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Sermones

主題 10: 黙示録

[第11章-2] イスラエル人の救済 (黙示録 11:1-19)

イスラエル人の救済
(黙示録 11:1-19)
 
神はなぜイスラエル人に二人の預言者を遣わされるのでしょう? 特にイスラエル人をお救いになるために、そうなさるのです。本文では、神は二人の証人に千二百六十日間預言をあかしさせるとしています。これを最後としてイスラエル人を救うためです。神がこうしてイスラエル人をお救いになることは、終わりの時が来たということでもあります。
第 2 節は、「聖所の外の庭は異邦人に与えられているゆえ、そのままに差し置きなさい。測ってはいけない。彼らは聖なる都を四十二か月の間踏みにじる」とあります。これは、異邦人に恐ろしい災害が訪れたとき、七年間の大艱難期が始まり、徐々に大変な混乱と災害がもたらされ、異邦人の中で福音を聞いて信じた者たちが殉教すると、神はイスラエル人の間から二人の預言者をお出しになり、イエスが神で救い主であるとあかしさせてイスラエル人をお救いになるという意味です。こうしたことが、やがて来る神のみわざであるということなのです。
このみことばを、サタンに欺かれて、自分たちの宗派の指導者が終わりの時の二本のオリーブの木であるとか、この派の創立者が終わりの時に預言されたエリヤであると主張する人々に教えなければなりません。世俗的な教会が黙示録について語るときには、二本のオリーブの木の部分を最も頻繁に利用します。これまでの信仰生活の中で出会ってきた、異端の教派に欺かれている人々のうち、その人の教派の指導者がここで述べられている二本のオリーブの木であると主張しない人は誰もいませんでした。私の知る異端者はみな、いずれはそのような主張をしました。
しかし、黙示録の二本のオリーブの木と二つの燭台は、そうした異端者の主張するようなものではありません。ほんとうのところ、このオリーブの木は神がイスラエル人をお救いになるために彼らの間から立てられる二人の預言者を指しているのです。
第 11 章は、神がどのようにしてイスラエル人をお救いになるかを詳細に述べています。ローマ人への手紙がそうだったように、黙示録の各章にはそれぞれの主題があります。この主題を知ってはじめて、この章が何についてのものであるかが理解できます。この主題を知らずに、異邦人が聖なる都を四十二か月間踏みにじると解釈し、異邦人の時代が終わると、替わってイスラエル人の救済の時代が始まるのであり、それ以後はイスラエル人だけが救われると主張する人々がいます。
しかし、それは真実からほど遠いものです。第 7 章は、異邦人の中からもまた無数の人々が大艱難の中で救われるとしています。つまり、イスラエル人だけではなく、異邦人もイスラエル人もともに大艱難の中で救われるのです。ですから、第 11 章は、神が終わりの時にイスラエル人をお救いになるために二人の預言者を立てられるということであり、もはや異邦人は救われないということではないのです。
すると、「第 7 章で神が印を押されたイスラエル人の数であるとしているように、十四万四千人のイスラエル人はすでに救われているのではないのですか」と問い返す人がいるでしょう。印を押されているということが救われたということではないのです。イエス・キリストを介さずには、誰ひとり救われません。救済は、イエス・キリストがこの地上においでになり、人類の罪をすべて負うためにバプテスマをお受けになり、そうして負われた世の罪をすべて十字架に運び、そこで死なれ、再び死者の中からよみがえられることによって救い主になられたということを信じることによってのみ得られるのです。
人間が死ぬまで罪を犯さずにいられないことはわかっていますが、それでも、イエス・キリストがすべての罪を完全に消し去って救い主となられたと信じることによって、救われているのです。十四万四千人のイスラエル人は印を押されるでしょうが、神はまた二人の預言者を用いられ、彼らによって福音をイスラエル人に宣べ伝えさせられるのです。つまり、みことばは、二人の預言者が福音をイスラエル人に説き、それによって十四万四千人が救われるという意味なのです。
聖書には決して偏見や差別がありません。イエス・キリストを介さずには誰ひとり救われません。神は、イエス・キリストを介さずに「あなたは救われた。しかし、あなたは救われていない」とはおっしゃいません。
本文に登場する二本のオリーブの木である二人の預言者は、ゴルゴタという場所で殺されます。二人の死体は埋葬することなく放置され、イエスを信じも受け入れもしない人々は、その死を喜んで互いに贈り物を贈り合います。しかし、第 11・12 節には次のようにあります。「しかし、三日半の後、神から出たいのちの息が、彼らにはいり、彼らが足で立ち上がったので、それを見ていた人々は非常な恐怖に襲われた そのときふたりは、天から大きな声がして、『ここに上れ。』と言うのを聞いた。そこで、彼らは雲に乗って天に上った。彼らの敵はそれを見た。
ここでは、私たち──すなわち、みなさんと私は異邦人ですが──もまた、時が来れば信仰によって殉教するのであり、殉教の後間もなくよみがえりと携挙が起こることが率直に告げられているのです。この話題は、黙示録全体を通して現れます。七つの鉢の災害が地上に注がれたとき、携挙された聖徒は空中で神をたたえているというくだりもあります。
第 14 章ではまた、十四万四千人の救われた人々が、救済の最初の果実以外には誰も歌うことのできない歌で神をたたえるとしています。このことから、イスラエル人が救われたとき、彼らはいたるところで殉教し、殉教の後間もなくよみがえりと携挙が行なわれるということがわかります。
同じことが異邦人についても言えます。終わりの時には、みなさんと私は七つのラッパの災害の多くの困難を経験しますが、神はそれでもそれらの災害からお守りくださいます。七年間の大艱難が前半三年間を過ぎてその頂点に達したとき、聖徒の迫害もまた頂点に達します。しかし、この激しい迫害は長くは続きません。多くの聖徒としもべはじきに殉教し、殉教の後速やかに携挙が起こるのです。
なぜでしょう? 黙示録は、七つの鉢の災害がこの地上に注がれた時には、聖徒はすでに天国で神をたたえていると繰り返し記しているためです。みことばは、これをすばらしいこととして描きます。
黙示録第 10 章 7 節には、「第七の御使いが吹き鳴らそうとしているラッパの音が響くその日には、神の奥義は、神ご自身のしもべである預言者たちに告げられたとおりに成就する」とあります。これは携挙、神の隠された奥義のことにほかなりません。テサロニケ人への手紙第一第 4 章 16 節で使徒パウロもまた、「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下ってこられます」と述べています。
しかしながら、主が天から下るというのは、主がただちにこの地上においでになるということでありません。主は天から空中に下られ、眠っている者を起こすよみがえりと、生きている者を変化させることとが起こると、すぐさま携挙が続き、聖徒が空中で主にお会いするのです。子羊の結婚の祝宴が催され、七つの鉢の災害を地に注ぐことでこの世界が完全に破壊された後で、主は新たになった地上に聖徒と共に下られ、まだ生きている人々の前に姿を現されます。
黙示と聖書のみことばを個人的な見解に基づいて解釈することは、滅びへの道につくことです。みことばを正しく理解することなく神学者の提唱する単なる説を信じ、そうした主張を支持するのは、誤っています。
保守的なキリスト教社会において高い評価を受けている有名な神学者の中で、L. バーコフやアブラハム・カイパーのような学者は、千年王国否定説を唱えました。大艱難前携挙説・大艱難後携挙・千年王国否定説のうち、この最後の千年王国否定説を信じることは、聖書自体を信じないのと同じことです。
かつて人々が大艱難後携挙説を信じていた時は過ぎ去り、現在では誰もが大艱難前携挙説を信じています。しかし、この説もまた、聖書の内容に沿っていません。それなのに、人々は大艱難前携挙説のことを聞かされると、心を惹かれるのです。なぜでしょう? 大艱難前携挙説によると、キリスト教徒は七年間の大艱難について何も心配がいらないからです。
そこで、信者が熱くも冷たくもない信仰生活を送り、教会は会衆を大きくすることだけに心を砕くことが認められるようになっています。こうして、信仰はなまぬるくなります。大艱難を経る心配をする必要は全くないと考えるために、終わりの時が近づいて信仰が深まらなければならないその時に、信仰が楽天的で生ぬるいものになっています。かつて人々は千年王国否定説を信じていました。それから、しばらくは大艱難後携挙説、そして今は大艱難前携挙説を信じています。
1830 年代、ムーディ聖書学院のスコフィールド牧師は引照聖書の著述を開始します。スコフィールドは、世界的に有名な神学者ダービーの影響を強く受けました。
スコフィールドの霊的指導者であったダービーは元カトリックの神父で、きわめて知的で博識な人物でした。彼はカトリック教会の誤りに気づいて去り、小さなキリスト教組織に加わって、その指導者となりました。ダービーは常に聖書を読み、研究しましたが、黙示録から携挙が大艱難の前なのか後なのかを判断することができませんでした。そこで、この問題についてより明瞭な証拠を求めて旅に出ました。
この旅の間に、聖霊論指導者であった十代の女性と出会います。この女性は、啓示により携挙が大艱難の前に起こるのを見たと主張しました。彼女の言うことを信じて、携挙は大艱難の前に起こると確信したダービーは、自らの聖書研究を大艱難前携挙説で結びます。
しかしながら、当時の人々は主に大艱難後携挙説を信じていたために、ダービーの大艱難前携挙説は広く受け入れられることがありませんでした。
ダービーは、黙示録に記されていることはイスラエル人の救済であり、それは異邦人の救済とは全然関わりがないと主張しました。そして、「あなたは、もう一度……預言しなければならない」の部分を、水と御霊の福音を説くことではなく、御国の到来を告げる福音であると解釈しました。
スコフィールドはダービーの説をそっくり受け入れ、大艱難前携挙説を自身の引照聖書に含め、自らは七つの時代を提唱しました。スコフィールドのそうした主張は時代の要請に応え、彼の地位ともあいまって、世界中の信仰者の間に議論を引き起こし、広く受け入れられるようになりました。
では、神は聖書で何とおっしゃっているでしょう? 聖書では、神が七つの封印で歴史を七つの時代に区分され、その御座の前でイエスが七つの封印で封じられた巻き物を取り、開いています。
第一の時代は、白い馬の時代です。これは救済の時代で、神がこの宇宙と人類を創造なさった瞬間にすでに人類をお救いになろうとお決めになり、実際そのとおりお救いになった時代です。黙示録第 6 章 2 節に「私は見た。見よ。白い馬であった。それに乗っている者は弓を持っていた。彼は冠を与えられ、勝利の上にさらに勝利を得ようとして出て行った」とあるように、主は勝利の上に勝利を重ねられるのです。創造の前から福音はすでに存在し、救済はすでに始まっていました。
第二の時代は赤い馬の時代、サタンの時代です。これは、悪魔の時代です。悪魔は人類の平和を奪い、互いに戦い、憎み合い、宗教的に対立するようにさせます。
第三の時代は黒い馬の時代で、これは霊的・物質的飢えの時代です。第四の時代は青ざめた馬の時代、殉教の時代です。第五の時代が携挙の時代です。神は聖徒の携挙をご自分の時代区分の一つに加えておられます。第六の時代は七つの鉢の時代で、この世界が破壊されます。それに続く時代が、千年王国と新たな天と地の時代なのです。神はこのように、世界の時代を七つの封印で封じられた巻き物の中で七つに区分なさいました。
スコフィールドの七つの時代区分は、彼が自分で考えたものです。それに対して、黙示録第 6 章で神の手に握られた七つの封印の巻き物で預言されている七つの時代は、神ご自身が定められたものです。それなのに、人々は人間の考え出した大艱難前携挙説のことを語り、それを信じる人の多くは、主を熱心に信じる必要はないと結論します。
彼らはこう思い定めます。「大艱難の前に携挙されるのだから、七年間の大艱難が来たときはすでに神の御前にいるのだ。だから、心配することは何もない。」神のみことばが大艱難の前に携挙が行なわれると告げていたならば、実際信仰を備える必要はまったくありませんし、年に一、二度教会に出席するだけで十分でしょう。しかし、神はそうはおっしゃっていません。
「彼らは……千二百六十日の間預言する。」「彼らは 聖なる都を四十二か月の間踏みにじる。」こうしたみことばから、異邦人もまた大艱難の間に救われることがわかります。神は水と御霊の福音を広めるために二人の預言者を出現おさせになります。苦難の時が訪れたとき、神の定められた七年間の大艱難の前半三年半を経ずして神の前に立つことのできる者は誰もいません。神はまた、このとき大艱難の中で大勢の殉教者が出るとおっしゃいます。
イエスを正しく信じるには、聖書を正しく学び、厳密に正しく信じなければなりません。聖書の各ページをよく読むことなしに自分なりに説き信じていたのでは、異端者になってしまいます。この世界に無数の教派がある理由もまた、多くの人々がその信仰を自分なりの聖書解釈に基づいているためなのです。
イスラエル人が救われるということから、神のご計画は、みことばで約束されているとおりに成就されることがわかります。これはまた、神は約束のみことばを絶対に破られず、全うなさることをも意味しています。大きな希望をもつことができるのは、このためです。
イスラエルの二人の預言者は死の三日半後によみがえらせられ、昇天します。これが携挙です。これは、大艱難期の殉教者がどのように携挙されるかの型を示しているのであり、また、聖徒の携挙に先行するものとして示されているのです。聖書は、第七のラッパが鳴らされた後、世界はキリストの御国となり、主はそこで永遠に支配されるとしています。イエス・キリストを信じた者たちもまた、共に支配します。
神は聖徒を携挙なさった後でこの地上を完全に破壊なさいます。詳細は聖書に記されていないため、破壊が完全なものであるかどうかはわかりません。しかし、黙示録第 11 章 18 節で、神はこうおっしゃっています。「諸国の民は怒りました。しかし、あなたの御怒りの日が来ました。死者のさばかれる時、あなたのしもべである預言者たち、聖徒たち、また小さい者も大きい者もすべてあなたの御名を恐れかしこむ者たちに報いの与えられる時、地を滅ぼす者どもの滅ぼされる時です。」
携挙は、おそらく大艱難が三年半の頂点を過ぎた時点で起こります。厳密に三年半ではなく、わずかに過ぎた時点で。大艱難は七年間の中間点でその頂点に達します。このときにイスラエル人の間から出た聖徒たちが殉教し、すぐ後で携挙が起こるのです。携挙が起こると、聖徒は空中で子羊の結婚の祝宴に参加します。
聖徒がマタイの福音書第 25 章にあるように空中で子羊の結婚の祝宴に加わっている間に、七つの鉢の災害がこの地上に降りかかります。空中で神をたたえ、地上で起こることのすべてを見て、聖徒はいっそう神に感謝します。
黙示のみことばによって、みなさんも終わりの時が訪れたときに時代を見極め、みことばを正しく信じ、信仰をもって勤勉に生き、将来に備えられることを願い、祈ります。子羊の結婚の祝宴に主と共に加わり、主にほめたたえと誉れと崇拝をささげるためには、信仰を備えなければなりません。
黙示のみことばがやがて来る日々のよき導きとなり、みなさんが水と御霊の福音への信仰をもって勤勉に誠実に生きなければならないと改めて決意されるよう、願っております。