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主題 7: 予定説と神の選びの説にある誤り

[7-1] 予定説と神の選びの説にある誤り(ローマ 8:28-30)

予定説と神の選びの説にある誤り
(ローマ 8:28-30)
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。」
 
 
神は実際、私たちの一部だけを選ばれたのか。
いいえ。神は私たち全員をイエス・キリストのうちに選ばれた。

キリスト教の教義を構成する基本的な神学の一つ、予定説と神の選びの説は、イエスを信じることを望む多くの人々に神のみことばを誤解させました。この誤った理論は、多くの混乱を引き起こしました。
予定説について間違った神学が主張することは、神が嫌いな者を裁かれ、神が愛する者を選ばれたということです。これは、選ばれた人々の中には、水と御霊によって新しく生まれ、天国に受け入れられた者もいれば、選ばれなかった者は地獄で焼かれる運命にあることを意味します。
神が実際に私たちの一部だけを選ばれるなら、「私は救いに選ばれたのか」という質問に悩むしかありません。選ばれなかったなら、イエスを信じることは、私たちにとって無意味になるでしょう。こうして、この理論により、多くの人々は、信仰そのものよりも神によって選ばれたかどうかに、より関心を持たせました。
これを信じるなら、どうして疑いから解放され、神だけを信じることができるでしょうか。神が本当に私たちを選ばれたことをどのように確かめることができるでしょう。たとえ神が、「神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です」 (ローマ 3:29) とおっしゃったとしても、神は選ばれた者だけの神になられるでしょう。
多くの人々が予定説と神の選びの説の意味を誤解しているため、彼らはイエスを信じているにもかかわらず、滅ぼされることを恐れています。
エペソ人への手紙 1:3-5には、次のようにあります。「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。」
したがって、予定説と神の選びの説の概念を再検討するべきです。私たちはまず、予定説と神の選びの説について、聖書が告げていることを理解し、水と御霊による救済への信仰を強化すべきです。
ローマ人への手紙は、私たちに何を教えているでしょう。一部の神学者は、根拠のない「無条件的選び」の説を開発しました。では、神学は神でしょうか。神学自体は神ではありません。
世界の創造の前でさえ、神はイエス・キリストのうちに人類をみんな選ばれ、私たちを義人とすることによって私たち全員を救うという神のご決心をなさいました。イエスは、私たちを無条件に愛しておられます。イエスを差別的な神にしないでください。不信者は自分の考えに信仰を持っていますが、信者は、記された神のみことばへの信仰の基礎に置きます。
 
 

旧約聖書における神の選び

 
無条件的選びは本当か。
いいえ。私たちの主は、そのような心の狭い神ではない。神は、選ばれた少数の者だけでなく、イエスのうちにすべての罪人を選ばれた。

創世記 25:21-26 では、イサクの二人の息子、エサウとヤコブについて読みました。神は、イサクの二人の息子がまだ母親の胎内にいる間にヤコブを選ばれました。
神のみことばを誤解する者は、これを無条件的選びの説の基礎とみなします。これは、運命の神をキリスト教に混ぜ込むようなものです。
神がイエス・キリストではなく「無条件的選び」に基づいて、私たちを選ぶと信じるなら、それは運命や偶像の神を礼拝するのと同じです。神は、運命の神ではありません。運命の神を信じるなら、私たちに対する神のご計画を否定し、サタンの罠に陥るでしょう。
人々が神のみこころに従わないなら、彼らは滅びる定めにある獣に過ぎません。私たち信者は、獣ではないので、聖書に記された真理を読んで信じる真の信者になるべきです。聖書に記された真理をまず考えるのは、サタンに身を委ねることではありません。
真の信仰を持つためには、まず聖書に記された真理について考え、キリストのうちに新しく生まれた者の信仰に従うべきです。
カルヴァン主義は、限定的贖罪を主張します。これは、神への愛と主の贖いが一部の人には当てはまらないことを意味します。これは本当でしょうか。
聖書には、次のようにあります。「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます」 (Ⅰテモテ 2:4)。贖いの祝福が一部にしか当てはまらないなら、多くの信者はイエスを信じることをあきらめるでしょう。結局のところ、誰がそのような狭い心の神を信じたいでしょうか。
私たちの神は、狭い心ではないという確信が必要です。神は、真理の神、愛の神、正義の神です。私たちは、イエスと、水と御霊によって新しく生まれる福音を信じ、こうして、すべての罪から救われなければなりません。イエスは、水と御霊によって新しく生まれているすべての者の救い主なのです。
カルヴァン主義によると、十人がいた場合、そのうちの何人かは神によって救われ、他の人々は地獄の火に燃やされるでしょう。これは本当のことではありません。
神はある者を愛され、他の者を捨てると言っても意味がありません。今日、神が私たちとともにおられることを想像してください。右側に座っている者をお選びになり、左側に座っているすべての者を地獄に送られる決心をなさったとしたら、私たちは神を神として扱うでしょうか。
捨てられた者は、抗議して声を上げないでしょうか。すべての被造物は、「どうして神はそれほど不公平になるのか」と叫ぶことでしょう。無条件的選びは、神がイエス・キリストのうちに人類のすべてを選ばれたからです。
したがって、キリストの御名において神によって召された者はだれでも、選ばれます。それでは、神は誰をお召しになるのでしょう。神は、正しい者ではなく罪人を召されます。神は、自分を正しい者とみなす者を召されません。
神の贖いの祝福は、罪人と地獄に捨てられた者のためにあります。「選び」とは、罪人を義である子とするために、神がお召しになることを意味します。
 
 

神は公正

 
神は選ばれた少数だけを愛しておられるのか
いいえ、主はそれほど心が狭くない。神は公正。

神は公正です。神は、無条件に選ばれた者だけを愛する神ではありません。神は、キリストの御名において罪人を召されました。イエス・キリストの贖いと罪の赦しによる救済がなければ、どうして神の愛と救済を知ることができるでしょうか。神を不正な神にしないでください。
エペソ人への手紙 1:3-5を読むとき、何が欠けているかを見つけてみてください。「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。」 欠けているのは何でしょう。欠けている言葉は、「キリストのうちに」 です。
カルヴァン主義における無条件的選びは、聖書のみことばと一致しません。聖書には、次のようにあります。「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選ばれた。」
神は、キリストにおいて人類のすべてを、水と御霊によって新しく生まれた人を選ばれました。罪人として生まれるしかない者は、罪の贖い、神の子どもになることができます。神は、救われる者のリストに人類のすべてを含め、イエス・キリストにうちに選ばれました。
無条件的選びを主張する多くの神学者は、一部だけが選ばれると言うので、多くの人々は完全に不合理な教義への信仰の混沌に閉じ込められています。こうした偽りの神学者は、神は無条件的選びを通して何人かを選び、他の人々を捨てると言っていますが、神のみことばの真理は、イエスのうちにすべての罪人を選ばれたということです。多くの人々は、彼らの迷信的な信仰のために、誤った教義の犠牲になっています。
私たちは、神がイエスのうちに人類のすべてを救おうとお決めになったと認めるなら、罪の赦しはイエスを信じるすべての人に当てはまることを認識してください。そうすることによって、私たちはすべての罪から救われ、神の子どもになり、義人になり、永遠のいのちを持ち、神が公正であるという確信を持つことができます。
 
 

ヤコブとエサウの物語における神の選びの説

 
神は誰をお選びになったのか。選ばれた者だけか。
いいえ。神はキリストうちにすべての人類をお選びになった。ですから、キリストを信じ、イエスのバプテスマを通して罪のない者は選ばれている。

創世記 25:19-28 では、エサウとヤコブが母親のリベカの胎内で一緒に戦っていました。神は、創世記 25:23 で次のようにおっしゃいました。「すると主は彼女に仰せられた。『二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える。」
罪人は、こうしたみことばを神学的な予定説と神の選びの説に変え、イエスを信じる多くの人々を自分たちが選ばれたかどうかについて混乱させました。彼らは、自分たちが選ばれたと見なすと、救われていると思い、水と御霊によって新しく生まれることへの関心を失います。
無条件的選びの概念は、イエスを信じた多くの人々に贖いを拒否させ、地獄に墜ちるようにしました。それはまた、神を不正に見させました。
非常に多くの神学者が、自分の考えから生まれた偽りの教義を教えているため、イエスを信じる多くの人は不安になり、自分が選ばれたのか、自分の贖いが予定されたのか、疑問に思うようになります。
ヤコブとエサウのうち、神は誰を選ばれたでしょう。神は、イエス・キリストのうちにヤコブを選ばれました。ローマ人への手紙 9:10-11 では、神は、彼らがまだ生まれておらず、善も悪も行なわないうちに、ひとりによって身ごもったにもかかわらず、兄の代わりにヤコブを召されたと述べられています。
神の目的は、ヤコブの行ないのためではなく、神の選びのため、ヤコブを選ぶことでした。聖書はまた、まっすぐ生活を送っている者だけでなく、罪人を召されるために、イエスが来られたのだと教えています。
すべての人々は、アダムの子孫として生まれた罪人です。ダビデは、自分が母親の胎にいた時から罪人であり、咎ある者として生まれたと言いました。「私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました」 (詩篇 51:5)。
すべての人は、先祖の罪のために罪人として生まれます。ですから、この世界で生まれた人はみな、知らずに罪人になり、罪人として行動し、罪の実を結んでいます。
まだ罪を犯していない子どもは、罪の種を持って生まれたので、すでに罪人です。その子どもは心の中に悪い考え、不品行、姦淫、殺人があります。その子は、先祖の罪をもって生まれました。すべての人は、生まれる前でさえ罪人です。
神が私たちを弱らせた理由は、次のとおりです。人類は神の創造物ですが、主は私たちを罪からお救いくださることによって、私たちをご自分の子どもにするご計画をもっておられました。そういうわけで、神は、罪を犯すアダムを許されました。
その結果、私たちが罪人になったとき、神はイエスをこの世に遣わされ、神のひとり子がバプテスマを通して人類の罪をすべて取り除くことを許されました。
神の意図は、イエスのバプテスマと十字架での血とを通して人類を贖い、イエスを信じて神の子どもになる力をお与えになることでした。神は、すべての罪を洗い流すという約束を、キリストのうちに、罪を犯すアダムを許されました。
誤った教義を信じる罪人は、言います。「ヤコブとエサウを見てください。神は無条件に一人を選び、もう一人を捨てたではありませんか。」 神は、私たちを無条件に選んだのではなく、イエス・キリストのうちに選ばれました。聖書に記されたみことばを調べなければならないだけです。ローマ人への手紙 9:10-12 には、次のようにあります。「このことだけでなく、私たちの先祖イサクひとりによってみごもったリベカのこともあります。その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、『兄は弟に仕える。』と彼女に告げられたのです。」
神は、イエスのうちにヤコブを選ばれました。ヤコブは、価値のない罪人のひな形であり、自分の義を失われていました。エペソ人への手紙 1:4 は、神が私たちをイエスのうちにお選びになったと告げています。
神は誰を召されたのでしょう。ヤコブは、自分が神の前で罪深く不義だったことを知っており、神に頼っていたので、神はヤコブを召されました。神は、ひとり子イエスの御名において、ヤコブを召され、神の子どもとするために、水と血の福音で贖われました。ですから、神はヤコブを召され、贖いで祝福なさいました。
神は、イエスのうちに贖いを通して義人となさるために、罪人を召されました。それが神のご計画です。
 
 

無条件的選びの偽りの教義

 
なぜ神はヤコブを愛されたのか。
ヤコブが自分の不義を知っていたから。

私は最近、無条件的選びの話に基づいた本を読みました。若い人が夢を見ました。老婦人が夢に現れて、若者にある場所に来るように言って、彼は行きました。それから老婦人は彼が神によって選ばれたことを告げました。
彼は老婦人に、神を信じさえしないのに、どうして神が私を選んだのかと尋ねました。老婦人は彼に、神はあなたの不信仰にもかかわらず無条件にあなたを選んでくださった、と言いました。
これは真実ではありません。どうして神は勝手に一部の人々を地獄に投げ込まれ、救済のために他の人を選ばれるのでしょう。神は、イエスのうちにいるすべての者を選ばれました。
イエスを除外する神学的選びの説は、間違っています。それは真実ではありません。しかし、多くの神学者は、神が私たちの一部だけを選んだと主張しています。それは真実ではありません。神は、すべての人をイエスのうちにお救いになるのを望んでおられます。イエスのうちに水と御霊の贖いを信じていない者だけが救われないのです。
神は、御子イエスを通して救済のために全人類をあらかじめお定めになり、世を創造する前でさえ、私たちを神の子どもとなさることを意図なさいました。神は、イエス・キリストの贖いを通して、人類を世のすべての罪から救うことを計画なさいました。それは聖書に記されているとおりの真理です。
キリストのうちに新しく生まれた義人は、選ばれた者です。しかし、神学者は神が私たちの一部だけを選ぶのだと主張します。例えば、彼らは、仏教の僧侶は、神が選ばなかった人々の中にいると言います。しかし、神は彼らをイエスのうちに選ばれました。
神が何人かをイエスなしで無条件に選ばれたなら、私たちは福音を宣べ伝える必要はなかったでしょう。もし神がイエスなしで誰かを選ぶことをご計画していたなら、罪人はイエスを信じる必要はなかったでしょう。それでは、神の愛、真理、救済のみことばは、どのように成就されるのでしょう。
神のしもべが、この世で福音を宣べ伝える理由はあるのでしょうか。神がイエスなしですでに無条件に贖われた者と忌まわしい者を選ばれたということは、理にかなっているでしょうか。
神がイエスのうちにヤコブをお選びになった理由、ヤコブを愛し、エサウを憎んだ理由は、ヤコブがイエスを信じ、エサウがイエスを信じないことを、神が彼らを創造される前にすでにご存じだったからです。
この世には、イエスを信じる多くの罪人がいます。彼らの中には、エサウのような者であり、他はヤコブのようなものです。
なぜ神はヤコブを愛されたのでしょうか。ヤコブは不義であり、自分の無価値さを知っていました。したがって、彼は自分が神の前で罪人であることを認め、神の恵みを求めました。そういうわけで、神はヤコブをお救いくださいました。
しかし、エサウは主よりも自分自身に頼り、神の恵みに飢えませんでした。そこで神は、ヤコブを愛し、エサウを憎んだとおっしゃいました。これが真理のみことばです。
神は、イエスのうちに救済を私たち全員にあらかじめ定められました。すべての罪人がしなければならないことは、イエスを信じることです。そうすれば、神の真理と正義が彼らの心に染み込みます。私たち罪人は、イエスを通して救われることを心のすべてで信じることしかできません。私たちがしなければならないことは、イエスによる贖いを信じることだけです。
 
 

偽りの漸進的聖化の理論

 
罪人が徐々に義人になれるというのは本当か。
いいえ。不可能。ただ一度で、神はイエスのバプテスマと十字架での死の贖いを通して、罪人を義人になさり、傷のないものになさった。

サタンは、罪人が罪から救われないように、漸進的聖化の理論で罪人を欺きます。漸進的聖化とは、罪人がイエスを信じた後、徐々に聖なるものになることを意味します。
理論は、こうあります。「罪人は、一度で義人となることはできないが、イエスを信じるときに原罪からのみ救われるだけ。実際の罪は日々の悔い改めの祈りを通して洗い流され、人々は徐々に聖化される。」
この理論の核心は、漸進的聖化です。誰かがイエスを信じて、徐々に聖なるキリスト教徒になれるというのは、素晴らしく聞こえます。この理論は、長年にわたって多くのキリスト教徒を欺き、彼らを安心させました。そういうわけで、キリスト教に非常に多くの聖人ぶったキリスト教徒がいるのです。
彼らは単に、いつの日か変えられ、もはや罪を犯さないと考えています。しかし、彼らは罪人として生活を送り、彼らが死んだ後、神の前で罪人として裁かれるでしょう。
聖書にある真のみことばを読んでください。ローマ人への手紙 8:30 には、次のようにあります。「神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。」
第 29 節には、次のようにあります。「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。」 一見すると、義人になるためのステップがあるようです。しかし、みことばは私たちに、義が一度で与えられたことを教えています。
「召した人々をさらに義と認めた。」 イエスは、罪人を召され、ヨルダン川でのバプテスマと十字架での死を通して、彼らを義人になさいました。
したがって、イエスのうちに贖いを信じる人は、神の栄光の子どもになります。神の御名のうちに罪人を贖い、栄光を与えられるのは、神の恵みです。
これが、神が私たちに語ったことです。しかし、一部のキリスト教徒は、ローマ人への手紙 8:30 を見て、言います。「聖なるものとされるためのステップがある。それは、私たちが徐々に変化することを意味しないのか。」 これは、彼らが欺く方法です。彼らは未来の時制の人々に、罪人は時間とともに義人になると言います。
しかし、聖書は私たちに未来時制ではなく、過去の完全な時制で、私たちはただ一度で義人にされていると教えています。未来の概念と過去の完全な概念には、明確な違いがあります。
私たちは、聖書を完全に信じるべきです。記されていることによると、私たちはただ一度で神の子どもになることができます。これは、漸進的聖化の理論とはまったく異なります。
漸進的聖化の理論は、イエスを信じるとき、原罪だけが許されると教えています。これは、私たちが神の御前に立つとき、私たちが義人になるために、毎日罪を悔い改め、宗教生活を送るべきであることを提唱しています。
多くの人がこの理論を信じているので、イエスを信じ始めた後でも、彼らはまだ罪人のままです。そういうわけで、漸進的聖化の理論は、真実ではありません。
聖書は、私たちが信仰によって義人になり、神の子どもとなることを明確に告げています。赤ちゃんがこの世にやって来るように、神の子どももイエスの贖いを悟り、信じるとすぐに聖なるものとされるのです。偽りの漸進的聖化の理論は、嘘から生まれました。
 
 

すべての罪からの完全な解放

 
完全に聖なるものとされるには何をしなければならないのか。
水と御霊の贖いを信じなければならない。

ローマ人への手紙 8:1-2 には、次のようにあります。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」 これは、神がすべての罪人を義人になさり、罪と死の原理からイエスのところに来たすべての人を解放なさったことを告げています。
聖書は、ヘブル人への手紙 9:12 で完全な贖いを告げています。「また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」 これは、イエスを信じる私たちが贖われ、天国に入れられるということです。
私たちは、キリスト・イエスのうちに水と御霊の贖いの福音を聞いて信じ、すべての罪を赦されました。しかし、原罪だけを許されたと信じる罪人は、ほんとうに救われることができません。イエスを信じるようになってから犯した罪に対して、聖なるものとされるために、彼らは毎日悔い改めるべきだと感じています。
彼らの誤り導かれた信仰は、彼らを地獄へと導きます。彼らの間違った信仰は、彼らがすべての咎から自分を解放するために、毎日悔い改めさせます。それは私たちを地獄から救う真の信仰ではありません。
もし彼らがイエスを信じ、ただ一度で贖われたなら、彼らは義人になり、神の子どもとなるでしょう。真の贖いとは、信者をただ一度で義人にし、神の子どもに変えます。
信者が世のすべての罪から救われたとしても、彼らの肉は死ぬまで変わりません。しかし、彼らの心は神の義に満たされています。この事実を決して誤解してはなりません。
聖書は、私たちが福音を信じるとき、私たちは聖なるものとされ、義人になると告げています。
真の福音を見つけるために、ヘブル人への手紙 10:9-14 を見てみましょう。「また、『さあ、わたしはあなたのみこころを行なうために来ました。』と言われたのです。後者が立てられるために、前者が廃止されるのです。このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。また、すべて祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえをくり返しささげますが、それらは決して罪を除き去ることができません。しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。」
「このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。」 これは現在時制で書かれており、未来時制では書かれていないことに注意してください。完全に聖なるものとされるために、私たちはみな、イエスがくださった水と御霊の贖いを信じなければなりません。
 
 

イエスはただ一度だけ永遠の贖いをお与えになった

 
なぜ人はいつも喜ぶ権利があるのか(Ⅰテサロニケ 5:16)
イエスが私たちの罪をすべて取り除かれたので、神の御前で謙虚になり、神の恵みに感謝するしかない。

私たちがイエスの永遠の贖いを信じるなら、ただ一度で義人になります。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい」 (Ⅰテサロニケ 5:16-18)。
いつも喜んでいなさい。どうしていつも喜ぶことができるでしょう。永遠の贖いを一度で受ける者は、罪から解放されているので、いつまでも喜ぶことができます。彼らは、イエスがヨルダン川で罪をすべて取り除かれたという知識のうちに安全です。彼らは、神の御前に謙虚になり、神の恵みに感謝し、こうして絶えず喜びます。
「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである」 (ローマ 4:7)。これは、罪がまだ私たちの心の中に存在しているという事実にもかかわらず、罪がおおわれたという意味ではありません。私たちの心は、きよめられています。イエスは、すべての罪を完全に洗い流され、私たちをただ一度で救われました。
この永遠の贖いは、新約聖書で参照されます。イエスは、バプテスマを受けたとき、おっしゃいました。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです」 (マタイ 3:15)。
山羊や羊が旧約聖書で按手を通して人々の罪を取り除いたように、イエスは世のすべての罪を負われ、最も正しくふさわしい方法で人類をきよめられました。
「すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです」 と、イエスはおっしゃいました。イエスは、最も正しい方法でバプテスマを受け、人類の罪をすべてご自身に負われ、こうして私たちをお救いくださいました。
マタイの福音書 3:15 には、イエスが世の罪をすべて取り除かれたことが記されています。神の正義は、完全でした。この永遠の贖いを理解しようとすべきではありません。私たちは、それを神の救済のみことばと考えるべきです。「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は」 (詩篇 32:1)。
心と肉のすべての罪は、イエスがヨルダン川でバプテスマのヨハネからバプテスマを受けたときに、洗い流されました。イエスは、この腐敗し堕落した世界で、私たちが犯した罪のために裁かれました。イエスが私たちの罪をすべて取り除かれた後、十字架で死なれました。
この罪の贖いを信じる人はだれでも、ただ一度で、傷のない義人になることができます。イエスは永遠に生きておられるので、キリストのうちに贖いを信じる者はだれでも、義人のままです。
私たちは今、確信をもって神の御前に立って、言うことができます。「主よ、お元気ですか。あなたのひとり子イエス・キリストを信じます。私もあなたの息子です。父よ、感謝します。あなたの子どもとして、私を受け入れてくださって感謝します。これは私の行ないを通してではなく、イエスの水と御霊によって新しく生まれる信仰を通してです。あなたは私をこの世のすべての罪からお救いくださいました。あなたがおっしゃったことを信じています。『このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです』 (マタイ 3:15)。イエスのバプテスマと十字架を通して、私はあなたの子どもになっています。そのために、私はあなたに感謝しています。」
みなさんは、すべての罪をイエスに渡しましたか。みなさんの罪はすべて、イエスによって取り除かれましたか。聖書は、イエスのバプテスマと十字架での死のおかげで、罪人はそれらを信じるだけで聖なるものとされることができると教えています。
 
 

イエスのバプテスマと贖いとの関係

 
イエスのバプテスマと贖いとの関係とは何か。
イエスのバプテスマは、旧約聖書の中で按手を通して預言された贖いの型。

イエスを信じ、教会で祈るにもかかわらず、罪人として生きている人を想像してください。「神よ、先週私が犯した罪を赦してください。過去 3 日間の罪を赦してください。ああ、主よ。今日の罪を赦してください。イエスを信じています。」
この人が、その祈りによって日々の罪を赦されたと仮定しましょう。しかしその後、その人は日常生活に戻り、再び罪を犯します。それから、彼は再び罪人になります。
イエスは神の小羊になられ、バプテスマを通してすべての罪人の罪を取り除かれ、十字架につけられて、そうした罪を贖われました。罪人は贖われるために、次のことを贖うべきだと信じるべきです。
イエスがバプテスマのヨハネからバプテスマを受けたとき、罪はすべて取り除かれ、こうして神の義を成就なさいました。世の罪はすべて洗い流されました。この真理を信じる者はだれでも、救い出されます。マタイ 3:13-17 に記されているように、「このようにして」とは、イエスがバプテスマのヨハネからバプテスマを受け、すべての信者の救い主となられたのです。
真理の福音は、イエスが世の罪をただ一度で取り除かれたことを告げています。しかし、偽りの神学は、私たちが毎日贖われていることを告げています。どちらを信じるべきですか。私たちは、ただ一度で贖われるのでしょうか、それとも毎日贖われるのでしょうか。
イエスが私たちをただ一度で救われたことは明らかです。真の信仰とは、ただ一度に水と御霊の贖いを信じることです。私たちが毎日贖われなければならないと信じる者は、決して救い出されません。
真の贖いとは、イエスがバプテスマと十字架での死を通して、ただ一度で救い出されたことを信じることから来るのだと知っておくべきです。私たちがしなければならないことは、神に感謝し、この真の福音を信じることです。
しかし、信仰を誤って導かれた者は、私たちが原罪だけから救われ、毎日実際の罪から贖われるべきであり、「徐々に」義人になることができると言っています。それは間違いです。
イエスのバプテスマと十字架での死は、罪の赦しをただ一度で成し遂げられました。これが真理です。私たちの罪は、バプテスマのヨハネを通してイエスに移されなければならず、私たちが救われるために、イエスは十字架で死ななければなりませんでした。
私たちが罪を犯した後に「お赦しください」と言うことは、神の正義にふさわしくありません。神の律法は、罪から来る報酬は死であると告げています。神は、公正であり、聖であることを知っておくべきです。
罪を犯してから、「すみません、赦してください」と神に祈る者は、神の正義を知りません。彼らは赦しを祈りますが、それは自分自身の良心を和らげるためだけです。毎日罪を犯し、咎を繰り返し、悔い改めて良心を慰めるのは、正しいことでしょうか。救われる唯一の方法は、イエスのバプテスマと十字架での血を信じることによってです。それを心で信じるべきです。神の裁きを免れる唯一の方法です。
罪からの解放についてもっと考えましょう。「それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです」 (ヘブル 9:22)。
神の公正な律法によれば、罪は血によってきよめられるべきであり、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはありません。これが神の公正な律法です。罪から来る報酬を支払うことなしに、決して赦しを受けることはできません。
 
贖いは、ただ一度か、それとも毎日与えられるのか。
ただ一度で与えられる。イエスはバプテスマを通してすべての罪人の罪を取り除かれた。

マタイの福音書 3:15 で、イエスは最もふさわしい方法でバプテスマを受けたとき、バプテスマを通してすべての罪を洗い流され、世のすべての罪から私たちを救うために十字架で死なれました。
毎日赦しを求めることは、私たちの罪を取り除いて、もう一度死んでくださることを主に頼むのと同じです。私たちは、神の公正な律法をほんとうに理解すべきです。イエスは、私たちを罪からお救いになるために、何度も死ぬ必要はありません。
神は、イエスを信じる者が実際の罪の赦しを何度も求めることを、最も無礼だと見なされます。「無礼な愚か者ども。お前たちは、わたしの息子イエスに、またバプテスマを受けて十字架で死んでくれと言っている。イエスの贖いを信じ、それでもまだ自分を罪人と呼んでいるのか。わたしは、お前たちを公正な律法で裁き、全員を地獄の燃える穴に投げ込もう。お前たちは、自分のひとり息子を二度も殺すことを喜んでいるのか。お前たちの実際の罪のため、わたしの息子をまた殺すように、わたしに頼んでいる。わたしは、世のすべての罪から一度でお前たちを救うために、わたしの息子をすでに殺している。だから、お前たちの実際の罪を何度も赦すように頼んで、わたしの怒りを起こしてはならない。水と御霊の贖いの福音をただ信じなさい。」
イエスは、罪人のままでいる者に、真の福音が宣べ伝えられている教会に行き、偽りの信仰を捨て、信仰をもって偽りに打ち勝つことによって、贖いを受けるべきだと告げています。
今こそ、みなさんは心の中で信じることによって救われる時です。信じておられますか。
 
 
真理ではなく、行ないへの信仰の結果
 
ほとんどのキリスト教徒が一貫して忠実な生活を送ることができないのはなぜか。
自分の行ないに頼るから。

イエスを信じていても救われていない罪人でさえ、3年から5年の間は明るく輝くことがあるかもしれません。最初、彼らは熱狂的ですが、その信仰は時間とともに衰えます。行いを通してイエスを信じるなら、みなさんの熱意もすぐに消えます。
盲人は見ることができないので、彼らは他の感覚に頼り、このようにして知識を蓄えます。彼らは、涙があふれるのを感じると、それを赦しのしるしだと間違えます。真の赦しは感情ではありません。
霊的に盲目な人は、リバイバル集会に無駄に出席することによって初めの愛を取り戻そうとしますが、感情を回復することはできません。罪の赦しに達することも、同様に不可能です。彼らが最初から正確に信じていたなら、赦しと恵みは日が経つにつれて、より明るく輝くことでしょう。
しかし、偽りの赦しは最初にしか輝かず、それ以降は光を失います。霊的に盲目の人は、最初から真の福音を聞くことができなかったため、熱意の輝きはすぐに消えます。
偽善的な律法学者やパリサイ人は、聖書を腕に抱えて、主の祈りと使徒の信条を暗記し、常に祈ります。彼らは教会で昇進し、感情的に盛り上がります。しかし、彼らの罪は蓄積し、最終的に神によって退けられます。彼らの外側は、宗教的な熱意の白い石膏で覆われていますが、彼らの心の内側は、罪で腐っています。これは、真理ではなく、行ないに基づいた宗教への信仰の結果です。
 
 

私たちは信仰によって義人になる

 
この世にあるすべての罪の贖いはすでに成就されているのか。
はい。イエスのバプテスマと十字架での死を通して成就された。

では、ヘブル人への手紙 10:16-18 を読んでみましょう。「『それらの日の後、わたしが、彼らと結ぼうとしている契約は、これであると、主は言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いに書きつける。』 またこう言われます。『わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。』 これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です。」
イエスのバプテスマの水と十字架での血を通して贖われている今、罪を贖う必要はもうありません。それを初めて聞いたときは、奇妙に聞こえるかもしれませんが、聖書のみことばに基づいています。こうしたものは、人類の言葉でしょうか。聖書とは、すべてを測定するための基準および下げ振りです。
「それらの日の後、わたしが、彼らと結ぼうとしている契約は、これであると、主は言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いに書きつける」 (ヘブル 10:16)。贖われた後、どのように感じますか。みなさんの心は、罪から解放された今、みなさんは爽やかに感じます。みなさんは義人になり、光のうちに住むことができます。
そして、ヘブル人への手紙 10:17 で、主はおっしゃいます。「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」 神は、贖われた者の罪と不法とを思い出すことはしないとおっしゃっています。なぜでしょう。「このようにして」イエスは最もふさわしい方法でバプテスマを受けられたからです。すべての罪を取り除かれた後、イエスは神を信じる者のために裁かれました。
主がすべての罪の代価を支払われた今、私たちはそうした罪を覚えているかもしれませんが、罪について感じる必要はありません。イエスがすべての罪を洗い流され、私たちのために十字架で血を流されたので、もはや罪のために死ぬ必要はありません。
ヘブル人への手紙 10:18 は、次のようにあります。「これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です。」 これは、イエスが世の罪をすべて消し去ったことを意味します。それはまた、イエスのうちに新しく生まれた人が、もはや罪のために何もささげる必要がないことを意味します。
「神よ、私をお赦しください。私がイエスを信じているのにまだ苦しみの中で生きている理由は、私がまだ贖われていないからです。私はキリスト教徒ですが、私の心は罪で完全に腐っています。」 私たちは、そのように祈る必要がありません。
罪人は、罪を罪と認めずに罪を犯します。彼らは、神の真理の律法を知らないので、罪が何であるかを知りません。彼らは、自分の良心で罪を犯すべきではないことを知っているだけで、神の前で罪を犯すことが何であるかを知りません。神は、イエスを信じないことは罪であると私たちに指摘なさいました。
ヨハネの福音書 16:9 で、神は、御前で罪を犯すことが何であるかをおっしゃいます。「罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。」 神を信じないのは、神の御前で罪です。ヨハネの福音書 16:10 は、義とは何であるかを告げています。「義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。」 言い換えれば、イエスは、すでにこの世をすべての罪から救われているので、私たちを二度目のバプテスマと十字架での死で救う必要はありません。
神は、贖いを信じる者を聖別なさり、義人になさるように召されました。この世での贖いは、イエスのバプテスマと十字架での死を通して完成されました。罪人を救うために、他の贖いは必要ありません。
「世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです」 (使徒 4:12)。イエスは、この世に来臨なさり、バプテスマのヨハネからバプテスマを受け、すべての罪人を救うために、十字架で血を流されました。これを、みなさんの心で信じて救われてください。イエスは、水と御霊でみなさんを聖なるものとなさいました。
イエスは、私たちの肉からすべての罪を、水と御霊を通して一掃なさいました。私たちは、信仰をもって救われています。真理を信じるなら、イエス・キリストを通して福音を信じるなら、私たちは一度で義人になります。イエスのバプテスマと十字架での死、この二つの要素が基本的な真理を成しています。
 
 
罪人が拠り所とする聖句
 
罪を告白することによって本当に贖われることができるのか、それとも、すでに贖われているのか。
神は、ただ一度で罪からの贖いをお与えになった。

ヨハネの手紙第一 1:9 には、次のようにあります。「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」
罪を告白するだけで赦されたらいいでしょう。これを踏まえて、一部の神学者は新しい教義のための素晴らしい考えを思いつきました。彼らは、誰かが自分の罪を告白するたびに、その人は赦されると主張します。都合が良くないですか。しかし、イエスは、私たちが自分自身を神に告白するたびに赦されるとは、決しておっしゃいませんでした。
ただ罪を告白するだけで本当に赦されるのでしょうか、それとも、すでに贖われているのでしょうか。どちらを信じますか。この偽りの教義を唱える人々は、罪を告白するたびに赦されると信じていますが、実際には、贖いの真のみことばを知らないので、罪は心の中に残っているままです。イエスを信じる罪人が、実際の罪の赦しを祈るときはいつでも赦されることは、意味をなしません。
このため、私たちは、言われたことに関係なく、贖いに関する神のみことばに耳を傾け、真理と偽りを区別すべきです。
罪人は、ヨハネの手紙第一 1:9 を誤解しています。彼らは、間違ってそれが毎日の罪の赦しに関係しているのだと考えています。教えを注意深く読んでみましょう。「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」 みなさんは、私たちが原罪から救われているだけで、実際の罪を告白し、神が真実で正しく、そうした罪を赦されるように、実際の罪を告白しなければならないと思いますか。こうしたことは、私たちの肉の弱さに起因する見当違いの考えにすぎません。
イエスのバプテスマと血を信じるとき、これは本当ではないことを認識します。ずっと前に、イエスのバプテスマと十字架での血によって、すべての罪がすでに洗い流されていました。
御霊に従って信じることと、見当違いの考えに従って信じることは、まったく異なるものです。自分の考えに従って信じる者は、毎日自分の罪を洗い流す必要があると感じますが、水と血の贖いを信じる者は、イエス・キリストのバプテスマと血を通して、ただ一度で救われたことを知っています。
改めて贖われるために、毎日告白すべきであると信じる者は、実際、イエスのバプテスマと血による贖いを信じていないという罪を犯しています。
みなさんは、イエスのバプテスマと血を通して、ただ一度で贖われたでしょうか。贖われていない者は、毎日自分の罪を告白することによって、救いを勝ち取ろうとします。これは、彼らが将来に犯す実際の罪について、何をするべきかという問題をまだ取り残しています。
彼らは、自分の将来の罪を前もって告白しようとするかもしれません。しかし、そうすることで、彼らはイエスへの信仰の欠如を示しています。こうした人々は、贖いの福音に盲目です。イエスは、バプテスマと血で私たちを罪から完全に救い出され、ご自身をお裁きになりました。私たちは、ただイエスを信じることによって救い出されるのです。
救われるように将来の罪さえ告白しなければならないと思うなら、水と御霊によって新しく生まれることを何も知らない信者と変わりません。罪人は、告白を通して贖われることができません。
したがって、みなさんが正直に、「私はまだ贖われていない罪人です」と告白し、イエスのバプテスマと十字架での死の福音に耳を傾けて信じるなら、神はすべての罪からみなさんをお救いくださいます。
しかし、みなさんが贖いの福音を信じず、悔い改めの祈りの下に隠れているだけなら、イエスが正しい審判者として、再びこの世に来られたとき、みなさんは恐ろしい裁きに直面するでしょう。
水と御霊の贖いの福音を信じない者は、裁かれます。彼らが告白の背後に隠れるなら、裁きに直面するでしょう。ですから、審判の日を待たないでください。今、水と御霊の祝福された福音を信じてください。
 
 

正しい告白と真の信仰

 
罪人のための正しい告白
まだ罪があり、真の福音を信じない限り、地獄に行くことを告白すること。

神は、私たちをただ一度で贖われました。ここでは、私が言いたいことを説明する実例をお示しします。北朝鮮のスパイが南にやって来たとしましょう。その人は私たちがどれだけ繁栄しているかを見て、その人が騙されたことに気づき、あきらめることにしました。
最寄りの警察署に行った後、彼はこのように告白して言いました。「私は北朝鮮からのスパイです」または「私は、だれそれを暗殺し、どこそこを爆破するために韓国に来て、すでにこれを爆破しましたが、今では自首しています。ですから、私はもう本当にスパイではありません。」
これは正しい告白でしょうか。彼が本当に告白したかったなら、言わなければならないことは、「私はスパイです」ということです。この単純な供述は、すべてを意味します。つまり、彼は悪い人であり、裁かれなければならないということです。その単純な供述で、彼が任務に割り当てられたかに関わらず、彼は赦されるでしょう。
そのように、罪人が神の前で「私はまだ贖われていない罪人です。私は地獄に投げ込まれ、裁かれる定めにあります。私を救ってください」と告白し、イエスを信じるなら、その人は贖われます。イエスはバプテスマを受け、私たちに代わって血を流されました。私たちがすることは、救われるためにイエスを通しての救済を信じることだけです。
黙示録 2:17 には、次のようにあります。「彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。」 聖書は、真の福音を受けている者だけが、イエスの御名を知っていると告げています。ただ一度で贖われた者だけが、義人になるための秘密を知っています。
それを知らない人は、日々の悔い改めの祈りにもかかわらず、まだ罪人です。告白することは、赦しを毎日祈ることを意味していません。たとえ十年間キリスト教徒であったとしても、毎日神の許しを求めるなら、その人はまだ罪人なのです。その人は、まだ神の子どもではありません。
救われるには、彼らは罪人であると告白し、イエスの贖いを信じなければなりません。これが真の信仰です。
 
 
単純に自分の罪を列挙することはヨハネの手紙第一 1:9が告白について教えていることではない
 
私たちは毎日罪を告白する必要があるのか、ただ一度だけで救われるのか。
ただ一度だけ

盗人と殺人者は、自分の行ないを告白して、贖われることができるのでしょうか。罪人は、罪を告白するだけでは贖われません。彼らは、イエスのうちに水と御霊によって新しく生まれるという祝福された福音を通してのみ、贖われることができます。
一部の見当違いのキリスト教徒は、このような告白します。「神よ、今日また誰かと口論しました。私は罪を犯しました。私は誰かを欺きました。私は何かを盗みました。」
彼らがあのように言い続けたら、神は「静かにしなさい、罪人たち。だから、何だというのか」とおっしゃるでしょう。
「私の言うことを聞き続けてください。神よ、あなたは私たちに罪を告白するようにおっしゃいました。私はあなたのあわれみを求めています。」
このような祈りは、神がお聞きになることを望んでおられるものではありません。神は、水と御霊の贖いを信じる者の祈り、すなわち自分の罪を認め、ほんとうに新しく生まれるという福音を信じる者の祈りを聞くことを望んでおられます。
アウグスティヌスは、母親の胸の乳を飲んでいたことを悔い改めたと言いました。彼は、そのような告白が自分を天の御国に導くだろうと考えました。これには笑うしかありません。罪を告白するだけでは、ダメなのです。
神は、おっしゃいます。「静かにして、あなたが罪を犯しているかどうかを言いなさい。罪があるなら、それについて話すのをやめなさい。あなたは今まで間違って信じてきたから、真理を教えている教会に行きなさい。正しい方法で贖いの福音を信じて、贖われなさい。そうでなければ、わたしが来て、あなたをさばく。」
赦しのための悔い改めの祈りや、告白を通して救われようとする試みは、的外れで誤った信仰を示しています。
ヨハネの手紙第一 1:9には、自分の罪をすべて認めるとき、水と血の福音がすべての罪から私たちを救うのだと記されています。
 
 
「わたしから離れて行け」
 
不法をなすとはどういう意味か。
心に罪をもってイエスを信じることを意味する。

キリスト教徒の罪人は、イエスの前に不法をなして、見当違いの信仰を持っています。「その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」
嘘を信じる人が死んで、神の前に立つようになり、次のように言うことを想像してください。「主よ、最近どうしておられますか。私はあなたのことを考えていたとき、あなたはとても美しいようでしたが、ここではさらに美しく見えます。主よ、感謝します。あなたは私をお救いくださいました。私は心に罪がありますが、あなたは私を罪のない人と見ておられると信じています。あなたが私を天国に連れて行かれると約束なさったので、私はここに参りました。さて、私は花が満開であるところに行きます。さようなら、私はその辺りであなたにお会いできることを願っています。」
彼は庭に向かい始めますが、イエスは彼を止められます。「待ちなさい。この人の心に罪があるかどうかを見てみよう。あなたは罪人ですか。」
「もちろん、私には罪があります。しかし、私はあなたを信じていませんか。」
「わたしを信じているのに、あなたは罪があるというのか。」
「もちろん、私には罪がありますよ。」
「なんということか、罪があるとは。いのちの書をわたしのところに持ってきなさい。それと、『行ないの書』も持ってきなさい。彼の名前を調べなさい。彼の名前がどの本に載っているかを見なさい。」
確かに、彼の名は『行ないの書』にあります。
「さあ、あなたが地上で犯している罪を告白しなさい。」
彼はそうしようとはしませんが、神は彼に口を開かせ、罪を告白するように強制なさいます。
「はい、私はそのような罪を犯しました...。」
彼は全く混乱しており、口を閉じたままでいることができません。
「よろしい、もう十分だ。彼は地獄に行くほどのことをしている。彼は条件つきのもの以上だ。彼をあの燃える場所に送りなさい。」
彼は、花が満開の場所に送られるのではなく、火と硫黄で満たされた場所に送られます。彼は、地獄に連れて行かれながら、歯ぎしりします。
「私はあなたを信じ、あなたの名によって預言をし、あなたの名によって宣べ伝え、あなたに仕えるために家を売り、孤児を助け、あなたの名によって耐え忍び、夜明けに祈り、病人を癒やしました。私は天国に行くに値します。 」
彼は、自分の歯が擦り減って無くなるほどに、非常に歯ぎしりします。地獄に着くと、イエスのうちに贖いの真の意味を知らなかったすべてのキリスト教徒に会います。贖いの福音を誤解している者は、神によって捨てられます。
 
 

偽りの信者の罪は「行ないの書」に記録されている

 
すべての罪人の罪はどこに記録されているのか。
彼らの心の中と「行ないの書」に記録されている。

イエスを信じているかどうかにかかわらず、神は心に罪のある人を滅ぼされます。誰かの心に罪の痕跡さえ見つけたなら、その人は審判の日に地獄に投げ込まれます。神は、まだ贖われていない罪人が贖いに達することを望むなら、救われていないことを告白するよう促されます。
罪人の罪は、その心に記録されています。水と御霊によって新しく生まれている者は、自分の罪を覚えているかもしれませんが、心からは消されています。彼らは義人です。
しかし、新しく生まれていない者は、心に罪があります。したがって、彼らは神の前に罪人です。彼らが祈るためにひざまずくときはいつでも、罪は彼らを神から切り離し、神が祈りをお聞きになることを妨げます。彼らはあれこれ祈っていますが、彼らの罪は残っています。彼らは、結局10年前、11年前、さらには20年前に犯したそむきを悔い改めて、罪を告白してしまいます。
彼らは、本当に何度も何度も悔い改めなければならないのでしょうか。なぜ彼らは悔い改めをするのでしょう。彼らはそうすることを望んでいませんが、祈り始めるときはいつでも、彼らは神の前でやましいことを覚えています。ですから、彼らは真剣に祈る前に、自分の罪を贖わなければならないと感じているのです。
神は、彼らの罪が決して消されることができないように、彼らの心の板に鉄の筆で罪を記されました。その結果、彼らは神の前に来るたびに罪を告白しなければならないと感じています。ですから、イエスの完全な福音の半分だけを信じる人々は、罪人として悲惨な生活を送らなければならず、地獄に落ちてしまいます。
エレミヤ書 17:1 には、次のように記されています。「ユダの罪は鉄の筆と金剛石のとがりでしるされ、彼らの心の板と彼らの祭壇の角に刻まれている。」
ユダとは、イスラエルの民の王族の名前です。聖書は、すべての人類を代表するためにユダを選ばれました。したがって、ユダはすべての人々を意味します。
ユダの罪は、鉄の筆で記され、鉄を切ることができる金剛石のとがりで刻まれています。金剛石は世界最強の素材です。鉄の筆と金剛石のとがりで、私たちの罪が記録されています。
一度刻まれると、消すことができません。私たちが水と御霊の真理を信じない限り、これらは消されません。
自分の考えで贖われようとしたり、キリスト教の教義を信じようとしたり、神学を暗記しようとしたり、罪が心に残っているなら、教会に身をささげることは無意味です。
彼らの罪は、イエスのバプテスマなしでは消されることができないので、罪人が祈るときはいつでも、「主よ、私は罪人です」といって、それらを覚え続けます。彼らはまだ心に罪を抱えながらも、神と交わろうとし、教会で多くの責任を負い、神学と教義を学ぼうとするかもしれません。
ですから、彼らは山に入り、異言で無益に語ろうとし、燃える炎の幻覚を求めますが、それはすべて役に立ちません。罪がみなさんの心に残っているなら、みなさんは決して平安にならないでしょう。
エレミヤ書 17:1 に記されているように、私たちの罪は祭壇の角に刻まれています。天国には、いのちの書と「行ないの書」があります。罪人の罪は、「行ないの書」に記録されており、こうして人々は決してそむきから逃れることができません。神は、そうしたものを「行ないの書」と私たちの良心の板に記録なさり、神の律法を通して私たちに見せてくださいます。
私たちは、イエスのバプテスマとイエスが私たちのために流された血を信じることによって、これらの記録を消し去り、救われるべきです。すると、私たちは永遠のいのちに備え、私たちの名前はいのちの書に記されます。
 
 

あなたの名前がいのちの書にあるか

 
誰の名前がいのちの書に掲載されるのか。
心に罪のない者の名前がそこに掲載される。

いのちの書にみなさんの名前を掲載していることが重要です。みなさんの名前が掲載されていないなら、イエスを信じることの意味は何でしょうか。ほんとうに贖われるには、水と御霊によって新しく生まれることを信じなければなりません。
イエスは、この世に来臨され、世の罪をすべて洗い流すために、30歳の時にバプテスマを受け、私たちを救うために十字架で死なれました。マタイの福音書 3:15 に記録されているように、イエスは「このようにして」バプテスマを受け、十字架につけられました。私たちの名前がいのちの書に記録されるためには、これを信じなければなりません。
人々が死んで神の前に立つとき、神は「この人の名前がいのちの書にあるかどうかを確かめなさい」とおっしゃいます。
「あります、主よ。」
「そうか。あなたはわたしのために苦しみ、地上で涙を流した。さあ、わたしはあなたが再びそうする必要がないようにする。」
神は、そのような人に報酬として義の栄冠をお授けになります。
「主よ、感謝します。私は永遠に感謝です。」
「御使いたち、この人に栄冠をかぶらせなさい。」
「主よ。あなたが私をお救いくださっていることで、それだけで十分です。栄冠は、私にはあまりに多いです。感謝します。あなたが私をお救いくださったことに、非常に感謝です。私はあなたの御前にいるだけで満足しています。」
「御使いたち、ひざまずいて、わたしの10,000人目の息子をあなたの背中に乗せてあげなさい。」
御使いたちは「はい、ご主人様」と答えます。
「私の背中にお乗りください。」
「とても快適だなぁ。こう乗ればいいのか。じゃあ行こう。」
御使いは慎重に行動します。
「散歩に行きませんか。」
「うわー、ここはなんて綺麗な場所なんだ!この場所の広さは、どれくらいあるんだ?」
「私は数十億年にわたって、あらゆる場所に行きましたが、その果てをまだ見つけていません。」
「本当か。重いだろ?おろしてくれよ。」
「私たちは、ここでは力が尽きることはありません。」
「ありがとう、でも天の御国の地に立ちたいんだ。今、私の前に着いた義人はみな、どこにいるんだ?」
「彼らなら、あそこにいますよ。」
「よし、行こう。」
ハレルヤ。彼らはお互いを抱きしめ、笑顔で幸せに暮らします。
では、イエスを信じていても、まだ罪人である人が死んで、神の御前に立っていると想像してみてください。彼はまた、イエスを信じ、自分が罪人であることを認めると言います。
神はおっしゃいます。「この人の名前がいのちの書に記されているかどうか見なさい。」
「主よ、いのちの書にはありません。」
「ならば、行ないの書を見てみなさい。」
「彼の名前と罪がここにあります。」
「では、この人を燃料費の心配が要らない場所に送り、彼を永遠にそこに住まわせなさい。」
「ああ、主よ。それはとても不公平ですよ…」
彼はそれが不公平だと言います。イエスを熱心に信じていたのに、なぜ彼は地獄に送られるべきだったのでしょう。
その理由は、彼がサタンに欺かれ、福音の真理の半分しか聞かなかったからです。私たちがイエスの贖いの真の意味を誤解すると、私たちも地獄に落ちてしまいます。
この人はイエスを信じていましたが、サタンに惑わされ、自分は罪人だと思っていました。真の福音を聞いていたら、自分の信仰が間違っていることに気づいたでしょう。しかし、彼は自分の誤った信仰に対する利己的な執着のために、信じることができませんでした。
天の御国に行きたいのなら、水と御霊によって新しく生まれることを信じなければなりません。マタイの福音書 3:15 に記されているように、「このようにして」イエスは世の罪をすべて取り除かれたのです。みなさんは、水と血の救済を信じなければなりません。
 
誰の名前が「行ないの書」に掲載されるのか。
心に罪のある者の名前がそこに掲載される。

他人の要求を決して拒否しない人柄の好い人のように、何かを信じることを選択したなら、その人は地獄に行くかもしれません。地獄には、人柄の好い人が大勢いますが、天の御国には、自分たちが信じるもののために戦った真の戦士たちがいます。
天国にいる者は、自分たちが地獄に行く定めにある罪人であったことを知っており、彼らの罪がイエスのバプテスマと血を通して洗い流されたことを感謝して信じていました。
天国には、耳と口の山があると言われています。多くの人々が口や耳だけでイエスの贖いを信じているので、神は残りの体を火と硫黄との燃えている中に投げ入れられます。
イエスを信じていても、心にまだ罪がある人が神の前に立ち、こう言うと想像してください。「主よ、私はまだ心に罪がありましたが、イエスを信じていたので、人々は私を義人と呼びました。あなたも私を罪のない人と見ておられると信じていました。それは私が学んだこと、そして私が信じたことです。私は多くの人がそうしたように、信じていました。それは、私がどこから来るかは、最も広く認められた信仰でした。」
主は、お答えになります。「心に罪がある人を許すことはできない。水と御霊によって新しく生まれたという祝福で、あなたの罪をすべて洗い流した。しかし、あなたはそれを信じることを拒否した。御使いたち、この怠け者を地獄の火に投げ入れなさい。」
イエスを信じているにもかかわらず、心に罪があるとまだ思っている人はだれでも地獄に行ってしまいます。贖いの真の福音を聞いて、すべての罪から救われてください。さもなければ、みなさんは地獄で燃えます。
心に罪があるのに、罪がないと言うことは、神を欺くことです。終わりには、罪人と義人との間にどれほどの違いがあるのかを見ることができます。なぜ私がみなさんに贖われるように哀願するかを理解するでしょう。
みなさんが天国と地獄への十字路に立ったときに、完全な贖い(イエスのバプテスマと十字架での死)を信じる者と、信じない者との違いがわかります。それは大きな違いを生むでしょう。天の御国に入る人もいれば、地獄に行く人もいます。
今すぐやってください。延期すると、手遅れになるかもしれません。事前に準備してください。地獄に行ってしまう前に、水と御霊の贖いを信じて、聖なるものとされてください。
主イエスに栄光あれ。私たちは、罪人を義人とする神の恵みに感謝します。ハレルヤ。
 
 

イエス――義人のために弁護してくださる方

 
悔い改めの祈りによって罪は消し去ることができるのか。
いいえ、それは全く不可能。それは、サタンが私たちを欺く方法の一つ。

ヨハネの手紙第一 2:1-2 を読みましょう。「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。この方こそ、私たちの罪のための、――私たちの罪だけでなく全世界のための、――なだめの供え物なのです。」
ここに記されていることがわかりますか。信じていても、まだ心に罪がある人がいるのでしょうか。みなさんの心に罪があるのに、罪はないと神に告げるなら、みなさんは神を欺いているのです。そして、みなさんは自分をも欺いています。
しかし、みなさんがほんとうにイエスを理解し、イエスがヨルダン川ですべての罪を洗い流すためになさったことを信じるなら、みなさんは罪から完全に自由になります。すると、みなさんは言うことができます。「主よ、私はあなたのうちに水と御霊によって新しく生まれました。私には罪がありません。私は恥じることなく、あなたの前に立つことができます。」
すると、主はお答えになります。「そうだ。あなたは正しい。アブラハムがわたしを信じ、自分が義人と信じたように、あなたの罪をすべて洗い流したので、あなたも義人だ。」
しかし、イエスを信じているにもかかわらず、心にまだ罪がある人を考えてみてください。「イエスを信じているから、たとえ心に小さな罪があっても天国に行けるだろう」と、その人は言います。
その人は、裁きの席の前に立ちながら、抵抗しようとするほど、天国に受け入れられることを望んでいますが、それでも地獄に行き着くでしょう。なぜでしょう。その人は、水と御霊によって新しく生まれる祝福された福音を知りませんでした。
誰もが、自分は地上で日々罪人であることを告白すべきです。「私は罪人です。地獄に行きます。どうか救ってください。」 罪人は、悔い改めの祈りで贖われません。むしろ、自分は罪人であることを認め、救われるために、水と御霊の贖いを受け入れなければなりません。その人は、水と御霊の贖いを通してのみ義人になることができます。
イエスのうちに原罪だけが赦され、救いを得るには実際の罪を悔い改めるべきだと主張するのは、偽りの福音です。これは、私たちを地獄へとまっすぐに導きます。非常に多くの信者が、この偽りの福音を信じて地獄に行く定めにあり、最近ではこの傾向がさらに一般に行われています。
みなさんが偽りの福音に陥ったなら、それを知るでしょうか。借金を全額返済した後でも、みなさんはまだ債務者になれるでしょうか。考えてみてください。イエスを信じていながら、自分をまだ罪人であると見なしているなら、イエスを正しく信じていると言えるでしょうか。みなさんは信者であり罪人ですか、それとも信者であり義人でしょうか。
自分で選択できます。みなさんは、すべての罪が赦されたと信じるか、罪のために毎日悔い改めるべきだと信じるか、どちらかを選ぶことができます。みなさんの選択は、天国に行くか地獄に行くかを決めます。真の福音を話す伝道者に、心を留めなければなりません。
偽りの福音を信じる人々は、罪を洗い流すために、毎日の早朝祈祷会、水曜礼拝、毎週金曜日の終夜祈祷会で、まだ罪の赦しを祈り続けています。
「主よ、私は罪を犯しました。私は今週罪を犯しました」と彼らは言います。それから彼らは数年前の罪を思い出し、神の赦しのために再び祈ります。それは、水と御霊によって新しく生まれるという祝福された福音を侮っています。
私たちの罪は血で支払わなければなりません。ヘブル人への手紙 9:22 には、次のようにあります。「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」 みなさんは、罪があると思うなら、イエスに再びみなさんのために血を流すように求めているのでしょうか。完全な贖いを信じない人々は、イエスの贖いを嘘に変えたという罪を犯します。彼らは実際、イエスは私たちをただ一度で救わず、嘘つきだと主張しています。
イエスのうちに贖われるには、水と御霊の贖いの真理を信じなければなりません。数百、数千、数百万の祈りで罪を本当に赦されるのでしょうか。真の福音が私たちをただ一度で贖います。義人になり、天の御国に行き、いつでも義人の生活を送ってください。
「♪私はイエスのうちに新たな生活を送る。過去は終わり、私は新しい被造物になった。無駄だった過去はなくなった。ああ、主は私の真のいのち。私はイエスのうちに新たな生活を送る。♪」
みなさんは、イエスのうちに新たな生活を送ります。みなさんが望むほどハンサムに見えないかどうか、身長が低すぎるかどうか、お腹が少し太りすぎているかどうかに関係なく、水と御霊によって新しく生まれる福音で祝福されている人々は、幸せな生活を送ります。みなさんの鼻が理想的な形ではなかったり、少し背が低いことは、何が重要でしょうか。私たちは完全ではないので、イエスのうちに水と御霊によって新しく生まれることを信じることによって救われます。しかし、自惚れている人は地獄に墜ちてしまうでしょう。
主に感謝います。私はいつも主に感謝します。私たちは水と御霊によって新しく生まれたことを信じているので、天国に迎えられます。
 
 
不真実は私たちを地獄に導く
 
最終的に誰が義の栄冠を受けるのか。
不真実に打ち勝つ者

不真実は、私たちが赦されるために毎日悔い改めなければならないことを告げていますが、水と御霊の福音は、私たちがすでに完全に赦されており、私たちがしなければならないことはそれを信じるだけであると告げています。
どちらが真理でしょう。私たちは毎日悔い改めなければならないのでしょうか。それとも、イエスが私たちの罪をすべて取り除くために最もふさわしい方法でバプテスマを受けたときに、イエスが私たちを救われたと信じるのは、正しいでしょうか。真理は、イエスが私たちの罪をただ一度で取り除かれ、この正しい方法で私たちに救済を与えてくださったということです。
私たちは、霊的戦争において不真実に打ち勝たなければなりません。多くの人々が不真実に従っています。「また、ペルガモにある教会の御使いに書き送れ。『鋭い、両刃の剣を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった」』」 (黙示録 2:12-13)。
「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている」 (黙示録 2:17)。
数多くの悪霊が住む場所と、不真実が真理のふりをしている場所に、サタンはまるで自分が明るい御使いであるかのように現れます。神は、水と御霊の救済の真理を聞いて知っていても、信じない人をだれでも助けることがおできになりません。そのような人は確かに地獄に行ってしまうでしょう。
誰もが、イエスの救済を信じるかどうかを、自分で決めなければなりません。誰もみなさんの前にひざまずき、信じて救われるように懇願する人はいません。
罪から救われたいなら、水と御霊の救済を信じてください。救済における愛と、私たちを救うことにおける恵みに感謝しているのなら、それを信じてください。みなさんが地獄に行く定めにある罪人なら、イエスのバプテスマと十字架での死である、水と御霊を信じてください。そうすれば、みなさんは義人になります。
自分が罪人ではないと思うなら、イエスを信じることによって贖われる必要はありません。罪人だけが、水と御霊によって新しく生まれるという福音を信じることによって、すべての罪から救われるのです。イエスは罪人の救い主であり、苦しむ者を慰める方です。イエスは創造主です。イエスは、愛のご主人です。
水と御霊によって新しく生まれるという福音を信じることを、心からお勧めします。それを信じてください。イエスがみなさんにとって救い主、友、羊飼い、神となられることを、みなさんは確信することができます。罪人は、イエスを信じるべきです。地獄に行きたくないのなら、信じなければなりません。神は、救済の福音を信じるように私たちに懇願なさることはありません。
みなさんは天国に認められたいですか。それなら、水と御霊によって新しく生まれる福音を信じてください。イエスは、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを信じなさい」とおっしゃいます。みなさんは、地獄に投げ込まれたいと言っているのでしょうか。それなら信じないでください。神は、そのような人のために地獄の場所をすでに用意しているとおっしゃいます。
神は懇願なさいません。商人は、自分の商品を販売するために無差別に人々を歓迎しますが、神は、贖われた者だけに無料で天の御国をお与えになります。神は公正です。
人々は、世の終わりが近いと言います。そうですね、私もそう思います。それなら、水と御霊によって新しく生まれるという真の福音を信じないのは、愚かなことです。
水と御霊によって新しく生まれるという祝福された福音の救済を信じてください。一緒に天の御国に行きましょう。私と一緒にイエスの宿っておられる場所に行きませんか。
 
あなたは罪人か、それとも義人か。
心に罪がない義人

ローマ人への手紙 8:1-2 を読みましょう。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」
イエスは、バプテスマと十字架での死を通して、私たちの罪をすべて取り除かれました。イエスは、私たちの罪のために裁かれなければならなかったすべての罪人をお救いくださったのです。
神の救済は、二つのことから成り立っています。一つは律法であり、もう一つは神の愛です。律法は、私たちが罪人であることを教えています。律法によると、罪から来る報酬は死です。律法によっては救われません。それは、私たちの罪深い性質と定めを教えているにすぎません。それは、私たちが罪人であることを知らせます。
罪から来る報酬を支払うために、イエスがこの世に来臨され、私たちの罪をすべて取り除かれ、私たちを裁きから救うために、ご自分のいのちで私たちの罪のために支払ってくださいました。すべての罪から私たちをお救いくださったのは、神の愛なのです。
私たちは、不真実に打ち勝たなければなりません。 神は、不真実に打ち勝った人々に、水と御霊によって新しく生まれるという祝福をお与えになります。
私たちは、イエスを信じることによって救われます。神のみことばを信じることによって、私たちは義を達成し、真理を理解します。みなさんの心の中で、水と御霊によって新しく生まれるという真理を信じてください。そうすれば、みなさんは救われるでしょう。