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Sermoni

主題 9: 使徒パウロのローマ人への手紙

[Chapter 8-12] 誰が私たちに敵対できるでしょう?(ローマ人への手紙 第 8 章 31-34 節)

(ローマ人への手紙 第 8 章 31-34 節)
「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるのなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。神に選ばれた人々を訴えるのは誰ですか。 神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」 
 
 
ローマ人への手紙第 8 章 31-34 節で、パウロは、水と聖霊の福音をまとめて信者に対するキリストの切り離すことのできない愛をあかしし、最終的な結論に達します。この部分では、信仰の極みに達した救済の大いなる喜びが宣言されています。
パウロはローマ人への手紙第 8 章 31 節で、「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるのなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」と記しています。パウロ同様、私たちは自分の弱さがますます明らかになるにつれて、水と聖霊の福音が時とともに広がり、より大きな救済の福音になるのを経験しました。水と聖霊の福音に従えば従うほど、より確信と喜びに満たされるのです。
パウロは、自分の信じる福音を「私の福音」(テモテII 2:8) と呼びました。パウロのあかしした福音は、イエスのバプテスマと血への信仰にほかなりません。
パウロの説いた「私の福音」とは、いわゆる信心深い人々の信じる十字架の福音ではなく、イエスが人類の罪をすべて一度に永遠に取り除いた恵みを告げる水と聖霊の福音です。
この福音によってパウロは大いなる勇気の人になりました。罪の赦しを受けて以来、神の義がパウロの心を満たし、それで心には御霊もまた満ちたのです。パウロは生涯、水と聖霊の福音をあかしすることに身を捧げました。水と聖霊の福音には人類の罪を一度で取り除く力と権威とがあります。
では、誰がパウロの信じた水と聖霊の福音に反対できるでしょう? 誰にもできません。ローマ人への手紙第 8 章 31 節に、「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるのなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」とあります。この世界の誰が水と聖霊の福音を信じる人々に敵対できるでしょう? 神が水と聖霊の福音によって人類をこの世の罪からお救いになったとき、誰に神の力を徒に使えるでしょう? イエスを口先でだけ信じる人々もサタン自身でも、水と聖霊の福音を信じる人々に敵対して勝つことはできません。
 
 

主はみなを一度に義とされた

 
ローマ人への手紙第 8 章 29-30 節には、「なぜなら、神はあらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました」とあります。
これはつまり、父なる神はすべての罪人をキリストのうちで救うことをご計画になり、水と聖霊の福音によってその人々を召され、その罪を一度に洗い流してご自分の子どもとなさったというのです。主が水と聖霊の福音によってすべての罪人を水と聖霊の福音によってその罪からお救いになったというのに、誰が主のなさったことに敵対できるでしょう? 
水と聖霊の福音を信じることで義とされた人々に、誰が敵対し勝てるでしょう? あり得ないことです。水と聖霊の福音を信じることで義とされた人々に敵対する人は誰であれ、ほかならぬ神に敵対しているのです。すべての罪から救われるためには、どうしても水と聖霊の福音を信なければなりません。頭と心で真理の福音に敵対しているのなら、その人は罪から救われず、地獄に行くよう定められているのです。
 
 

神の義をもつ者にはだれひとり敵対できない

 
「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるのなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」 (ローマ 8:31) 神が私たちの味方であるというのは、神が水と聖霊の福音によって私たちの罪をすべて取り除いて救われたということです。では、誰が水と聖霊の福音を信じることで義とされた人々に敵対し、誰がそのような信仰が誤っているといえるのでしょう? それは、無駄な努力というものでしょう。神は、水と聖霊の福音を信じる人々の信仰をよしとなさいました。
どうしてこれを批判できるでしょう? イエスは、バプテスマと十字架上の血とで世界の罪をすべて取り除かれました。これを信じることが悪いと、誰に言えるでしょう? 誰もできません! 
ローマ人への手紙第 6 章 3 節でパウロは「キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか」と言ってます。つまり、パウロはイエスのバプテスマと十字架上の血とによって自分の罪がすべてイエスの上に移され、清められ、またそれによってイエスと共に死に、よみがえったことを信じたというのです。
ガラテヤ人への手紙第 3 章 27 節にはまた、「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。」とあります。この節ではまた、イエスがバプテスマで人類の罪をすべてその身に被られ、その罪のために十字架につけられ、よみがえられたのはすべて、この真実を信じる者が神の子どもとなるという恵みを与えるためだったとしています。パウロの信仰は、自分はバプテスマを受けてイエスに入り、十字架上でイエスと共に死に、共によみがえらせられたのだという信条に基づいています。ですから、ひとたびイエスのバプテスマを信じたとき、みなさんの罪はすべて清められ、キリストと共によみがえらせられることによって神の子どもとなるのです。
「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。」 つまり、イエスがこの世界においでになり、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けて世界の罪をすべてその身に被られたと信じる人はみな、バプテスマによりイエスに入ったのです。この人たちはまた、十字架上でイエスと共に死に、信仰によってイエスと共によみがえらせられたのだとも信じます。
ですから、イエスのバプテスマと血を信じる者はみな、その罪から救われるのです。イエスのバプテスマと十字架上の血を信じた人がみなすべての罪を許されて神の子どもになるのは、イエスが神の御子であるのと同じくらい確かなのです。「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。」 水と聖霊の福音を信じたとき、人は神の子どもになるためにキリストの義を着るのです。
パウロがイエスのバプテスマのことを話すのは、水と聖霊の福音を信じることによって大いなる恵みを受けたからです。しかし、多くの人は、水と聖霊の福音によって与えられる神の恵みをまだ受けていません。たいていの人は、パウロの説いた福音は、十字架上の血の福音だと考えますが、事実は、パウロはイエスのバプテスマと十字架上の血とを組み合わせた水と聖霊の福音を信じて広めたのです。
では、なぜ今日のイエスの信者は水と聖霊の福音を知らないのでしょう? それは、初期の教会で説かれた水と聖霊の福音が時とともに変ったからです。原始教会の時代には、信者はみな水と聖霊の福音を信じ、説きました。
しかしながら、やがて、福音は変えられ、キリストの血だけが説かれ、バプテスマは次第に周辺に              追いやられたのです。今でも多くの人々が十字架上の血だけを信じているのはこのためですが、これは、原始教会の時代の真の福音とは異なっているのです。
これらの人々は、まだ内に罪をもっています。この人々は、神の義が啓示されている水と聖霊の福音を知らず、そのため、イエスを信じると言っていても罪人のままであり、神に敵対しているのです。
霊的な目の開いていない人に何が見えるでしょう? 目の見えない人は触れてみて象を理解しようとするでしょう。それまで象を見たことがないのですから、象の脚に触れた人は、これは柱だと言い、別の人は鼻に触って、これは何か長いものだと言うでしょう。同様に、霊的な目の開いていない人は、水と聖霊の福音の偉大さを語れません。
ですから、水と聖霊の福音の恵みを知らない人は、これについて説くことができないのです。見たこのある人は、人が言葉で説明しようとしていることを容易に理解できますが、見ていない人は決して本当には理解できないでしょう。
人は生まれながらの罪人です。生まれながらに霊的罪人なのですから、水と聖霊の福音の真理を知りません。十字架上の血だけを信じる人々は、自分たちだけの新しいキリスト教を作りました。イエスを信じると言いながら、十字架上の血だけを信じていて、どうしてその人たちの血が洗い流されるでしょう。時と共にさらに多くの罪が積み上がっていくだけなのです。
イエスの血だけを救済と信じる人々は、まだ霊的に目覚めていないのです。しかし、ヨハネの福音書第 3 章 5 節でイエスは「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません」とはっきりと言っています。ですから、神の子どもとなり神の国に入る栄光に恵まれるためには水と聖霊の福音を信じなければならないのです。
パウロは水と聖霊の福音を信じたため、信仰によって「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」(ローマ 8:31) と言ったのです。水と聖霊の福音の恵みを知らない人が神の子どもに敵対できるでしょうか? 神の子どもに敵対することはできるでしょうが、決して勝つことはできないでしょう 十字架上の血だけを信じる人々は、水と聖霊の福音を信じる人々には勝てません。
神の義に敵対する人々は神の敵にしかなれず、そのため、恵みを受けることは絶対にできないのです。神の義の啓示されている福音である水と聖霊の福音を信じることなしに救いを受けたり、天国につながる信仰をもったりすることは、誰にもできません。水と聖霊の福音を信じる人々は、誤った福音に打ち勝って真の福音に戻ることができます。神の子どもは世界と悪魔そのものにさえも打ち勝てます。
イエスのバプテスマとイエスの血とをはっきり理解できずに、誤解から誤った信仰をもつ人たちがいます。イエスの十字架上の血を信じながら、イエスのバプテスマの福音を信じることによって罪の赦しを得ることを重要だとは考えないのなら、その人の信仰は誤っています。
神の前に水と聖霊の福音を信じる人々は、神の義を得、真の信仰をもつのです。神は、御子の十字架上の血だけを信じる者は誤っていると教えます。神の義を信じない人々は、水と聖霊の福音を信じませんが、神の義を信じる人々はまた、キリストの十字架上の血とバプテスマとが自分たちの罪を取り除いたと信じます。
かたくなさは捨てましょう。水と聖霊の福音を認めない人々は、自分たちの誤った信仰が正しいのだと主張します。血だけを信じる人々は、神の義の半分しか信じていないのです。水と聖霊の福音を信じる人々だけが完全な信仰をもち、その人たちだけが神の義を信じ、神の義を得るのです (マタイ 3:15、11:11)。
血だけを信じる人々の書いた書物は紙の無駄にすぎません。かつて神学者たちが取り上げていた教理は、現在のキリスト教徒に無視されていますが、水と聖霊の福音はずっと注目されています。この真理は、使徒時代から存在していて、変ることは決してないでしょう。神のみことばは永遠に存在しますが、血だけを信じる人々は忘れられつつあります。なぜでしょう? それは、神の義の半分だけをもつ血は、それ自体では罪人に何の影響もないからです。
率直に言って、今日のほとんどの人は、キリスト教徒であるとないとに関わらず、多くの罪を犯しています。どうしてその罪を全部、血だけを信じることで赦されるのでしょう? 十字架上の血だけを強調する教理は、罪を犯すたびに赦しを求めて祈るよう教えますが、罪が赦されるまで、どれだけの間祈っていられるのでしょう? その人たちがなんと言おうと、罪の赦しは得られません。
バプテスマを受けず、ただ血を流して死ぬためにイエスはこの世界においでになったのですか? そうではありません。イエスはこの世においでになってバプテスマを受けることですべての罪を被られたのです (マタイ 3:15)。イエスは十字架上で血を流す前にバプテスマのヨハネからバプテスマを受け、それから十字架につけられたのです。イエスはこうしてすべての義を全うされました。イエスがヨハネから受けたバプテスマを信じるのなら、毎日罪の赦しを求めて神の憐れみを乞う必要はありません。そんなことはせず、神の義を信じて完全な救済を受けるのです。
イエスは世界の罪をすべてその身に被るためにバプテスマを受け、世界の罪のためにただ一度で裁かれるために十字架につけられたのです。イエスのバプテスマと血を信じることによってのみ、贖罪は得られます。
 
 
イエスは私たちの犯した罪より大きな救済をくださったのか?
 
イエスのくださった贖罪は人類がこれまで犯し、これから犯す罪のすべてよりもはるかに大きなものです。イエスのバプテスマと血とが人類の罪より大きくなければ、イエスを救い主として信じることも贖罪を受けることもできなかったでしょう。しかしながら、主の善はとても大きいので、バプテスマによって世界の罪をすべて一度に取り除かれたのです。
同様に、天国の門は広く開かれていますが、水と聖霊の福音を信じることなしには誰も入ることができないのです。水と聖霊の福音を信じる人々に敵対することはできるでしょうが、神の恐ろしい裁きから隠れることはできません。ですから、神の義を全うしたバプテスマとイエスの血への信仰に対して勝てるとは思わないことです。
水と聖霊の福音に敵対する人の多くはまた、使徒パウロにも敵対しています。しかし、パウロの信じた水と聖霊の福音が誤っているとは誰も言えませんでした。その人たちは、ただ、イエスが神の御子で救い主であるということを認めないのでした。
ローマ人への手紙第 8 章 32 節には、「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」と記されています。父なる神は、人類を罪から救うために御子をこの世にお遣わしになり、御子がバプテスマによってすべての罪を被り、十字架上で死に、死からよみがえるようになさったのです。
人類を世界の罪から救ってイエスのように神の子どもとするために、父なる神はただひとりの御子をくださったのです。父なる神は、水と聖霊の福音を信じる者をすべて子どもとなさり、恵み、義となさるために、ただひとりの御子にバプテスマを受けさせに遣わされたのです。神はすべての人類に天の恵みと水と聖霊の福音を与えようとご計画になりました。その恵みのひとつは水と聖霊の福音を信じて神の子どもとなることでした。
「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」(ローマ8:32) ここで「すべてのもの」とは、神の贈り物です。贈り物とは何でしょう? イエスを受け入れ、イエスの名において信じた者に、神はご自分の子どもとなる権利をお与えになりました。つまり、水と聖霊の福音を信じた者は神の子どもとなったのです。水と聖霊の福音を信じる人々には罪がありません。その人たちは義であり、真に聖化された神の子どもです。
これらすべてを信じて神の子どもとなった人々には、千年王国と天の国が贈り物として与えられます。義である人々は、天の栄光をすべて相続する恵みにあずかるのです。
「すべてのものを、私たちに恵んでくださ」るという部分を、御霊を与えることだと解釈する人々がいます。その人たちは、「これは、いったんイエスを信じたら、御霊がそれぞれに与えられるということだろうか?」と考えます。これは、誤っています。水と聖霊の福音を信じた時に罪の許しと御霊とを同時に与えられるのです。御霊は、罪深い心には住めません。御霊は、すべての罪が赦されたその瞬間に訪れるのです。
信じる者には、御霊の他にも与えられるものがあります。神の贈り物は、天の恵みがすべて私たちに与えられるまでは終わりません。この世界では、癒し、異言、予言のような力は天与の能力だと考えますが、ここでいう贈り物は、父なる神のもっている天のものすべてを指しているのです。パウロのいう贈り物とは、神が、ご自分の義を得た神の子どもにお与えになるものすべてのことなのです。
神は、水と血と聖霊の福音を信じる者にはよいものをみな贈り物として与えるとおっしゃいました。神は、水と聖霊の福音を信じる者に、新たに生まれるという贈り物をお与えになりました。神は、水と血と聖霊の福音を信じる者に、天にあるものをすべて贈り物としてお与えになります。キリスト教徒はこの世界で生きている間はひどく苦しみますが、神の国が訪れると、天の栄光を与えられるのです。
 
 
何の理由もなく選ばれたと言ってはいけない
 
ローマ人への手紙第 8 章 33-34 節には「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。 死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです」とあります。
「神に選ばれた人々を訴えるのは誰ですか。」神が水と聖霊の福音によってお救いになった人たちを、訴えることができるでしょうか? もちろん、できません!
神学者はカルビンを引用して、ある者は無条件に選ばれたが、他の者は選ばれなかったとしています。しかしながら、神の前では絶対に「無条件に」という言葉を使うべきではありません。そうすることは、自分は神を全く知らず、その教理が誤ったものであることを示しているのです。無条件の選びとは、神がある者を理由もなく愛し、他の者を理由もなく憎むということです。神がある者を愛し、他の者は憎むというなら、どうして義であるといえるでしょう? それは私たちの神ではありません。神はキリストのゆえにすべての人類を愛し気遣われるのです。
第 32 節には「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」とあります。神は、すべての人類を救うために御子をくださいました。神はイエスによって、人類の罪をすべて水と聖霊のみことばとで取り除いたことを人々が信じるようになさったのです。第 33 節は「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか」とあります。ここでいう「神の選ばれた人々」は、神が特定の人々を無条件に選んだことを意味してはいません。神は、イエス・キリストなしでは生きられない人々や自分自身の義をもたない人々を、ご自分の義をまとわせるために選ばれたのです。
神の義によって選ばれた人々とは、イエスが罪をすべて取り除くためにこの世界においでになり、バプテスマを受け、ご自身を十字架上で犠牲になさったという真理を信じる人々なのです。その人たちは、自分たちを世界の罪から救われご自分の義で包んでくださった神を信じる人々です。
では、誰が義である人を訴えることができるでしょう? 誰もできません! 誰ひとり、私たちの信仰が誤っているとは言えません。水と聖霊の福音を信じて罪から救われ、神の子どもに選ばれた人々を誰も裁けません。十字架上の血だけを信じる人々は、水と聖霊の福音を信じる人々が過っていると言ったり、神の前で訴えたりはできないのです。
水と聖霊の福音を信じて神の義に包まれた人々を誤解する人たちがいます。しかし、それは正しいでしょうか? いいえ!神の前で義である者として選ばれた人々の信仰は、ほかの人から誤り判断されてはなりません。
誰が、水と血と聖霊の福音を信じる者を罪人であると言い、その信仰を誤り判断できるでしょう? 私たちは長い間、世界中のすべての人たちに神の義の啓示された水と聖霊の福音を説いてきました。
しかし、水と聖霊の福音を説いたといって私たちを訴えた人は一人もいません。ただ十字架上の血だけの信仰を認めてほしいといってきた人々が少数いただけです。その人たちでさえ、水と聖霊の福音をもつことが誤っているとは言えませんでした。
水と聖霊の真の福音こそが神の義を示す福音なのです。これが真の福音であり、他の福音はみな不完全です。水と聖霊の福音を説いた使徒パウロは、この真の福音以外には別の福音はないと言って、「しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。私たちが前に言ったように、今もう一度私は言います。もしだれかが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです。」(ガラテヤ1:8-9)
水と聖霊の福音が聖書の内容として誤っているとは、誰にも言えません。水と聖霊の福音を信じない人々はこれに反対します。神のお与えになった水と聖霊の福音が誤っていると思うなら、どうぞ神に抗議なさい。私たちも、十字架上の血だけを強調する不完全な誤った福音と戦ってこなければならなかったのです。バプテスマによってまずすべての人々の罪をお被りにならないで、どうしてイエスは十字架につけられることができたでしょう? 
 
 
神の義を信じる人々に罪があると言ってはいけない
 
「訴える」とは、裁判による裁きを求めることです。水と聖霊の福音を信じる人々を訴えることのできるのは、悪人だけです。水と聖霊の福音を信じる人は、神の義を信じているのに、誰にその信仰を誤りと裁くことができるでしょう。その人たちが誤っていると誰に言えるでしょう? 誰も言えません。義となさるのは神だからです。水と聖霊の福音を信じる者をどんな罪ででも訴えられる人はいません。
「神が義と認めてくださるのです。」(ローマ8:33) 水と聖霊の福音を信じる者を罪なき者と宣言することのできるのは、誰でしょう? 神だけです。神はその義によって、水と聖霊の福音を信じる者は義であると宣言なさいます。
「義である」というのは、まだ罪のある人ではなく、実際に罪を赦されて、「罪がなく義である」ようにされた人々をいうのです。水と聖霊の福音を信じる人々には罪がないと神がおっしゃるのに、その人たちが間違っていて、神の義がないと誰が言えるでしょう? この世界の神学者の誰ひとりとしてそうは言えません。
今日のキリスト教は、宗教的聖性を得ようとする聖化の説によって堕落しています。ある英国の神学者は、「神の教会は聖だろうか?」と問い、神の教会にも欠点があると主張しました。この神学者は明らかに、水と聖霊の福音を知らず、神の義への信仰ももっていないのです。
しかし、教会の信者は皆、水と聖霊の福音を信じ、完全に罪がないのです。人は肉においては弱いでしょうが、それでも完璧な神の義をもっているのです。
教会の人にはみな罪がありませんか? はい! 教会は、聖化された罪のない信者がキリストの中に共に集うところです。もし信者に罪があれば、その人は神の子どもではありません。何によって人は聖化されたのでしょう? それは、もちろん、神の義を受けることによって罪なき者とした水と聖霊の福音によってです。あの神学者が教会にも欠陥があると言ったのは、水と聖霊の福音を信じも知りもしなかったからです。
いったい誰が水と聖霊の福音を信じる者を罪人だと言えるでしょう? 神がその人たちを「義とされた」のです。水と聖霊の福音を信じる私たちは、弱いからといって、罪があるということになるでしょうか? そういうことにはなりません! では、これは、罪を犯してもそれでも罪はないということでしょうか? はい、罪はありません! 水と聖霊の福音を信じなければならないのはこのためなのです。人々は、わざとではなく、弱さから罪を犯します。
本気で罪を犯そうとする人は、ごく少数です。ほとんどすべての不法は、人間の弱さから引き起こされているのです。水と聖霊の福音を信じる人々には神の義があるのですから、その心には罪がないのです。罪がないのは、神がご自分の義によってすべての罪を除いてくださったからです。ですから、聖書には「神が義と認めてくださるのです」とあるのです。水と聖霊の福音を信じる者には神の義があるから罪がないと宣言なさったのは、神です。私たちは、水と聖霊の福音を信じることによってすべての罪から救われたのです。
イエスが未来の罪までも除いてくださらなかったなら、どうして罪を赦されてもう罪人でないと言えるでしょう? 神の義を信じた後で、罪を犯し、罪に生きたなら、それは十分に聖化されていないということになって、贖いの資格を失い、地獄に行くことになるのでしょうか? 答えは、いいえです! 救済が自己聖化によるものであるのなら、この世界の誰が救われるでしょう? 誰も救われません! 肉で完全な生活をし、律法を完全に守って聖化された人は誰もいません。ですから、聖書には「義人はいない。ひとりもいない」(ローマ 3:10) とあるのです。
 
 
人間は、その本性において、自身の努力によって神の義を受けることはできない
 
神は、すべての人類を罪から救うために、ただひとりの御子をこの地上にお遣わしになり、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けて十字架上で死ぬようになさいました。水と聖霊の福音を信じる人々は、信仰によって義となりました。このために、この世の中にさえ義である者が存在できるのです。アブラハムもまた、神のみことばを信じて信仰の父となりました。
多くのキリスト教徒は、義認の教理を信じることによって神の義を得ることができると主張しますが、実際は、何も知らないのです。神の義とは、何でしょう? それは、人間の義とはかけ離れた、神の正義です。神の義は、どの福音に明かされているでしょう? 水と聖霊の福音の中に神の義は明かされています。水と聖霊の福音を信じないで拒むということは、神に敵対するということです。
水と聖霊の福音を信じることなしには、誰も罪から救われることも神の義を受けることもできません。人は、ほんのわずかでも神の義に反対できるでしょうか? 私は長い間、水と聖霊の福音を信じて説いてきましたが、この福音に反対できる人には会ったことがありません。神のみことばに基づいて水と聖霊の福音に反論できる人は、誰もいません。神の義の福音が完璧な罪の赦しを与えてくださるからです。
 
 
神の義をもつ者を誰が罪に定められるでしょう?
 
ローマ人への手紙第 8 章 34 節を読みましょう。「罪に定めようとするのはだれですか。 死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」 神の義を信じる人々を罪深いとして罪に定めることのできる人はいますか? 誰もできません!
信仰によって罪から救われた水と聖霊の福音の信者を、罪人として罪に定めることのできる人がいますか? いいえ! 「罪に定めようとするのはだれですか。」 神の義を信じる人々が罪人であると、誰が言えるのでしょう? 
罪の報酬は死です。心に罪があれば、その人は地獄に行くのです。神が人を裁くのは、その人に罪があるからです。しかし、神の義を信じることによって罪を取り除かれた人々は、もう裁かれるべき罪がないので、神に裁かれません。神がご自分の義にある人々をもう裁かないのなら、いったい誰がその人たちを罪に定めようとするのでしょう? イエス・キリストの信者に罪があれば、その人は罪人であり、神によって裁かれ罪に定められるでしょう。罪人は、心の中の罪によって神に裁かれ、ほかの人々から避けられるでしょう。しかし、キリストの信者が水と聖霊の福音を信じて神の義を受ければ、その人は神の前で罪がないので、誰ひとり罪に定めることができないのです。また、そうした人の良心にも罪はないのです。
「罪に定めようとするのは、誰ですか。 死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」神の御子は神の義を与えるために地上においでになり、人類の罪をすべて負うためにバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになり、十字架上で血を流して死なれ、救い主となるためによみがえられたのです。イエスはいま神の右の座に着き、救い主として私たちのためにとりなしていてくださるのです。
御霊もまた、神の義をもつ人々のために祈ります。イエスは私たちのために天で祈られます。御霊もまた私たちのために父なる神に祈りますが、方法は違っていて、私たちの心が弱まったときにいつも、言葉にはできない「うめき」によってなさるのです。
水と聖霊の福音を信じる人々の心の中の神の義はどんなに完全でしょう? 神の義は完全なのですから、水と聖霊の福音もまた欠陥がなく、完全なのです。