Search

Studi Sul Tabernacolo

あかしの箱

Sermoni correlati

· あかしの箱に隠された霊的奥義 (出エジプト記 25:10-22)

あかしの箱に隠された霊的奥義
(出エジプト記 25:10-22)
「アカシヤ材の箱を作らなければならない。長さは二キュビト半、幅は一キュビト半、高さは一キュビト半。これに純金をかぶせる。それは、その内側と外側とにかぶせなければならない。その回りには金の飾り縁を作る。箱のために、四つの金の環を鋳造し、それをその四隅の基部に取りつける。一方の側に二つの環を、他の側にほかの二つの環を取りつける アカシヤ材で棒を作り、それを金でかぶせる。その棒は、箱をかつぐために、箱の両側にある環に通す。棒は箱の環に差し込んだままにしなければならない。抜いてはならない。わたしが与えるさとしをその箱に納める。また、純金の「贖いのふた」を作る。長さは二キュビト半、幅は一キュビト半。槌で打って作った二つの金のケルビムを「贖いのふた」の両側に作る。一つのケルブは一方の端に、他のケルブは他方の端に作る。ケルビムを「贖いのふた」の一部としてそれの両端に作らなければならない。ケルビムは翼を上のほうに伸べ広げ、その翼で「贖いのふた」を覆うようにする。互いに向かい合って、ケルビムの顔が「贖いのふた」に向かうようにしなければならない。その「贖いのふた」を箱の上に載せる。箱の中には、わたしが与えるさとしを納めなければならない。わたしはそこであなたと会見し、その「贖いのふた」の上から、すなわちあかしの箱の上の二つのケルビムの間から、イスラエル人について、あなたに命じることをことごとくあなたに語ろう。」
 
 
契約の箱
 
今日は、あかしの箱についてお話しします。あかしの箱は、長さ 113 センチ、幅 68 センチ、高さ 68 センチで、アカシヤ材で作られ、純金がかぶせてありました。箱の中には、十戒を刻んだ石版二枚とマナを納めた金の壷が入っており、後にアロンの芽を出した杖が加えられました。では、あかしの箱に納められた三つの品は何を語っているのでしょう? これらの品から、イエス・キリストの三つのみわざについて詳しく説明することにしましょう。まず、あかしの箱に納められた三つの品が体現している霊的真理についてお話ししましょう。
 
 
律法を刻んだ二枚の石版
 
契約の箱の内容
 
あかしの箱に納められた、律法を刻んだ二枚の石版は、神が律法をお与えになった律法の主であることを告げています。ローマ人への手紙第 8 章1-2節には、「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです」とあります。この部分から、神が人類の心に二つの律法を定められたことがわかります。いのちの律法と死の律法です。
この二つの律法により、主はすべての人類に呪いと救済とをもたらされました。第一に、律法から、人間は避けようもなく地獄に定められた罪人であることがわかります。しかしながら、自らの罪深い本性と滅びの定めを知る者に、神は救済の律法、「キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理」をくださいました。神はこの二つの律法をくださって、人間みなの真の救い主となられました。
 
 
金の壷に入ったマナ
 
これも箱に納められた金の壷には、マナが入っていました。イスラエル人が四十年間荒野で過ごしたとき、神は天から食物をもたらされ、イスラエル人はこのマナをさまざまに調理して糧としました。それは白いコリアンダーの実のようで、ハチミツで作られたウエハースのような味がしました。神がイスラエル人にお与えになったこのマナは、カナンの地に入るまで人々を養ったのです。ですから、記念としてこの食物を壷に納めたのです。
このことから、今日の信者もまた、いのちの糧を食べていなければならないことがわかります。つまり、神の霊的子どもはこの世にいる間、天国に入るまではそれを食べるのです。しかし、時に世の糧、つまり、神のみことばではなく世の教えを食べたいと思うことがあります。それでも、神の子どもが霊的カナンの地に到着するまで真に糧とするべきものは神のみことば、天からきた真のいのちの霊的糧なのです。
真のいのちの糧をとることには、けっして飽きることがありません。この霊的糧をとればとるほど、魂の真のいのちとなっていくのです。しかし、神のみことばではなく世の教えの糧を食べると、魂は最後には死んでしまいます。
神はイスラエル人に、天からきたマナを壷に入れておくようと命じられました。出エジプト記第 16 章 33 節で神は、「つぼを一つ持って来て、マナを一オメルたっぷりその中にいれ、それを主の前に置いて、あなた方の子孫のために保存しなさい」とおっしゃっています。天からきたマナは、人々の魂の真のいのちの糧です。「それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。」(申命記 8:3)
 
 

では、人類にとっての真の糧とは誰か

 
人類の罪を負われるためにイエス・キリストがお受けになったバプテスマ、磔刑、流血が真のいのちの糧です。ご自分の肉と血とをお与えになることで、イエス・キリストは永遠のいのちの糧となられたのです。ヨハネの福音書第 6 章 48-58 節には、次のようにあります。「わたしはいのちのパンです。あなた方の先祖は荒野でマナを食べたが、死にました。しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。』すると、ユダヤ人たちは、『この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか。』と言って、互いに議論し合った。イエスは彼らに言われた。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。これは、天から下って来たパンです。あなたがたの先祖が食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。』」
主は、「これは、天から下って来たパンです。あなたがたの先祖が食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます」とおっしゃいました。「天から下って来たパン」とは、何だったのでしょう? これは、イエスの肉と血のことです。聖書では、イエスの肉に関して、イエス・キリストがヨルダン川でヨハネから授けられたバプテスマによって世の罪を被られたと告げています。イエスの血とは、イエスがバプテスマをお受けになったので、世の罪を運ばれ、十字架につけられて罪の罰をお受けになったということを示しています。
あかしの箱に納められた壷の中のマナは、イスラエル人が荒野にいたときのいのちの糧でしたが、新約の時代には、霊的意味として、イエス・キリストの肉を指しています。これは、イエス・キリストがすべての罪人の咎を負われたバプテスマと十字架上で流された血とを示してます。イエス・キリストがバプテスマによってこの世の罪をすべて被られ、十字架上で血を流されて死なれたために、バプテスマと流血とが、信者が新たに生まれることを可能にした新たないのちの永遠のいずみとなったのです。
バプテスマによって罪人の咎を負われるためにイエスがささげた肉と十字架上で流された血とが、すべての罪人が罪の赦しを受けることを可能にした、いのちのパンなのです。ですから、イエスが「人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません」(ヨハネ 6:53) とおっしゃった理由がわかるでしょう。
 
 
誰がより偉大か
 
ヨハネの福音書第 6 章を読むと、当時のユダヤ人の大半は、モーセがイエスよりも偉大であったと考えていたことがわかります。イエスがこの世に来られたとき、人々は尋ねました。「あなたは先祖のモーセより偉大なのですか?」 実際は、彼らはモーセが誰よりも偉大だと考えていたのです。ユダヤ人はイエスが救世主であると気づかなかったので、ただの厄介者とみなしました。そこで、「あなたは先祖のモーセより偉大なのですか?」と尋ねました。イスラエル人はヤハウェの神を信じていましたが、そこにほんの三十歳ほどの若い男がやって来て、「あなた方の先祖は荒野でマナを食べたが、死にました。しかし、わたしが与えようとするパンを食べる者は永遠に生きます」と主張したのです。人々がモーセとイエスの二人の力を比較したのは、このためです。
イエスは後に、「アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです」とおっしゃいました。イエスは創造主であられたのですから、全人類史上の誰よりも偉大でした。単なる被造物がどうして創造主に挑むことができるでしょう。それでも、イエスは優れた教師に過ぎず、単に人類史上の偉大な賢人の一人なのだと言う人々がいます。なんという冒瀆でしょう。イエスは王の王、全宇宙の創造主です。全知全能の神です。それなのに、主はみなさんや私を罪のすべてと永遠の死とからお救いになって真の救い主となられるために身を卑しくされて、この地上に人間の肉の形でおいでになったのです。
イエス・キリストはおっしゃいました。「預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる。』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。だれも神を見た者はありません。ただ神から出た者、すなわち、この者だけが父を見たのです。」 結局のところ、イエスは、ご自分がユダヤ人が待っていたキリストであると告げておいでなのです。しかし、人々はイエスのおっしゃっていることが理解できず、信じることも受け入れることもできず、その結果、深刻な誤解をして、「どうしてあなたの肉を食べさせてくれることができるのです? ほんとうにあなたの肉を食べ、血を飲んだら永遠に生きられるというのですか? 私たちを食人種か何かだと思っているのですか?」と尋ねます。
しかし、イエスの肉を食べ、血を飲む者は永遠に生きるのです。イエスの肉はいのちのパンです。この壷の中のマナ、いのちのパンの実体は、イエス・キリストの肉と血です。この地上に来られて肉と血とをささげられることによって、イエスは人間がいのちのパンを食べて永遠のいのちを受けることができるようになさいました。
では、どうしたら誰もがイエスの肉を食べ、血を飲むことができるのでしょう。イエスの肉を食べ、血を飲む唯一の方法は、イエスのバプテスマと十字架の血とを信じることです。人は信仰によってイエスの肉を食べ、血を飲むのです。みなさんや私に罪の赦しを与え、天の御国で永遠に生きることができるようになさるために、主はバプテスマをお受けになって血を流され、罪を一度で永遠に消し去ってくださり、それによって人間の魂の糧となられたのです。そこで、神の水と御霊のみことばを信じることによって、人はこの霊的糧を食べ、永遠のいのちを受けるのです。
どのようにしてイエスの肉を食べ、血を飲むことができるかを、もっと詳しくお話しましょう。よく知られているように、イエス・キリストはこの世に来られ、三十歳のときにヨハネからバプテスマを授けられて人類の罪を負われ、それから、十字架上で血を流されて人類の罪の罰をすべて受けられ、死なれました。この真理を信じて、人は主の肉を食べ、血を飲むことができるのです。イエスが受けられたバプテスマによって人類の罪がその体に移されて、罪を洗い流すことは全うされました。イエスの血を飲むというのは、イエスはバプテスマをお受けになって十字架上で血を流されましたが、主が血を流されたのは、人間の罪の罰を受けられたということなのです。
ですから、イエスの血を心で信じる者は、イエスが受けられた十字架での罰によって自分の罪全部の罰が完全に終わっているために、渇きを癒されているのです。この真理を知っておきましょう。そして、信じるのです。イエス・キリストがこの世に来られ、ヨハネからバプテスマをお受けになって罪を負われたため、この真理を信じて聖徒はすべての罪をただ一度できよめられているのです。
神は、信仰によってイエスの肉を食べ、血を飲むようにとおっしゃいました。イエスがヨハネからお受けになったバプテスマによってすべての罪を被られて誰の不正をも残されなかったので、また、十字架上での罰にご自分の身をささげて尊い血を流されたので、信じる者の心はきよく、渇きがないのです。彼らは信仰によってすべての罪を洗い流し、罪の罰をすべて受けたためです。イエスが、「わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです」(ヨハネ 6:55) とおっしゃったのは、このためです。
確かに、このイエスは救い主、人類の罪を洗い流され、人類の罪の罰を受けられた、神の御子なのです。罪から来る報酬は死であると定めた律法から人類を解放なさるために、人類の罪を全部洗い流されるために、そして、罰のすべてから救われるために、このお方、救い主で神の御子は十字架上でご自分の身をささげられ、血を流され、それによって信じる者の心をきよめ、その渇きを癒されたのです。これが、イエスの肉と血のはたらきです。
イエスは人類の罪と呪いとを処理なさった救い主です。イエスは授けられたバプテスマによって人類の罪を被られ、人類の罪の罰として十字架につけられ、血を流された救い主です。イエスが世の罪を被られたために、十字架につけられてお受けになった罰がすなわち人類の罪の罰であったのです。
この水と御霊の真理を信じることによって、人は罪の赦しを受けることができるのです。イエスのバプテスマと流血とをご自分の罪の赦しだと考えてください。この真理の福音を信じると、人は霊的意味でイエスの肉を食べ、血を飲むことができるのです。つまり、神の御子イエス・キリストがこの世に来られ、バプテスマによって人類の罪を被られ、十字架上で人類の罪の罰をすべて受けられたために、人はイエスの肉を食べ、血を飲む存在となり、永遠のいのちを受けることができるのです。聖徒は、イエスのバプテスマと流血とを信じて、イエスの肉を食べ、血を飲むことができます。イエスのバプテスマと十字架上で流された血とを罪の赦しの糧として食べることによって、人はすべての罪を赦されます。この信仰によって、聖徒は罪の赦しを受け、神の子どもとなり、神の御国で永遠に生きることができるのです。
 
 
アロンの芽を出した杖
 
あかしの箱に納められた物のうち、アロンの芽を出した杖は、天の御国の永遠の大祭司イエス・キリストを指しています。これはまた、永遠のいのちがイエスにあることをも告げています。理解しやすいよう、民数記第 16 章 1-2 節を読みましょう。「レビの子ケハテの子であるイツハルの子コラは、ルベンの子孫であるエリアブの子ダタンとアビラム、およびペレテの子オンと共謀して、会衆の上に立つ人たちで会合で選び出された名のある者たち二百五十人のイスラエル人とともに、モーセに立ち向かった。」 
この部分は、レビ人の中の二百五十人の名のある会衆指導者たちが集まってモーセに立ち向かったとしています。彼らは、「モーセとアロンよ、あなたたちは、私たちをエジプトから連れ出して、何をしてくれました? ぶどう園をくれましたか? オアシスに導きましたか? 何をしてくれたのです? 結局は砂漠の砂の上で死ぬために荒野に連れて来たのではありませんか? どうしてそれで神のしもべと言えるのです? 神はあなたたちを通してだけみわざをなさるのですか?」 つまり、これは、モーセとアロンの指導に対しての造反だったのです。
その時、神は造反を先導したコラ、ダタン、オンその他の会衆の指導者たちに告げられました。「彼らの父祖の家のすべての族長から十二本の杖を、取れ。その杖におのおのの名を書きしるさなければならない。……会見の天幕の中のわたしがそこであなたがたに会うあかしの箱の前に置け。わたしが選ぶ人の杖は芽を出す。」 神はさらにおっしゃいました。「こうしてイスラエル人があなたがたに向かってつぶやく不平をわたし自身が静めよう。」(民数記 17:5)第 8 節には、「レビの家のためのアロンの杖が芽をふき、つぼみを出し、花をつけ、アーモンドの実を結んでいた」とあります。
それから、第 10 節には、「主はモーセに言われた。『アロンの杖をあかしの箱の前に戻して、逆らう者どもへの戒めのため、しるしとせよ。彼らのわたしに対する不平を全くなくして、彼らが死ぬことのないように』」とあります。こうして、アロンの芽を出した杖があかしの箱の中に納められることになったのです。
このことから、レビの子孫であるアロンがイスラエル人の油注がれた大祭司であることがわかります。モーセは神の預言者、アロンとその子孫はイスラエル人の大祭司でした。神ご自身が地上の大祭司職をアロンに託されたのです。神はモーセにいけにえの制度を示されました。イスラエル人が罪を犯したときには、いつでもいけにえのささげ物を連れて来て、いけにえの制度に定められたようにささげ物をささげるのをアロンが監督するようになさったのです。
神が大祭司アロンを祭司職に任じておられても、そのことに異議を唱える人々がいました。そのために、神はアロンの杖に芽を出させ、彼の祭司職は神の定められたものであることを示されたのです。それから、この教訓を忘れないように、その杖をあかしの箱に納めるようにイスラエル人にお命じになりました。このようにして、律法の二枚の石版、マナの壷、それにアロンの芽を出した杖があかしの箱に納められることになったのです。この三つの品には、どのような霊的意味があるのでしょう? 救い主イエス・キリストのみわざを指しているのです。
 
 

人類の罪を消されるために、イエス・キリストはどのようなみわざを行なわれたか 

 
第一に、預言者のわざを全うされました。イエスはアルファであり、オメガです。始めと終わりをご存じで、始めと終わりについてすべてをお教えになりました。主は、人間、みなさんや私が罪深いままであったなら何が起こるかをご存じです。
第二に、イエスは天の御国の永遠の大祭司になられました。イエスがこの世に来られたのは、天の御国の真の大祭司となられることによって、ご自身が救い主となって人類を罪からお救いになるためでした。
第三に、イエス・キリストは人類の王です。聖書には、「その着物にも、ももにも、『王の王、主の主』という名が書かれていた」(黙示 19:16) と記されています。イエスは全宇宙の創造主そのものであられますから、その中のすべてを支配する権威がおありです。
よろしいですか、王であられるイエス・キリスト、人類の罪からの救済についての真理を教えってくださった預言者、天の永遠の大祭司が真の救い主となられたのです。
主はみなさんや私を罪から救ってくださり、神の民・子ども・働き手となさり、よい業をすることができるようになさいました。この世にあっても新たな生を生きられるよう、魂が新たに生まれるようになさいました。そして、時が来ればよみがえらせてともに天国で暮らせるように、新たないのちをくださいました。みなさんや私にとって、イエス・キリストとは誰でしょう? 真の救い主です。そしてイエス・キリストは預言者、永遠の大祭司、王であられます。
神のみことばに逆らいたいわけではないのに、人間は不完全で弱いので、いつでも罪を犯さずにはいられません。このように生き続け、死んで神の前に立ったなら、どこに行くことになるのでしょうか? 天国でしょうか、地獄でしょうか? 全員が「罪から来る報酬は死」と定めた律法に従って裁かれるのなら、みな滅ぼされるのではありませんか? 私たちのような存在を罪と滅びとから救われ、救い主となられたのがイエス・キリストなのです。主自らがこの世に来られ、人類を愛され、人類を罪から救った救い主となられ、それによって群れの偉大な羊飼いとなられたのです。
ヨハネの福音書第 3 章 16 節には、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」と記されています。神はみなさんや私を深く愛されたので、ご自身が私たちのためにこの世に来られ、世の罪を被られるためにバプテスマをお受けになり、十字架につけられて死なれ、死者の中からよみがえられ、そうして真に救い主となられたのです。ですから、救い主となられたイエス・キリストを心で信じて、聖徒は罪をきよめられた者、神の子どもとなって永遠のいのちを受けるという救済の恵みを受けた者となったのです。
神の前で絶対に信じているべきことがあります。それは、神が人類を愛されたので、罪を消されるために、受肉してこの世に来られ、バプテスマをお受けになり、十字架上で死なれ、死者の中からよみがえられ、それによって真の救い主となられたということです。心の信仰によってイエスの肉を食べ、血を飲むことで、永遠のいのちが与えられるのです。これ以上に明確なことはないのですから、これを認め、信じないではいられません。
人は信仰によってイエスの肉を食べ、血を飲むのです。そして、イエスが全うされた水と御霊の福音をありのままに認め信じる信仰は、誰もがもつことができるのです。信じること以外に何をすることがあるでしょう。他には神に敵対することしかできません。人間は、よく神に逆らい、罪を犯します。しかし、それでも神は人類を愛されて、みなさんや私を罪のすべてからただ一度でお救いくださったのです。
 
 
旧約の時代、神は救済についてどのように話されたか
 
では、どのような方法で主は人類を救われたのでしょう? 旧約では、神は幕屋の入り口と大祭司の着た衣装に用いられた色によって救済について語られました。幕屋の入り口に用いられた青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布の色は、完全な救済を示す啓示です。また、大祭司の衣装には金の糸が加えられていました。
青い糸は、イエス・キリストが救い主としてこの世に来られ、バプテスマをお受けになって人類の罪を被られたことを告げています。紫の糸は、イエス・キリストが王の王、宇宙を造られた創造主であられる神であることを示します。緋の糸は、イエス・キリストがバプテスマによって人類の罪を被られ、世の罪を運ばれて十字架上で罪の裁きを受けられ、血を流して死なれ、それによって人類をすべての罪の罰から救った救済をお与えくださったことを告げています。
撚り糸で織った亜麻布は、旧約と新約の綿密なみことばを意味します。それは、主がこの地上に来られ、バプテスマをお受けになり、十字架上で死なれ、死者の中からよみがえられ、それによって心から信じる者の罪を消し去られ、魂を雪のようにきよめて救ってくださったことを示しています。金の糸は、イエス・キリストが人類のためになさったことを信じる信仰を表します。金の糸が輝くのは、このためです。みなさんや私には誇るべきものは何もありませんが、イエス・キリスト、神そのもので神の御子がしてくださったことを心の底から信じるなら、神のしてくださった正しいみわざへの信仰をもつなら、真に神の愛をまとい、恵みを受けることができるのです。これを、神は幕屋によって告げられているのです。
幕屋の中に置かれたあかしの箱によって神が告げておられることを知りましょう。イエス・キリストがこの世に来られ、バプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになって人類の罪をすべて被られ、人類の罪の罰を受けて十字架上で死なれ、再び生きるために死者の中からよみがえられたことを知り、信じるのです。あかしの箱によって神は、人がイエス・キリストを救い主、神であると心から信じることが何よりも重要であると告げておいでなのです。イエスのバプテスマが自分の罪を取り除いたのであり、イエスが十字架上で血を流されたのは自分の罪の罰であり、イエス・キリストの死は自分の死であり、よみがえりは自分のよみがえりであると信じる者が、神に救われているのです。
それでは、幕屋は誰を指しているのでしょう? イエス・キリストを指しているのです。イエス・キリストがみなさんや私を罪からお救いくださった救済の方法を告げているのです。新約では、バプテスマを受けて十字架上で死なれ、それによって人類の罪をすべて消され、洗い流され、人類の咎の罰をお受けになり、人類をすべての罪からただ一度で救われたのは、イエス・キリストでした。
旧約では、手を頭に置かれて罪人の罪を受け、血を流して死んで罪人を救ったのは、いけにえのささげ物でした。旧約は、手を置かれて罪人の罪を負い、身代わりとなって死んだいけにえのささげ物の死を贖いの死であるとしています。旧約に示された贖いのいけにえの制度は、新約とともに、バプテスマと血とによって来られた、水と御霊の福音の成就者イエス・キリストを示しています。
では、この救済の律法は誰が定めたのでしょう? 救い主であられる神が定められたのです。神は、罪人を罪から救う救済の律法を定められ、それをお与えになりました。あかしの箱には律法の二枚の石板、マナの壷、それにアロンの芽を出した杖が納められましたが、すべてイエス・キリストの特性とみわざを物語っているのです。
アロンの芽を出した杖は、霊的に天の御国の大祭司、偉大な羊飼いとなられたイエス・キリストを信じる者を神が救われることを告げています。マナの壷もまた、いのちのパンとなられたイエス・キリストの肉と血について告げています。律法の刻まれた二枚の石版は、神が律法の主であられることを告げています。神の定められた律法は、罪と死の律法と罪の赦しと救済の律法です。神として、イエスはいのちの律法と滅びの律法とを定められました。
このように、あかしの箱とその中のもの全部がイエス・キリストについて語っているのです。イエス・キリストを救い主として信じることによって、人はすべての罪をきよめられ、救済を受けることができます。どんなに欠点だらけで弱い人間であっても、イエス・キリストが定められた二つの律法を受け入れて従うなら、一度罪人となり、それからすべての罪の赦しを受けて再び義人となり、それによって神の民となることができるのです。信じていますか?
今現在、世界中のキリスト教徒のほとんどが、幕屋に示された真理を知らないために空しくイエスを信じています。その人たちは、イエスの十字架上の血だけを信じて罪の赦しを受けられるのだと信じています。つまり、イエスは十字架上の血だけによって救ってくださったと信じているのです。しかし、イエスはほんとうに救済のために十字架上で死なれたのでしょうか? 人類の贖いのためになさったのは、それだけだったのでしょうか? そうではなくて、ヨハネからバプテスマをお受けになってただ一度で世の罪をすべて被られた (マタイ 3:13-15;ペテロI 3:21;ヨハネI 5:6) のではありませんか? 
しかし、今日のキリスト教徒はイエスの十字架上の血だけを信じ、罪の半分しか赦しを受けていません。そこで、イエス・キリストを救い主と信じて原罪を贖われ、毎日悔い改めの祈りをささげて犯した罪を洗い流そうとします。なんと矛盾した救済でしょう。これでは、信仰によって罪の半分だけを洗い、それから残りを自分の努力で洗い流そうとしているようなものです。
こういうわけですから、どうしてイエスのバプテスマと血とを一組として繰り返し説き続けずにいられるでしょう。これまで、原始教会期のキリスト教徒は別として、この世界の多くのキリスト教徒は、半分だけの救済を信じてきました。今キリスト教を信じる人々が、世俗的宗教に過ぎないものであるかのように信じているのは、このためではありませんか?
それほど前のことではありませんが、合衆国のヴァレリー・ジョーンズという女性がこの幕屋シリーズ第一巻を読んで罪の赦しを受けました。本を読む前、彼女はすでにこの宣教会の出版物を何冊か読んでいました。この宣教会の本に書かれていることについては認めるものの、まだ完全に水と御霊の福音を信じるには至っていませんでした。「これは正しいようだけれど、では、なぜもっと大勢の人がこれを説いていないのだろう」と思って、信じきれずにいたといいます。しかし、幕屋シリーズ第一巻を読み終えて、水の福音は正しいものであり、これが幕屋に体現された真理そのものなのだと信じて、明確な救済の信仰をもつようになりました。
同じ本を読んだベニンの読者もまた、書いています。「あなたの本を読んで罪の赦しを受けてから、それまでの教会に行くのはやめたと聞いたら、ひどく驚かれるでしょうね。なぜそれまで通っていた教会をやめたかですって? 聖書では教えていない漸進的聖化説を説いているからです。漸進的聖化説はまったく聖書の内容にそぐいません。肉はけっして聖化されないのに聖化されなければならないし、そうなるのだと教え続けているので、そんな説教をじっと座って聞いているのが耐えられなかったのです。
それで、この教会を抜けたのです。あなたの本を読んで罪の赦しを受けたので、それまで通っていた教会を去り、縁を切るしかなかったのです。こうしたことを経た者がみな信仰の民となって神の教会に結びついているのですから、この世界の人々もみな、真理を知りさえすれば、みことばに『あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします』とあるように、変わることができるのです。」
幕屋のあかしの箱もまた、イエス・キリストを表わしています。あかしの箱は幕屋の最奥部に置かれていました。幕屋の垂れ幕を揚げ、中に入り、それから至聖所との間の垂れ幕を掲げて中に入って、はじめてそれを見ることができます。つまり、幕屋の入り口は東にあり、箱は幕屋の西の端にあったのです。
 
 
棒は箱から抜いてはならない
 
出エジプト記第25章 14-15 節には、「その棒は、箱をかつぐために、箱の両側にある環に通す。棒は箱の環に差し込んだままにしなければならない。抜いてはならない」とあります。ここは、どういう意味なのでしょう? ここで神は、自らを神にささげて水と御霊の福音に仕えなければならないと告げておられるのです。福音は、聖徒がみわざのために身をささげてはじめて広まるのです。福音に身をささげて主に仕えるとは、主が先に歩まれた十字架の道をたどるということです。主が弟子たちに「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(マルコ 8:34) とおっしゃったのは、このためです。
真の福音を全世界に広めるためには、膨大な犠牲と努力と苦しみが求められます。使徒パウロが水と御霊の福音のためにどれほどの苦労をしたかを見るだけでも、そのことはわかります。「彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、彼ら以上にそうなのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数え切れず、死に直面したこともしばしばでした。ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかる すべての教会への心づかいがあります。」(コリントII 12:23-28)
しかしながら、すべての呪いからお救いになるために身を犠牲になさった主以上に自分を愛する者は、神の御国のために自らを犠牲にすることができません。水と御霊の福音に仕えるのに楽な道はありません。農民は、汗を惜しんでどうしてよい収穫を得られるでしょう。
このように、あかしの箱は人間の犠牲によって運ばれるものなのです。かつてダビデ王は、定められたように棒で担がせる代わりに、箱を雄牛の牽く車で運ぼうとしたことがあります。途中、雄牛が躓いたとき、ウザという者が神の箱に手を伸ばして押さえました。主の怒りがウザに向かって燃え上がり、その過ちのためにウザを打たれました。ウザは箱の傍らで死にました (サムエルII 6:1-7)。そこで、ダビデは主を恐れ、箱をガテ人オベド・エドムの家に回しました。三ヵ月後、ダビデは箱を部下に担がせて、ようやく自分の城に運び入れることができたのです。この出来事が示しているように、あかしの箱は神が指示なさったとおり血と汗、犠牲、福音へのたゆみない献身によって運ばなければならないのです。
深い感謝の念をもって真に罪の赦しを受けた者は、人類のために身をささげられた主に喜んで献身します。聖徒は、救い主で神であられる主に繰り返し感謝をささげます。この世で福音に仕えることができるようにしてくださった主に感謝します。
主が真理の福音に仕え、主に従って主の喜ばれるような生き方をするように選んでくださったという、この夢のような事実に驚嘆し、大いに喜びます。救済の真理を知ることができるようにしてくださったことだけでも、喜びに満たされるに十分だったでしょう。それなのに、主はこの福音に仕えることをもお許しくださったのです。このようなすばらしい恵みを受けて、どうして感謝せずにいられるでしょう。聖徒は心から神に感謝をささげます。真の福音を広めるため、犠牲を払うことを厭わないのは、このためです。この世界宣教という聖なる働きのためには、時・努力・財産をも惜しみません。
実際、罪の赦しを受けたこと自体が、限りなくありがたいことなのです。しかし神は、それだけではなく、さらに真理の福音、水と御霊の福音に出会って広めることができるようにしてくださったのです。これがすばらしい恵みでなくて、何でしょう。
他の誰が水と御霊の福音にあえて仕えようとするでしょう。誰もがこの福音に仕えることができるわけではありません。政治家は仕えることができるでしょうか? 市長は? 大統領は? 王は? 社会的地位がどんなに高くとも、水と御霊の福音を知り、信じないのなら、けっして真の福音に仕えることはできません。それでも、神は私たちにこのような不相応な機会をお与えくださり、実際にこの福音に仕えることができるようにしてくださったのです。なんというすばらしい恵みでしょう。
愛のゆえにお救いくださった恵みを神に感謝いたします。みなさん、私たちは、イエス・キリストが神で救い主であられると信じています。私たちは霊的信仰によってイエスの肉を食べ、血を飲んだ、神の民です。聖書は、イエスは死者の神ではなく、生ける者の神であると告げていますが (ルカ 20:38)、ここで生ける者とは、水と御霊の福音を信じて永遠のいのちを受けた者にほかなりません。この福音の真理を信じない者は誰でも霊的に死んでおり、これを信じる者は誰でも霊的に生きています。神は、まことに水と御霊の福音を信じる人々の神なのです。
みなさん、イエスご自身が肉と血とによって罪の赦しをお与えくださったのです。よろしいですか、この真理を信じなければ、その人はイエスとは関わりがないのです。イエス・キリストは天の恵み、永遠のいのち、罪の赦しをくださいました。永遠の恵みをお与えになり、導き守る羊飼いとなられたお方はどなたですか? イエス・キリスト、水と御霊の福音を成就なさった方です。イエスはこの神です。みなさんの一人一人がみな、このイエスを神と信じられるよう祈っております。
私は、この真理を信じて神に仕えているばかりではなく、将来もずっと続けていくつもりです。みなさんは、どうですか? みなさんは水と御霊の福音を信じていますか? また、信仰によって神の教会とキリストの愛に住まなければならないのだと信じていますか? みな、主にお会いする日まで水と御霊の福音を信じて生きていきましょう。