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Κηρύγματα

主題 9: 使徒パウロのローマ人への手紙

[Chapter 4-3] 人間の義は誇るべきものではない (ローマ 4:1-25)

(ローマ 4:1-25)
それでは、肉による私たちの先祖アブラハムの場合は、どうでしょうか。もしアブラハムが行ないによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」とあります。働く者の場合に、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。
何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。ダビデもまた、行ないとは別の道で神に義と認められる人の幸いを、こう言っています。
「不法を赦され、
罪をおおわれた人たちは、幸いである。
主が罪を認めない人は幸いである。」 
それでは、この幸いは、割礼のある者にだけ与えられるのでしょうか。それとも、割礼のない者にも与えられるのでしょうか。私たちは、「アブラハムには、その信仰が義とみなされた」と言っていますが、どのようにして、その信仰が義とみなされたのでしょうか。割礼を受けてからでしょうか、まだ割礼を受けていないときにでしょうか。割礼を受けてからではなく、割礼を受けていないときにです。彼は、割礼を受けていないときに信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。それは、彼が、割礼を受けないままで信じて義と認められるすべての人の父となり、また割礼のある者の父となるためです。すなわち、割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが無割礼のときに持った信仰の足跡に従って歩む者の父となるためです。
というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によったからです。もし律法による者が相続人であるとするなら、信仰はむなしくなり、約束は無効になってしまいます。律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違反もありません。
そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。
しかし、「彼の義とみなされた」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。
 
 
<ローマ 4:1>それでは、肉による私たちの先祖アブラハムの場合は、どうでしょうか。
信仰の父アブラハムでさえ、肉においてはまことに弱い人でした。彼の肉は神の約束の実現を待てず、妻のはした女であったハガルによって子を得ます。ハガルはやがて神に敵対します。アブラハムは肉においては誇るべきものを何ももちませんでした。彼は肉の弱さから、我が身を救うために妻を裏切りました。アブラハムは、夫として、けっしてしてはならないことをしました。ですから、神の御前で彼が何を誇れたでしょう。アブラハムには肉において誇るべきものは何もありませんでした。
ローマ第 4 章は神の義を信じるとはどういうことかを説明しています。たとえば、「それでは、肉による私たちの先祖アブラハムの場合は、どうでしょうか」(ローマ 4:1)以下では、アブラハムがいかにして神の義を得たか告げています。アブラハムには肉において誇るべきものも義も何もありませんでした。かえって、聖書を読むと、彼には人間としての道徳規範さえ守れなかったことがわかります。彼は自分の命を守るために妻を裏切ります。このことから、アブラハムには人間の義さえなかったことがわかります。
しかしながら、彼が神の義を心から信じたため、神はアブラハムの信仰をお認めになりました。では、彼が妻を裏切った罪はどうなったのでしょう。その罪も、すでに神が消しておられました。神は、神の義を含む水と御霊の福音によってアブラハムの罪を消されました。これが真の福音の力です。
神の義を含むこの福音は何でしょう。そうした力を持つ福音とは、水と御霊の福音です。アブラハムには人間の義はありませんでしたが、神の義を信じていました。ですから、アブラハムは信仰によってすべての人の信仰の祖になったのです。アブラハムが神から受けた義は、彼自身の義によって得たものではありません。
この二十一世紀に生きる私たちには、ローマ書の語ることは理解し難いでしょう。パウロはローマ 4:2 で、「もしアブラハムが行ないによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません」と述べました。パウロは、アブラハムが神の義を受けたのは自分の行いによるのではなく、義人として神に認められたからだということを明確にしています。神の義を信じたからアブラハムの罪は覆われたのだというのです。
これは、実際はアブラハムに罪があったのに、神が義人と見なされたということでしょうか。いいえ。これは神の義が彼の罪をみな消し去ったということです。神は、その人がイエスを信じているからといって、罪のある者を罪なしとはなさいません。
しかしながら、今日、神の義を知らずにイエスを信じているキリスト教徒があまりに多いのです。そうした人の信仰は正しくありませんし、それでは罪を消すことができません。アブラハムが肉の義によって義人とされたなら、誇るべきものがあったでしょう。しかし、彼の得た神の義は、神のみことばへの信仰によって得たものであり、彼自身の義によるものではないのです。ですから、神の目からすると、アブラハムは神の義を誇ることのできる者だったのです。彼は肉においては誇るべきものを何ももちませんでしたが、神の義を信じたために偉大な信仰の人になったのです。パウロはローマ書で、神の義を信じるとはどういうことかを説明しています。神の義を信じるということは、イエス・キリストを信じて罪の赦しを受け、それにより、神の御前で罪を覆われる恵みを受けるということです。ですから、神の義を信じる者が、その信仰の報いとして義人とされるのは、ふさわしいことなのです。ローマ書の話題は神の義です。
 
<ローマ 4:2>もしアブラハムが行ないによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。
アブラハム自身の行いは、神に義と認められませんでした。では、彼の信仰の何が認められたのでしょう。神がお約束なさったみことばをすべて信じたので、神に信仰を認められたのです。
そうした信仰が、私たちが神の義を得ることをも可能する信仰なのです。肉の善行によって神に信仰を認められるのではありません。イエスがバプテスマのヨハネからお受けになったバプテスマと、十字架上で流された血とが、罪の赦しをもたらす神の義を成すと信じるからなのです。
 
<ローマ 4:3>聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」とあります。
アブラハムはみことばを信じたことが義とみなされ、神の義を得ました。アブラハムの信仰は、そのようにして神に認められたのです。
聖書学者の中には、アブラハムが神のみことばを信じて得た神の義を義認説に照らして解釈している人がいます。しかし、それは間違いです。義認説の始まりというのは、イエスを信じていても罪を消せない神学者の中に、「自分は神を信じているのだから、神がご自分の民としてくださるだろう」と考える人がいたのです。
今でも、多くの人はまだ、アブラハムには罪があったけれど、神はその信仰のゆえに、彼を罪のない民の一人とみなされたのだと考えています。しかしながら、神の義とは、そうしたものではありません。神の義を信じる者は、ほんとうに神の民になります。神がほんとうにアブラハムに息子を約束なさったように、神の義は信じる者の心に本物の義をもたらすのです。神は約束なさったことを実行なさいますから、みことばを信じる者は真実を信じているのです。ですから、神はそうした信仰をお認めになります。神とそのみことばが真実だからです。
この時代に生きる私たちは、人類の罪を消すためにイエスがヨハネから受けられたバプテスマ、十字架の血・死、そしてよみがえりをありのままに信じるなら、すべての罪の赦しをもたらす信仰をもてるのです。水と御霊のみことばを信じると、神はその信仰をお認めになります。この信仰が、神の義を確かに心にもたらすのです。それは、イエスが実際にバプテスマをお受けになって世の罪を被られ、十字架上で死なれ、死者の中からよみがえられたからなのです。イエスのバプテスマと血とが罪をただ一度でみな消しました。みことばへの信仰こそが、神の義への信仰です。
 
<ローマ 4:4>働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。
神の義を得るために、霊的にしろ物質的にしろ何かよいことをしたなら、神の義を受ける資格を得ます。しかし実際は、神の義を得るために正しいことをする、ということがまるでできないのです。これは単純な事実です。どんなに高潔に生きても、人間の「善」ではけっして神の義を得られません。
仕事をして賃金をもらったなら、それは報酬であって、謝礼ではありません。ところが、人間が自分の行いで神の義を受けるのは不可能です。人間には神の義という報酬に値することが何もできないからです。ですから、神の義は賜物としてだけ得られるのです。この賜物は、主の成就された義のみわざを信じてはじめて与えられます。信仰によって神の義を得たのなら、明らかに、それは神の義を信じる者への賜物として神から与えられたものなのです。
 
 

神のための働きをせずに神の義を得た者

 
<ローマ 4:5>何の働きもしない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。
真理のみことばによると、完全に律法のとおりに生きることができなくて罪人になっていても、イエスがバプテスマのヨハネから受けられたバプテスマによって世の罪をみな被られ、罪の赦しのために十字架上で死なれたことを認めるなら、神はその信仰を正しいものとお認めになるのです。これを知り、信じるのが、神の義を信じる信仰です。
生まれつき不敬虔な人間を罪からお救いくださるために、神は御子をこの世に遣わされ、バプテスマを受けさせ、十字架につけさせ、復活おさせになりました。そうして人間を義人にしてくださったのです。私たちは、この神を信じています。私たちは、イエスがバプテスマと血とによって世の罪からお救いくださったと信じています。ですから、神の義を信じて信仰を神に認められたのです。神はご自分の義を知り、信じる人々の信仰をお認めになります。
神のための働きをしなくとも、その義を与えられている者は幸いだと、主はおっしゃいます。ダビデは、神の前に真に幸いな人とは、不法の行ないが赦され、罪が覆われている人だと述べました。パウロはここで、神の義である福音について説明しています。
では、どうしたら神の義を得、罪の赦しを受けられるのでしょう。罪の贖いを受けるには、神の御前でどんな信仰をもたなければならないのでしょう。誰一人律法を守れません。神のくださった水と御霊の福音を信じてはじめて神の義を得、罪の赦しを受けられるのです。
高潔に生きて信仰を神に認められようとしている人が大勢います。安息日を忠実に守らなければならないと言う人がいれば、イカや豚を食べてはいけないと言う人もいます。そうした意見は、行いによって神に信仰を認めていただこうという間違った考えから出たものです。そうした人は考え違いをしていて、いまだに人間の義を求めているのです。
神の義を知り、信じて罪から救われるということを知らなければなりません。しかしながら、多くの人は、キリスト教徒なら清く生き、律法を守り、罪を犯さずにいれば、徐々に聖化されると考えています。
だから神の義の内に入れないのです。間違った考えから、人々は、イエスを信じる目的は聖化することにあると思い込んでいます。しかしながら、そうした人の信仰は、神の義から隔たった、間違った信仰です。
みなさんは、行いではなく信仰によって神の義を得ておられますか。神の助けによって救済を受けた信仰は、神の義を信じる信仰です。罪から救われるためにイエスを救い主と信じたとしても、神の義を知らずにいたのでは、その信仰は無益です。みなさんは神の義にすがっておられますか。人間は本質的に神の御前で正しくあることができませんから、神の義にすがらなくては救われません。
人間はもともと、悪を行う者の子孫です。神の義の福音が来る前、高潔に生きることは不可能でした。神が罪人をお救いになるためにこの世に来られたのは、そのためです。神は人間を憐れまれたのです。罪人を罪からお救いになるために来られたイエスは、ヨルダン川でバプテスマのヨハネから受けられたバプテスマで神の義をすべて満たされました。イエスはバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになり、十字架上で死なれ、罪をみな洗い流し、お救いくださいました。イエスのバプテスマと十字架上の死、よみがえりの中に神の義はあります。イエスはこの世に来られて神の義をすべて満たされました。
世の中には、自分の義を信じている人々がいます。他人のために命を投げ出しさえする人もいます。それが人間の義です。しかし、この世の物事にはすべて理由があります。自分の利益を度外視して、ほんとうに犠牲になろうという人がいるでしょうか。主は、「善を行なう人はいない。ひとりもいない」とおっしゃいました。他人を救おうとして溺れた人は、その徳をたたえられます。しかし、溺れる人を救うのは人間の義です。
どの文化にも、善を称揚して悪を罰する道徳規範があります。人々は、徳のある者は報われ、悪い者は罰されるべきだと考えています。ですから、人間には本質的に善意などないというのに、人間の義を示す傾向があります。人間の義のおかげを蒙っているので、この規範を重視するのです。自分なりの義を立てようという気持ちなしに、他人のためにすすんで命を投げ出そうという人がいるでしょうか。いいえ。人間はみな自己中心的です。愛する時でも、自己中心的で利己的な愛を分け合うのであり、自分なりの義に基づいて徳を養うだけです。
最近、教会の執事の一人から、その方の義理のお父さんがもう長くないということを伺いました。それを聞いたのが正午ごろのことです。それが、深夜になって、亡くなったという知らせがきました。それを聞いて、私は執事さんに義理のお父さんのご逝去のお祝いを申しました。義理のお父さんという方は神の義を知り、信じておられたからです。
この方は、生涯ただの一度も教会に来られませんでした。死の一年ほど前、その方が入院しておられた時、私どもで宣教活動をしている者が訪ねて行き、福音のお話をしたことがあります。しかし、その方は耳が悪いからといって、聞こうとなさいませんでした。後になって退院なさると、こんどは執事さんが福音を説いたのです。すると、福音のみことばを信じるとおっしゃったのです。最初は、イエスを信じる理由も必要もありませんから、信じようとしなかったのです。しかし、病気になり、ご長男が破産し、この世の希望をすべて失ったとき、神の義を含む福音を聞く必要を感じ、それを心に受け入れたのです。執事さんは義理のお父さんが亡くなる前に、もう一度信仰を確認しました。すると、罪は全部、イエスのバプテスマの時に移されたのだから、自分にはもう罪がないとおっしゃったのだそうです。
この方は神の義を信じて罪の贖いを受けられました。生涯一度も教会の礼拝に出席なさいませんでしたし、神に何の奉仕も、捧げ物もなさっていません。神の福音を広めることのために祈ったこともありません。それでも、神の義を聞き、信じた時、神の義がその方の罪をみな贖ったのです。その方は神の義の福音を心で信じて義人になられました。その方が聞かれた水と御霊の福音は、罪をみな消し去りました。神の義を含む驚くべき福音を聞いて、この方はその力を得ました。
他のどの方法でもけっして罪から救われなかった人が、神の義を信じて救われました。これが神の義を信じる正しい信仰の結果なのです。神の義を告げる福音には神の慈愛と力が示されています。神の慈愛とは、まったく救われるに値しないすべての人間に与えられた、神の深い愛です。神は罪人を深く憐れまれたので、その義によって罪の赦しの賜物をお与えになりました。神の慈愛が、救われる資格のない者に深い愛と救いをもたらしたのです。神はそうした慈愛をすべての人に注がれました。
しかし、神の義を知ろうとも、信じようともしない人がまだ大勢います。これは、神の義によって成就された福音の力を知らないからです。亡くなった方は神の義を理解し、信じたために義人になりました。この世ではけっして完全な生き方はできませんでしたが、神の義を含む福音を信じたので、すべての罪を洗われ、完全に救われたのです。これこそが聖書のいう、神の義を信じて得られる救済です。神の義を信じる人は、みな幸いです。
 
<ローマ 4:6-7>ダビデもまた、行ないとは別の道で神に義と認められる人の幸いを、こう言っています。
「不法を赦され、
罪をおおわれた人たちは、幸いである。」
神の義を信じる者、それにより信仰を神に認められた者はみな、たとえ神の律法を守れなくても、幸いです。
いったいどのような人が最も幸福なのでしょう。
第一に、神の義を信じている人、それによって、これまでに犯した罪も、まだ犯していない罪も含め、すべての罪の赦しを受けている人は幸いです。
第二に、神の義を信じて罪をみな覆われ、信仰により罪と罰とをみな逃れた人は幸いです。
自分の国に対して何か恐ろしいことをし、他人がその罪の責めを負って身代わりとなって死んだなら、喜び、その人に深く感謝するのではありませんか。イエスはまさにそうした行為をなさったのです。バプテスマを受けられ、十字架上で死なれ、そうしてすべての罪からお救いくださいました。神の義の真理を信じて世の罪全部の贖いを受けられるとしたら、それを心から信じるのではありませんか。神の義を信じて幸福になるのです。この真理を信じる人は幸いです。
 
 

真の信仰で罪を覆った者

 
<ローマ 4:8>主が罪ありとなさらない者は幸いです。
主が罪ありとなさらない者とは、福音のみことば、神の義を信じる者です。神の恵みを受けている者はまた、神の義を信じてもいます。神の義を信じる者はアブラハムのような信仰をもっています。神の義を信じる者はアブラハムのように恵まれています。みなさん、神からアブラハムのような幸いを受けるのは誰でしょう。神の義を信じる者はアブラハムのように幸いを受けています。
聖書は、アブラハムが神のおっしゃったことをみな信じたので、神に認められたとしています。今、水と御霊の福音のみことばが罪の赦しであったと信じている者も、正しい信仰をもっていると神はお認めになります。ですから、神の義が何かを知ったなら、心で信じなさい。すると、かつてアブラハムに与えられた天の恵みが得られます。
人間の幸福について、聖書は何と言っているでしょう。「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである」とあります。神の前で不法な行ないとは、何でしょう。神の前での不法とは、その義を信じないことです。誰もが神に対して罪を犯します。ですから、誰もが神の義を信じて罪の赦しを受けなければなりません。
では、神の義の福音とは何でしょう。真の福音とは、イエスがこの世に来られ、三十歳の時にバプテスマを受けられて世の罪を被られ、十字架上で死なれ、死者の中からよみがえられ、そうして人類の罪をただ一度でみな贖われたというものです。
どうしたら神の御前で罪を覆えるでしょう。高潔に生きたなら、罪は覆われるでしょうか。聖書は、罪が覆われるのは神の義を信じる者だとしています。神の義を含むみことばを信じてはじめて、罪はみな贖われます。つまり、神の義を心に受け入れてはじめて、心の罪が覆われるのです。イエスがバプテスマのヨハネからお受けになったバプテスマと十字架上の血についてのみことばを信じてはじめて、罪はみな消されます。このように神の義を信じて、罪はみな覆われるのです。
自分の善行では罪は覆われません。イエスがヨハネから受けられたバプテスマ、十字架上の血が人類の罪の贖いであったと信じて、はじめて覆われます。この信仰が罪を覆うのです。イエスは人間の罪のためにこの世に来られ、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けられ、十字架上で死なれました。これを心で信じるなら、罪をみな覆うことができます。なぜそれが可能なのでしょう。神の義の含まれた福音を信じると、すべての不法を覆う神の義で身を包むことができるからです。神の義を信じると、罪がみな覆われるのです。
神の目からすると、そうした信仰をもつ者が義人なのです。そうした人は神の御前で最も幸いな人です。私たちもいつかは、先ほどお話ししました義理のお父さんのように、神の御前に立つことになります。これは誰も免れません。イエスがこの世に来られ、自分のためにバプテスマを受けてくださり、身代わりとして罰を受けてくださったという良い知らせを聞いたのですから、あの方は幸いでした。そして、その福音を信じたので罪が覆われました。ですから、神にお見せするべき善行が何もないのに、信仰のおかげで罪が覆われたのです。
神の御前で幸いな人とは、どういう人でしょう。みなさんは罪を覆うことのできる信仰をおもちですか。神の義を含む福音のみことばを抜きにして、高潔に生きることで罪から救われようとしておられるのではありませんか。神の義を信じたときに罪をみな覆うことを可能にする真理を信じなければなりません。神の義を信じている者は、みな神をたたえることができます。神をたたえるのは、罪から救われるためではありません。すでに罪全部から救われており、そのことを感謝しているので、神をたたえるのです。
ほんとうに幸福になった者とは、神の義を心に受け入れた者です。神の義を含む福音を心にもつ者は、神のおかげで罪が覆われています。
私は、義人が亡くなったときはいつでも、その葬儀の際に福音を説くことにしています。それは、ご遺族に神の義をあかしするよい機会だからです。神の義を含む福音を信じる者はほんとうに幸福で、この福音を説いて生きます。
みなさん、ご自分の良い行いで罪から救われようとしては、いけません。神の御前で罪が覆われるには、神の義を信じなければなりません。金持ちが貧しい人にダイヤを贈ったとします。もらった人は、感謝して受け取りさえすればよいのです。神は人間の罪をみな覆うためにこの世に来られ、バプテスマを受けられました。それなのに、神を信じていながら、罪の赦しを受けるには律法を守るか、少なくとも、自分の義を打ち立てるためにすべて守るべく最善の努力をしなければならないと信じているなら、神はけっしてその罪を覆われません。みな、信仰をもって神の義を受け入れなければなりません。けっして信仰において物惜しみしてはいけません。諸手を広げて受け入れなければなりません。
 
 

救済は善行なしに与えられる

 
<ローマ 4:9>それでは、この幸いは、割礼のある者にだけ与えられるのでしょうか。それとも、割礼のない者にも与えられるのでしょうか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」とあります。
ここでは律法と神の義について述べています。パウロはここで、律法を守ることによってではなく、みことばを信じて人は幸いを得るのだとしています。
パウロは、アブラハムが幸いを受けたのは、肉体に割礼を受ける前、神のみことばを信じたからだと説明しています。これは神の義を信じる信仰です。また、この義を信じて神の義を得た人々と同じ信仰です。
パウロがここで割礼の時期と、アブラハムが割礼を受けていなかったことについて触れているのは、神の義を信じれば幸いを受けられることをユダヤ人に教えるためでした。これを理解したうえで神を信じなければなりません。アブラハムの信仰が認められたのは、みことばに示された神の義を信じたからだということを知っていなければなりません。
創世記 15:1-6 で、神はアブラハムに、「あなた自身から生まれ出てくる者が、あなたの跡を継がなければならない」とおっしゃいました。アブラハムには子どもがいませんでした。神が顕現なさり、何かを与えようとおっしゃったとき、アブラハムは、自分には子どもがいないので、エリエゼルが自分の跡継ぎになることを話しました。すると、神はアブラハムにおっしゃいました。「その者があなたの跡を継いではならない。あなた自身から生まれ出てくる者が、あなたの跡を継がなければならない。」(創世記 15:4)そして、彼を外に連れ出しておっしゃいました。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」それから、「あなたの子孫はこのようになる」と続けられました。アブラハムはエホバ神を信じ、神はアブラハムの信仰をご覧になって彼を義となさいました。つまり、アブラハムは神を信じたために認められ、信仰の人になったのです(創世記 15:5-6 参照)。
与えられた律法の戒めを守ったからではなく、神が御子イエスのバプテスマと血によって罪をみな消してくださったことを信じたとき、信仰は認められます。私たちは、そのようにみことばを信じて義人とされました。神の律法を守って罪の贖いを受け、神の子どもになるのではありません。神は人間を愛しておられるので、イエスのバプテスマと血によって罪をみな贖ってくださったと信じてはじめて、そうなるのです。これが、アブラハムがみことばを信じて神に認められた、その信仰なのです。
アブラハムが、神のおっしゃったことを信じて信仰の人になったように、私たちの信仰もまた、イエスがバプテスマのヨハネから受けられたバプテスマと十字架とのみことばを信じて認められるのです。アブラハムの信仰と、この時代の水と御霊の福音のみことばを信じる者との信仰は同じです。神の義を信じる、この信仰が人を救うのです。
私たちの信じる神は、義の神です。神の義を信じるなら、神の義はその人のものになり、神はその信仰をお認めになります。神とみことばへの真の信仰とは、神の義を信じる信仰です。みなさんもまた神の義を信じ、神に認めていただかなければなりません。ハレルヤ。
幸いを得た人について、聖書には次のようにあります。「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪ありとなさらない者は幸いです。」(ローマ 47-8)
では、アブラハムは割礼を受けたために義とされたのでしょうか。それとも、割礼を受ける前、神のお約束を信じて義人とされたのでしょうか。アブラハムは、割礼とは関係なく、神の義のみことばを信じて救われました。私たちもまた、神の義のみことばを信じてすべての罪から救われています。
パウロは次の部分で、アブラハムがいつ義人とされたか尋ねています。つまり、アブラハムがいつ神の義のみことばを受け入れたかを尋ねているのです。それは割礼の後でしたか。それとも前ですか。割礼の後であったなら、アブラハムの割礼が義認に何らかの関わりがあったと思われるでしょう。他方、もし信仰を認められたのが割礼の前だったなら、彼の信仰が行いとは何の関係もないことがわかります。神のくださった義の救済は肉の割礼によっては得られません。アブラハムの信仰は、いつ神に認められたのでしょう。答えは明らかです。アブラハムの信仰は創世記 15:6 で、つまり、割礼を受ける十四年前に神に認められているのです。
アブラハムはみことばを信じたために信仰を認められたのですから、彼の子孫もまた、同じ信仰によって義とされるのです。誰でも神の義のみことばを信じる者は、神がその信仰をお認めになります。アブラハムは信仰によってすべての罪から救われ、信仰の父となりました。アブラハムは神のみことばを信じて義人とされました。彼は神の約束のみことばへの信仰の印として割礼を受けました。つまるところ、アブラハムは信仰のゆえに義人とされ、私たちの信仰の祖になったのです。彼は割礼を受ける前に、すでに信仰を認められていたので、神を信じる者みなの信仰の祖になったのです。
パウロは、ユダヤ人も外国人も、神の義を得るためには、神の義により約束された救済への信仰に戻らなければならないと言いました。アブラハムはその信仰によって義とされたのです。律法の下に行われた肉の割礼によってではありません。
すべての罪からの救いは、神の義を信じてはじめて可能になります。神の義によって救われているか、それともまだまったく救われていないか、人はこのどちらかに分けられます。それは、義認は行いによるのではなく、信仰によるからです。
 
<ローマ 4:10> どのようにして、その信仰が義とみなされたのでしょうか。割礼を受けてからでしょうか、まだ割礼を受けていないときにでしょうか。割礼を受けてからではなく、割礼を受けていないときにです。
アブラハムは神と約束のみことばを信じたので、神は彼の信仰を正しいものとなさいました。ここで知っておくべきことは、神は単なる寛容や盲目的な愛情からアブラハムの信仰をお認めになったのではないということです。
アブラハムは肉においては弱く、行いにも至らぬ点がまことに多かったのですが、神はアブラハムの信仰をお認めになりました。神とみことばへの信仰が正しいものだったからです。神は正当な理由なしに彼を罪のない者となさったのではありません。この点がおわかりですか。
先に進む前にここで確認しておくべきもう一つの点は、義認説の問題です。この教義は神への信仰として正しいものでしょうか。義認説は、たとえまだ罪があっても、イエスを信じているのなら、神はその信仰を考慮なさって、その人を義人、子どもと見なされるとしています。しかし、これは神の義を信じる信仰ではありません。ところが、まだ心に罪をもつ罪人であるキリスト教徒は、この教義を好むのです。大方のキリスト教徒は何の疑問もなく、この教義を信じています。
しかし、神はほんとうにキリスト教徒だというだけで罪人を義人とみなされるでしょうか。あり得ません。神が信仰をご覧になるときは、ご自分の義を成す水と御霊の福音のみことばを信じているかどうかをご覧になり、そうした信仰だけを正しいものとお認めになるのです。神の義となった水と御霊の福音のみことばを信じないで、イエスを宗教的存在としてだけ信じていたところで、まだ罪のある者を、不法にも罪が贖われたものと見なすようなことを神はなさいません。これがおわかりですか。
義認説や漸進的聖化説のようなキリスト教教義は絶対に神の義を示す教えではありません。かえって、そうしたものは間違った信仰へと導き、肉の割礼のような律法の実践によって神の義を得ようとさせるのです。そうした信仰を神がお認めになるでしょうか。いいえ。そのような信仰を神はお認めになりません。律法主義的な人間の作り出した信仰を神はお認めになりません。その証拠に、義認説や漸進的聖化説を信じる人の心には神の義がなく、罪はまだそっくり残っています。罪の赦しを受けていないのですから。それに対して、神のお認めになる信仰をもった者の心には、どんなに探しても罪が見出せません。
神の義への信仰が水と御霊の福音にある証拠は、この福音を信じる者の心には罪がまったく残っていないという点にあります。たとえ過ち多い人間であっても、それでも罪はないのです。それが、真実に基づいた、神の義を信じる信仰なのです。
よろしいですか、アブラハムの信仰は割礼を受ける前に神に認められているのです。キリスト教徒が神の律法を毎日誠実に守り、あるいは、律法に背いたことをするたびに悔い改めの祈りをささげたからといって、罪がなくなりはしません。イエスを信じるようになり、神の義を成す水と御霊の福音のみことばを信じて、罪をすべて贖われるのです。そのように信仰によって神の義を得るのが神の義を信じる者になるということです。
イエスを信じるようになったとき、神の義を信じておられましたか。今でも神の義を信じておられますか。イエスが罪人の救い主だと信じておられるなら、バプテスマと血とが罪をただ一度で贖った神の義だと信じなさい。信じるなら、神の義がその人のものになります。すると、アブラハムと同じ信仰をもつことになります。神の義の祝福がみなさんと共にありますように。
 
<ローマ 4:11>彼は、割礼を受けていないときに信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。それは、彼が、割礼を受けないままで信じて義と認められるすべての人の父となり、また割礼のある者の父となるためです。
神はアブラハムがまだ割礼を受ける前にその信仰をお認めになりました。ここから、律法を守ることのできない人間でも、ご自分の義のみことばを信じるなら、アブラハムのように神の義を得る信仰をもてるようにしてくださっていることがわかります。アブラハムは神とそのみことばを信じたために、神に認められました。今この時代に生きる私たちは、神の義を示す水と御霊のみことばを信じて、はじめて信仰を神に認めていただけます。アブラハムは真の信仰の永遠の父です。
 
 
神の義の信仰の足跡をたどって
 
<ローマ 4:12-13>すなわち、割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが無割礼のときに持った信仰の足跡に従って歩む者の父となるためです。というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によったからです。
アブラハムは神のみことばを信じて、霊的割礼を受けた者の信仰の父になりました。当時のユダヤ人が行った儀礼的割礼には、アブラハムと同じ信仰をもって真の子孫になるといった特別な霊的効果はありませんでした。アブラハムの血を引く者であることを示す印でしかなかったのです。
アブラハムの信仰は肉の割礼によって認められたのではなく、肉の割礼を受ける以前に神とみことばを心の底から信じるものでした。そうしたアブラハムの信仰が正しいものと認められたのです。アブラハムが神に認められた信仰というのは、神がイスラエル人に律法をお与えになる四百三十年前に彼のもっていた信仰です(ガラテヤ 3:17)。ですから、霊的割礼は神がユダヤ人にお与えになった律法とは何の関係もありません。
神とみことばを信じるのが神の義を信じる真の信仰です。神の義を示す水と御霊の福音のみことばを信じるなら、すべての罪から救われる恵みを受けます。つまり、この福音を信じることが、神の義を信じるということなのです。
霊的先人と同じ信仰をもたなければなりません。そしてその足跡に従うのです。そうせずに、先人の儀式や行いに倣うのでは、信仰は躓きます。ですから、弟子たちの信仰を見出し、同時に彼らと同じ信仰をもたなければならないのです。聖書にある先人の信仰は、常に旧約のみことばに基づいていました。
神は、旧約のモーゼの五書に記されたいけにえの制度により、イスラエルの民が犠牲の頭に両手を置き、それから血を採って罪の赦しを受けられるようになさいました。そこで、新約でもまた、そうした救済の律法に従わなければなりません。そのためには、旧約のいけにえの制度を知り、また、新約の水と御霊の福音を知っていなければなりません。
天の霊的巡礼になるには、神の義を信じ、自己を否定することができなければなりません。アブラハムは神の義のみことばに従って故郷を離れました。それにより、その土地で広まっていた信仰を後にし、神の義に従う信仰を得たのです。イエスが、毎日自己を否定して十字架を負い、従えとおっしゃったのは、そのためです(ルカ 14:26)。
霊的巡礼は神の義に従うのが特徴です。それが天の巡礼の道に旅立った、イエスの弟子たちの歩んだ道なのです。天の巡礼は過去の信仰を後にし、神の義を信じ、自己を否定してみことばに従いました。
アブラハムは故郷を後にし、神のみことばとともに歩む人生を送りました。彼はみことばを信じたために神に認められました。アブラハムは自分で考えた信仰を主張しませんでした。神と共に歩み始めると、それまでの宗教体験を捨て、神の義に従いました。彼はそうした、神の義を信じる真の信仰をもっていたのです。神の義を信じて従う巡礼は、そのような正しい判断をします。アブラハムは、神の光を覆ってすばらしい記憶を忘れさせるようものは何でも大胆に捨てました。
アブラハムはハランを去ると、けっして巡礼をやめませんでした。そのうえ、彼がハランを後にしたのは七十五歳の時だったのです。彼は神の御許に召されるまでに百七十五年生きました。当時の平均寿命を考えても、神のお召しがあったとき、アブラハムはすでに中年に入っていました。それでも素直にみことばを信じて従ったのです。では、みなさんはどうでしょう。みなさんもまた神の義に従う純粋な信仰をもっておられるでしょうか。
パウロが第 18 節で次のように述べているのも、アブラハムの信仰のことなのです。
彼 [アブラハム] は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。
みなさんもまた、みことばに対し、「望みえないときに望みを抱いて信じ」る信仰をもたなければなりません。
 
 
神の義は信仰によって得られる
 
<ローマ 4:14>もし律法による者が相続人であるとするなら、信仰はむなしくなり、約束は無効になってしまいます。
今の時代、律法の行いを重視する漸進的聖化の教義や義認説の信仰を神がお認めになるなら、神の義を信じる正しい信仰は永遠に消えるでしょう。パウロは、律法を守る者が神の子どもなら、神の義への信仰は無益になると言いました。ですから、ほんとうに神の義を見出して信じたいのなら、律法の行いではなく、水と御霊のみことばによって来た福音のみことばを信じ、神の義を得なければなりません。
神の義への信仰は水と御霊の福音を唱えます。しかし、律法主義的・教条主義的信仰は行いに基づいていますから、神の義を退けます。義認説や漸進的聖化論の教えるように、神の定められた律法を守ることによって神の義を得られるのなら、そもそも神はアブラハムにお話しにならなかったでしょう。
アブラハムは旧約の時代に神のみことばを聞き、信じて神の義を得た、信仰の人でした。彼の信仰が今、神の義に従う者みなの範になっています。
神はアブラハムの信仰をお認めになった後、割礼の契約により、彼とその子孫を義の民にすると約束なさいました。アブラハムに割礼の律法をお与えになったのは、特別の恵みでした。この恵みには神の義を得ることを可能にする奥義があります。この奥義に隠された信仰は、みことばを聞いて得られます。神の義と人間の義とは、正反対です。神の義を求め、信じなければならないのは、そのためです。また、宗教儀式としての割礼は拒まなければなりません。
神の義の明かされた水と御霊の福音を知る者だけが救われるのです。神がアブラハムの信仰をよしとなさったのは、彼がみことばのままに信じたからです。
 
<ローマ 4 : 15>律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違反もありません。
パウロはローマ書第 3・7 章で、神のくださった律法は、神の御前で人間の罪を明らかにするだけだと述べています。当時のユダヤ人がほんとうに肉の割礼を受けるだけで神の罪のない子どもになれたのなら、私たちもまた、律法を守って神の子どもになれると考えるでしょう。しかしながら、当時のユダヤ人の問題は、実際のところ、先人であるアブラハムの信仰をもっていなかったことなのです。つまり、彼らは現実の割礼だけを信じていたのですが、それは間違いだったのです。
今のこの時代に生きる私たちもまた、もし神の律法のみことばを認めなければ、何が罪であるかを知らず、罪を犯しても、自分が神に対してどのような罪を犯したか、わからなかったでしょう。神のくださった律法の条項に照らして、自分が惨めな罪人であることを認め、犯した罪を告白しなければならないのです。神の義を成就されたイエス・キリストの御前に行き、水と御霊の福音のみことばを信じなければなりません。そうして、ただ一度で罪のない者、義人になるのです。そして父なる神に栄光をささげるのです。
原始教会時代、ユダヤ人と外国人は割礼と律法主義の信仰に陥りましたが、今のこの時代は、水と御霊の福音が公然と宣べ広められています。ですから、今は信じる者が世の罪から救われ、永遠に神の子どもになる時代なのです。みなさんは水と御霊の福音によって来た神の義をご存じですか。それならば、律法主義的信仰を捨て、心から神の義を信じるのです。
 
<ローマ 4:16>それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべて子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。・・・・・・アブラハムは私たちすべての者の父なのです。
神の子どもになるというのは自分の行いで実現するものではなく、神が義人に賜物としてくださるものなのです。つまり、神とその水と御霊の福音のみことばを信じて神の子供になるのです。すべての人はアブラハムと同じ信仰をもたなければなりません。
 
<ローマ 4:17>「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。
アブラハムは揺るがぬ信仰をもっていました。神は必ず約束なさった契約のみことばを実現してくださるのだと固く信じていました。ですから、アブラハムは私たちにも、またユダヤ人や律法主義にも、等しく真の信仰の父となったのです。
神のなさったことをすべて知っていなければなりません。つまり、イエスがこの世に来られ、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けられて世の罪をみな被られ(マタイ 3:15)、世の罪を十字架まで運ばれ(ヨハネ 1:29)、世の罪のために十字架上で死なれ(ヨハネ 19:30)、死者の中からよみがえられた(ヨハネ 20:21)こと、これらすべてが神の義を成します。このみことばを信じると、神の義を得ることができるのです。
 
 
神の義を信じて生きる義人
 
<ローマ 4:18>彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。
アブラハムは神のみことばすべてを信じて信仰を認められ、すべての国々の、神の義を示す水と御霊の福音のみことばを信じる者の信仰の父となりました。
アブラハムが多くの国々で信仰の父とされることは、神のみこころによることです。アブラハムは神とそのみことばすべてを信じました。その信仰のために神に認められ、幸いを受けたのです。それは神のみこころでした。今日の私たちに関しても、神の義を示す水と御霊の福音のみことばを信じる者は恵まれるのです。
アブラハムは七十五歳のときに故郷や家族、父の家を離れました。カルデヤ人のウルを出てみことばに従ったのです。彼は、空の星の数ほどの子孫を与えようという神の約束を信じました。アブラハムは神のみことばをありのままに信じました。人間には望み得ないことであったのに、みことばを信じたので、義人と認められました。
アブラハムの信仰は、後に続く者たちの規範となり、人々を信仰による義認へと導いたのです。肉においては、イスラエル人はみなアブラハムの子孫です。パレスチナ人もまた、みな彼の子孫です。アブラハムは老人でしたが、それでも、みことばを信じたために息子を得ました。
九十歳の女性が子どもを産めるものでしょうか。いいえ。サラは閉経していましたから、子どもは産めませんでした。しかし、神はアブラハムの前に現れ、約束なさったのです。
「アブラハム。お前の体から出る息子により、空の星の数ほどの子孫を与えよう。」
アブラハムは神のおっしゃったことを信じました。人間には望み得ないことだったのですが、それが神のおっしゃったことだったので信じたのです。
聖書は、そうした信仰が真の信仰だとしています。真の信仰なのです。人間の考えでは不可能に思えることであっても、神のおっしゃったことはすべてその通りに実現すると信じるのです。それが真の信仰です。
ですから、信仰とは、見えないものを見えるかのように信じることなのです。神のおっしゃったことを望み、信じるなら、みことばのとおりに実現するでしょう。神のみことばは真実ですから、私たちはただ信じればよいのです。人間の考えでは不可能に思えても、「神のおっしゃることだから」と信じるのが、信仰というものなのです。私たちは祈る時はいつでも、みことばにしたがって神の義を求めます。そして、神の誠実であられることを信じていると、そのとおりに実現します。これこそが信仰です。
真の信仰を定義するなら、こういうことになるでしょう。
信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。(ヘブル 11:1)
これが正しい信仰です。信仰とは望んだものの実体です。つまり、神の義を望み、みことばを信じるなら、すべてはみことばのとおりに実現するのです。ですから、神のおっしゃったことを望み、信じるなら、それは実現するのです。
神のみことばを信じるなら、信じたとおりに実現するでしょう。アブラハムは神のおっしゃったことを信じてイサクを得ました。その後、神はアブラハムの信仰を試みられました。神は息子イサクを全焼のいけにえとしてささげよとお命じになったのです。アブラハムの信仰が試されました。「何ですって? 息子をくださるというみことばを信じたので、息子を得ました。それが、こんどは息子を全焼のいけにえにしろとおっしゃるのですか。」 
アブラハムが神を信じなければ、「とんでもない神だ」と言って、神に敵対したでしょう。しかしながら、アブラハムは考えました。「神は必ず私から息子が生まれるだろうと約束なさり、また、空の星の数ほどの子孫が生まれるともおっしゃった。だから、このみことばを信じよう。息子を全焼のいけにえとしてささげたなら、神は必ずよみがえらせてくださるだろう。」そこで、信仰に基づいて息子を全焼のいけにえにしようとします。神はイサクをくださったのだから、たとえ息子を全焼のいけにえとしてささげても、神は必ずよみがえらせてくださるだろうと信じたのです。
アブラハムが息子をモリア山に連れて行き、全焼のいけにえとしてささげるために、まさに殺そうとした時、神はアブラハムの信仰をご覧になり、息子を殺してはならないとおっしゃいました。
御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。」(創世記 22:12) 
アブラハムは信仰によって息子を殺し、信仰によってよみがえらせました。アブラハムは信仰によって息子を得、信仰によって子孫を得たのです。アブラハムはイサクを生み、イサクはヤコブを生み、ヤコブは十二人の息子を生み、このようにしてイスラエルの民が今日のように繁栄するに至ったのです。神を信じるというのは、このように信じることをいうのです。
神を肉眼で見ることはできるでしょうか。いいえ、肉眼で見ることはできません。しかし、信仰とは望んだものの実体です。見ることはできなくとも神を信じるのです。神の被造物を見、被造物のいたるところに示された神性により、神の存在を知るのです。目に見ることはできなくとも、神の実在を信じるようになります。アブラハムはみことばに従って多くの苦難を経ます。彼はまた試練にあいますが、神を信じてそれを乗り越えます。あらゆる困難に臨みましたが、すべて信仰で乗り越えました。
全世界の大勢の人が今、アブラハムと同じ信仰をもっています。私はここで歴史的な出来事としてアブラハムのお話をしているわけではありません。アブラハムの信仰のことを通じてお伝えしようとしているのは、神の義を信じて生きなければならないということなのです。信仰をもって神の義を求め、信仰をもって全世界に福音を広めなければなりません。そして、神のみこころにしたがって信仰生活を送らなければなりません。
神の義への信仰がなければ、どうして神に従うことができるでしょう。また、どうして生きていけるでしょう。ここには罪の赦しを受けた方も、受けていない方もおられるでしょう。しかし、罪の赦しを受けておられる方には、こう申し上げます────みことばを信じなければいけません。信仰がなければ、どうして夢がかなうことを望めるでしょう。信仰があって、はじめて神の御前で望みがかないます。信仰があって、はじめて主に従うことができます。信仰があって、はじめて世界中に福音を宣べ広めることができます。信仰があって、はじめて神の恵みを受けます。信仰があって、はじめて夢はかなうのです。また、主のお約束どおり、まだ生きているうちにほんとうに主にお会いできます。
信仰をもたない人は案山子や乾いた籾殻のようなものです。穀物が集められ、碾き臼にかけられると、殻がとれます。空っぽの殻が籾殻です。人間は穀物を食べますが、殻はどうするでしょう。脱穀されて積まれ、焼かれ、あるいは枕に入れたり、肥料にされたりします。信仰のない者はそのようなものです。信仰のない者はまた、乾いた藁のようなものです。乾ききっていて、風が吹くと、飛ばされます。信仰がなければ、誰もがそういうことになるのです。
ですから、私たち信者は自分の考えを否定し、アブラハムが自分の望みとは違っても信じたように、みことばを信じなければなりません。アブラハムは望み難いことを望んで信仰の父となりました。神の御前で望んだことは実現し、神のお約束はすべて成就されました。これはみな、信仰をもち、神のおっしゃったことすべてに従ったためです。これが、すべての人がもつべき真の信仰です。
信仰がなければ、私たちは無です。信仰をもたない者は罪人のようなものです。私たちは今、主を信じて世界中に福音を広めています。しかし、自分たちの状況を見ると、不可能なことに思われます。ところが、実際はどうだったでしょう。私たちは、福音を世界中に宣べ広めることが主のみこころだと信じています。私たちがこの仕事をしているのは、そうした信仰をもっているからです。また、神は、新たに生まれた義人を通じて必ず福音を世界中に広める仕事を実現なさるはずだと信じているからです。
さて、新約の時代はどうでしょう。新約の時代、神は記されたみことばによって語られます。神は、旧約でアブラハムの名をお呼びになったように直接話しかけることはなさらず、記されたみことばを通じてだけ語られます。ですから、私たちは記されたみことばを通じて神のみこころを知るのであり、みことばを信じて信仰を築き、みことばに従うことができるのです。私たちは、みことばが書かれているとおりに実現すると信じています。
生きる中で、あらゆる点でこの信仰を実践しなければなりません。信仰がなければ、みことばに従うことができないのですから、信仰生活を送れるのは信仰があるからであり、すべてはみころばどおり実現すると信じているのです。人間は数多くの問題にぶつかりますが、みことばを信じ、信じているので祈り、それによって、そうした問題は解決されるのです。私たちはみことばを信じているので、信仰をもって困難に立ち向かい、人生におけるあらゆる問題を解決します。
神に信仰を認められたい人は誰でも、みことばを信じなければなりません。ですから、自分がほんとうにみことばを信じているかどうかを確かめる必要があります。みなさんの心にはほんとうに、たとえ芥子粒ほどのものでも信仰があるでしょうか。それが明瞭でなければなりません。もし信仰がなければ、みことばへの信仰をもたなければなりません。この信仰さえなかったなら、どうしたらよいのでしょう。記されたみことばを頼みにしなければなりません。
聖書は芥子粒のような信仰について語っています。主は弟子たちに「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に『根こそぎ海の中に植われ』と言えば、言いつけどおりになるのです」(ルカ 17:6)とおっしゃいました。
主は、各人の信仰に応じて祈りを聞かれ、応えられるとおっしゃいました。みなさんの中には、ほんとうに心に信仰がない、信仰とは何か、どうしてもわからないとおっしゃる方がおられるでしょう。そうした人は、記されたみことばを頼みにするような信仰をもたなければなりません。すると、芥子粒のような信仰が生まれます。その芥子粒のような信仰があれば、より深い信仰をもつようになります。すると、その信仰があるために約束のみことばが実現し、その人は信仰をもって神の御前で生きるようになるのです。
信仰によって神の義を得たのなら、何の関わりもなくとも、神に従い、信仰のために走らなければなりません。みなさんはみことばを信じておられますか。このみことばを信じるということに関しては、単なる知識で終わらせてはいけません。堅持しなければなりません。
聖書は六十六書で構成されています。そのほんの一節でもないがしろにすれば、無益なものになります。ですから、みことばを堅持しなければなりません。神のみことばを堅持すれば、みことばは私たち、みなさんと私のものになります。みことばを堅持しなければならないのは、そのためです。
神は、アブラハムに子どもを与えようと約束なさった後、二十五年たってから実行なさいました。その間、アブラハムは神の約束のみことばを堅く信じて過ごしました。日常生活にはさまざまな問題が起こりますが、みなさんもまた、みことばを信じて生きなければなりません。みことばを堅持して祈ると、芥子粒ほどの信仰が生じます。そうすると信仰の民となり、祈りの応えを得、幸いを受けます。
韓国の古い諺では何か不可能なことを「卵で岩を割る」と言います。人間の見地からすれば、「いったい、どうしたら世界中に福音を広めることができるのだ」と思われるでしょう。しかし、信仰をもち、神を信じていれば、すべては可能なのです。私たちは今、世界中に福音を宣べ広めています。たとえこの惑星が今ある宇宙より何千倍も大きくとも、それでも信仰をもって世界中に福音を広めることができます。
神を信じて生きましょう。神のみことばを信じましょう。みなさんもまた、みことばを信じるのです。アブラハムは神のおっしゃったことを信じたので、神のお約束なさったことはみな実現しました。アブラハムは得ることができなかったはずの息子を得ました。神はカナンの地と子孫を与えようとおっしゃいました。アブラハムはみことばを信じました。信仰のおかげで神の約束は実現しました。
私たちは信仰によって生きます。他の何かのおかげで生きるのではありません。他に何かがあるのではないのです。みことばがあるから、神を信じて生きるのです。ですから信仰が不可欠なのであり、みことばを信じなければならないのです。イエスを信じて罪の赦しを受けた後でも、みことばを信じて生きていかなければならない理由は、ここにあります。これが霊的先人の信仰だったのです。
 
<ローマ 4:19>アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることを認めても、その信仰は弱りませんでした。
アブラハムの信仰が弱まらなかったのは、神のみことばに揺るがぬ信頼をもっていたからです。義のみことばを信じて神の義を得ると、神への信仰はアブラハムのそれのように強くなります。今日、神の義のみことばを信じる者もまた、その信仰が強まります。
水と御霊の福音のみことばは神の義を示し、信じる者に、この義を与えます。そこで、信じる者は神の子ども、しもべになるのです。神の義を信じる者は、どんなに困難な状況に置かれても、いつでも信仰によって勝利します。神とその真実を信じているので、みことばが実現するからです。
 
<ローマ 4:20>彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、
アブラハムは神の約束なさったことに疑いを抱かず、信じました。アブラハムはそのように神のお約束を信じたので、神に栄光を帰すようになったのです。同じことが現在にも通じます。神の義のみことばを信じる者は、みことばの実現を願い、置かれた状況の中で生きます。神が約束なさったみことばをすべて信じているからです。
 
<ローマ 4:21-22> 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。
アブラハムは、たとえ息子のイサクが殺されても、神はよみがえらせてくださり、子孫を空の星ほども増やすという約束を実現してくださると信じました。そのため、神は彼の信仰をまことに正しいものとお認めになったのです。
みなさんの信仰はどうでしょう。原罪も行いによる罪も、未来の罪までも、イエスのバプテスマと十字架上の血とによってすべて消してくださったというみことばを信じておられますか? そうした信仰が神の義への信仰であり、神のお認めになるものなのです。
神の義を信じる者はまた、弱さからくる罪は何であれ、主のバプテスマによって移され、洗い流されていると信じています。また、主はバプテスマがあったから、世の罪を十字架まで運ばれ、負われた罪のために死なれたのだとも信じています。主が死者の中からよみがえられ、信じる者を最初のよみがえりの栄光とともに、神の義で包んでくださるとも信じています。そのような信仰がおありですか? こうした信仰をおもちになりたければ、イエスの義を信じるのです。バプテスマを受けられて罪をみな消され、世の罪を十字架まで運ばれ、人間のために磔刑に処された主を信じるのです。そうすれば、神の義を得られます。
 
<ローマ 4:23>しかし、「彼の義とみなされた」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、
アブラハムが神とみことばとを信じたとき、神はその信仰をお認めになってご自分の義をお与えになり、民となる恵みをお与えになったばかりではなく、将来現れる真の信仰をもつ人々全員の信仰の父になさったのです。実際にみことばを信じている者に、神はお約束どおり、みことばによる力を賜物としてお与えになります。つまり、神の義を告げる水と御霊の福音のみことばを信じるなら、黒い雲のように分厚く積もった無数の罪は消えるということなのです。神の義のみことばを信じて恵みを受けるのは、アブラハムだけではありません。アブラハムと同じ信仰をもつ者もまた、恵みを受けるのです。
 
<ローマ 4:24> また私たちのためです。主イエスを死者の中からよみがえらせたお方を信じる私たちにも与えられるのです。
神の義は、今日、水と御霊の福音を信じる者のものです。水と御霊の福音に明かされた神の義を信じている者は、神を信じています。
 
<ローマ 4:25>主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。
イエスは、神の義を信じる者を罪のない者(義人)になさり、また復活させてくださるために死者の中からよみがえられました。イエスはこの世に来られ、バプテスマと十字架上の血とによって世の罪をみな消されました。主が人間を義人にするためになさったことは神の義です。神は真理を信じる者を義人(罪のない者)になさいました。
これをも信じなさい。みなさんの中にある偽りを一掃し、神に栄光を帰す人生を送るのです。みなさんが神の恵みを受けられることを私は心から願っております。
主は私たちのためにこの世に来られました。主は人間の咎のためにヨルダン川でバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられ、世の罪を被られました。また、世の罪を十字架に運ばれ、処刑され、死者の中からよみがえられました。これらはすべて、みなさんと私を罪からお救いくださるためでした。それにより、主は信者を罪のない者となさり、神の子どもとなる恵みと永遠のいのちを得る恵みとをくださったのです。これらはすべて、みなさんと私のためでした。
ハレルヤ。