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[41-4] < マルコ 2:1-12 > 世の罪をすべて 消し去ることができたイエス




< マルコ 2:1-12 >

「数日たって、イエスがカペナウムにまた来られると、家におられることが知れ渡った。それで多くの人が集まったため、戸口のところまですきまもないほどになった。この人たちに、イエスはみことばを話しておられた。そのとき、ひとりの中風の人が四人の人にかつがれて、みもとに連れて来られた。群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、『子よ。あなたの罪は赦されました。』と言われた。ところが、その場に律法学者が数人すわっていて、心の中で理屈を言った。『この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神をけがしているのだ。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう。』 彼らが心の中でこのように理屈を言っているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて、こう言われた。『なぜ、あなたがたは心の中でそんな理屈を言っているのか。中風の人に、「あなたの罪は赦された。」と言うのと、「起きて、寝床をたたんで歩け。」と言うのと、どちらがやさしいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。』 こう言ってから、中風の人に、『あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。』と言われた。すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みなの見ている前を出て行った。それでみなの者がすっかり驚いて、『こういうことは、かつて見たことがない。』と言って神をあがめた。」


今日の聖句を通して、神の御前に罪の赦しを受けるために、何を信じなければならないかを理解してほしいと思います。

私は水と御霊の福音を信じて罪の赦しを受けていますが、このようにすべての罪から救いを受ける前に、私が信じていたものを時に思い出します。私は最初からイエスを信じていませんでした。私の家族は当時仏教を信仰していたので、以前は仏教を信じていました。しかし、二十代前半には肉体的に病気になり、この病気で死ぬと思っていたので、少なくとも死ぬ前に自分の罪を解決するために、イエスを救い主として受け入れるようになりました。しかし、イエスを救い主として信じた後、私の罪が増したことに気づきました。ですから、それまで私の信仰生活において信じていたものについて考えるようになりました。イエスを救い主として受け入れて、長期の後、当時に神の律法を通して罪が増えたことに気づき、悔い改めの祈りが本当に効果のあるものかを​​疑問に思いました。私の悔い改めの祈りは、私の罪をどれだけ清めたのでしょうか。



水と御霊の福音を信じる前に


水と御霊の福音を信じる前は、イエスを信じた後に悔い改めの祈りをたくさんしていましたが、こうしたことが本当に罪の清めに役立ったでしょうか。いいえ、役立ちませんでした。そのような祈りは、どんな私の罪も洗い流す助けにはなりませんでした。それで、私の生活はとても熱心に、そして善良に助けられたのでしょうか。私は、迷子になった祖母たちを助け、彼らが家に帰る道を見つけることができなかったので、子供たちが泣くのを助け、通りで見つけたお金の所有者を見つけて、その人に返しました。そして私は、近所では良い人として知られていました。しかし、そのようなことは私の罪の清めを受ける助けになったでしょうか。いいえ、助けになりませんでした。水と御霊の福音を信じている今、私は当時を振り返ると、私の罪の清めを受けるという点では、そのようなことはまったく役に立たなかったことがわかります。

私の神学研究はすべて、罪の赦しを受けるのに役立ったでしょうか。考えてみると、こうしたものがまったく役に立たなかったとは言えませんが、神学研究でさえ罪の清めに役立つことはありませんでした。それどころか、新しく生まれる前に神学教育を受けていたため、神のみことばに記録されている水と御霊の福音に出会うことは、さらに困難でした。なぜそれほど困難だったのでしょう。それは、神学を勉強しながら、学んだこれらすべてのキリスト教の教義のために、純粋に神のみことばを受けることができなかったので、混乱と空虚さが私の心に入ってきたからです。こうした神学的教義は、私が罪の赦しを受けることを困難にしました。実際、神学の研究は、私が罪の赦しを受けるのに全く役に立ちませんでした。多くの人々は混乱しているため、次のような誤った教義を信じています。「私たちはイエスを信じたとき、原罪の赦しを受けるけれど、個人的な罪はまだ残っています。だから、こうした罪のために悔い改めの祈りをささげるたびに、個人的な罪の清めを受けるのだ。」 多くのキリスト教指導者たちは、そのような混乱した教義を作りました。彼らは、信者たちに個人的な罪の赦しを受けるために、熱心に悔い改めの祈りをささげさせました。したがって、私がこうしたキリスト教徒の混乱の教義に従ってイエスを信じていたなら、私は自分の罪のために絶対完全に台無しにされた罪人であり続けたでしょう。

以前に高潔な生活をし、こうした悔い改めの祈りをささげることは、私が罪からの救済を受ける助けにはならず、私の神学的研究でさえ私の助けにはなりませんでした。この世の何も、私の罪の清めの問題に役に立ちませんでした。イエス・キリストが私たちにくださった水と御霊の福音だけが、私を「ただ一度で」義人にしてくださったのです。今日の聖句に登場する中風の人のように、私は自分の罪を消すために何もできない人でした。イエス・キリストは、私がまだ霊的に中風の人だったときに、水と御霊の福音のみことばによって私のところに来られました。イエス・キリストが水と御霊の福音のみことばによって私のところに来られ、お会いくださったので、すべての罪から救済をただ一度で受けることができました。イエス・キリストは、私に水と御霊の福音のみことばをお与えくださり、私をお救いくださったのです。神が水と御霊の福音のみことばによって私のところに来られ、お会いくださったので、すべての罪から救済を受けることができたのです。ここで私の努力、正しい行い、善良な生活、私の神学研究のようなすべてのものが、すべての罪から救済を受ける役には立たなかったということがわかります。そのような無駄な努力を通して、自分では何もできず、この世界の宗教は自分の罪を清めることができないことに気づきました。しかし、こうしたことは、私が水と御霊の福音のみことばに出会うのを助け、すべての罪を決定的に清めた踏み石でした。その時、私の罪は水と御霊の福音のみことばを信じることによって、ただ一度で消されました。

どうしても自分の力で主にお会いしたくて、間違いなくお会いすることができなくても、それまではどうしてもこの義の主にお会いすることができなかったのですが、神の義のみことばを記録された水と御霊の福音に出会い、信仰によって救済を受けるようになりました。神のみことばに啓示された、この水と御霊の福音を知らなかったなら、私は永遠に滅ぼされたでしょう。私は律法を守ることができない人であり、イエスを信じれば信じるほど、かつて信じていたものに基づいて深刻な罪人になっていたことに気づきました。主は私のような人のところに来られ、水と御霊の福音のみことばによって、すべての罪を一度で消し去られました。そして、私は自分の罪を清めるために悔い改めの祈りをささげる以外に何もできない自分自身を見ることができましたが、その時に主は私のところに来られて、水と御霊の福音によって「ただ一度で」私のすべての罪とその罰から解放なさいました。

イエス・キリストは、水と御霊の福音によって、私のすべての罪だけでなく、みなさんのすべての罪もただ一度で清められました。水と御霊の福音を信じることなく、こうした悔い改めの祈りをささげることによって、罪の赦しを受けるためのすべての努力は、みなさんの罪の清めにまったく役立っていません。しかし、イエス・キリストは、水と御霊の福音を信じる私たちにお会いくださることによって、みなさんと私を憐れんでくださいました。父なる神がイエス・キリストのうちに救済をご計画になり、水と御霊の福音によってこのご計画を完成なさったので、私たちは世のすべての罪から救済をただ一度で受けることができたのです。

私たちの主が私たち全員にお与えくださった水と御霊の福音を信じて、罪の赦しを一度に受けておられますか。みなさんは、この世の人々よりも優れているから、罪の赦しを受けているのでしょうか。いいえ、そうではありません。私たちは霊的に歩き回った霊的な盲人であり、霊的に口が聞けず、耳を傾けず、足が不自由で、この世に暮らしている人と同様に何もできない、なえた中風の人々でした。けれども、イエス・キリストは私たちを深く愛してくださったので、水と御霊の福音によって私たちのところに来られ、お会いくださいました。このようにして、イエス・キリストは、私たちを世のすべての罪からお救いくださったのです。私たちの主は、今日の聖句を通して、このことを告げておられます。



この聖句をもう一度読んでみよう


「数日たって、イエスがカペナウムにまた来られると、家におられることが知れ渡った。それで多くの人が集まったため、戸口のところまですきまもないほどになった。この人たちに、イエスはみことばを話しておられた。そのとき、ひとりの中風の人が四人の人にかつがれて、みもとに連れて来られた。群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、『子よ。あなたの罪は赦されました。』と言われた。ところが、その場に律法学者が数人すわっていて、心の中で理屈を言った。『この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神をけがしているのだ。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう。』 彼らが心の中でこのように理屈を言っているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて、こう言われた。『なぜ、あなたがたは心の中でそんな理屈を言っているのか。中風の人に、「あなたの罪は赦された。」と言うのと、「起きて、寝床をたたんで歩け。」と言うのと、どちらがやさしいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。』 こう言ってから、中風の人に、『あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。』と言われた。すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みなの見ている前を出て行った。それでみなの者がすっかり驚いて、『こういうことは、かつて見たことがない。』と言って神をあがめた。」 (マルコ 2:1-12)。

今日私たちは、「わたしが世の罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせたいので、そうしている」というのを読みました。私たちの主がここでおっしゃったように、この世に住んでいるすべての人々の罪をただ一度で消し去るために、私たち全員のところに来られました。別の言い方をすれば、私たちの主はすべての罪を贖うために、水と御霊の福音によってこの世に来られたのです。それでは、まず水と御霊の福音を信じて、どのような人が主から罪の赦しを受けるのかを考えなければなりません。

ここにどれほど多くの人々が主の周りに集まったでしょうか。今日の聖句は、イエスが滞在した家にすべての人々を受け入れる余地がなくなったほどに、非常に多くの人々が集まったと、記録しています。韓国の田舎では、五日おきに開かれるスーパーに行くと、非常に多くの人々がそこを訪れます。そして、この混雑した市場に集まった人々の数よりも、さらに多くの人々が、イエスがおられた場所にやって来て、そこに足を踏み入れるのはさらに困難でした。

多くの人々がこの世界に住んでいます。そして、こうした人々の多くは、イエスの義を知り、信じることによって、罪からの救いを受けたいと思っています。しかし、すべての人が罪から救われたわけではないのが、わかります。神から罪の赦しを受け、どのような罪もなしに天の御国に入ることができるようになったのは、どのような人でしょうか。霊的な中風の人以外にいません。どのような人が中風の人なのでしょうか。彼らは正しく考えることはできますが、自分の体が中風になっているために自分の意志に従って行動することができない人です。こうした中風の人は、脳への損傷により神経が麻痺したために苦しんでいます。

イエスがカペナウムの家におられたとき、多くの人々がイエスのもとに来ました。イエスは、天の御国に入る方法について話しておられました。この群衆の中には中風の人もいました。神は、この人に焦点を当てておられます。律法学者、パリサイ人、宗教家、そして血統の優れた人々のように、そこには非常に多くの人々が集まりましたが、主はこの中風の人に関心がありました。これは、主がみなさんと私に教えたい真理です。

多くの人々がこの世界に住んでいます。そして、非常に多くの人々が罪の赦しを受け、永遠の命を得るために大変な努力をしています。彼らはこれを成し遂げるために非常に懸命に努力しています。例えば、ほとんどのキリスト教徒は、自分の罪を清めるために、熱心に悔い改めの祈りをささげています。彼らは悔い改めの祈りをささげるなら、罪の赦しを受けると信じていますが、これは本当に真実であり得るでしょうか。



罪のために悔い改めの祈りをささげたなら 主は罪を赦してくださるのか


非常に熱心に神を信じる人がいますが、そのような人々はそのような信仰を持って主に認められることができるでしょうか。新約聖書に登場した多くの宗教指導者たちは、神をとても熱烈に信じていました。したがって、今日、キリスト教徒の中には、悔い改めの祈りをささげると、罪が消し去られることを信じて、他の人々に説いています。悔い改めの祈りを通して、こうした罪を告白し、悔い改めたからといって、心の中にある罪や、行動中に明らかにされた罪が洗い流されたら、どんなに素晴らしいでしょう。私たちが悔い改めの祈りをささげるときはいつでも、主は私たちの罪を本当に清められるのでしょうか。私たちの口で罪を認め、告白することによって罪の赦しを受けることができるとしたら、なぜ主は私たちの罪をすべて消し去るためにバプテスマをお受けになり、十字架で血を流される必要があったのでしょう。言い換えれば、主は私たちが罪を告白するたびに罪をお赦しくださったなら、なぜ人の肉において、この地上に来られ、バプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになり、十字架の死に導かれた情熱を経験なさり、三日目によみがえられたのでしょうか。彼らは水と御霊の福音を知らなくても、悔い改めの祈りをささげるだけで罪の赦しを受けることができると信じている者の不条理な妄想なのです。しかしながら、聖書には、罪の清めがこうした悔い改めの祈りをささげることや、善行をすることによっては得られるとは記されていないので、そのような教義は聖書の教えとはまったく異なります。

悔い改めの祈りの有効性を提唱するキリスト教徒は、通常、「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」と書かれているヨハネの手紙第一 1:9に厳密に固執します。この一節は、私たちが悔い改めの祈りをささげるときはいつでも、罪を赦されることを、本当に意味しているのでしょうか。いいえ、絶対に違います。ここで主は、罪人は自分の罪深い状態を最初に認めるべきであり、主が水と御霊の福音によってすでにすべての罪を洗い流しておられるので、そのような罪人が信仰によってすべての罪からの救済を受けることができると、私たちに告げておられます。しかしながら、ほとんどのキリスト教徒は、自分の罪を告白するだけで自分の罪が洗い流されると信じているので、それは問題です。しかし、聖書によると、この中風の人だけが、そこにいる非常に多くの宗教的な人々の中で罪の赦しを受けたと記されています。

私たちは、水と御霊の福音についてもう一度深く考えなければなりません。私たちがこうした悔い改めの祈りをささげることによって罪の赦しを受けることができたなら、イエスはこの世に来られることも、バプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになることも、十字架につけられて死なれることもなかったでしょう。こうした悔い改めの祈りをささげることによって、罪の赦しを受けることができるとしたら、なぜ主は死人の中からよみがえられて救い主とならなければならなかったのでしょうか。なぜイエスはバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになり、十字架で血を流され、死人の中からよみがえられなければならなかったのでしょうか。なぜイエスは、そうなさる必要があったのでしょうか。こうした悔い改めの祈りを熱烈にささげるだけで罪の赦しを受けることができるなら、なぜイエスはバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになり、十字架で血を流して死なれる必要があったのでしょう。

ですから、私たちは神の律法を知らなければなりません。神の律法によると、「罪から来る報酬は死です」(ローマ 6:23)とあります。したがって、そもそも罪人が何らかの罪があるなら、死で罪から来る報酬を絶対に支払わなければなりません。それは、すべての罪人が罪のために死ぬように定められていることを意味します。それが神の正しい律法でした。しかし、今日のほとんどのキリスト教徒は、神が定められた律法の霊を知らず、そのために、悔い改めの祈りをささげるだけで罪の赦しを受けることができると信じています。例えば、誰かを刺し殺した人が、「すみません。それが間違っているとは知りませんでした。私を許してください」と言うだけで赦されると考えるのは、間違っています。そのような人は神の正義を無視しており、神のお考えよりも自分自身の考えを高く評価しています。こうした人々は、自分の考えが神のみことばよりも優れていると考えます。そのような人々はますます傲慢になり、高慢の罪に陥ります。そのような人は、最終的には自分自身にとって神になります。

私たち人間は、自分で罪の赦しを得ることはできません。私たちの罪をすべて消し去ったイエス・キリストだけが、これを行うことがおできになります。今日の聖句にも、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために」とあります。人間の肉において、この世に来られ、バプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになって、人類の罪をすべて負われた神の御子だけが、真の信者を罪のない者にする権威がありました。人間の罪は自分で清めることはできません。たとえどんなに努力しても、悔い改めの祈りを熱心にささげても、罪からの救済を受けることはできません。神の御前に、この中風の人のようになっている者だけが、水と御霊の福音を信じることによって「ただ一度で」罪の赦しを受けることができるのです。


けれども多くの神学者は、悔い改めの祈りをささげるたびに 罪の赦しを受けることをむなしく主張する


人の罪は、悔い改めの祈りを主にどんなに熱烈にささげても、消し去られません。それは、聖書が水と御霊の福音によって私たちに罪の赦しの真理を啓示しているからです。人々が主張するように、悔い改めの祈りをささげることによって罪が消し去られたとしたら、この惑星に住んでいるすべての人々は、すでに罪の赦しを受けて、神の子どもになっているでしょう。悔い改めの祈りをささげることによって、自分の罪を清めようと試みなかったキリスト教徒の中には、一人の人間もいません。この惑星には、イエスを救い主として信じると主張する人々が非常に大勢います。私たちの国、韓国では、約1200万人がイエスを信じていると推定されています。韓国の人口は約4800万人で、この人口の約四分の一がイエスを信じています。それは単なる統計的推定ですが、おそらく教会に数年間定期的に出席し、後で断念した1200万人の信者を除いて、他にも非常に多くの人々がいます。この時代に、一度も教会に行ったことのない人の数は、おそらく非常に少ないです。私が言っているのは、ごく少数を除いて、ほとんどの人は、しばらくの間、少なくとも教会に通っていたということです。そして彼らはみな、声を出して一緒に祈り、罪の悔い改めの祈りの中で断食することによって、罪を清めようとしました。彼らはおそらく、罪を清めるためにできることはすべてしたでしょう。

しかしながら、こうした悔い改めの祈りをささげることによって、自分の罪が消されたと主張する人々が、罪の赦しを受けていないことは、明らかです。罪は、悔い改めの祈りに関連するいかなる方法によっても消されません。彼らは、大声で一緒に祈ることによって、絶えず罪の赦しを願い、非常に熱心に、そして熱烈に断食のうちに祈ります。しかし聖書によると、この中風の人だけが罪の赦しを受けたと書かれています。自分の救いのために何もできないことを認める人だけが、罪の赦しを受けることができるのです。自分の罪を消し去るために何もできないと認める人だけが、イエスの義に会い、すべての罪の赦しを受けることができます。「イエスが私をお救いくだされば、救いを受けることができるけれど、私をお救いくださらなければ、地獄に行くだろう」と言う人だけが、イエスがくださった水と御霊の福音を通して、信仰によって罪の赦しを受けることができます。

イエスが水と御霊の福音によって「ただ一度で」人類の罪を消し去られなかったなら、私たちは神の義を信じることによって罪の赦しを受けることができたでしょうか。いいえ、できませんでした。私たちが何をしようとも、これやあれを行うにせよ、イエス・キリストがくださった水と御霊の本物の福音がなければ、信仰によって罪の赦しを受けることは不可能です。宗教心のある人がどんなにこうした悔い改めの祈りをささげ、罪を犯さないように頑張って、忠実に神に仕えたとしても、その人はそうした働きによって本当に罪の赦しを受けることができるでしょうか。神が水と御霊の福音によってすべての罪を消し去られなかったなら、他のどのような信仰によっても罪の赦しを受ける方法はありません。信者のみなさん、そうではありませんか。私たちの救いは、イエス・キリストの正しいみわざにのみ、かかっているのです。

信者のみなさん、みなさんと私は、この世で生活しながら、絶対に罪の赦しを受けなければなりませんが、間違いなくどんな努力によっても罪の赦しを受けることは絶対にできません。神の義を信じること以外に罪の赦しを受ける方法はないのでしょうか。人間の努力によって罪の赦しを受けるには、どうしたらよいでしょうか。以前、聖書を読みながら、次のように思いました。「イエスを熱心に探して、熱烈に悔い改めの祈りをささげて、高潔に生きようとしているから、おそらく罪の赦しを受けることができるのだ。」 要するに、「自分の努力とイエス・キリストへの信仰」がきっと私の罪の赦しを生み出すのだと思いました。しかしながら、イエス・キリストが私の罪をすべて消し去られなかったなら、私がどうしようとも、救いを受けることができないことを知るようになりました。すると、イエス・キリストは水と御霊の福音によって、すでに完全にお救いくださったので、すべての罪からの救済を受けることができることを、後で知るようになりました。

罪からの救いを受けたいと思う人は誰でも、自分の考えに集中したり、自分の努力にあまり興味を持ったりしてはいけません。むしろ、その人はイエスが自分のために救済のみわざをどのように成就なさったかにのみ焦点を合わせなければなりません。人は、水と御霊の真理を理解し、この本物の救済を受けるために、これに焦点を当てて、次のように考えなければなりません。「神は、どのように私をすべての罪からお救いくださったのか。私の救い主は、私のために何をなさったのか。自分の罪を消し去るために何かできることがあったのに、救い主イエス・キリストは私のために何をなさったのか。」 そうして初めて、すべての罪からの救済を受けることができるのです。

聖書には、次のように記されています。「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」(ヨハネ8:32)。ここで、この「真理」とは何を指しているのでしょうか。それは、イエス・キリストに他なりません。したがって、この一節は、「そして、あなたがたはイエス・キリストを知り、イエス・キリストはあなたがたを自由にします」という意味です。私たちはすべての罪からの真の自由を受けるために、イエス・キリストを知らなければなりません。神が本当に私たちをお救いくださったという真理を知らなければ、どんなに努力しても、罪の赦しを受けることはできません。



私たちが霊的な中風の人でなかったら、罪の赦しを受けることができるのか


みなさんは霊的な中風の人でしょうか。そうです。自分の罪を消し去るどんな能力があるというのでしょう。いいえ、みなさんにそのような力はありません。では、罪を告白し、罪に対する悔い改めの祈りを十分にささげることができると思いますか。みなさんは自分が間違ったことに対して、100%悔い改めの祈りをささげるのでしょうか。キリスト教徒の罪人は、いつもヨハネの手紙第一第1章9節から、この一節を引用し、悔い改めの祈りをささげるなら、罪の赦しを受けると主張しますが、これは絶対に無意味です。みなさんは、むしろ次のように告白すべきです。「私は罪の塊です。ですから、罪を犯そうとしなくても、罪を犯さざるを得ません。このように、主が私をお救いくださらなければ、私は地獄に行くしかありません。ですから主よ、どうか私をすべての罪と咎からお救いください。どうか、助けてください。私をすべての罪からお救いください。」 すると主は、罪からの救済を受けるためには、水と御霊の福音を信じなければならない、とおっしゃるでしょう。

一般的にキリスト教徒は、罪のための悔い改めの祈りを忠実にささげていると言いますが、どれほど悔い改めることができるのでしょうか。通常、彼らは平均1日を通して、犯すすべての罪に対して、どのくらいの時間、悔い改めの祈りをささげるべきでしょうか。魚の記憶力は、約3秒であることが知られていますが、人間の記憶力は同じでしょうか。私たち人間も、重要でない限りほとんどのことを忘れます。さらに、人間は自己中心的な存在なので、罪の基準は神のものと同じではありません。ですから、彼らは何かが自分自身にとって有益であるかどうかに興味があり、良いことと有益なことだけを覚えて、すべての悪い有害なことを忘れます。私たちがテレビで時々観る公聴会の間でさえ、おそらく、みなさんは「私は覚えていません」という、あるCEOの回答を見たことがあるでしょう。彼らは、自分たちにとって不利益なものは何でも忘れます。しかし、ある大きな罪が良心において時々彼らを悩ませる時があって、このように、ハエと他のすべての小さな昆虫がクモの巣を逃れますが、クモの巣に捕らわれたトンボのような大きな昆虫のように、彼らはこの世界で生活しながら、罪人になります。しかしながら、人が自分の良心に捕らわれ、記憶にないからという理由で、残りの罪に関しては悔い改めの祈りをささげもしない、こうした悔い改めの祈りをささげるだけで、完全な悔い改めと言えるでしょうか。また一方、人はどうすれば記憶にもない罪を絞り出して、悔い改めの祈りをささげることができるでしょうか。

キリスト教徒の罪人は、神の御前に毎日自分の罪に対する悔い改めの祈りをささげると言いますが、悔い改めの祈りのうちにどのような罪および、どれほど多くのこうした罪を本当に解決できるのでしょうか。彼らは自分で判断し、罪と咎のほとんどを許容範囲だと見なし、良心を悩ませるほどの、もっと深刻な罪に対して悔い改めの祈りをささげます。しかし、人間が犯す最も小さな罪でさえ、神の御前ではすべて罪です。私たちの主は、次のようにおっしゃいました。「まことに、あなたに告げます。あなたは最後の一コドラントを支払うまでは、そこから出ては来られません」(マタイ 5:26)。非常に些細な罪が罪ではないと考えるのは、重大な間違いです。罪の赦しを受けるという問題において、もっと陰険な罪の赦しを受けるだけでよく、ごく小さな罪の赦しを受ける必要がないということではありません。このように悔い改めの祈りをすることによって、罪の赦しを受けると言うことは、全くのナンセンスです。

たとえ非常に熱烈に努力しても、悔い改めの祈りをどれだけ適切にできるのでしょうか。人々は時に犯すもっと陰険な罪しか覚えておらず、三日または四日が経過する前に些細な罪をすべて忘れます。いや、本当は一日以内ではありませんか。人々は朝に犯した過ちを夜には忘れ、夕方に犯した過ちを翌日にはすべて忘れます。私たち人間の記憶は、一日、二日ですべてを忘れてしまうようなものです。ですから、正直に言うと、この地球上のすべての人は罪の塊であり、厚い雲と同じくらいの罪のために、すべての人間は地獄に行かざるを得ないのは、このためです。

しかしながら、主は、次のようにおっしゃっています。「そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい」(使徒 3:19)。大小にかかわらず、この真の福音によって私たちの罪を「ただ一度で」消し去られたと、主はおっしゃっています。主がバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになることによって、私たちの生涯に犯す罪を「ただ一度で」すべて負われ、十字架で血を流され、死人の中からよみがえられた、という事実を信じることによってのみ、罪の赦しを受けることができるからです。

しかしながら、まず霊的な中風の人になることなしに、罪の赦しについて、何かできることを考える人が大勢います。韓国には、次のような讃美歌があります。「主なる神は私たちがすべてのことができると言われる。」 主は、私たちが自分で罪の赦しを得ることを除いて、すべてのことができるとおっしゃいました。このように、使徒パウロも次のように述べました。「私は、私を強くしてくださる方(キリスト)によって、どんなことでもできるのです」(ピリピ 4:13)。しかしながら、主は、私たちに自分で自分の罪を清める力を、お与えになりませんでした。私たちが犯した罪を自分で清めることができれば、私たちは神となり、神や救い主を必要としなかったでしょう。そうしたら、神を礼拝する必要はなかったでしょう。イエスを信じる必要はなかったでしょう。神の支配下で生きる必要はなかったでしょう。それで、私たちに何が起こったでしょう。私たちは神から離れていたことでしょう。

しかしながら、神は私たちと結びつき、ともに生きることを望んでおられます。私たちに祝福をお与えになることを望んでおられます。私たちに無限の愛を授けることを望んでおられます。私たちに神の懐のうちに生きることを望んでおられます。ですから、神は私たち自身で罪を消し去る力を、私たちにお与えになりませんでした。ロバート・シュラーと呼ばれる、あるキリスト教指導者は、私たちには何でもできると言って、意味のない多くの本を書きました。しかし、私たちは人間として自分の罪を自分で清める力があれば、神を必要としなかったでしょう。イエスはこの世に来る必要はなかったでしょう。バプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになる必要はなかったでしょう。さらに、十字架で死なれる必要はなかったでしょう。要するに、私たちはイエス・キリストがこの世で成し遂げられたみわざを必要とせず、イエスはこの世で苦しまれる必要もなかったでしょう。

こうした悔い改めの祈りをささげることによって、自分の罪を自分で清めることができると考えるのは、サタンの考えです。悪魔は、アダムとエバに善悪の知識の木から実を食べさせようとしませんでしたか。悪魔は女に言いました。「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたは神のようになります。どうぞ、それを食べなさい。あなたが神のようにならないように、それを食べないようにと言われたのですよ。神は、あなたをその力の下に留めておきたかっただけなのです。食べるだけで目が輝き、神のようになります。だから、急いでそれを食べなさい。」 エバは、自分が神のようになり、自分ですべてのことを行うことができるだろうという、サタンの欺きに陥り、最終的に彼女は善悪の知識の木から実を食べてしまいました。

エバは、全人類の母です。エバは、私たちの母です。アダムは来たるべき人の代表であり、エバは人類としての私たちの代表でした。エバは善悪の知識の実を食べ、それをアダムにも与えました。エバは、善悪の知識の実を食べたなら、神のようになるだろう、と話されたサタンの言葉に騙されました。サタンは人間に働くことを要求し、こう言います。「あなたならできる。ただやってみるといい。」 そして、サタンは人間を神に敵対させることだけです。サタンは今でもそのように語っています。絶えず私たちを騙します。「あなたならできる。できないことは何もない。」

中風に苦しんでいる人を見たことがあるか


人が中風に苦しむとき、その人は至る所で自分を和らげることが一般的です。誰がそのように床一面に排泄物を放出したいのでしょうか。そのような人でもトイレに行くべきであり、そこで排泄物を放出することを知っています。しかし、そのような人は自分の考えで制御を正しく行うべきだと知っていますが、自分の体をコントロールすることはできません。その人は自分の意志に従って体を動かしたり制御したりすることができず、故にその人の意図に反してあらゆる場所に排泄物を放出します。

信者のみなさん、霊的に言うと、自分のために何もできない中風の人です。しかし、神は、何もできなかった私たちをお救いくださいました。私たちは、自分の努力によって救われていません。私たちは、こうした霊的な中風の人です。したがって、私たちは自分の罪を自分で消し去ることはできません。神が私たちを許してくださるなら、私たちは他のすべてのことを行う権威を持つでしょうが、私たちには罪を消し去る権威がありません。神がこの世に来られ、水と御霊の福音によってすべての罪を一度で消し去られたのは、このためです。

現在、この世界には霊的な中風の人が非常に大勢います。明らかに霊的な中風の人であるという、事実に気づいていないそれほど大勢の人に、あかしすることに興味をそそられます。彼らは悪魔に欺かれ、悔い改めの祈りをささげることによって自分で罪を清めることができると考えます。全身が中風になっていると、彼らは実際に何ができるでしょうか。人は少しでも動く力を得ると、自分では何もできなくても自分で何かをすることができると考えて神の義に逆らい、結局は滅ぼされます。

愛する聖徒のみなさん、私たちはみな、神の御前には霊的に中風でした。神は、そのような私たちをすべての罪からお救いくださいました。私たちは、自分でどんな罪も消し去ることができない罪人でした。しかし、主は水と御霊の福音によって、ただ一度ですべての罪を消されました。

信者のみなさん、みなさんは自分の罪の赦しを受けるために何かできると思いますか。みなさんができると思ったとしても、みなさんは実際には罪の一つの1%さえも消し去ることができませんでした。私は、自分の罪を根絶やしにする努力に根絶するための努力で、本当に非常に多くの涙を流しました。私はできる限りのことを何でもして、自分の罪を消し去ろうと一生懸命努力しました。私は人里離れた場所に行って、罪を消し去るために悔い改めの祈りをささげました。私は時々、何も食べずに、告白の祈り、および悔い改めの祈りを数日間ささげました。有名な韓国の坊さんである、故ソンチョル・リーが壁の方に向いて、この瞑想を10年間したのだと、人々は言います。私はそれを10年間したわけではありませんが、よく彼のように四日から五日間、立て続けに祈りました。数日間、「神よ、お赦しください」と言って、悔い改めの祈りをささげました。「それで十分だ。あなたを赦そう」と、神がおっしゃったのだと感じました。私が一日か二日断食して、多くの祈りと涙をたくさん流し、数日間外出することもせず、心の中に神の声が聞こえてくるまで、悔い改めの祈りをささげただけでした。そのように祈ったら、非常にお腹が空きました。しかしながら、罪の赦しを受けたのだと神がおっしゃらなければ、食べられない気がしました。ですから、私は神のお許しを聞いて食べられるように、一晩中祈りました。

悪魔はかつて私にいたずらをしました。三日間断食し、悔い改めの祈りをささげている、ある日、私は心の中で、「わかった。わたしはあなたの罪をすべて消し去った」というのを聞きました。それは神の声ではなく、私に自信を与えようとする悪魔の声でした。そして、私は許されたと思ったので、祈ることをやめました。しかし、その後に私は罪を犯さなかったでしょうか。そうです。確かに私はその後に罪を犯しました。そして、私は神にもっと悔い改めの祈りをささげるために、再び断食を始めました。しかし、私は自分自身を止めどなく飢えさせ続けることができず、悪魔の声を聞くことができませんでしたが、私は自分自身を正当化したとき、「私はこれほど多くのことをしたから、神はおそらく私を見逃してくださるだろう。私のような人間でさえ、五日間飢えていながら、これほどに許しのために泣いて懇願してきたから、お許しくださるだろう。では、そのような慈悲深い神が私をお許しにならないのだろうか。」 神の声が聞こえず、爽やかな気分を感じられなかったとき、自分で十分に良いと思い、出てきて顔を洗い、食べ物を食べました。

この一連の行為を何度も繰り返した後、私は非常に怯え、自分の罪にうんざりしました。罪を犯したときはいつでも、三日間、四日間、五日間、飢えに苦しまなければならなかったのに、どうして罪を犯せるでしょう。私は、罪を排泄物よりも汚いものだと考え、罪を犯さないように頑張りました。「どんな罪も絶対に犯してはいけない。前回、そのような罪を犯した後、五日間断食しなければならなかった」と考えたので、私はできる限り罪を避け、女性を見ることさえしませんでした。私が不注意で、淫らな目で女性を見て、姦淫の罪を犯したなら、数日間断食しなければならなかったので、私の目を鼻に向けて出歩きました。しかし、誰かがみなさんにそれを見ないように言われたとき、みなさんは何かをもっと見たいと思うのは当然です。また、女性を見ないようにしようとすると、もっと女性を見たいと思っていました。私は罪を犯そうとはしませんでしたが、このように何度も何度も罪を犯すようになりました。それで、私はさらに数日間祈って断食しなければなりませんでした。

しかし、私は心の中で姦淫を犯した淫らな目で女性を見ていたことを、誰に話せるでしょうか。そのような会話ができるのは、神以外にいませんでした。神に対して犯した罪だったので、さらに数日間、私はまた断食し、「主よ、私を赦してください。また罪を犯しました」と言って、神に悔い改めの祈りをささげました。そして、楽に座布団に座るべきではないと思っていたので、何も敷いていない床に座り、このように祈りました。私は、故意にズボンの裾をひざまで完全に引き上げ、冬はあまり服を着ていませんでした。服をたくさん着ていると、誠意が欠けているかのように見え、あまり服を着ていないと、神が私に憐れみを示されるように見えたので、こうなりました。当時、ビデオカメラで自分自身を録画できたとしたら、私は本当に惨めに見えたことでしょう。

しかしながら、信者のみなさん、みなさんと私は、私がしたのと同じように神の心を考えてはなりません。人文主義の観点からは、こうした悔い改めの祈りで満たされた霊的生活を10年間も続けてきたので、神は私のすべての罪を赦してくださったように見えますが、心にはまだ罪がありました。10年の間に壁を見ながら瞑想をした後に死にましたが、地獄の火に入ると告白した僧侶ソンチョル・リーのように、私はイエスを信じていたにもかかわらず、心に罪が残っていたので、私が学んだキリスト教の教義に厳密に従って、10年もの間、悔い改めの祈りをささげてきました。悔い改めの祈りを非常に熱心にささげましたが、ある罪の赦しを受けたという声がときどき聞こえたのだけれども、そうでない声もありました。したがって、私は自分で正当化し、悔い改めの祈りをささげるのをやめて、「誰かが私に対して罪を犯し、これだけ赦しを求めたなら、その人を赦すだろう。それなら、憐み深い神は私をお赦しにならないだろうか」と言って、平凡な生活に戻りました。しかしながら、神を礼拝するために頭を垂れるたびに、その罪が再び思い浮かんだのです。

エレミヤ書 第17章1節には、次のように記されています。

「ユダの罪は

鉄の筆と金剛石のとがりでしるされ、

彼らの心の板と

彼らの祭壇の角に刻まれている。」 つまり、それぞれの罪は必ずみなさんの心の板と裁きの書に記録されます。したがって、私たちが神に祈ろうとするときはいつでも、その罪が頭に浮かびます。罪は本当に人々を悩ませます。

それで、私はできるだけ頻繁に祈りの中で断食していました。また、主の日を一度も逃さずに守るという要点にまで、心を尽くして霊的生活を送っていました。また、福音を多くの人に宣べ伝え、近所から隣村、つまり、プサン広域市のすべての町に至るまで、福音を宣べ伝えるためにどこにでも行きました。私は、若者、年長者、子供、チンピラ、そしてその他すべての人を私の教会に導きました。しかし、そのような霊的生活を10年間続けた後、私の心に残った唯一のものは、罪でした。私はそれをすべてやりましたが、心の罪は消えなかったので、もうやることは何もありませんでした。私の霊的生活は、どのようにそれを取り除こうとしても罪がまだ残っていたので、熱意を失い、疲れ果てました。私はこれ以上何もできなかったので、「神よ、好きなようになさってください。あなたが罪を消し去られたなら、私の罪は消し去られるでしょう。あなたが罪を消し去られないなら、私の罪は消し去られないでしょう」と自分に言い聞かせて、私は努力を完全に諦めました。

しかし、当時、私は一つの避難所にいました。神が私を選ばれたのは、このキリスト教の教義だったのです。私は、イエスを信じて悔い改めの祈りをささげるという自分自身を見たとき、「私は欠点があって、心に罪があったけど、神は私を選ばれ、愛してくださったのだ」という信仰を抱くようになりました。これはカルバン主義の予定説の教義です。それは、神に選ばれた人は救われ、選ばれなかった人は地獄に行くということです。それが、著名な保守主義の神学者ジョン・カルバンが教えたことです。

このように信じることは、人間の立場から神への信仰を持っていることです。このような信仰を持っている人は、自分の意志で神をしっかり手放さず、「神よ、信じています。私はあなたを断固として手放さない」と告白します。しかし、彼らは自分たちの力を失うと、彼らは最終的に捨てます。私は新しく生まれる前も、そのような信仰を持っていました。「私はイエスを信じていて、神が私を選んでくださったのだと信じているから、私に欠点と罪があるけれど、天国に行くのだ」と思い、罪を犯し、こうした悔い改めの祈りをささげ、神を手放さず、再び罪を犯し、より多くの悔い改めの祈りをささげ、再び神を手放さないというプロセスを絶えず繰り返しました。当時、私はこのように考え、信じていました。次のように記されています。「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選ばれた」(エペソ 1:4)。これは、父なる神が私たちを世界の創造の前からイエス・キリストのうちに選ばれたことを意味します。以前、私は自分の罪がどのようにイエス・キリストのうちに消されたかを知らなかったとき、私は「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選ばれた」の「キリストのうちに」というものをみことばから除外しました。それでは、このみことばをどのように正しく解釈すればいいかを見てみましょう。



エペソ人への手紙第1章3-10節からの内容


「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。このキリストにあって」(エペソ 1:3-10)。

エペソ人への手紙の初めに、使徒パウロは、次のように言いました。「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。」 それは「神を賛美する」という意味です。そして、「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました」とは、神がイエス・キリストにおいてすべての霊的祝福を私たちに与えられたことを意味します。私たちは、この世の意味をよく理解しなければなりません。「神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選ばれた」と書いてある、この節の意味をよく理解しなければなりません。「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選ばれた」と記されており、この節の「キリストのうちに」を除外した場合、「神は私たちを世界の基の置かれる前から選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました」となります。人々がこのように「キリストのうちに」をなしに、みことばを信じ始めると、混乱が生じます。例えば、二十人が集まったとしましょう。神がこの人を選んだが、あの人を選ばなかった、および神があの人よりもこの人をお選びになったと解釈することが可能になります。これは、神がこの惑星に住んでいる一部の人々を選ばれ、勝手に他の人々を選ばれなかったことになります。そうなれば、神は不公平な神になるでしょう。それでは、どうして神は、ご自分の子どもとして、非常に多くの人々の中から何人かを選ばれ、他の人々を地獄に送るために選んだ、偏見と心の狭い方として見なされないのでしょうか。とにかく、神に選ばれず、地獄に行く定めにある人がいたら、彼らは神をののしるでしょう。彼らは神をののしるだけではないでしょうか。あらゆる罵声を神に浴びせるでしょう。「神だと?何て言った?お前が神だと?」と言うでしょう。そして、彼らがこの世界で学んできたあらゆる嫌がらせを言います。彼らは、とにかく地獄に行く定めにあるので、神を心ゆくまで呪い、それから地獄に行くでしょう。けれども、聖なる神は、私たち卑しい人間からのそのような嫌がらせを聞くに値するのでしょうか。いいえ、値しません。神は、ご自分の被造物から冒瀆することを聞かれる神ではありません。

神はこのようにして、私たちを世界の基の置かれる前から、「キリストのうちに」選ばれたのです。神はすべての人が罪を犯すことをご存じだったので、イエス・キリストをこの世に遣わされ、こうしたすべての罪を神の上に引き渡すことによって、世のすべての罪の赦しをお与えになりました。神はすべての人間にイエス・キリストによる水と御霊の福音を通して罪の赦しを受けさせてくださったのです。言い換えれば、神はすべての人にキリストのうちに罪の赦しを受けるという祝福をお与えになりました。イエスはこの世のすべての罪を消し去られたので、神は、誰もがすべての罪から救われたと信じることによって、天の御国に入ることができるようになさいました。神は、誰もがイエスを心から信じることによって天の御国に入り、天にあるすべての霊的祝福を受けることができるようになさいました。したがって、世界の基の置かれる前から選ばれたからではなく、イエス・キリストを信じておらず、イエス・キリストがなさった義のみわざを信じていないので、人は地獄に行きます。

誰もが、神の御前に霊的な中風の人です。誰もが、自分自身の救いに関して何もできないような中風の人なのです。主は、中風の人にとって何もできなかった、こうした彼らに、「子よ。あなたの罪は赦されました。」 そして、「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」とおっしゃいます。寝床にいて、まったく動けなかった、こうした中風の人は、起き上がって、寝床をたたんで、歩きました。私たちの主は、何もできなかった、その中風の人を癒されました。私たちの主は、罪を消し去ることができなかった中風の人の罪を消し去られたのです。そして、主はおっしゃいました。「子よ。あなたの罪は赦されました。」

このように、私たちの主は、私たちのすべての罪を消し去られました。イエスがどのようにそうした罪をすべて消し去られたのかをご存じですか。みなさんは、確かにこのことを知っていなければなりません。そうして初めて、みなさんは罪の赦しを受け、救済を受け、天国に行くことができるのです。神は、私たちにこの真理を理解させるお方です。そして、この教会はまさにこの真理を伝える場所です。罪の赦しを受けた者と出会ったなら、神がどのようにしてすべての罪を消し去られたのかを、誰もが明確に聞くことができるのです。

自分自身を霊的な中風の人であると見なさない多くのキリスト教徒は、悔い改めの祈りを断固として手放さず、神が自分たちを世界の基の置かれる前からお選びになったと信じています。彼らは、神がすでに自分たちを選ばれたので、天の御国に行くことができると言っており、神は仏教を信じるような人々を選ばなかったので、他のすべての人々は地獄に行くと言います。誰がこのことを言ったのか、ご存じですか。いわゆる有名な神学者たちが、これを言っているのです。神学者の言葉を主張するように、聖書を変更しているのでしょうか。ジョン・カルバンの言葉は、神のみことばと同じなのでしょうか。あるいは、私たちが持っている聖書は、神のみことばでしょうか。聖書は、紛れもなく神のみことばです。聖書には何が記録されているのでしょうか。聖書によると、「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選ばれた」と書かれています。そして聖書によると、さらに次のように記されています。「こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです」(ローマ 5:18)。

私たちはみな、本来は神の御前に罪人でした。私たちはアダムの子孫なので、母の子宮から多くの罪を持って生まれました。罪の概念について、例を挙げて説明します。私たちの体がこのカップだとしましょう。このカップには水が入っているので、心の中に罪を持って生まれました。私たちは、殺人、悪い考え、姦淫、ねたみ、議論、盗み、憎しみ、愚かさを犯すという、汚れた心を持って生まれました。私たちは、そうした罪をもって生まれたので、そのような罪を犯すのでしょうか、犯さないのでしょうか。私たちは、確かにそうした罪を犯します。ですが、こうした罪を犯さないために、注意深く歩き回ります。とても慎重に話し、心の罪がこぼれないように常に注意しています。しかしながら、私たち自身が罪の塊であるのに、私たちが慎重だからといって、こうした罪がこぼれないのでしょうか。このカップを乱暴に振ると、このカップの水がこぼれます。このように、私たち人間はそのような存在なので、罪がこぼれるしかありません。エロ動画を見ないようにしていても、見ないようにしているだけなのに、心の奥に姦淫したいという欲望に満ちています。

このように、神は、私たちが罪の塊であることを知らせるために、私たちに十戒をお与えになりました。神は私たちに、「殺してはならない。姦淫をしてはならない。偽りの証言をしてはならない。貪ってはならない」と命じられました。私たちは、神の御前に殺人を犯し、貪欲になり、偽りの証言をし、両親に背き、偶像を拝む人々なので、神は私たちに根本的にしないようにおっしゃったことをする存在であることを教えてくださる律法をくださいました。私たちが姦淫を犯さなかったなら、神は私たちに姦淫してはならないと命じる必要はなかったでしょう。私たちは生まれつき姦淫を犯すので、私たちが何者であるかをお示しになるために、神は私たちに姦淫をしてはならないとおっしゃいました。神が、私たちに姦淫をしてはならないとおっしゃったので、「私は姦淫を犯す罪人だ」ということを知りました。神が私たちに殺してはならないとお命じになったので、殺人を犯すことは間違っていることを知るようになります。そして、誰かを憎むことや、誰かの死を願うこと自体が殺人であることも知るようになります。



神は「盗んではならない」とおっしゃったが、私たちは盗むのがどれだけ上手かを知らなければならない


盗みは、他人の所有物を盗むだけではありません。小さなものや取るに足らないものを人並みに欲しがったり、時には盗んだりしませんか。そのようなことはすべて、神のみことばに照らすと、盗みです。ずっと以前、あまり食べ物がなかったとき、人々はこうした罪を多く犯していました。人間は罪を犯さないように一生懸命努力しながら、あちこちで罪を犯します。それから、彼らが慎重さに欠けているとき、莫大な罪を犯します。ですから、神は私たちを「悪を行なう者どもの子孫」(イザヤ 1:4)と呼ばれます。私たちは確かに絶望的な罪人であり、罪を自分で消し去る力がないので、神は私たちが霊的な中風の人であるとおっしゃいました。盗むことは、私たちの盗難行為を意味するだけではありません。どんなに小さくても、他人の所有物を欲することも、盗むことなのです。何かが私たちの胃の中に入るとき、それは立派で素晴らしいものです。したがって、聖書によると、私たちが罪人であると書かれています。

最近の神学者たちは、「イエス・キリストのうちに」という、みことばを「神は私たちを選ばれた」という、みことばから切り離しています。彼らは、神のみことばを肉の思いで解釈し、それに従って信じています。信者のみなさん、「神は私たちをキリスト・イエスのうちに選ばれた」と信じなければなりません。私たちが感謝をささげることができるように、神はイエス・キリストのうちに私たちを選ばれました。神の栄光、愛、恵みが、「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、…恵みの栄光が、ほめたたえられるためです」と書かれているとおりに私たちに啓示されました。それは、神が私たちを世界の基の置かれる前から定められたということであり、イエス・キリストの義を信じる私たちに罪の赦しを与えてくださることを意味します。それは、神の義を信じる私たちを、神がキリスト・イエスのうちにご自分の子どもとなさるように決められたことを意味します。私たちに対する神のみこころは一つあって、それが私たちを神の子どもにするのです。

信者のみなさん、神の御前に私たちはどのような人でしょう。私たちは、神の御前に霊的な中風の人です。みなさんは、二度と罪を犯さないことを確信しているのでしょうか。罪を犯さないと確信している人は、神々です。禁欲生活を送る宗教的な人々は、世から解放されたときに神々となり、自らの努力で肉の欲のことを言います。しかし、一生懸命頑張ったとしたら、神々になれるのでしょうか。ある坊さんの場合、ごくわずかしか食べずに修行をしていました。心の底から常に生じる、こうした淫らな欲を克服するために、ほとんど食べず、自分と戦いました。多くの人々は、こうした欲望を克服することによって天国に入ろうと一生懸命に試みた後、罪が残ったまま死にました。このような禁欲生活を送ることによって、罪が消し去られるのでしょうか。淫らな欲望が人の心に生じて、こうした淫らな欲望が消えると、憎しみが心の中に生じて、貪欲も生じて、悪い考えも生じます。罪はこのように絶えず生じるのです。

天国に入るために罪を避けることは、自然現象を否定するようなものです。柿の木が柿をつけたくないと言っても、毎年、柿をつけます。宇宙の誕生以来ずっと、柿の木は柿を実らせ、梨の木は梨を実らせました。人間が罪の木であるなら、罪の実を結ぶしかありません。どんなに罪の実を結びたくないとしても、それは無益です。他のことは努力で成し遂げられるかもしれませんが、罪を消し去ることは一生懸命に努力しても達成することはできません。

それでも罪人であるなら、「私は自分の罪をまったく清められません。私は罪の塊です」と、ただ告白し、自分で罪を清めようとすることを諦める必要があります。そして、みなさんは「私をお救いください。自分の努力で自分を救おうとしたことをやめました。神よ、私をお救いください」と頼んで、救い主を求めなければなりません。イエス・キリストがみなさんのためになさったみわざのおかげで、みなさんは自分の罪の赦しを自由に受けることができるのです。そして、みなさんをすべての罪から救われた救い主を求めるとき、みなさんは神の子どもとなり、天の御国に行くのです。10年もの間、壁に向かって瞑想する必要はありません。ほんの少しの食べ物しか食べられない、というわけではありません。「キリストのうちに選ばれた」私たちは、全く努力なしで、信仰だけで罪の赦しを受けるようになるのです。

一生懸命頑張っても義人になることはできません。ほとんどの宗教は、人々が自ら変革するために一生懸命努力するように教えていますが、このように一生懸命に努力しても救いを受けることはできません。みなさんがまだ罪人であるなら、霊的な中風の人なので、多くの罪がある人で、自分でそうした罪を消し去ることができないことを知らなければなりません。自分だけで救いに達することはできませんが、真の神だけがみなさんをすべての罪から救うことができ、イエス・キリストの義を通して救いを受けることを認識しなければなりません。

しかしながら、この世には愚かなキリスト教徒が非常に大勢いるのは、じれったいことです。今でも、教会の建物の明かりを消して、「主よ、主よ。私をお赦しください」と泣き叫びます。彼らは悔い改めの祈りをするとき、より大きな声で祈りをするなら、隣の人が自分の言っていることを理解できないように、奇妙な音でボソボソと言います。彼らは、そうした悔い改めの祈りをささげながら、何について祈っているか他の人に聞こえないように、そのようにつぶやきます。人々が異言で話そうとする理由をご存じですか。人間の心は似ていて、誰かの口を見れば、他の人が言っていることを理解できるので、人々は奇妙な発音で「シャラララ、シャラララ」とつぶやきます。したがって、彼らは異言で話すときに言っていることを、他の人が理解できないように、そうすることを願うのです。さらに、悪魔たちは彼らの感情に働きかけ、こう言います。「その通りだ。それが異言で話すということだ。」 そして、彼らは舌を丸くして、理解することもできない奇妙な音を出し、誰よりも上手に異言で話すことができることを証明しようとします。すると、周りの人たちは驚いて、こう言いました。「うわぁ、あの人は異言で話すという賜物を受けているのだ。」 彼らは、サタンが自分たちをこのように地獄に行かせるために欺いていることを知らずに、こういうことをするのです。彼らは心に罪がありますが、ある種の熱い感情または感覚が自分の体に伝わると聖霊のみわざであると考えるので、「シャラ、シャラ、シャラ」と口に出します。彼らは生涯を通じてそのように一生懸命努力し、結局は地獄に行ってしまうのです。

私がほんとうに新しく生まれる前の10年間、間違って信じていたときも、私の心はとても熱くなりました。教会に行く度に、心はいつも温かさで満たされていました。私は幻を見て、同じように異言でも話しました。しかし、心にまだ罪がありました。水と御霊の福音によって新しく生まれているという罪のない状態ではなかったので、私の信仰は、よく自分の感情に従って上下していました。人がどれほど熱心に教会の集会に出席しようと、その人がどれほど頻繁に熱い感覚を経験していようと、キリストによる救済を受けなければ、悪魔の奴隷として生き、地獄に行くしかありません。

マタイの福音書第7章で、主は何とおっしゃったでしょう。主は、次のようにおっしゃいました。「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け』」(マタイ7:21-23)。



中風の人だけが罪の赦しを受ける


健康な人、神の前に神の律法をよく守ろうとする人は、罪の赦しを受けることができません。しかし、神の御前で罪を犯さざるを得ない弱者であることを認め、何もできないことを知っている人は、水と御霊の福音を信じて罪の赦しを受けます。人間が神から受ける罪の赦しは、非常に単純です。「神よ、私には何もできません。私自身、悔い改めの祈りをうまくささげることすらできず、私にできることは何もありません」と、私たちが言うなら、主は次のようにおっしゃるでしょう。「わたしは、あなたのような人を救うために来ました。わたしは正しい人を招くためではなく、心の貧しい罪人を招くために来たのです。わたしが人間の肉をまとって、この世に来て、わたしがバプテスマのヨハネから受けたバプテスマによって、わたし自身に世のすべての罪を移したのは、そのためであり、あなたの罪はわたしに移された世の罪の中に含まれているのです。わたしはすでにあなたの罪の代価を完全に十字架で支払いました。あなたのすべての罪を消し去ったのです。」 それから、私たちはこれを心の中に受け入れ、信じ、すべての罪からの救済を受けます。何もできない中風の人であることに気づいた人だけが、罪の赦しを受けることができるのです。

みなさんは、中風の人ですか、そうではありませんか。中風の人です。それは本当です。どれほど上手に歌えるか、どれほど見栄えが良いかに関係なく、みなさんは中風の人です。私たち自身は罪を消し去ることができなかったので、私たちはみな霊的な中風の人でした。

今日の聖句をもう一度見て、この説教を終えます。マルコの福音書第2章3節から5節までの今日の聖句を読みましょう。「そのとき、ひとりの中風の人が四人の人にかつがれて、みもとに連れて来られた。群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、『子よ。あなたの罪は赦されました。』と言われた」(マルコ 2:3-5)。

神であられるイエスは、人々を集めて、天の御国に行く道について語られました。当時、四人の人がひとりの中風の人をかついで来て、屋根をはがし、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろしました。そこには非常に大勢の人がいたので、突入しなかったら、中風の人は癒されることも、罪の赦しを受けることもなかったでしょう。しかしながら、非常に大勢の人がいて、誰も動くことさえできなかったという状況で諦める代わりに、四人の人が屋根をはがし、イエスのみことばを聞くことを切に願った、この中風の人をつり降ろしました。

中風の人の寝床は、どのくらい大きかったと思いますか。それは少なくとも医者が軍隊で使用する折り畳み式ベッドと同じ大きさであったに違いありません。しかしながら、中風の人は、自分の恐ろしい病気を癒されたいと願っていたので、四人の人は別の人の家の屋根をはがしました。イエスは、この必死の真剣な信仰をご覧になり、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました」とおっしゃいました。これが罪の赦しを受ける秘訣です。

罪の本物の赦しを受けることによって、救済を受けるためには、まず神が私たちのために何をなさったかを知らなければなりません。自分の努力を諦めて、聖書を通して、主がどのようにみなさんを救われ、すべての罪を消し去られたかを学ばなければなりません。みなさんは、旧約聖書と新約聖書を調べて、神がみなさんに与えたいと望んでおられる神のみことばを理解しなければなりません。神がみなさんのためにしてくださったみわざを知るようになると、主がこの中風の人を、この屋根を通してここから降りて来るのをご覧になって、「子よ。あなたの罪は赦されました」と中風の人におっしゃったのと同じように、みなさんも罪の赦しを受けるでしょう。神がどのようにみなさんをお救いくださったかを知ると、つまりイエス・キリストがどのように人の肉となって、この世に来られ、みなさんと私をお救いくださるために、世のすべての罪を消し去られたのかを知るようになると、みなさんは罪の赦しを受けるでしょう。

神のみことばを注意深く調べ、神が旧約聖書で罪をどのように消し去られ、新約聖書でこのみことばをどのように成就されたのかを確認しなければなりません。そうして初めて、罪の赦しを受けることができるのです。神が中風の人に「子よ。あなたの罪は赦されました」とおっしゃったように、みなさんは罪の赦しを受けることができます。旧約聖書の時代の人々が罪の赦しを受けた方法と、私たち新約聖書の時代の人々が罪の赦しを受けることができる方法を確認する必要があります。

イエスは、次のようにおっしゃいました。「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」(ヨハネ 8:32)。このみことばの意味を理解しなければなりません。長老、牧師、執事がどんなに偉大であっても、このみことばを知らなければ、人は罪の赦しを受けることができません。それは、罪の赦しが誰かの社会的地位に基づいていないからです。したがって、みなさんがまだ罪人であるなら、みなさんは努力をあきらめて、主がどのようにみなさんをお救いくださったかを確認しなければなりません。イエスが「子よ。あなたの罪は赦されました」とおっしゃったとき、中風の人はすべての罪の赦しを受け、起き上がって、すぐに床を取り上げたように、みなさんは自分の罪の病気を治すことができます。

主は、中風の人に対して、「子よ。あなたの罪は赦されました」とおっしゃいました。その時、律法学者たちとパリサイ人たちは、イエスのそばに座っていたに違いありません。それから彼らは、これを聞いてすぐにイエスに「なんて傲慢な愚か者だ。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう」と言って、非常に怒りました。

イエス・キリストは神であられます。イエスは、私たちをお救いくださるために人の肉となって来られましたが、もともと神であられます。私たちをお救いくださるために人間だったのです。私たちの救い主であり、私たちを造られた創造主であられます。この神は人間の肉をまとって、私たちをお救いくださるためにこの世に来られました。こうして、イエスが「子よ。あなたの罪は赦されました」と言うのは、ごく自然なことでした。罪を赦す権威があったから自然だったのです。しかし、律法学者とパリサイ人はこれを聞いて、イエスが神の御子であると認めなかったので、イエスは神に対して「冒瀆」であり、「傲慢」であると思いました。イエスは、このことをご存じであり、「どちらがやさしいか。しかしながら、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。わたしは、身体の病気を治すためではなく、あなたの魂の罪を癒すために、ここの来たのです。そして、わたしは、この魂を癒しました。あなたのすべての罪を消し去るようにしたのです。」 この全宇宙で、イエスが、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」(ヨハネ 14:6)と語れる唯一のお方です。したがって、主が「子よ。あなたの罪は赦されました」とおっしゃるのは、当然です。イエス・キリストが「子よ。あなたの罪は赦されました」とおっしゃる資格を持つ唯一のお方だからです。イエスだけが私たちの罪を消し去ることがおできになります。

私たちの主は、人々が犯すすべての罪を消し去ってくださいました。主だけが人々の罪を消し去ることができます。信者のみなさん、主が救い主であられ、すべての罪を消し去られた主であられることを私たち全員に知らせるために、この世に来られました。そして、主は確かに私たちのすべての罪を消し去られたのです。この地上には、罪が消されていない人はいません。アドルフ・ヒトラーは罪があったのでしょうか、なかったのでしょうか。いいえ、罪がありませんでした。彼は、ホロコーストで600万人のユダヤ人を殺害しました。しかしながら、ヒトラーは神が自分をどのようにお救いくださったかを知ることに興味がなく、聖書を開いてそれを確認することさえしなかったので、地獄に行きました。神が一部の選ばれた人々の罪を消し去られ、他の人の罪を消し去らなかったということではありません。神は、すべての人間のすべての罪を消し去られました。ですから、信仰によって罪の赦しを受けている私たちは、この真の福音を宣べ伝える必要があります。

私たちの主は、律法学者とパリサイ人にお尋ねになりました。「中風の人に、『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。」 どちらがやさしいと思いますか。人の罪を赦すよりも、人の病気を治す方が簡単でしょう。イエスを知り、イエスに会う人はだれでも、罪の赦しを受けます。しかしながら、罪の赦しを受けることは、自分が霊的な中風の人であると認めず、イエスに会おうとしない人にとって、困難です。

イエスは中風の人の罪を赦され、肉体的な病気も治されました。この中風の人はどれほど必死に健康になりたかったのでしょう。病気になったり、身体が不自由になったりすることほど、不幸なことはありません。しかしながら、魂の病気は身体障害よりも不幸です。罪に投獄された魂が、罪の赦しを受けたいと思っていることをご存じですか。身体を気にする代わりに、魂を大切にしてほしいのです。みなさんの魂は、まず神から罪の赦しを受けなければならず、次にこの世界で暮らしている間、みなさんは物理的に神から祝福を受けなければなりません。神から祝福を受ける順番については、まず霊的な祝福を受け、その後に物理的な祝福を受けなければなりません。

けれども、残念なことに非常に大勢のキリスト教徒は、肉欲的な祝福を求めています。これは真のキリスト教ではありません。これは迷信と偽キリスト教です。この頃、キリスト教徒の間には非常識な人が非常に大勢います。彼らは、イエスを信じた後に病気を癒され、健康になることが天の祝福を受けていると主張しています。心に罪があるのに肉体的な病気を治されたからといって、正しく信じているということなのでしょうか。キリスト教徒の罪人は、イエスを間違って信じていることを知っておくべきです。誰が体を治すかに関係なく、それが悪魔であれ、真の神であれ、それが良いと信じることは、真の信仰ではありません。むしろ、悪霊を信じるのは迷信です。主は次のようにおっしゃいました。「あなたがたは真理を知る。」 私たちは、この本物の神を知らなければなりません。私たちはそれを理解することによって、罪の赦しを受けなければなりません。

神は、中風の人に罪の赦しをお与えになりました。愛する信者のみなさん、みなさんと私、そして人類全体は、すべて霊的な中風の人です。私たちはみな、自分で救いのために何もできません。したがって、私たちは真理を開き、神が私たちのためにしてくださったことを確認し、それを信じて罪の赦しを受けなければなりません。そうして初めて、救いを受けることができるのです。私たちは、神の御前に何もできないことを認めなければなりません。

私たちの信仰の先人であるダビデの言葉を確認した後、私たちの信仰を確かめましょう。詩篇第51篇3-4節で、ダビデはこれを告白しました。

「まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。

私の罪は、いつも私の目の前にあります。

私はあなたに、

ただあなたに、罪を犯し、

あなたの御目に悪であることを行ないました。

それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、

さばかれるとき、あなたはきよくあられます。」

ダビデは何をしたのでしょうか。彼は姦通を犯し、殺人も犯しました。十戒のすべての罪を犯したのです。神の御名を冒瀆し、偽りの証言をし、殺人を犯しました。律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、すべてを犯したことになります (ヤコブ 2:10)。

姦淫を犯すとき、人々はどのように祈るのでしょうか。新しく生まれていない者は祈り、泣き、嘆いて、「神よ、どうか、この罪をお赦しください。二度と、この罪を犯すことはありません」と言います。しかし、ダビデはどのように祈ったのでしょうか。彼は罪の赦しを受けている人でした。神ご自身の心にちなんで信仰の人でした。ダビデは、神の御前にこの姦淫と殺人の罪を犯した後、神の御前に告白し、次のように述べました。

「まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。

私の罪は、いつも私の目の前にあります。

私はあなたに、

ただあなたに、罪を犯し、

あなたの御目に悪であることを行ないました。

それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、

さばかれるとき、あなたはきよくあられます。」

それは、神がダビデを義人であると判断なさると、神の裁きは傷のない者になることを意味します。ダビデが本当に言っていたのは、「神が、私は地獄に行くとおっしゃるなら、私は地獄に行きます。でも、神が、私は救済を受けるに値するとおっしゃるなら、私は救済を受けます。すべてのものは、神の裁きにしたがってなされます。救済は、私が自分のためにできることではありません」というものです。

私たちの判断は、真理の基準であるはずがない


私たちの判断が真理の基準であるはずがありません。唯一、神の裁きが真理だからです。神だけが真理です。神の裁きだけが純粋であり、主のみことばだけが正しいのです。主がすべての罪を消し去らなかったら、ダビデは地獄に行ったことでしょう。しかしながら、主はダビデの罪に対して何をなさったでしょうか。すべての罪を完全に消し去られました。ダビデは神の御前に罪を犯した弱い人でしたが、神はダビデのすべての罪を完全にきよく消し去られました。イエス・キリストはこの世に来られ、ダビデのすべての罪さえも消し去られました。ダビデは、この真理を前もって信じていました。このように、ダビデは自分のことを話し、次のように告白しました。

「ああ、私は咎ある者として生まれ、

罪ある者として母は私をみごもりました。

ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。

それゆえ、私の心の奥に知恵を教えてください」(詩篇51:5-6)。

神がダビデにこの罪をお赦しになったとしても、二度と罪を犯さないことを祈りませんでした。代わりに、ダビデは次のように告白しました。「私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。私はもともと悪を行なう者どもの子孫であり、罪を持って生まれたので、そのような邪悪なことをせざるを得ない人です。」

私たちもこのように自分自身を認め、神からの救済を求めるような人でなければなりません。私たちが霊的な中風の人であり、神の御前に来て、神のみことばを調べ、真理を知り、それを心の中で信じると、私たちは神から救済を受け、罪の赦しを受けるのです。