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Sermoni

主題 9: 使徒パウロのローマ人への手紙

[Chapter 2-4] 結束して神に敵対する人々に(ローマ 2:1-29)

(ローマ 2:1-29)
ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行っているからです。私たちは、そのようなことを行っている人々に下る神のさばきが正しいことを知っています。そのようなことをしている人々をさばきながら、自分で同じことをしている人々よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。神は、ひとりひとりに、その行いに従って報いをお与えになります。忍耐を持って善を行い、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。艱難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行うすべての者の上に下り、栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行うすべての者の上にあります。神にはえこひいきなどはないからです。律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はすべて、律法によってさばかれます。それは、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行う者が正しいと認められるからです。────律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行いをする場合は、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。彼らはこのようにして、律法の命じる行いが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また弁明しあったりしています。────私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行われるのです。もし、あなたが自分をユダヤ人ととなえ、律法を持つことに安んじ、神を誇り、みこころを知り、なすべきことが何であるかを律法に教えられてわきまえ、また、知識と真理の具体的な形として律法を持っているため、盲人の案内人、闇の中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自任しているのなら、どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌みきらいながら、自分は神殿のものをかすめるのですか。律法を誇りとしているあなたが、どうして律法に違反して、神を侮るのですか。これは、「神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中でけがされている」と書いてあるとおりです。もし律法を守るなら、割礼には価値があります。しかし、もしあなたが律法にそむいているなら、あなたの割礼は、無割礼になったのです。もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、割礼を受けていなくとも、割礼を受けている者とみなされないでしょうか。また、体に割礼を受けていないで律法を守る者が、律法の文字と割礼がありながら律法にそむいているあなたを、さばくことにならないでしょうか。外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。
  
 
<ローマ 2:1>ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行っているからです。
使徒パウロはユダヤ人の中にいる律法主義者にこのように告げました。神の御前で他人を裁く者は、自分の罪に縛られています。自身が罪の赦しを受けていないからです。そうした人は、罪を犯さないことで義人になろうとします。そうした人の心は罪に縛られていますから、まるで神の代理人ででもあるかのように他の罪人を裁き、呪います。
使徒パウロはそうした人々に、神の義に照らすなら、罪人が他の罪人を裁くのは自分の罪を自分で裁くようなものだと言っているのです。自分が同じ罪を犯していて、どうして他人を裁くことができるでしょう。罪人は自分にも罪があるから他人を裁くのです。それは自分を罪深い者と裁くのに等しいことです。神の義を知らない罪人には、他人の罪を裁く資格はありません。他人の罪はすなわち自分の罪でもあるからです。ですから、罪人はみな神の義を信じなければなりません。
それなのに、イエスを信じていながら新生していない今日のキリスト教徒は、結束して神に敵対しています。今日のキリスト教社会にはそうした人が大勢います。そして、会衆に向かって、イエスは世の罪を消して義人にしてくださったけれど、人間の心には、やはりまだ罪があるのだと教えます。ですから、彼らは神の義に敵対しているだけではなく、多くの人に神の真の愛を拒ませてもいるのです。それに対して、新たに生まれた者は神の義を信じ、従っています。
教派が人を天国に送るのではありません。誰かを天国に送っている教派を見たことがありますか。各人が神の義を信じると、罪から救われ、天の御国に入るのです。罪人が天国に入る資格は、イエスがバプテスマと血によってすべての人の罪を贖ってくださったと信じて、つまり、神の義を信じて得られるのです。神の義の明かされた福音は、すべての人に等しく示されています。神は、人がご自分の義を信じているかどうかをご覧になります。ですから、イエスがバプテスマと血とによってこの世の罪をみな解決してくださったことを誰もが信じなければなりません。
ローマ書の第 2 章は神の義を無視している人々に向けられています。律法主義者は、自分がとても立派に神に栄光を捧げていると信じています。そうした人は、律法主義的信仰において自分の行いを信仰の基としており、また、他人を裁きがちです。今日でも、キリスト教徒でありながら神の義を知らないでいる人は、そういうふうなのです。
律法主義者は神の義には何の興味もありません。しかしながら、何よりも自分の行いを重んじる律法主義的信仰では、神の義を得ることはできません。律法主義的信仰は神の義に敵対するだけではなく、神の義の前で人間の義を捨てることも拒みます。ですから、そうした人は神の怒りの下にいるのです。この世には、律法主義的信仰をもって神の義に敵対している指導者が大勢います。そうした人は神の義を知りませんから、会衆に律法の行いをするようにと教え、促すことしかしません。たとえば、神の義を知らず、律法主義的信仰を行う人は、「日曜には絶対に売り買いをしてはいけない」と教え、自分でもそう信じています。しかし、指導者自身は自分の教えどおりの行いをしません。
ユダヤの人々はそういうふうでした。彼らは律法に基づいて外国人の信仰や行いを裁きました。神を知らずに偶像を拝む者だといって、外国人を犬よばわりしました。それでいて、彼ら自身もまた、外国人同様に律法を破っていたのです。それなのに、神の義を受け入れませんでした。そうしたユダヤ人が外国人を律法で裁いていたのです。今日、イエス・キリストを救い主と信じていても、神の義、つまり、イエス・キリストが受けられたバプテスマと十字架上で流された血を信じないなら、そうした人は、あのユダヤ人と同じなのです。
 
<ローマ2:2>私たちは、そのようなことを行っている人々に下る神のさばきが正しいことを知っています。
罪人は他人の罪を裁く立場にあろうとしますが、自分にも罪があるのですから、ついに神の正しい裁きを免れることができません。ですから、罪人は誰も律法教師になってはいけないのです。罪人はみな神の義を知り、信じなければなりません。そうして神から罪の赦しを受け、その義を広めなければならないのです。罪人には必ず神の正しい裁きが下ります。
 
<ローマ 2:3>そのようなことをしている人々をさばきながら、自分で同じことをしている人々よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。
罪人は世のあらゆる宗教の信者の中にも、またキリスト教徒の中にもいます。また、どの宗教にも、他人に教え、裁く立場についている罪人がいるのです。つまり、罪人の中には他人を裁く律法教師が大勢いるのです。昔のユダヤ人の中には律法教師になった人が大勢いましたが、彼らは神の正しい裁きを免れませんでした。罪人の中にも彼らのように他人の行いを裁く人が大勢います。しかしながら、神は律法の教師たちに正しい裁きを下すとおっしゃっています。ですから、彼らは恐ろしい裁きを免れません。
 
 

神の慈愛は神の義

 
<ローマ 2:4>「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。」
神の義の福音の力を知り、信じている人は、神の慈愛と義の豊かな恵み、罪の赦しを受けています。それに対して、神の義を知らないで律法主義的信仰をもつ人は、自分なりの義を打ち立て、神の愛を嫌っています。
この世の罪の中でも、神の義を嫌う罪は直接神に敵対する悪魔的な罪です。ですから、イエスのバプテスマと血という形で示された神の義と慈愛を嫌う者には神の恐ろしい怒りが下ることを知っておかなければなりません。
神の義とは、イエスのバプテスマと十字架上で流された血とによってこの世の罪全部を消したことを告げる福音をいいます。誰もが必ず神の義を知り、信じていなければなりません。神の義を知らなければ、イエスを正しく信じることができません。イエスを救い主と信じていても無益です。ところが今日、神の義の示された福音のことを知って神を崇めている人は、ほんの少数なのです。
世の人々は神を宇宙で最も偉大な、あるいは最も高潔な人とだけ考えがちです。しかし、神が善であることを知らなければなりません。自然もまた神の善意を示しています。私たちの周囲の世界は神のまことの善意を示しています。すばらしい空気を呼吸し、自然を見る一瞬一瞬に、自分たちの生がどれほど神の善意に支えられているものかを感じます。家を建て、服を縫い、作物を植えるために自然の資源を使うたびに、神はほんとうに善意をもっていてくださるとわかります。
神の義と善意は水と御霊の福音だけではなく、私たちの生の中にも示されています。しかしながら、神の義は自然の中には示されていません。神の義は人類の数多くの違反の中に真理として示されているのです。神の義を知り、信じているかどうかが、神の善意を嫌うかどうかの決め手になります。
福音に明かされた神の義はあまりに偉大です。ですから、パウロが言ったように、神の御前で頑なであってはなりません。神の義が信じる者すべてに罪からの自由と安らぎをもたらすからです。
 
 

神の忍耐は神の義

 
第4句で、神の義は神の忍耐とされています。イエスを信じていると言いながら、神の義を理解もしていない人がいるのは、おかしなことです。神の善意とは、人間の罪をしばらくがまんしてくださるという意味だと誤解しているのです。しかしながら、神の義は罪を許容せず、水と御霊の福音によって人類の罪を消し去ったのです。
みなさんがまだ罪の赦しを受けられるのは、神の義がこの世界で宣べ広められているからです。神は全世界にご自分の義を広めるために、罪人の受けるべき罰をまだ下さずにおられます。今はまだ、神の義の明かされた水と御霊の福音がこの世界で広められている途中だからです。神の義のことを知り、あるいは見出したのなら、古い信仰は捨て、新たな信仰をもたなければなりません。
神の義を信じると、神の忍耐強さがわかります。では、神の忍耐とは何でしょう。神の忍耐とは、罪人にご自分の義をお与えになり、信仰により罪から救われるよう、お召しになっていることです。
神には三つの特性があります。第一は、神がその義を示して罪人をお救いになる「慈愛」です。第二は寛容、そして第三は、罪を裁くことを急がない忍耐です。この三つの特性を神の義の内で定義しますと、第一は、人類の罪を贖われる恵みである「神の義」、第二は、人類の罪への忍耐、第三は、ご自分の賜物がすべての人に広まるのを待つ寛容です。
ここで「寛容」とは、神が人類の罪の贖いのために長い間我慢なさっていることをいいます。神が今日まで世のことを我慢しておられるのは、驚くべきことではありませんか。今日、世の人々は神を恐れず、すすんで罪を犯しています。神の律法は踏みにじられ、御名さえも毎日のように冒瀆されています。それなのに、神はご自分を侮辱する者たちをただちに罰してはおられません。それは、ご自分の義の福音をこの世にお与えになっておられたからです。
神の義の福音はまことに驚くべきものです。信心家はキリストの聖なる御名のもとにあらゆる罪を犯しています。神はなぜ彼らを放置しておられるのでしょう。なぜ正しい怒りを天から下し、そうした言語道断な人々を処罰なさらないのでしょう。理由はただ一つです。それは、ご自分の義を世のすべての人に示され、罪をみな消し去ろうと決めておられるからです。
 
 
福音に示された神の義を信じなさい
 
誰にも二つの道があります。一つは救済の道で、その道を行くと、福音に示された神の義を信じて罪から救われます。もう一つの道は神の慈愛を踏みにじる反抗の道です。
どちらの道を行かれますか。神の義の福音を信じて罪からの救済に至る道を選びますか、それとも反抗の道を選びますか。神に逆らうことはできます。自分なりの義を立て、神の義に敵対することもできます。しかし、なぜそういうことをしなければならないのでしょう。神の義を認めることを拒むのは、罪の赦しを受けたくないからです。では、なぜ神の義を信じないのでしょう。自分なりの義を立てたいからです。
神は善です。神は人類を創られました。神は義の福音のために贖いをなさり、人類にくださったお方です。神の義を知って信じるなら、すべての罪から救われます。
 
 
神の積み上げた怒りからの救い
 
<ローマ 2:5>「ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。」
神の義は次のように明かされました。神の御子イエス・キリストが受肉してこの世に来られ、三十歳の時にバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられて世の罪を被られ、十字架上で死なれ、死者の中からよみがえられ、そうして人類の罪をみな消され、ただ一度でお救いくださいました。第5句では、神の義が示されているというのに、悔い改めることをしないで、信じることを頑なに拒む者は、実のところ、神の正しい裁きが下される日に注がれる怒りをためているのです。罪人はイエスを救い主と信じていても、神の怒りにさらされます。神の義を信じることを頑なに拒むからです。
ヨハネ I 5:3-7 では、イエスが「水と血によって来られた」としています。ですから、イエスがなぜ水と血によってこの世に来られたかを知り、信じなければなりません。つまり、イエスがバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられ、十字架上で血を流された理由を知り、信じていなければならないのです。神の義について語られていることを正しく知っている必要があります。
神の義を信じれば、誰もが罪から解放されるのです。それなのに罪人のままでいるキリスト教徒は、自身の不完全さから犯した罪のために自らを苦しめているのです。神の義を知らない者は罪のために自らを呪い、罪に縛られています。自分の力で罪の問題を解決しようとして断食・苦行・奉仕、あるいは慈善事業に献身するといった努力をします。イエスを信じていながら、心で罪を犯すキリスト教徒がまことに大勢います。そうした人はぜひとも、イエスのくださった水と御霊のみことばを信じなければなりません。そして、まず罪から救われるのです。聖書にある水と御霊の福音とはどのようなものかを正確に知っていなければなりません。
祭司が幕屋でいけにえを捧げた時には、青銅の洗盤で手足を洗わなければなりませんでした。洗盤で手足を洗うことなく神に近づけば、殺されたでしょう。ですから、青銅の洗盤は祭司たちにとって極めて重要だったのです。祭司たちは洗盤で穢れを洗い流したのですから。今日の人々もまた、イエスを信じる際には神の義を含む福音を知ったうえで信じなければなりません。イエスは、バプテスマのヨハネから受けられたバプテスマによってすべての人の世の罪を洗い流すという、神のみこころに従いました。イエスは世の罪を十字架まで運ばれました。聖書で神の義を示すために必要だった二つの要素とは、イエスのバプテスマと十字架上の血でした。
 
 
世の罪に打ち勝つ真理の福音
 
ヨハネ I 5:5-6 には次のようにあります。
世に勝つ者とは誰でしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。このイエス・キリストは、水と血とによって来られた方です。
イエス・キリストが神の御子だと信じておられますか。イエスは受肉してこの世に来られました。イエスはヨハネからバプテスマを受けられ、ローマの兵士の手で十字架につけられ、そうしてすべての罪人の救い主になられました。イエスは水と血によって罪人の所に来られました。ただ血によってだけでなく、水と血とによって来られたのです。イエスは罪人を罪からお救いになるために受肉してこの世に来られました。バプテスマのヨハネからバプテスマを受けられ、すべての罪人の罪全部をその身に被られました。
イエスはなぜバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられたのでしょう。世の罪人の罪全部を移してもらうためにバプテスマを受けられたのです。イエスはバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられたために十字架につけられ、血を流して死ななければならなかったのです。イエスは人類の罪を被られたので、十字架上で血を流して死なれ、罪の裁きを終わらせられたのです。イエスは人類の罪全部を被られ、犠牲となられて人間の罪のためのなだめの供え物となられました。
イエスのバプテスマと十字架上の血とによって人類救済は完了しました。神はこのようにして、イエスを主と信じる者みなを世の罪全部から救われました。イエスはただ十字架の血だけで救ってくださったのではありません。イエスはバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられ、世の罪を負われた後で十字架につけられたのです。イエスが受けられたバプテスマと十字架上で流された血とがこの世の罪をすべて消し、信じる者みなに罪の赦しをもたらしのたです。ですから、世の罪をみな洗い流したイエスのバプテスマと十字架上で流された血との両方を信じなければなりません。
これが、神から来て人類をすべての罪から救う真理の道なのです。聖書は、神が人間をすべての罪から救われたことには三つのあかしがあるとしてます。
あかしするものが三つあります。御霊と水と血です。この三つが一つとなるのです。もし、私たちが人間のあかしを受け入れるなら、神のあかしはそれにまさるものです。御子についてあかしされたことが神のあかしだからです。(ヨハネ I 5:7-9)
ですから、イエスの十字架の血だけを信じているなら、その人はけっして「私には罪がありません」と言えません。地に縛られているのは天に縛られているのであり、地で放たれた者は天でも放たれるのです。ヘブル書で神は「二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです」(ヘブル 9:28)とおっしゃいました。これは、ご自分を待ち望む聖徒の前に顕現なさるという意味です。ここで「聖徒」というのは、罪のない聖い人、御霊を内に宿している人をいいます。父なる神は御霊と共におられ、聖徒に御霊の宿るのをお許しになります。
イエスがこの世でバプテスマを受けられ、血を流されたとき、天国の門が開きました(マタイ 3:16)。人々はイエスが世の罪を消すみわざをすべて終えられたことを知らないため、その人たちの心の中の天国の門は、まだ閉じています。父なる神は御子の受けられたバプテスマと十字架上で流された血とによって罪人を罪から救われました。イエスのバプテスマと血、そして御霊の福音を信じなければなりません。なぜでしょう。その三つが神の義を成しているからです。神の義の福音を信じるなら、その人もまた神の子どもになります。
 
 
神の正しい怒り
 
神の義は人間の罪をみな雪のように白く洗い流しました。しかしながら、神の義を信じない者はみな裁きを受け、処罰されるのです。神がほんとうに正しいお方だということを考えるだけで、恐ろしさに震えます。神は全世界に裁きを下されます。神の正しい怒りの裁きを免れる唯一の道は、水と御霊によって人類の罪をみな贖ったという福音を信じることだけです。神は、ご自分を軽んじてその義に従わない者には怒りを下すことを明らかにしておられます。ですから、すべての人間は神の義の福音を求め、見出さなければなりません。そして信じなければなりません。神の義の福音は最も忠実な福音だからです。
 
 
恐ろしい怒りから
 
罪人はどこに罪からの救いを見出すのでしょう。誰もが神の怒りを受ける定めにあるのなら、罪の量に応じた怒りが注がれるなら、また、生涯に犯した罪が神の怒りという形で明らかになるのなら、生涯罪を犯すしかない人間が、どうして神の怒りを免れることができるでしょう。唯一の道は、キリストのバプテスマと、キリストが神の怒りをすべて受けられた十字架上の血とへの信仰です。それが神の義です。神の義を信じないで、どうして神の怒りを免れるでしょう。罪人はけっして神の怒りを免れません。神の義を信じないことは、自分に下ることになる神の恐ろしい怒りを積み重ねることになるのです。罪人はみな神の義を信じ、すべての罪から救われなければなりません。すると、神の義がその人の義になります。罪人を神の恐ろしい怒りから救うものは神の義です。
 
 
神の義を信じれば永遠のいのちが得られる
 
<ローマ 2:6>神は、ひとりひとりに、その行いに従って報いをお与えになります。
神は慈悲深いのですが、また、罪人には厳しいのです。律法主義的生き方をしている人は神の義を信じず、敵対しています。神はそうした人の罪を罰されます。そうした罪は神に真っ向から対立する罪です。しかしながら、人々は神の義を信じないことがどれほど深刻な罪であるかに気づかず、神の御前で律法主義的信仰をもち続けているのです。神はその信仰に応じて人を裁かれます。罪人はみな、罪のために裁かれるということを知らなければなりません。例外はありません。
聖書は、すべての人の前には道が二つあるとしています。一つは神の義を信じて罪の赦しと永遠のいのちを受ける道、もう一つは、人間の義で神の義に敵対し、神に呪われる道です。この第 7 句にある「忍耐を持って善を行な」う者とは、罪がみな神の義により贖われたと信じている者です。神は人間がご自分の善意を信じるのをよしとなさいます。他方、人間がご自分の義を信じないのを悪とみなされます。みなさんはどちらに属しておられるでしょう。神の義が救ってくれたと信じておられますか。そうでなければ、人間の義を立てようとして神の義に敵対する道におられるのです。
選択は自由です。二つの道のどちらを選びますか。神の義を信じる道か、それに敵対するか、どちらの道を選ぶかによって、永遠のいのちの恵みを受けるか永遠に呪われるかが決まるのです。聖書には「善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえってさばきを受けるのです」(ヨハネ 5:29)とあります。
神の義に敵対する道に立っていながら、いつかはその道が、誰もが入りたいと願っている天の御国へと通じるはずだと考えている人がおられるかもしれません。しかしながら、そういうことにはならないのです。そうした信仰をもつ人は神の義への信仰をもてません。この世で自分の美徳を追い求め、神の義を拒む道がそれなりの幸福や満足・救済をもたらすだろうと思っていても、天国にはけっして足を踏み入れられません。よろしいですか、人間の義を立てて誤った道を歩んでいるなら、その道の終わりには滅びがあるのです。
奇妙なことに、間違った道にいることを認めていながら、諦めて正しい道に戻るよりも、そのうちわき道に入ればなんとか目的地に着くだろうという、むなしい望みをもっている人がいるのです。現実の世界では時にそうしたことがあります。しかし、霊敵領域では、そうしたことは起こり得ません。自分の美徳だけを追い求める人間の義は、常に神の義からますます遠ざかるだけなのです。ローマ書はこのことを語っているのです。
神の義は行いではなく、信仰によってのみ得られます。「悔い改め」はギリシャ語では「metanoia」ですが、これは自分の考えを変える、ひいては自分の信仰を変えるという意味です。真の悔い改めは文字通りには「向きを変える」という意味です。正しい悔い改めとは、積み上げてきた人間の徳を捨て、代わりに神の義を信じることです。積み上げてきた人間の徳を捨て、神の義を追い求めることが、すべての人に絶対必要なのです。
神の完全なみこころは、ご自分の義をお与えになって人間を子どもになさることです。信仰は神の義に同意するところから始まります。神の義を見出し、信じた瞬間、その人はすでにイエスを救い主と信じる者となっているのです。ですから、信仰とはイエスのバプテスマと血とを信じることなのです。イエスはそうした人を神の義で包まれ、常に共におられます。神の義について知れば知るほど、罪がみなすでに消されていることがわかり、怒りの裁きではなく、神の栄光に満たされるのです。それが神の義を信じる正しい信仰です。
 
<ローマ 2:7>忍耐を持って善を行い、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え
キリスト教徒は神の義を信じるため、すべての苦難を耐え忍ぶことができます。神の義を信じて、はじめて天の御国の賜物を受けます。この世にいる間に神の義の福音を信じるかどうかによって、神からすべての恵みを受けるかどうかが決まります。
イエスを信じる者として、神の義の福音を知り、信じているなら、ローマ 2:7 に記されている恵みはその人のものです。しかしながら、神の義を含む福音を信じない人は、永遠に呪われます。神は、ご自分の義を信じて福音を広める者に栄光と誉れ・不死というすばらしい恵みをお与えになります。ですから、神からあらゆる恵みを受けたいのなら、神の義が明かされた水と御霊の福音のみことばを心の板に刻まなければなりません。誰もがこの真の福音を信じなければなりません。神の義を信じるなら、神の恵みを受けられます。
 
<ローマ 2:8>党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。
神は、イエスを信じているというキリスト教徒の中で、利己的に結束し、神の義の福音を信じないで敵対するような者に怒りと憤りを下すとおっしゃいます。今日のキリスト教において、イエスを信じていると称する人々が結束して、神の義を伝える福音の真理を信じないで、敵対しています。そうした人は神の義を信じていません。イエスが明かされた神の義よりも、自分の教派の高潔な先人のほうを重視しているからです。ですから、神の義に敵対するようになるのです。そうした信者や、そのような教派に属している人々は、神に対して深刻な罪を犯しています。彼らは地獄の罰を免れません。神はこのことをおっしゃっているのです。
 
<ローマ 2:9>患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行うすべての者の上に下り
神の目から見た場合、人間の邪悪さとは何でしょう。神の御前で人間の最も深刻な悪とは、神の義を信じないことです。神の義の中で人間の罪の赦し、すなわち神の愛が成就されたからです。神の義のおかげで人間は今、神とともに永遠に生きられます。つまり、神はその義の内で、人類にあらゆる恵みをくださるのです。この神の義を信じないのは、悪の最たるものです。
使徒パウロは、ユダヤ人は神の義を成すイエスのバプテスマと血とが罪の赦しだと信じなかったために患難と苦しみを受けると述べました。世のすべての外国人もまた、神の義を信じなければ、ユダヤ人と同様に神の怒りを受けるのです。これからはユダヤ人も外国人も、誰もが神の義の福音のみことばを信じ、恐ろしい怒りを免れなければなりません。
 
<ローマ 2:10>栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行うすべての者の上にあります。
「善を行うすべての者」というのは神の御前ではどういう意味でしょう。神の義の福音を信じる以上の善はありません。なぜでしょう。神の義を信じることは、神がその愛情からくださった罪の赦しを信じるということだからです。神の義の福音を信じる者はみな神の子どもになり、栄光と誉、天の御国で暮らす平安を得るのです。みなさんもまた神の義を信じ、栄光・誉・永遠のいのちを受けなければなりません。
 
<ローマ 2:11>神にはえこひいきなどはないからです。
神は人間の心底をご覧になります。みなさんは心に神の義のみことばをもっておられますか。それなら、神の義の愛に包まれておられます。しかしながら、神の義を示す福音を信じておられないなら、たとえ教会に通い、神を信じているといっても、神に憎まれます。つまり、イエスのバプテスマと血によって成就された罪の赦しを知っていながら信じないでいると、当然、神に憎まれるのです。神はえこひいきも、外見で人を判断することも、なさいません。誰もが神の義を信じなければなりません。
頭の中で罪を犯す者
 
<ローマ 2:12>律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はすべて、律法によってさばかれます。
神の御前で死ぬ者は、神の義を信じないから滅ぼされるのです。どんなにがんばったところで、誰も神から心を隠すことはできません。神の律法だけを知り、それを守ることに専念し、神の義に何の興味ももたず、信じないでいたなら、その人は神の義を信じないという罪のため、永遠に神の怒りの下に置かれます。
たとえ神の律法のみことばを知らずに生きていたとしても、神の義に興味をもたず、信じもしないのなら、その人もまた神の怒りの裁きを受けることになります。神の義の愛を受け入れず、自分の義を立てようとばかりする人の信仰を神は無慈悲に破壊され、踏み砕かれます。
人間は社会で悪いことをすれば、その社会の規範に照らして裁かれます。たとえば、成文法は確固とした社会規範の典型です。判事は社会の法に照らして裁きます。法廷で証人には真実を、真実だけを語ることが求められます。しかしながら、人間の裁きはせいぜい部分的な真実に基づいて行われます。もし証人が偽証すれば、真実にそぐわない、間違った判決が下されます。この点、神の裁きは人間の裁きとは比べ物にならないほど優れています。神の正しい裁きは神の義に基づいた十分な知識と完全な真実によって下されます。誰一人、神の義の前では嘘をつけません。
律法をもたない外国人は、良心に照らして自身の罪を知ります。ユダヤ人とは違う論法で自己を弁護しようとします。外国人は律法を与えられていませんし、ユダヤ人を罰する神の裁きに賛同さえするのです。神は律法を通じてユダヤ人に、どう生きるべきかをお教えになりましたが、ユダヤ人はみことばに従いませんでした。さらに悪いことには、実際、みことばに関して偽善的な態度をとったのです。ユダヤ人は律法の下で罪を犯しました。
しかし、外国人には神の律法がありませんでした。では、外国人はどうして律法により罰されるのでしょう。どうして罪を犯したと責められるのでしょう。パウロは、「律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はすべて、律法によってさばかれます」(第12句)と述べました。神はすべての人間の心にご自分の代理としての機能をお与えになりました。ですから、神の律法がなくとも、良心が神の律法の役割を果たすのです。
パウロは人間の良心について、次のように述べています。第一に、外国人は神がユダヤ人にお与えになった律法をもたない。しかし、それでも彼らの心には律法が記されている。第二に、外国人は良心をもつため、その良心が律法に従うように告げ、従わない時は、彼らを責める。
これはまことに重要です。これは、神を信じているかどうかにかかわらず、すべての人が神の律法の下にいるということです。ですから、この世には神がいないとか、自分は律法を知らないとか主張できる人は、一人もいないのです。
 
<ローマ 2:13>それは、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行う者が正しいと認められるからです。
これは、人間は神の律法を守っても義人にはなれないということです。神は人間の魂の救済のために、律法とは別にご自分の義をくださいました。この神の義は、水と御霊の福音のみことばの中にあります。
イエスはヨハネからバプテスマを受けられて世の罪をすべて受け取られ、十字架上で死なれ、死者の中からよみがえられ、そうして神の義をすべて成就なさいました。イエスは信じる者を罪からお救いになるためにバプテスマをお受けになり、十字架上で死なれたのです。これが神の義であり、愛です。これを信じると、罪のない者になります。律法を守り、実践したからといって、罪の赦しは受けられません。神の義を信じて、はじめて受けられるのです。
 
<ローマ 2:4>律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行いをする場合は、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。
世の中には、神に何の興味ももたず、知ろうともせず、自分の心だけを頼みにしている人間が多すぎます。しかし、聖書のここでは、神の律法を知らない、受けていないと言える人間が一人もいないことを明らかにしています。神は人間に良心をお与えになり、それによって善と悪とを見分けることができるようになさったのです。「私は外国人だから。それに、神の律法を受け取っていないのだから、罪が何であるか知らなかった。だから、イエスを信じるチャンスをもう一度くれてもいいのではないか」とおっしゃる方がおられるでしょう。しかしながら、たとえ神の律法を知らないと言っても、良心が律法の役割を担っていたのは明らかなのです。ですから、神に抗議して、罪の赦しを受ける機会をもう一度くれと要求することはできません。
 
<ローマ 2:15>彼らはこのようにして、律法の命じる行いが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。
神が人間にお与えになった律法が罪や善悪を見分ける基準なのです。そして個々人の良心もまた、その基準となっているのです。人間の良心は何が良くて何が悪いかを明らかにします。もちろん、それは善悪の完全な指標ではありません。神の律法を知らない人々が神の正しい裁きを受けることになった時に、自分は罪を犯していないのだから、裁きは間違っていると主張することはできません。神の義となった水と御霊の福音のみことばを誰もが信じなければなりません。
 
 
神の義によって恥のない者となった
 
<ローマ 2:16>私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠されたことをさばかれる日に、行なわれるのです。
罪人はみな神の怒りにより罰されます。神の義を成すイエス・キリストのバプテスマと十字架上の血によって来た罪の赦しが実際は神の愛であることを信じないからです。父なる神は、キリスト教徒も非キリスト教徒も、神の義を信じているかどうか、心に罪があるかどうかを基準として注意深く裁かれます。
今でも、神はご自分の義の福音に基づいて報酬と罰をお与えになります。ヘブル書の著者は「創られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが神であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです」(ヘブル 4:13)と述べました。神は人間の心にあることを何もかもご覧になり、ご自分の義に基づいて裁かれます。つまり、問題は、心に神の義があるかどうか、ほんとうに神の義を信じているかどうかなのです。神の義を信じる者は報われますが、信じない者には罰が下ります。
使徒パウロは神の義を「私の福音」と呼びました。まことにそのとおりです。神の義を信じる者は誰でも、まことに福音のみことば、神の義そのものを心にもっているのです。だからパウロは神の義を「私の福音」と呼んだのです。この福音を自分のものとして心にもたない人は、神の義の福音を信じていません。
神は、人がほんとうにご自分の福音を信じているかどうかをご存じで、それを覚えておられます。終わりの日が来ると、すべてが掘り起こされ、掘り起こされたことに応じて裁かれます。それが、パウロが 第 16 句で述べている「神が・・・・・・人々の隠されたことをさばかれる」日なのです。
アダムとイブには恥じるべきことが何もありませんでした。堕落以前、二人には罪がなく、神に対して何の隠し事もありませんでした。二人は神がエデンの園にやって来られたときはいつでも喜び、自由に神とお話ししました。ところが、堕落後の人間には、もうそれができなくなりました。罪があったためです。人間には罪があったために神から隠れました。堕落後のアダムとイブが、神が探しに来られると隠れたように、人間は罪があると神から隠れようとするのです。しかしながら、神の義がこの世で成就すると、人間はもはや罪のせいで神から隠れる必要がありません。
アダムが罪を知る前、二人は神の前で恥じることがなかっただけではなく、互いに対しても恥じることがなく、嘘をつくこともありませんでした。二人は後に罪の責任を互いのせいにしようとしますが、最初は、嘘をついて相手を非難することなどありませんでした。また、互いを傷つけることもありませんでした。ですから、互いに隠すべきことは何もなかったのです。
それに対して、今日、人間関係において完全にオープンであるということは不可能です。たとえ伴侶や親しい友であっても、誰もが何かしら他人から隠すことがあるのです。それは、みな自分を恥じる気持ちがあるからです。そして、自分の欠点が明らかになったら、もう愛し、尊敬してもらえなくなると恐れているからなのです。しかし、ひとたび神の義がこの世に来たなら、もはや神の前で罪のことを恐れる必要はありません。水と御霊の福音があるからです。
 
 
神は義の衣を作ってお与えくださった
 
アダムとイブのイチジクの葉の衣には、どういう意味があったのでしょう。あれは人間の善を意味します。人間の善は、せいぜい数日しか続きませんが、神の義は永遠です。ですから、人間は自分たちの義よりも神の義のほうを求めるのです。
誰もが必ず神の義を信じていなければなりません。罪の裁きは誰も免れることができません。罪の裁きは不可避であり、そのことは、はっきりと示されています。人間の心は毎日生きているうちに汚れます。誰もがそのことを否定したいと思うのですが、心を欺くことができません。人間は自分なりの善で罪を覆い隠そうとします。計算した振る舞いで他人の目から隠そうとします。そうした行為は、人間の義に比べると神の義がはるかにすぐれているということを証明するだけです。しかしながら、神の義の福音は、神が必ず人間の罪を裁かれることを告げています。神は無償で罪を許容なさったり、あるいは赦したりはなさいません。神はイエス・キリストの内で罪を罰されたのです。
イエス・キリストはヨルダン川でバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられ、十字架につけられて神の義をすべて成就なさいました(マタイ 3:13-17; ヨハネ 19:28-30)。イエス・キリストのバプテスマと血、そして神の義がすでに人類の罪の罰を解決しているのです。今、神の義を信じなければなりません。そして、神の義の衣を着るのです。神がすべての奥義を明らかになさって裁く日まで待ってはいけません。今、神の義を信じ、罪の赦しを受けるのです。
 
 
自らユダヤ人ととなえる者
 
<ローマ 2:17>もしあなたが自分をユダヤ人ととなえ、律法を持つことに安んじ、神を誇り、
ユダヤ人とキリスト教徒は神だけを信じていることに誇りをもっています。また、いずれも律法にしたがって生き、律法への信仰をよりどころとするのが正しいことだと考えています。しかしながら、神は、ご自分の義を信じないで罪人のままでいる者は、みな罪のために怒りの裁きを受けるとおっしゃいました。
ですから、イエスを救い主と信じていると言っていても、誇るべきことは何もないのです。つまり、たとえイエスを信じていると言っていても、神の義を知らないでいるなら、誇るべきことは何もないのです。しかし、神の義を正しく知ったうえでイエスを信じているのなら、神の御前で信仰を誇ることができます。神の義を知り、信じる信仰が、誇れる信仰なのです。そうした信仰をもつなら、つまり、神の義を知り、信じているなら、その人には神の御前で神の義を誇る資格があります。それに対して、もし神の義を信じていないのなら、自分なりの義しか誇るものがありません。神の御前で自分の義を誇る者は、自分の義のために苦しみます。
パウロの時代、神の義に敵対していたのはユダヤ人でした。ですからパウロはここで「もしあなたが自分をユダヤ人ととなえ」と語り始めているのです。これは今日でいえば、熱烈なキリスト教徒、熱心なカトリック、それに、その他の様々な宗教における「狂信者」でしょう。
ここで、神の義を信じていない人がどういうことを考えているか、想像してみましょう。ユダヤ人が外国人の倫理を批判しているのを聞いたパウロは激しく非難しました。つまり、パウロはユダヤ人に、外国人と同じように神の義を信じるようにと告げているのです。
ユダヤ人は結局のところ、みな神を信じているのです。それなのに、なぜパウロは彼らに神の義を信じろと言ったのでしょう。神はご自分の義を知らない信心家ではなく、真の信仰をもつ義人をお求めだったからです。神の御前では、神の義への信仰があるかどうかが、形だけキリスト教徒になっているかどうかよりもはるかに重要なのです。
  
 
心の割礼こそ割礼です
 
もし律法を守るなら、割礼には価値があります。しかし、もしあなたが律法にそむいているなら、あなたの割礼は、無割礼になったのです。もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、割礼を受けていなくとも、割礼を受けている者とみなされないでしょうか。また、体に割礼を受けていないで律法を守る者が、律法の文字と割礼がありながら律法にそむいているあなたを、さばくことにならないでしょうか。外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。(ローマ 2:25-29)
パウロはここで、「心の割礼こそ割礼」であることを明らかにしています。聖徒はイエスのバプテスマと血のみことばを信じて、神の罪のない子どもになっています。自分の考えや律法的な行いによってではありません。私たちは神のみことばを信じて神の子どもになったのです。
みなさんは水と御霊の福音を信じておられますか。心から罪を切り離し、すべて永遠に贖われた霊的割礼を受けられましたか。みことばへの信仰が心にありますか。目に見える行いだけではなく、ほんとうにこの信仰をもっておられますか。イエスがバプテスマを受けられ、十字架上で死なれ、死者の中からよみがえられたのは自分のためだったのだと信じておられますか。どのみことばによって罪の赦しを受けられましたか。
教会に行くだけが神の御前で真の義人となる道ではありません。神の義が示されている福音のみことばを信じて義人になるのです。記された神の義のみことばを信じてはじめて、罪の赦しを受けるのです。ローマ書だけがこれをあかししてるのではありません。新・旧の聖書全体が、神の義のみことばを信じて、はじめて義人になることをあかししているのです。義に関する限り、人間が罪を犯すまいと努力しようとしまいと、神は気になさいません。どんなに努力して正しくあろうとしても、みな咎があるのです。神の義だけがよりどころであり、この義だけが尊いのです。
ほんとうに神のみことばを信じて罪の赦しを受けたなら、その人はすべての罪から救われています。聖書は神が心を調べ、試みられるとしています。これは、神が人間をご覧になるときには、心が正しいかどうかをご覧になるということです。つまり、神は心の中にある信仰をご覧になるのです。その際には、イエス・キリストのバプテスマと血とが救済のためだったと信じているかどうかをご覧になります。では、みなさんはどうでしょう。ほんとうにイエスのバプテスマと血とを心から信じて罪をみな贖われておられますか。心に罪の赦しを受け、そうして霊的割礼を受けなければなりません。
人間の罪をみな消し去るために主は何をなさったでしょう。イエスがヨルダン川でバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられたのをご存じですか。そのバプテスマで主はみなさんの罪をみな被られませんでしたか。まことに、イエスがバプテスマをお受けになり、十字架上で死なれたのは、みなさんと私のためだったのです。人間の咎をすべて負われたのはイエスです(マタイ 3:15; イザヤ 53:6) イエスはバプテスマによって、外面的なものも内面的なものも、つまり、行いによるものも考えによるものも、世の罪をすべて被られました。主はすべての人間が犯した罪をみな被られました。そこで、それを信じる者の魂はよみがえり、今は喜びをもって主に従うことができます。主を信じているからです。
聖書は人類救済に関して「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」 (ローマ 10:10) としています。主のみことばを信じて罪の赦しを受けた者であっても、過ちを犯すことは多いのです。世の罪全部はまだ明らかになっていません。後になってさらに多くが表れるのです。しかしながら、イエスがヨルダン川でバプテスマを受けられて罪をみな被られ、十字架上で人類の罪の罰をみな受けてくださったので、私たちは信仰のおかげで永遠に罪がないのです。神の義を信じるなら、その人もまた世の罪全部から救われます。神の義への信仰は、イエス・キリストが罪人の救い主だと信じるところから始まります。主はその信仰をご覧になり、その信仰のゆえに心に宿られ、お導きくださいます。
「心の割礼こそ割礼です」とありますが、イエスのバプテスマを信じてすべての罪から救われるのです。主のくださる救いは人間自身の行いにはまったく関係ありません。心に罪の赦しを受けると、心はほんとうに安らかになります。神が信仰をお認めになったので、喜びと幸福感が湧き起こります。救済を受けるということ、主から罪の赦しを受けるということに関しては、真理を心から信じることが必要です。みなさんがイエスのバプテスマと血、神の義を心から信じられ、救済を受けられることを私は心から願っております。
 
<ローマ 2:18>みこころを知り、なすべきことが何であるかを律法に教えられてわきまえ、
ここは、神を信じている者であっても、律法の教えを自分の義として誇りがちであるということです。人間が神のくださった律法を美徳の基準にし、実践するなら、この世にそれ以上の道徳基準はないでしょう。ですから偽善者たちは神の義を信じようとさえせず、神の律法だけを実践しようと励んでいるのです。生きていくうえで神の義が必要だとは、まったく考えていません。
 
<ローマ 2:19>盲人の案内人、闇の中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自認している
これは、神のくださった律法を信じていると、実際は他人をサタンの集まりへと導いてしまうということです。律法主義的信仰をもつ者、神の律法を信じて実践する者は、世の光として輝き、通常の人を信仰生活へと導く指導者として生きています。しかしながら、律法主義者のいのちは蛍のようなもので、ほんの一時輝いて消えます。彼ら自身の義が神の義を信じる妨げになるのです。
 
<ローマ 2:20>知識と真理の具体的な形として律法を持っているため、盲人の案内人、闇の中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自認している
律法主義者は、自分が世の偉大な教師だと思い込んでいます。自分がまことに高潔で、世の人々を正しく教え導いているのだと、勝手に考えています。しかしながら、そうした人は、自分が神の目からすると地獄に行く定めにあることに気づいていない愚か者なのです。
 
<ローマ 2:21>どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。
律法を信じている者はサタンのしもべだといえます。自分自身、罪から自由になれずにいるのに、偽善的に他人に罪から逃れる道を教えているのです。サタンは高潔な人間を引き寄せ、神の義を見出すことに無関心にさせます。どんなに熱心にイエスを信じていても、水と御霊の福音を知らず、罪のない者となっていないのなら、その人には他人を教える霊的資格はありません。
 
<ローマ 2:22>姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌みきらいながら、自分は神殿のものをかすめるのですか。
律法主義的信仰の持ち主は、他人には律法を実践しなさいと教えますが、自分では咎に縛られ、罪を犯しています。罪に埋もれていて、罪のために罰されることになるというのに、自分が偽善者であると気づきません。では、いったいどうして他人に罪から逃れよと教えられるのでしょう。聖書でそうした人の律法主義的信仰を責めているのは、そうした人もまた神の義を信じて神への正しい道に戻るようにするためです。
 
<ローマ 2:23>律法を誇りとしているあなたが、どうして律法に違反して、神を侮るのですか。
律法主義的信者は神の義を知らないだけではなく、信仰によって神に栄光を捧げることができません。神の律法ではなく、神の義を含む水と御霊の福音のみことばを信じ、誇らなければなりません。そうした信仰が神に栄光を捧げ、人間に安らぎをもたらすのです。
 
<ローマ 2:24>これは、「神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中でけがされている」と書いてあるとおりです。
神を信じていると口先だけで言うユダヤ人の信仰は神をはなはだしく侮辱するものでした。同様に、イエスを忠実に信じていると称する今日の律法主義的キリスト教徒もまた、神を侮辱しているのです。神を信じていると称して律法主義的信仰をもっている人々は、神を冒瀆しています。それは、律法主義的信仰をもつ者は神の義を信じていないからです。そうした者が、自分はいかによき信者であるかを世の人々に誇るので、神は冒瀆されているのです。
 
<ローマ 2:25>もし律法を守るなら、割礼には価値があります。しかし、もしあなたが律法にそむいているなら、あなたの割礼は、無割礼になったのです。
当時のユダヤ人の信仰と、神の義を知らない今日のキリスト教徒の信仰は、いずれも律法主義に陥ったものです。ユダヤ人はアブラハムの子孫で、肉の割礼によって神の民とされています。しかし、彼らの誇る信仰は、自分の行いに基づいた、表面的なものでした。ですから神はここで、律法を破るとすぐに信仰もまた死ぬとおっしゃっているのです。
 
<ローマ 2:26>もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、割礼を受けていなくとも、割礼を受けている者とみなされないでしょうか。
当時のユダヤ人の誇りは、神が、他のどの民族でもなく、自分たちだけに律法をくださったということでした。律法を守る選ばれた民として、彼らは基本的に外国人とは異なっているのだと考え、自分たちの民族は誇るに値するものだと思っていました。しかしながら、今日の外国人がユダヤ人さえ守れなかった律法のみことばを守ったなら、そうした人はユダヤ人のほうに近いということになります。同様に、もしユダヤ人が神の律法を守れなかったのなら、彼らは神を信じない外国人のようなものだということになります。結局、当時のユダヤ人の信仰は律法の行いに基づいていたため、神の民であるかどうかは律法を守れるかどうかによるのだと考えていました。
 
<ローマ 2:27>また、体に割礼を受けていないで律法を守る者が、律法の文字と割礼がありながら律法にそむいているあなたを、さばくことにならないでしょうか。
当時のユダヤ人の信仰は、神から与えられた律法を守るべく努力するということに尽きました。そこでパウロはここで、外国人が神の義を信じて律法の規定を守ったなら、ユダヤ人は外国人によって裁かれることになるのではないかと修辞的に尋ねているのです。
 
<ローマ 2:28>外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。
霊的割礼を受けた者とは誰でしょう。ユダヤ人のような外見をしているからといって、その人がほんとうのユダヤ人とは限りません。つまり、教会に熱心に通っているからといって、神を正しく信じている忠実なキリスト教徒というわけではないのです。神の義を信じている者だけが、真に割礼を受けた聖徒なのです。神を正しく信じているかどうかは、神の義の明かされている水と御霊の福音のみことばを信じているかどうかによるのです。ですから、キリスト教徒で教会に通っているから神の民だということにはなりません。ほんとうに神の民になるのは、神の義を信じて心に罪の赦しを受けた者だけです。
 
 
心の割礼こそ割礼です
 
<ローマ 2:29>外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。
神はどういう人の信仰をお認めになるのでしょう。神の義を含む水と御霊の福音のみことばを信じて罪をみな洗い流された人です。神のお認めになる信仰の人とは、神の義を信じる人です。教会に通い、傍目には高潔な行いをしているからといって、神のお認めになっている人とはいえません。神の義を示すイエスのバプテスマと血、死とよみがえりを信じて神の義を受けた者だけが、天の御国に入る正しい信仰の持ち主なのです。
「心の割礼こそ割礼です」とあるように、心で信じて、心で救済に至るのです。聖書 には、「文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です」とあります。また、誉は人からではなく神から来るものだともあります。罪の赦しを受けるというのは、心に受けるのです。心に受けなければ、罪は贖われません。誰にでも内面と外面がありますが、罪の赦しを受けなければならないのは内なる自己なのです。
使徒パウロはユダヤ人に、「心の割礼こそ割礼です」と言いました。では、ユダヤ人はどこに割礼を受けたのでしょう。体の特定の部分に割礼を受けました。ところが、使徒パウロはユダヤ人に、「心の割礼こそ割礼です」と言ったのです。これは、ユダヤ人の割礼がうわべだけのものであったということです。ですから、パウロは、彼らが心に割礼を受けなければならないと言ったのです。そうしてはじめて神の民になれるのです。
使徒パウロは、うわべだけの割礼ではなく、心に割礼を受け、心に罪の赦しを受けなければならないと言いました。パウロはローマ 3 で「信じなかったらどうでしょう」と問いました。これは、「心で信じなかったらどうでしょう」という意味です。使徒パウロは外面的なことについて述べているのではありません。パウロは「心の割礼こそ割礼です」と言っているのですから、私たちは、ここで自分の信仰を見直す必要があります。どんなみことばにより罪の赦しを受けているのか、再度確かめる必要があります。そして、ほんとうに心に受けていたのなら、その人は罪を贖われているのです。
使徒パウロはローマ 3:3で「では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら」と問うています。これは、「ユダヤ人、アブラハムの子孫がイエス・キリストを救い主と信じなかったらどうでしょう。それならば神の誠実が無に帰すのでしょうか」と尋ねているのです。つまり、ユダヤ人が信じていないからといって、神による完全な救済、アブラハムの子孫の罪も外国人の罪もすべて消し去った、罪の赦しの救済が無効になるのでしょうか、というのです。そうではありません。
使徒パウロは、イエス・キリストを神の御子、バプテスマと十字架上での身代わりとしての死によって罪をみな消してくださった救い主と信じるなら、ユダヤ人とアブラハムの子孫もまた救われると述べています。これは、神の恵み、すなわちイエス・キリストによる罪の赦しの救済が無効になることはないという意味です。
パウロはローマ 3:4で「絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは、『あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため』と書いてあるとおりです」と述べています。
主はバプテスマと血によって人類をお救いになって、救済の約束のみことばを実現なさり、みことばを信じる者を義人となさいます。また、みことばにあるとおりに信じない者を裁かれますが、罪の赦しを受けた者が裁きに臨む時には、みことばによって免れさせてくださいます。
ローマ 3:5 には、「もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか」とあります。使徒パウロは、「自分の外見は清くない。死ぬまで穢れ、罪に縛られている」と言いました。使徒パウロだけではなく、この世の誰もが汚れた罪を犯すのです。外なる自己は死ぬまで罪を犯します。しかし、そういう人間でも、神が救ったとおっしゃるのなら、ほんとうに信仰により完全に救われているのです。外的自己がまことに不完全でも神がお救いくださったのは、神がほんとうに正しいということではありませんか。
怒りを下す神は不正なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。もしそうだとしたら、神はいったいどのように世をさばかれるのでしょう。
つまり、使徒パウロ自身、外側がきれいだったから救われたわけではないのです。
みなさん、みなさんにも私にも、それぞれ内的自己と外的自己があります。使徒パウロが「心の割礼こそ割礼です」、「いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら。彼らの不真実であることは、神の誠実さを無益なものにするのでしょうか」と述べているのは、心のことを問題にしているのであり、人間にはみな内的自己と外的自己があるということを語っているのです。外的自己は罪を犯し、いろいろな状況下で弱さに負けます。外なる自己次第で罪深くも義人にもなるというのなら、つまり、信仰が外なる自己に基づいたものなら、それは真の信仰ではありません。
使徒パウロは外的自己には期待しませんでした。罪の赦しを受けた者にも外的自己と内的自己がありますが、外的自己を見ると、失望するだけです。時に、しばしは外なる自己がいかにも正しくあるように見えることがありますが、別の時には、外的自己がどれほど弱いものか思い知るのです。ですから、聖書は、外的自己はバプテスマによってイエスにつけられ、イエス・キリストとともに十字架につけられたとしているのです(ローマ 6:3)。つまり、外的自己は死んだのです。イエス・キリストは、人間の外なる自己が犯した罪はみな消し去ったとおっしゃいました。
救われた義人であっても外なる自己を見るなら、ほとんどの場合、見たものに失望するでしょう。それでも、あまりにしばしば外的自己に多くを期待します。外なる自己がうまくやっているときは、何かしら希望があるように思われますが、そうでなく、心の望むことではなく、反対の方向に走るとき、外なる自己を見つめて深く落胆します。義人の中にはそのために躓く人もいるのです。外なる自己に見たものに失望し、信仰生活が終わったと思い込むのです。しかし、それは間違いです。
外的自己はすでにキリストとともに十字架につけられ、死んだのです。罪の赦しを受けた私たちであっても、外なる自己はこの世にあるかぎりは罪を犯し続けます。では、そうした罪は罪ではないのでしょうか。いいえ、罪は罪です。では、これはどういう罪でしょう。死んだ罪です。主のおかげで、すでに主と共に十字架につけられて死んだ罪なのです。問題は、この世に生きている間に外なる自己が罪を犯すことではなく、罪が頭をもたげると、心が道を誤ることなのです。主の御前では、肉が不完全なことは問題ではありません。
ひとたび罪の赦しを受けたなら、自分の至らなさがますます目につきます。それを救済の基準としたなら、つまり、外なる自己が罪を犯さなければ義人とされ、罪を犯したなら罪人に戻るというのなら、救済は不完全だったことになります。救済、罪の赦しを外なる自己の行いに基づいたものとするなら、心はアブラハムのそれとはまったく違った方向に逸れていってしまうでしょう。
使徒パウロは「心の割礼こそ割礼です」と言いましたが、聖徒はイエス・キリストを心から信じて義人とされているのです。外なる自己が神のみこころに沿って生きられるかどうかは、義人か罪人かということとは無関係です。人間は内的自己と外的自己を備えて生きているのですから、問題は、生きていくうえで、二つの心のどちらが支配権を握っているか、ということなのです。人間はあまりにしばしば外なる自己を重んじます。外的自己が正しければ堂々としていますが、欠陥があれば、失望落胆します。使徒パウロは、そうした信仰が間違っていることを明らかにしました。
「心の割礼こそ割礼」であるなら、真の信仰はどこにあるのでしょう。つまり、どうしたら主を知り、信じることができるのでしょう。
イエスはかつて使徒ペテロに「シモンよ、わたしを誰だと思っているのか。わたしは誰だと思っていますか」とお尋ねになりました。すると、ペテロは「あなたは、生ける神の御子キリストです」と答えました。ペテロは心からそう信じていました。
ペテロがイエスに信仰を告白すると、イエスはおっしゃいました。「そうです。それを知らせたのはあなたではなく、父です。」つまり、イエスはペテロの信仰が正しいものだとお認めになったのです。
アブラハムには嫡子がいませんでした。神はみことばでアブラハムを導かれ、息子を与えようと約束なさいました。神はまた、多くの民族の父となる恵みを与えてアブラハムとその子孫代々の神となろうと約束なさいました。神はアブラハムにおっしゃいました。「だからあなたとあなたの家族、その子孫はみな割礼を受けなければならない。包皮の傷をわたしが神になるという約束のしるしとしよう。」
アブラハムは約束のみことばをすべて信じて受け入れました。アブラハムは神とその約束のみことばを信じました。その結果、恵みがすべてほんとうにアブラハムに与えられたのです。
これは私たちにもいえることです。私たちもまた、神が神で救い主だと信じた結果、義人になったのではありませんか。みなさんも、これを信じなければなりません。何か他のもののおかげで救われているのではありません。神が神であられること、ご自分の方法によって罪をみな消してくださったことを信じて義人になったのです。みなさん、私たちは信じて救われているのです。聖書に「人は心に信じて義と認められ」(ローマ 10:10)るとあるのは、そのためです。
ここでは次のことをよく考えなければなりません。自分の善行によって神の子どもになれると思っているなら、あるいは、神は罪を消してくださったけれど、神の子どもになれるのは、あまり罪を犯していない人だけだと思っているのなら、つまり、救済には何か外的自己に条件がつくのだと思っていたのでは、誰一人、神の子どもにはなれません。これは明らかことではありませんか。心で信じてはじめて義人になるのです。ほんのわずかでも外なる自己の行いに関して何か条件がついていたなら、どうして義人になれるでしょう。不可能です。
みなさん、人間は肉と外的自己において常に不完全なのですから、けっして自分の力では神の義に至れません。しかしながら、心で信じる者を救おうと神が約束なさったので、私たちは真理の福音を信じて神の御前で義人とされているのです。主のみわざを知り、信じていること、つまり、イエスがバプテスマによって人類の罪をみな被られ、すべて消されたことを知り、信じているのをご覧になって、神は義人で正しい、ご自分の民、子どもとお認めになり、約束どおり、お救いくださったのです。
神は人間の心にある信仰をご覧になって、ご自分の民であるかどうかを決められます。これがおわかりになりますか。このことを真理のみことばから理解しなければなりません。外的自己と内的自己とを明確に切り離さなければなりません。たとえ新たに生まれた後でも、外的自己を見て信仰が強いか弱いか判断したり、外的自己の行ったことを見て、罪の赦しを受けているかどうかを判断したりするのなら、つまり、外的自己を救済の基準にしているのなら、罪の赦しはけっして受けられません。
しかしながら、「心の割礼こそ割礼です」と書かれているように、イエス・キリストを心で信じるなら救われるのです。これがおわかりですか。 聖書には、「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」 とあります。使徒パウロは明らかに外的自己と内的自己とをはっきり区別しています。
外的自己はまったく無価値です。誰の外的自己も、ただただあきれるようなものです。ここでアブラハムを持ち出す必要はありません。ご自分の外なる自己をご覧なさい。私たちは凶悪です。肉はあらゆる邪悪な企みをもちます。内なる自己、すなわち肉は、まことに身勝手で、いつでも「どうしたら自分の利益を確保できるだろう、どうしたら勝てるだろう、どうしたら偉くなれるだろう、どうしたら腹を満たせるだろう」と考えます。肉の考えをみな裁くなら、一日に何度も自分を罰さなければならないでしょう。しかしながら、そうした裁きは神に反抗することなのです。
昔は反逆者が捕らえられると、処刑されました。しかし、神は人間がどういうものか、内も外もすべてご存じですから、外側は見逃され、心の信仰だけをご覧になります。御父は「イエス・キリストを救い主と信じていますか」とお尋ねになります。神は、心にあるその信仰をご覧になって、お救いくださいます。
ここで自分の考えを調べてみましょう。頭では神を信じることができます。つまり、肉の考えでイエスを信じることができるのです。「ああ、神はこのようにして救ってくださったのか」と思われるでしょう。しかしながら、考えによっては救われません。考えはいつでも邪悪で、常に変化しています。そうなのではありませんか。人間はいろいろなふうに考えます。考えはいつでも変わり得ますし、現実的にも非現実的にもなります。イエスがヨルダン川で罪を被られたことについて、まとめて見ましょう。時には「ああ そういうことだったのか。イエスはヨルダン川で罪をみな被ってくださったのだ」と考え、それを信じます。しかし、別の時には、罪を犯してばかりいる肉を見て、「ほんとうに私には罪がないのだろうか」と疑ってしまいます。人間は自身の定まらない考えをあてにできませんから、神のみことばを心に受け入れることができません。自分の考えを頼みにしている限り、神がどのようにしてお救いくださったかを心で信じることができません。考えてみても、まったく確信がもてません。
ですから、自分の考えで信仰生活を送っている人は、みことばの上に立っていません。
あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られる。(ローマ 3:4) 
みことばに救済の基を置かなければなりません。神のみことばが受肉して私たちの間に来られました。基本的に神は「ことば」です。イエス・キリストは、「ことば」です。そして、その「ことば」が人間の肉の形でこの世に来られたのです。主はそうしてお救いくださり、昇天なさいました。この「ことば」は旧約のしもべたちに語られました。神が記され、記されたみことばのとおり、神であられるイエス・キリストがこの世に来られ、みことばを成就なさったのです。神はみことばを書き記され、みことばを通じてご自身を明かされ、みことばによってお救いくださるのです。
それなのに、人間はまだみことばを頼みとして信じることができずにいます。時に、自分は救われていると思っても、別の時には頭で理解できず、そのために信じることができません。考えでは完全な救済を受けることができません。人間の考えは常に変化しています。考えは真実ではありませんから、考えに依存して救われることはできないのです。使徒パウロが「心の割礼こそ割礼です」と言ったのは、そのためです。つまり、真理を心で信じて救われるというのです。
では、みなさんの心はどうでしょう。みことばは真理を明確にあかししていますから、心は信じることができます。旧約で人類救済をお約束なさったこと、今、新約で人類を救われたことを神はみことばで疑問の余地なく明らかにしておられます。これは神のみことばですから、心で信じるなら、その人は救われるのです。心で信じて救われ、神の子どもになるのです。
神は心にある信仰をお認めになりますから、正しく神を信じさえすれば、救われるのです。しかしながら、人間の考えに基づいた信仰はお認めになりません。人間の考えによる信仰は砂に築いた信仰です。聖徒は心で信じて神の子どもになっているのです。外なる自己が行いにおいて努力したからではありません。また、理屈で考えても、みことばを心で信じて神の子どもになっていることは明らかです。
では、みなさんはどうでしょう。みなさんも心で信じておられますか。みなさんは心の割礼を受けておられますか。イエス・キリストを救い主と心で信じておられますか。イエス・キリストがしてくださったことが心に刻まれていますか。目に見える印ではありません。このみことば、イエスが完全にお救いくださったということが、ほんとうに心の板に刻まれているでしょうか。つまり、どのみことばによって罪の赦しを受けられましたか、そのみことばは心の中にありますか。それこそが信仰によって救われるということなのです。
みなさん、私たちがみことばを信じて罪の赦しを受けていることに疑問の余地はありません。しかし、外なる自己は不完全なので、それを見て失望するのです。失望して、そこで終わりになるだけではなく、外的自己を信仰の基礎として、信仰が深いかどうかを判断しているのです。これは、はなはだしい誤解です。外的自己の行いを救済の基準にしてはなりません。ローマ書だけではなく、旧約・新約全体の要点は、みことばを心で信じれば義人とされるということなのです。使徒パウロは「どのような行為をするか、罪を犯すかどうか、神からどのような誉れを受けるかは問題ではありません。たとえ罪を犯さなくとも、それが神にとって何でしょう」と言いました。外なる自己が罪を犯そうと、犯すまいと、それが神に何の関わりがあるでしょう。それで神の栄光が増したり減ったりするでしょうか。
ですから、神のみことばを心で信じて、はじめて真の信仰と完全な救済を得られるのです。しかしながら、心のありようが違っているなら、その信仰には欠点があります。他方、心が正しければ、その信仰は正しいのです。信仰が正しければ、行いもまた正しいのです。しかし、人間は不完全ですから間違った行いをすることはあり得ます。神はここで、人間の心底をご覧になるとおっしゃっているのです。神は人間の心の底を探られます。心にある信仰が正しいものかどうかをごらんになります。神は人間をご覧になるとき、ほんとうに心で信じているかどうかを見られるます。これがおわかりになりますか。神が人間の心をご覧になる時には、心でイエス・キリストを信じているかどうかを見られます。みなさん、みなさんの心には、ほんとうにイエス・キリストへの信仰がおありですか。
神はみなさんをご覧になるとき、神の義を心で信じているかどうかを見られます。それから、心が正しいかどうかをご覧になります。神の御前で自分の心をよく調べる必要があります。神は「心の割礼こそ割礼です」とおっしゃいましたが、神は心をご覧になるのです。神の御前で何が正しいことであるかを心で知っているかどうか、正しいことに従おうとしているかどうかをご覧になります。心に信仰があるかどうか、心で神に従おうとしているかどうか、ほんとうにみことばを心で信じているかをご覧になります。
神のお認めになる正しい信仰をもつには、イエス・キリストがしてくださったことを明瞭に知り、みわざを心で信じる必要があります。最近、この教会の兄弟姉妹が救われていないと言っている教派があります。その人たちは、みことばはそのまま解釈してはいけないと主張しています。彼らは兄弟の一人に、具体的にいつ新生したのかと尋ねました。その兄弟は、前年の夏の終わりごろにみことばを聞いて信じ、そのときに新生したのだと、大雑把な返答をしました。すると、あちらは、厳密な日時を覚えていないのなら、それは新生したことにはならないと言ったのです。いわゆる「救済派」は、どのように新生するか、主がいつ再臨されるかを含め、すべてを科学的に説明すると言っています。もちろん、いつ新生したのか、記憶をたぐって厳密な日時を確かめることは可能でしょう。何年何月何日の何時であったかを言ってやれます。しかしながら、たとえ思い出せなくとも、今、主を心で信じているのなら、みなさんも私もほんとうに救われているのです。
主はヨルダン川でバプテスマを受けられて、罪をみな被られました。それから身代わりとしてバプテスマを受けられ、死なれました。主は人類の違反と咎のために傷つけられたのではありませんか。主は人間の外なる自己が犯した咎をみな被られませんでしたか。確かに被られました。人間の内なる自己が犯した罪をもみな被られました。私たちの魂がよみがえり、今は神をお喜ばせする道を歩むことができるのは、そのためです。これは、救われた者にだけ可能なことです。
聖書にはどう書かれているでしょう。たとえ罪の赦しを受けていても、人間の行いは、いつでもまことに不完全だとあります。今でも、そうした不完全さはすべて表に出ているわけではありません。やがては、もっと多くの欠点が目についてくるでしょう。しかしながら、神が神であると信じ、神であられるイエスがヨルダン川でのバプテスマで罪をみな被られ、十字架上で罪の罰をすべて受けられたと信じているなら、また、イエスがしてくださったことを心で信じているなら、その人はほんとうに救われているのです。
救済の日時についてあれこれくだらないことを言い、みことばは科学的に証明できるから信じていると主張し、そうして自分たちの主張どおりに信じてはじめて完全な信仰をもてる────こうしたことを言う人たちは救われません。神は、心で信じて人は義人になるのだということを明らかにしておられます。みなさんと私は、イエス・キリストが救い主であられることを心で信じなければなりません。みなさんもそのように信じておられますか。アーメン。
ここから信仰が始まるのです。また、ここから主は心を導いてくださるのです。そして、そうした信仰を正しいものとお認めになり、おっしゃいます。「あなたは義人です。あなたはわたしの民です。わたしはあなたの神です。」
神は心に恵みをくださり、私たちがそうした信仰をもって従うことをお求めになります。そして、私たちが主を信じ、神であられる主に心から信仰をもって従うなら、神は導き、祝福してくださいます。
聖書には「心の割礼こそ割礼です」とあります。心で信じて救われるのです。世の多くの人々は、イエスを信じて救われていると言っていても、外的自己の行いに縛られています。彼らは自問します。「私の内的自己の行いは正しいだろうか。」そうでなければ、「私は悔い改めの祈りを正しく捧げただろうか」と考えます。そのような方法を信じ、行いの信仰と心の信仰を混ぜ合わせて救済に至ろうとします。しかしながら、それは救済ではありません。その人たちはそれが救済なのだと信じ込んでいるでしょうが、そうではないのです。
純粋な真心で義に至るのが確かな救済です。それが義人になるということです。人間自身の行いは無関係です。糸一筋ほどの関係もないのです。心に罪の赦しを受けると、うれしく、感謝の思いに満ちるので、他人に促されなくとも、よい行いをしたいと思うのです。主にお仕えし、あかしし、ほんとうに良い、立派なことをしたいと思います。心で信じ、神に心を認められているので、心は喜びと幸福に満ち、美しくなるのです。神が心をお認めになるからです。つまり、心で信じることがまことに大切なのです。