唱えて、イエスを汚しました。

当時のユダヤ人の会堂は、ユダヤ人が神を礼拝するために集まって、みことばを教え、子供たちを教育する場所でした。今日のみことばでは、そうしたものは学校に似ていたため、ユダヤ人は宗教儀式を行うとともに、会堂で子供たちに教えていました。もう一度ユダヤ人を教えるために、イエスは会堂の中に入り、手のなえた人を癒されました。



イエスは手のなえた人を癒された


イエスが会堂に入ると、手のなえた人がいました。パリサイ人たちは、イエスを訴えることができるように、イエスが安息日にその人を直すかどうか、じっと見ていました。イエスはこれをご存じで、手のなえた人に立ち上がるようにおっしゃってから、パリサイ人にお尋ねになりました。「安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか」(マルコ 3:4)。この質問でイエスは、安息日だからといって誰かを救うことを拒否し、見捨てるのが間違っていることをお示しになるために、その主張を促進しました。

イエスは律法における二つの最も大切な命令について質問されたとき、イエスは次のようにお答えになりました。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』 次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』 この二つより大事な命令は、ほかにありません」(マルコ 12:29-31)。律法全体がその本質に抽出されると、それは神を愛し、私たちの仲間を愛することになります。そこで、イエスがパリサイ人に、安息日に人を救うのは間違っているかどうか尋ねたとき、誰もイエスの質問に答えることができませんでした。

それからイエスは、手のなえた人に「手を伸ばしなさい」とおっしゃいました。そして、その人が手を伸ばしたとき、イエスはその人の変形した手を癒されました。なえた手は完全に自由に動くように元どおりにされたのです。パリサイ人たちはみな、この奇蹟を自分の目で見ていたにもかかわらず、ヘロデ党の者たちと一緒になって、イエスを殺す方法を相談し始めました。彼らは律法的根拠に基づいて、イエスを攻撃しようとしたときでさえ、とても対抗できなかったので、イエスを殺すことに決めていましたが、彼らはその代わりに偽善者であると非難されました。

主は、この説明を通して私たちに何とおっしゃっているでしょう。だれでも主を信じたいなら、自分の肉の思いを捨て、代わりに御霊の思いに従い、そして神のみことばに従って考え、信じなければならない、と主はおっしゃっているのです。パリサイ人、ヘロデ党の者たち、および律法学者たちは、特に自分たちの宗教による先入観に頼っていたので、イエスと議論するために共謀する傾向がありました。私たちは、そのような先入観を捨てなければなりません。そうして初めて、主を明確に理解し、主を信じることができるのです。そして、そうする場合にのみ、水と御霊の福音を信じて、罪から救われることができるのです。

今日のキリスト教徒の中にも、こうしたパリサイ人のような宗教的な人々が非常に大勢います。今でも、安息日にイエスの弟子たちが穀物の穂を食べたと非難され、手のなえた人を癒されたイエスを非難したパリサイ人のように振る舞う宗教家に、容易に出くわすことがあります。こうした宗教的キリスト教徒は、イエスを信じていると告白しますが、彼らの考えはパリサイ人と同じなので、救われません。

イエスは、この地上に来られて、私たちを罪からお救いくださいました。この救済を通して、イエスは私たちに真の安息をお与えになり、私たちをすべての罪からお救いになり、私たちに永遠と真の救済をもたらしてくださいました。ですから、私たちに心の平安、安息、救済をお与えになり、私たちを神の民となさり、神の御国を授けてくださることによって、主は私たちを永遠に平和のうちに生きさせてくださったのです。このように私たちを祝福してくださったのは、イエスです。イエスは水と御霊の福音の真理を通して、私たちを罪から完全にお救いくださいました。それが、イエスが安息日の真の主となられた方法です。イエスは、すべての人を罪からお救いくださるために、この地上に来られ、バプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになることによって、すべての人の罪を一度に負われ、この世のすべての罪を十字架に運ばれ、十字架につけられ、血を流されて、死人の中からよみがえられました。それによって、ご自分の真の信者の救い主となっておられます。このように、主はすべての罪からの救済を完全に成就なさっておられるのです。

イエス・キリストは今、神の御座の右に着座しておられます。そして、聖霊をこの地上に遣わされたイエスは、私たち水と御霊の福音の信者の内側でみわざをなさっておられます。すべての人を罪から救うことを望んでおられるのです。イエスが非キリスト教徒を罪から救うことを望んでおられるように、イエス・キリストを信じると告白しているにもかかわらず、独自の宗派の教義に陥ったキリスト教徒をも救うことを望んでおられるのです。

これにもかかわらず、今日のキリスト教徒は、イエスを理解せず、それぞれの宗派の教義に従ってイエスを信じたいだけです。パリサイ人たちは、次のように言って、イエスを非難していました。「イエスが安息日に、弟子たちが穀物の穂を摘み、食べているのを見ても、どうして弟子たちを叱責できないのか。どうしてイエスは安息日を守れないのか。」 同様に、今日のキリスト教徒も、自分たちの宗派の教義上の基準に基づいて判断を下し、十字架の血よりもむしろ、水と御霊の福音によって誰もが救われるのか疑問に思っています。主がヨハネからバプテスマをお受けになって、ただ一度で世の罪をすべて負われ、私たちのために裁かれたにもかかわらず、こうしたキリスト教徒は、こう尋ねます。「この地上とこの世に生きている間、私たちは罪がないと、どうして言えるのですか。」 それで彼らは私たちと口論し、敵対心をもった態度で私たちに挑戦します。イシュマエルがイサクを迫害したように、そのような水と御霊の福音を知らないキリスト教徒は、この真の福音を知り、信じている人々に対立しています。彼らは、自分たちが信じるキリスト教の教義の範囲内でのみイエスについて考えるだけで、この先入観に基づいて私たちを見ているため、このように水と御霊の福音の信者に敵対しているのです。彼らの信仰は、水と御霊の福音に置かれているものではなく、キリスト教の教義にのみ置かれています。しかし、水と御霊の福音は神のみことばであるのに対し、キリスト教の教義は人間独自によるものであることを決して忘れてはなりません。

誰が、この世界で普及しているすべてのキリスト教の信条を作ったのでしょう。これらは、人間によって作られました。キリスト教の教義は、神の造られたものではありません。むしろ、そうしたものは、キリスト教徒自身によって作られたのです。キリスト教の教義を神のみことばと比較すると、それらは互いに完全に異なっていることがわかります。まだこれにもかかわらず、今日のキリスト教徒は、救済のバロメーターとして独自の教義を取り入れており、そのためにイエスと、水と御霊の福音を通してイエスを信じる人々に敵対しています。こうしたキリスト教徒の罪人は、水と御霊の福音の信者に、どうして誰もが罪のない者になれるのかを尋ねます。水と御霊の福音を通して罪の赦しを受けていると言うとき、彼らは私たちにこう言います。「あなたは異端ですよ。あなたの信仰は誤りです。本物のキリスト教徒の信仰とは、十字架の血を信じるだけで罪から救われることができるのですよ。」 ですから、十字架の血よりもむしろ、水と御霊の福音を信じることによって罪から救われると話されたとき、彼らはこれが間違っていると言います。しかし、間違っているのは彼らです。

なぜでしょうか。それは、こうした見当違いのキリスト教徒が自分の考えや自分の教義の基準に従って、イエスを信じているからです。彼らの信仰が間違っているのは、そのためです。彼らの議論は論理的であるように見えるかもしれませんが、現実において彼らは実際に間違っています。誰もが救われるのは水と御霊の福音を通してであり、そのために、こうしたキリスト教徒の罪人が、これは間違っていると主張するのは、安息日にイエスがみわざをなさったことを非難したパリサイ人に似ています。

この時代の宗教家がイエスと対立しているのは、信仰の違いによるものであり、今日のキリスト教社会において、十字架の血だけを信じる人々と、水と御霊の福音を信じる人々が、互いに衝突しているのは、そのためです。今日の宗教家は、自分の肉の思いを放棄していないので、水と御霊の福音を信じていません。イエスは本当に神の御子であり、神ご自身であり、水と御霊の福音によってすべての罪をただ一度で完全に消し去った救い主であられます。イエスのバプテスマを通して私たちのすべての罪を負われ、こうした罪を背負いながら、十字架につけられ、私たちの身代わりとなって血を流して死なれたのです。それからイエスは三日目に死人の中からよみがえられ、そして父なる神の右の座に着座して生きておられるので、全人類の救い主になっておられます。言い換えれば、神はご自分の決定から、人類のすべての罪をただ一度で消し去られたのです。

しかしながら、ほとんどのキリスト教徒はイエスが救い主であることを認識していますが、彼らはまだ自分の肉の思いの奴隷であるため、イエスがバプテスマをお受けになり、十字架で血を流されることによって、この世のすべての人の罪をただ一度で取り除かれたことを認めません。ですから、彼らは私たちの信仰を否定し、神と人間の両方に対して毎日罪を犯しているので、私たちには罪がないと言うことは不可能だと言っています。さらに悪いことに、イエスのバプテスマと十字架での血を信じることによって、罪のない者になっていると言う異端者を誰でも非難します。彼らは、自分たちの信仰が正しい信仰であると主張します。これが口論や霊的な戦いの原因になると、結局は敵になってしまいます。しかし、そのような議論に囲まれても、イエスはご自分がすべきことすべてを静かに実行なさいました。バプテスマのヨハネが語った小羊のように、イエスは世の罪を背負って十字架で死なれ、そして今、イエスは裁きの主として再び戻られるのです。



今日の問題はパリサイ人のような宗教家である


今日のキリスト教の問題は、水と御霊の福音を知らない宣教師や信者たちが多すぎることです。彼らは水と御霊の福音を知らないので、彼らは自分たちが信じて頼っている各自の宗派のキリスト教の教義に基づいて、神とその真の福音を批判します。彼らは、水と御霊の福音の信者を批判するだけでなく、霊的にその信者たちに敵対しているのです。主はすでに水と御霊の福音によって、この世のすべての罪を消し去られたにもかかわらず、彼らは自分たちの生活の中でまだ罪を犯しているから、まだ罪深いのだと主張し、水と御霊の福音を信じることによって罪のない者になっていると言う人々を迫害しようとします。彼らは聖書を誤って解釈し、こう言います。「キリスト教徒は罪深いですが、彼らは罪人ではありません。それどころか、彼らは義人です。しかし、これは彼らがイエスを信じて救われたことを意味するのであって、イエスを信じているからといって、罪がないということではありません。」 そして、イエスがこの地上にいる間に、パリサイ人がイエスに敵対したのと同じように、彼らは真理に敵対しているのです。

こうしたキリスト教徒が神の義に敵対しているというところから最も目立った基準は、神のみことばとは全く関係のない彼ら自身の肉の考えです。彼らが自分の肉の思いに従って考えると、水と御霊の福音を信じて罪のない者になっていると言う者は、彼らの目には間違っているように見えます。まだ罪を犯しているのに、この世界に住んでいる人は誰でも罪がないと、どうして主張することができるのだろうかと彼らは思っています。彼らは、こう尋ねます。「救い主としてイエスを信じているとしても、どうして誰にも罪がないことがあり得るのですか。これは、人生で犯す罪から悔い改める必要がないことを意味するというのですか。」 彼らは、水と御霊の福音の信者たちをそのような観点から見るので、神の義、真の愛、真の救済に敵対してしまいます。彼らが、身体で犯した不正行為を罪と見なさなかった初代教会時代のグノーシス主義者として、水と御霊の福音の信者たちを傷つけているのは、そのためです。

しかしながら、ここではっきりと理解しなければならないのは、水と御霊の福音の信者の信仰は、まだ新しく生まれていない人々の信仰とは根本的に異なっているということです。今日のキリスト教徒の罪人は、いつも新しく生まれている信者たちに敵対しています。今日のほとんどのキリスト教徒も、自分自身の肉の考えに基づいて、私たちを不当に判断しています。



安息日は霊的に守られるべき


イエスは、次のようにおっしゃいました。「人の子は安息日にも主です。」 主がこの地上に来られたとき、主はバプテスマをお受けになって私たちの罪を受け入れられ、十字架につけられて死なれ、死人の中からよみがえられ、これを通して、主は私たちをお救いくださったのです。イエスの復活を経て、天国に昇天された後、イエスは再び戻って来られます。イエスは、聖霊をこの地上に遣わされ、神のみことばを残されたのです。この神のみことばを通して、私たちは、イエスが水と御霊の真理によって、すべての罪を消し去られたことを知り、信じています。したがって、誰もが罪のない者です。イエスはバプテスマのヨハネからバプテスマを授けられることによって、この世のすべての罪を負われたので、この世には罪がありません。

それでは、これは、イエスを信じない人々も罪のない者であるということでしょうか。いいえ、そうではありません。こうした人々がイエスを信じておらず、真理を知らないため、依然として罪深いままです。対照的に、私たち水と御霊の福音の信者は、この真理の福音を知り、信じているので、罪がありません。そして、イエスが私たちのすべての罪を実際に負われ、十字架で死なれ、私たちに命を与えられたことを理解し、信じています。そして、イエスは実際に私たちのすべての罪を消し去られたので、私たちは今、この真理を信じているために罪のない者です。

リンゴの味がリンゴのようだと言うのは、明らかです。結局のところ、リンゴ以外にどのような味がするのでしょうか。同様に、私たちに罪がないという私たちの主張も、分かり切ったことです。神のみことばは、主が水と御霊の福音によって人類の罪を消し去られたと告げているので、私たちには罪がありません。

しかし、人々は肉の思いがあるので、水と御霊の福音の信者を理解できません。彼らは、こう言います。「明らかに、水と御霊の福音を信じるみなさんの中にも、まだ罪を犯している人がいます。そこで、どうしてあなたは自分が罪のない人であると言えるのですか。これは間違っていませんか。ですから、それは誤った異端の主張ですよ。」 イエスの時代に、安息日に穀物の穂を摘まみ、食べていたために、弟子たちを非難したパリサイ人のように、この現代のこうした宗教的な人々も、水と御霊の福音を信じる人々を非難します。

神が安息日を設けられた理由を、みなさんは明確に把握しなければなりません。神が私たちに安息日をくださったのは、この日を、文字通りの意味で守るだけで祝福を受けるためではなく、私たちの罪をすべて消し去った救済の義のみわざを覚え、イエスを礼拝するためなのです。旧約聖書では、神は安息日を守るなら、祝福されると何度もおっしゃいました。しかし、私たちはその霊的な意味を認識しなければなりません。それは、主があらゆる状況下で、私たちのすべての罪を消し去られたという信仰を守らなければならないことを意味します。この信仰を心に留めている者だけが神に祝福され、聖霊が降りて、みわざをなさるのは心です。

このため、今日のキリスト教徒の肉の思いは、完全に間違っています。彼らが肉の思いを捨てない限り、たとえイエスを救い主として信じ、それに応じて宣べ伝え、主のために生きていると主張しているとしても、彼らはイエスに敵対してしまい、救われることはありません。

だれでもイエスに従いたいなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてイエスに従いなさいと、イエスがおっしゃったのは、このためです。肉欲の思いを否定できない者は、主に従うことができません。人は、水と御霊の福音を通して、すべての罪を消し去られたという事実に基づいて、肉の思いを否定し、御霊に心を定め、神のみことばを信じなければなりません。このように、誰もがアブラハムがしたように、信仰によって神のみことばを留め、信仰によって神に従わなければなりません。このような人々だけがイエスに従うことができます。さもなければ、パリサイ人やヘロデ党の者たちと同じに、他の誰もがイエスの敵に変わるだけです。悲しいことに、この地上にはそのような人々が非常に大勢います。

マルコの福音書第1章では、イエスがバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになって、人類の罪を負われました。マルコの福音書第2章では、中風の人に話しかけ、「子よ。あなたの罪は赦されました」とおっしゃいました。次に、古い着物と古い皮袋をたとえとして用いて、主は私たちの肉の思いと伝統の知恵を捨て、代わりに神のみことばに従って正確に考えて信じなければならないとおっしゃいました。マルコの福音書第2章の最後の数節では、イエスが安息日にパリサイ人と論争しているのがわかりますが、この口論はイエスによって始まったのではありません。イエスはさまざまな町を旅していて、良い知らせを話して、良いみわざをなさっただけでしたが、パリサイ人たちは戦いを仕掛けようとしました。

パリサイ人とは、水と御霊の福音を知らない、今日のキリスト教徒の罪人です。こうしたキリスト教徒は、イエスを信じると主張しているにもかかわらず、仲間の信者を迫害しています。キリスト教徒は、異端者として他のキリスト教徒を迫害する傾向があります。私たちの教えは聖書的には健全ですが、それは彼ら独自の宗派的な姿勢とは異なります。そして彼らは盲目的に私たちを異端者として非難します。彼らは、自分たちと異なる場合は、異端の誰かを気ままに非難します。この傾向は全世界のキリスト教徒のうちに見られますが、韓国の教会では特に顕著です。自分の宗派の教義よりもむしろ、聖書が実際に教えていることに従って誰かが話し、信じるなら、その人は異端者であると非難されます。多くのキリスト教徒は、パリサイ人が、イエスが安息日を破ったと非難し、イエスを殺そうとしたように、この慣習に従事しています。そのようなキリスト教徒は、肉欲を否定せず、イエスが人類を救われたという水と御霊の福音を信じないので、彼らはみな地獄に行きます。これが、今日の聖句を通して、イエスが私たちに告げておられることです。

事実上、イエスが実際におっしゃっていたことは、「あなたは肉の思いを捨てなければならない。わたしがあなたに告げたことに従って知り、信じなければならない。人の肉の形で来た神の御子であるわたしが、すべての人の罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために、この地上に来たのだ。子よ、あなたの罪は赦された。起きて歩きなさい」というものです。このみことばは、私たちにだけ与えられました。このように、イエスは私たちを罪から贖ってくださったのです。イエスには、私たちのすべての罪を赦す力と権威があります。そして、この世のすべての人のすべての罪を消し去られました。イエスは、人類のすべての罪、イエスが人類のためになさったことを信じる全員のあらゆる罪を赦されたのです。



イエスは病人に起きて歩くようにおっしゃった


イエスは、私たちが霊的に不自由な生活から立ち上がり、信仰によって神のみわざを実行し、信仰によって私たちの生活の中で神の祝福を受けることができるようにしてくださいました。イエスは実際にそのような力を持っておられ、実際に私たちの生活の中でそのような祝福を与えてくださったのです。

問題は、今日のキリスト教徒の信仰です。イエスは父なる神の御子であり、父のみこころによって人の肉の形で、この地上に来られ、バプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになって人類の罪をすべて負われ、十字架で死なれ、死人の中からよみがえられ、それによって救済を完全に成就なさったにもかかわらず、こうしたキリスト教徒は、イエスが私たちのために成し遂げられた救済を認識せず、イエスを神の御子として認めません。彼らはイエスが実際に神であり、創造主であり、救い主であられるとさえ認識していないので、これはどれほど問題があることでしょう。同様に、パリサイ人もイエスに多大な心配と悲しみを引き起こしました。しかし、イエスは彼らを見捨てるのではなく、彼らの中を歩き、個人的にご自分が本当は何者であるかを示され、説明なさいました。ですから、パリサイ人の間でも、振り向く人がいたのです。その一人がニコデモという男でした。

イエスが十字架の血だけを信じる今日のキリスト教徒をご覧になったなら、何とおっしゃるでしょう。彼らの多くは、生まれる前から、神が一部の人々を神の子どもになるように運命づけておられるのに対し、他の人が気ままに地獄に送られるよう運命づけられていたと信じています。イエスが、そのような間違った教義を信じているキリスト教徒をご覧になると、悲しみのうちに嘆かれるでしょう。これは、今日の聖句が対処していることです。主がパリサイ人とヘロデ党の者たちだけに語られているように見えるかもしれませんが、実際には、主は今日の霊的パリサイ人に語られています。こうしたキリスト教徒が、神を全く信じないかのようではありません。彼らは神を信じますが、肉の思いを捨てていないために、問題は彼らが主のみことばに従って信じていないことです。

これを慎重に検討してください。安息日でさえ命を救い、空腹なら穀物の穂を摘まみ取り、食べるのは正しいことではないのでしょうか。それとも安息日を文字通りに守るためだけに、飢えに苦しむのは正しいことでしょうか。みなさんは安息日に休むことになっていますが、飢えているときにどうして休むことができるでしょう。空腹で眠れるでしょうか。何らかの強みはあるのでしょうか。いいえ、お腹が空きすぎると眠れません。日中にストレスが多すぎたり、心配事や空腹が多すぎたりすると、夜は眠りにつくことができません。

今日は主の日です。安息日が主の日に変更されました。これは主がよみがえられた日であるため、主の日と呼ぶのです。主の日を守るために、すべての食事を抜いて、一日中お腹を空かさなければならないとします。私はこれにたじろぐ最初の人になるでしょう。みなさんも困りませんか。この日に誰もが餓死すべき理由はありません。

なぜイエスは私たちに律法をお与えになり、この地上に来られたのでしょう。イエスは私たちに真の救済をもたらし、平和をお与えになり、私たちを祝福なさり、すべての罪から完全にお救いになり、神の子どもとなさるためにこの地上に来られました。したがって、私たちはこの深い摂理を理解し、それを信じなければなりません。神は私たちのすべての罪を水と御霊の福音によって消し去られ、私たちを神の子どもとその民となさり、この地上で暮らしながら、義のみわざを行うことを私たちにお許しになり、将来的に私たちに富と栄光を享受する権利をお与えくださいました。私たちは、これを信じなければなりません。神が私たちのためにしてくださったことを信じなければならないのです。

しかし、安息日を守るという見解について、もう少し掘り下げて検討するべきです。私たちは安息日の基礎と、それが守られる基本的な目的について考える必要があります。安息日を文字どおりに守り、異端者でない他者を考慮することが正統派でしょうか。

ユダヤ人にとって、安息日は金曜日の日没から土曜日の日没まで続きます。彼らは安息日に何もしてはなりません。律法は、家畜でさえ休むべきであると教えています。厳密に言えば、彼らは電気を使うことさえいけません。非キリスト教徒でさえ、電気を使うべきではありません。また、調理も控えるべきです。そのため、韓国の再臨派信者の間では、牧師たちは礼拝中に照明をつける必要があるかどうかについて議論していました。安息日を守るためには電灯をつけてはならないと主張する人もいましたし、それであれば、ろうそくをつけてはいけないと主張する人もいました。日本の植民地支配の間、再臨派信者の牧師たちが神社の前で参拝を拒否したために殺された最大の団体を形成しました。歴史的文書によると、他の宗派の牧師たちも、みことばを文字通りに守るために、死の危機に瀕していても神社で参拝をすることを拒否して、殉教を受け入れました。世俗的な観点から、こうした人々は尊敬に値します。

生きている聖徒として、たたえている韓国の有名な牧師がいました。日本の植民地支配の間、その人は最初、現在北朝鮮である教師でした。しかし牧師になったとき、神社の前で参拝をさせられました。日本人は、この牧師を刑務所に入れ、餓死させて死なせるように脅迫したとき、この牧師は圧力を受けて参拝しました。誰もがこの牧師はどんな神社の前でも参拝をしたことはないと思っていましたが、この牧師は自分の唇でそのようにしたことを告白しました。そして、この牧師は自分自身に多くの罪を持つ人であると表現しました。けれども、この牧師は少なくとも正直な人でした。結局のところ、少数派がそのような悲惨な状況下で神社の前で参拝を拒否することができます。もちろん、賢明なことは忠実なままであり、それを拒否することですが、それは簡単なことではありません。

神社に敵対する運動のために投獄され、厳しく迫害された女性のキリスト教徒がいました。韓国が日本の統治から解放されたとき、彼女は刑務所から釈放され、二冊の本を執筆しました。一冊は、「私が滅びるなら」と呼ばれ、もう一冊は、「私が滅びるなら、私は生きる」と呼ばれました。刑務所の警備員がどのように彼女を飢えさせ、すべての歯と爪が抜けたのかについて、彼女は本の一冊に書き記しました。彼らは囚人たちに腐った食物を持ってくるだけでしたが、彼女はこれに対しても深く感謝していました。彼女の釈放後、彼女はしばらく伝道者として働き、それから結局、米国で聖職者の務めを果たしていたバプテスト派の牧師と結婚しました。この後、彼女は何度も韓国に招待され、あかししました。そして、彼女が、エステルが必要なら死を受け入れるように決心したとき、神は彼女を解放したとあかししました。そして、彼女がどうして指の爪がなかったかを示し、非常に多くの韓国人牧師が信仰を守らずに日本人に与えられたにもかかわらず、彼女は信仰によって生きてきたと述べました。それで彼女は韓国のキリスト教徒から広く尊敬されました。

彼女はかつて、あるアメリカのキリスト教の放送局に出演し、刑務所にいる間に安息日を守るために日本の権力者たちにどのように反抗したかについて同じ証言をし、抵抗のためにほぼ殺害されていました。しかし、韓国人とは異なり、アメリカの聴衆からの反応は、かなり肌寒いものでした。彼らは実際に韓国のキリスト教徒が文字通り安息日を守ろうとするのは、かなり奇妙であると考えて、彼女のあかしにかなり困惑しました。

この伝道者とは別に、韓国の他の多くの人々も安息日の彼らの態度で投獄され、その中にはおそらくご存じのチュダル・ベイ執事もいました。朝鮮戦争の間、ベイは北朝鮮軍によって安息日に庭を掃くように命じられました。彼は拒否し、北朝鮮軍は彼を撃つと脅しました。ベイはそれから彼らに言いました。「もし打ちたきゃ、私を打て。私は安息日を破ることは決してないので、このほうきで庭を掃除することは決してない。」 そこで北朝鮮軍は怒り、彼を木に縛り付けて、脅迫しました。「さあ、答えろ。安息日でも庭を掃除するのか、それとも撃たれるのか。」 しかしベイは、まだ言いました。「それなら撃てばいいじゃないか。何があっても安息日を守るのだ。」 それで、北朝鮮軍は彼を殺しました。

朝鮮戦争の終結後、すべての難民は帰国しました。彼らは、この青年の死について聞いてとても感激し、死後に彼を執事にしました。そして無数の牧師たちが、リバイバル集会で説教するために国中を旅したとき、彼らは会衆にベイ執事を見習うように言いました。ベイ執事は安息日を守るために殺されましたが、会衆を批判するために彼の例を使う人さえいました。多くのキリスト教徒は、安息日であまりにも多くの楽しみがあることに忙しくなりました。

もちろん、主の日に行うべき正しいことは神を礼拝することですが、正当な理由で日曜礼拝を欠席する場合があります。たとえば、家族の誰かが深刻な病気で入院している場合、教会に出席できないかもしれません。しかし、これは決して安息日を破っているという意味ではありません。多くのキリスト教徒は完全に誤った信仰の奴隷です。十字架の血を信じただけで、誰かの罪が本当に消されるのでしょうか。人々は、主が自分たちのために血を流されて、自分たちのために死なれたと信じているかもしれません。そして彼らは自分たちの感謝の気持ちから、自分たちに罪を犯した人々を許すことがあります。しかし、イエスを信じた後に犯した罪について、彼らは何をすべきでしょうか。宣教師は、悔い改めの祈りをささげなければならないと言いますが、これは本当に罪の問題を解決するでしょうか。彼らの罪は本当に洗い流されているのでしょうか。彼らは、こう言います。「イエスはペテロの足を洗われなかったのか。イエスは、『もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません』とおっしゃらなかったのか。では、毎日悔い改めの祈りをささげることによって、罪を洗い流されるのは正しいことではないのか。」

しかし、主が「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」(ヨハネ 13:8)とおっしゃったとき、これは主が伝えたかったことでしょうか。ここでの主語は、主です。主は、ペテロの足を洗わなければなりませんでした。それは、イエスが一度バプテスマをお受けになって、ペテロの将来の罪さえも取り除かれ、十字架で死なれ、死人の中からよみがえられ、それによってペテロの救い主となられたことを意味します。ペテロは不完全だったので、イエスの復活と昇天の後でさえ罪を犯し、イエスがこれらの罪さえも消し去られなければ、イエスとペテロは互いに何の関係もなかったでしょう。

ここでの問題は、今日のキリスト教徒が自分の肉の思いに従って、この一節を解釈することです。彼らは、このみことばを彼ら自身のキリスト教の教義に基づいて解釈し、そしてこれが最大の問題です。彼らはすべてをキリスト教の教義によって測定しているので、彼らは聖書を誤解し続けています。ですから、自分の思いを捨てることは絶対に不可欠です。また、宗派の教えを捨てなければなりません。みなさんが宗派の教えに基づいて聖書を解釈するほど、こうした宗派の教えについて何がそんなに素晴らしいのでしょうか。宗派は何も意味しません。水と御霊の福音のみことばである、神のみことばを知り、信じると、他のこともきっと理解できるでしょう。新しく生まれる前に、今日の聖句を逆に解釈して、安息日を文字通り守るのは正しいことだと思っていたかもしれませんが、水と御霊の福音を信じて聖書を読み、聖霊によって導かれるなら、みなさんは自分の過去のすべての知識が完全に反対であることを認識することができます。

キリスト教徒の罪人は、肉の思いを捨て、イエスが自分たちのためにしてくださったこと、水と御霊の福音を信じる場合にのみ、救われます。そうでなければ、彼らは主に、「あなたは、生ける神の御子キリストです」(マタイ 16:16)と告白することができません。したがって、私たちは水と血とによって来られたイエス・キリストを知り、信じなければなりません。私たちがほんとうに救済を得て、神の子どもとなり、義のみわざを実行し、神の栄光を享受できるのは、水と血と御霊によって来られたイエス・キリストを信じているときだけです。

キリスト教徒が肉の欲を捨てなければならないのは、このためです。水と御霊の福音を信じている者たちにとっても、自分の考えに固執することは可能かもしれませんが、彼らは自分の定着された考えを捨て、代わりに信仰、神のみことばが告げていること、信仰の先人が教えていることに注意しなければなりません。自分は完璧に正直な人物だと思うかもしれませんが、それは彼の幻想にすぎません。霊的な人がそのような人たちと何らかの会話をするとき、彼らの罪深い心の現実が一瞬にして明らかにされます。

すると一部の人々はこう言うでしょう。「あなたは、ここで唯一の知識のある人なのですか。神を信じているのは、あなただけですか。」 しかし、明確に把握する必要があるのは、霊的に知識がある人と世俗的に知識がある人とでは非常に異なるということです。自分の考えを捨てるたびに、肉の汚れが洗い流されて、霊的な人間になり、霊的に知識のある人になります。言い換えれば、主が私たちにおっしゃっていることは、神がおっしゃったとおりに肉の思いを捨て、神のみことばを信じる場合にのみ、神に敵対することなく、救われて、神に従うことができるということです。

世界中のキリスト教徒はまた、自分の宗派の教義と自分の肉の思いを捨て、水と御霊の福音を心から信じて、こうして救済に達するべきです。すでにそうしている私たちは、自分たちが神の敵になっていないことを深く感謝するべきです。神のみことばは、みなさんが信仰の祖先の説教や教えに耳を傾けるなら、みなさんが救われて、それ以降に直面するすべての問題が容易に解決されると教えています。そして、みなさんはまた、必ず霊的にまっすぐな人になるでしょう.