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主題 9: 使徒パウロのローマ人への手紙

[Chapter 1-6] 外国人への伝道者パウロ(ローマ 1:1-32)

<ローマ 1:1-32>
神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ、────この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためです。あなたがたも、それらの人々の中にあって、イエス・キリストによって召された人々です。────このパウロから、ローマにいるすべての、神に愛されている人々、召された聖徒たちへ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように。まず第一に、あなたがたすべてのために、私はイエス・キリストによって私の神に感謝します。それは、あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。私が御子の福音を宣べ伝えつつ霊をもって仕えている神があかししてくださることですが、私はあなたがたのことを思わぬ時はなく、いつも祈りのたびごとに、神のみこころによって、何とかして、今度はついに道が開かれて、あなたがたのところに行けるようにと願っています。私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです。というよりも、あなたがたの間にいて、あなたがたと私との互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。兄弟たち、ぜひ知っておいていただきたい。私はあなたがたの中でも、ほかの国の人々の中で得たと同じように、いくらかの実を得ようと思って、何度もあなたがたのところに行こうとしたのですが、今なお妨げられているのです。私は、ギリシャ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。それゆえ、神について知られることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行なうようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言うもの、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです。
 
 

<ローマ 1:1> 神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ。

 
パウロは神の福音のために選ばれました。神の福音を説くために選ばれるのは誰でしょう。神の義を知りもしないのに、神のしもべとして選ばれたと思っているなら、その人は自分を欺いているのです。神の義の福音を知らず、それでいて自分は神に召されたのだと思っているのなら、それは幻想です。神の義を知り、信じてはじめて人は神に召されます。神の義の福音について何一つ知らないで、どうして神のしもべといえるでしょう。あり得ないことです。
それなのに、世界中で無数の牧師が神の義の福音のみことばについて知らないまま、勝手に神のしもべと称しているのです。そうした人に共通するのは、自分の感情に惑わされているということです。もう一つの特徴は、神に誓いを立てて勝手にしもべになり、自分はその誓いに縛られていると感じていることです。そうした人がほんとうに神のしもべといえるでしょうか。
牧師の中には自分の会衆に惑わされている人もいます。大勢の人からほめられ、「あなたは神のしもべになれます」と言われます。周囲の人々の言うことに惑わされ、そのために聖職者になるのです。神の義を知らないのなら、そうした人に神の働きができないということには明白な証拠があります。つまり、神はご自分の義を知らない者をしもべとはお呼びになりませんし、そうした人をお使いになることもないのです。では、神は誰をしもべになさるのでしょう。神に召された者とは、神の義の福音を知り、信じている人です。まず、みことばを信じて罪の赦しを受けて、はじめて神に召され、しもべになるのです。神はそうした人に神の義の福音を説く力をお与えになります。もちろん、福音を広めるための燭台の節とされ、用いられるしもべは存在します。幕屋の金の燭台の各枝にはアーモンドの花の形をした皿が七つついていました。各皿には支えとなる節がついていて、燭台の光が幕屋の中を明るく照らすようになっていました(出エジプト 25:31-39)。実際、イエスは光であり、私たちは神の義の福音を説くのを助ける節なのです。
パウロは外国人のための宣教師でした。彼は神のしもべであり、神の義を明瞭に組織立ててあかししました。パウロが神の義ではなく人間の義を説いていたなら、キリストのしもべではなかったでしょう。しかしながら、彼は神に遣わされた使徒であり、神の義を説いたのです。ですから、パウロはキリスト教社会で尊敬されているのです。キリスト教徒がパウロの説いた神の義を信じないのなら、キリスト教信仰の土台が大きく揺るぐでしょう。キリスト教徒はパウロの書いた神の義のあかしを信じて、代々信仰を伝えてきたのです。神の義が明かされているローマ書から神の義を知り、信じることができます。
 
 
パウロは神に遣わされた
 
「使徒」とはどういう意味でしょう。これは「神に遣わされた者」という意味です。「使徒」とは、人類を罪から救ったイエス・キリストとその救済のみわざとをあかしするために、神によって遣わされた者です。なぜ使徒は特別なのでしょう。その問の答えは主の遣わされた使徒たちの働きを見ればわかります。彼らは自分たちが福音の単なる証人にすぎないとは考えませんでした。自分たちが神の特別な使者だと知っていました。彼らが使徒だったので、神は彼らの権威ある言葉を通じて語られたのです。ですから、彼らの言葉には神から出た力がありました。
パウロはローマ書で、使徒の一人であると自己紹介して手紙を書いています。パウロはローマの聖徒たちにこの点を思い起こさせていますが、それはまた私たちのためでもあるのです。このことから、ローマ書をどのように解釈するのが正しいのかがわかります。ローマ書は神の義を説くみことばとして受け入れなければなりません。神は直接人間に語られませんが、私たちはパウロ書簡を通じて神の義を知ることができます。ですから、神が使徒パウロを通じてお教えになることに従わなければなりません。使徒たちの言葉が重要なのは、そのためです。それは神のみこころと義とを明かすものであり、そこには神の権威があります。
 
 

神の義が示された歴史的福音

 
<ローマ 1:2> この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもの
神の義の福音は旧約の裏付けがなければなりません。神の義の福音であるといいながら、旧約のモーセの五書や預言者たちの書に裏付けられていないものは、本物ではありません。真の福音は、旧約のみことばを抜きにして、それ自体で完全ということはあり得ません。
では、神の義の福音とは何でしょう。旧約で預言された約束のみことばに基づいた福音です。使徒パウロは神の義の福音について、これは「神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、御子に関することです」と述べました。ここにあるように、神の義の福音は、幕屋で行われたいけにえの制度を抜きにしては語れません。幕屋で行われたいけにえの制度は、イエス・キリストがどのようにして、どんな方法で人類の罪を被られるかを予言しています。幕屋のいけにえの制度に含まれていた按手は、新約でイエスの受けられたバプテスマを指し示しています。
ローマ書冒頭の最も重要な言葉は「福音」であり、そこには神の義が示されているのです。この語はローマ書の主題そのものという意味で重要です。ローマ書は神の大いなる義を説明するために書かれました。
パウロは第一節で「福音」に触れ、それは神の福音だとしています。パウロはこの福音のために召され、分けられたのです。第二節ではこの福音がどこで始まったかを詳細に説明しています。「この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもの」と言って、旧約の約束がその初めだったとしています。つまり、これはイエス・キリストの予言に基づいた福音なのです。第九節でパウロは「御子の福音」と呼んで「福音」の重々しさを強調しています。
 
 
福音をよい知らせとして理解する
 
「福音」(ギリシャ語で euaggelion)は「よい知らせ」という意味だとされています。しかしながら、多くの人は「福音」の意味は「よい知らせ」とだけ理解し、ほんとうは神の義を意味しているのだということを知りません。なぜ福音がよい知らせであるのかを理解するには、まず、神の義に欠点がないことを理解する必要があります。
この世の宗教において善と悪は相対的なものです。しかしながら、キリスト教において神の義は絶対です。それは人間の義には比べようのない特別なものです。パウロは神の義が福音に示されていると言いました(ローマ 1:17)。ですから、神の義の福音はすべての罪人救済の福音です。神の義を含む福音を信じるなら罪はみな消え、その人は罪のない者となります。神がその義を示す福音をお与えになったのは、それが目的でした。
パウロは神の義を知る前、律法に従っていました。律法は善行と高い倫理基準を要求しています。しかしながら、律法は安らぎをもたらすことがなく、また真の神の義を受けられるようにすることもありませんでした。パウロは私たち同様、律法を守ることができませんでした。そこで、自分は律法の中にあってはまったく惨めな人間であったと告白しているのです(ローマ 7:24)。
無神論者でさえ、心を改めさえすれば神の義の良き知らせを聞けますし、信じたなら罪から救われ、永遠のいのちを受けることができます。それは神の義から来る最も貴重な恵みです。それは人間の義ではありません。神が人類にくださった福音は良いものです。内に神の義があるからです。また、神がイエス・キリストのみわざによって人類を罪からお救いになったので、良いものなのです。人間は罪があるため、神の御前に進むことができませんでした。罪が人間を神から隔てていました。イエス・キリストが人類の罪をみな被られ、すべて消されたので、神の義によって神へと通じる橋が渡されました。私たちは神を見出したいと思っていても、神の義を知らなかったので、見出せませんでした。今、私たちは、神の義として来られた主をたたえています。
 
 
イエス・キリストは信じる者の神
 
<ローマ 1:3>御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ
この部分では、イエス・キリストがユダの家に生まれたことを告げています。イエス・キリストはもともと神の御子、王の王でした。主は、旧約の予言にしたがってダビデの子孫としてユダの家に誕生なさり、天の大祭司になられました。レビ族だけがイスラエルの民の祭司になれました。その部族の者でなければ誰も祭司になれませんでした。しかしながら、イエス・キリストはこの世の祭司ではなく、天の祭司です。イエスはこの世に来られ、バプテスマと十字架上で流された血とにより、この世の罪を消し去られたのです。天の祭司の役目とは、バプテスマをお受けになることと十字架上で血を流されることでした。
キリストはキリスト教の中心であり、神の義の顕現です。他はみな脇役にすぎません。イエス・キリストは神であられ、また信じる者みなの救い主でもあられます。イエスはただ神性を備えておられるだけではなく、人類の救い主となられもしました。主のような人間は一人もいません。イエス・キリストだけが永遠の神であり、罪人の救い主です。人間にとってはイエス・キリストお一方が神です。しかし、これは父なる神と聖霊とを神と認めないということではありません。
 
 
全人類にとって主は永遠の創り主であり、永遠の救い主
 
<ローマ 1:4>聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方
つまり、イエス・キリストは罪のない、神の聖なる御子なのです。イエス・キリストは本来は聖なる神であられますが、受肉してこの世に来られ、バプテスマのヨハネから受けられたバプテスマで世の罪を被られ、十字架につけられて血を流され、死者の中からよみがえられ、それによって、神の義を信じる者みなの救い主になられました。
イエス・キリストは創り主であられますから、死や闇さえも主をとどめることができません。イエスは父なる神の御子であり、罪人の救い主となられるのに何一つ欠けたところのない主です。イエス・キリストは全能ですが、バプテスマのヨハネからお受けになったバプテスマと十字架で流された血とによって、罪人を罪から救われました。そうして人間を神の御国へと移す働きを完了なさいました。主はこの世に来られ、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けられ、十字架上で死なれ、死者の中からよみがえられました。また、主は神の義を信じる者みなに御霊の賜物をお与えになります。ですから、イエス・キリストは罪人のためにバプテスマを受けられて、十字架に釘で打ち付けられ、死者の中からよみがえられ、罪人を罪から救われた救い主なのです。主は信じる者みなの神になられましたが、それは約束を誠実に実現なさったからです。
「イエスは生ける神の御子で、罪人の救い主です。」 これが原始教会時代のキリスト教徒の信仰の基本でした。しかしながら、その信仰は形式主義的に「使徒信条」に置き換えられています。西暦 313 年にコンスタンティヌス大帝がローマ人に宗教的自由を与えるミラノ勅令を発布して後、キリスト教徒になったあかしとして洗礼を与える際、使徒信条が基準とされるようになったのです。
イエスを主と呼ぶことには二つの意味があります。まず、これはイエスが神だということです。第二に、イエスが罪人の救い主だということです。この二つの意味から、原始教会時代のキリスト教徒が「主」という語を他の誰にも使おうとしなかったわけがわかります。他の誰かを主と呼んだなら、それはイエス・キリストが救い主だと信じないということになったでしょう。主は全人類の永遠の創り主であり、また永遠の救い主です。イエス・キリストは永遠の神の義です。
 
<ローマ 1:5>このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためなのです。
神のくださった義を信じて罪をみな赦され、神の義のしもべとなった者は、イエス・キリストの民となり、主に従います。ですから、イエス・キリストの成就なさった神の義だけを説くのであり、自分なりの肉の知恵や知識・誇りを広める理由は何もありません。神のしもべだと言いながら、自分の知識や知恵・肉の善行を誇るなら、その人はイエス・キリストのしもべではありません。ほんとうにイエス・キリストのしもべとなった者は生涯、神の義だけを宣べ広めます。神の義をあかしするためには説教で例を用いるでしょうが、そうした例は、ただ神の義をよりよく示すためにだけ用いるのです。
神のしもべとは、イエス・キリストの義を示す働きのためにだけ生きる者をいいます。神はそうした義のしもべに、世界中のすべての人にご自分の義を広める働きをおさせになります。イエス・キリストのしもべの説く救済のみことばを聞いて、世の大勢の人が罪をみな赦され、神の子どもになっています。
 
<ローマ 1:6>あなたがたも、それらの人々の中にあって、イエス・キリストによって召された人々です。
ローマの聖徒たちはみな、最初は外国人でした。私たちも最初は神の民ではなく、外国人でした。しかしながら、神の義を伝える水と御霊の福音のみことばを知り、この福音のみことばを信じて、イエス・キリストのものになったのです。
私たちは神に召され、イエス・キリストの信者になっています。今、私たちはキリストに属しています。これはすばらしい恵みであり、名誉です。どうしてこのようなことが私たちに起こったのでしょう。人間は本来、罪の奴隷として生まれることを免れません。しかし、神の義の福音により、私たちは今キリストの信者になっています。まことに驚くべき力をもつ福音のことを神に感謝するばかりです。
 
<ローマ 1:7>このパウロから、ローマにいるすべての、神に愛されている人々、召された聖徒たちへ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように。
神の義を信じる私たちは、すべての人が神から罪の赦しという恵みを受け、心に平安を得ることを願っています。ですから、私たちは水と御霊の福音を宣べ広めようとしているのです。もし義人がこの欲求をもたないのなら、それは他の魂のために心をささげていないのです。しかしながら、信仰によって神の義を受けた者の心には御霊が宿られ、すべての人が罪の赦しを受けることを切に願っておられます。まだ神の義を知らず、罪をそっくりもっている人々に私たちは水と御霊の福音、罪の赦しの賜物を宣べ広め、人々がこの福音を信じるようにしたいのです。すべての人が神の義を信じて川の流れのように安らかな心をもたれることが私の心からの願いです。
 
 
神に栄光を。義人の信仰に感謝
 
<ローマ 1:8>まず第一に、あなたがたすべてのために、私はイエス・キリストによって私の神に感謝します。それは、あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。
神の義を信じたパウロは、世に神の義を告げる福音が説かれる時、いつも喜びました。彼同様、義人は神の義とみこころへの信仰に感謝しています。義人が喜ぶのは、水と御霊の福音のみことばが今、全世界で力強く広められているからです。水と御霊の福音は、主がヨハネ 3 で語っておられる真理の福音です。
主はヨハネ 3:5 で「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません」とおっしゃいました。ここでいう「水」とは、イエスがヨハネから受けられたバプテスマのことです(ペテロ I 3:21)。「御霊」とは、イエスが神の御子であられ、また、ご自身も神であられることを指します。ですから、イエスがこの世に来られて人類の罪を消すために受けられたバプテスマと十字架上の苦しみ、そしてよみがえりを信じるなら、神の民になり、神の御国で生きることができるのです。
使徒パウロはなぜローマの聖徒の信仰を神に感謝すると言ったのでしょう。理由は二つあります。第一に、ローマの聖徒たちがイエス・キリストを神の御子だと信じ、この神の義を信じたために罪から救われたからです。第二に、ローマの聖徒のおかげで福音が世界中に広められつつあったからです。
ローマ書で福音を説くにあたって、パウロはしばしば旧約の予言を引用しています。彼は神の義を「聖書の預言者を通じてなさった約束」と定義しています。そして、自分の使命はすべての外国人が信仰をもって神に従うようにすることだと結んでいます。その後、ローマのキリスト教徒のことで神をたたえています。彼らの基本的な信仰が神の義を信じるものであり、また、神の義を他の人々に説いていたからです。
ローマのキリスト教徒の信仰が純粋であったのは、ローマにあっても神の義への信仰を守ったからです。ローマは異教信仰に満ちた地でした。ですからパウロは、ローマに住むキリスト教徒の信仰のことを神に感謝したのです。しかしながら、パウロがその手紙の冒頭でキリスト教徒の献身をたたえたというわけではありません。そうではなく、パウロはただ彼らの信仰のゆえに神に栄光をささげているのです。ローマのキリスト教徒はみな神の義を信じて新生しました。私たちもまた、神の義への信仰によって新たに生まれています。ローマのキリスト教徒が神の義ではなく自分なりの義を立てていたなら、パウロは彼らを非難したことでしょう。神の義を信じるローマのキリスト教徒に、パウロは仲間としての手紙を書いたのです。
 
<ローマ 1:9>私が御子の福音を宣べ伝えつつ霊をもって仕えている神があかししてくださることですが、私はあなたがたのことを思わぬときはなく
使徒パウロはローマの兄弟姉妹を愛しました。彼はローマの信者のことで神に深く感謝しています。なぜでしょう。神の民がローマにいるということが、とてもうれしかったからです。また、神の義を伝える水と御霊の福音をローマから全世界に宣べ広めたかったからです。ですから、パウロはいつでも福音のこととローマにいる神の民のことを祈り、神の義を伝える福音が全世界に広めらるよう願ったのです。やがてパウロの願いはかなうでしょう。
 
<ローマ 1:10>神のみこころによって、何とかして、今度はついに道が開かれて、あなたがたのところに行けるようにと願っています。
神の義を広める伝道師はいつでも祈り、福音の戸を探します。また、自分ひとりで働くのではなく、他の人々と協力して働きたいと思います。パウロは外国人のための伝道師であり、真の霊的父でした。
ローマの聖徒たちがパウロを通じて再び神の義を知るようになると、人々は人間の義を捨て去りました。今日、ローマ書を通じて、全世界の人々もまたパウロの説いた福音に示された神の義を信じるようになっています。神はパウロを通じて、イエスのバプテスマ、十字架上の死、そしてよみがえりの福音が、ローマ人だけではなく世界中の人々に伝えられるようになさったのです。今も昔も、神の義を信じる者には、神の民になるうえで欠けたところが何一つありません。
 
<ローマ 1:11>私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです。
イエスを信じる人々の信仰をより強くするために、パウロは神の義を伝える霊的賜物である福音のみことばを分け会うことを願いました。
神のくださった水と御霊の福音のみことばを信じたとき、信仰はより堅固に、どんな疑いにも揺らぐことがなくなります。その理由は、この真の福音には神の義が明かされているからです。パウロはローマの聖徒の信仰を見て、少なくとももっと強化しなければいけないと感じました。そこで、「御霊の賜物」をいくらかでも分け与えようと言ったのです。
では、霊的賜物とは何でしょう。神の義を含む水と御霊の福音のことをいうのです。神はそれによって人類の罪を消し去られました。神のくださった水と御霊のみことばはキリスト教徒の信仰を堅固にし、新たに生まれることを可能にします。パウロの説いた、神の義を伝える福音を信じるなら、不安定な信仰は堅固なものになります。みなさんも不完全な信仰を完全なものになさりたくはありませんか。
 
<ローマ 1:12>と言うよりも、あなたがたの間にいて、あなたがたと私との互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。
パウロの説いた、神の義を伝える真理の福音は、信じる者の心に安らぎと慰めをもたらします。これは、パウロの説いた福音が水と御霊の福音であったためです。ローマの聖徒には水と御霊の福音のみことばによる慰めが必要でした。パウロの心もまた、自らの説いた水と御霊の福音のみことばによっていつも慰められたのです。
みなさんの信じておられる福音は心に慰めを与えてくれますか。ほんとうに人類に安らぎと慰めをもたらすのは水と御霊の福音です。この福音は、ペテロ、パウロならびに他の使徒たちが信じたものです(ペテロ I 3:21; ガラテヤ 3:27; ヨハネ I 5:6)。
 
 
応えられた祈り
 
<ローマ 1:13>兄弟たち、ぜひ知っておいていただきたい。私はあなたがたの中でも、他の国の人々の中で得たと同じように、いくらかの実を得ようと思って、何度もあなたがたのところに行こうとしたのですが、今なお妨げられているのです。
パウロは福音が実を結ぶことを望みました。彼は広範囲にわたって伝道し、神の義を伝える福音を各地で宣べ広めました。そして、いたるところで豊かな霊的実を結びました。つまり、大勢の人々が神の義を信じて罪の完全な赦しを受け、罪のない、神の子どもになったのです。
パウロの説いた福音は、今日の宗教家たちの説くものとは違っていました。使徒パウロの説いた福音には神の義が含まれていました。ところが、今日のキリスト教徒が説く福音には神の義がありません。神の義を伝える真理の福音とは、水と御霊の福音であり、それ以外の、神の義を含まない福音はどれも不完全です。神のくださった水と御霊の福音には、イエスがヨハネから受けられたバプテスマ、十字架上の死、よみがえりがみな含まれています。しかしながら、今日のキリスト教徒の説く福音には十字架上の死とよみがえりしかありません。
使徒パウロは、神の義を含む福音を説くためにローマに行くことを願っていました。しかし、道は塞がれていました。使徒パウロはローマに行きたいと願ったのですが、その願いは容易にかないませんでした。同様に、聖徒やしもべの祈りに神が容易に応えてくださらないように思われることがあります。しかし、神は必ず祈りに応えてくださいます。パウロの祈りに神がなかなか応えてくださらないように見えても、それは、ローマの状況がパウロの伝道活動にふさわしいものになり、また、パウロの心の用意ができるまでのことでした。
神は心からの祈りをお求めになります。では、ほんとうに霊的なものを求める祈りとは何でしょう。それは神の義を宣べ広めるために捧げられた無私の祈りです。そうした祈りは、必ず応えられます。神の義にしたがって捧げられた祈りはみな、必ず応えられるのです。長い間、祈りに応えられなければ、がっかりするでしょうが、神の義にしたがって祈ったなら、すぐに願いはかないます。ほんとうに神の義を知る信仰に入るなら、祈ったことがかなうのです。パウロもまた、願いがかなってローマに行くことができ、神の義を含む福音を世界中の人々に宣べ広めました。
 
 
福音は常に心貧しき者のため
 
<ローマ 1:14>私は、ギリシャ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。
パウロは信仰により、神の義の示されている福音を説明しています。
私は、ギリシャ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。
こうした気持ちは神の義を知った者だけがもてるのです。パウロには、神の義を知る者として水と御霊の福音のみことばを世のすべての人に宣べ広める義務がありました。この責任は心に重くのしかかりました。ですから、彼は自分には負債があると言ったのです。たった今も、神の義を信じる者は福音を世界中に宣べ広めたいと願っています。
神の義が示された福音は、いつも心貧しき者のものでした。イエス・キリストは、ニコデモのような、よい家庭に生まれて高い教育を受けた恵まれた人だけではなく、収税人や罪人にも福音をお伝えになりました。ヨハネ 4 でイエスはサマリヤ女性に神の義の福音を教えておられます。後になって、使徒たちの時代、神はペテロに、福音はユダヤ人のように儀式的に「きよい」者だけではなく、コルネリオのような外国人にも与えられているのだとおっしゃいました。そこで、ペテロはこの点を次のように表明しました。
これで私は、はっきりわかりました。神はかたよったことをなさらず、どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行う人なら、神に受け入れられるのです。(使徒 10:34-35)
 
<ローマ 1:15>ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。
パウロの見たところ、イエスを信じているというローマのキリスト教徒の中にも、神の義をほんとうに正しく理解している者は少なかったのです。そこで、すでにイエスを信仰しているローマの人々に、自分の信じる福音を説こうと思ったのです。
みなさんと私はパウロの心を理解できなければなりません。パウロがなぜ、すでにイエスを信じている人々に福音を説こうとしたのか、おわかりになりますか。パウロの動機を理解するには、まず彼の信じた福音を調べなければなりません。パウロの信じた福音には神の義が示されています。今日のキリスト教徒の大多数は神の義を伝えるものとは別の、神の義を含まない福音を信じています。パウロは神の義を含む真の福音を宣べ広めたかったのです。
 
 
神の義が明かされた福音
 
<ローマ 1:16>私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。
パウロの説いた福音は、信じさえすればすべての罪から救われるようにする福音です。それに対して、今日では別の福音を説いている人が大勢います。そして、多くのキリスト教徒がそうした偽の福音を信じているのです。では、「信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力」をもつ福音とは何でしょう。それは神の義を含んでいる、水と御霊の福音です。しかしながら、これを知る者は少ないのです。パウロの説いた真の福音の力について語る人は大勢いますが、それは口先だけのことです。水と御霊の福音を信じ、真の福音の力を実際に経験している者はごく少数です。
みなさんはどうでしょう。ほんとうにイエスの語られた水と御霊の福音の力を体験なさいましたか。ほんとうに信じ、体験しておられるなら、完全に罪のない者となり、世界中の人に水と御霊の福音の力をあかしし、広めておられるでしょう。
この部分はローマ書全体の主題、キリスト教の主旨であり、また、信仰の核心なのです。その理由は、どうしたら神の義に出会えるかがここで説明されているからです。神の義は、人間の力では神と和解できないということを教えています。人間は神に逆らったので、和解のささげものなしには神と和解できず、呪われるしかありません。また、人間は祖先の罪のために穢れています。病気で吐き気のするような臭いを放っている者が傍目にも汚く見えるように、神の目には人間が汚れて見えるのです。そうした状態で神の御前に行けば、永遠に滅ぼされます。
では、どうしたら罪の問題を解決できるのでしょう。人間自身の力では、罪を除くことは何もできません。しかしながら、神は人間の罪をみな消し去った義をくださいました。この神の義を信じる、それだけで罪の赦しを受けられるのです。神が人間にくださった義は水と御霊のみことばの中にあります(ヨハネ 3:4-5; マタイ 3:13-17; ペテロ I 3:21 )。
 
 
神から出た義
 
パウロがここで要約しているように、神の義はイエス・キリストが人類を深刻で絶望的な罪から救われたことを指します。神の義は、すばらしい真理である水と御霊の福音に明かされています。神の義がこのように明かされているのは、人間がみな罪人であって、自力では神の義に至れないからなのです。ですから、人間は完全に堕落していて、そもそもの初めから神の義には至れないのだという前提に立ち、神の義を見出さなければなりません。
福音に隠された義は神の義です。この神の義はイエス・キリストへの信仰によって来ます。使徒パウロがこの手紙の冒頭で述べたことを見ますと、神の義とは、神がくださったキリストの義にほかならないことがわかります。ですから、パウロは、神の義が福音に明かされていると述べているのです。そして、福音はイエス・キリストに関することです(ローマ 1:2-3)。神の義を成就したのはキリストなのですから。その神の義を信じて、聖徒は救われています。
パウロは神の義について二箇所で説明しておりますが、いずれも重要です。第一に、そのそもの始めからイエスは正しいお方でした。言葉を換えて言えば、イエスは神ですから、絶対的に聖く、まったく罪がないのです。イエスが人間の形でおられたときに「いつも、そのみこころにかなうことを行う」(ヨハネ 8:29)と言い、敵対者に向かって「あなたがたのうちのだれか、わたしに罪があると責める者がいますか」(ヨハネ 8:46)と問うことができたのは、そのためです。
第二に、イエスは神の律法にしたがって完全な神の義を成就なさいました。イエスがバプテスマのヨハネにバプテスマを授けるよう求めると、ヨハネは「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか」と答えました。イエスはヨハネに「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです」(マタイ3:14-15) とおっしゃいました。
パウロは神の義が福音に明かされていると言いましたが、それは、イエスがヨハネから受けられたバプテスマに神の義が見出されるという意味です。このことから、すべての人が必要とする神の義を得る方法がわかります。また、神の義は信仰によってだけ得られることがわかります。
 
 
真の神の義とは
 
<ローマ 1:17>なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。
使徒パウロの説いた福音は今日のキリスト教徒が説いている不完全な福音とは別物であるのがわかります。それは、パウロの説いた福音に神の義が明かされているからです。では、神の義を示す、この福音とは何を指しているのでしょう。イエスの説かれた水と御霊の福音です(ヨハネ 3:5)。
では、水と御霊の福音とは、具体的には何でしょう。これはイエスがバプテスマのヨハネからお受けになったバプテスマと十字架上で流された血を告げる福音です。では、イエスはなぜバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられたのでしょう。神の義を実現するためにバプテスマを受けられたのです(マタイ 3:15)。イエスはバプテスマをお受けになることで何を成し遂げられたのでしょう。世の罪全部をただ一度で受け取られました。その証拠はどこにあるでしょう。マタイ 3:15 「このようにして」がその証拠です。「このようにして」はギリシャ語では「οϋτως γάρ」で、これは「まさにこの方法で」、「これ以外の道はない」という意味です。
つまり、イエスはヨハネからバプテスマを受けられて世の罪をみなただ一度で受けられ、それによって父なる神のみこころをすべて成就なさったのです。バプテスマによって世の罪を負われたイエス・キリストは十字架に赴かれました。磔刑に処されました。それから死者の中からよみがえられ、御父の望まれたとおり、人類の罪のすべて洗い流されました。これが神の義です。
パウロは、神の義を信じるなら、新たに生まれた信者の列に加わることができると言いました。まことに、神の義は水と御霊の福音のみことばの内に見出されます。この福音を信じる者はみな、罪のない、神の民になるのです。それに対して、信じない者は神の義に至ることができません。水と御霊の福音によって来た神の義を信じないからです。
パウロは「義人は信仰によって生きる」と続けています。これは、たとえ神の義を信じて、ただ一度で永遠に罪の赦しを受けていても、最後まで神の義を信じて信仰生活を送らなければならないということです。神の義を信じる者は生きます。しかし、信じない者は死にます。使徒パウロの説いた福音には、「福音のうちには神の義が啓示されていて」とあるように、神の義が啓示されているのです。みなさんは、神の義の明かされている、この福音を信じておられますか? 信じてはじめて生きられるのです。
神の義の啓示された福音はマタイ 3:13-15 に記されています。イエスはマリヤの体から、人間の肉の形でこの世にお生まれになりました。
マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。(マタイ 1:21)
ここで「イエス」という名は「救い主」という意味です。つまり、イエスは全人類を罪から救うお方なのです。
イエスがこの世に来られたとき、二十九歳までは家族に仕えて私人として暮らされました。三十歳になると、父なる神のみこころにしたがい、バプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになるためにヨルダン川へ行かれました。これがイエスの活動の初めでした。当時、バプテスマのヨハネはヨルダン川で人々にバプテスマを授けていました。ヨハネが人々に授けていたバプテスマは悔い改めのバプテスマでした。しかし、イエスに授けたそれは、世のすべての人の罪を移すためのものでした。
ここは気をつけて、この二種類のバプテスマ、つまり、通常の人々に授けた悔い改めのバプテスマと、イエスに罪をみな移すためのバプテスマとを区別しなければなりません。イエスがヨハネからバプテスマを受けられたのは、世の罪すべてを被られるためでした。イエスが「バプテスマを授けてください」とヨハネにおっしゃると、ヨハネは「私のほうこそあなたからバプテスマを受けなければならないのに、あなたが私のところに来られるのですか」と言います。しかしながら、イエスはそれに「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、私たちにふさわしいのです」とお答えになりました。そこでヨハネは従うしかなかったのです。
ここにはどのような意味が隠されているのでしょう。先ほど申しましたように、マタイ 3:15 の「このようにして」はギリシャ語では「οϋτως γάρ」で、これは「まさにこの方法で」、「最もふさわしい」、「これ以外に道はない」という意味です。「このように」とは、イエスがバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられて世の罪を被られるという過程を意味しています。イエスがバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けにならなければならなかったのは、このためです。
ヨハネからバプテスマを受けられたイエスは世の罪をすべて被られました。水と御霊の福音は神の義をあかししています。イエスは磔刑に処され、十字架上で血を流して死なれました。その際、最後の息を引き取られる前に「完了した」とおっしゃいます。これは、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けられ、血を流されたイエスが、すべての人を世の罪全部から救われたことを意味しています。
イエスのバプテスマと血とが神の義を啓示する福音を成すのです。イエスはお受けになったバプテスマによって、この世の罪をすべて負われなければなりませんでした。十字架上で血を流して死なれなければなりませんでした。そして、死者の中からよみがえられなければなりませんでした。神の義が啓示されたこの福音は、世のすべての罪人を罪から救うことができます。主のくださった水と御霊の真の福音に啓示された、これこそが神の義なのです。これ以外にはありません。この福音こそが、すべての罪人にもたらされた、最もすばらしくうれしい知らせなのです。
みなさんの行いは完全ですか、それとも不完全ですか。イエスの義を信じておられますか。イエスがバプテスマのヨハネからお受けになったバプテスマと十字架上で流された血の意味を信じておられますか。イエスのバプテスマと十字架上の血とが、この世の罪全部を消した神の義の啓示された福音を成すのです。イエスがバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられてこの世の罪をみな消したと告げる、この福音を心から信じなければなりません。
この中におられる独身の方が結婚されると、おそらくは子どもをもたれるでしょう。そうなりますと、真の信仰の持ち主なら、お子さんたちの罪もまた世の罪に含まれており、みなバプテスマによってイエスに移されてのだと信じられるでしょう。私たちの兄弟の一人が八十二歳まで生きて、亡くなられたとします。すると、その人の生涯の罪、八十二年分の罪がみな、イエスがバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられたとき、その上に移されたのだと信じるのです。イエスがおっしゃっていることは、過去・現在、そして、未来に訪れる世の終わりまでの罪が一つ残らず世の罪に含まれているのであり、それをすべて被られるためにバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられたということです。主は十字架上にかけられ、血を流されました。ここでイエスがヨハネから受けられたバプテスマは、全人類から世の罪をすべて洗い流すに十分な、完全なバプテスマでした。ローマ 1:17 には、「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです」と記されています。この福音こそが、ほかならぬ水と御霊の福音であり、そこには神の義が明かされているのです。
 
 
真の信仰とはアブラハムを信じること
 
アブラハムは百歳になっても子どもが一人もいませんでした。彼の名がまだ「アブラム」だったある日、神が来られて、「アブラム、アブラム」と呼ばれました。「出てきて空を見なさい。無数の星が見えますか。」
「はい。たくさんの星があります。」
「あの空の星の数ほどの子孫をおまえに与えよう。」
「はい。」アブラハムには不可能なことだと思われたのですが、それでも、神のみことばだったので信じました。このように神のみことばを信じたので、神はアブラハムをお認めになったのです。
アブラハムは、六百十三項目もの戒めのある神の律法を守ることのできない人間でも、イエスがバプテスマのヨハネから受けられたバプテスマを信じたなら、神の義を受けると信じました。アブラハムの妻サラはすでに閉経していたのですから、現実的に考えれば、子どもを産むのは不可能でした。それなのに、アブラハムは神のみことばを信じ、その信仰があったためにイサクを得ることができたのです。こうした信仰が神の義に従う信仰です。神の義を信じる、そうした信仰により、人はすべての罪から救われるのです。
神にはできないことがないということ、神は必ず約束を守られるということをアブラハムが信じたために、神に認められたように、私たちもまた、みことばを信じて神に認められるのです。神のみことばを信じている者は賜物を受けています。賜物は神の義を信じて得られます。神の義を信じる者は罪の赦しと御霊の賜物を受けます。人類に与えられた神の義を信じるなら、その人は、この神の義をもつ幸いを得るのです。
神は、水と御霊の福音に示された神の義を信じる者に救済をもたらされます。神はどのような信仰をお求めになるのでしょう。人間は自身の義によって罪から救われると神がおっしゃったのなら、誰一人救われないでしょう。ところが、神はご自分の義を信じる者に罪からの救済をお与えになるのです。神は人間のような性質をもたれません。神はほんとうに、守らせるために律法をお与えになったのでしょうか。神は、人間が自身の罪に気づき、水と御霊の福音を信じるようにと律法をお与えになったのではありませんか。そうです。今日のキリスト教徒は、神の義を知ることなく信仰することがいかに深刻な間違いであるかを知らなければなりません。誰にでも罪があること、それが人間を地獄に定めていることを人類にお教えになるために、神は律法をお与えになったのです(ローマ 3:20)。
ローマ 1:17 には、「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです」とあります。人間は、もともと生まれたその時から十二種の罪をもっています(マルコ 7:21-25)。人間は生涯、邪悪・傲慢・人殺し・姦淫といった、さまざまな罪を犯し続けるというのに、どうして神の義を必要としないことがあるでしょう。神はバプテスマと血によってイエスが人類の罪の罰を受けるようになさり、それによって、神の義を信じた人間をすべての罪からお救いくださったのです。私たちはイエスのバプテスマと血の福音を信じて、神から義を得ているのです。
水と御霊の福音を信じ、次のように言う人は、神から御霊を受けます。「人間は自分の行いの義では神の義を得られません。ですから、水と御霊の福音を信じてはじめて神の義を得られるのです。人間の義はというと、誇れるものは何もありません。イエスのバプテスマと十字架上の血とは神の義を成すのです。」
私たちは信仰によって、神の約束なさった恵みをみな受ける者となっています。みなさんは神の義を信じる完全な信仰をおもちですか? 神の義はイエスがバプテスマのヨハネから受けられたバプテスマと、血の中にあります。
バプテスマのヨハネはイエスにバプテスマを授けた後、人々に向かって叫びました。「見よ。世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネ 1:29)
イエスはバプテスマをお受けになって世の罪を被られました。私たち人類の罪はみなイエスの上に移されました。ですから、罪はイエスがバプテスマと血とによって罪をみな消し去られたと告げる福音を信じると、みな洗い流されるのです。もしまだ心に罪がそっくりあるのなら、それは、心に神の義がなく、そのため、罪を洗うことができないからなのです。ヨハネがイエスにバプテスマを授けて世の罪を移し、イエスが人類の罪を取り除かれたというあかしによって罪を洗われるのです。みなさんの罪もまた、全部バプテスマによってイエスに移され、イエスはただ一度で世の罪をみな被られ、十字架に行かれ、血を流され、そうして神の義を成就なさいました。
ヨハネ 19:28-30 を見ましょう。
この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。そこには酸いぶどう酒のいっぱい入った入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。
さて、では、この世の罪は誰に渡されたのでしょう。そしで、どこで罰されたのでしょう。イエスがヨハネからバプテスマをお受けになった時に、世の罪がみなイエスの頭に移されました。イエスはバプテスマを受けられ、血を流されて、この世の罪を完全に消されました。それなのに、「イエスは原罪は取り除いたけれど、行いによる罪は除いていない。だから、毎日悔い改めの祈りによって神の赦しを願って、行いによる罪を贖わなければいけないのです」と言う人々がいます。こうした信仰は神の義を信じるものではありません。聖書は、イエスがバプテスマを受けられ、血を流されて、罪人を罪から救われたと明確に述べています。まことにその通りなのです。誰でもイエスを正しく信じる者は、心に罪がないはずです。
ひとたび生まれたなら、水と御霊の福音に明かされた神の義を信じて罪の赦しを受け、罪から救われなければなりません。神の義への信仰によって新生した者は、世に打ち勝ち、世の罪から完全に開放されて生きることができます。また、神の子どもとしての権利を新たに得るのです。イエスを救い主と信じる前は、「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、他の人と同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」(エペソ 2:3)しかし、神の義が明かされている水と御霊の福音を信じると、義人になるのです。この真理を信じた瞬間、御霊の賜物を受けます(使徒 2:38)。
ですから、イエスがバプテスマのヨハネからお受けになったバプテスマと、十字架上で流された血とが神の義であると信じなければならないのです。これが、神の義の明かされた水と御霊の福音です。どうか、みなさんも水と御霊の福音に還り、神の義の福音を受け入れてください。そうすれば、心にある罪はみな雪のように白く清められ、御霊の宿りの恵みを受けるのです。
 
 
用心深いキリスト教徒なら
 
<ローマ 1:18>というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。
悪い考えや判断から神の義の福音に敵対する者には神の怒りが下ります。では、どういう人がそういうことになるのでしょう。神の義の福音を信じない人です。つまり、キリスト教徒の中には、神の義を信じ、それに感謝の念をもつ者がいる一方、神の義に敵対し、冒瀆する者もいるのです。そうした人には終わりの日に神の恐ろしい怒りが待っています。神の御前で不敬虔なのですから、みことばを深く学ぼうという気持ちがありません。神を恐れていませんから、神の義を無視し、信じないでいます。神はそうした人に天から火と硫黄の裁きを下されます。神の義を信じない者には地獄が用意されています。神の義は神から人間への愛です。神の愛を拒む者には、神の恐ろしい怒りと罰だけが待っています。
雅歌 8:6 には「愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。その炎は火の炎、すさまじい炎です」とあります。
父なる神は御子をくださり、御子に人間の罪を移され、十字架につけられ、死者の中から復活おさせになりました。神はそうしてすべての罪人を救われ、罪の赦しを受けられるようになさったのです。これが神の愛です。この愛から来た救済を信じないで拒む者に対して、神の愛は恐ろしい罰となって下ります。それは、その人がサタンのしもべとして神に敵対しているからです。
また、雅歌 8:7 には、「大水もその愛を消すことができません。洪水も押し流すことができません。もし、人が愛を得ようとして、自分の財産をことごとく与えても、ただのさげすみしか得られません」とあります。
イエスを信じていると称するキリスト教徒の多くは神の義を信じるどころか、神の御名により別のことに献身しているのです。より多くのささげものをし、福音宣教のために努力するでしょうが、彼らを待っているのは神の恐ろしい憎しみと罰だけです。よろしいですか、神の義を信じない者には神の怒りが下るのです。
今日の諸教会の説教は、神の義をあかしするという点では欠陥が多すぎます。神の怒りと神の義とは聖書の主たる教えであり、主のみことばを説く際には、神の義を明かす福音を見落とすわけにはいきません。それなのに、今日のキリスト教各派をみことばに照らしてみるなら、大方は神の義と怒りとを除外しておいて、ともかくイエスを信じなさいと教えるだけなのです。それは、今日のキリスト教が世俗的宗教になっているからです。注意深いキリスト教徒であるなら、もちろん神の義と怒りの両方を信じていなければなりません。
 
 
神の義は福音伝道に不可欠な要素
 
今日のキリスト教徒が他の人に福音を説く時、一般に、最初に何を説いているでしょう。「福音伝道」の際、たいていは肉の恵みから始めます。聴衆が容易に受け入れられるような肉の恵みのことを福音伝道の始点にします。聞き手の欲求を満たそうとしているからです。しかしながら、神を信じるという場合、第一に解決するべき最も基本的な問題は、罪の問題なのです。神の御前では罪の問題をどう解決するかということに集中し、神を信じるかどうかを決めなければなりません。
しかし、多くのキリスト教徒が実際に福音伝道をするとき、ほんとうに人類の罪と神の義について語っているでしょうか。いいえ、そうした問題をほんとうに取り上げはしません。かえって、そうした問題を扱うことができないため、実際のところ、避けようとします。神の義を知らないからです。
パウロは「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、・・・・・・ような時代になるからです」(テモテ II 4:3)と述べました。「自分につごうの良いことを言ってもらうために」とあるのは、自分の欲求を満たそうとするということです。ここでパウロは、福音伝道者は人間の欲求を満たすことで罪人に伝道しようとしてはならないと警告しているのです。使徒パウロが神の義の明かされた福音を説いたのは、そうした気ままな願いを満たすためではありません。しかしながら、今日の牧師は会衆に世俗的幸いを約束しているのです。つまり、福音を説く際、イエスを受け入れれば豊かに報われるということを強調しているのです。
福音を説くうえで最もよく用いられる方法は、イエスが肉において祝福してくださっていると強調することです。キリスト教徒はまた、他人に福音を広めるよう促されます。しかしながら、パウロは福音伝道でそうした方法は用いませんでした。かえって、「ローマに行ってあなたたちに福音を説こうと思っているのは、私の受けた神の義のことをあなたたちに伝え、あなたたちもまた同じ信仰をもつようにするためなのです。望みさえすれば、この信仰をもてます。そして、神の義は、すでにそこにあるのです」と述べています。
しかし、多くの人はまだ神の義を信じておらず、そのため、まだ神の怒りの下におり、永遠に呪われる危険の中にいるのです。
 
<ローマ 1:19>それゆえ、神について知られることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです。
神の義に敵対し、信じていない人々に、「神について知られること」はすでに二つの方法で与えられています。一つは、神がお与えくださったという意識、もう一つは、被造物の自然の黙示です。神は、こうしたものを示されて、ご自分に敵対する者に、ご自分の存在と、ご自分が人々に救済の恵みを与えた愛の神であることを知らせておられます。しかしながら、たいていの者は、知ってはいても、神の愛を最後まで受け入れないため、みな罪のために神から刑罰を受けることになるのです。
 
 
たとえ言い訳しても
 
<ローマ 1:20>神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造されたときからこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。
神の怒りを受けることになる者は、自分は神の存在を知らなかったと言うでしょう。しかしながら、神はすでに被造物を通じてすべての人間にご自分の存在を示しておられます。ですから、神を信じておらず、福音伝道師から神の義の愛を 聞いても信じない人は、罪の言い訳ができません。神は「罪から来る報酬は死」という裁きの掟を適用なさって、罪人を滅びに投げ込まれます。神の愛の律法から逃れる者は誰でも怒りの律法、すなわち裁きの律法により罰されます。
パウロはローマ 1 の後半で、終わりの日に起こることについて、男も女も黙って神の御前に立つと述べています。彼らは神の義を信じなかったことについて弁解したいと思っても、できません。全世界が神の裁きを受けるのです。
私たちは今、神の恵みの時代に生きています。しかしながら、神の怒りは今でも積み重なりつつあります。神の怒りが洪水のように増していくのがわかります。みなさん、この怒りにのみ込まれるまで待っていてはいけません。言い訳をしてはいけません。神の御前では、神の義を信じなかったことについて弁解しようがないことを認め、神の義を頼みとして神の怒りを免れるのです。神の怒りから救われるには、神の義を信じる以外に道はありません。よろしいですか、神の義を知らないみなさんもご自分の義に包まれるようにと、神は水と御霊の福音をくださったのです。
 
 
今日のキリスト教徒にも該当すること
 
<ローマ 1:21>と言うのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。
誰が神の怒りを受けるのでしょう。神に栄光をもたらして神の義となった水と御霊の福音のみことばを信じていないため、神を信じていながら罪から救われていない、キリスト教徒である罪人です。現在、ほとんどのキリスト教徒は罪人です。つまり、神を信じ、イエス・キリストを救い主と信じていながら、神がすべての罪人の咎を贖われたことを告げている水と御霊の福音のみことばを信じていないのです。そうした信仰は間違っています。そうした信仰をもつ人は誰でも、イエスを信じていると言ってはいても、神の義に敵対しているのです。ですから、神はそうした人に怒りを下すとおっしゃっているのです。
今日の人々にも、聖書のこの部分に記されているようなことが起こっています。彼らは神を知っていると言いながら、神の義を知らずにいるため、神に感謝も栄光も捧げず、頭は無益な考えでいっぱいです。全能の神の怒りにさらされている者の恐ろしい状態について、また、そうした人がなぜ神の怒りの下にいるのかをパウロが説明しているのは、そのためです。彼らが神の怒りの対象になっているのは、神の義についての知識を拒んでいるからです。この知識とは、神ご自身が自然とその中のあらゆる被造物によって示されたこと、すなわち、水と御霊の福音によって人間を子どもになさっているということです。
使徒パウロが神の知識を拒んだ場合の恐ろしい結果を示したのは、人類の未来を詳細に描こうとしたのです。人間の心は罪のために暗くなっています。神の義が自然の啓示と聖書のみことばによって示されているのに、それを見ても信じないのは、神の怒りを招くことになります。
では、誰が神に栄光をささげることができるのでしょう。神の義について正しい知識をもっている者は、神に栄光をささげることができます。神が主であられ、聖く全知かつ不変で、愛に満ち、正しいと知っている者だけが神に栄光をささげることができます。
人間は神に栄光を捧げるために存在するのです。しかし、人々は神が支配者であられるということが気に入りません。神の主権が自分たちの独立を否定するので、神を嫌うのです。神が聖いから、嫌うのです。神の聖さは彼らの罪を指し示し、呪います。また、神が全知であられるため、人々は神を嫌います。神の全知を人々は恐れるのです。罪が露になるのを恐れるからです。また、神が不変だから、人々は神を嫌います。神が不変であるということは、その本質が変わることなく常に同じだということです。人間はそうしたことを好みません。そこで、真実を押し隠し、存在を否定します。人間にそうしたところがあるから、神をたたえないのです。これは明らかなことです。
それでも人間は神の義によって神の慈悲を受け、神に栄光をささげるようになるのです。しかし、それは神の義を信じてはじめて可能なことです。
 
 
愚かな人々
 
<ローマ 1:22>彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、
「愚かな者」とは誰でしょう。自分は賢いと思って自信をもち、神のみことばを信じない人です。そうした人は自分が賢いと思っていますから、神の義が何であるか、自分の魂に必要なものは何かということを深く考えません。ですから、神を信じる必要を感じません。神は、そうした人が「滅びうせる獣に等しい」(詩篇 49:20)とおっしゃっています。
みなさんはどうでしょう。神の義を知らないのに、自分はよきキリスト教徒だと思っておられますか。それならば、愚かな考えを改め、神のくださった水と御霊の福音を信じなければなりません。そうすれば、神から知恵と救済を受けます。
罪人は物質的なものを神の代わりにします。ですから愚か者になるのです。愚か者は愚行をします。神を被造物の形にするという愚かなことをします。神のしもべが神の義について説かなければならないのは、そのためです。そうしなければ、人類は神の義を聞くことができず、人々は愚か者として滅ぼされます。しかしながら、神の慈悲は、ご自分の慈悲が愚かな人々にさえ十分に宣べ広められるようにしているのです。
 
<ローマ 1:23>彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。
神の御前で愚かな人々は、神の栄光に与っていなければならないときにサタンや偶像に魂をささげます。ですから、世が滅ぼされる時には世と共に苦しみ、永遠に呪われます。
誰もが神を正しく知り、神に正しく栄光をささげる信仰をもたなければなりません。神の被造物を神として崇める者は、誰であっても愚か者です。
 
 
大勢が神に「私にかまわないでください」と言う
 
<ローマ 1:24>それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにその体をはずかしめるようになりました。それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、
神に呪われる者とは、神の義の真理を裏切り、信じず、拒む者です。そうした人は肉の欲情の欲するままに生きます。神はそうした人たちが罪を犯すに任されます。それは、数多くの罪を重ねて終わりの日に必ず滅ぼされるようになさるためなのです。神は憐れむべき者を憐れまれ、罰するしかない者を罰されるのです。
不敬虔な人々は自身の欲望のままに罪を犯します。肉欲の最たるものは同性愛です。しかし、よろしいですか、そうした罪人には天から神の怒りが下るのです。人間は神の怒りを知らず、「神様、私のことはほうっておいてください。私を支配しようとしないでください。私は自分の生きたいように生きるのです。かまわないでください」と言い張ります。人々は神の義を知りたいとも思いません。それは深刻な罪です。神が彼らを怒りの下にいるままにしておられるのは、そのためです。しかしながら、神はまだ放蕩息子の父親のように、罰されるべきである反抗的な子どもが帰って来るのを待っておられます。彼らがご自分の義を知って戻って来るのを待っておられます。
神の許に戻らなければなりません。私たちの願いもまた、神の許に戻ることです。しかし、問題は、人間の努力ではそれができないということなのです。人間自身の努力は、かえって反対の結果を招き、神から離れ、神に敵対することになるだけなのです。
人間は肉において考え、自分を幸福にしてくれるものを神がすべて奪い去っていると考えます。神の許から去れば自由で幸福になるだろうと思います。しかしながら、遠くに逃げれば逃げるほど幸福感は薄れ、惨めさばかり覚えるのです。自由ではなく、肉のどうしようもない弱さばかりを見ることになります。
ですから、とんでもない考えは捨て、神のみことばにしたがって救済の愛を受けなさい。
神はただ人間を放置しておかれはしません。裁きを下されるのです。しかしながら、まだ神の義への信仰によって裁きを免れることができます。神の義を信じるなら、もはや実際に罪を罰されることはありません。反対に、はるかにすばらしいものを得るのです。
 
<ローマ 1:25> それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。
神は永遠にたたえられるべきお方です。しかしながら、神をたたえるどころか、みこころに逆らい、みこころよりも人間の性を高め、崇める人々がいるのです。同性愛はその最たるものです。それでも、そうした人でも神の義の福音を信じるなら、神の義によって罪が雪のように白く洗われ、神の子どもになれるのです。
 
<ローマ 1:26-27>こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行なうようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。
世界には AIDS のために死につつある人が大勢います。いまこの瞬間にも、多くの人々がはかり知れない苦しみの中にいるのです。他の病気と違って、AIDS 患者は同性愛者に圧倒的に多いのです。神は同性愛者の罪や行いを憎まれます。しかし、人間は弱いので、多くはいまだにそうした罪を犯し続けています。彼らはやがてその身で罪の代償を支払うことになります。それでも、神はその義により、魂にある罪をみな洗い流してくださいます。
たとえ罪に陥っても、神の義が示された水と御霊の福音を信じるなら、すべての罪から救われるのです。神はみなさんの魂を愛しておられます。イエス・キリストがバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられて世の罪を負われたのは、そのためです。主は十字架上で死なれ、死者の中からよみがえられ、そうして救い主となられました。
病と永遠の死の呪いを免れるには、神の義を信じる以外の道はありません。神の義を信じるなら、神の義はその人のものになります。みなさんが神の恵みを受けられることを私は心から願っております。
 
<ローマ 1:28>また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。
神を知ろうとしたがらない人は、どういうことになるでしょう。心が傷つきます。その結果、あらゆる罪を犯してしまいます。そして、そうした罪のために、ついには魂が滅ぼされます。哀れな魂になります。そうした魂がまことに多いのを見ると、心が痛みます。私たちはみな、そうした人々には神の義を含む福音のみことばが絶対に必要だと信じています。それは、そうした人もまた神の義を信じるなら、すべての罪から救われるからです。
 
<ローマ 1:29>彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、
イエスを信じていてもまだ新生していないキリスト教徒には、ここに挙げられたような罪が満ちています。彼らの罪は通常、そうした形で表れますが、その第一は悪い考えをもつことです。神の義を信じていない人は、サタンに心を支配されており、悪い考えから生まれた罪を無数に犯すのです。彼らの心も行いも醜く邪悪です。罪人の心にはあらゆる貪欲と悪を行おうという欲求が満ちています。彼らは陰口を言います。神はそうした人が「悪を行う者の子孫」(イザヤ 1:4)だとおっしゃいました。しかしながら、そうした人もまた、水と御霊の福音を信じて神に戻れば、罪をみな洗い流されるのです。神の義がみなさんすべてに与えられますように。
 
<ローマ 1:30>そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、
これは、神の義に敵対し、神の義を信じていない人々の犯す罪のリストです。罪人の心には御霊は宿らず、罪深い欲求に満ち満ちています。第一に、他人を批判しがちで、他人に対して冷酷です。第二に、神を憎んでいます。神の民を苛み、憎みます。自尊心が高いので、いつでも自分の義を誇っています。第三に、悪を行うことを企みます。そうした人は肉親に逆らい、心配させます。しかしながら、たとえそうした生き方をしてあらゆる罪を犯してきた人であっても、神の義の示された福音を信じるなら、すべての罪から解放され、罪のない義人として、永遠のいのちを受けることができるのです。ですから、そうした人もまた、イエスを救い主と信じなければなりません。信じたなら、イエスは救い主として、その人に罪の赦しの恵みをお与えになり、天の栄光に包んでおやりになります。
 
<ローマ 1:31>わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。
罪人の心は盲いていますから、自分の力で真理を見出すことができません。彼らは約束を破ります。してはいけない残酷なことをします。自分の利益が脅かされると見ると、自己の利益を守るために残酷な手段をとります。そうした罪のために死に臨み、地獄に投げ込まれるのです。
しかしながら、神はそのような人間にも水と御霊の福音、救済の恵みをお与えになり、救われる機会をお与えになったのです。主に感謝いたします。
 
<ローマ 1;32>彼らは、そのようなことを行えば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行っているばかりではなく、それを行う者に心から同意しているのです。
罪のある者は地獄に送られるということは誰もが認識しています。しかし、罪人は罪を犯すだけではなく、同じ罪を犯すよう、仲間の罪人をそそのかしもします。悪を行う者の子孫だから、そういうことをするのです。ですから罪の罰を免れません。しかしながら、自分が悪を行う者の種であることを神の前で認め、神の義の救済に戻り、信じるなら、そうした者もまたすべての罪を贖われるのです。
主は「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ 11:28)と約束なさいました。主のこのみことばを信じ、神の義、福音のみことばを信じる信仰に戻りなさい。人間はみな悪を行う者の子孫ですが、イエス・キリストの義を信じるなら、みな罪から救われるのです。