(ローマ 5:14)
「ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。」
罪人はまず罪について知らなければならない
今日は、罪の起源についてお話ししましょう。「毎日同じことを話すんだなあ。何か別のことを話せばいいのに」などとは思わないでください。よく聞いてください。福音は最も大切なものです。罪を消された聖徒が繰り返し福音を聞き、毎日思い起こすことをしなければ、その人は死ぬのです。水と御霊の福音を聞かないで、どうして生きられるでしょう。生きるための唯一の道は、福音を聞くことです。聖書を開いて、そのほんとうに意味することを知りましょう。
私は、「まだ罪を赦されていない罪人に最も必要なものは何だろう」と考えました。やがて、罪を知ってはじめて罪の赦しを受けられるのですから、罪について、みことばに基づいた正しい知識が必要なのだとわかりました。罪人は、まず罪について知らなければならないはずです。人間は望むと望まざるとに関わらず、生まれた時から実に数多くの罪を犯します。成長する間にも数多くの罪を犯すのですから、人間は神の前で罪人なのに、自分の内にある罪について深く考えません。罪を犯すことは、りんごの木が時とともに育ち、花を開き、実を結ぶのと同じくらい自然なことです。しかしながら、神の律法によると罪の報いは死なのです。
罪の結果について考え、ほんとうに知っていれば、その人は罪と神の裁きとから救われ、霊的恵みのすべてを受けます。ですから、罪人にとって最も必要なことは、罪とその結果について知り、神のくださる罪の赦しの真実を知ることなのです。
罪はどのようにして世界に入ったか
なぜ人間は罪を犯すのでしょう。私はなぜ罪を犯すのでしょう。聖書のローマ書 5:12 では、このことについて、「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に。──それというのも全人類が罪を犯したからです。」と述べています。罪によって、何が世界に入ったでしょう。死です。人は、死は単に体だけのことだと考えがちです。しかしながら、ここでいう死とは、霊的に神から切り離されることを意味します。これはまた、肉の死とともに地獄と神の裁きをも意味します。ローマ書 5:12 は、人間がどのようにして罪人になったかを示しています。
聖書には、「そういうわけですから、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に。──それというのも全人類が罪を犯したからです」とあります。神のみことばは真理です。一人の人によって罪が世界に入り、罪とともに死が世界に入ったのです。
人間はアダムの子孫として生まれました。では、アダムの子孫として、人間には罪があるでしょうか、ないでしょうか。──罪があります。──人間は罪深い存在として生まれているのでしょうか。──はい。──祖先アダムの子孫なのですから。アダムから全人類が生まれました。しかしながら、アダムとイブはエデンの園でサタンに欺かれ、神のみことばにそむいて罪を犯しました。神は、善悪の知識の木からは食べてはならないが、いのちの木の実を食べて永遠のいのちを得よと二人におっしゃいました。
しかし、二人はサタンに欺かれ、神のみことばを捨て、善悪の知識の木から食べたのです。アダムとイブは永遠のいのちのことばである神のみことばを無視して罪を犯しました。アダムとイブが罪を犯した後、アダムはイブと眠り、全人類がアダムとイブから生まれました。人間は二人の子孫です。彼らの外見だけではなく、罪深い本質をも受け継いでいます。
ですから聖書は、人間は罪の種だと言っています。世のすべての人はアダムとイブから罪を受け継ぎました。聖書には、「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に。──それというのも全人類が罪を犯したからです」とあります。
そこで、人間はみな罪深い存在として生まれます。しかしながら、人間は自身が罪人として生まれたことを知りません。罪深く生まれていながら、罪のことを知りません。木は種によって芽吹き、実をつけます。しかし、人間は罪を犯すことがおかしいと考えます。自身が罪の種として生まれたことを知らないためです。これは、りんごの木が「変だなあ。どうして私はりんごの実をつけるのだろう」と思うのと同じことです。
人間が罪を犯すのは自然なことです。人間が罪を犯すことを避けられると考えるのは、まったくの誤りです。罪を受け継いだ人間が、生涯を通じて罪を犯し、罪の実をつけることは当然のことです。しかし、人間は罪人であることについて深くは考えません。神は、何とおっしゃっているでしょう。「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に。──それというのも全人類が罪を犯したからです。」
人間は生涯罪を犯します。罪人と生まれているためです。ですから、神に裁かれるのは当然です。「人間は罪を犯さずにはいられないのに、神がそれを罰するというのは、不公平なことではないか」と思うでしょう。しかし、罪の赦しを受けたなら、神は人間を子供になさるためにそうすることをご計画になったのだということがわかります。
人間は一人の人、アダムの子孫
では、一人の人アダムの子孫であるのなら、膚の色の違う人がいるのでしょう。彼らには別の祖先がいるのでしょうか。なぜ白や黄色や黒い膚の人がいるのでしょう。神が人間を地面の土でおつくりになり、焼かれたとき、あまりに早く竈から取り出された人は白く、ちょうどいい時に取り出された人は黄色く、取り出されるのが遅かった人は黒くなったと考えている人々がいます。
人間はみな一人の人から罪を受け継いでいるのに、どうして黒人や白人や黄色人種がいるのだろうかと思うでしょう。聖書は、神は天と地を造られたとき、初めにアダムを作られたとはっきり述べています。「アダム」とは、「人」のことです。神は人を創られました。神が一人の人アダムを創られ、世界中の人がアダムの子孫であるのなら、なぜ異なった人種があるのでしょう。それは、こういうことです。
科学者は、メラニンという膚の色素は、太陽から膚を守るために生成されるとしています。地球が太陽の周りを回ると、日光の多い所の人々は黒くなり、日光の少ないところの人は白くなり、適切な日光を受けている地域の人は黄色くなる。しかしながら、人間の祖先はそれでも一人の人、アダムなのです。
科学者は、メラニンは自動的に生成されて日焼けから膚を守るとしています。私はこのことを知ってから理解できました。人類がアダムの子孫であることは知っていましたが、メラニン色素については知りませんでした。人間は一人の人アダムの子孫なのですから、肉だけではなく罪をも受け継いでいます。
罪がわかりますか? 人間が罪人であるかどうか、この世に生まれた時点から考えてみましょう。「同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。」(マタイ 7:17-18)神は、偽預言者は偽の実だけをつけ、けっして良い実を結ばないとおっしゃいます。人間は罪深く生まれるのですから、本来悪い木です。悪い木として生まれているのですから、悪い実しかつけられません。
人間は一人の人から罪を受け継ぎました。木にたとえるなら、人間は悪い木です。人間は罪人として生まれ、たとえ罪を犯さず善良に生きたいと思っても罪を犯さずにはいられません。悪い木が悪い実をつけずにはいられないのと同じことです。分かりますか? 人間は、ほんとうに穏やかに謙虚に、徳高く生きたいと思います。しかしながら、罪の赦しを受けず、罪人として生まれては、正しい生を送ることができません。限りなく努力しても善を行なうことができません。アルコール中毒者の中には酒量を制限しようとする人がいます。しかし結局は中毒症を患い、家族はその人を病院に放置します。
ある日、テレビで「知りたい」という番組を見ました。ある人が精神病院に十三年間閉じ込められていました。リポーターが家族について尋ねると、その人は完全にアルコール中毒から回復し、医者も全快を保証したのに、家族は引き取りに来なかったのだと答えていました。その人はリポーターから、家族が医者を買収し、退院できないようにしていたことを知りました。彼は腹を立てました。家族は彼にうんざりして見捨てたのです。リポーターは言いました。その患者は飲むまいとしても飲まずにはいられず、何度も大酒を飲んだので、誰の手にも負えなかったのだと。
なぜ人は飲酒を抑制できないのでしょう。健康に悪いことはわかっているので、やめようとします。しかし、何度も酒を飲みます。それは、その人がすでにアルコール中毒になっているためです。しかし、そもそもの原因は、心が空っぽであったことなのです。心に空しさがあるから飲むのです。罪があると、いつでも痛みを感じ、善良であることができません。そこで、悲観的になり、また飲みます。「どうしてこんなことをしているんだろう。こんなことをしてはいけない」と思うでしょう。
自分に裏切られた思いが重なるほど、自暴自棄になってますます深酒をします。どんなに飲むまいとしても、飲むのをやめられません。そこで、幻滅し、より多く飲み、やがて見捨てられて病院に閉じ込められることになります。人間の言動は本来の性質の表われに過ぎません。人間は罪人として生まれますから、生涯、意思とは関わりなく罪を犯さずにはいられません。りんごの木がりんごの遺伝子を受け継いで芽生え、花を開き、りんごの実をつけるのと同じことです。人間は善良であろうとします。しかし、罪の赦しを受けていない者は、それができません。善である能力がないためです。その人たちは罪が深刻なものであるとは考えません。それで自らを隠すのですが、罪が露になったときにはますます深刻なものになっているのです。
罪人が罪を犯すのは、本能的で自然なことなのです。その人は本来罪を受け継いでいる罪の塊なのですから。人間が罪を犯すのはまったく自然なことです。本来罪を犯すように生まれているのですから。赤トウガラシの草が赤トウガラシをつけ、ナツメの木がナツメの実を結ぶのと同じことです。罪人として生まれているのですから、人間は罪を犯さずにはいられません。罪をもって生まれながら、どうして罪を犯さずに生きられるでしょう。
人間は十二種の悪い考えをもって生まれる
マルコの福音書第 7 章でイエスは、人間は十二種の悪、つまり、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさをもって生まれてくるとおっしゃっています。人間は盗みたいという心をもって生まれるのです。盗みは受け継いだ罪に含まれています。みなさんは盗みますか? 誰もが盗みます。盗まないとしたら、それは見ている人がいるからです。しかしながら、辺りに誰もいず、ほしいものが近くにあれば、盗みの罪が出てきて罪を犯させます。
そこで人間は、倫理や守るべき規則を作りました。人間は、他人に害を与えてはいけないということを示す規則を定めています。一つの社会で大勢の人が生きるためには規則が必要です。人間は社会規範にしたがって生きなければなりません。しかしながら、人間は一人でいると他人の目を盗んで盗みをします。
盗みをしない人は一人もいません。誰もが盗みます。ずっと以前、信仰復興集会の参加者に、これまで罪を犯したことのない人にがいたら手を挙げるようにと言いました。
あるおばあさんが手を挙げて、「私は何一つ盗んだことがありません」と言いました。そこで、家に帰る途中で何も取らなかったかと尋ねました。すると、意外な質問に困惑しながら答えました。「家に帰る途中、まだ若いかぼちゃを見ました。おいしそうだと思って、誰かあたりにいないかと見回しました。それを取り、ペティコートの下に隠しました。それを味噌煮込みに入れて食べました。」その人は、自分が盗みの罪を犯したことを知りませんでした。
しかしながら、神は、他人の物を許可なく取ることは罪だとおっしゃいます。神はモーセの十戒で「盗んではいけない」とお命じになりました。誰もが何かしら盗んだ経験があります。人間は、機会さえあれば殺したり盗んだりするのが上手です。ウサギや鶏のような家畜・家禽を他人のところから盗みます。これは盗みとされています。人間は殺し、盗んでも罪の意識がありません。人間は生まれたときから罪を受け継いでいるのですから、そのようにすることは自然です。
人間は罪を受け継いでいる
人間はまた、両親から姦淫の罪を受け継いでいます。人間は姦淫する欲望をもって生まれてきます。あたりに人がいなければ、必ず姦淫します。人間は喫茶店や酒場のような暗い場所が好きです。そうした場所は罪人にとても人気があります。なぜでしょうか。罪の遺産を示すのに都合のよい場所だからです。
紳士さえ、そうした場所が好きです。家庭ではよき父であり、社会的に高い地位についてはいても、罪に満ちた暗い場所に行きます。人々は罪深い本質を表し、罪の実を結べる場所に行きます。そうした場所に集まって一杯酒を飲むと、じきに古くからの友人のようになります。会ったとたんに親密になります。お互いに同じ罪深い性質があるためです。
「あなたにもこれがありますか? 私にもあります。」「こちらもです。わが友よ。」「おいくつですか?」「年齢は関係ありませんよ。」「よろしく。」
人間は、他の罪人に会うと、もって生まれた罪を表わします。人間は罪深い性質を持ってこの世に生まれてくるためです。人間が罪を犯すのは自然のことです。なぜでしょうか。心に罪があり、本来そのように創られているためです。罪を犯さないことが不自然なのです。しかしながら、社会で生きていると、罪深く生きることを避けます。社会にはそれぞれの規範があるためです。そこで偽善者になり、表面を飾り、社会規範に従って行動します。人間はこのように生き、そうしない者を愚か者や悪人とみなします。聖書に「ひとりの人によって罪が世界にはい」ったとしているように、人間は罪人として生まれます。そのとおりなのです。「私は好色ではありません。ミニスカートをはいた女性には興味がありません」と言う人はいるでしょう。
その人は、ほんとうに興味がないのでしょうか。周りに大勢の人がいるときには興味がないふりをするでしょう。しかし、他人が近くにいないと、好色の罪を犯さずにはいられません。
悪い木は悪い実を結びますし、よい木は悪い実をつけることがありません。その逆も同じことです。人間は自分が罪人であることを知らなければなりません。自身の罪を知っているなら、イエスによって罪から救われることができます。しかしながら、罪を知らないままに罪を犯さないふりをしたなら、神に裁かれて地獄に行きます。人間は罪人として生まれます。ですから、生まれた時から罪の実を結ぶ悪い木なのです。子供時代から罪深い本質を育ててきた者は、生涯罪を犯すのに巧みです。罪深い性質をあまり育ててこなかった者は、生涯の終わりになって悪の実を結ぶようになります。韓国の大邱市に女性聖職者がいました。その人が若いときにキリスト教に改宗したとき、聖職者として主に仕えるために生涯独身でいようと誓いました。しかしながら、六十歳になってから誓いを破ってやもめと結婚しました。その人はあまりにおそく罪深い性質を育てたのです。その人は受け継いだ姦淫をおそくなってから育てました。
たいていの人は、罪深い性質を幼いころから養います。今日、若い人々は幼いころから罪深い性質を伸ばしているようです。その人たちは、年長の人々との間に世代間の断絶を感じます。彼らは X 世代と呼ばれます。ところで、人間は罪人として生まれたこと、生涯罪を犯さずにはいられないことをみことばから学びました。認めますか?
癩病の法
第二に、神は、「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に。──それというのも全人類が罪を犯したからです」(ローマ 5:12)とおっしゃいました。
罪のために人間は神の裁きを受けることになります。そこで罪人は、自身を知って罪の赦しを受けなければなりません。どうしたら自身を知ることができるでしょう。どうしたら神の前で罪を赦されるのでしょう。
レビ記第 13 章で、神はモーゼとアロンに、癩病の調べ方をお教えになりました。旧約の時代には癩病患者が大勢いました。癩病についてはよく知りませんが、若いときに大勢の患者を目にしました。友人の一人もその病気にかかっていました。神はモーゼとアロンに、癩病を調べ、患者をイスラエル人のキャンプから離すようお命じになりました。神は癩病の調べ方をお教えになりました。「ある人のからだの皮膚にはれもの、あるいはかさぶた、あるいは光る斑点ができ、からだの皮膚でらい病の患部のようになったときは、その人を、祭司アロンか、祭司である彼の子らのひとりのところに連れて来る。」(レビ記 13:2)調べて皮膚の病気があると、祭司はその人を七日間隔離しました。それから七日後にもう一度皮膚を調べます。腫れ物が広がっていなければ、祭司はその人がきよいと宣言します。「あなたはきよい。キャンプに住んでよろしい。」
腫れ物が白く、髪が白くなり、生肉が盛り上がっている部分があると、それは癩病なので、祭司はその人が汚れていると告げました。レビ記 13:9-11 には、次のようにあります。
「らい病の患部が人にあるときは、その人を祭司のところに連れて来る。祭司が調べて、もし皮膚に白いはれものがあり、その毛も白く変わり、はれものに生肉が盛り上がっているなら、これは、そのからだの皮膚にある慢性のらい病である。祭司は彼を汚れていると宣言する。しかし祭司は彼を隔離する必要はない。彼はすでに汚れているのだから。」
祭司はイスラエル人のキャンプから患者を引き離しました。これは、この国でも同じです。韓国には花の村や小鹿島といった、癩病患者の住む村が点在しています。ずっと以前、車で家に帰る途中、妻は高速道路に標識があるのを見て、「花の村」を見ましょうよと言いました。その時は、「花の村」が何か知らないのにと思いました。「村」に行きたいのかいと尋ねました。「ええ。」しかしながら、「花の村」が癩病の村であると告げると、妻は驚き、二度とそこへ行こうとは言いませんでした。癩病患者は孤立した村で社会から切り離されています。
ここで注意するべきことは、癩病が広がって皮膚をすっかり覆うと、その人はきよいと祭司が宣言した点です。これは筋が通ったことでしょうか。祭司は、癩病の症状がほんの少しのときは患者を隔離しました。しかし症状が頭からつま先まで、全身の皮膚に広まると、キャンプの中に住むことを許したのです。神は癩病を識別する方法を祭司にお教えになりました。
「もし吹き出物がひどく皮膚に出て、その吹き出物が、その患者の皮膚全体、すなわち祭司の目に留まるかぎり、頭から足までをおおっているときは……」(レビ記 13:12)神は祭司にこのように癩病を分類するようおっしゃったのです。
癩病に関する法の示すこと
これから次のことがわかります。人間は生まれながらに罪深い性質をもった罪人で、生涯罪を犯します。しかし、中にはわずかしか罪を表わさない人々がいます。そうした人たちは、一度手で罪を犯し、次には足で、またずっと後になって頭で罪を犯します。そこで、その人たちの罪は目につきません。一箇所だけに癩の症状が出て、別の場所に小さな腫れ物ができたなら、誰もそれが深刻なものとは思わないでしょう。それが癩病の症状であるとは、誰も思いません。
人間は受け継いだ罪のために、罪人として生まれます。神は人間を罪人と定めておいでなのに、人間は無数の罪を犯すまでは自分が罪人であるとは気づきません。そうして、ついにこの世で罪人であることに気づきます。
しかしながら、自分が高潔な人間であると思い込んでいる人は、長い間、わずかしか罪を犯さず、罪人であることを知りません。神は、癩病がわずかしか広がっていない人を汚れた者として隔離するようにと祭司におっしゃいました。罪人は神から切り離されます。分かりますか? 神は聖いのです。自分はごくわずかしか罪を犯していないと思っている人は、天の御国に入れません。
天の御国に住めるのは誰でしょう。罪が全身に広まり、自分が確かに罪人であると気づく者が天の御国に入れます。そうした人々はイエスへの信仰によって罪をすべて赦され、天の御国に入って神とともに支配します。
聖書には、罪がわずかしか広がっていない者は汚れていると神がおっしゃると告げています。罪を犯すまいとしても繰り返し罪を犯し、自分が完全な罪人であると告白する者を神は召されます。
イエスは、「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」(マタイ 9:13)とおっしゃいました。神は罪人を招かれ、その罪を洗い流されます。神はその人たちの罪をすべて洗い流されました。神はすでに罪をみな、ただ一度で洗い流しておられます。イエスはバプテスマによって罪をすべて被られ、身代わりとして十字架上で裁かれて罪人を義人になさり、天の御国にお連れになるためによみがえられました。
自身を知れ
自分が完全な罪人であるのか、部分的な罪人であるのかを知りましょう。神は、全身の膚に癩病が広がった者がきよいとおっしゃいました。神は、そのように癩病に関する法を定められました。自分が罪に満ちていることを知っている者は、イエスが来られてバプテスマと十字架とで罪をみな洗い流したとおっしゃったとき、水と御霊の福音を信じて罪の赦しを受けるしかありません。しかしながら、部分的罪人は自分が罪に満ちているとは思わず、福音を嘲ります。
イエスが罪をすべて洗い流されたのに、まだ罪があるのでしょうか。いいえ。罪の赦しはただ一度で受けることができます。ですから、罪人は自身を知らなければなりません。自身を知ったとき、罪はみな消されます。人間は、ちょっとした罪だけを神に示しがちです。
「主よ、私は罪を犯しました。そのつもりはなかったのですが、あの人のせいであんなことをしてしまったのです。この件だけは赦してください。もう二度と罪を犯しませんから。」人々は、些細な罪だけを神に示します。すると神は、「あなたは清い」とおっしゃいます。
人間には神の前で何の義もありません。「生きるか死ぬかは、すべて神様次第です。私は罪人で、地獄に行く運命にあるのです。みこころのままになさってください。慈悲によってお救いください。神様なら、お救いください。そうすれば、信じて、みこころのままに生きます。」神は、自分が罪に満ちていると認める者を救われます。
人間は十二種の悪い考えを受け継いでいる
マルコ 7:20-23 を読みましょう。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな内側から出て、人を汚すのです。」内から、人間の心から悪い考えが起こります。人間は本来、罪を受け継いでいます。分かりますか?人間は生涯悪い考えをもっています。すべての罪がただ一度で赦されるのでなければ、救われる道はありません。
人間は十二種類の悪い考えをもって生まれます。不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさです。ですから、生涯罪を犯し続けずにはいられません。罪の赦されていない人は、そのようにしたくなくとも罪深く生きます。考えや行ないのように人間から生じるものはみな、神の前には罪深いのです。
罪人が善人であるのは偽善です。人はただ高潔さを装っているのです。それは神を欺いているのです。罪深く生まれた人間は、救われるためには自身を知らなくてはなりません。しかしながら、自分が罪深いことを知らないのなら、その人は罪を犯すたびに動揺します。「ああ、どうしてこんなことをしてしまうのだろう。」その人は自らを欺いています。
人間には悪い考えがあります。「どうして悪いことを考えてしまうのだろう。こんなことを考えてはいけないのだ。どうして汚れたことを考えるのだろう。先生は、善行をしろとおっしゃったのだ。」自分がなぜあることをするのか知らないために、このように考えます。自分が罪を受け継いでいることを知らないために、盗んだり姦淫したりすると悩みます。殺人、姦淫、不品行、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさはやむことなく、次々と生じます。そこで、わけがわからずに自分を憎み、恥じるようになります。
人間は共通の祖先アダムから罪を受け継いだ生まれながらの罪人なので罪の塊であり、生涯十二種の悪の果実を結ぶのです。自分が罪人であることを知っている人は幸いです。
人間は自分が信用できない罪人であると知ると、すべての罪から救ってくれるイエス、救い主を求めます。それが神の恵みを受ける唯一の道なのです。しかしながら、自分を知らなければ、救い主を求めません。自分をよく知る者は自分を否定し、努力をやめ、人間に頼ることをやめ、神・救い主・預言者であられるイエス・キリストを求め、イエス・キリストの恵みによって赦されます。
自身を知る者は神の恵みを受けるのですから、罪人は自分を知らなければなりません。自分を知らない者は恵まれません。ですから、罪人は自身をありのままに知る必要があります。分かりますか? みなさんは、罪の赦しを受ける以前に悪いことをしたことがありますか? それなら、その理由がわかりますか? 意思に反して悪いことをしたのは、罪を受け継いでいるためです。
ひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入った
人間には罪があるために死は不可避です。人間は罪から救われるためにイエスを探してお会いし、罪を消していただかなければなりません。そうすると、永遠のいのちを得ます。みなさんは罪のすべてから救われたいと思いますか?
「ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。ただし、恵みには違反のばあいと違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。また、賜物には、罪を犯したひとりによるばあいと違った点があります。さばきのばあいは、一つの違反のために罪に定められたのですが、恵みのばあいは、多くの違反が義と認められるからです。もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。」(ローマ 5:14-21)
「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に。──それというのも全人類が罪を犯したからです。」(ローマ 5:12)ここで、「ひとりの人」とは誰でしょう。アダムです。イブも一人の人アダムから生まれました。そこで聖書では「ひとりの人によって」とあるのです。神は最初に一人の人を作り、その一人の人によって罪が世界に入ったのです。人間の観点からすれば、エデンの園には二人の人がいました。しかし、実のところ、神の目には一人の人がいるだけです。全人類は一人の人アダムから生じているのです。
「ひとりの人によって罪が世界にはい」ったとは、アダムが罪を犯したためにアダムの子孫がみな罪人になったという意味です。みなが罪を犯したので、全人類に死が伝えられたのです。罪のために全人類が死に定められました。神は罪のある者には我慢なされません。
神は全能であられますが、二つのことはおできになれません。嘘をつくことと、罪のある者を天の御国に入れることは、おできにならないのです。神は約束なさったとおりに律法を適用なさいます。神は罪のある者を必ず裁かれます。神は嘘をおつきになることも、ご自分の定められた律法を無視することもおできにならないためです。人間はみな一人の人アダムのために罪人になりました。アダムは神の前で堕落して罪を犯したのです。神の裁きとしが全人類に広がったのは、一人の人アダムの子孫として、罪人として生まれているためです。こうして死は全員に広まりました。
初めに神が人間を創られた時、死はありませんでした。エデンの園には善悪の知識の木だけではなく、いのちの木もありました。神はアダムに、いのちの木の実を食べて永遠に生きよとおっしゃいました。しかしながら、アダムはサタンに欺かれて神が食べてはならないとお命じになった善悪の知識の木の実を食べ、みことばを捨てて神に挑んだのです。そこで、罪のために死がこの世の人全員に広がりました。死は一人の人アダムによって世界に入りました。
神が人類に律法をお与えになった理由
アダムによって罪が世界に入らなければ、死は人間全員に広まらなかったでしょう。なぜ人間は死ぬのでしょう。罪のためです。罪は一人の人から世界に入り、そこで死が人間全員に広まったのです。律法の以前、世界には罪がありました。しかし、人間は律法が与えられるまでは罪のことを知りませんでした。
神の律法は、モーゼを通じてすべての人に与えられました。アダムとノアの時代にも罪がありました。しかし、神はモーゼの時代まで律法を定められませんでした。聖書は、当時生きていた人全員の心に罪があったとしています。
ローマ 5:13 を読みましょう。「というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。」世界に律法がなかった時にも罪はありました。ですから、人はみな神の前で罪を犯したために死ななければなりませんでした。神は、人々に罪の知識をお与えになるために、六百十三項目の戒めからなる律法をご自分の前と人々の間で守るようにとお与えになりました。神の律法によって、人々は何を知ったでしょう。自身に罪があること、自分たちが神の目には罪深い者であることを知ったのです。人々は神の律法を守ることができないことに気づきました。
そこで、罪を知るようになったのです。アダムとイブの子孫は、自分たちが罪人であり、神だけが罪をお赦しくださることを知っていました。しかし、祖先アダムから罪を受け継いで罪人になっていることを時とともに忘れました。当時、罪を犯したときに自分が罪人であることを知っていましたが、罪を犯していないときには自分を罪人だとは思っていませんでした。彼らは誤っていたのです。今日、罪を犯せば罪人になるのであり、罪を犯さなければ罪人にはならないのだと考えている人がいまだに大勢います。実のところ、生まれたときから罪を受け継いでいるのですから、罪を犯すかどうかに関わりなく、人はみな罪人なのです。
人間は罪から救われるまでは避けようもなく罪人なのです。ですから神は、罪を知るようにと律法をお与えになったのです。神の律法によって神を知り、律法を認める者は、自分が深刻な罪人であることを知っています。神の律法を完全に知ると、人間はすぐさま深刻な罪人になるのです。
一人の人から死がすべての人に広まった
ローマ 5:13-14 には、次のようにあります。
「というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。」
人はみな一人の人によって罪人になり、一人の人によって死が広がったと神はおっしゃいます。罪によって死は全員に広まりました。それは一人の人のせいでした。この一人の人とは誰でしょう。アダムです。聖徒はみなこれを知っています。しかし、知らない人も大勢います。キリスト教徒の多くも知りません。そうした人々は、罪を原罪と行ないによる罪とに分け、行ないによる罪は毎日悔い改めの祈りによって赦されるものだと思っています。その人たちは、自分たちが裁かれて地獄に行くのはアダムのためであると知りません。
アダムの子孫は罪があるために、どんなに善であろうとしても神とは無関係です。どんなに立派に生きようと努力しても、神は全員を裁かれます。アダムの子孫であるためです。共通の祖先アダムのために人々は地獄の永遠の炎の中に投げ込まれます。
アダムはやがて来る者のひな型
アダムはやがて来る者のひな型であると記されています。一人の人のために人はみな罪人となり、死が訪れるのです。しかしながら、全員が一人の人アダムによって罪人とされたように、全人類は一人の人イエス・キリストによって義人にされました。これが神の律法です。
人間は神の律法を知らなかったために宗教を作りました。イエスを信じていて、救われるためには善行を行なわなければならないと言います。これは実に広く信じられていて、こうした嘘が何度も語られているのです。彼らは人々に「キリスト教徒として善良でなければなりません」と教えます。罪は行ないによってはけっして消されません。
アダムは来たるべき方のひな型です。
人類を罪から救済するために来られる方とは誰でしょう。イエス・キリストです。イエスはこの世に遣わされ、バプテスマをお受けになって世の罪をただ一度で正しく取り除かれて人間を義人になさり、十字架につけられて人類を裁きからお救いくださいました。
サタンが被造物アダムを欺いたために、罪が世界に入りました。アダムによって罪が世界に入りました。しかしながら、イエス・キリスト、救い主・造り主・王の王で全能であられるお方が、人類を罪からただ一度でお救いになるために、人間の肉の形でこの世に遣わされたのです。イエスは世の罪をただ一度で消されました。バプテスマによってただ一度で世の罪を被られ、罪の贖いとして十字架につけられたのです。
どんなに深刻な罪を犯していようと、イエスが罪をすべて消されるために遣わされたと信じるなら、その人は新たないのちと贖いを受けます。神は人類をご自分の子どもになさるために天地創造をご計画になりました。神はこの世に来られ、約束を完全に実行なさいました。ですから、人間には罪が一つもありません。神はけっして過ちを犯されません。アダムはやがて来る方のひな型でした。人々がなぜ自身の働きに依存するのか、私には理解できません。人類救済は、完全にイエスによるのです。一人の人アダムによって人間は罪人になり、一人の人イエスによって贖われたのです。
人はただ罪の赦しの救済を信じさえすればよいのです。人間がするべきことはそれだけです。イエスが罪をすべて消してくださったことを喜ぶ以外に、することはないのです。ところで、人々はなぜそんなに善行をしろと他人に勧めるのでしょう。人間は自身の働きによって罪から救われるのでしょうか。いいえ。救済は、罪の赦しへの信仰のみによるのです。
価なしに与えられた賜物は違反とは異なる
ローマ書 5:14-16 は、次のようにあります。「ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。ただし、恵みには違反のばあいと違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。また、賜物には、罪を犯したひとりによるばあいと違った点があります。さばきのばあいは、一つの違反のために罪に定められたのですが、恵みのばあいは、多くの違反が義と認められるからです。」
この部分は、どういう意味でしょう。聖書には、「ただし、恵みには違反のばあいと違う点があります」とあります。「恵み」とは、神による救済のことです。ここは、アダムから罪を受け継いだ人間はみな地獄に行く定めにあったが、罪をすべて消されたイエスへの信仰によって、無差別に罪が赦されるという意味です。これはまた、イエスがすでに将来の罪までもすでに消されていることを意味します。
アダムの子孫として生まれた人間は、罪を犯していなくとも罪人です。ですから、罪を犯さなくとも地獄に行くことを免れません。イエスは救い主としてこの世に来られました。イエスがくださった賜物とは、人間が世の終わりまで犯し続ける罪の十分以上の赦しのことです。
ですから、一人の方の恵みは一人の人の違反よりも大きいのです。人が神に敵対する罪を犯すと、その罪だけでも神に裁かれて地獄に行くに十分に深刻です。しかしながら、人類の罪と違反を全部すでに消してくださった主の恵みは、一人の人の違反よりも優れているのです。
これは、イエスの愛と罪の赦しの恵みとが全人類の違反よりも大きいということです。主は世の罪をすべて十分に消し去ってくださいました。人類をお救いくださったイエスの愛と救済の恵みとは、一人の人の犯した罪よりも豊かで偉大です。人間は肉において神に敵対しているのですが、主はすでに神に敵対する罪を消してくださっています。主は今、ご自分がすでに世の罪をただ一度で消されたことを信じることを人間にお求めです。世の罪を取り除く神の小羊として、罪人を罪のすべてからお救いくださったのは、このためです。
人間の罪は神を信じれば消されるのであって、神を信じなければ消されないという説は誤りです。神は、信じない者の罪までも消しておいでです。神は世のすべての人を愛されるためです。それなのに、人々は神の愛を受けようとしません。誰ひとり神の愛と救済から除外されていません。神による救済は、イエスが罪をすべて消されたと告げている福音の真理を信じる者に与えられます。
人間は実に弱い存在です。神は、イエスが罪をすべて消されたと信じる者を罪のない者となさいます。罪をすべて赦された後でも、人間の肉には多くの弱点があります。何度も神に敵対し、みこころに同意できないときは、神の義を捨てようとさえします。しかし、神はおっしゃいます。「あなたを愛しているから救いました。あなたがたった今まで犯してきた罪をすでに消しています。」「ああ。そうなのですか。」「そうです。あなたの罪はみな消しました。」「主よ、ありがとうございます。主にたたえあれ。主をたたえずにはいられません。主を否定する罪までも消してくださるほどに愛してくださっているのですから。」
罪人になった者は義人とされ、愛の奴隷になります。彼らは神の愛を受け入れたのです。弱さのために、ペテロがそうしたように神を否定しても、主は神を否定する罪までも消してくださったのですから、イエスを信じないではいられません。だからこそ主をたたえるのです。ですから使徒パウロは、神による救済は一人の人の違反よりも豊かだと言ったのです。
イエスは罪をすべて取り除かれました。人間が受け継いでいた原罪も、世の終わりまでに犯される行ないによる罪も。ですから、神の愛は実に偉大です。聖書にはその意味で「見よ。世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ 1:29)とあるのです。
義人はひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配する
世の罪は、悔い改めの祈りによっては赦されません。信者は罪がなくなり、すべての罪からの救済を受けます。主がすでに未来に犯される罪までも消しておられるためです。ローマ 5:17 には、次のように記されています。「もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。」
聖徒は恵みを受けています。恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々とは誰でしょう。主を信じ、信仰によって罪を赦されている人々です。罪の赦しの恵みを豊かに受けているので、聖徒は主をたたえます。「恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。」
聖徒は、いのちにあって支配する王です。王だけが支配します。私たちが今支配しています。誰が王に対して戦えるでしょう。恵みと義の賜物とを豊かに受けている私たちは、毎日支配しています。私たちは今日支配し、明日も支配します。王に親切な者は恵まれ、共に王になれます。しかしながら、王が宣べ広めている真理の福音を信じない者は、誰でも地獄に行きます。
この世には救われた王が数多くおり、また、王に敵対したために地獄に行った者も数多くいます。人々は王に親切でなければならなかったのに、そうしなかったのです。真理の目と心とがあれば、王であったはずなのです。
みなさんは支配していますか? 聖徒は、王であることを自信をもって世に誇ります。人々が敵対すると、不信者は地獄に行くと告げます。これは、王だけにできることです。聖徒は本物の王です。義人の中に、支配していない者がいるでしょうか。王として支配しないのは、不心得です。王は王として支配するべきです。「あなたの考えは間違っています。真理を受け入れなければ地獄に行きます。」
王は王として行動するべきです。王は威厳をもち、真理を信じるよう罪人に命じるのです。どんなに若くとも、王は裁き、命じ、神の義に敵対する不信者を地獄行きにすることができますし、またそうしなければなりません。王には不信者を神の前で地獄に定める権威があります。しかし、それは、王が好きなように権威を乱用していいということではありません。主は、この世で支配せよとおっしゃいます。ですから、支配して天の御国に入りましょう。
しかしながら、義人の中にはおとなしすぎて権威を用いることができない人々がいます。主は再臨されたとき、その人たちを非難なさいます。「あなたは信仰を捨てました。なぜ奴隷のように振舞ったのです。あなたを王にしたのに。」世に対して奴隷のように振舞う人々がいます。王が臣下に対して仕える者のような言葉を使うことがあるでしょうか。しかしながら、義人の中にはそのような話し方をする人がいるのです。筋が通らないことです。神が罪から救ってくださった後になっても世界に対して跪いて赦しを乞います。王は王らしくなければなりません。
私は、王になるとすぐさま、独立した王であることを世界に宣言しました。私は王になったと信じ、若かったのですが王のように振舞いました。
一人の人イエス・キリストの従順によって
ローマ 5:18-19 には、次のようにあります。「こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。」
「ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められた。」ここで「罪に定められた」というのは、裁かれたということです。アダムの子孫として生まれ、水と御霊によって新たに生まれていない者は、イエスを信じていても裁かれます。「一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。」
イエスの一つの正しい行為によって人はみな義人にされました。イエスは処女マリヤから生まれ、ヨルダン川でバプテスマをお受けになり、世の罪をすべて被られたのです。イエスは人類の身代わりとして十字架につけられて人々を義人になさいました。一人の人が父なる神のみこころに従順であったために、大勢が義人とされたのです。
厳密にいって、世の人はみな罪人ですか、それとも、信仰の見地からすると義人なのでしょうか。人間はみな義人です。信仰によってそう言うと、腹を立てて対立する人々がいます。実のところ、神の観点からすれば、罪をもつ者は一人もいないのです。神はひとり子をこの世に遣わされ、世の罪をすべてその上に移され、全人類を代表して裁かれるようになさいました。
天の御国か地獄かは、信仰によって決まる
神はもはや世を裁かれません。すべての人の代わりにイエスを裁かれたためです。しかしながら、神の御子が罪をすべて取り除き、神のみこころに従順にすべてを消されたのに、これを信じる人もいれば、信じない人々もいます。信じる者は、神の義を信じて天の御国に入ります。神は、その人たちを義人と認められ、おっしゃいます。「あなたは義人です。私が罪をすべて消したことをあなたは信じている。来なさい。天の御国を用意しました。」彼らは天の御国に入ることができます。
しかし、神を信じないで福音を拒む人々がいます。「神様ですって。信じられませんね。ほんとうですか。どうもわかりませんね。」神はおっしゃるでしょう。「どうしてわたしを怒らせるのです。信じたければ信じなさい。信じたくないのなら、信じるのではありません。」「主よ、水と御霊の福音はほんとうですか。」「わたしはあなたを救いました。」「信じられません。90% までは信じられますが、10% は疑問があります。
すると、神はおっしゃいます。「わたしがもう救っているのに、それを信じない。自分の信じるようにしなさい。わたしは、罪がある者をアダムの子孫として地獄に送ることにしました。天の御国も造りました。そうしたければ、天の御国に入りなさい。地獄の炎に投げ込まれたければ、地獄に行きなさい。」天の御国に行くか地獄に行くかは各人の信仰によります。
イエスがバプテスマをお受けになり、十字架上で血を流されて罪のすべてから救ってくださったと信じていますか。信仰次第です。天の御国と地獄の間に中間点はありません。神の前で「いいえ」はありません。「はい」があるだけです。神はまた、けっして「いいえ」とはおっしゃいません。神はすべてを約束なさり、それをすべて実行なさいました。神は罪人の罪をすべて消されました。
罪の増し加わるところには恵みも満ちあふれる
ローマ 5:20-21 を読みましょう。「律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。」なぜ律法が入ったのでしょう。違反が増し加わるようにするためです。人間は、アダムの子孫として、本来罪を犯すようになっています。しかし、人間が自身の罪深い性質を知らなかったので、神は律法をお与えになって罪の知識を得るようになさったのです。律法は、何をするべきか、何をしてはならぬかを定めており、考えや行ないにおいて律法に従わないことは罪とされたのです。
律法が入ってきたのは、違反が増し加わるためです。神は、人間が深刻な罪人、罪の塊であることを自覚するようにと律法をお与えになりました。しかしながら、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれるのです。これは、アダムの子孫として罪をもって生まれながら、自分がそれほどの罪人ではないと考える者は、イエスが救ってくださったこととは関係がないということです。
しかしながら、自分には数多くの短所があって、肉では神のみことばにしたがって生きることができないと思う者は、お救いくださった主に感謝をささげます。主が世の罪をただ一度で取り除かれたと告げている福音は、そのような人にとってはすばらしい贈り物です。「しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」恵みが満ちあふれたので、深刻な罪人は完全に義人とされました。自分は罪に満ちてはいない思っている罪の軽い罪人は、地獄に生きます。深刻な罪人だけが完全に義人とされるのです。
ですから、自分が深刻な罪人であると知る者は、イエスによる救済を大いにたたえます。この世界の福音宣教師の中には、温厚な人はほとんどいません。「しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」これは、恵みが増し加わるようにわざと罪を犯すということではありません。
使徒パウロはローマ 6:1 で「それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか」と述べました。パウロは、「神の義を信じさえすれば救われます。主がすでに人類の罪をすべて消され、罪人を罪のすべてから十分に救ってくださっています。聖徒は心で信じて義人にされています。主のなさったことを信じるなら救われます。どんなによこしまであろうと、何度罪を犯そうと、行ないによらず真理への信仰によって義人とされているのです」と言っているのです。
聖徒は信仰によって義人になりました。人間の行ないはどれほど邪悪でしょう。何度罪を犯しているでしょう。罪のない神が人間をご覧になったら、どれほどの欠点が見えることでしょう。主をたたえずにはいられません。ローマ 5:20-21 には、「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです」とあります。
神はイエス・キリストによって永遠のいのちをくださいました。主の義によって、ともに支配するようにしてくださいました。罪人を罪のすべてからお救いくださった主をたたえます。主よ、ありがとうございます。