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Sermoni

主題 10: 黙示録

[第3章-4] 神のみこころを喜ばせるしもべと聖徒 (黙示録 第 3 章 7-13 節)

神のみこころを喜ばせるしもべと聖徒
(黙示録 第 3 章 7-13 節)
 
現在でもこの世界にフィラデルフィヤのような教会はある
 
ここでは、アジアの七つの教会のうち主に最もほめられ愛されたのはフィラデルフィヤの教会だとしています。
アジアの七つの教会に話された神は、今の時代にあっても教会がフィラデルフィヤの教会のようであるべきであり、そうした教会を通してみわざを行なわれ、喜ばされたいとお望みであることがわかります。現代でも、神のおほめを受ける教会は水と御霊の福音を説いています。
かつてと同じように今でも、神に忠実な聖徒は、たとえその能力は限られていても、水と御霊の福音を広める教会に属しています。神はそうした働き手を喜ばれます。彼らの誰ひとり、手を置くことによって悪魔を追い出したり予言をしたりはできないでしょう。また、彼らの誰ひとり、とりわけ話し上手でも強い説得力の持ち主でもないでしょう。彼らはただ、イエスお一人が、ヨハネから授けられたバプテスマによって人類の罪を被られることによって人類の罪を一度で永遠にきよめられたのであり、人間の罪の裁きはすべて十字架上の血によってキリストの上に移されたのだと信じているのです。
こうした働き手は、主を信じ、崇め、水と御霊の福音への信仰によってみこころに従う信者以上のものではありません。水と御霊の福音を説く人々は、物質的には豊かではありません。また、これといった才能もありません。彼らにあるのはただ、水と御霊の福音への信仰とそれを宣べ広げる情熱だけです。彼らは、主が人類の罪をすべて消すためにほんとうにヨハネからバプテスマを授けられ、十字架につけられ、死者の中からよみがえられたのだから、この福音を広める仕事を行なうことが主の心を喜ばせるのだと信じています。水と御霊の福音を信じる人々はただ主に感謝し、主にのみ従います。
信者はただこの水と御霊の福音をすべての人々に広め、誰もが罪のすべてから救われることだけを望みます。すばらしいことに、神は水と御霊の福音を世界中に宣べ広げることをお許しになり、多くの実を結ぶよう恵まれました。また神は、終わりの時に殉教を受け入れることのできる信仰と携挙、千年王国で生きる恵みをお与えになりました。信者が主のために殉教できるようになさり、また、よみがえりに加わり、天の栄光に包まれるようにしてくださいました。
現在、水と御霊の福音を宣べ広げることに身をささげている信者たちは、神の愛する教会に属しています。
どのようにして水と御霊の福音を世界中に広められるかを考えましょう。神は教会に、福音を宣べ広げる扉はすでに開かれているとおっしゃいました。神の定められたことを誰にも止めることはできないのですから、すべては全うされることでしょう。
神は、水と御霊の福音を信じる者たちがバプテスマの福音を世界中に広めることができるようになさいました。今日でも、教会は水と御霊の福音をこの地上で広めるわざを行なう恵みを受けています。一人一人の能力を見るなら、いずれも欠点だらけです。しかし、心には水と御霊の福音への愛があるために、神は彼らを堅く守り、彼らを通して働かれます。
この世にまだこのようの教会が存在することは、世界にとって大きな希望です。神は彼らに水と御霊の福音を広めるわざを託され、また誰ひとりその仕事を止めることができないようになさっています。彼らは世界のいたるところに水と御霊の福音を宣べ広げ、こうして福音は全世界に広められています。神は彼らに力をお与えになり、ともに働かれます。この仕事に取り組んで霊的にも物理的にも水と御霊の福音を世界の国々に広げる人々に、神は恵まれます。
私たちは、書籍や電子ブックによって水と御霊の福音をこの世界の隅々まで広めています。これを世界の終わりまで続けます。そして、主もまた私たちを通してキリストの御国がこの地上に実現するまで働き続けられるのです。神は、文書によって世界の六十億の人々に水と御霊の福音を宣べ広げることができるようにしてくださいました。神の祝福がありますように!
神の喜ばれる行ないをするには、いつでも霊的戦いに備えている必要があります。ですから、すべてのしもべを堅く守り恵んでくださるよう神にお願いします。主ほど誠実な方はおられません。この世には、私たちの信じる真の福音、水と御霊の福音以外には人類に明確で完全な救済をもたらす真理はただひとつもありません。
 
 
黙示録は勝利する者に与えられた恵みのみことばである
 
神は「勝利を得る者に、わたしは (神のパラダイスにある) いのちの木の実を食べさせよう」とおっしゃいました。これは、神がそうした人々を千年王国に住まわせることを意味します。ここでいう「勝利を得る者」とは、終わりの時に真理をもって反キリストと戦って信仰を守る人々をいいます。現代ではそれは、誤った福音に従う人々に対し、みことばへの信仰をもって戦い勝利する人々を指します。水と御霊の福音を全世界に宣べ広げ、悪に対して善によって勝利するのです。水と御霊のみことばへの信仰によって、すべての嘘つきと誤った教義に対して戦い、勝利するのです。
嘘つきと戦い勝利するためには、いつでも水と御霊のみことばの福音について考えなければなりません。今、水と御霊の福音を信じてすべての罪を清められたなら、世の嘘つきとの戦いはその瞬間から始まります。真の福音を信じる人々は、誤った福音を信じる人々と戦い、勝利します。
そうした誤った福音に従う人々には、いつでも水と御霊の福音を説かなければなりません。なぜでしょうか? 水と御霊の福音の力は誤った福音を打破し、人々に新たな生をもたらすからです。聖書は、善によって悪に打ち勝てと教えます。ですから、魂を罪から救う善き霊的戦いを絶対に諦めてはなりません。
霊的戦いの中に魂の救済の恵みがあります。いつでも水と御霊の福音への信仰をもって嘘つきと戦い勝利することによって、永遠のいのちの実をすべて神にささげることができるのです。
 
 
主は無花果のたとえ話から学べとおっしゃった
 
無花果の木はイスラエルを象徴します。国にはそれぞれ国花や国の木がありますが、イスラエルは無花果の木をその象徴としています。イスラエルの葉が濃く茂ったとき、世の終わりの時が迫っているのです。聖書は、イスラエルがこの地上に再建され強力になったときに主は戻られると告げています。
最近の新聞には、イスラエルとパレスチナとの戦いの記事があふれています。イスラエルは歴史的領土を獲得し、強大になりました。イスラエルの未来はすべて神次第です。将来のイスラエルの盛衰はみな、みことばによって実現されます。そして、イスラエルが地上から消えるとき、この地上に主の再臨が実現するのです。聖書では、無花果の葉が濃く茂るとき主が戻られるのであり、イスラエルの再興と繁栄とが世の終わりの前兆であるとしています。また、終わりの時には世界の自然環境を破壊する災害が起きるとも予言しています。
神はすべての人々に水と御霊の福音への信仰をもてとおっしゃいます。神の目的のすべては、水と御霊の福音への信仰がその中心にあります。ですから、水と御霊の福音を信じる人々はすべての罪から救われます。主は、「あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい」(ルカ 21:36) とおっしゃいます。人は、やがて来る大艱難を自分の力によっては逃れることができません。しかし、神のみことばを信じることによって、克服することができるのです。人類は今、迫り来る大艱難の時に殉教する信仰を備えるべき状況にあります。
キリスト教徒が、終わりの時が来ても自分たちは大艱難を経験しないと考えているのなら、それは大きな誤りです。大艱難前携挙説を信じてはなりません。この説は聖書の真理を離れたものです。聖書、とりわけ黙示録では、聖徒の殉教が七年間の大艱難の前半三年半が過ぎる前に起こるとしています。聖徒が七年間の大艱難を経ずにすむと考えるなら、その信仰はひどく危険で誤ったものです。イエスを信じる人々は、大艱難の只中を生きることになります。
神のみことば全体からみて、義人はこの世にどれだけ長くとどまるでしょう? 彼らは、サタンが自分の印を受けるよう罪人たちに要求し、聖徒が反キリストの軍勢の手にかかって殉教するまでとどまります。これが神の明かされた真理であり、正しい信仰です。
 
 

終わりの時に訪れる大いなる霊的戦い

 
義人の信仰の結果は、神が起こるようになさった大艱難に明らかに示されています。水と御霊の福音への信仰なくして、終わりの時にサタンとの戦いに勝利することはできません。しかし、よろしいですか、最後の勝利は義人のものなのです。水と御霊の福音への信仰をもった者は、たとえ世の終わりが迫っても真の勝者となるのです。ですから、水と御霊の福音を世界中に宣べ広げる仕事を終わりの時が来る前に完了しなければなりません。
水と御霊の福音を信じて主をお喜ばせしましょう。私たちには、最後の勝利をもたらす水と御霊の福音、信仰のみことばがあります。神は世界の終末をはっきりと預言なさいました。また、主はそのとき再臨され、聖徒を天へ引き挙げられ、そのときまだ地上に残った人々に大いなる苦しみをもたらされます。ですから、水と御霊の福音を信じて真の信仰をもって終わりの時を迎えるのです。神はノアの時代、人々がごく普通に飲み食いしているときに世の終わりが来るとおっしゃいましたが、また、水と御霊の福音を信じる人々に、信仰をもって千年王国を待つようにとも告げられました。
水と御霊の福音を信じることなしには、人は世の終わりの時の問題をすべて解決することができません。人はぜひとも水と御霊の福音を信じるべきです。水と御霊の福音を信じない人々は、神に許容されません。神は終わりの時の最終段階に、最も恐ろしい疫病をこの世界にもたらされます。水と御霊の福音を信じない人々は、神の義である裁きを免れることができないのですから、今この福音を信じなければなりません。
すなわち、神の裁きを逃れるためには、誰もが水と御霊の福音を心のすべてで信じることが絶対に必要なのです。すべての人々に最も必要な救済の真理が水と御霊の福音なのです。神の前にこの水と御霊の福音以外に真の福音はありません。世界は罪の文化に深く浸っていますから、この世界にはこれまで以上に水と御霊の福音が必要です。
この最後の時代に他の保証は何もないのですから、人々は毎日罪を犯し、快楽だけを求めて生きています。人類にとって真の希望は水と御霊の福音のみことばの中にあり、このみことばだけが真の希望を与えます。しかし、この世界は神を求めない世界になってしまいました。人間は罪深く、じきに神にその罪を裁かれるのですから、イエスがお与えくださった水と御霊の福音を心のすべてで信じなければなりません。そうすれば、神の恐ろしい裁きから救われるのです。聖書はすべての人々に、罪を悔い改めて神のもとに戻り、水と御霊の福音を受けよと警告しています。
世の終わりとは、罪の中で食べ眠った人々がそれと知らないうちに火と硫黄の湖に入る時なのです。
人は神がお与えになった罪からの救済を受けなければならないのですが、水と御霊の福音を知らずにどうして罪から救われることができるのでしょう。人はみな、自分が罪のために恐ろしい神の裁きを受ける身であり、また水と御霊の福音が贖いの真理であり恵みのみことばであることを知らなければなりません。
聖書は、厳密に何日の何時に世の終わりが来るとは告げていません。世の終わりの時を隠したのは、神の知恵です。終わりの時を明かしては、たいへんな災いを招いたことでしょう。神が裁きの日を人間に隠されたのは、このためです。しかし、神の定められた時が来ると、すべては成就され、まったく新しい世界が始まります。
神は「あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう」とおっしゃいました。このみことばは、聖徒の殉教の後に訪れる七つの災害から彼らを救うとの、神の約束です。しかしながら、これは、終わりの時に殉教することや反キリストから迫害されることから聖徒を救おうということではありません。膨大な数の人々が、水と御霊の福音を信じることによって罪の赦しを得ていなかったために、神の恐ろしい裁きを受けることになるでしょう。その結果、罪深い魂は地獄に落ちます。しかし、神は聖徒がそれより前に殉教するようになさいます。この殉教が恐ろしい災厄から彼らを救うことになるからです。
 
 
艱難の終わりのときに人々の受ける印
 
聖書によると、人々は反キリストの名が記された印を受けるとされています。しかし、黙示のみことばはまた、反キリストの印を額や右の手に受ける者は火と硫黄の湖に放り込まれるとしています。この反キリストの名の印を受けることによって、人々は永遠にサタンのしもべとなるのです。火と硫黄の湖は、罪のある人々のためのものです。
人が信仰によって罪から救われる恵みの時代は、もはや過ぎ去りました。聖書は、無数の殉教者が終わりの時によみがえるとしています。これらの殉教者の名は『いのちの書』に記されていますから、当然彼らは反キリストの名の印を拒みます。
神は、水と御霊の福音を信じる人々がみなこのときに殉教するとおっしゃっています。彼らはサタンの印を受けることを拒んで殉教するのです。義となった人々は、終わりの時の殉教を恐れるのではなく、殉教の後に待っている千年王国のことを神に感謝します。
反キリストの印を受けることは主を裏切る反逆的な行ないですから、これは拒絶しなければなりません。信者はみな殉教に立ち上がります。このときに神への信仰をもち続けることが神に栄光をささげることになるからです。主は、すべての困難に打ち勝つ力を聖徒に与えようとおっしゃいました。
 
 

いつまで、どのように教会は水と御霊の福音を説くべきか 

 
主は、水と御霊の福音を広めるのにどれだけの時間をお与えくださるのでしょう? 答えは、大艱難の殉教のときまで、です。神は、義人がそれまで水と御霊の福音を説いていられるよう、福音を宣べ広げる扉を大きく開かれました。この殉教のときまで、義人は水と御霊の福音を説き続けます。殉教の後に、地上には恐ろしい災厄が訪れます。
現在、義人と罪人とは等しく主の与えられた美しい自然に囲まれて生きています。艱難の時が訪れるまで、義人は水と御霊の福音を説いて信仰を純粋に保ち、主を待ち続けます。義人は福音の畑を耕さなければなりません。
終わりの時に、獣の印が強制されると、信者は主のお与えくださった水と御霊の福音への信仰をもって世俗的な人々と戦うことになります。終わりの時に反キリストから弾圧を受けて殉教したならば、信仰は勝利します。すべての義人の命は主にかかっています。試練の時に守ろうという主のみことばを信じて世の終わりまで福音を説くならば、神は勝利のいのちをお与えになります。義人は真の救済の福音を今日も明日も、いたるところで説きます。
千年王国がもたらされたときに与えられる報酬を得るには、主の再臨を待ち、忠実であらねばなりません。主がこの地上に戻られるとき、千年王国が義人に与えられます。すると義人は、主とともに神の栄光の衣をまといます。
しかし、当面、この地上にいる間は力のあるかぎり水と御霊の福音を宣べ広げ続けるのです。罪人をすべての罪から救う福音、水と御霊の福音は、罪の真の贖いをもたらす福音です。
この地上で世の終わりまで水と御霊の福音を説いて生きた義人は、主にお会いし、千年間支配し、千年王国が終わると神の国に入り、主とともに永遠に生きるのです。心から主に感謝いたします。この希望を与えてくださったことでいっそう主に感謝しなければなりません。
 
 
フィラデルフィヤの教会は力は弱くとも、イエスの名を否定せず、みことばに従ったために、神からとりわけ愛された
 
神は、試練の時を免れるという特別の恵みをフィラデルフィヤの教会にお与えになりました。この恵みは、罪の赦し、千年王国での暮らし、神の国全体の主となる恵みです。罪人のままでいるキリスト教徒は、神の恵みから除外されます。しかし、義人は千年間支配します。
主は、殉教した聖徒を地上から引き挙げられ、その後でこの世界に最悪の災厄を注がれます。善と悪とを区別し、罪人を裁かれるためにそうなさるのです。神は義人、とりわけ、力は弱くともみことばを守って世の終わりまで福音を説く人々を愛されます。そのような信仰をもってそうした教会に属している聖徒は、真に恵まれています。神は、こうした義である聖徒を喜ばれます。
神は、水と御霊の福音を心のすべてで信じてサタンと戦い勝利する者たちに報われるとおっしゃいます。
この地上には、イエスを信じると言いながらサタンに欺かれているキリスト教徒が数多くいます。イエスの来臨によってすべての罪人をその罪から救った救済のみわざは、義である二つの行ないによって成就されました。救済のみわざへの信仰とは、イエスがヨルダン川でのバプテスマによって世の罪のすべてをその身に負われ、十字架まで運ばれ、被った罪のためにご自分の血によって裁かれて救済のみわざを完了されたと信じることです。これが救済の福音、罪人を救った罪の赦しの福音なのです。
しかし、信仰に欠ける人々は、「イエスのバプテスマを信じることなく自分には罪がないと主張する人々」になりました。こうした信仰は誤っています。また、自分ほどイエスを愛する者はいないと主張しながら、自分は罪人であると言う人々もいます。しかし、主は水と御霊の福音を信じる者以外は絶対に天国にお入れになりません。主は罪人の名を『いのちの書』に記されません。水と御霊の福音を信じる人々の名だけが『いのちの書』に記されているのです。
神のお与えになった罪からの救済は「人の行ない」によって得るのではなく、「信じること」によってのみ得られるものなのです。この信仰では、第一に、イエスは神の御子で人類の救い主であり、第二に、イエスのバプテスマと十字架上の血とが救済に不可欠の行ないであったと信じることが条件となります。そして、キリストのよみがえりと再臨をも信じるのです。
マタイの福音書第 7 章 21-23 節には、次のように記されています。「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ、私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども、わたしから離れて行け。』」なぜイエスは、これらの人々を拒まれるのでしょう? 罪のある者の名は『いのちの書』に記されることがないからです。今日、イエスを救い主として信じるという人々は大勢いますが、その多くは、イエスがヨハネから授けられたバプテスマを信じていません。
そのため、彼らの名は『いのちの書』に記されていません。それでもこれらの罪人は、罪をそっくり負ったままで主の御国に入ろうとします。しかしながら、彼らは入ることができません。中には、勇敢にも罪をもったままでも天国に入れると信じる人々もいます。こうした人々は、神のお与えになった救済ではなく、自分たちの誇りによって作り上げたものを信じているのです。その信仰が誤っている人々は、イエスが神であるとも、イエスが世の罪をバプテスマによって被られたということも、また、そうして負われた罪のすべてを十字架まで運ばれたことも信じません。彼らはただ、イエスを世界の四賢人の一人に過ぎないと考えます。こうした人々は、たとえイエスを救い主と信じてはいても罪人です。しかし、主はこうした罪人にお与えになるものがあります。「でも、何を?」と聞きたいでしょう。それは、彼らを待ち受ける地獄です。
罪を赦された義人は、水と御霊の福音への信仰をもって世の終わりまで嘘つきと戦い、勝利しなければなりません。義人の信じるものは、歪められた真理ではありません。主の戻られる日まで、人が何と言おうと、それによって主を信じる真の福音への信仰を捨てることはできません。義人の信じる真のみことばは、神から直接与えられたものです。これは神のみことばによってあかしされました。神ご自身がお話しになりました。神は自ら罪の赦しを約束なさいました。義人はイエスのバプテスマと十字架とを信じてすべての罪から救われ、完全になりました。罪人たちが私たちについて言っていることの中に、何かしら重要で意味のあることがあるでしょうか。何もありません! 義人は、神のみことばを信じて水と御霊の福音への信仰を守るのです。
今は自然災害の時代であり、そう遠くない未来に核戦争もまたこの世界に起こります。そうして、はるかに大規模な災害が引き起こされるのです。神のしもべは、この世界に何が起ころうとしているのかをはっきりと見、それを説きます。世の終わりは突然訪れるのです。世界に核戦争が起こるとき、災害がかつてない規模で起こり、獣の印が人類に押し付けられます。つまり、殉教とよみがえり、千年王国の建設が行なわれるとき、それはキリストの再来の時なのです。すべてのことは主によって起こされ、完了されます。
誰が何と言おうと、世の終わりまで神のみことばを信じ、この信仰を守るのです。困難にもかかわらず主に従い、信者は水と御霊の福音への信仰を堅く守り、宣べ広げていくのです。
主の日を待ち望みながら生きましょう。水と御霊の福音によって、罪人を罪の赦しに備えさせましょう。主はすでに天の恵みをすべて義人のために用意なさり、それらが私たちを待っているはずです。死者のよみがえりと聖徒の変身とが実際に起こる日のために備えましょう。人生の空しさを嘆くのはやめ、水と御霊の福音を信じるのです。
すでに真理の福音を知って、どうしてそれを信じることを拒んで地獄に行くことを選べるでしょう。人生の空しさに絶望するのではなく、水と御霊の福音への信仰によってすべての罪から救われて、千年王国に備えましょう。神のおほめになったフィラデルフィヤの教会のような信仰をもって生涯を生きた後、空中で主とお会いするのです。ハレルヤ!