Search

Sermons

主題 9: 使徒パウロのローマ人への手紙

[Chapter 3-1] ローマ書第 3 章について

パウロは、人々の不信は神の誠実を無益にはしないと言いました。第 2 章に続いて、使徒パウロはこの章でユダヤ人は外国人より有利な地位にあるのではないと指摘しています。ここでパウロは、罪人が神の義を受けるようにし、真のいのちへと導く神の義の律法について語る前に、律法と神の義の律法とを比較しています。彼はまたここで、罪からの救済は行ないによるのではなく、神の義への信仰によることを強調しています。
使徒パウロは、ユダヤ人や他の人々が神の義を信じなくとも、その不信は神の義を無益なものにはしないとしています。神は嘘をおつきになることができません。また神の義の誠実さは消えません。ユダヤ人が神の義を信じないからといって、神の義が無になることはないのです。
パウロの説いた神の義は、人間が信じないからといってなくなりません。神が罪人にお与えになった救済を信じる者は誰でも神の義を受けるのであり、この義は人間の道徳観や考えとは違って完全なのです。
パウロは、神の義を信じない者たちが神をうそつきにするといって非難しました。神はご自分の義によって人間を完全に罪からお救いになったとおっしゃいます。しかし、人々それを信じません。それは神をうそつき呼ばわりすることです。しかしながら、神の義は彼らの不信には影響されません。
 
 

神の義はいかに示されるか

 
神の義を信じない人々は、罪を裁かれます。神のくださる救済によって人はみな神の義を確認できます。神の義を信じる者は罪の赦しを受け、永遠のいのちを得ます。ですから、誰もが神の義の誠実さを信じて恵まれるのです。
神の義は嘘ではなく、ほんとうです。神の前では誰もがうそつきです。しかし、神はおっしゃったとおりのことをなさり、約束を守られます。ですから、神の誠実さは人間の嘘に優るのです。人間は神の義を信じなければなりません。神は、おっしゃることを変えられませんが、人間は状況に応じて判断して、しばしば態度を変えます。神はいつでも人類におっしゃったことを守られます。
ローマ 3:5 には、「もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか」とあります。人類の悪が神の義を明らかにするのです。
神の義は人間の弱さによってさらに明らかになります。それは、記されているように、イエスご自身が罪人を罪のすべてからお救いになるために行動なさったためです。ですから、神の義は人間の弱さのためにいっそうまばゆく輝くのです。この真理は、神の義に満たされた水と御霊の福音の中にあります。これは、人間は死ぬまで罪を犯しますが、神の愛はそうした罪よりも大きいためです。神の愛は、弱い罪人全員を罪から救います。
主は世の罪全部に打ち勝たれ、罪の赦しによって救済を完了なさいました。誰ひとり罪を犯さずに生きることはできません。人間は地獄に行く定めにあったために、神が愛によってそれを処理なさいました。これが神の義です。
人間は生まれた日からうそつきで、みことばを信じないで神の義を拒みます。人類は、そのどの行ないも神の目には受け入れがたいものであるために、滅びる定めにありました。しかし、神は人間を憐れまれ、愛によって罪から救ってくださいました。人間はサタンに欺かれて堕落し、全員が罪を犯し、そのために地獄に行く定めにありました。しかしながら、神は人間を悪魔の手と闇の力とからお救いになるためにひとり子を遣わされたのです。
使徒パウロは、人間は毎日きちんとした行ないをしようとしても、生涯罪を犯さずにはいられないと述べました。しかしながら、人間の悪は神の義と愛によっていっそう明らかになるのです。実際、人間には義がまったくなく、使徒パウロのような使いが必要なのです。彼は神の義を知り、受け、内に御霊を宿していました。彼が神の義を説くことができたのは、そのためです。
 
 

パウロの説いた福音は神の義に基づいていた

 
パウロの説いた福音は神の義に基づいていました。パウロが福音を説かなければならなかったのは、神が罪人を愛されて罪からお救いになったためです。神の救済の愛は、水と御霊の福音の内にあります。ですから、罪の赦しは神の義への信仰にかかっています。しかしながら、問題は、人々は一般に、救われるためには高潔に生きなければならないと考えていることです。人間は本能によって善であることはできません。一見良く見えることは、神の義を受け入れる上での妨げになるだけです。神のくださった霊的割礼の福音を受け入れるためには、高潔に生きるという固定観念を打ち破らなければなりません。
この世の誰ひとり真に善であることはできません。では、どうしたら罪人は罪のすべてから救われるのでしょう。救われるためには良い生き方をしなければならないという考えを捨てるのです。自分の考えや基準を捨てることを拒む人は大勢います。それでは罪から完全に救われることができません。霊的割礼の福音に明かされた神の義を見ると、人間の悪が神の愛の偉大さを明かす役割をしていることに気づきます。このため、神の義を信じる者は自分のものではなく神の義を尊びます。義人は神の義だけをたたえ、称揚します。それは神から来ているためです。
使徒パウロは、イエスを信じるようになってから善行をすれば天国に行くが、立派な生き方をしなければ、けっして神の義に達することはできないと考えている律法主義者に律法の役割を教えています。律法は人間の罪を映し出す鏡のようなものです。パウロは、人々は善行による救済という信仰をもっているが、その信仰は誤っていると教えました。これが、神の義についてパウロの教えたことでした。
パウロは、イエスを信じるようになっても義人になることはできないと考えている偽教師に話しました。彼は不信者に、神の義を信じ、呪いから解放されよと教えました。パウロは、イエスの水と血の救済を信じない者は裁きの下にあり、また、彼らは神を信じていないのだから裁かれるのは当然なのだとしています。そして、恐ろしい裁きから救われるためには、罪人は神の義に戻り、神の義を受けなければならないと主張します。
 
 

神の義を信じればもっと罪を犯せるか

 
第 7 節には、「でも、私の偽りによって、神の真理がますます明らかにされて神の栄光となるのであれば、なぜ私がなお罪人としてさばかれるのでしょうか」とあります。では、もし罪がないとされるのなら、自由に罪を犯してよいのでしょうか。パウロはこの点について説明しています。神はその義によってお救いくださったのですから、もっと自由に嘘をついてよいのでしょうか。そう考えているのなら、その人は神の義を知らず、神の義を貶めているのです。
今日でも、心で神の義を貶めている人は大勢います。これは昔とあまり変わっていません。パウロが執筆したのは二千年ほど前でしたが、当時でも自分の考え方にだけ固執する人はいたのです。
今もなお、まだ新たに生まれていない大方のキリスト教徒は誤解して、罪がなくなれば人は意図的に罪を犯すだろうと考えます。新たに生まれていない者は、水と御霊によって新たに生まれた義人を貶めます。自分の肉にしたがって考え、新たに生まれた聖徒を悪く言うのです。名前だけのキリスト教徒は、信仰のない考えから、真に新たに生まれたキリスト教徒を貶めてきました。真の信仰は人間の肉によっては理解できません。罪とは人が生涯犯すものです。義人もそうでない人も、必ず罪を犯します。しかしながら、神の義を拒む者には罪がありますが、信じる者には罪がありません。
パウロは不信者に、「では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。絶対にそんなことはありません」(ローマ 3:3-4)と言いました。人間が神の義を信じないからといって、その不信が神の義を無にすることはありません。人が神の義を信じれば、その人は救われます。しかしながら、信じなければ神の義を受けることができません。それだけのことです。神の義は永遠にあり続けます。地獄に行く人々は、イエスのバプテスマと血を信じないために、罪をきよめることがけっしてできません。信じる者を新たに生まれさせる神の義は、人間が信じないからといって無効になることは絶対にありません。
 
 
神の義を受けることは人間の努力とは無関係
 
主の義を得ることは、人間自身の努力とは無関係です。それはただに神の義が罪の赦しであるという真理への信仰に関わるのです。水と御霊の真理を信じる者は、信仰によって神の義を受けますが、神の義を信じない者は、神の真理のみことばにしたがって裁きを受けます。
ですから、神はイエスをこの世に遣わされ、神の義に従わない人たちの躓きの石、妨げの岩となさったのです。躓きの石であり、妨げの岩であられるイエスが救い主となられて神の義をお与えになったのに、神の義を信じようとせずに、自分から地獄を求める人が大勢います。最も邪悪な人にも、義人となって永遠のいのちを受ける道は開かれています。数多くの善行をする人であっても、罪の赦しを受けさせ、新たに生まれさせる神の義を信じないのなら、滅びから救われません。
罪の報いは死なのですから、罪のある者はみな裁きを受けるのです。イエスは、自分なりの義を打ち立てて神の義を信じることなく天国に入ろうとする人々の躓きの石・妨げの岩となられました。ですから、一応はイエスを信じていても人々が滅びるのは、神の義を信じないためなのです。
自分は罪から救われた罪人だという人々もいますが、「救われた罪人」などというものありません。罪から救われた後で、どうして罪人になれるのでしょう。罪から救われているのなら、その人には罪がありません。もしまだ罪からの救済を受けていないのなら、その人には罪があります。天の御国には、罪のある者はただの一人もいないでしょう。神は、「それゆえ、悪者は、さばきの中に立ちおおせず、罪人は、正しい者のつどいに立てない」(詩篇 1:5)とおっしゃっています。
人々は毎日罪を犯しながら、どうしたら義人になれるかという重大な疑問をもちます。しかしながら、それは心配する必要がないのです。神の義を信じて義人になることは、主すでにがヨルダン川でバプテスマをお受けになって将来の罪といっしょに世の罪をすべて被られ、十字架上で死なれ、そうして神の義をすべて全うなさったために可能なのです。罪人は、ただ神の義を信じて義人になります。負債はすでに返済されているのに、みなさんはまだ負債者でいるのですか。
主は、その義によって人類の罪をすべて除かれました。主は、水と御霊の福音への完全な信仰をもつ者を救われたので、どんなに弱い人間であろうと、その人たちには滅びはありません。人はみな神の義を信じて義人になれるのです。
    
 
人間の考えが死へと導く
 
人間の考えは死へと導きます。そして、考えは世俗的な心から生じるのです。霊的考えは神の義への信仰から生じます。悪魔は人間の考えを支配することができます。人間には肉において罪を犯すしかありません。しかしながら、神の義への信仰をもつ人は、イエスのバプテスマと血への信仰によって義人になります。人は罪を犯すことを避けて義人になることはできません。聖なる状態に達するために肉体的変化を経て完全に罪のない者になることはできません。キリスト教徒が、神の前でけっして罪を犯さない聖い人間になって天国には入れると考えるのは、愚かです。
神の義を信じて、人はただ一度で罪から救われます。また、罪人でさえ、信じる者を新たに生まれさせる水と御霊の福音の恵みを信じるなら、完全に罪から救われます。人間の観点からすれば、罪のない者になることは不可能に思われるでしょう。しかしながら、みことばへの信仰によってなら、それは可能です。人間の体によっては、罪を犯さずに生きることはできません。しかし、ほんとうに神の義を信じるなら、心から罪がなくなります。人間の体は欲求を満たそうとします。体は常に快楽を求めているのですから、罪を犯そうとするのを抑えることができません。神は真理を語られます。神がくださった水と御霊の福音への信仰をもってはじめて人は義人になれます。人は肉の体で善行をして天の御国に入ることができません。神の義を信じてはじめて天国に入るのです。
 
 
霊的心と世俗的心の違い
 
人は信仰によってのみ罪のない者になれる、義人、新たに生まれたキリスト教徒になれるということが、肉の心には理解できません。たとえ悪い行ないを悔い改めても、次の日にはまた罪を犯すと考えるためです。
しかしながら、行ないによっては義人になれなくとも、神の義によってなら、それは可能なのです。イエスのバプテスマと血とを信じて神の義を受けることができるためです。神の義はすべての人の罪を除くことができます。神の義によって人は義人となり、神を父と呼べるのです。ですから、真の信仰は神の義への信仰に始まるのです。真の信仰は世俗の心によってではなく真理のみことばへの信仰によって始まります。
新たに生まれていない人は大勢いますが、その人たちはいつでも自分の内に閉じ込められているために、自分の考えから逃れることができません。そうした人々は、たとえイエスを信じているとはいっても、肉の心によってだけ考えるために、けっして義人になったとは言えません。神の義を含む霊的割礼のみことばを信じてはじめて、イエスの前で罪がないと言えるのです。
ですから、神の義を受けたいのなら、真に新たに生まれた人々から真理のみことばを聞き、心で信じなければなりません。神の義を信じる聖徒の心には、みな御霊が宿っておられます。どうか、これを心しておいてください。ほんとうに新たに生まれる恵みを得たいのなら、神はご自分の義を信じている新たに生まれた人に会わせてくださいます。
 
 
義人は一人もいない
 
第 9・10 節は、「では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。それは、次のように書いてあるとおりです。『義人はいない。ひとりもいない』」とあります。
ここには、「義人はいない。ひとりもいない」と記されています。これは、どういうことでしょう。これは、新たに生まれる前と後のどちらの状態を指しているのでしょう。新たに生まれる前、人間はみな罪人です。「義人はいない」とは、イエスが世の罪をすべて除くみわざを成就なさる前の状態を指しています。人はイエスを信じることなしには義人になれません。
ですから、異端の宗教や偶像に仕える人々が「漸進的聖化」ということを言うようになったのです。「義人はいない。ひとりもいない。」罪人が訓練や薫陶によって義人になれると思いますか? 人間は、自分の力では義人になれません。
「義人はいない。ひとりもいない。」正しい生活をして義人になった者は一人もいませんし、誰も義人になりません。自身の努力によって罪のない者になった人は一人もいません。それは、神の義を含む霊的割礼への信仰によってのみ可能なのです。
第 11 節は、「悟りのある人はいない。神を求める人はいない」とあります。自身の邪悪さを理解している人は一人もいません。つまり、自分が地獄に送られることを知っている者は一人もいないのです。罪人は、自分が罪人であることさえ理解できません。罪人は自分が罪のために地獄に行くことをはっきり知らないまま生きています。自分は罪のために地獄に行くのが当然なのだと理解して、人は罪からの救済を受けようとします。しかしながら、神の目からして自分が罪深いことや地獄に行く定めにあることを理解する者は一人もいません。
神の前で人間は有益な存在でしょうか、それとも無益な存在でしょうか。新たに生まれなければ、全人類は無益です。聖徒はみな主のおかげで義人になっていますが、かつては神に対して戦い、真理を信じることを拒み、神を非難しさえしたのではありませんか。
では、どうしたら罪人が神に栄光をささげることができるのでしょう。罪の問題を解決してもいない罪人が、どうして神をたたえられるでしょう。罪人でありながら神をたたえることは、真の崇敬ではありません。どうして罪人が神をたたえられるでしょう。罪人は、けっして神に栄光をささげることができませんし、神はそのような人からは何一つお受けになりません。
今日、賛美宣教が全世界に広まっています。しかしながら、神の義を信じている者だけが神をたたえることができるのです。神は罪人による賛美を喜ばれると思いますか? 罪人の賛美はカインのささげ物のようなものです。なぜ神は無意味な称えや罪人の罪深い心をお受けになるでしょう。
第 12 節には、「すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。一人もいない」とあります。「迷い出」た罪人たちは、神がしてくださったすばらしいみわざを知らず、神も真理のみことばも信じていません。そのうえ、罪人は神のみことばを守ることも信じることも拒み、いつでも自分の考えに基づいた、偏った肉のことを尊重するのです。ですから、神の前で何が正しく何が悪いことなのかをまったく区別できません。
正しい判断は、神の義を伝える真理のみことばによってのみ可能なのです。良い決断と正しい判断とは、神の義の内でのみ下されます。よろしいですか、正しい裁きはみな、人間の内ではなく、神の義の内にあるのです。人間の考えはみな、神の義から逸れ、拒むのです。人々は言います。「聖書が何と言っていようと、私はこのように考えて、自分の考えにしたがって信じています。」しかし、よろしいですか、このように自分の考えを捨てない人は、自己中心的な頑なさから神の義を拒んでいるのです。ですから、このように考えていたのでは神の義に戻ることができません。
 
 
肉の心は霊的死へと導く
 
新たに生まれていない者は自らを罪に定めます。このような人々は、みことばがどのように記されているかということを気にかけず、何かが自分の考えと違っていると、それは誤りであると言い、自分の考えと一致するものにだけ賛成します。聖書は、人間は自分の考えと自己中心性へと道を逸れたと告げています。最も正しい方法で罪から救われたいのなら、神の義と裁きとが必要です。では、神の義とは何でしょう。
神の裁きとは神の義であり、みことばこそが神の正しい裁きの基準なのです。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネ 1:1)この「ことば」と呼ばれているのは、誰でしょう。父なる神と御霊とともにあった方は、誰でしょう。救い主、イエス・キリストです。イエス・キリストは人類の救い主、王の王になられました。イエスは神です。
ヨハネの福音書には、最初にことばがあり、ことばは神とともにあったとしています。そうです、主イエスは、人類の救い主であられます。ことばは神であり、ことばは神の本質の完全な現われ(ヘブル 1:3)です。救い主は神です。ですから、みことばは神なのですから、その義のみことばは、私たち人間の考えとは異なっています。よろしいですか、罪人は神の義を知らないと、自分の理解力で神の義を理解しようとします。神の義への信仰に堅く立つ者は、よく神の役に立つ有用な人物です。堅く立ってみことばを堅持するのは信仰の人であり、神の目に有用な人なのです。こうした人はまた、恵まれています。
人はみな自分の考えと罪とで神に敵対します。よろしいですか、自分が聖く善良であるふりをする、あるいは親切で他人に情け深いふりをしているのはみな、神を欺く人間の考えから生ずる偽善的な行ないです。善良であるふりをするのは神に敵対することです。神以外には善良である者はいません。キリスト教徒が新たに生まれておらず、神が成就された愛と救済の義とを受け入れないのなら、それは神に敵対しているのであり、真理に従っていないのです。
この世で深刻な罪を犯した者だけが神に呪われると思っているのですか? 神の義を信じない者はみな、神の激しい怒りを免れません。
ほんとうにイエスを信じていない人は、なんとしても良い生活をしなければならないという考えにとりつかれています。誰がそんなことを教えたのでしょう。サタンが教えたのです。しかしながら、人間は生まれつき善良に生きることのできない存在なのです。ですから、みことばは罪の赦しを受けよと告げているのです。これは、豊かに恵みを受けられるように悪いことをするべきだということでしょうか。絶対にそんなことはありません。人間は生まれたときから罪に冒されているのですから、汚れた罪の傷のために地獄に行く定めにあります。ですから、神は、イエスがすでに用意してくださった罪の赦しを受けよとおっしゃるのです。神は救済の神であられます。そして、すべての人間に、真理である神の義のみことばを心に受け入れて救済を受けよと教えておられます。
 
 
人間の本質
 
第 13-18 節には、次のようにあります。「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」「彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。また、彼らは平和の道を知らない。」「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」」
「彼らはその舌で欺く。」人間は、実によく欺きます。ヨハネの福音書には、「彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです」(ヨハネ 8:44)と記されています。「ほんとうなんですよ、これは事実です。わかりますか?」新たに生まれていない人がほんとうだと強く言い切ることはみな、嘘です。
新たに生まれていない人は、他人に話すときはいつでも嘘をつかずにはいられません。そうした人は、自分の言っていることはみなほんとうだと強調します。しかし、その人が嘘をつくときはいつでも、ほんとうのことだと言って人を欺いているのですから、実際と矛盾しています。新たに生まれていない人が言うことはみな偽りです。その人は神の義を信じていないのですから。
詐欺師は、自分のしていることが詐欺であると言ってから悪事をすることは絶対にありません。彼は、それがほんとうのことであるかのように話します。いかにももっともらしく真剣に話し、信用させようとします。「嘘偽りのない、ほんとうのことをお話します。これに投資すれば、ものすごい儲けになりますよ。ただ百万ドル投資したら、一年以内に投資した額より二百万ドルも多くを手にすることになります。二年間では、たいへんな利益を得ることになります。これは新しいタイプのビジネスで、絶対に安全です。ほら、今すぐ決断なさい。他に大勢の人が待っているんですからね。」詐欺師は、こういうことを言うのです。罪の赦しを受けていない人はその舌で他人を欺くのだということを覚えておきなさい。
聖書は、サタンが嘘をつくときには自分にふさわしい話し方をしていると告げています。罪から新たに生まれていない人が言うことは、みな嘘です。新たに生まれていない聖職者が、教会に高額の献金をすれば金持ちになれると言って教会のメンバーを欺いているのは不思議ではありません。また、そうした人は、教会の長老になりさえしたら「不可抗的恩恵」によって金持ちになると言います。なぜ人々は、長老になろうとあんなにがんばるのでしょう。それは、長老になりさえしたら神が物質的富に満たしてくださると主張する偽聖職者の嘘のためです。長老になろうとして財産を奪われたキリスト教徒は実に大勢います。その人たちは、長老になりたいがために、詐欺を働く聖職者に非常に高額の献金をしたのです。
もう一度、ローマ 3:10 を見ましょう。「それは次のように書かれてあるとおりです」という句は、それに続く部分が旧約からの引用であることを示しています。パウロは説明を加えるのではなく、聖書から該当する部分を引用しています。「彼らの口には真実がなく、その心には破滅があるのです。彼らののどは、開いた墓で、彼らはその舌でへつらいを言うのです。」(詩篇 5:9)「彼らの足は悪に走り、罪のない者の血を流すのに速い。彼らの思いは不義の思い。破壊と破滅が彼らの大路にある。」(イザヤ 59:7)神の義を知らないために地獄に行く人々は、実に気の毒です。
第 19 節には、「さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです」とあります。
律法は怒りをもたらします(ローマ 4:15)。神は、まだ新たに生まれていない人々が自分は罪人であると認識するよう、律法をお与えになります。律法はすべての罪人に、自分が神の律法に従っては生きられないことを教えます。それに従って人間が生きるようにと、神が律法をお与えになったのではないことは明確に示されています。では、神は律法を無効となさったのでしょうか。いいえ、そうはなさいません。モーセを通して律法をお与えになったのは、人間が罪人であることをお教えになるためであると神はおっしゃいます。神は人間が律法によって自身の罪深さを知ることをお望みなのであり、守らせようとお与えになったのではないのです。律法の役割は、人間というものがいかに欠点だらけで弱いものであるかを指し示すことにあります。
ですから、第 20 節には、「なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです」とあるのです。律法の行ないによっては、肉の身にある者は誰も神の目に義人とされません。パウロ自身だけではなく、神のしもべ全員が、「律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められない」のです。律法を守れる者は一人もいません。守れる者はいませんし、守った者もいません。ですから、つまるところ、人間は、律法の行ないによっては義人になることができないのです。
律法を守ることによって、人間は義人に変わることができるのでしょうか。先の部分を読むと、イエスを信じるようになってから、善行をして立派に生きれば徐々に聖くなり、聖化されるのだと考えてしまいがちです。しかしながら、それはまったく違うのです。徐々に聖化されて天の御国に入れるというのは、絶対に間違っています。
新たに生まれていない者はみな、まだ神の律法、罪と死の律法の下にあります(ローマ 8:2)。それはなぜかというと、ひとたびキリスト教徒になると、その人は、神のみことばに従って生きなければならないのだと考えるのです。キリスト教徒は、行ないにおいて律法を守らなければならないと感じるのですが、実際は律法にしたがって生きることができません。ですから、毎日悔い改めの祈りをささげるようになるのです。彼らは、自分たちが絶望的な宗教、つまりキリスト教の泥沼に陥っていることに気づきません。このことは、そうした宗教生活を送ることが最初から誤りであることを示してます。律法はただ、人々に自身が罪人であることを教えるためにだけあるというのに、律法を誤解して神の律法を守ろうとすると、キリスト教の信心家は神の義と対立することになります。
キリスト教の漸進的聖化の教義は、世にある異教の教義と同じことです。仏教の涅槃に入ることについての教えのように、キリスト教では漸進的聖化説が、イエスを信じるようになってから人間の肉と霊は徐々に聖くなり、ついには天国には入れるほどに聖化されるのだとしています。
罪の汚れとともに生まれた者は、全生涯を通して罪を広めることしかできません。それは、人間がすでに罪を感染しているためです。罪のウィルスは、人間に罪を広めるつもりはなくとも体から出てきます。この病の治療法は一つしかありません。それは、神の義を伝える真理の福音を聞き、信じることです。霊的割礼を受けることを可能にする真の罪の赦しのことばを聞き、信じるならすべての罪を赦されるばかりか、永遠のいのちをも受けることができるのです。
新たに生まれた後であっても、この世には律法に従って完全に生きる人間はあり得ません。一人もいません。聖書には、「律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです」(ローマ 3:20)とあります。これは明確で単純なことではありませんか。無垢の時代、アダムとイブは、神のみことばを信じないで離れ、サタンに欺かれて罪に陥り、その後、子孫全員に罪を伝えます。しかしながら、人間がみな祖先から罪を受けついていても、自分がほんとうに罪人として生まれていることを知りもしないのです。
アブラハムの時代以来、すべての人間がみことばを信じて罪の赦しを受けるよう、神は人類にご自分の義について確固とした知識をお与えになっています。
 
 
パウロは律法とは別に神の義について述べた
 
第 21-23 節には、「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません」とあります。
神の義は、「律法と預言者によってあかしされ」て示されていると記されています。「律法と預言者」とは、旧約を指しています。さて、パウロは、幕屋のいけにえの制度によって明かされた神の義の福音について述べています。聖書は、人間が罪のためのいけにえによって罪の赦しを受けることのできる神の義を明確に示しています。そして、パウロの信仰もまた、聖書全体に明かされている神の義への信仰に基づいていました。
パウロは、イエス・キリストへの信仰をもつ者は誰でも、等しく神の義を受けることができると告げています。人が救われているかどうかは、完全にその人の信仰または不信によるのです。ですから、神の義は「イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません」と言っているのです。
真の信仰とは、何でしょう。信仰の実体は誰でしょう。イエス・キリストです。ヘブル 12:2 には、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」とあります。新たに生まれた聖徒から神の真理について学び、信じてイエス・キリストの内に救済を受け、みことばへの信仰をもって生きなければなりません。主の義を心で信じることが、真の信仰をもつということです。
ローマ 10:10には、「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」とあります。人はイエスのバプテスマと血とを心で信じて義人になり、信仰を口で告白して確かに救済されるのです。罪の赦しは、行ないによってではなく、ただ神の義への信仰によって得らるのです。
第 23-25 節には、次のようにあります。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。
聖書は、人間がみな罪を犯し、そのために神の栄光を得ることができないと告げています。罪人は地獄に行くほかはありません。しかしながら、キリスト・イエスの贖いと神の義によって、人々は価なく罪の赦しを受けました。人間が罪のない者になったのは、神の義を信じたためです。神は、イエスをその血と信仰によるなだめの供え物となさいました。
第 25-26 節を見ると、「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自分の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです」と記されています。
ここで「ご自身の義を現わす」とあるのは、イエス・キリストの正しいみわざによって全うされた神の義を指しています。イエスが十字架上で血を流されたのは、死なれる以前、ヨルダン川でヨハネからバプテスマをお受けになって神の義をすべて全うなさっていたためです(マタイ 3:13-17)。父なる神は、人間とご自身との間に平和をもたらされるために、イエスをこの世の罪のためのなだめの供え物となさいました。イエスは神の義の体現者であられたのです。
イエスはヨハネからバプテスマをお受けになってこの世の罪をすべて取り除かれました。イエスは、始まりと終わりになられました。これは、主がそもそもの初めから最後までの世の罪をすべて消されたと告げているみことばを信じるなら、誰もが罪からの救済を受けられるということです。
イエスが成就なさった神の義によって、人間は神との間に平和をもてるのです。これは、神と平和な状態にある者だけが天国に入れるように、そうなっているのです。私は真理の福音を信じるようになってはじめて、「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自分の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです」の部分が理解できました。神の忍耐の内に、イエスを通して神の義を理解し、信じるようになりました。
神の義の満たされたことは、過去完了形で記されています。これは、すでに成就されていることを示しています。聖徒は、イエスがバプテスマと血とによって人類の罪をみな除かれたと告げている真のみことばへの信仰によって、罪の赦しを受けました。霊はただ一度で罪を赦されていますが、肉はまだ罪を犯さずにはいられません。神は、人間が現世で犯す罪を「今までに犯されて来た罪」とおっしゃっています。なぜでしょうか。
神は、救済の始点としてイエスのバプテスマを設けられました。ですから、罪の赦しは、イエス・キリストが神の義を全うなさって、ただ一度で成し遂げられたのです。神の視点からすると、現在肉の犯す罪は、イエスのバプテスマによってすでに除かれた罪なのです。神の目には、世の罪はみなすでに赦されているのです。「今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のが」されるというのは、罪がすでに贖われているとみなすという意味です。この世の罪はみな、主のお受けになったバプテスマと十字架上の血とによってすでに洗い流されているのです。
ですから、この世界の初めから終わりまで、アダムの時代から地球最後の日まで、現在人間が犯している罪さえも含めて、人類の罪はみな、イエスが過去に除かれた「今までに犯されて来た」罪なのです。神の義を信じる者には罪がありません。これは、今までに犯されてきた罪がすでに移されているということです。今この瞬間に犯している罪までも、神の観点からすると、今までに犯されてきた罪であり、赦されているのです。この世の人間は、世の罪をすべて取り除くために地上に遣わされた神の御子によって除かれた罪を犯しています。たった今人間が犯している罪は、主がすでに除かれた罪なのです。これがどういうことか分かりますか?
イエスは神の義によってこの世の罪を消し去ったとおっしゃいました。誤解のないよう、この部分の意味は正しく理解しておきましょう。主の観点からすると、ご自身がヨルダン川でバプテスマをお受けになり、十字架上で裁かれておられるのですから、人間が犯している罪は、すでに裁かれた罪なのです。神が罪について心配するなとおっしゃるのは、イエスがこの世に来られてただ一度で人間を完全に聖化なさったためです。
この部分でパウロの述べていることは、神の義を信じて救われている者にとってとても重要です。しかしながら、新たに生まれていない者は、神の義を無視し、地獄に行きます。みなさん、神のみことばに耳を傾け、完全に理解なさい。そうしてはじめて自身の信仰を築き、福音を他の人に説くことができるようになるのです。神はついにご自分の義を示されるために、世の罪と義と裁きを非難なさるのですよ(ヨハネ 16:8)。
神は、イエスをその血による信仰のなだめの供え物となさってご自分の義を示されました。それは、忍耐によって今までに犯されてきた罪を見逃してこられたためです。神はイエスをなだめの供え物となさり、それまでに犯された罪までもすでに除かれていることをお教えになります。ですから、聖徒は神の義を信じて義人になったのです。
第 26 節は、「今の時にご自分の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです」とあります。「今の時」、神は人間が永遠のいのちをもつようになさいます。神は世を滅ぼすことは望まれません。「今の時」、神はご自分の義を示されるためにイエス・キリストを遣わされ、主はバプテスマと血とによって神の義を示されたのです。神は、バプテスマを受けさせ、十字架につけさせて人類にご自分の愛と義とを示されるために、そのひとり子をこの世に遣わされました。
神はイエスによって義を全うされました。神の義を信じる者は、みな義人です。神は、世の罪を消されるという義のみわざをただ一度で成就なさいました。では、人間は心で神の義を信じられるでしょうか。神は、ご自分の義を信じるなら人間は義人であり、罪がないとおっしゃいます。なぜでしょうか。主がすでに人類の罪をすべて洗い流すという義のみわざをなさっているのですから、イエスの信者は罪がないのではありませんか。神の義を信じる者は、罪がないために義人なのです。人間が全生涯に犯す罪を主が全部消されたので、人間は神の義を信じることができます。そうでなければ、けっして神の義を受けることができないでしょう。
 
 
誇るべきものは神の義のみ
 
第 27-31 節は、次のようにあります。「それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょう。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行ないの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの教えです。それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です。神が唯一ならばそうです。この神は、割礼のある者を信仰によって義と認めてくださるとともに、割礼のない者をも、信仰によって義と認めてくださるのです。それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。」
律法を確立するというのは、人間の行ないによっては罪から救われることができないということです。人間は弱く不完全な被造物です。しかし、神の義がみことばによって人間を完全にするのです。神の義のみことばを信じて聖徒は救われています。人間が罪から救われた後も、主は続けて語りかけられます。「あなたたちは不完全だけれど、わたしがあなたたちを聖化しました。ですから、神の義によって神に近づきなさい。」
第 27 節には、「それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行ないの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです」と記されています。人は、神の確立なさった神の義の律法を知り、それを信じなければなりません。
「どういう原理によってでしょうか。行ないの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。」よろしいですか、人間は神の義を信じてはじめて罪から救われるのであり、自身の行ないによっては救われないのです。ローマ書第 3 章は、使徒パウロを通してそのことを告げています。「彼らの不真実であることは、神の誠実さを無益なものにするのでしょうか。絶対にそんなことはありません。」
神の義を信じる者は堅く立ちますが、神の義を信じない者は滅びます。
ローマ書第 3 章は、神の義を明確に示しています。神は、自分なりの考えを信じる者たちが滅びるようにと、ご自分の義の律法を確立されたということを覚えておきなさい。神は人類を完全に罪のすべてからお救いくださいました。ですから、神の義を明かしている神のみことばを信じて、人は救われるのです。聖徒は神の義を信じ、神の御国を相続し、神との間に平和をもつようになりました。
神の義を信じない者は、心に安らぎがありません。人が祝福されているか呪われているかは、その人が神の義を信じているかどうかによります。神の義のみことばを受け入れないのなら、その人は神のみことばにしたがって正当な裁きを受けることになります。救済は神の愛に発するのであり、人間は神の義を信じて罪からの救済を受けるのです。神の義へのこの信仰をくださった主をたたえます。使徒パウロと同じ信仰をもっていることに感謝しましょう。主をたたえます。
また、イエスのバプテスマと十字架上の血とを信じて罪のすべてから救われていることを神に感謝いたします。この救済・信仰、また、教会がなければ、けっして罪の赦しを受けることはできなかったでしょう。聖徒はほんとうに心で神の義を信じ、口で告白することによって救済を受けています。義によって罪のすべてからお救いくださった神に感謝をささげます。