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主題 9: 使徒パウロのローマ人への手紙

[Chapter 7-6] 罪人の救い主、主をたたえよ (ローマ 7 : 14 - 8:2)

(ローマ人への手紙 第 7 章 14 節-第 8 章 2 節)
「私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は自分のしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪のとりこにしているのを見いだすのです。私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」
 
 

人は罪を受け継いだ罪人

 
すべての人間はアダムとイブから罪を受け継ぎ、罪の種となりました。こうして、人間はそもそも罪の子孫として生まれ、必然的に罪深い存在になるのです。世界の人はみな、誰も罪人にはなりたくないのですが、アダムという一人の祖先のゆえに、罪人になることを避けられません。
罪の起源とは何でしょう? これは両親から受け継いだものです。人間は心に罪をもって生まれました。これは罪人の受け継いだ性格なのです。人間には、アダムとイブから受け継いだ 12 種類の罪があります。これら 12 種の罪──姦淫、不品行、殺人、盗み、ねたみ、よこしま、欺き、好色、そしり、悪い考え、高ぶり、        愚かさ──は、生まれた瞬間から私たちの内に本来備わっているのです。人間の基本的性質は罪です。
ですから、12 種類の罪をもって生まれてくるのです。心に罪をもって生まれてきたのですから、自分を罪人と告白せざるを得ません。人間は生まれながらの罪人であり、一生罪を犯さなくても、必然的にもともと内に罪をもっている罪人なのです。人は、心に罪をもって生まれてくるから罪人になるのです。たとえ肉で罪を犯さなくとも、神は心をごらんになるので、罪人になることは避けられません。ですから、すべての人類は神の前では罪人なのです。
 
 
人は違反の罪を犯す
 
人間はまた、違反の罪を犯します。人は内なる原罪に発する肉の罪を犯します。これは「不正」または「違反」と呼ばれます。これは、心にある12の罪から発する、外に現れた違反行為です。内からの邪悪な罪が人間に不法な行ないをさせ、そうしてすべての人間を例外なく罪人とするのです。人間はとても幼い間は罪人のようには見えません。柿の苗木が柿の実をつけないように、子供が小さいうちは、罪ははっきりと姿を現しません。しかし、年を重ねるにつれて罪はよりはっきりと表に現れてきて、やがて人は自分が罪人であることを知るのです。これらの不正または違反という罪は、行ないによって犯された罪です。
神はどちらも罪とみなします。心の罪と肉の不法な行ないはどちらも罪です。神は人間を罪人と呼ばれます。すべての罪は心の罪か行ないの罪に含まれますから、行ないによる罪を犯してもそうでなくとも、神の目には人間は生まれながらの罪人なのです。
不信人者は、人は本来善として生まれてくるのであり、誰も生まれながらに悪ではないと主張します。しかし、ダビデは神に告白しました。「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました」 (詩篇 51:4-5)。この一節は、「私はこのような罪を犯さずにはいられない。私はもともと罪の種なのだから。私は深刻な罪人です。ですから、あなたが私の罪を取り除いてくだされば、すべての罪を赦され、義となることができます。しかし、取り除いてくださらなければ、地獄に行くしかありません。あなたが私を罪人だとおっしゃるなら、私は罪人です。しかし、あなたが私には罪がないおっしゃるなら、私に罪はありません。神よ、すべてはあなたとあなたのお裁き次第です」という意味です。
厳密に言って、神の前にはすべての人間は罪人であることを避けられません。両親から罪を受け継いでいるからです。人は行ないがどうであろうと、生まれながらの罪人なのです。罪から逃れる唯一の道は、イエスの救済を信じることです。公教育は、子供たちに偽りの考えを教えます。それは、次のように要約できます。「すべての人は生まれながらに善である。だから、人間のよい性格にしたがって、高潔に生きなさい。努力しさえすれば、よい行ないができるのです。」 学校では、肯定的なことしか言いません。人間は道徳律を教えられて生きます。しかし、なぜ人は社会や家で心や肉の罪を犯すのでしょう? それは、本来罪をもって生まれたからです。人間は罪の種として生まれました。人間は良くあろうとしても、罪を犯さずにはいられません。これは、心に罪をもって生まれたことを証明します。
 
 

自分自身を知りなさい

 
人は罪をもって生まれたため、生涯を通して肉の罪を犯さずにはいられません。これが人間本来の状態なのです。人間はまず自身を知るべきです。ソクラテスは、「汝自身を知れ」と言いました。そうして、イエスは、「あなたたちは罪の中でみごもられ、咎ある者として生まれたのだから、罪人なのです。だから、罪の赦しを得なければいけません」とおっしゃいました。自分自身を知りなさい。たいていの人は、自分を誤解しています。ほとんどの人は自身を知ることなく生きて死にます。賢い人々だけが、自分を知っています。自分が悪行を行なう者であることを知った後にイエスの真実を知る人々は、賢い人々です。その人たちには天の国に入る資格があります。
自分を知らない人たちは、他の人々に偽善者として振舞うことを教え、もう罪を犯すなと説きます。その人たちは、内にある罪を表に出すなと教えるのです。宗教教育者は、罪を犯してはいけない、罪が表に出てこようとしたときは抑圧しろと教えます。その人たちはみな、地獄に向かっているのです。この人たちは何者でしょう? 偽りの羊飼い、サタンです。彼らの教えは、主がお教えになったものではありません。もちろん、主は罪を犯せとはおっしゃいませんでした。しかし、「あなた方には罪があり、あなた方は罪人です。そして、罪の報酬は死です。あなたがたは、罪のために滅びに向かっています。ですから、贖罪を行なわなければいけません。すべてから救う救済の贈り物を受けなさい。そうすれば、すべての罪は赦され、永遠のいのちを得るのです。あなたがたは義となり、尊い聖徒、神の子どもとなるのです。」 
 
 

なぜ神は人類に律法をお与えになったのか?

 
パウロは「律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました」(ローマ 5:20) と言いました。神は罪がより罪深いものとして明らかにされるようにと律法をお与えになりました (ローマ 7:13)。神が罪人に律法をお与えになったのは、それによって自分の罪を深刻に受け止めさせようとなさったのです。
ヤコブの子孫がエジプト脱出の後、荒野に住んでいたとき、神はイスラエル人に律法をお与えになりました。戒めは 613 ありました。なぜ神は人類に律法をお与えになったのでしょう? 神が律法をお与えになったのは、第一には、人間が自分たちの罪を知らなかったので、その罪に気づくようにするため、第二には、人が罪をもって生まれるためでした。
律法の十戒は、人間がいかに罪深いものであるかを示しています。「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。……あなたはあなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。……あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。あなたの隣日との家を欲しがってはならない。……すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」(出エジプト記 20:3-17)
神は律法をお与えになり、それによって、具体的にどのような罪が心の中にあるかをお教えになったのです。そして、人間が神の前で全くの罪人であることを教え、律法を守ることのできない罪人であるという事実をお示しになったのです。
人間は神の律法を守れるものなのでしょうか? 神がイスラエル人と異邦人に自分の前に他の神々をもってはいけないとお命じになったのは、人々がその初めから第一の戒めも守れない罪人であることを示そうとなさったのです。戒めによって人々は、自分たちが創造者よりも他の存在のほうをより愛していることを知ったのです。彼らは神の名をみだりに唱え、神の憎まれる偶像を造って仕え、自分たちのために神が定められた安息日にも休まないことを知ったのです。彼らはまた、父母を敬わず、人を殺し、姦淫を犯し、神がしてはいけないという不法の行ないのすべてを行なっていることを知りました。つまり、彼らは神の律法を守ることができなかったのです。
 
 
律法はまだ罪を赦されていない者を支配する
 
なぜ神が律法をお与えになったか理解できましたか? 神はまず、新たに生まれていない人々に律法を与えられました。「それとも、兄弟たち。あなたがたは、律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけだ、ということを知らないのですか──私は律法を知っている人々に言っているのです。」 (ローマ 7:1) 神は、罪を先祖から受け継いでまだ新たに生まれていない人々が罪の下で苦しむよう律法をお与えになりました。律法は、生きている限り人を支配します。アダムの子孫はみな、12 種の罪を心にもっています。神は心に罪をもつ人々に律法を与え、その人たちには致命的な罪があるのだと告げられました。ですから、殺人や姦淫の罪が自分の中から起こり、罪を犯させたときいつも、律法は「神はおまえに姦淫をしてはいけないとおっしゃった。しかし、おまえはまたも姦淫を行なった。だからおまえは罪人なのだ。神は人を殺してはいけないとおっしゃったのに、おまえは憎しみによって殺した。おまえは人を殺し、姦淫を行なう罪人だ。神は盗んではいけないとおっしゃったのに、おまえはまた盗んだ。だからおまえは盗人なのだ」と言います。このように、罪は律法のあるところに存在するようになるのです。
ですからパウロは、「それとも、兄弟たち。あなたがたは、律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけだ、ということを知らないのですか──私は律法を知っている人々に言っているのです」と言ったのです。律法は、まだ罪を赦されていない人々を支配します。神の律法を知らない異邦人にとっては、各自の良心が律法の役割を果たします。その人たちが悪を行なうと、良心が、おまえは罪を犯したと告げるのです。同様に、不信者の良心も律法の役割を果たし、良心によって罪を知るのです (ローマ 2:15)。
みなさんの良心でさえ、創造主は存在すると言っているのに、なぜ創造主に仕えないのですか? なぜ神を求めないのですか? なぜ自分の心を欺くのですか? 自らの罪を恥じ、他の人々に罪を見つけられることを恐れるのでしょう。しかし、神を認めず自らの心を欺く罪人は、恥を知りません。
罪があると、空や大地、他の人々や生き物を見たとき、自分を恥ずかしく思います。神は人類に良心をお与えになり、そして良心の律法は罪を指し示します。しかし、たいていの人は神を知らずに生き、神の前で偽善者となって、好きなように生きるのです。その人たちは、地獄に行きます。パウロが律法に注意を払うように促したように、「それとも、兄弟たち。あなたがたは、律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけだ、ということを知らないのですか──私は律法を知っている人々に言っているのです。」 人間は、二度生まれなければいけません。一度は罪人として、そうしてもう一度は、神の贖罪の恵みによって義人として生きるために。
主がどのように罪の律法の呪いから私たちを救ったかをパウロは次のように説明しました。「夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死ねば、夫に関する律法から解放されます。ですから、夫の生きている間に他の男に行けば、姦淫の女と呼ばれるのですが、夫が死ねば、律法から解放されており、たとい他の男に行っても、姦淫の女ではありません。」(ローマ 7:2-3) 
結婚した女が情事を行なえば、姦淫の女と呼ばれます。しかし、夫が死んで女が別の男と結婚したのなら、それは少しも悪くありません。同じことが罪の律法からの救いにも当てはまります。律法は、まだ罪を赦されていないアダムの子孫すべてを支配します。それは、「あなたたちは罪人です」と言います。ですから、その人たちは律法の下での罪深さを告白に来て、言います。「私は地獄に行くのです。私は罪人です。罪の報酬として地獄に行くのは、当然のことなのです。」 しかし、イエスのからだによって律法に対して死ねば、律法はもはや人間を支配できません。古い自分はバプテスマによって主に結びつけられ、共に十字架につけられたからです。
 
 
古い自分は死んだ
 
主は古い夫を葬り、新しく神と結ばれるようにしてくださいました。パウロは、ローマの信徒たちに言いました。「私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。」(ローマ 7:4) 神は、戒めによって罪がより明らかに表されるようにと、共通の祖先アダムのために生まれながらに罪人であるすべての人類に律法をお与えになりました。神は人類を神の裁きの下で生きるようになさいましたが、キリストのからだによってお救いになったのです。イエス・キリストは人類に代わって死なれました。神の律法によって人間が地獄に行くのは、正しいことではありませんか? その通り。しかしながら、主がこの世に遣わされ、ヨルダン川でのバプテスマで人類の罪をすべて被られ、人類に代わって裁かれ律法の怒りに呪われて十字架につかれたのです。ただこのために今、人は救われ、これを信じることによって新たに生まれることができるのです。
新たに生まれていない人々は地獄に行きます。その人たちはイエスを信じて救われなければなりません。人間は一度イエス・キリストと共に死ななければなりません。古い自分が一度死ななければ、新しい存在となって天の国に行くことはできません。古い自分がイエスに結ばれた信仰によって律法に従って裁かれなければ、裁かれ、地獄に送られるでしょう。新たに生まれていない人々はみな、地獄に行くのです。
不信人者はよい生活をし、よい生活の提供するものを何でも楽しみますが、永遠の罰については気にしていません。すべての人類は、この地上に生きている間に主イエスによって罪の赦しを得なければなりません。この世を去ってから新たに生まれることはできませんから、古い自分はみな、信仰によって一度イエスと結ばれて死ななければならないのです。一度殺され、イエス・キリストへの信仰によって罪から救われるのです。誰によってですか? イエス・キリストのからだによってです。どのようにして? イエスがこの世においでになって人類の罪をすべて取り除かれたと信じることによってです。みなさんは死にましたか? まだ死んでいない人はここにいますか? 「どうして自分が死ねるのだろう」と思うでしょう。「もし死んだのなら、どうして今生きているのだろう?」 秘密はこうです。これは、これまでどの宗教も解決していない奥義です。
新たに生まれた者だけが、古い自分はイエスと結ばれて死んだと言えるのです。罪人の古い自己が死に、新たに生まれることができるのは、新たに生まれた人から神のみことばを聞いたときだけです。そうして、これによって神のしもべとなれるのです。すべての人類は、新たに生まれた聖徒から神のみことばを聞かなければなりません。その人たちの教えを無視して新たに生まれることはできません。当時最高の教師の一人であったガマリエルから神のみことばを学んだパウロでさえ、キリストなしには新たに生まれることができませんでした。なんとありがたいことでしょう! 信仰をもってイエス・キリストのからだによって死んだとき、死者の中からよみがえられたイエス・キリストを信じることで、神の義の実を結ぶことができます。そして、次に九種の聖霊の実を結ぶことができるのです。
 
 
四肢の中にある罪深い欲情は死の実を結ぼうとしている
 
「私たちが肉にあったときは、律法により数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、死のために実を結びました。」(ローマ 7:5) 「私たちが肉にあったとき」とは、「新たに生まれる前」ということです。イエス・キリストのからだによる信仰をもたなかったとき、四肢の中にある罪の欲情は死の実を結ぼうとしていました。そのとき、罪の欲情は常に四肢の中で働いていました。人間の心には 12 種類の罪があります。すなわち、これは、心には罪のはけ口が 12 種類あるということです。たとえば、今日、姦淫の罪がそのはけ口から出てきて心をかき乱すかもしれません。そうすると、心は頭に「姦淫が穴から出てきて、姦淫を行なえと言っている」と命じます。すると、頭は答えます、「わかった 腕と脚に命じて実行させよう。おい、腕と脚、いうことを聞け。急いで!」 頭は四肢に、肉が姦淫を犯す場所に行くように命じます。すると、体は頭の命じるように行ないます。同様に、殺人の罪がそのはけ口から出てくると、心をかき乱し、心は頭に誰かに対して腹を立てさせます。すると、頭は体にその用意をするよう命じます。罪は四肢の中でこのように働くのです。
罪の赦しを受けなければならないのは、このためなのです。罪の赦しを受けなければ、そうしようと望んではいないのに、心の命じるままにすることしかできません。誰もが真の福音によって新たに生まれなければなりません。人は、新たに生まれたとき、セミの幼虫がセミになるように、完全になることができます。牧師は新たに生まれてはじめて真に主に仕えることができます。新たに生まれる前、その人たちの言えることは、「聖徒のみなさん、善を行ないなさい」だけです。これは、病人に自分で治れと言っているようなものです。この人たちは会衆に自分で自分の心を清めろと促しますが、自分では、自身の罪深い心を清める方法を知らないのです。
四肢の中にある罪の欲情は死の実を結ぼうとしているのです。人が罪を犯すのは、罪を犯したいからですか? 人が罪のしもべとして罪を犯すのは、罪と共に生まれるからです。なぜなら、まだイエスのからだを通して死んでおらず、罪はみなまだ消されていないからです。人間は、そうはしたくないのに罪を犯します。ですから、誰もが罪の赦しを得なければなりません。
まだ罪を取り除かれていない牧師は、主に仕えるのを止めたほうがよいのです。その人たちは、体菜でも売っていたほうがよろしい。本当にそうなんです。大金を稼ぎ、捧げ物を自分たちのものにし、ブタのように肥え太り、人々を欺いているよりは、そうしたほうがいいのです。
自分の罪から救われていなければ、罪とその欲情はその人の四肢の中で死の実を結ぼうと働いているのです。人間はすべての罪が取り除かれて後、聖霊を受けて神の恵みの下で主に仕えることができます。しかし、律法の下で主に仕えることはできません。ですから、主はこうおっしゃいました。「しかし、今は、私たちは自分を捕えていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。」(ローマ 7:6)
 
 
律法によって罪は極度に罪深くなる
 
「それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、『むさぼってはならない』と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。しかし、罪はこの戒めによって機会を捕え、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。それは、戒めによって機会を捕えた罪が私を欺き、戒めによって私を殺したからです。ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。では、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。絶対にそんなことはありません。それはむしろ、罪なのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされ、戒めによって、極度に罪深いものとなりました。」(ローマ 7:7-13)
パウロは、神が律法をお与えになったのは、罪が極度に罪深いものになるようにするためだったと言います。彼はまた、「なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです」(ローマ 3:20) とも言いました。しかしながら、たいていのキリスト教徒は、律法の義を求めて律法に従って生きようとします。新たに生まれていない牧師のあまりにも多くが、人々は律法に従わないために病になるのであり、律法に従って生きさえすれば病気は治るだろうと思い込んでいます。
病気がみな律法に従わないために起こると、本気で考えられますか? 多くのキリスト教徒は、神父もその信徒も、物事がうまくいかないのは、神のみことばに従って生きることができないためであると考えます。その人たちは、病気になるのは罪のせいだと思います。ですから、罪を恐れます。その人たちは、毎日すすり泣きます。いっそのこと、聖書に「いつまでも泣いていなさい。やむことなく泣きなさい。なんにでも泣きなさい」という一文を加えればいいのです。聖書には、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(テサロニケI 5:16-18) とあるのですがね。しかし、偽りの牧師は、まるでうんと泣いたための皺が信仰の物差しででもあるかのように、すすり泣くように、ずっと泣き続けるようにと教えます。
このような律法主義的な信仰は、泣く者には誠意があると主張します。新たに生まれていない偽りの牧師は、よく泣く女性を上級の女性執事に、涙をよく流す男性キリスト教徒を長老に任命します。教会で泣いてはいけません。本当に泣きたければ、家でなさい。なぜイエスは十字架につけられたのです? 私たちを泣き虫にするためですか? もちろん、違います! イエスは、人間がもう泣かないで幸福に生きるようにと、十字架につけられて悲しみや呪い、病気、苦痛のすべてを一度に取り除いてくださったです。それなのに、どうして泣くのです? 新たに生まれた人々の神の教会で泣くのなら、その人たちは家へ帰ってもらいましょう。
 
 
新たに生まれた人とそうでない人の違いとは?
 
律法が悪いということは絶対にありません。律法は神聖です。人間が少しも義ではないときでも、律法は真に義なのです。律法に反するのは、人間がアダムの子孫として罪と共に生まれたからです。人間はするべきことができないでいて、するべきではないことを行ないます。そのために律法は人間を極端に罪深くします。
「私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ 7:14- 24)
このくだりの前で、パウロは、人間はみな、自分も含めて一度律法により裁かれなければいけないと言っています。イエス・キリストのからだによって律法の怒りと裁きのすべてを受けた者だけが神の義の実を結ぶことができるというのです。また、自分の内には良いものは何も住んでおらず、新たに生まれていない者は罪を犯さないではいられないとも言います。新たに生まれた者もそうなのですが、両者には明瞭な違いがあります。新たに生まれた者は肉と霊とをもつので、その人の中には二種類の欲求があります。しかし、新たに生まれていない者には肉の欲望しかないため、罪だけを求めます。ですから、その人たちが求めるのは、いかにして体裁よくかつ継続的に罪を犯すかということだけなのです。それが新たに生まれていない人々に共通した人生の目標なのです。
罪が人々に罪を犯させます。ローマ人への手紙第 7 章 20 節には、「もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です」とあります。新たに生まれた人々の心には罪がありますか? いいえ。では、新たに生まれていない人々の心には罪がありますか? はい! 心に罪があると、罪は肉に働きかけてより多くの罪を犯させるのです。「私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。」 人は罪をもって生まれたため、生涯を通して罪を犯さずにはいられません。
新たに生まれた人は自然に霊の実を結ぶことができます。しかし、新たに生まれていない人々は、そのような実を結ぶことができません。その人たちは他人にあわれみをかけません。中には、いうことを聞かなければ自分の子供を殺す人々もいます。子供がいうことを聞かなかったとき、残酷さが心から出てきて心で子供を殺すのです。実際に子供を殺しはしませんが、心の中で何度も何度も殺すのです。
ここで言おうとしていることが分かりますか? 義である人は、そのようなことができません。口論はするでしょうが、他の人々のような、そんなにも憎悪と怒りに満ちた残酷な心は、とうていもてません。
そうではなく、たとえ意見の違いで議論していても、義の人は心では他の人々にあわれみをもちたいと思います。「そういうわけで、私は善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。」 人間がよい行ないをしたいと思うのは、神の姿に似せて作られたからです。しかし、罪がまだ心に宿っている間は、悪いものだけが出てくるのです。
新たに生まれていないキリスト教徒は、嘆きながら互いに話します。「私は本当に善を行ないたいのに、できない。どうしてできないのか分からない。」 その人たちは、まだ救われていない罪人だからできないのです。心に罪があるために正しい行ないができないのです。新たに生まれた人々には、肉の欲望と共に御霊の欲求がありますが、まだ新たに生まれていない人々には御霊がありません。これが、新たに生まれた人々とそうではない人々との決定的な違いなのです。
パウロは 第 7 章で、自身が新たに生まれる以前の状態について述べています。ローマ人への手紙 第 7 章 1 節以下で律法を説明しながら、自分がしたいと思う善が行なえず、したくない悪を行なったと言います。つまり、悪を行ないたいとは少しも思わず、善だけを行ないたい思っていたのに、それでもしたくないことしかできず、本当に心からしたいと思うことを行なうことは不可能だったというのです。「私はなんとみじめな人間なのだろう! だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」 パウロはこうした惨めな運命を嘆きますが、すぐに主をたたえています。「主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」 
これがどういうことか分かりますか? 新たに生まれた者たちには、パウロの言葉が理解できますが、新たに生まれていない人々には決して理解できません。セミになったことのないイモムシには、セミの言っていることは絶対に理解できません。「うわぁ! ぼくは一日何時間も木の上で歌っている。風はなんて気持ちがいいんだろう!」 イモムシは地上から、「そうなの? 風って何?」とたずねるでしょう。私にはセミの言っていることはちっともわかりませんが、セミは風が何かを知っています。
パウロは新たに生まれたので、新たに生まれた者とそうでない者との違いをはっきりと説明できたのです。パウロは、自分を救った救い主はイエス・キリストだと言います。イエス・キリストは私たちを救われましたか? もちろんです! 「ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」 
罪を取り除かれた人々は、神の律法に心で仕えます。では、肉では何に仕えるのでしょう? 肉では罪の律法に仕えます。肉は少しも変わっていないので、罪に仕えたがるのです。肉は肉のことを望み、御霊は御霊のことを望みます。ですから、罪を取り除かれた人々は、内に御霊が宿っているために主に従うことができ、それを望むのです。しかし、罪を除かれていない人々は、頭と肉の両方で罪に従わざるを得ないのです。罪を取り除かれた、新たに生まれた人々は、たとえ肉が罪に従っても心で神に従うことができます。
 
 
イエス・キリストにおけるいのちの御霊の原理が人間を罪と死の原理から解放した
 
ここで、ローマ人への手紙 第 8 章 1 節に移りましょう。イエスにより救済で罪が取り除かれたと信じる人々は、罪人として生まれながら、もはや神の律法によっては裁かれません。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」(ローマ 8:1-2) 
ですから、キリスト・イエスにある者は、もう罪ありとされることはないのです。もう断罪はありません! 新たに生まれた人々には罪がないので、その人々が裁かれることもないのです。キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から解放したので、その人々の心には罪が残っていません。主はいのちの源です。イエスは聖霊によって身ごもられて神の子羊となり、ヨルダン川でヨハネによるバプテスマを受けて、世のすべての罪をその身に被られました。人類の代わりに裁かれ、人類のために十字架につけられました。こうして罪をすべて取り除いてくださったのです。
では、人間は自分の罪のためにまた死ななければいけないのですか? 何か裁かれるべきことがありますか? すべての罪がバプテスマによってイエス・キリストに移されたというのなら、人間の中に罪はありますか? もちろん、ありません! 主がヨルダン川でバプテスマを受け、人類に代わって十字架につけられ、三日目に、すべての罪人を救うために死者の中からよみがえられたのですから、裁かれなくてよいのです。
律法は怒りをもたらすのですが、神の救済がその裁きから解放したのです。「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理からあなたを解放したからです。」 神の怒りは、罪のある者に示されます。神はその人々を地獄に送ります。しかし、主はすべての罪を心から取り除くことによって、罪と死の律法から解放してくださいました。神はイエス・キリストにある信者を罪から解放されました。みなさんの罪は取り除かれましたか? 
「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」(ローマ 8:3-4) 
ここでは、肉は弱く律法の義の要求に従うことができないとはっきり述べられています。神の義は確かに善で美しいのですが、肉があまりに弱いために、人間は律法によって生きることができません。神の律法は完全であることを要求します。神の律法には完全に従わなければならないのですが、肉は、その弱さのために、律法の要求を完全に満たして生きることができません。そのため、律法は私たちの上に怒りをもたらします。しかし、結局は裁かれるのなら、イエスは何のためなのでしょう? 
神はそのひとり子を、人類を救うためにお遣わしになったのです。神は、人類の罪のために、御子を罪深い肉の形でお遣わしになり、神の義をお与えになったのです。イエスはこの世に肉の形をとって遣わされました。「肉において罪を処罰されたのです。」 神は、律法の義の要求が全うされるように、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの罪をすべて、イエスの上に移されました。心でイエス・キリストを信じることによって、罪は取り除かれました。イエス・キリストが人類のためになさったことを認めたとき、罪は拭い去られました。
 
 
御霊に従って歩む者と肉に従って歩む者
 
キリスト教徒には二種類あります。自分自身の考えに従う者と、真実のみことばに従う者です。後者は救われて義となることができますが、前者は滅びます。
「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。」(ローマ 8:5-6) 神を信じるとは、律法に従って生きることだと考える人々は、絶対に完全になれません。「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えます。」 
肉は自己の外側だけをきれいにするものなのです。そのような人々は、日曜ごとに聖書の塵を払い、敬虔そうな足取りで教会に行きますが、家では妻と争い、悪を行ないます。彼らは日曜日だけ天使になります。
「やあ、お元気ですか?」 
「またお目にかかれてうれしいです。」 
牧師が説教するときはいつも、高潔そうな口調とあわれみ深い様子で何度も「アーメン」と言います。礼拝が終わると、しずしずと教会から出てきますが、教会が見えなくなると、すぐさま態度をがらりと変えます。
「神のみことばは何て言ったって? 覚えてないな。それより、飲みに行こうや。」 
彼らは教会では天使ですが、教会から離れると、たちまち肉の生き物になるのです。
ですから、罪人は次のように祈らなければいけません。「神様、どうぞこの惨めな者をお救いください。お救いくださらなければ、私は天の国に入ることができず、地獄に行くでしょう。でも、私が死ぬまでに犯す罪をすべて洗い流してくだされば、信仰によって天の国に入ることができます。」 その人たちは、完全に神におすがりしなければいけません。
信じる人はみな、みことばを信じて罪の赦しを受け、霊的ないのちを生きるのです。「御霊に属するものは御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。」 神の真実に従って考え生きるならば、平安が訪れます。「というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。肉にある者は神を喜ばせることができません。」(ローマ 8:7-8)  いまだに罪を取り除かれていない人々や肉にある人々は、絶対に神を喜ばせることができません。
「けれども、もし神の御霊があなた方のうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。」(ローマ 8:9) パウロがきわめて精神的な表現を用いているために、人々はこの部分で混乱します。新たに生まれていない人々は、ローマ人への手紙の 第 7 章と 第 8 章で混乱します。その人たちは、聖書のこの部分を理解できません。しかし、私たち新たに生まれた者は、肉の中におらず、肉のためだけには生きません。
上の節でパウロの言っていることをよく読んでください。御霊はみなさんの中に住んでいますか? キリストの御霊をもたないのなら、その人はキリストのものではありません。キリストのものでないのなら、その人はサタンのものであり、地獄に行くのです。
「もしキリストがあなたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるのなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」(ローマ 8:10-11)  アーメン。
主は聖霊によってみごもられ、肉の世界に送られ、人類の罪をすべて取り除かれました。主は、罪の赦しを信じる者の心にお入りになって、そこに宿られます。御霊が心に入って、主イエスが罪のすべてを洗い流して雪のように白くなさったことをあかしするのです。神はまた、イエスが再びこの世においでになったとき、肉にいのちをお与えになります。「キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」
 
 
御霊は私たちが神の子どもであることを霊とともにあかしする
 
新たに生まれたならば、神への信仰と御霊によって生きることになります。「ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父。』と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」(ローマ 8:12-17) 人を恐怖に陥れるような奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのですから、「アバ、父」と呼びます。
「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」 第一に、御霊はみことばによって罪の赦しを得たことをあかしします。第二には、罪がないことをあかしします。御霊は、その人が救われたことをあかしします。御霊は、罪が取り除かれた者の心の中でそれを行ないました。「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ 3:10) 事実ですが、それは、神がお救いになる前のことです。あの部分の後で、神の恵みにより、キリスト・イエスの贖罪のおかげで、値なしに義とされたと記されています (ローマ 3:24)。御霊自体が私たちが神の子どもであることをあかしするとも書かれています。神が私たちのためになさったことを心で認めたとき、御霊は宿りますが、信じなければ、中に御霊はありません。神が私たちのためになさったことを心で認めると、御霊は「おまえたちは義である。おまえたちはわたしの子どもだ。おまえたちは正しい。おまえたちは私の民である」とあかしします。「私たちが、キリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人でもあります。」 神の子どもが栄光を共に受けるのと同様に、主と共に苦しむのは、まったく正しいことです。御霊を宿し、霊に導かれる人々は、天の国に入ることを望みます。
 
 
現在の苦しみにもかかわらず、千年王国と天の国を待ち望んで生きる
 
ローマ人への手紙第 8 章 18-25 節を見ましょう。「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。」
私たちは御霊の初穂です。私たち新たに生まれた者は、よみがえりの最初の実です。私たちは最初のよみがえりに加わるでしょう。イエス・キリストはよみがえりの初穂ですが、私たちはイエスに結ばれているのです。キリストのものである人々は最初のよみがえりに加わります。それから終末が訪れます。神に従わない人々は第二のよみがえりに加わり、裁かれます。ですから、パウロは「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます」と言うのです。ここでいう栄光とは、千年王国と天の国とを意味しています。その幸いの時が訪れたとき、人はみな変化します。神の子どもは完全に死からよみがえり、それぞれ主の永遠のいのちを与えられるのです。肉が実際に死からよみがえります (魂はすでに死からよみがえっています)。神はすべてを新しくなさり、義である者たちは千年間、王として幸福に暮らします。
宇宙の生物のすべては神の子どもの現れを待っています。被造物は、人間が変えられるのと同じように変えられます。千年王国には苦痛や苦難、死というものはないでしょう。しかし今、私たちはうめきます。なぜでしょう? なぜなら、肉がまだ弱いからです。魂はなぜうめくのでしょう? 魂はからだの贖いを求めてうめくのです。
「私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。」(ローマ 8:23-25) 
子どもとされる日を待ち望んでいるのは、この望みによって救われたためです。罪をすべて取り除かれた者は、千年王国と天の国に入るでしょう。世界が突然終わっても、私たちは滅びません。主が世界の終わりにこの世界に再びおいでになります。主はすべてを新しくし、義である者を新しい肉によみがえらせます。主はその人たちが千年間支配するようになさいます。
罪人にとって世界の終わりは絶望ですが、義である者には新たな希望です。パウロはこれを望みました。みなさんはうめき、肉の贖いを待ち望んでいますか? 霊も共に待っていますか? イエス・キリストのよみがえったからだのような霊的なからだに変えられたなら、苦痛も弱さも感じません。
 
 
御霊は義である者が信仰をもつのを助ける
 
御霊は信仰をもつのを助けます。私たちは見えているものを望みますか? いいえ、見えていないものを望みます。「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。」(ローマ 8:26-27) 
私たちの内の御霊は何を真に望んでいるのでしょう? 神は何をするのを助けてくださるのでしょう? みなさんは、何を望みますか? 新たな天と新たな地(ペテロII 3:13)、天の国を望みます。もうこの滅びの世界に住みたいと思いません。私たちは疲れ、主の再臨を待ち望みます。永遠に罪も病もなく悪霊もなく生きたいのです。主イエスと仲間と共に、喜びと平和と愛の中で柔和に、喜びをもっていきたいのです。
ですから、御霊はうめきによって新しい天と地とを待つ人々のためにとりなしてくださるのです。率直なところ、私たち義である者は、たぶん時おり仲間の神のしもべとサッカーをする以外、この世に何の楽しみもありません。この世界に生きているのは、福音を説くという仕事があるからです。大いなるご計画を除いて、義である者がこの世界にいる理由はありません。
 
 
神は、神を愛す新たに生まれた者のためにすべてのことを働かせて益としてくださる
 
ローマ人への手紙第 8 章 28-30 節を読みましょう。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。」 
ローマ人への手紙第 8 章 28 節でパウロは、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」と言っています。この一節はとても重要です。多くの人は、「どうして私は生まれたのだろう?」と考えます。「神はサタンのいないところに生まれるようにしてくださればよかったのに。それに、最初から天の国に住めるようにしてくださればよかったのだ。どうして神はこんなふうになさったのだろう?」 悪い境遇に生まれた人々の中には、最初は両親を、次に神を恨む人々がいます。「どうしてあなたは私をこんな苦しみの中に生まれさせたのですか?」
この節は、こうした問いに対するよい答えとなっています。人間は神の被造物として生まれました。そうではありませんか? 人間は神の被造物です。神は人間を神の姿に合わせてお造りになりましたが、それでも被造物であるのです。神が人間をこの世界に置かれたのには目的があります。聖書には、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」とあります。悪魔にだまされた祖先アダムとイブから受け継いだ原罪のために、人類は罪人として生まれ、苦しみました。しかし神は、人間を信仰によって神の子どもとするためにイエス・キリストをお遣わしになりました。それが神が人類をお創りになった目的なのです。神はまた、イエス・キリストと父なる神と共に千年王国と天の国で暮らすよう、神々の幸福な永遠のいのちをお与えになります。
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」 罪が取り除かれたとき、人類についての神のご計画は完了しました。そうではありませんか? この世に生まれたことを幸せに思うべきではありませんか? 将来受けるはずの栄光を思うとき、生まれたことを幸せに思わずにはいられません。しかし、たいていの人々は、幸福ではありません。それは、その人たちが神の愛を拒むからです。
罪や病気がなぜあり、善を行なおうとする人々が苦しんでいるときに邪悪な人々には物事がうまくいっているように見えるのはなぜか、わかりますか? それは、人間は苦しいときだけ神を求め、神に会い、罪の赦しを得て神の子どもになるからです。神は、すべてが神を愛する人々の益となるように、邪悪な人々がまだこの世に生きることをお許しになります。
次のような考え方をしてはいけません。「なんだって神は私をこんなふうにお創りになったのだろう? どうして神は私がこんな貧しい家庭に生まれて苦しむようになさったのだろう?」 神は、サタンと律法の支配するこの世界に私たちを生まれさせ、神の子どもとなさり、主と共に神の国で永遠に生きるようになさったのです。すべては益となるように働き、神は私たちを神の子どもとなさいました。これが神が人間をこのようにお創りになった目的です。神に文句を言ったり不平をつぶやく理由は何もありません。「どうして私はこのように生まれたのだろう? どうして私はこんななのだろう? 」 神の善意は苦難によって達成されるのです。
自分の苦しみに苦情を言ってはいけません。もう自分の人生について悲観的な歌を歌うのはやめなさい。「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている。」(ヘブル 9:27) 人の誕生と裁きとの間に神の救済の恵みがあります。イエス・キリストを信じれば罪は神の恵みによりすべて取り除かれ、永遠に千年王国と天の国で支配し、「すべての被造物の王」と呼ばれるようになります。もう、神がみなさんを苦しませた理由が分かりましたか? 神は、人類が神の下に戻り、恵みによって神の子どもとされるように、苦しみと困難とをお与えになったのです。
 
 
神は人間を御子のお姿にあらかじめ定められた
 
罪の赦しを受け、神の裁きから救われて義となるのは、あっという間です。人間はただ一度で義とされ、信仰によって即座に神の子どもになります。神の救済は、長期間に及ぶ聖化過程の結果ではありません。神はただ一度で永遠に私たちを義となさったのです。
「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。」(ローマ 8:29-30) 
多くの人々はこの節を「カルビン主義の五大教理」の根拠としています。しかし、それは間違っています。パウロは、ここで「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子の形と同じ姿にあらかじめ定められたからです」と述べています。神は、人間がイエスにおいて神の子どもになるよう、あらかじめ定められたのです。神は、人間がこの世に生まれるよう、ご計画に従ってあらかじめ定められたのです。神が人間をお造りになったのです。誰の姿に似せて? 神、御子のお姿に似せて、です。
神は人間を生まれさせ、みこころにより、イエス・キリストによって神の子どもとしてくださったのです。神は、御子の姿に似せて造られた人間を子どもとするために御子をお遣わしになると約束なさいました。アダムの子孫として罪人であった人間を、神はイエス・キリストによってお召しになりました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ 11:28)  神はすべての罪を取り除いた後で人間をお召しになりました。神は、信仰により義にしようとお召しになったのです。
 
 
神は私たちを義とし、栄光をお与えになった
 
神は罪人をお召しになり、一度で永遠に義となさいました。私たちは、神学者が主張するように徐々に浄化されるのではなく、イエス・キリストを救い主として信じることで一度で永遠に義とされました。神は罪人をお召しになり、義とされました。このために神は罪人をお召しになったのです。
「召した人々をさらに義と認めた。」 神に召され、イエス・キリストのなさったことを信じる人々は義となりました。以前は確かにアダムの子孫として罪があったのですが、イエスが本当にすべてを取り除いてくださったという真理を信じたとき、罪はすべて取り除かれました。では、みなさんには罪がありますか、ありませんか? もちろん、ありません! もう罪は何も残っていません。「召した人々をさらに義と認めた。」
義人とは、神の子どもとなった人々です。人間が段階を追って一歩ずつ神の子どもになるというのは、本当ではありません。そうではなく、イエスの贖罪によって一度で栄光を与えられたのです。
「義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。」 神は私たちを子どもとなさいました。なぜあんなに大勢のキリスト教徒がいわゆる「救済への五段階」を信じるのか、分かりません。救済と神の子どもになることは、ただ一度で行なわれるのです。からだのよみがえりにあずかるには主の再降臨を待たなければいけないので、いささか時間がかかります。しかし、罪からの救いは一度に瞬く間に行なわれるのです。お召しになった神の差し出された罪の赦しに答え、人類を救うために神のなさったことを信じると、即座に贖われるのです。「主よ、ありがとうござます。ハレルヤ! アーメン! 私が救われたのは、あなたがお救いくださったからです。主が罪をすべて洗い流してくださったのでなければ、赦されることはなかったでしょう。主よ、ありがとうございます。ハレルヤ!」 罪はこのように拭い去られたのです。
贖罪には人間の行ないも時間も必要ありません。行ないは贖罪にはみじんも影響がないのです。カルビン主義者は、罪を赦され天の国に入るには一歩一歩義認されなければならないと言います。虫がどんなにがんばっても 100 メートルを一秒で走ることができないように、人間は、どんなに善良であっても、律法を守ろうとどんなに努力しても、自己の努力によっては義となることができません。どんなに身をきれいに洗い、念入りに化粧を施したところで、虫は虫のままなのです。同様に、罪人が心に罪をもっている限りは、どんなに善良に見えようとも、やはりただの罪人に過ぎないのです。
どうして、罪人が段階を追って浄化することで完全に義となることができるのでしょう。肉は時がたつにつれて良くなるのですか? いいえ、肉は年を経るごとにますます邪悪になっていくのです。しかし、聖書には「神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々を義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました」とあります。この一節は神の恵みによってただちに起こることを順に並べています。これは、贖いと義認が段階を追って成し遂げられるといっているのではありません。人は、主への信仰をもつことによって、徐々にではなく、ただ一度で義とされるのです。
神学者の多くは自分たちのしていることを知らず、不合理な説を主張して人々を地獄に送るのです。神は贖罪を約束なさり、イエス・キリストによってお召しになり、義とされ、神のお召しに応えて来た者に栄光をお与えになったのです。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」(ヨハネ 1:12)  神は私たちに栄光を与えられましたか? もちろんです! 良い行ないをすることと試練とによって栄光を与えられますか? 義となるためにもっと努力しなければいけませんか? もちろん、いいえ! 私たちはすでに義となっているのです。
 
 
私たちを神の愛から引き離せる者はいない
 
神が私たちの味方であるのなら、誰が私たちに敵対できるでしょう? 誰もいません。「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。『あなたのために、わたしは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた』と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、その他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ 8:31-39)
私たちを神の愛から切り離せる者はいません。義である者を再び罪人にできる者はいません。神の子どもとなって千年王国と天の国に住むはずの者を妨げられる者はいません。患難は私たちを罪人にできますか? 苦しみは私たちを罪人にできますか? 迫害は私たちを罪人にできますか? 飢え、裸、危険、それとも剣は私たちを再び罪人にできますか? 「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」 神は私たちに天の国をお与えになります。神は、人類を救うためにご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡されたのですから、すべてのものを値なくお与えになります。神が最大の犠牲を払ってくださるときに、どうして、神の子どもとなさらないことがあるでしょう?
 
 
神が人類にくださった贖いとは
 
神は、罪を赦されるには、まず第一にイエス・キリストが父なる神の御心によって、肉の形で遣わせられたということを信じなければならないとおっしゃいます。第二に、イエスがヨルダン川でのバプテスマによって人類の罪をすべてその身に被られたことを認めなければなりません。第三に、イエスは人類のために十字架につけられ、最後に、イエスがよみがえられたと認めなければいけません。上記の項目のすべてを信じなければ、救われません。
イエスが神の御子である、または神であり造物主であることを認めない人々は神の救いから除外されます。イエス・キリストの神格を否定する人は、サタンの子となります。イエスがバプテスマのヨハネによるバプテスマの際に人類の罪をすべて被られたことを否定する人々もまた、救われません。イエスはその人たちの救い主とはなれません。その人たちは、頭ではイエスを信じても、心で救われることはありません。その人たちはイエスを知っていても地獄に行きます。イエス・キリストはバプテスマによって罪をすべて被られたために人類に代わって死ぬことがおできになったのです。イエスはご自分の罪のためではなく、人類の罪のために死なれました。それからイエスは、信じる者をすべて義とし、よみがえらせるために死者の中からよみがえられました。
 
 
人類はイエスのバプテスマによって救われた
 
これまで、第 7 章について第 8 章と関連付けて説いてきました。第 7 章では、罪をもつ者は善であることはできないとしています。しかし、第 8 章では、イエス・キリストにある者にはもはや断罪はなく、イエス・キリストを信じることで罪のない者になれると述べています。人間は弱く、神のみこころのままに生きることはできません。そこで父なる神は、人類がまだ罪人であったときに、イエス・キリストを救い主としてお遣わしになり、イエスはバプテスマにより、罪をすべて被られたのです。人類はイエス・キリストによってすべての罪から救われ、義とされました。これが、パウロが第 7 章と第 8 章で教えた真理です。
「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」 私たちにはもう罪がありません。みなさんは、イエス・キリストにありますか? イエス・キリストがみなさんのためになさったことを信じますか? パウロがその罪を赦されたように、私たちの罪もみな、イエスのバプテスマと十字架上の血によって取り除かれたのです。私たちはイエスのバプテスマと血、よみがえりを信じることによって赦されました。傲慢にもイエス・キリストのバプテスマを信じないのなら、イエスがバプテスマを受けたのは謙虚さを示すだけのためだと主張するのなら、神はその人を地獄に送るでしょう。みことばの前で傲慢であってはなりません。パウロがこんなにも重大な問題としているイエスのバプテスマをどうして牧師や神父は無視できるのでしょう? どうしてあの人たちは、ほかならぬパウロ、最も偉大な信仰の父のひとりである人の信仰を無視できるのでしょう? どうしてあの人たちは、神その人が使徒に任じられた神のしもべの教えを無視できるのでしょう?
イエス・キリストについて説くのであれば、聖書の記述内容のままに説き、聖書に従って信じるべきです。主はおっしゃいました、「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あながたがは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ 8:31-32) みなさんと私はイエスのバプテスマをパウロのように信じるようになりました。
みなさんの罪は、いつイエス・キリストの上に移されましたか? 罪はみな、イエスがバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになったときに、イエス・キリストの上に移されました。イエスはヨハネに「今はそうさせてもらいたい。このようにしてすべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです」とおっしゃいました。ここで「このように」とは、ギリシャ語の「hutos」で、「このやり方で」、「最もふさわしい」または、「この方法以外にない」という意味です。このことばは、イエスがヨハネから受けたバプテスマによって、人類の罪をご自分の身に不可逆的に負われたことを表しています。バプテスマとは、「洗われる」という意味です。心にあるすべて罪が洗い去られるためには、イエスの上に罪が移されなければなりません。
イエス・キリストは人類の罪を負われ、人類に代わって十字架につけられ、人類と結ばれて葬られたのです。そこでパウロは「私はキリストとともに十字架につけられました」(ガラテヤ 2:20) と宣言しました。実際に十字架上で殺されたのはイエスであるのに、どうしたら私たちが十字架につけられるのでしょうか? イエスが人類の罪をすべてその身に負われ、それらの罪のために十字架につけられたことを信じたので、キリストと共に十字架につけられたのです。
すべての罪から救ってくださった主をたたえます。イエスが私たちを義となさったので、私たちは大胆に福音を説くことができます。あまりに弱い肉をもち神の栄光からあまりに遠い私たちをすべての罪からお救いくださったことを、主に感謝します。