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[42-1] < マルコ 7:1-23 > 真の自分自身を見て、 水と御霊の福音を信じよ




< マルコ 7:1-23 >

「さて、パリサイ人たちと幾人かの律法学者がエルサレムから来ていて、イエスの回りに集まった。イエスの弟子のうちに、汚れた手で、すなわち洗わない手でパンを食べている者があるのを見て、――パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝えを堅く守って、手をよく洗わないでは食事をせず、また、市場から帰ったときには、からだをきよめてからでないと食事をしない。まだこのほかにも、杯、水差し、銅器を洗うことなど、堅く守るように伝えられた、しきたりがたくさんある。――パリサイ人と律法学者たちは、イエスに尋ねた。『なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えに従って歩まないで、汚れた手でパンを食べるのですか。』 イエスは彼らに言われた。『イザヤはあなたがた偽善者について預言をして、こう書いているが、まさにそのとおりです。「この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。」 あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている。』 また言われた。『あなたがたは、自分たちの言い伝えを守るために、よくも神の戒めをないがしろにしたものです。モーセは、「あなたの父と母を敬え。」 また「父や母をののしる者は、死刑に処せられる。」と言っています。それなのに、あなたがたは、もし人が父や母に向かって、私からあなたのために上げられる物は、コルバン(すなわち、ささげ物)になりました、と言えば、その人には、父や母のために、もはや何もさせないようにしています。こうしてあなたがたは、自分たちが受け継いだ言い伝えによって、神のことばを空文にしています。そして、これと同じようなことを、たくさんしているのです。』 イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。『みな、わたしの言うことを聞いて、悟るようになりなさい。外側から人にはいって、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。{聞く耳のある者は聞きなさい。}』 イエスが群衆を離れて、家にはいられると、弟子たちは、このたとえについて尋ねた。イエスは言われた。『あなたがたまで、そんなにわからないのですか。外側から人にはいって来る物は人を汚すことができない、ということがわからないのですか。そのような物は、人の心には、はいらないで、腹にはいり、そして、かわやに出されてしまうのです。』 イエスは、このように、すべての食物をきよいとされた。また言われた。『人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。』」



信者のみなさん、私たちは毎日神のみことばを読み、私たちがどのような人であるかを考えなければなりません。私たちは本当にどのような人でしょう。私たちはもともと、両親からあらゆる罪を受け継いだために罪を犯すアダムの子孫として、生まれました。つまり、私たちはもともと、罪を犯さざるを得ない「悪を行なう者どもの子孫」(イザヤ 1:4)です。私たちはみな、本当に正しい行ないをしたくても、そのような行ないができない人です。しかしながら、このような罪を犯さざるを得ない私たち全員をお救いくださるために、私たちの神が水と御霊の福音によって来られ、世のすべての罪から私たちをお救いくださいました。この水と御霊の福音を知らなければなりません。神が私たちに与えてくださった救済の真理の福音を考えると、私たちは本当に主に感謝と賛美をささげるようになります。



偽善者になってはならない


今日の聖句では、パリサイ人と律法学者が偽善に満ちていたことがわかります。彼らが神の前に偽善者であったということは、彼らの心と行ないが非常に異なっていたことを意味します。こうした霊的な偽善者は、内側が汚れているにもかかわらず、外観をきよく飾ります。これが、霊的な偽善者の生活です。そして、パリサイ人のように生きるこの世界のこうしたあらゆる宗教的な人々を見ると、パリサイ人のように生きるこの世界の宗教的な人々をよく見ると、彼ら全員は、肉体的な観点で成功するためだけに、自分たちを否定していることがわかります。彼らは神の前に行くとき、ただ手と足をきれいに洗い、自分たちの外見を磨きます。彼らは外見をきよくし、自分自身に関するすべてがきよくなったと思います。一部の人々は自分自身を見て、自分は十分にきよいのだと考えます。しかしながら、外見がきよいからといって、神の前にきよい人になったわけではありません。外見がきよいからといって、ほんとうにきよいのではありません。

ここの聖書に登場するパリサイ人は、エホバ神を信じると主張しましたが、実際には彼らは神を信じた人々ではなく、自分たちの宗派の長老たちを信じた人々でした。したがって、彼らは人間の教えは神とみことばよりも権威があると信じていました。それで、彼らは神のみことばの代わりに長老たちのこうした受け継がれた言い伝えに従ったのです。

マルコの福音書第 7 章 1 節から 2 節には、次のように記されています。「さて、パリサイ人たちと幾人かの律法学者がエルサレムから来ていて、イエスの回りに集まった。イエスの弟子のうちに、汚れた手で、すなわち洗わない手でパンを食べている者があるのを見た。」 当時のパリサイ人たちは、家に入るときに手足をきれいに洗う習慣がありました。市場から戻ってきたときに食べる前に、庭に水をかけ、カップ、水差し、銅の容器をきれいに洗うという習慣は、今でも強い伝統です。

さて、パリサイ人のこの慣習の問題は何でしょうか。肉体的な意味で問題になることはあるのでしょうか。肉体的な観点からは何も悪いことはありません。彼らはごく普通の生活を送っており、家に入るときに食事をする前に手足を洗っていました。また、庭に水をかけたり、家の中の汚れたものを洗ったり、食べたりすることも、特別な行動ではないようです。

それから、イエスがこのように彼らの信仰を叱責なさるように促した、パリサイ人のそのような伝統の問題が何であったかを見てみましょう。パリサイ人たちは、一般の人々が神を信じて仕える上で重要な義務として通常行うようなことを考えていました。これが霊的に問題でした。言い換えれば、そうしたパリサイ人は、神に対して忠実な人と見なされるために、市場から戻ったとき、食事をする前に、風呂に入り、ボウルをきれいに洗い、庭に水をかける必要があると考えていました。これが問題でした。問題は、彼らが神の前に、ふさわしく純粋な人として、そのような信仰を持った人だけを承認したということでした。この理由のために、すべてのパリサイ人の宗教生活はますます偽善的になり、誠実な信仰の心を持って神を信じ、従うことに関してますます遠ざかっていました。きれいな衣服ときれいな手足でまっすぐ立って歩き回り、体をきれいに洗ったとき、彼らは尊敬されました。

主がこうしたパリサイ人におっしゃったことを読みましょう。すると、イエスはパリサイ人におっしゃいました。「あなたがたは、自分たちの言い伝えを守るために、よくも神の戒めをないがしろにしたものです。モーセは、『あなたの父と母を敬え。』 また『父や母をののしる者は、死刑に処せられる。』と言っています。それなのに、あなたがたは、もし人が父や母に向かって、私からあなたのために上げられる物は、コルバン(すなわち、ささげ物)になりました、と言えば、その人には、父や母のために、もはや何もさせないようにしています。こうしてあなたがたは、自分たちが受け継いだ言い伝えによって、神のことばを空文にしています。そして、これと同じようなことを、たくさんしているのです。」

イエスはパリサイ人に何とおっしゃったでしょう。「モーセは、『あなたの父と母を敬え。』また『父や母をののしる者は、死刑に処せられる。』と言っています。」とおっしゃいました。イエスはこのようにパリサイ人を叱責なさいました。彼らが両親に与える価値のあるものを持っていたとき、彼らは喜んでそれを両親に与えるべきでした。しかしながら、パリサイ人たちは、すでに神に与えていたので、両親や他の人にそれを与えることはできないと言いました。ですから、どんなに素晴らしいものを持っていたとしても、すでに神にささげたと言えるので、両親を敬うために使う必要はありませんでした。

これをある信者の事業と比較してみましょう。あるキリスト教徒が不動産業者として働いていました。そして、その人のオフィスの机には聖書と賛美歌がありました。特に韓国のキリスト教徒が職場にいるときにこれを行うのは習慣のようでした。彼らがこれをする理由は何だと思いますか。オフィスの机の上に聖書と賛美歌があると、人々は「ああ。この人は神を信じている。彼はまっすぐで正直であるはずだ」と考えさせます。

ただ、以前はこう思っていたのですが、最近はそのようではありません。最近、机の上に聖書と賛美歌の本があると、人々はそれを見て、「泥棒」に違いないと考えます。今日、人々の推測はこのように変化しています。数十年前、この世界の人々は少なくとも、キリスト教徒をまっすぐで正直だと考えていました。しかし、神を信じるという信仰は、もはや商取引では機能しません。以前はスーパーマーケットのような場所でさえ、彼らが自分のレジに聖書と賛美歌を持っていたとき、ビジネスは通常より良かったです。

この時代の人々は、こうした偽善者によって非常に傷つけられたので、もはやそのような偽りのキリスト教徒に欺かれることはありません。今日のキリスト教徒の信者の中には、ビジネスをするために教会に行く人が大勢います。実際、神を信じていますが、神とは何の関係もない人が大勢います。彼らは神のみことばを信じていません。彼らは、それぞれの教会が教えている誤った教義を信じているだけであり、この世界の物質的なものだけを探すことを諦めています。ですから、彼らは今でも水と御霊の福音について学び、みことばを通して神を信じるべきです。

しかしながら、彼らは神のみこころを知らずに信仰を生き延びようとしています。したがって、彼らは神を信じると主張しているにもかかわらず、実際には神の義を知らないか、神を信じていません。彼らは、神やみことばを信じる代わりに、自分たちの指導者たちの敬意を表す宗派の教えを神のみことばであるかのように信じています。今日のこうした、いわゆる偉大な牧師の人文的な教えは、彼らの信仰の基礎となっています。ですから、彼らは神のみことばを信じると主張しますが、彼らは神の義よりもむしろ、彼ら自身の肉の考えと誤った教義を本当に信じているのです。

最近のほとんどのキリスト教徒の信仰は、このようなものです。長老派教会の宗派は、ずっと前にジャン・カルヴァンによって構成されたキリスト教の教義に従っています。言い換えれば、カルヴァンによって宣言されたキリスト教の教義は、長老派の宗派の中心的な教義になりました。そのため、その後の世代の人々は、カルヴァンの神学が聖書から多くのことを発見したと考え、このように、記録された神のみことばよりもカルヴァンの教えの方が重要であると考えるようになりました。最近、カルヴァンのキリスト教の教義を支持するこれらすべての人々は、カルヴァンが、ある事柄について言ったことを、記録された神のみことばよりも重要であると考えています。

したがって、水と御霊の福音を知ろうとさえしないので、とんでもない間違いを犯しています。彼らは、罪深い神学者の教えを、神の義の福音である水と御霊の福音よりも重要であると考えるようになります。こうした神学者によって語られた言葉が、神のみことばよりも大きな権威を持っていると考えるのは問題です。ですから、彼らはこの間違った信仰をもって神の義に敵対するようになります。これが、今日のパリサイ人の間違いと誤解でした。



昔、パリサイ人たちは自分たちだけが神を正しく信じているかのように誤解していた


彼らはこの真理を知らなかったので、聖書に記録されているように、神の義の福音を宣べ伝えることができませんでした。それだけでなく、彼らは神学者から学んだ神学の教義を他の多くの人々に教えました。したがって、ますます多くの人々が神の義の福音に直面する代わりに、こうした神学的教義を学んだほどに、状況は非常に悪くなりました。そのために、パリサイ人のこの邪悪な騒ぎは、世代から世代へとキリスト教徒を産むためにさえ受け継がれていました。聖書は、世代を超えて受け継がれてきた、こうした教えを長老たちの「伝統」と呼んでいました。ですから、神のみことばにある罪の赦しの福音の核心、すなわち水と御霊の福音は結果的に消え去り、神学者たちのこうした学問的な主張だけが豊富になりました。このため、イエスはイザヤからのみことばを引用して彼らを叱責なさいました。

「この民は、口先ではわたしを敬うが、

その心は、わたしから遠く離れている。

彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。

人間の教えを、教えとして教えるだけだから」(マタイ 15:8-9)。

同様に、今日のキリスト教徒は、ここに触れているこうした神学的教義が、神のみことばである水と御霊の福音よりも重要であると考えるようになりました。

全世界のほとんどのキリスト教徒の信仰は、このようになりつつあります。今日のキリスト教徒は、こうした神学者と同じように偽善者になりつつあります。韓国のメソジスト宗派は、ジョン・ウェスレーの教えを絶対的に信じて従います。そして、カルヴァンの教義は長老派教会のキリスト教徒にとって非常に重要です。彼らは、カルヴァンの教えが重要であるからではなく、彼が神のみことばを正しく解釈したから、カルヴァンの教えを信じて従うと言います。彼らは聖書を開いて神のみことばを読み、ジャン・カルヴァンがこのように言い、ジョン・ウェスレーがこのように言い、そしてある神学者がこれを言ったと教えます。彼らは純粋な神のみことばをそのまま教えるのではなく、聖書を開いて、ある神学者があれやこれについて語ったことを教えます。

今日、ほとんどのキリスト教徒は、最初は神を信じるために教会に通っています。教会に通いながら、悔い改めの祈りのやり方、聖化の教義、イエスを信じることによる救いの教義、そしてさまざまな賛美歌を学び、夜通しの祈祷会にも出席します。そして、教会で教えられている、あらゆる教義を学びます。彼らは、説教者が説教壇を陣取って「ハレルヤ」と言うと、「ハレルヤ」と答え、説教者が「信じますか」と言うと「アーメン」と答えます。言い換えれば、こうした信者は、教会に通い始めた時から純粋な神のみことばを学ぶよりもむしろ、こうした神学者が作り上げたキリスト教の教義を学びます。誰かが教会に行く時間が長ければ長いほど、その人はキリスト教の教義だけを知っていて、それを支持する人になります。つまり、これはどういう意味でしょうか。それは、キリスト教徒が教会に長く通っているほど、こうしたキリスト教の教義だけを知っており、その人が本当に知っておくべき「水と御霊の福音」を知らないことを意味します。そして、長年の教会に通うことにふさわしい強い信仰を持った人のように見えるために、そのような人は断食してさらに祈り、謙虚に聖書を持ち歩き、優雅に賛美歌を歌おうとし、他の人に見られるように偽善的に祈ります。

韓国では、キリスト教徒は通常、教会に一年間通い、その会衆のバプテスマを受けた会員になると、教会で投票する特権が与えられます。そして、この素人は、その時から教会での意思決定のいくつかの問題に投票する権利を獲得します。しかし、素人が長老派教会で実際の権限を持つ長老の会員になるには、長老になる必要があります。素人が教会で達成できる最高の地位は何でしょうか。長老です。しかしながら、一般の人は教会の長老になるためにたくさんのお金を献金するべきでした。そうして初めて、その人は教会の長老になり、尊敬されることができます。したがって、長老たちは早朝の祈祷会や一晩中祈祷会、山の祈りの隠居、そしてすべての礼拝でお金をささげるといったことをするために忠実でなければなりません。そして、彼らはまた、長老たちの規則を尊重しなければなりません。しかし、彼らはあらゆる種類の罪を心に抱き、教会の高い地位にいる人々になっています。彼らは、自分たちを義人とさせられる水と御霊の福音を信じなかったので、罪の中に閉じ込められました。その結果、彼らは偉大な宗教的人々になりました。彼らは、「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。」とパリサイ人におっしゃったイエスによって叱責されるようになりました。そのような人々は偽善的な信者です。

イエスは、「口にはいる物は人を汚しません。しかし、口から出るもの、これが人を汚します」(マタイ 15:11)とおっしゃって、パリサイ人の偽善を叱責なさいました。このようにして、イエスは「外側を造られた方は、内側も造られたのではありませんか(ルカ 11:40)。まず内側をきよめなければなりません。」とおっしゃって、こうしたパリサイ人の偽善的な信仰を叱責なさいました。主は、この時代の私たちにも、これをおっしゃっています。主は、こうした日々にも、すべてのキリスト教徒に偽善的にならないようにおっしゃいました。



最近のキリスト教徒には、どのような罪があるのか


マルコの福音書第7章20-23節をもう一度読みましょう。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」

イエスはここで、人の心の中のこの罪深い本質がその人に罪を犯させるとおっしゃいました。したがって、私たちはすべての人の心に悪い考えが存在することを知っておくべきです。こうした悪い考えが一部の人々の心にあり、他の人々にはないというわけではありません。誰もがこうした十二種類の罪を心に抱いて生まれたからです。誰もがまさに誕生から、こうした十二種類の罪を持って生まれています。したがって、誰もが心に悪い考えがあります。したがって、私たちは「悪を行なう者どもの子孫」です。そのような罪深い本質が私たちのうちにあるので、神は「あなたはもともと悪を行なう者どもの子孫です」とおっしゃいました。悪を行なう者どもの子孫として、私たちは誕生から肉の両親から罪をもって生まれました。ですから、私たちはこの世に住んでいる間、こうした十二種類の罪を犯すのです。

人間は細心の注意を払っているので、十二種類すべての罪を順番に犯すことがあり得ます。人は、一晩でも三種類の罪を犯すことがあり得ます。せっかちな人は、他の人を中傷するために、一度に多くの罪を計画します。聖書は姦淫の罪について書かれています。みなさんは、「淫ら」とは何かご存じですね?淫らは、みなさん一人ひとりの心の中にあります。この世に淫らな心を持たない人はいません。

イエスは、おっしゃいました。「人から出るもの、これが、人を汚すのです」(マルコ 7:20)。イエスはまた、次のようにおっしゃいました。「人は、もともと十二種類の罪をもって生まれた、このような罪の子孫です。人間は罪の子孫です。」 したがって、誰もが淫らな心を持っています。人間は、そのような淫らな心を持っているので、たとえ誰も教えなくても、淫らなものを見つけて、そのような淫らな行為をし続けます。彼らはまた、自分たちがさらに淫らさを楽しむようにする新しい考えを考案します。インターネットで最も成功している事業をご存じですか。あらゆる淫らな写真や動画のコレクションを備えた何百万ものポルノウェブサイトがあります。パソコンの電源を入れてインターネットに接続し、そのようなウェブサイトにログオンして料金を支払うと、こうしたすべての淫らなものを見ることができます。そのようなウェブサイトには、あらゆる淫らな写真や動画があります。人間は、こうしたものを作り、またそのようなものを見るのは、彼らが悪を行なう者どもの子孫だからです。

すべての野菜は、神が自分たちに語られたことに従って純粋に現れます。木に二種類の花は咲きません。それぞれが、神が許された一つの形でのみ現れます。ツツジの花は完全にツツジとして現れます。他の形で現れることはありません。このツツジは、世の終わりまでツツジを繁殖させます。ツツジとして咲き、枯れていきます。これは本当です。他の種類の花を開花させることはありません。もちろん、人間が人工的に異種交配すると、さまざまな種類の花として現れます。しかし、実際には、それは自然に一つの形で正確に現れるということです。これは、それが純粋に永遠に元の形があることを意味します。では、草はどうでしょうか。草は世の終わりまで草です。松の木はどうでしょうか。松の木は松の木として現れ続けます。

しかし、人間はどうでしょうか。人間の心には常に十二種類の罪があるので、こうした淫らな心が生じ、悪い考えが浮かび上がり、それはまた盗みの行動を明らかにします。したがって、誰もが神の前で罪人です。ですから、こうしたすべての罪のきよめを受けなければ、私たちはいつも心の中に罪があります。ですから、主は私たちが罪のきよめを受けなければならないとおっしゃいました。

神の前に、心に隠れている罪と、肉体的に実行されている罪があります。人間が行動に移す罪は、実際に律法に違反しているため、不法または個人的な罪と呼ばれます。そして、人類が心の中で静かに抱いている罪は、原罪と呼ばれます。人間はそのような罪を心に抱いています。

人間は、もともと淫らな子孫です。人間は常に悪い考えを抱く、悪を行なう者どもの子孫です。人間は盗む子孫です。人間は殺人を犯す子孫です。姦淫を犯す子孫です。貪欲な子孫です。邪悪な子孫です。欺きの子孫です。淫らな子孫です。邪眼を持っています。彼らは冒瀆する子孫です。彼らは傲慢です。人間は熱狂する子孫です。

人間は自分の根本的な本質を知らなければ、水と御霊の福音に啓示されている神の義を信じる必要がないので、神からの救いを求めず、罪の赦しを受けることもできません。したがって、私たちは人間がもともと悪の子孫であることを知っておく必要があります。神は私たちにこうおっしゃいます。「あなたは罪人です。罪から来る報酬は死です。罪があれば死ぬでしょう。罪があれば地獄に行くでしょう。」 神のみことばの光のうちに罪があるなら、その結果は死です。ここでの死とは、霊的で永遠の死、つまり地獄に投げ込まれることを指します。



では、私たちはすべての罪から救いを受けるためにどのように信じなければならないのか


罪からの救いを受けさせる水と御霊の福音について考えてみましょう。主がどのように私たちをお救いくださったのか、そして主がどのような罪から私たちをお救いくださったかについて考えてみましょう。主は真理、つまり水と御霊のみことばを私たちに語られました。そして、主は私たちが本当に罪に満ちた民であると教えてくださいました。私たちは、主の前に、私たちの心と行ないで罪を犯す民です。私たちは、死の瞬間まで生涯にわたって罪を犯す民です。イエスは、私たちが罪に陥り、地獄に投げ込まれざるを得ない私たちを、すべての罪からお救いくださるために来られました。したがって、イエスは私たちの救い主であられます。主は私たちの救い主となられ、神の義によって私たちの罪をすべて消し去られたので、私たちは信仰によって救いを受けなければなりません。

イエスは、私たちの心から罪を完全にきよめなければならないとおっしゃいました。しかし、私たちのすべての罪をきよめることは、私たちの肉の働きによって成し遂げることはできません。泣いたり頑張ったりしてもできないということです。私たちは、神の義を信じることによってのみ、罪の赦しを受けなければなりません。ここで神の義とはどういう意味でしょう。それは、主が水と御霊の福音によって私たちの罪をすべて消し去られたことを意味します。

イエスはパリサイ人の偽善を叱責なさいました。イエスは、次のようにおっしゃいました。「そのような罪は人から出るもの、これが、人を汚すのです。偽善的な働きによって、きよくなることはできません。どれだけ手を洗って入浴しても、罪は消えません。そして、洗った手でどんなにきよい食べ物を食べても、心はきよくなりません。だから、イエス・キリストを信じることによって罪の赦しを受けなければなりません。」

キリスト教の教義を信じるだけの者、つまり、イエスを救い主として信じながら、心に十二種類の罪があることを知らない者は、イエスがこの世に来られ、バプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになって、私たちの罪をすべて消し去られ、十字架で血を流されたことを知りません。それでも、多くのキリスト教徒はまだ聖書を偽善的に持ち運び、教会での自分たちの立場は昇格し続けています。それから、彼らは礼拝の儀式や形式を学びながら、お金をささげ、外見を磨きます。そのような人々は、水と御霊の福音に立ち返らなければなりません。彼らは誠実な心でイエス・キリストに立ち返り、イエスが語られた水の御霊の福音のみことばに耳を傾けなければなりません。

みなさんは本当に心に汚れた罪があるでしょうか。今まで罪を犯したことがあるでしょうか。そして、みなさんは将来再び罪を犯すでしょうか。みなさんは、こうした難しい質問を自分自身に問いかけ、正直に自分自身を検討しなければなりません。みなさんがまだ神の前に罪人であるなら、みなさんは自分が罪人であることを神の前に認めなければなりません。そして、みなさんは本当にこの真の救いについて神がおっしゃることを学ばなければなりません。水と御霊の福音を理解することによって罪の赦しを受け、それを信じなければならないのです。本当に美しい信者にならなければなりません。人々は今、キリスト教を信じながら、ただ自分の外側を飾るという間違った霊的生活を送るのをやめなければなりません。そのような人々は霊的に今日のパリサイ人です。

キリスト教が世界の宗教の一つであると思う人がいたら、できるだけ早く水と御霊の福音に目を向けなければなりません。悔い改めの祈りをささげることによって罪の赦しを受けることはできないので、さまざまな形式に固執するだけのキリスト教は、そのような間違った信仰から立ち返らなければなりません。私たちは、外見だけを強調するキリスト教から離れ、水と御霊の福音に立ち返らなければなりません。キリスト教徒の中には、「私は3年間信じていましたが、いつも心の中に罪がありました。そして、その後さらに3年間、イエスを信じましたが、私はさらに危険な罪人になりました。」 彼らは、自分たちが10年間イエスを信じていた間に、罪がはるかに増えたので、彼らの罪はさらに重くなったと言います。このように嘆きたくないのなら、私たちは今、そのような形式的な信仰からすぐに立ち返り、水と御霊の福音を信じなければなりません。「イエスは、『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます』とおっしゃいましたが、代わりに私の罪は増し、私の心は重荷を負うようになりました。私は十年間、イエスを救い主として信じてきましたが、私の罪は私の背中に加えられました。こうした罪は重すぎます。私が最初にイエスを信じたとき、私は希望を持っており、私の心もそれほど重くありませんでした。しかし、私がこの10年間イエスを信じてきた今、私の罪は私をさらに圧迫しています。もし20年間イエスを信じたら、私の心はどれほど重くなるのでしょうか。」

私は、イエスを救い主として50年間信じてきたキリスト教徒にこの質問をしました。「あなたには罪がありますか。旧約聖書のイザヤ書第1章18節のみことばは次のように書かれています。

『さあ、来たれ。論じ合おう。』と主は仰せられる。

『たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、

雪のように白くなる。

たとい、紅のように赤くても、

羊の毛のようになる。』

もしそうなら、あなたの罪は雪のように白く消されましたか。」

その人は、こう答えました。「どうして私の罪を消し去ることができるでしょう。私が50年間信じてきたので、私の心の罪は増し加わりました。私は、こうした悔い改めの祈りを毎日ささげることによって、罪の清めを受けようとしています。ですから、私は聖別されるように一生懸命祈っているのです。」

なぜこのキリスト教徒はこれを言うのでしょうか。それは、この人が律法主義的な信仰によって、イエスを救い主として信じてきたからです。それは、彼が今のところ神の義を知らずに信じてきたからです。50年信じてきた人と10年信じてきた人とでは、水と御霊の福音を知らないので、どちらも罪があるという点で同じです。もちろん、彼らの罪の重さは異なります。ただ、50年信じてきた人は罪が多く、10年信じてきた人は罪が少ないとは言えません。彼らはただ自分たちには多かれ少なかれ罪があると感じています。それは、彼らが持っている罪の量についての彼らの理解が多かれ少なかれあることを意味しますが、彼らは両方とも罪があるという点ですべて同じです。

イエスを救い主として信じてきたのに、なぜみなさんはまだ罪人なのでしょうか。それは、みなさんが神のみことばを信じず、水と御霊の福音を受け入れていないからです。イエスは、私たちのすべての罪をただ一度で消し去るために、水と御霊の福音によってそのような罪人である私たちのところに来られました。主は、この福音によってみなさんをただ一度で世の罪からお救いくださいましたが、みなさんが悪を行なう者どもの子孫であることを認識できず、したがってイエスが与えてくださった真理の福音を信じずに、罪の赦しを受けることができなかったから、救いを受けることができなかったのです。みなさんは、神がみなさんのような罪人に救いを授けられなかったからではなく、水と御霊の福音を通して罪の赦しをくださった主の愛を信じていないから、罪人になっているのです。

ですから、すぐに水と御霊の福音に立ち返らなければなりません。そして、みなさんは聖書が神の義について何を教えているかを学ばなければなりません。神のみことばのうちに神の義について学ぶと、水と御霊の福音によってもたらされた救済の真理を知り、この福音の真理を信じることによって、この真の自由を受けるようになります。そして、みなさんは真の自分を知るようになるのです。

すべての罪人は、死ぬ瞬間まで、誰もがこうした十二種類の罪を犯していることを最初に知っておく必要があります。これが正しいのです。どれほど多くの人が悔い改めの祈りをささげても、そのような罪を犯し続けるので、罪はきよめられません。たとえ自分の罪を嘆いても、罪をきよめることはできません。罪の赦しのために神にお金をささげても、罪をきよめることはできません。みなさんが主のために殉教者になって死んでも、罪は清められません。主が私たちをすべての罪からお救いくださったという、水と御霊の福音を信じて、みなさんの罪はきよめられることができます。そうして初めて、みなさんの罪は完全に洗い流されるのです。

ヒマラヤ山脈の地域では、多くの人が仏教を信じています。彼らは、自分たちが来世で生まれ変わるとき、罪を消し去り、より良い状況で生まれるために禁欲主義を実践しなければならないと信じています。彼らにとって「聖地」と呼ばれる場所があります。それは彼らの家から非常に遠いです。しかしながら、彼らは数歩歩いてから、五体投地として知られているお辞儀をしてその聖なる場所に行き、これを繰り返し行います。彼らは両手・両膝・額を地面に触れているこの聖地に向かってひれ伏して、起き上がります。そして再び投げ伏します。彼らはそのような振る舞いを、遠く離れたいわゆる聖地に到達するまで繰り返します。この聖地で仏陀を崇拝した後、彼らは来たのと同じように家に帰ります。彼らは、このように禁欲主義を実践しています。

この世界のすべての宗教は、このようなものです。彼らは、禁欲主義を実践し、犠牲を払い、そしてキリスト教の教義をよく知ることによって、罪の赦しを受けると考えています。しかし、私はみなさんが罪の赦しを受けることができるのは、そのような不条理なことをすることによってではなく、水と御霊の福音を信じることによってのみであることをはっきりと言っておきます。この世界の宗教の一つのようにキリスト教を信じてはいけません。この世界の宗教は中毒性のある薬のようなものです。そのような薬は、初めて使うと気分が良くなると言われています。彼らは、初めて薬を使うとき、自分たちが全世界を所有しているように感じると言います。しかしながら、薬の強さはすぐになくなります。それから彼らの手と足は震え始めます。そして、いわゆる「禁断症状」に苦しみ始めます。彼らは麻薬を再服用する必要があります。そして、そのように彼らは再び我慢する必要があります。そして、彼らが長い間薬を使用しているとき、彼らは5分以内に繰り返し注射器でこの薬を自分自身に注射しなければならなくなります。これをやめると、彼らは気が変になります。世界の宗教は、これとは非常に異なっています。私たちは、いかなる世俗的な宗教から来るそのような宗教的信仰を捨てなければなりません。そして、水と御霊の福音の真理を通して、主がどのように私たちを世の罪からお救いくださったかを本当に知らなければなりません。

私たちは、記録された神のみことばを通して私たちの原罪を知らなければなりません。そして、私たち人間はなぜ生まれたのか、何をもって生まれたのか、どのように生きて、死んだ後にどこへ行く定めにあるのか、そのようなことを知らなければなりません。私たちは神のみことばを通して、こうしたすべてのことを学ぶことができます。私たちは、水と御霊の福音を信じることによってのみ、罪の赦しを受けることを知らなければなりません。ですから、私たちは先延ばしにすることなく、水と御霊の福音の真理を学ばなければなりません。私たちは、自分たちをこれほど堅く縛りつけているキリスト教の形式的な信仰の束縛を断ち切らなければなりません。今日ここに座っている人の中には、水と御霊の福音を信じて罪の赦しを受けた人も多いと思いますが、まだ完全に罪の赦しを受けていない方もいらっしゃると思います。まだ罪の赦しを受けていない人がいても、神の義を少しずつ学び、信じれば、すべての罪から解放されます。

みなさんと私は、死の瞬間まで罪を犯します。それでは悔い改めの祈りをささげることによって、そうした罪を消し去ることができるのでしょうか。この世界のキリスト教は、悔い改めの祈りを聖化に達するための手段として理解しています。しかしながら、イエスは私たちの原罪を消し去ったとおっしゃったのに、私たちの個人的な罪を消し去らなかったから、毎日悔い改めの祈りをささげて個人的な罪をきよめなければならないのでしょうか。聖書のどこにこれが書かれていますか。

これについて少し真剣に考えてみましょう。それは意味をなすでしょうか。こうした悔い改めの祈りをささげることによって、死の瞬間まで犯す罪をきよめなければなりませんが、これは可能でしょうか。今日はこれについて考えてみましょう。目が覚めた時から寝るまでに犯した罪をすべて考えなければならないでしょう。これが可能であるならば、私たちはそうしたすべての罪に対して悔い改めの祈りをささげることができるでしょうか。しかしながら、私たちが忘れてしまった罪はたくさんあり、私たちが本当に間違ったことをした罪は一つか二つしか記憶に残っていないに、悔い改めの祈りをささげることによって、そうしたわずかな罪さえも消し去ることができるのでしょうか。いいえ、この方法で消し去ることはできません。このように罪を消すことはできません。イエスがバプテスマのヨハネからお受けになったバプテスマと十字架で流された血を信じることによって、あらゆる罪は完全に消し去られるのです。

アダムとエバが罪を犯したので、その子孫である私たちは、この罪を受け継ぎ、罪を犯して、私たちが罪を持って生まれて以来、滅ぼされるしかありませんでした。さらに、人間は死ぬ瞬間まで罪を犯します。したがって、この世の人々はこのような宗教を作り上げ、悔い改めの祈りをささげるだけで罪をきよめようとします。しかし、悔い改めの祈りをささげたからといって、みなさんの罪は消し去られるのでしょうか。聖書のどこに、私たちの原罪だけが消し去られたと書かれていますか。主は世の罪をすべて消し去るとはおっしゃいませんでしたか。

イエスは、バプテスマをお受けになった後、十字架で死なれる少しの時間で、「完了した」(ヨハネ 19:30)とおっしゃいました。イエスは人の肉で一度この世に来られ、世のすべての罪をただ一度で負われるためにバプテスマをお受けになり、十字架でただ一度死なれることによって、そうしたすべての罪の罰をお受けになりました。そして、主は一度でよみがえられ、天の御国に昇天されました。このようにして、主は人類の救い主となり、父なる神の御座の右に着座されました。今、みなさんは水と御霊の福音によって来られたイエス・キリストを信じるだけで、すべての罪からの救いを受けることができます。イエスがみなさんの救い主だからです。

信者のみなさん、みなさんが神の前に行き、「神よ、私はこれこれの罪を犯しました。お赦しください」と言って、毎日悔い改めの祈りをささげても、それは役に立ちません。イエスはみなさんのために十字架に行き、毎日みなさんの罪を消し去るのではありません。約2000年前に、イエスはバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになり、十字架で血を流されることによって、みなさんの罪をすべて消し去るという、みわざを成し遂げられたのです。この水と御霊の福音の真理をよく知っていなければなりません。

私たちは、世俗的な宗教を信じるこの世の人々のように、イエスを信じてはなりません。宗教は強力な薬のようなものです。大胆に捨てなければなりません。宗教的儀式の体系として、キリスト教を知り、信じることによって何を受け取ったというのですか。みなさんはより多くの罪に苦しんだだけであり、自分の時間とお金を浪費しました。

私たち全員が罪を持って生まれた子孫、つまり死ぬ瞬間まで罪を犯さざるを得ない人々ではないでしょうか。しかし、主は私たちを世の罪からお救いくださるためにこの世に来られました。そして、主はバプテスマのヨハネからお受けになったバプテスマと十字架で流された尊い血とによって、こうしたすべての罪から私たちを救われました。私たちは神の愛と神の義をたたえます。

水と御霊の福音によってすべての罪から私たちを救ってくださった主に、本当に賛美と感謝をささげます。