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[42-9] < マルコ 8:33-35 > 困難の真っ只中に強くあれ



< マルコ 8:33-35 >

「しかし、イエスは振り向いて、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた。『下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。』 それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。』」



今日、マルコの福音書第 8 章 33 節から 35 節のみことばを読みました。イエスは多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえられることについて語られたとき、イエスの弟子であるペテロは、そんなことが、あなたに起こるはずはないと言いました。しかし、イエスはペテロをしかって、おっしゃいました。「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(マルコ 8:33)。イエスはペテロを叱責なさり、彼をサタンと呼ばれました。それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らにおっしゃいました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。」



イエスは、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」とおっしゃった


イエスは私たちに自分の十字架を負うようにおっしゃいましたが、それは私たちが文字通り木製の十字架を負わなければならないという意味ではありません。神の御子イエス・キリストが私たちに負うようにおっしゃった十字架とは、私たちが主のところに来て、主に従うという困難を負わなければならないということです。主はここで私たちに自分自身を否定し、主に従うようにおっしゃっています。これは、私たちが自分の考えを持っていると主に従うことができないので、私たち自身の考えを捨てて主に従わなければならないことを意味します。このようにして、主はおっしゃいました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」

実際、私たちは今では自分自身を否定することに慣れていなければなりません。私たちが素晴らしいと思うものがあれば、それを否定しなければなりません。恥ずべきものがあれば、それも否定し、主に従わなければなりません。また、私たちにとって問題ないと思われることも否定しなければなりません。否定しなければならないことがたくさんあります。主は、私たちがこのように自分自身を否定する場合にのみ、主に従うことができるのだとおっしゃいました。

肉体的に考えるときは、何の困難もなかったと思います。私が最も望んでいることは、私が主のみわざをよく行うことができるように健康であることです。思考はよく稼働していますが、体が健康でないので困難です。少なくとも常に正直に考えることができれば素晴らしいのですが、そういうわけではないので、いつも困難がたくさんあります。体調が悪い中でも自分を否定しなければならないので、さらに困難です。

しかしながら、才能がありすぎると思うと、主に従うことは難しく、私たちがこれに対して完全に反対で、惨めになるときも、主に従うことは困難なので、主に従うことにおいて、私は自分自身を否定し、神の義に従う以外に方法はないと思います。時には、それが私たちにダメージを与えると思うので、私たちが主に従うのが難しいように思われることがあります。そして、他の場合には、私たちが主に従うにはあまりにも欠点があると思うので、私たちは主に従うのが難しいと感じます。

しかしながら、私たちの主は、こうした二つのセルフイメージの両方を否定しなければならないとおっしゃいます。主に従うためには、まず自分自身を否定しなければなりません。言い換えれば、みなさんと私が素晴らしいと考えるときはいつでも、私たちはその偉大さも否定しなければなりません。そして私たちには非常に多く欠点があると考えるなら、私たちは主に従うことができるようにするためにも、それを否定しなければなりません。私たちの主は、このことを弟子たちと多くの人々におっしゃいました。このように、私は主がみなさんと私にも、このみことばを語られたことを知っています。どうして自分を否定せずに主に従うことができるでしょうか。すでに申し上げたように、私たちは非常に良かったとしても主に従うことができず、また私たちがあまりにも惨めであったとしても主に従うことはできないでしょう。ですから、偉大な人は自分を低くし、低い人は神の義への信仰によって立ち上がらなければなりません。それは、神の義を信じる信仰によって常に自分自身を否定せざるを得ないことを意味します。これが、私たちが主に従う方法です。

私たちの肉の思いで主に従うことは不可能です。霊的な考えだけを持っていれば主に従うのは簡単ですが、肉の思いを持っていることが多いので、自分を否定せずに主に従うのは困難です。ですから、こうした肉の思いが心に浮かび上がってきたときに、それを断ち切ることができなければ、主に従うことは困難です。しかし、私はそれがすべて信仰によって可能であることを知っています。私たちは神の義を信じる信仰によって主に従うことができ、水と御霊の福音を信じる信仰によって困難の真っ只中でも主に従うことができます。主が私たちを手放さず、導いてくださるので、困難の真っ只中でも主に従う決心をすれば、十分に主に従うことができます。

私たちは、生活の中で主のみことばを経験しています。私たちの霊的生活は、困難に直面したときに実際に上達する可能性があります。すべてが快適で、困難を経験しないと、私たちの信仰は成長しないからです。私たちは、こうした困難な時期に神の義を手放さず、それよりむしろ、すべてが快適なときに主を忘れています。主がマルコの福音書第 8 章 35 節で、「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。」とおっしゃったのは、このためです。このみことばは、「あなたが自分のいのちを救おうとするなら、自分のいのちを失います。でも、水と御霊の福音のためにいのちを失うなら、いのちを救うことになります。水と御霊の福音のために自分の物を失うなら、受けることになります。一方、それを持ち続けようとするなら、すべての物を失います。」という意味です。

日本の元CEOは、「勝つために多くのものを捨てよ」というタイトルの本を書きました。それが日本人の基本的なイデオロギーです。日本人は学ぶのが得意です。彼らは謙虚な心で何でも学びます。何かを学んだ後、自分のスタイルに合わせて変えて、作り直します。著者は、勝つためには自分を捨てなければならないと言っています。それは、何かを受け取るために、まず自分を他の人に対して身を低くしなければならないことを意味します。そしてその結果、彼は学びます。そのようなイデオロギーのおかげで、日本は経済的に成功することができました。彼らの指導者は、全世界に勝つために自分の心を低くせず、米国大統領に執着したでしょうか。しかし、我が国、韓国の大統領は、多くの問題について米国大統領と争っていますが、日本の首相は、人道的な知恵をもって米国と友好的な政策を実行しています。とにかく、日本人が「勝つために多くのものを捨てよ」というイデオロギーを持って成功したように、私たちの主はまた、私たちの魂と多くの人々を罪から本当にお救いくださるために、まず私たちのものを失わなければならないとおっしゃいました。主はおっしゃいました。「わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。」 このみことばが真理です。

水と御霊の福音のために多くのものを失うと、私たちは本当に主に代わって多くのものを受け取るようになります。しかしながら、私たちが持っているものを失わないようにしようとすると、主は私たちに何もお与えになりません。代わりに、私たちは主に捨てられる人々になります。私たちはこのみことばが私たちの霊的生活の中で何を意味するのかをよく知っていますが、実際の生活ではこれを忘れることがよくあります。生活で私たちがより強く、より健康に、そしてより繁栄すれば、私たちは神のみわざをもっとできると思うかもしれませんが、私たちの主は、困難の真っ只中で神のみわざをすると、私たちにさらに多くのものを受け取らせてくださいます。主は私たちがいのちを受け取るのを助けてくださり、また私たちにさらに多くの魂を罪から救わせてくださいます。

誰もが健康な状態で霊的生活を送りたいと思っています。しかしながら、簡単ではありませんが、困難の真っ只中で多くのものを失いながら主に従い、主と福音とのために生きるとき、多くの祝福を受けるようになります。私たちはこの仕事、つまり、全世界に水と御霊の福音を宣べ伝えることをするのです。これは、私たちがそのような困難な状況の真っ只中で主に従うとき、主がさらに多くのものを与えてくださることを経験し、またそれを信じているので、このように容易ではありません。実を言うと、私たちは今まで自分の肉体的な力で主に従ったことがありませんでした。私たちは、主が与えてくださった情熱によってのみ、主に従うことができたのです。

若くて元気だった頃は情熱を持って従っていましたが、今はどうでしょうか。私たちの身体は疲れていて病気なので、どんなに情熱的であっても、イエスに従うことは容易ではありません。今、私たちは、「主がこのように私たちに委ねられたすべての仕事を終えた後、私はただ主のところに行かなければならない」という決意を持って生きています。私たちにはこれ以上何があるでしょうか。使徒パウロは、「たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」(コリントⅡ 4:16)と言って、強い信仰を示しました。

しかし、私のような人はどうでしょうか。私の肉体が弱くなると、内なる人でさえ欲求不満になり、腹を立てます。みなさんは、そんなことはないかもしれませんが、病気のときはその苦痛に集中しているので何もできません。しかしながら、時が経ち、主の前で自分のことを考えるようになると、そのような状況でも主に従うのがふさわしいことだと思います。ですから、私は主のところに行く前に、主から委ねられた仕事をするように最善を尽くす決心をしました。私が持っているすべてのものを失うことによって他の人がただ救いを受けることができるなら、私はこのすべてを失うこともできます。主の再臨の前に主のところに行くのもいいでしょうし、主の再臨まで水と御霊の福音に仕えた後、主のところに行くのもいいでしょう。福音の宣教はなんとすばらしい仕事でしょう。

この世での生活は困難ですが、信仰によって水と御霊の福音を宣べ伝えることは、どうして素晴らしいことではあり得ないでしょうか。最近、水と御霊の福音を人々に宣べ伝えようとすると、ほとんどの人はこう言います。「あなたはもっと上手くやろうとしてて、それを信じていますね。でも、それは私の仕事ではありません。」 最近の人々は、自分の明確な思考にためらうことなく取り組む傾向があるからです。ですから、私たちは今、文書宣教によって全世界に水と御霊の福音を宣べ伝えています。また、物質的なものがなければ、キリスト教文書を送ることすらできないので、主が物質的なもので私たちを祝福してくださることを願い、祈っています。

この世の人々は、何かがうまくいっているように見えるときは後援者として熱心に何らかの運動に参加しますが、うまくいかないように見えるとすぐに消えてしまいます。イエスが五つのパンと二匹の魚の奇跡のような不思議な行いをして、悪霊に憑かれた病人を治したとき、無数の人々がイエスに従いましたが、イエスが「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲みなさい」とおっしゃったとき、彼らはみな、イエスから逃げました。神のみわざをすることも同じです。この福音に仕える仕事がうまくいって、栄光を受けるように思えると、多くの人が教会に従いますが、この仕事がうまくいかず、物事がそれほど良くないと思われるとき、彼らはみな、がっかりして教会を去ります。誰もが同じというわけではありませんが、残念ながらほとんどの人はこのようです。とにかく、福音を宣べ伝えるためのすべての努力において、神は私たちを祝福してくださると信じています。

主は、おっしゃいました。「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。」 そして、私たちには実際に一つのいのちしかありません。私たちは、このようなあらゆる資金と方法を出して、水と御霊の福音を全世界に広めます。これ以外の目標はありません。なぜなら、この世には、水の御霊の福音を宣べ伝える以外に生きる価値のある、他の仕事がないからです。人間の生活の一連は明らかです。生涯を通じて飲み食いした後、誰もが最終的に病気になって死にます。この世の人々は、年をとると本当に惨めになります。若い頃は誇らしげに自慢して生きていたかもしれませんが、年をとるとやがて絶望的に死んでしまいます。

しかしながら、水と御霊の福音を信じ、この福音の伝道のために生きる人々は、まったく惨めではありません。私たちは水と御霊の福音を宣教するという大宣教命令を受けているので、私たちは日々、天の御国に望みをかけて生き、この尊い価値ある仕事をしています。ですから、主のために多くのものを失っても、主と水と御霊の福音の宣教から来る祝福を享受する人になってほしいのです。そして、私はみなさんに、主がみなさんのすべての必需品を全面的に満たしてくださるという信仰を持ってほしいのです。

世俗的な方法で計算すれば、この地上で得られるものは何もありません。しかしながら、私たちはこの世に永遠に住むことはないので、信仰によって自分自身を喜んで主にささげることができます。それに、来たるべき主が遅かれ早かれ来られるので、この世の歳月はあっという間に過ぎ去ります。私はここでこうした若い兄弟姉妹と同じ年齢で最初に主にお会いしましたが、私の髪の毛はすでに白髪になっているのではありませんか。ですから、私はみなさんにこのことをお願いします。主の福音の宣教のために多くのものを失い、主のために生きることをみなさんに忠告します。そうすれば、絶対に後悔することはありません。

水と御霊の福音を信じる信仰によって生きた後、みなさんと私が主にお会いできることを願っています。