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主題 9: 使徒パウロのローマ人への手紙

[Chapter 1-5] 不義をもって真理をはばんでいる人々(ローマ 1:18-25)

(ローマ 1:18-25)
「というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。」
 
 

神の怒りは誰に啓示されているのか

 
使徒パウロは、私たちが宣べ伝えている福音と同じ福音を宣べ伝えたことが、わかります。神の怒りは誰に啓示されているのでしょう。神の裁きは、不義をもって真理をはばんでいる罪人、すなわち、罪を持ち、自分の考えで真理を妨害する人々に啓示されています。
使徒パウロは、神の怒りがまず第一に、不義をもって真理をはばんでいる人々啓示されているとはっきりと述べています。そうした人々は神に裁かれます。神の怒りはどのような怒りでしょう。神の怒りは、彼らの肉と霊とを地獄に落とします。
人はまた霊を持っているので、肉だけが裁かれると考えてはいけません。したがって、神は肉と霊の両方を裁かれます。地上の考えで、神の真理を妨害する人がいます。罪をもって、義人に敵対する人がいます。神の怒りと神の裁きは、神を恐れない、頑なになった心の罪を犯している人々に啓示されています。
使徒パウロは、ローマ人への手紙 1:17 で次のように述べています。「義人は信仰によって生きる。」 彼は、神の裁きと怒りが、罪をもって真理をはばんでいる人々に啓示されているとも述べています。
 
 

不信者は神の怒りの下にいる

 
神は、世に救済の真理を広く与えてくださいました。神の真理と愛は、地上に広がっています。したがって、神の真理と愛を無視する言い訳はありません。神は、真理の福音を信じず、立ち向かう者全員を裁かれます。
真の福音の愛を受けていない人々について考えてみましょう。神が造られたもの、すなわち、水、草、木、空、鳥などを見ます。こうしたものは、神の創造なしで、どうして存在できるでしょう。「家はそれぞれ、だれかが建てるのですが、すべてのものを造られた方は、神です」 (ヘブル 3:4)。神の真理のみことばを信じないのは、彼らのせいではないでしょうか。
したがって、罪の赦しの恵みを信じない人々が、神に裁かれるのは理にかなっています。彼らは進化論を主張します。彼らは、宇宙がそれ自体を進化していると主張します。彼らはまた、最初は約150億年前にビッグバンと呼ばれる爆発があり、それから何らかの生物が生まれたのだと言います。彼らは、この生命の本来の現実は変化し、魚、獣、そして最終的には人間に進化したと言います。この理論が正しかったなら、人類は千年後または二千年後に最終的に別の生命体に変化しなければならないでしょう。
「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです」 (ローマ 1:20)。自然の不思議や神秘を見ると、神が生きておられることが明らかにわかりますが、人々は神を否定し、拒絶します。不信者は、神の怒りの下にいます。多くの人々が神をあがめず、感謝もしなかったので、その思いはむなしくなりました。その無知な心は暗くなりました。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えました。神の裁きは明らかに、そうした人たちを待っています。新しく生まれていないすべての人々は、イエスを信じているかどうかにかかわらず、神の裁きの下にいます。
 
 
神は不信者を汚れに引き渡される
 
「それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行なうようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです」 (ローマ 1:24-27)。
この聖句は、何を告げようとしているのでしょう。神は、被造物を礼拝して仕える人々を、彼らが望むように罪を犯すことに任せておられます。神はまた、彼らをサタンに引き渡されます。神は、サタンが望んでいるようにすることを許されます。したがって、私たちは神を信じ、とにかく救われなければなりません。「すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃えました。」 これは神を否定するようなものであり、それがエイズの原因なのです。
神は、自然な用をお与えになりました。男は女と住むべきです。しかしながら、男が男と、女は女と関係をもつという事実は、彼らが神のお与えくださった自然の用を否定していることを示しています。ローマ書は、約1900年前に記されました。使徒パウロは、性の自然の用を捨てる者は、不道徳な性の罰を受けることになると予言しました。今日、神のみことばは実現しています。ご存じのように、AIDS は同性愛者の間で特に広まっています。
性的罪の罰を受けることは、まったく当然のことです。神の怒りは、性の自然の用を代える人々に啓示されます。その人たちは AIDS という罰を受けてもしかたがないのです。病気は確かに神を信じないから起こるのです。神は、信じない者が心を病むようになさいます。つまり、それは神の怒りなのです。
 
 
神の義に敵対した者 
 
神を心にもちたくない者とは、次のような人々です。「彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっているばけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです。」(ローマ 1:29-32)
「それを行な」う者は、同じ悪を行なう者に何をするでしょう。「同意」します。神に敵対する者は、みことばに従う義人に何をするでしょう。「あなたたちは異端です」と言って、義人を迫害します。義人は、イエスを信じるようになってから、義であるために迫害されます。義人は祝福されています。
人々は肉によってさまよう者に同調します。しかしながら、奇妙なことですが、その人たちは他人がイエスを信じて罪の赦しを受けて義人になることに反対し、妨げるのです。神を信じも真理のみことばに従いもしていないのですから、これは罪のしもべてとして生きているようなものです。
ですから、信じない者とサタンは、イエス・キリストを信じることは許容しても、人間はけっして完全に聖化されないし、完全な罪の赦しを受けることもないと言います。信じない者・従わない者は、心に罪があるままイエスを信じよと言って、人々が地獄に行くようにするのです。人々は罪人としてイエスを信じて喜びます。神を知らず、信じていない人々は、キリスト教徒であっても神を知ることを拒み、神に敵対します。彼らは神の義に敵対しています。彼らはまた、サタンとその罪のすべてを崇めます。新たに生まれていない者は、イエスを信じていてもそういうふうなのです。新たに生まれていない名前だけのキリスト教徒は実に大勢います。心に罪をもってイエスを信じる人々は、神の真理のみことばに従わず、イエス・キリストの真理を信じて罪の赦しを受けて聖化された新たに生まれたキリスト教徒に敵対します。
 
 
新たに生まれていない者は新たに生まれた者に敵対する
 
使徒パウロは聖書で、不義をもって真理を阻む者に神の怒りが示されると述べています。彼はまた、あらゆる不敬虔と不義に対して天から神の裁きが下されるとも述べています。すべては真理にしたがって行なわれます。真理とは、主が人類の罪をすべて消し去られたということです。神の裁きは、真理に敵対して阻もうとする者たちに示されます。神のみことばから、新たに生まれていない信者がみな神に裁かれることがわかります。イエスを信じてはいても新たに生まれていない人々を神は裁かれます。
新たに生まれていない信者は悪意に満ち、新たに生まれた者を悪く言いたがります。そうした人々は地獄に行きます。神は彼らを地獄に追放なさいます。彼らは悪意に満ち、互いに噂し合います。罪の赦しを受けた義人について悪口を言い合う罪人は、裁かれることになります。言っていることがわかりますか?そうした人々は気の毒です。彼らは「あの人たちに罪がないなんて、おかしいですよね。変ですよ」と囁き、神に敵対しているとは知らないまま、罪によって神に敵対しています。
神の裁きは、その悪によって神に敵対する者に下されます。そうした人々は、同じことをする人々を喜びます。彼らは、噂をする人たちやけなす者たちを認めます。新たに生まれていないキリスト教徒は、互いに囁き合って義人をけなします。彼らは陰で義人を悪く言い、憎み、自らを誇り、一緒に悪いことを企みます。そうした人々は、どのように悪を企むのでしょう。彼らは互いに結束して悪を行ないます。彼らは「イエスを深く信じましょう。正しい信仰をもちましょう。世の光となりましょう」といった立派なスローガンで義人に敵対します。彼らは結束してそうした罪を犯します。一人で罪を犯してもつまらないからです。
ですから、神は詩篇 2:4 で、地上の王たちが神に敵対していることについて、「天の御座に着いておられる方は笑う。主はその者どもをあざけられる」とおっしゃっているのです。「ああ。滑稽な。あなたたちがどんなに挑んだところで、わたしにはけっして何も起こらない。あなたたちは裁かれようとして賄賂を使っているのだ。」
あまりにくだらないことなので、神は裁きの時を待っておられます。
 
 
義人を裁く者は神に裁かれる
 
神の真理に敵対する者や新たに生まれていない者は、罪を犯しています。新たに生まれている者もまた悪意をもち、肉には不完全な点があります。しかしながら、実のところ、それは基本的に異なっています。聖徒は神とその真理を信じています。聖徒は神から罪の赦しを受けています。しかしながら、敵対する者たちはまったく神を信じていません。そうした人々は「義人と神の真理」に敵対しています。「ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。」(ローマ 2:1)
使徒パウロは、まだ新たに生まれておらず、律法にのみしがみついているユダヤ人とキリスト教徒に向かって語っています。彼らは、自分では律法に従っていないのに、「殺してはいけません。姦淫してはいけません。盗んではいけません。ただ神に仕えなさい」と言って、他人を裁きます。神だけが正しい裁きを行なわれるのです。そして、新たに生まれた神の子供だけが、みことばにしたがって裁くことができるのです。
先に述べたような人々は、恣意的に義人を裁くため、自身が裁かれることになります。新たに生まれていない人々、つまり、ユダヤ人とキリスト教徒の律法主義者全員を神は裁かれます。新たに生まれないまま律法を守って信仰生活を送り、神に従わなければ地獄に行くと信じ、神のおっしゃるとおりにすれば天国に行くのだと考えている人々に神の怒りは示されます。信仰の人とは、イエス・キリストを信じて義人になった人です。区別することが必要です。新たに生まれることなく神を信じて敬虔に生きる人々は、自分の基準にしたがって義人を裁きます。
しかしながら、そうした人々を神は必ず裁かれます。彼らは、自分で自分の基準によって自分を裁いていることに気づいていません。罪の赦しを受けずに義人を裁き、誤った信仰をもち、神の真理を受けないでいる人たち、その人たちは神の裁きを免れることができると思っているのでしょうか。そうした人々は、神に裁かれることになるのです。
 
 
神の裁きは正しい
 
「私たちは、そのようなことを行なっている人々に下る神のさばきが正しいことを知っています。」(ローマ 2:2)自分はイエスを信じてはいても新たに生まれていないのに他人を裁く人々に対する神の裁きは、真理に基づいたものであるはずです。神は必ずそうした人々を地獄に送られるのであり、そうした人々を真理に照らして裁かれるはずです。
神は罪人を地獄に送られます。神の真理は正しいためであり、神の裁きには誤りがないためです。人が地獄に行くかどうかは、「神はある者を愛されるが他の者は無条件に憎まれる」と説く予定説によるのではありません。神は、世の基礎が築かれる以前にイエス・キリストの内にある者全員を選んでおいでなのです(エペソ 1:4)。
イエス・キリストが罪をすべて消してくださったと信じる者は、誰でも罪の赦しを受けます。神は予めそう定められました。ですから、新たに生まれていない者はみな、たとえイエスを信じてはいても地獄に行きます。彼らは神の裁きによって地獄に行くのであり、それが真理なのです。
罪人を地獄に送る神の裁きは正しいのです。なぜでしょうか。彼らが神の大いなる愛を拒み、神による救済を受けもしなければ、神を信じもしなかったためです。新たに生まれていない者を神が真理にしたがって地獄に送られるのは、当然のことです。
「神はなぜ私に福音を説かれなかったのだろう」と言う人がいるでしょう。神は説かれなかったでしょうか。神は何度も福音を説かれました。目を見開いて救済を得ようとしなさい。この世界には、真の福音を説く教会がいくつかあります。しかしながら、ほんとうに求めなければ、真理に出会うことはできません。私の場合、ほんとうに見出そうとしました。まだ新たに生まれていなかったころ、説教を終えた後、祈りました。「ああ、主よ。あのように人々にみことばを説いていても、私は神の前には罪人です。人々に言ったことは、私が自分に言い聞かせていることです。私は罪人です。どうかお会いください。救ってください。」
どんなに真理を見出そうとしたことでしょう。神は、ご自分を求める者には誰でもお会いになろうとなさいます。神は、ご自分を求めない者をも贖おうとなさいます。「わたしは、わが民ではない者をわが民と呼び、愛さなかった者を愛する者と呼ぶ。」(ローマ 9:25)神は、ご自分が人類を救うためにこの世に来られた救い主であるとおっしゃいます。心から神を求めた者は、必ず神にお会いします。神を求めはしなくとも、福音を説く者がやって来て福音を説いたときに、主にお会いする機会を得る人々もいます。福音に興味をもつ人もいれば、もたない人もいます。地獄に行く人々は、福音を拒んだからそういうことになるのです。
地獄に行くべき人々が神の真理にしたがって地獄に行くことになるのは、当然のことです。天の御国に行くにふさわしい人々は、たとえ傑出した功績がなくとも、正しい分別によってイエスを信じ、そこに至るのです。それは神の正しい裁きによってそうなるのです。
神は、ひいきをして恣意的にある者を地獄へ、別の者は天の御国に送られるのではありません。そうではなくて、真理の正しい判断によって裁かれるのです。ですから、聖徒は福音を宣べ広めなければなりません。「そのようなことをしている人々をさばきながら、自分で同じことをしている人よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。」(ローマ 2:3-4)
 
 
イエスはすでに愛によって世の罪をすべて消された
 
イエスの愛を受けもせず、新たに生まれもしない罪人、ユダヤ人や律法主義者のキリスト教徒に、彼らは裁かれると使徒パウロは告げています。彼らは地獄に行く定めにあります。では、福音は何でしょう。ローマ 2:4 で神は、「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか」とおっしゃっています。神の愛はすべての人に正しく現われ、正しく広まっています。
誰ひとり、神による救済の恵みから除かれていません。イエスは世の罪をすべて消されました。イエスは完全に人類を聖化なさいました。イエスは原罪だけを消し去られ、人間が日々に犯す罪の赦しを求めて祈ると、それを赦してくださるのでしょうか。いいえ。主はすでに世の罪をすべてただ一度で消し去っておいでです。それなのに、神に敵対する人々は、神の慈愛と善意を無視しています。「イエスはどのようにして救ってくださったのですか? いつでも罪を犯しているのに、どうして『私には罪がありません』と言えますか。ばかげています。救い主で神であられる主だといっても、私は罪を犯し続けているのに、どうして神に私の罪をみな消すことができるんです。」
人々は肉の身でこのように考えます。しかし、神はすでにその愛によって世の罪をすべて洗い流しておられるのです。主はこの世に来られ、人類の罪を完全に消されました。主は、人間の不完全さと弱さ──肉は何度も罪を犯さずにはいられない──をご存じです。ですから、バプテスマと十字架上の血とによって世の罪をただ一度で全部消されたのです。主は、肉の弱さをよくご存じです。
「あなたたちが死ぬまで何度も罪を犯すことを知っていたので、救ったのです。」
主は、世の罪をすべて流し去れました。主は人類全員を贖われ、受け入れてくださいました。主はご自分の力と義──イエスはヨルダン川でバプテスマのヨハネからバプテスマをさずけられた──とによって罪人の罪を贖われ、聖化なさいました。主は、ご自分のいのち(血)によって罪を贖われ、人間が祝福され、神の子供となるようになさり、また、天の御国に行くことができるようになさいました。主は、罪人をご自分の正しい子供となさいました。
 
 
不信者は、悔い改めて心を主に向けよ
 
「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。」神は、ご自分の豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじ、否定する者を地獄に行くよう定められます。イエス・キリストが世の罪をすべて洗い流されたこと、福音が全世界に広まっているのは確かなことです。しかしながら、それでも、人々は信じないために地獄に行きます。イエスは、人間がたとえ神の豊かな慈愛と忍耐とを拒もうとしても地獄に行かないよう、罪を全部洗い流して救ってくださいました。人間が地獄に行きたいと思っても、主は救ってくださいました。
ですから、救われるためにはイエス・キリストの水と血とを信じなければなりません。信じなさい。そうすれば、救われます。神の愛と救済とを軽んじる者は地獄に行きます。地獄とは、神がご自分の救済と豊かな慈愛の恵みを軽んじた者たちのために用意された場所です。不信者はすでに地獄への切符を買っています。地獄に行く定めにある人々は、悔い改めて心を主に向けなければなりません。みなさんもまた、真の福音への信仰がなければ、天の御国に別れを告げることになります。
 
 
人は神の愛を拒んで地獄に行く
 
「ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。」(ローマ 2:5)悔い改めのない心の持ち主や悔い改めない人々は、地獄に行きます。神の大いなる愛を拒んだために地獄に行く人々もいます。頑なな心で真理を拒んで自分の考えにしたがう罪人は、罪の報いとして地獄に行きます。神の愛を受けることを拒み、漸進的聖化のために悔い改めの祈りをささげ続ける人々は、やがて地獄に行きます。主の愛を拒むなら、御怒りの日まで神の御怒りを積み重ね、神の正しい裁きを受けることになります。
サタンが人類を罪に陥らせる前にすでに、神は贖いのご計画によって罪人を救い、義人になさることをお決めです。人類を救い、聖化するために神は御子を遣わされました。しかしながら、罪人はこれを認めていません。彼らは神の愛を拒んで御怒りをいっぱいに溜め込み、御怒りの日に正しい裁きを受けることになります。神の正しい裁きとは、心に罪のある者を地獄に送ることです。
なぜでしょうか。神は世の罪をすべて洗い流され、世のすべての人が信仰によって救われるようになさっているためです。不信者は必ず地獄に行きます。彼らは頑なで、自ら地獄に向かっています。そこで、最後には愚かさを後悔することになるのです。神の大いなる愛を受け入れなければ、罪人は地獄に行きます。
人々は、神がご自分の権威によってある者は地獄に、別の者は天の御国へと無作為に送られるのだから、神は理不尽だと考えます。しかしながら、そうではないのです。神は、頑なでご自分の愛と真理を拒むような者のために、彼らが行くにふさわしい場所があるようにと地獄を創られました。
聖書は、地獄は火と硫黄の燃える池だとしています。罪をもつことを好む人々には、うごめく蛆虫が用意されています。彼らは、「いやだ。ここはいやだ」と叫びます。
しかし、神はおっしゃいます。「私はあなたたちの罪をすべて洗い流したのに、あなたたちは自分に罪があるかどうかは問題ではないと言いました。ですから、贈り物に友達として蛆虫をやります。あなたがたは罪の赦しを受けたがらなかったのですから。」「いいえ、蛆虫はいやです。」
「嫌いなくせに欲しがったのです。わたしは義の主です。あなたの欲しがっていたものを与えたのです。心に罪をもつことを好んだ人々にはみな地獄を与えます。」それが神の正しい裁きです。人間はこの世に生きてある間、罪を犯します。それでも、世の罪を全部洗い流した神の救済の福音を無視してはなりません。
人々は、頑なな心のために地獄に行きます。神の前で頑なであってはなりません。神がすでに世の罪をすべて洗い流してくださったと信じるのです。たとえ目に見えなくとも、信じるのです。
 
 
神はすでに愛しておられるとおっしゃる
 
神は、すでに愛しておられるとおっしゃいます。
「わたしはすでにあなたたちの罪を洗い流しました。」これを信じるのです。神が天と地とを創られたとおっしゃったら、みことばは真実なのですから、それを信じるのです。信仰はみことばを信じることから始まります。人々は、自分の小さい頭で理解できたときだけ何かを信じ、理解できなければ信じません。神が罪人全員を罪から救ってくださったことを信じない不信者は、地獄に行きます。彼らは、地獄に行こうと決めた人々です。
かつて、「神に誓って、私は死ぬまで罪人です」と公的に宣言した著名なキリスト教徒がいました。その人は死にましたが、絶対に地獄に行ったはずです。その人は神に、「私は神の前で罪人であり、けっして義人になることはできません」と言ったのです。彼は死ぬときまで罪人であると言い張りました。彼は息絶えるまで神の愛と真理を拒みました。すると、主はおっしゃいます。「あなたは自分の信じるところにとても忠実です。その信条に従って地獄に行くのはふさわしいことです。あなたを地獄に送ったのは、罪人はけっして天の御国に入ることができないためです。」
 
 
信じたなら
 
「私は死ぬまで罪人です」と宣言した人は地獄に行きました。神でさえ、そうした人はお救いになれません。あさって地獄に行くことになろうとも自分が罪人であると宣言したばかりではなく、そうした人はまた、自分を信じていた信者たちに「人間は死ぬまで罪人なのであり、神の前に立つときもまだ罪人なのです」と教えたのです。`ですから、大勢の信者もまた同じ信仰の道をたどりました。神は、罪人は地獄に行くとおっしゃいました。しかしながら、今日のキリスト教社会では無数のキリスト教徒がそうした教えに従っています。神は、罪人は地獄の炎の中で歯噛みして「信じていさえすれば。信じさえすればよかったのだ」と言って永遠に後悔するとおっしゃいました。
「イエスが罪をみな洗い流してくださったと信じ、自分の考えを捨てていたなら、天の御国に入れたはずなのに。」「信じていたなら。信じさえしていたら。」大勢の人々が、地獄でこうしたことを言うことになるでしょう。彼らは言います。「もしも信じていたなら、真理を受けていたなら、神の子供になっていたのに。どうしてあんなにも頑なだったのだろう……」
私たち義人はそのとき神にお願いします。「主よ、今罪人たちがどうしているか、見せてください。あの人たちは、私たち義人を迫害しました。」「いいや、子供たち、それはよくない。自分の知り合いがその中にいるのを見たら、胸が痛むだろうから。ほんとうに知人が苦しんでいるのを見たいのですか。」「一度だけ見せてください。」主は寛大であられますから、いつかは見せてくださるでしょう。そこで、見たとしましょう。多くの叫びが聞こえることでしょう。「信じていたなら。信じていたら。」そして、思います。「この声は何だろう。歌っているのだろうか。」「歌っているのか、悔いているのか、よく聞きなさい。」炎の中の男女は声を合わせて歌い、嘆いています。「信じていたら。」
頑なな人々は、正しいことに頑なでなければ地獄に行きます。真理を堅持するには忍耐強さが必要です。人は優柔不断であってはなりません。頑固であるべきときには頑固でなければなりません。人はみな正しいことに頑固でなければなりません。また、必要なときには頑なさを捨てなければなりません。
 
 
神は、その行ないに従って報いをお与えになる
 
「神は、『ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを』」(ローマ 2:6-7)お与えになります。神はすべての人にその行ないに応じてお与えになり、裁かれます。「与える」というのは、「行ないに応じて報いる」という意味です。どのような人が忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求めるのでしょう。それは、イエスの完全な救済を信じる人です。
この世には大勢の人がいますが、他人が何と言おうと義のために忍耐し、神の真理を信じる者だけに、神は永遠のいのちをお与えになります。義人になりたい、永遠に幸福に生きたいと願う者に、神は永遠の御国の栄光をお与えになります。そうした人々は神の子供になろうと善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求めます。彼らは忍耐し、神の義に従い、求め、善を行ない続けます。神はそうした人々に永遠のいのちをお与えになります。神は彼らを永遠に生きさせ、子供になさいます。神の子供は御国では神々です。
「党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。」(ローマ 2:8)ここでは、祝福された者たちとは対照的な人々について述べています。神の義に従わない、党派心があり、真理に従わない者たちに神の怒りと憤りは向けられます。神はそうした人々を地獄に送られます。新たに生まれていない者や真理に従わない人々は、いずれも党派心があり、真理に敵対しているのです。
新たに生まれていない者には党派心があり、派閥を形成したがります。韓国の歴史を通じて、祖先は派閥を作り、政治上の問題で互いに争いました。誰が王となったかによって支配的な集団が決まりました。李家の一人が王になると、李家の人々が社会的に高い地位につけられ、他の人々は排除されたり迫害されたりしました。しかし、金一族が王座につくと、すべてが一変しました。人々は正しい目的のためでなく、自分の利益のために派閥を形成するのです。
現在のキリスト教もそれに似た状況にあります。宗派や教派が作られます。何のためでしょう。集団として真理に逆らうためです。彼らは一様に、イエスは世の罪を洗い流されたけれど、自分には罪があると言います。彼らは義人であって救われているというふりをしますが、真理に従いません。罪のある自分たちが正しいのだと言って、義人を異端者と非難します。主は、義人に敵対する罪人は誤っており、地獄に行かなければならないとおっしゃいます。
真理と神に従う者は、主のみことばに従います。私たち義人は神の裁きが真理にしたがって下されると信じています。
 
 
キリスト教徒の宗派は人を天の御国に送れるか
 
宗派は人を天の御国に送ることができません。妻は、「宗教団体は人を天の御国に送れないのですよ」と言って、母を激怒させたことがあります。率直に言って、なぜ母があの発言に腹を立てたのか、いまだにわかりません。みなさんは、宗教団体が人を天の御国に送ることができると思いますか? 人はみことばを信じて個々に救われて天の御国に入るのです。長老派教会という宗教団体が人を天の御国に送れるでしょうか。バプテスト教会という団体が送れるでしょうか。ホーリネス教会は。 セブンスデー・アドヴェンティスト教会はどうでしょう。いいえ。人が天の御国に入れるのは、イエスが用意してくださった罪の赦しを信じたときだけなのです。
 
 
神の教会に従う
 
使徒パウロは明らかに、キリスト教徒の中で地獄に行く罪人と天の御国に入る義人とを区別していました。福音はユダヤ人にもギリシャ人にも、誰にでも等しいものです。ここで「ギリシャ人」とは外国人のことであり、「ユダヤ人」とはイスラエル人のことです。神は人間の外見はご覧になりません。神は、心で神のみことばを信じる者をご覧になります。イエスが神であられると信じていますか?イエスが救い主であられると信じていますか? イエスがバプテスマによって世の罪をすべて除いてくださったと信じてはじめて、人は天の御国に入ることができるのです。これを信じ、裏切ってはなりません。内に宿る御霊は、人が信仰を捨てることがないようにし、危険が迫ったときには敵を打ち破るのを助けてくださいます。気をつけましょう。
聖書には四種類の土のたとえ話がありますが、救われない人々を表わしている土が何種類かあります。そうした土の畑に撒かれた種は芽を出してもすぐさま死にます。それは、死んだ種と同じことです。結果は同じ、死です。では、自分の力で信仰を守ることができるでしょうか。できません。真の蔓にとどまっていると、どんな困難にでも耐える力とあらゆる霊的病の癒しを主が与えてくださいます。そうしてはじめて人は信仰を保つことできるのです。
神の教会が蔓です。教会にいると、主は恵みと癒しと慰め、迫害に耐えるための信仰を与えてくださいます。しかし、蔓に宿っていなければ、どうなるでしょう。たちまち死ぬでしょう。多くの能力や力があろうとも、すすんで教会と結びつかなければ、義人の心はサタンの攻撃に耐えられず、やがては病気になります。わかりますか? 徐々に落ち、ますます無益になるのです。聖書には、「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられ、人々に踏みつけにされるだけです」(マタイ 5:13)とあります。
義人でさえ、教会と離れて生きては何の役にも立ちません。教会に宿るとき、彼らは輝きを放ち、恵みを受けます。しかし、教会から離れて生きると破滅します。教会と離れて世に惑うと、世に打ち勝つことができません。どれだけの間信仰を保てるでしょう。どれだけの間教会と離れていられるでしょう。神のしもべでさえ、やっていけません。しかしながら、蔓にとどまるなら家庭は救われ、聖徒によって多くの人々が罪の赦しを受けることができます。肉の欲望を求めたロトは、どこへ行ったでしょう。ソドムです。彼はそこでよい暮らしをしました。その結果、どうなったでしょう。破滅しました。聖書は、ロトの子孫はみな滅びたとしています。モアブ人とアンモン人はロトの娘たちから出ています。
なぜ、義人であったロトから神に逆らう子孫が出たのでしょう。それは、彼が教会から離れたためです。私が困難な時にあっても失望しないのは、神が教会を建てられたからです。神は、義人が集う教会を祝福なさり、聖徒一人一人にとって教会の羊飼い・主となられました。神は次のように約束なさいました。
「律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はすべて、律法によってさばかれます。それは、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行なう者が正しいと認められるからです。──律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。」(ローマ 2:12-15)
最近は、教会に行かない人は律法を知りません。すると、律法を知らないのですから、その人の良心が律法になります。その人は良心では善悪がわかっていても、悪いことを行ないます。それは罪ですから、その人は罪から救われるために主を求めなければなりません。神は、ほんとうに求めている人にお会いになります。
神の慈悲を求め、神を信じるのです。自分の誇りは捨て、神を信じるのです。聖徒は信仰によって生きなければなりません。教会を離れてはなりません。教会を探し、信じ、そこにとどまるのです。その人が弱く不安定だからといって、神は教会にいる者を追い出されません。
 
 
ユダヤ人の罪
 
さて、使徒パウロは天の御国に行く者たちからユダヤ人を切り離してから、本格的に彼らに福音を説き始めます。
「もし、あなたが自分をユダヤ人ととなえ、律法を持つことに安んじ、神を誇り、みこころを知り、なすべきことが何であるかを律法に教えられてわきまえ、また、知識と真理の具体的な形として律法を持っているため、盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自任じるしているのなら、どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌みきらいながら、自分は神殿の者をかすめるのですか。」(ローマ 2:17-22)
次のことを覚えておきましょう。神は本来ユダヤ人に話されました。ですから、彼らにはみことばといけにえの制度がありました。神はユダヤ人を通して救世主を約束なさり、ユダヤ人のしもべによってご計画を示されました。ですから、モーゼや預言者はみなユダヤ人だったのです。しかしながら、ユダヤ人は神が何を喜ばれ、律法が何であるかを知っていると思い、みことばを熱心に暗記し、暗誦しました。それでも、使徒パウロは言いました。「もし、あなたが自分をユダヤ人ととなえ、律法を持つことに安んじ、神を誇り……。」ユダヤ人は神を誇り、熱心にいけにえをささげましたが、救われませんでした。イエスが救い主であると完全に信じない者は、不信者と同じです。その人たちは、いけにえの制度にあるように彼らをお救いになるという神の約束を信じず、イエスを救い主と信じもしないということです。
ユダヤ人は、救い主イエスを信じないために地獄に行きます。何度羊の頭に両手を置いても無駄です。彼らは、「手を置く」ことが旧約の終わりのマラキの時代の「罪を移す」ということであると、ほんとうには信じていません。ダビデの時代にはよく信じていましたが、その信仰はソロモンの時代から揺らぎ始めます。二王国時代、人々は神殿で形式的ないけにえをささげながら、バールやアシェラのような神を拝みました。形式的にいけにえをささげることは、神を信じないことと同じです。神は、人間がみことばを信じて従うと満足なさいます。
幕屋のいけにえの制度では、手を置いたときに罪がいけにえの動物の頭に移されました。しかし、人々は善悪をわきまえていながらそれを信じず、他の人々に教えました。それがユダヤ人の罪でした。みことばを一字一句知りながら、神のみことばの真理を信じないで他の人々にみことばを説いたことが、ユダヤ人の罪でした。それは、神を信じないことと同じです。それは致命的な罪です。
「もし、あなたが自分をユダヤ人ととなえ、律法を持つことに安んじ、神を誇り、みこころを知り、なすべきことが何であるかを律法に教えられてわきまえ、また、知識と真理の具体的な形として律法を持っているため、盲人の案内人、闇の中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自認しているのなら……。」パウロは、ユダヤ人の間にある不信の罪を指摘したのです。
 
 
心に罪をもってイエスを信じることは神を汚すこと
 
今日の大方のキリスト教徒もユダヤ人と同じ過ちを犯しているといえます。ユダヤ人は、イエスが罪をすべて消し、聖化してくださったのだと信じない人々と同じです。「律法を誇りとしているあなたが、どうして律法に違反して、神を侮るのですか。これは、『神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中でけがされている。』と書いてあるとおりです。」(ローマ 2:23-24)イエスを誤り信じることは、神を汚すことです。イエスがなさったことをありのままに信じなければ、そして新たに生まれなければ、それは神の名を汚すことになります。
新たに生まれることなくイエスを信じることは、神を汚すことです。「もし律法を守るなら、割礼には価値があります。しかし、もしあなたが律法にそむいているなら、あなたの割礼は、無割礼になったのです。もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、割礼を受けていなくとも、割礼を受けている者とみなされないでしょうか。また、からだに割礼を受けていないで律法を守る者が、律法の文字と割礼がありながら律法にそむいているあなたを、さばくことにならないでしょうか。外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」(ローマ 2:25-29)人はみなイエスのみことばを心に受けなければなりません。
 
 
割礼と律法と、どちらが先か
 
割礼と律法と、どちらが先でしょう。神はどちらを先にイスラエル人にお与えになったでしょう。割礼です。神はアブラハムに、割礼を受けよとおっしゃいました。アブラハムは九十九歳でしたが、嗣子がいませんでした。しかしながら神は、彼が七十五歳の時、息子を与えようと約束なさいました。神はアブラハムに、「外に来なさい。あなたに空の星ほどの子孫を与えよう」とおっしゃいました。アブラハムはみことばを信じ、二十五年間待ちました。約束は二十五年後に果たされました。ですから、息子が生まれたのは、百歳のときだったのです。待っていた間にはかなり失望し、多くの過ちを犯しましたが、それでも二十五年間待ちました。神はまた、彼とその子孫に、霊的には天の御国を示す約束の地、カナンを与えようと約束なさいました。
天の御国を約束なさってから神は、アブラハムと彼の家にいる男子全員に割礼を受けるようお命じになりました。神は、割礼がご自分との間の契約の印になるとおっしゃいました。そこで、アブラハムは包皮の肉を切り取りました。彼の家の男子はみな、この儀式を受けました。割礼は、聖徒が信じて真理の福音を受ける信仰と同じです。
 
 
イスラエル人は心に割礼を受けることを拒んだ
 
しかしながら、イスラエル人はアブラハムの子孫であること、割礼を受けていることを誇り、傲慢に外国人に尋ねました。「あなたは割礼を受けていますか。」人間は心に割礼を受けなければなりません。聖徒は、イエスが世の罪を消されたというみことばを受け、心で信じて救われました。
イスラエル人ほどその国に侵略を受けた国はありません。彼らは二千年近くの間、母国のない民であることを深く嘆いてきました。神はイスラエル人を踏みしだかれました。なぜでしょうか。彼らが信じなかったためです。
神はイスラエル人を愛され、神が彼らの罪をすべて洗い流されたことを信じることを求められたのですが、彼らは信じなかったので、神の名を汚しました。神はイスラエル人の羊飼いとしてその敵を打ち負かし、彼らを祝福し、愛し、栄光を与えることをお望みでした。
神を心で信じて罪の赦しを受けたなら、すべての人々に栄光を与え、子供にしようと神は約束なさいました。イスラエル人の例によって、ご自分の約束を受けなければ地獄に送ることを神は世のすべての人に警告なさっています。
神は、真理の福音を信じる者は誰でも、たとえ行ないにおいては欠けるところがあっても、イエスが約束なさった恵みのすべてを受けることができると約束なさいました。神の裁きを免れる唯一の道は、福音を信じることです。信じなさい。そうすれば救われ、地獄を免れることができるのです。
主の御恵みがすべての魂の上にありますように。