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[42-10] < マルコ 9:1-13 > 律法の象徴モーセ、 恵みと真理の受肉イエス、 仲介者バプテスマのヨハネ



< マルコ 9:1-13 >

「イエスは彼らに言われた。『まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国が力をもって到来しているのを見るまでは、決して死を味わわない者がいます。』 それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼らの目の前で御姿が変わった。その御衣は、非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さであった。また、エリヤが、モーセとともに現われ、彼らはイエスと語り合っていた。すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。『先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。私たちが、幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。』 実のところ、ペテロは言うべきことがわからなかったのである。彼らは恐怖に打たれたのであった。そのとき雲がわき起こってその人々をおおい、雲の中から、『これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい。』という声がした。彼らが急いであたりを見回すと、自分たちといっしょにいるのはイエスだけで、そこにはもはやだれも見えなかった。さて、山を降りながら、イエスは彼らに、人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見たことをだれにも話してはならない、と特に命じられた。そこで彼らは、そのおことばを心に堅く留め、死人の中からよみがえると言われたことはどういう意味かを論じ合った。彼らはイエスに尋ねて言った。『律法学者たちは、まずエリヤが来るはずだと言っていますが、それはなぜでしょうか。』 イエスは言われた。『エリヤがまず来て、すべてのことを立て直します。では、人の子について、多くの苦しみを受け、さげすまれると書いてあるのは、どうしてなのですか。しかし、あなたがたに告げます。エリヤはもう来たのです。そして人々は、彼について書いてあるとおりに、好き勝手なことを彼にしたのです。』」



エリヤについて知っているか


今日の聖句に先立って、マルコの福音書第 8 章で、主は弟子たちに、ご自分がこの地上での宣教を終えた後、死んで、三日目によみがえった後、神の御許に戻るとおっしゃいました。ペテロはそれからイエスをいさめようとし、それで主はペテロを叱責なさいました。この説明の後、私たちは、主が第 8 章の終わりには、次のようにおっしゃっているのがわかります。「このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。」

それから、マルコの福音書 第 9 章では、エリヤとモーセがイエスと語り合っている様子について説明しています。この記述は、他の福音書の他の箇所――特に、マタイの福音書 第 17 章とルカの福音書 第 9 章に記録されています。ここでマルコの福音書 第 9 章 2-4 節に戻りましょう。「それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼らの目の前で御姿が変わった。その御衣は、非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さであった。また、エリヤが、モーセとともに現われ、彼らはイエスと語り合っていた。」

イエスがペテロ、ヤコブ、ヨハネを高い山に連れて行かれたとき、イエスは彼らの前で御姿が変わり、その御衣は、非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さでした。この主の変貌は、主が戻られて私たちを連れ去られるときに起こる、私たち自身の変貌を予見します。今日の聖句で主が変貌したとき、私たち水と御霊によって新しく生まれた者も突然変えられます。これが、今日の聖句で主が私たちに示されていることです。

マルコの福音書 第 9 章 4 節によると、次のように書かれています。「また、エリヤが、モーセとともに現われ、彼らはイエスと語り合っていた。」 エリヤとモーセが、聖なる姿に変貌したイエスの前に現われ、彼らがイエスと語り合ったとき、弟子たちはこれを見て驚きました。これを目の当たりにしたペテロは、次のように述べています。「私たちがここにいることは、すばらしいことです。私たちが、幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」 しかし、ペテロはイエスの変貌を恐れていたので、こういうことを言ったのです。弟子たちは、あまりにも恐ろしくて言うべきことがわからなかったので、恐怖に震えていました。そのとき雲がわき起こってその人々をおおい、雲の中から、「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい。」という声がしました。それで彼らが急いであたりを見回すと、そこにはもはやエリヤとモーセを見ることができず、イエスだけがそこに立っておられました。

この素晴らしい光景を見た後、弟子たちが山から降りてきたとき、主は彼らに、「人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見たことをだれにも話してはならない」と警告なさいました。これが何を意味するのか理解できず、弟子たちはお互いをじっと見つめ、相手が何を考えているのかを理解しようとしました。彼らは、「これはどういう意味だろう。死人の中からよみがえるとはどういう意味だろうか」と疑問に思っていました。

さらに、当時の律法学者たちは、まずエリヤが来るはずだと教えていたので、弟子たちはさらに戸惑いました。それで彼らはイエスに尋ねました。「律法学者たちは、まずエリヤが来るはずだと言っていますが、それはなぜでしょうか。」 イエスはそれから彼らにおっしゃいました。「エリヤがまず来て、すべてのことを立て直します。では、人の子について、多くの苦しみを受け、さげすまれると書いてあるのは、どうしてなのですか。しかし、あなたがたに告げます。エリヤはもう来たのです。そして人々は、彼について書いてあるとおりに、好き勝手なことを彼にしたのです。」 これは、エリヤがすでに来て、すべてのことを立て直したことを意味しますが、当時の人々はエリヤを認識していなかったので、彼らはエリヤを無視し、ひどく扱いました。代わりにイスラエルの民はモーセを最も尊敬していたので、弟子たちはモーセの姿を理解していましたが、エリヤの姿を完全には理解していませんでした。彼らが、エリヤの戻りの預言についてイエスに尋ねたのは、このためです。



ここでのエリヤとは、旧約聖書と新約聖書を結びつける仲介者を演じたバプテスマのヨハネを意味する


これは、神がマルコの福音書 第 9 章を通して、私たちに教えておられることです。旧約聖書の代表はモーセです。ヨハネの福音書 第 1 章 17 節によると、「というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである」と書かれています。モザイク時代が過ぎ去ると、イエス・キリストの時代が到来しました。この二つの時代をつなぐ架け橋とは、エリヤの心から来たバプテスマのヨハネにほかなりません。マタイの福音書 第 11 章 14 節で、主は「あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです。」とおっしゃいます。この「きたるべき」エリヤとは誰でしょうか。マタイの福音書 第 11 章 12 節に目を向けると、「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」と書かれているのがわかります。言い換えれば、イエスは、この「きたるべき」エリヤがバプテスマのヨハネにほかならないとおっしゃっていたのです。ですから、旧約聖書と新約聖書をつなぐ架け橋として、エリヤの役割は非常に重要です。

ご存じのように、エリヤはイスラエルの民を偶像崇拝の罪から救った神のしもべでした。エリヤはイスラエル人を神のもとへ導き、彼らが神を信じるように導き、罪から救われることを可能にした預言者です。旧約聖書の他の預言者は、エリヤのように働きませんでした。モーセは律法を受け取り、それをイスラエルの民に引き渡しましたが、彼らはこの律法を破りました。それとは対照的に、エリヤは神から命令を受け、イスラエルの偶像崇拝の民の前に立ち、神が生きておられるという神の力をイスラエルの民に示し、これにより、イスラエル人が神に立ち返り、偶像から心を立ち返らせた、神のしもべでした。

それで神はマラキ書 第 4 章 5 節で、「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。」とおっしゃって、怒りの終わりの日の前にエリヤを遣わすことを約束なさいました。これは、神がエリヤをご自分のしもべとして遣わされ、罪の中に生きる多くの人々を神に立ち返らせることを意味します。主はエリヤを遣わすとおっしゃり、またこのエリヤは主が来られる前に来るとおっしゃいました。そして、このみことばによれば、バプテスマのヨハネはすでにエリヤの霊のうちに来ていましたが、それでも人々はこの霊的なエリヤを非常にひどく扱いました。

旧約聖書の律法とイエス・キリストを結びつけるのは、この霊的なエリヤ、バプテスマのヨハネです。バプテスマのヨハネは人類の仲介者です。したがって、旧約聖書と新約聖書を結ぶ橋とは、バプテスマのヨハネにほかなりません。バプテスマのヨハネが新約聖書で神のしもべとして成し遂げた役割がなければ、イエス・キリストがこの地上に来られても、人類を罪から救うことは不可能でした。それは、神が人類を罪からお救いくださるために、バプテスマのヨハネを人類の代表として立てられ、すべての人の罪をイエスのからだに移させ、それによって神の義を実行なさったからです。神は、人が理解して罪から救われることを保証なさいました。新しく生まれるという奥義とは、神が人類救済の計画に誰も理解できない方法でみわざをなさったことを意味するのではなく、神を本当に恐れ、心が神を受け入れる準備ができている人なら誰でも、それを理解できるようにみわざをなさいました。

それで、エリヤがイスラエルの民を神に連れ戻したように、神は大いなる恐ろしい終わりの日が来る前に、神のしもべエリヤを私たちのところに遣わすと約束なさいました。バプテスマのヨハネは、この約束に従って私たちのところにやって来たのです。大祭司アロンの家のザカリヤの妻エリサベツの体に身ごもったバプテスマのヨハネは、処女マリヤのからだを通して、この地上に生まれたイエス・キリストの六ヶ月前に来ました。これは、神の義を実行するために施された神の特別な摂理でした。

このようにこの地上に来たバプテスマのヨハネは、イエス・キリストが30歳のときにヨルダン川に来られたときに人類のすべての罪をイエスに移すためにバプテスマを授けました。バプテスマのヨハネからこのバプテスマを受けることによって、イエス・キリストは世のすべての罪を負われたのです。イエスはそれらすべてを十字架に運ばれ、十字架で死なれ、三日目に死人の中からよみがえられ、それによって私たち全員をお救いくださいました。バプテスマのヨハネがイエスにバプテスマを授け、イエスがこのバプテスマをお受けになったとき、人類をすべての罪から救うために、神のすべての正しいみわざが実行されました。それが、バプテスマのヨハネが旧約聖書と新約聖書の仲介者になった方法です。

律法によると、罪から来る報酬は死であると書かれています。ですから、誰もが自分の罪のために死ぬしかないのです。それというのも、誰も実際に神の律法を守ることができないからです。しかしながら、イエスはバプテスマをお受けになり、ご自分のからだをいけにえとなさることによって、私たちの身代わりとなって罪のすべての代価を一度で完済なさいました。不動産業者が売り手と買い手を仲介するのと同様に、イエスは神と私たちとの間の救済の仲介を成し遂げてくださったのです。バプテスマのヨハネが人類のすべての罪をイエスにただ一度で移したのは、この救済の仲介をするためです。イエスにバプテスマを授けた翌日、バプテスマのヨハネはイエスが世の罪を負っておられるのを見て言いました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」 バプテスマのヨハネは、人類の罪――つまり、世の罪――を負われた人類の救い主としてイエス・キリストをあかしし、それ故に旧約聖書と新約聖書の間の仲介者となりました。



私たちはエリヤの務めを本当に理解しなければならない


ヨハネの福音書 第 1 章6-8節で、聖書によると、バプテスマのヨハネについて次のように書かれています。「神から遣わされたヨハネという人が現われた。この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。」

これは、バプテスマのヨハネがイエスのあかしをするようになったということであり、イエスが救い主であることを誰もが正しく理解できるのは、バプテスマのヨハネを通してなのです。もちろん、みなさんもこれを理解しなければなりません。それは、イエスを救い主として信じたいとどれほど思っていても、この真理を知らない限り、牧師であろうと素人であろうと、世俗的な宗教の実践者であるからです。水と御霊の福音を知らず、サタンに欺かれてしまったら、信仰生活において自分の義を打ち立てようとするだけで、最終的には向きを変えて神の義に敵対することになります。イエスを信じることによって罪の赦しを受けていると誰が思っても、神の義に敵対すると、確かに神の敵となり、その人の魂は滅ぼされます。

変貌の山で、イエスは突然雪のように白く変わり、エリヤとモーセがイエスの前に現れ、彼らはイエスと語り合いました。これは、エリヤがモーセとイエス・キリストの間の仲介役を果たしたことを示しています。バプテスマのヨハネは、人類のすべての罪をイエス・キリストにただ一度で移し、次にイエス・キリストは、このバプテスマによって人類のすべての罪を一度で受け入れられました。それからイエスは、こうしたすべての罪の代価をすべて支払われるために十字架で血を流され、死なれました。そして、死人の中からよみがえられ、こうしてイエスは私たちの救いを完了なさいました。そしてそのおかげで、私たちはイエスと同じくらい白く輝いて罪の赦しを受け、今や神の御国に入ることができます。言い換えれば、神は私たちを御国に入るために何も欠けていないようにされたのです。

この福音のメッセージをよく知っていても、実際に他の人に説明しようとすると、とても難しいと感じるでしょう。キリスト教のテレビに出演している多くの有名な牧師たちがイエスのバプテスマについてさまざまなコメントをしているのを見たことがありますが、正しい説明をしている牧師を見たことは一度もありません。マタイの福音書 第 11 章 13-14 節には、何が書かれているでしょう。「ヨハネに至るまで、すべての預言者たちと律法とが預言をしたのです。あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです。」 言い換えれば、バプテスマのヨハネこそ、まさにこの来たるべきエリヤなのです。

霊的なエリヤであるバプテスマのヨハネは、私たちの救い主としてイエスをあかしし、イエスがバプテスマによって私たちを世のすべての罪からただ一度で受け入れてくださることによってお救いくださったことをあかししました。しかしながら、多くのキリスト教の指導者たちは、目を大きく開いていても水と御霊の福音を知らないので、結果として、自分の魂も含めて誰にもあかしすることができません。こうしたキリスト教徒の指導者たちは水と御霊の福音に無知なので、他の誰かがこの福音をあかししているのを聞くと、彼らはこの人を異端者と見なします。私たちがサタンと霊的な戦いをしながら、この福音について信じない者に話すとき、彼らの最初の反応はそれを拒絶することです。これは確かに実際に起こることです。ですから、まだ新しく生まれていない者に福音を宣べ伝えるのは容易ではありません。この福音を宣べ伝えるとき、みなさんは断固として決心しなければならないだけでなく、みなさんの信仰も揺るぎないものでなければなりません。この揺るぎない信仰がなければ、この福音を宣べ伝えることは不可能です。

私たち水と御霊の福音の信者は、心に聖霊がおられるので、当然の事ながら、この福音の真理を受け入れます。バプテスマのヨハネの役割を理解せずにイエスを救い主として受け入れるというのは、みなさんを世俗的な宗教の実践者に変えるだけであることをここで理解する必要があります。イエスを救い主として信じようと熱心に思っても、バプテスマのヨハネがイエス・キリストにバプテスマを授けたときに世の罪がイエス・キリストに移され、イエスがバプテスマによって一度ですべての罪を負われたことを認めない限り、罪を洗い流されることはありません。罪の赦しを受けている者として、バプテスマのヨハネは神と私たちの間の仲介役を果たし、イエスはヨハネからバプテスマをお受けになることによって、すべての罪を負われ、十字架で死なれ、死人の中からよみがえられ、それによって永遠に私たちをお救いくださいました。そして、私たちは自分の弱さにもかかわらず、信仰を生き抜くことができ、水と御霊の福音への信仰にさらにしっかりと立つことができるのは、この真理のおかげです。そうでなければ、それは絶対に不可能です。私は、すべての文書でこの事実に明確に触れています。

イエスは、父なる神と私たち罪深い人類との間で仲介役を果たすようになさいました。イエスは、私たちの罪のために私たちが神に近づくことは決してできないことをご存じで、バプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになって、ただ一度で人類のすべての罪を負われ、十字架で死なれ、そして死人の中からよみがえられました。これにより、イエスの義を信じる者が大胆に神に近づくことができるように、私たちの救いを完成なさり、私たちのために仲介役を果たしてくださいました。バプテスマのヨハネの役割のおかげで、イエスは父なる神と人類との間で仲介役を果たすことができました。もちろん、これは父なる神のご計画に従って達成されました。バプテスマのヨハネの役割とイエスの務めがなければ、誰も罪から救われることはできず、イエスを救い主として認めることもできませんでした。

聖書によると、ヨハネの福音書 第 1 章 6-8 節に次のように書かれています。「神から遣わされたヨハネという人が現われた。この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。」 これは、バプテスマのヨハネがイエスのあかしをするようになったということです。バプテスマのヨハネは、イエスのバプテスマを通して人類の罪をイエスの上に移しました。そして、バプテスマのヨハネはこれをあかししたので、イエス・キリストが私たちの救い主であり、バプテスマをお受けになってすべての罪を負われ、十字架で死なれ、死人の中からよみがえられ、それによって私たちの救い主となっておられることを、私たちは知っています。ですから、バプテスマのヨハネがイエスにバプテスマを授けた翌日、ヨハネはこう言いました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ 1:29)。

当時、イエスが神の小羊であると言うのは誰にとっても容易ではありませんでした。それは、当時、誰かがイエスが神の御子であると宣言した場合、人々はためらうことなく、その人をすぐに石で打ち殺していたからです。それにもかかわらず、バプテスマのヨハネはこの真理をすべての人に大胆に宣べ伝えました。神のみわざをしているバプテスマのヨハネを好きである人々だけが、そうしたことを言えたのです。誰もがそうしたことを言えたわけではありません。

しかし、バプテスマのヨハネはイエスをあかししました。「彼は神の御子だ。神の御子は、人類のすべての罪を負われるようになった。実際に私からバプテスマを受けて、そうした罪をすべて負われたのだ。そして十字架で死ぬだろう。死人の中からよみがえり、それによって私たちをみな救われるだろう。彼は、神のいけにえの小羊だ。贖いの小羊だ。人類の贖いの小羊なのだ。」 そして、このあかしによれば、神のいけにえの小羊として、この地上に来られた神の御子イエスは、バプテスマによって私たちの罪をすべて負われ、旧約聖書のいけにえの動物が全焼のいけにえの祭壇の前で殺されたように、イエスは十字架につけられて死なれました。

エリヤとモーセは変貌の山に現れて、イエスと語り合いました。ここでは、エリヤがモーセとともに現れた理由も理解する必要があります。旧約聖書の代表はモーセですが、その最後の預言者で最後の大祭司は、霊的なエリヤであるバプテスマのヨハネです。バプテスマのヨハネが、イエスがバプテスマによってすべての罪を負われたという事実を含め、救いのすべての事実をあかししていなかったとしたら、イエスが変貌したときに私たちは変貌することができなかったでしょう。罪の赦しを受けることであろうと、罪から雪のように白く洗い流されることであろうと、バプテスマのヨハネのあかしがなければ、それはすべて不可能だったでしょう。このように、変貌の山で起こった出来事は、イエスの変貌について私たちに伝えるだけでなく、みなさんと私が水と御霊の福音によって来られたイエス・キリストを信じるなら、私たちは罪を雪のように白く洗い流され、神の子どもになります。ですから、イエス・キリストが変貌したように、私たちも変貌します。しかし、この変貌はどのように実現するでしょう。私たちは、エリヤ、モーセ、イエスによってなされたことを知り、信じることによって変貌します。これが、今日の聖句が私たちに教えていることです。

人間は神のかたちに造られましたが、サタンの誘惑と肉の弱さのために罪に堕落したとき、神のかたちを失い、罪人となり、悪魔のしもべとなりました。では、人間は誰によって再び神のかたちに変えられたのでしょうか。もちろん、それは神によるものです。神はモーセを通して私たちに律法をお与えになり、律法を通して、私たちは自分の罪を悟りました。バプテスマのヨハネは、人類の罪をイエス・キリストの上に移しました。私たちの罪を受け入れたイエス・キリストは、十字架につけられて、死人の中からよみがえられ、それによって私たちをお救いくださいました。それが、神が私たちを完全に変え、完全にお救いになり、神の子どもになさった方法なのです。

しかしながら、ほとんどのキリスト教徒は、バプテスマのヨハネがイエス・キリストと、人類としての私たちとの間の仲介者であることを認識していません。彼らはイエスを信じていると言っていますが、バプテスマのヨハネがイエスにしたことを本当に理解しておらず、盲目的にイエスを知っていると主張しているだけです。これは実際には迷信です。

なぜエリヤとモーセは変貌の山でイエスの前に現れたのでしょうか。彼らは、モーセが律法の代表であり、エリヤがイエスとモーセの間の架け橋、つまり旧約聖書と新約聖書を結ぶつながりであったためにそうしました。そして、このエリヤは新約聖書のバプテスマのヨハネを暗示しています。マタイの福音書 第 11 章 10-14 節に書かれているように、イエスご自身が「この人こそ、『見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を、あなたの前に備えさせよう。』と書かれているその人です。まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。ヨハネに至るまで、すべての預言者たちと律法とが預言をしたのです。あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです。」とおっしゃって、バプテスマのヨハネを人類の代表であり、きたるべきエリヤであると書かれています。

女性から生まれていない人がいるでしょうか。母親なしで生まれた人は誰もいないでしょう。ですから、イエスが「まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。」とおっしゃったとき、バプテスマのヨハネが人類の代表であることを意味していたのです。

イエスは、バプテスマのヨハネから受けたバプテスマによって、人類の罪をすべて受け入れられました。イエスは人類の罪を受け入れるようになり、バプテスマのヨハネはイエスにバプテスマを授けることによって、人類の罪をイエスに移すことになっていました。これも原則的に健全です。イエスが、「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」とおっしゃったのは、バプテスマのヨハネがイエスにバプテスマを授けたからです。イエスがバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになったということは、ヨハネが世の罪をイエスの上に移し、イエスが世の罪すべてを受け入れてくださったことを意味します。イエスは十字架につけられて死なれ、死人の中からよみがえられ、私たちの救い主になられたのは、そのためです。バプテスマのヨハネは、確かに旧約聖書と新約聖書の間の仲介役を果たしました。

ヨハネの福音書 第 1 章 17 節に、「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」と書かれているように、神はモーセによって人類に律法をお与えになりました。そして、イエスを通して、私たちを律法から解放するための恵みとまことを与えてくださいました。なぜ聖書は、ここで恵みに触れているのでしょう。私たちは罪人であり、天国に入る資格があるのは、私たちの行いによるものではないからです。これは、私たち自身の努力によっては成し遂げられませんでしたが、イエスの犠牲によって可能になりました。イエスが神と私たちとの間の仲介者になられたのは、そのためです。私たちは、この仲介者を正しく理解しなければなりません。

みなさんの仲介者は誰でしょうか。みなさんの信仰の先人が、みなさんの仲介者です。イエスは、神と新しく生まれた私たちとの間の仲介者であり、罪の赦しを受けている私たちは、イエスとまだ贖われていない人々との間を仲介します。贖われた人が仲介役を果たさなければ、イエスがどなたであるか、イエスがバプテスマのヨハネによって、みなさんの罪をどのように受け入れられたかを知れたでしょう。これを自分で知ることができたでしょうか。多くのキリスト教徒は、なぜイエスがバプテスマをお受けになったのか、不思議に思うこともなく、盲目的にイエスを信じています。彼らは軽率にイエスを信じています。みなさんも水と御霊の福音を知り、イエスがバプテスマのヨハネを通して世の罪を受け入れられ、十字架で死なれ、死人の中からよみがえられ、それによって救い主となっておられると悟り、信じることができているのは、罪の赦しを受けた人たちがまず仲介役を果たしたからです。

罪から来る報酬は死です。私たちは実際、罪のために死ななければなりませんでしたが、イエスがバプテスマのヨハネを通して罪をすべて受け入れられ、私たちの身代わりとなって十字架でこうした代価を支払ってくださったので、私たちはこの事実を信じることによって義人となったのです。これを知らずに、どうしてイエスを信じることができるでしょうか。未知の神を崇拝することが迷信のすべてです。したがって、イエスを本当に理解せずにイエスを信じるのであれば、迷信を信じるのも同じです。ですから、みなさんがイエスについて正しい知識を持っていることは絶対に不可欠です。

神とみなさんの間の真の仲介者は、誰でしょうか。それはイエスです。では、誰がイエスと私たちの間を仲介するのでしょうか。それはバプテスマのヨハネにほかなりません。イエスは、実際にはまことの神です(Ⅰヨハネ 5:20)。神ご自身が私たちを神に結びつけてくださったのです。イエスはバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになり、このバプテスマによって人類の罪をすべて、ただ一度で受け入れてくださいました。それからイエスは、こうした世のすべての罪を背負いながら十字架につけられて死なれ、そして死人の中からよみがえり、私たちを一度にお救いくださっています。

旧約聖書はマラキ書で終わり、このマラキ書はエリヤが再び来ると預言しました。このエリヤとは、バプテスマのヨハネにほかなりませんでした。そして、この預言によれば、バプテスマのヨハネはイエス・キリストより六ヶ月早くこの地上で生まれ、イエスをあかしし、バプテスマを授けて世の罪をイエスの上に移しました。イエスがその時に受け入れられた、そうした罪のために、十字架で死なれ、そして死人の中からよみがえり、人類救済を完了なさいました。バプテスマのヨハネは、こうしたすべてのことの仲介者でした。このようにして、バプテスマのヨハネは旧約聖書と新約聖書の間の仲介者となったのです。

バプテスマのヨハネもイエスをあかししました。ヨハネは、「世の罪を取り除く神の小羊」としてイエスをあかしし、イエスが何をなさるかをあかししました。バプテスマのヨハネがこの地上に来たのは、このみわざのためです。バプテスマのヨハネの役割を理解できましたか。バプテスマのヨハネのみわざは、キリストが私たちをお救いくださることができるように、私たちのすべての罪をイエスの上に移すことでした。イエスが私たちのすべての罪を負うことがおできになったのは、イエスがバプテスマをお受けになったからであり、こうした罪の代価を支払うために、イエスは十字架につけられて死なれたのです。そして死人の中からよみがえり、私たちを救うみわざを完了なさいました。バプテスマのヨハネは、こうしたすべてのことをあかしし、イエスが実際には神であられ、父なる神の御子であったことをあかししました。

旧約聖書はモーセによって描写されます。モーセはイスラエルの民をヨルダン川にのみ導き、そこからカナンの地が見えました。それから、モーセは神とともにいるために、この世を去りました。これは、律法の役割が私たちの罪について教えていることを暗示し、私たちが罪に気づいたら、私たちはイエス・キリストの御許に行かなければなりません。それは律法の教えの範囲であり、それ以上のことはできません。律法自体は、私たちに罪の赦しをもたらすことはできません。モーセは遠方にカナンの地を見ましたが、そこに足を踏み入れずに死にました。同様に、律法は私たちの罪についてのみ教えています。私たちが神の前で罪人であることを悟るのは、律法を通してなのです。

そして、イエス・キリストが私たちのすべての罪を負われたことを認識する方法は、バプテスマのヨハネによります。私たちは、イエスがバプテスマのヨハネから受けたバプテスマによって私たちのすべての罪を受け入れられ、十字架で死なれ、死人の中からよみがえられることによって、私たちの救いを成就なさったことを悟り、信じることによって、神の民になっています。そして、イエスがこの地上に戻られる日、私たちもまた、イエスが変貌の山で突然変貌したように変貌します。聖書によると、「朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。」(Ⅰコリント 15:53)と書かれているように、主がこの地上に戻られたときに私たちの身体は変貌すると教えています。これが、今日の聖句でのイエスの変貌を通して、神が私たちに示されていることです。

イエスは、バプテスマによって私たちのすべての罪をただ一度で受け入れられました。みなさんの罪と私の罪は、すべてイエスの上に移されました。私たちの罪を背負われながら、イエスは十字架につけられて死なれたのです。そして死人の中からよみがえり、私たち全員をお救いくださいました。復活なさったイエス・キリストは今、父なる神の右の座に着座しておられます。私たちが罪の赦しを受けることができるのは、このイエス・キリストを救い主として信じることによってであり、私たちはまだ至らない肉体のうちにいますが、神の前に揺るぎなく立ち、信仰によって生きています。

この地上で私たちが犯した罪がとても緋色の赤であるとき、他にどのようにして罪の赦しを受けられるでしょうか。他にどのようにして私たちは神の子どもになれるでしょうか。そして他にどのようにして罪のない民になれるでしょうか。ですから、私たちはこの事実をはっきりと認識し、それを信じ、みことばに耳を傾け、この真理について反芻し続けなければなりません。ここで、みなさんの救いは信仰によって達成されることを理解する必要があります。肉によって自分で何かをすることによってではないのです。

神はみなさんと私をお救いになり、私たちに知恵と知性をお与えになり、すべてのことをする権利をお与えくださいました。しかし、私たちが神のみわざをしなければ、私たちは無価値です。神は私たちにこのみわざをするように命じられ、私たちがイエスのように変貌することを約束なさいました。自分たちでは、神に仕えるために何かを成し遂げることはできません。私たちが主に仕えているのは主の力によるものであり、私たちの心は自分の身体よりもむしろ最初に働かなければならないことを謙虚に認識し、受け入れなければなりません。まず神の前で信仰によって支えられなければならないのは、私たちの心であり、私たちが働かなければならないのは、信仰によってなのです。バプテスマのヨハネは、「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」(ヨハネ 3:30)と言って、主の前に身をかがめるほど謙虚でした。また、主の前にそのような心の気質が必要です。私たちは、自分たちに委ねられたことをしているだけです。

未来に備えていない人は誰でも、貧しくなり、物乞いとして惨めな生活を送ることになります。私たちの肉の生活においても、このように未来への備えが重要であるとすれば、霊的な事柄に関しては、どれほど重要なことでしょうか。バプテスマのヨハネが私たちの仲介者になったという事実を信じることは、私たちの魂の未来に備えることなのです。

水と御霊の福音を他の人に宣べ伝えるときはいつでも、彼らがそれを受け入れるかどうかにかかわらず、イエスのバプテスマの重要性を明確に説明する必要があります。これを示している聖書の一節を思い出せない場合は、事前に書き留めて、それを人々に向かって読んでください。

それでは、水と御霊の福音を至る所で広め、この真理への信仰を置きましょう。一緒になって、この世の終わりまで全力で福音を宣べ伝えましょう。