救済・聖霊・幕屋・ヨハネの黙示録についての聖書学習のための無料キリスト教図書

ホーム  |  サイトマップ  |  お問い合わせ   |  ヘルプ    
聖書学習 無料
キリスト教図書
無料
キリスト教電子ブック
団体概要
 



 重要な主題に関する Paul C. Jong 師による説教

 

人間は罪人として生まれる



< マルコの福音書 7:20-23 >
「また言われた。『人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。』」



人は混乱し、自身の幻想の中で生きている

最も救われる見込みのある
人は誰ですか?
自分を最も深刻な罪人で
あると考える人。

まず最初に質問しましょう。自分をどのように見ていますか? 良い人間と悪い人間のどちらでしょうか? どう思いますか?

人はみな自身の幻想の中で生きています。みなさんは、自分で考えるほどには良くも悪くもないでしょう。

では、誰がよりよい信仰生活を送っていると思いますか? 自分が良い人間だと思っている人ですか? 自分は悪い人間だと思っている人ですか?

後者です。もう一つ、お尋ねしましょう。最も贖われることのできそうな人は誰でしょう。より多く罪を犯した人でしょうか、少ししか罪を犯していない人でしょうか? 自分は無数の罪を犯していると認める人は、贖われる可能性が高いのです。その人は自分が深刻な罪人であると認めているからです。そうした人は、イエスがご用意くださった贖いのみことばをより受け入れ易いのです。

ほんとうに自分をよく見ると、自分が罪の塊でしかないことに気がつきます。人間とは、何でしょう? 人間は、「悪を行なう者どもの子孫」にすぎません。イザヤ書第 59章では、人間の心にはあらゆる不正があるとしています。ですから、人間が罪の塊であることは明らかです。しかしながら、人類を罪の塊であると定義すれば、大勢の人が反対するでしょう。しかし、人を「悪を行なう者どもの子孫」とするのは、正しい定義づけなのです。正直に自らを見るならば、人間は明らかに悪い存在なのです。自分に正直な人々は、きっと同じ結論に達するでしょう。

しかし、たいていの人は、自分がほんとうに罪の塊であることを認めようとしません。たいていの人は、自分を罪人だとは考えないので、気持ちよく生きています。人間は悪を行なう存在なのですから、罪深い文明を築いてきました。そうでなければ、恥かしくて罪を犯せないでしょう。しかしながら、罪を犯しても恥かしいと感じない人は多いのです。

それでも、良心は知っています。誰の中にも「これは恥ずべきことだ」と告げる良心があります。アダムとイブは、罪を犯した後で木々の中に身を隠しました。今日、大勢の罪人は不道徳な文化、罪の文化の陰に隠れています。神の裁きを避けようと、仲間の罪人たちの間に身を隠しています。

人々は、自身の幻想に欺かれています。彼らは、自分は他人よりも高潔だと思っています。そこで、何かしら悪いことが起こったと聞くと、憤激して叫びます。「どうして人間にこんなことができるんだ。人でなしめ。息子が両親にそんなことをするなんて。」そうした人々は、自分はそんなことはしまいと思っています。

みなさん、自分自身を知るのは実に難しいことです。ほんとうに自分を知るには、まず罪の赦しを受けなければなりません。人間性について正しく知るには長い時を要します。そして、死ぬまで決してこれを知ることがない人はとても多いのです。


汝自身を知れ

自分自身を知らない人々は
どのように生きるのでしょう?
本来の罪深い自分を隠そうとして
偽善的な生き方をします。

時に、ほんとうに自分というものを知らない人々に出会います。ソクラテスは、「汝自身を知れ」と言いました。しかしながら、たいていの人は、自分の心に何があるのかを知りません──殺人、盗み、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ等々。

自身を知らない人は、口に蛇のような毒がありながら、善について語ります。これは、自分が罪人であるしかできない者として生まれたことをその人が知らないためです。

自身の本性を知らない人が、この世には実に多いのです。その人たちは自分を欺き、完全に自らの虚偽に包まれて生きているのです。その人たちは、自己欺瞞によって自ら地獄に身を投じることになっていることを知らないのです。



人は生涯罪を犯し続ける

人はなぜ地獄に
行くのでしょう?
自身を知らない から。

マルコの福音書第 7 章 21-23 節を読みましょう。「内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさ、これらの悪はみな内側から出て、人を汚すのです。」人間の心は、孕まれたその日からよこしまな考えに満たされています。

人の心がガラスでできていて、何か汚い液体、つまり、罪でいっぱいに満たされているとしましょう。この人が行ったり来たりすると、どういうことになるでしょう? もちろん、汚い液体 (罪) がいたるところにこぼれるでしょう。人が動きまわるにつれて、罪はあたり一面に何度もこぼれます。

罪の塊である人間は、生涯をまさにそのように生きているのです。人はどこへ行っても罪をこぼします。罪の塊なのですから、生涯罪を犯し続けます。

問題は、自分が罪の塊、あるいは別の言い方をすれば、罪の種であることに気づかないことです。人間は罪の塊であり、生まれたその日から心に罪があります。

罪の塊はいつでもあふれる状態にあります。しかしながら、人々は、自分がほんとうは生まれながらに罪深い存在であるとは思いません。彼らは、他人が罪を犯すように仕向けたのだから、悪いのは自分ではないと考えます。

罪を犯しているときでも、またきれいに洗われるためには、罪が消されればいいのだと考えます。その人たちは罪を犯すたびに、これは自分が悪いのではないと自らに言い聞かせて、ぬぐい取りつづけます。汚した後で清めたからといって、こぼし続けていいものでしょうか? 何度も何度も繰り返しふき取っていなければいけないでしょう。

コップが罪で満ちている時、それはこぼれつづけます。外側だけをぬぐっても、無駄なことです。コップが罪で満ちている限り、何度高潔な行ないで外側をぬぐったところで無駄です。

人間は実に多くの罪をもって生まれてくるのですから、どんなに罪をこぼし続けたところで、心が空になることは決してありません。ですから、人間は生涯罪を犯し続けるのです。

自分がほんとうに罪の塊に過ぎないのだということに気づかないならば、その人は自身の罪深い本質を隠し続けます。罪はすべての人の心の中にあり、表面をぬぐうことによっては、なくならないのです。わずかな罪をこぼすと人は布でふき取り、またこぼれると、モップやタオル、ぼろきれでふき取ります。ただ何度も汚れを拭き取り続ければきれいになるだろうと考えるのですが、罪はやはり何度もこぼれるばかりなのです。

これがどれだけ続くでしょう? これは、人が死ぬまで続くのです。人は死ぬまで罪深い行ないを続けます。贖われるためにイエスを信じなければならないのは、このためです。贖われるには、まず自分自身を知らなければなりません。


イエスの愛をありがたく
受けることができるのは
誰ですか?
自分が数多くの過ちを犯して
いると認める罪人。

汚い液がいっぱいに入った二つのコップのような二人の人間がいるとしましょう。コップはどちらも罪でいっぱいです。一人は自分を省みて、「ああ、私はなんという罪深い人間なのだろう」と言います。それから、諦めて、誰か助けてくれる人を探しに行きます。

しかし、もう一人は、自分はほんとうは悪くないのだと考えます。その人は自分の中の罪の塊を見ることができず、自分はそんなに罪深くはないと考えます。生涯、その人はこぼれを拭き取り続けます。一方を拭き取り、それから反対側を……すばやく反対側に移り……。

こぼれを防ごうと、できる限り罪を犯さないように気をつけて生きる人々が実に大勢います。しかし、その人々はまだ心に罪があるのですから、それが何の助けになるでしょう。気をつけることでは、少しも天国に近づけません。「気をつける」ことは、かえって地獄への道へと導くのです。

みなさん、「気をつける」ことは、ただ地獄へと続くのです。このことを心に銘記しておかなければなりません。人が気をつけているときには、それほど罪はこぼれないでしょうが、しかし、それでもその人たちはまだ罪人なのです。

人間の心の中には、何があるのでしょう。罪ですか? 不品行? そうです。よこしまな考えは? はい。盗みはありますか? はい。高慢は? はい。

人間は、とりわけ、自身がそうするように教えられてもいないのに罪深くよこしまな行ないをするのを見たときには、自分が罪の塊であるということを認めざるを得ません。

若いうちは、そうはっきりはしていないでしょう。しかし、もっと年長になるとどうでしょう? 高校、大学等に進むと、自分の心の中にあるのは罪ばかりであることに気づくのです。そうではありませんか? 正直なところ、人間の罪深い本性を隠すのは不可能です。そうですか? 人は、罪をこぼさずにはいられません。それから、「こんなことをしてはいけない」と反省します。しかしながら、ほんとうに自分を変えることはできないことがわかります。なぜなのでしょう? 人はみな罪の塊として生まれるためです。

ただ気をつけるだけでは、聖くなることはできません。完全に贖われるためには、人間は罪の塊として生まれるのだということを知らなければなりません。ですから、イエスが備えられた贖いをありがたく受け入れる罪人だけが救われるのです。

「私はそんなに悪いことをしていないし、それほど罪は犯していない」と考える人々は、イエスが自分たちの罪をすっかり取り除いてくださったことや、自身が地獄に行く定めにあることを信じません。人間は罪をもって生まれてくるのですから、人は誰でも内に罪の塊があることを知らなければなりません。

「このちょっとした罪さえ贖われれば、そんなに悪いことはしていないのだ」と考えるなら、その人はその後、罪から解放されているでしょうか? 決してそうはなりません。

贖われる人は、自分が罪の塊であることを知っています。その人は、イエスがヨルダン川でバプテスマをお受けになることで人類の罪をすべて取り除かれ、人類に代わって死なれたときに罪の報いを支払われたのだと、心から信じます。

贖われていようといまいと、人は幻想の中で生きがちです。人間は罪の塊です。人間とは、そういうものです。イエスが罪をすべて取り除かれたと信じてはじめて、人は贖われるのです。



神は「少しだけ」罪がある人を贖われなかった

主を欺くのは
誰ですか?
毎日の罪の赦しを
求める人。

神は、「ほんの少しの罪」だけある者を贖われません。神は、「神様、私にはほんの少しだけ罪があります」という人々を見やりさえなさいません。神が憐れまれるのは、「神様、私は罪の塊です。私は地獄に行きます。どうか、救ってください」と言う人々です。「神様が救ってくださるなら、私は救われます。もう悔い改めの祈りをすることはできません。罪を繰り返すことしかできないことがわかっていますから。どうか、救ってください」と言う完全な罪人を神は救われます。

神は、完全にご自分に頼る者を救われます。私自身も、毎日の悔い改めの祈りをささげようとしました。しかし、悔い改めの祈りは決して私を罪から解放しませんでした。そこで、神の前に跪き、祈りました。「神様、どうか憐れみによってすべての罪からお救いください。」このように祈る人は救われます。こうした人は、神の贖いと、イエスがバプテスマのヨハネからお受けになったバプテスマとを信じるようになります。その人は救われます。

神は、自分が罪の塊、悪を行なう者の子孫であることを知る者だけを救われます。「私はこのちょっとした罪を犯しただけです。どうかこれを赦してください」と言う人は、まだ罪人であり、神にはお救いになることができません。神は、自分が完全な罪の塊であることを認める人々だけを救われます。

イザヤ書第 59 章 1-2 節には、「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ」とあります。

人間は罪の塊として生まれているために、神は人間を好もしいものとご覧になることができません。これは、神の御手が短かったり、耳が遠かったり、赦しを求めているのをお聞きになれないためではありません。

聖書は、「あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ」と告げてます。人間の心には実に多くの罪があるために、たとえ扉が開かれていても天国に入ることができません。

罪の塊でしかない人間が罪を犯すたびに赦しを求めたなら、神は繰り返し御子を殺さなければならないでしょう。神はそうすることを望まれません。神は、「毎日罪を抱えて来るのではない。わたしはあなたたちの罪をすべて贖うために息子を遣わした。あなたたちはただ、息子があなたたちの罪をどのようにして取り除いたかを理解し、それを真理と認めるだけでいいのです。そうして、水と御霊の福音を信じれば、救われます。これが、わたしがあなたたち被造物に与えた最高の愛なのです」とおっしゃいます。

神は、このようにおっしゃるのです。「わたしの息子を信じ、罪の赦しを受けるのです。あなたたちの神であるわたしは、あなたたちの罪と不正のすべてを贖うために息子を遣わしたのです 息子を信じ、救われなさい。」

自分が罪の塊であると知らない人たちは、些細な罪を犯すたびに神の赦しを願います。そうした人は、自分の罪のはなはだしい重さを知らず、ただ「どうかこの些細な罪をお赦しください。二度としません」と祈るのです。

その人たちはまた、そうした祈りで神を欺こうとします。人間はただ一度だけ罪を犯すのではありません。死ぬまで罪を犯し続けるのです。罪を犯すのをやめることはできませんし、肉は死ぬまで罪の律法に従うのですから、生涯罪の赦しを求め続けなければならないでしょう。

人間は毎日無数の罪を犯しているのですから、些細な罪を一つ赦されたからといって、罪の問題は解決できません。ですから、罪から解放される唯一の道は、罪を全部イエスの上に移すことなのです。


人間の本質は何ですか?
罪の塊。

聖書は、人間の罪を次のように数え上げています。「実にあなたがたの手は血で汚れ、指は咎で汚れ、あなたがたのくちびるは偽りを語り、舌は不正をつぶやく。正しい訴えをする者はなく、真実をもって弁護する者もなく、むなしいことにたより、うそを言い、害毒をはらみ、悪意を産む。彼らはまむしの卵をかえし、くもの巣を織る。その卵を食べる者は死に、卵をつぶすと、毒蛇がとび出す。そのくもの巣は着物にはならず、自分の作ったもので身をおおうこともできない。彼らのわざは不義のわざ、彼らの手のなすことは、ただ暴虐。彼らの足は悪に走り、罪のない者の血を流すのに速い。彼らの思いは不義の思い。破壊と破滅が彼らの大路にある。彼らは平和の道を知らず、その道筋には公義がない。彼らは自分の通り道を曲げ、そこを歩む者はだれも、平和を知らない。」(イザヤ 59:3-8)

人間の指は咎で汚れ、生涯することはみな罪深いことばかり。人々のすることはどれも悪いことです。舌は「偽りを語り」ます。人間の口から出ることはみなうそです。

彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。」(ヨハネ 8:44) 新たに生まれていない人々は、よく「ほんとうですよ…… これはほんとうのことです。うそじゃありません……」と言います。しかしながら、それでもその人たちの言うことは嘘なのです。それは記されているとおりです。「彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。

水と御霊によって新たに生まれることについて、詳しくお知りになりたいですか? 下のバナーをクリックして、水と御霊によって新たに生まれることについての無料図書をお申し込みください。
新たに生まれる
人間は空しいことばを信じて嘘をつきます。人々は悪い考えをもって不正を行ないます。彼らはまむしの卵をかえし、蜘蛛の巣を織ります。神は、「その卵を食べる者は死に、卵をつぶすと、毒蛇がとび出す」とおっしゃいます。神は、人間の心にはまむしの卵があるとおっしゃいます。まむしの卵です。人の心には悪があります。水と血の福音を信じて贖われなければならないのは、このためです。

私が神のことを話し始めるといつでも、「あああ、神様の話はやめてください。何かしようとするたびに罪がこぼれ出るのです。ただあふれ出るのです。いたるところに罪をこぼさずには一歩も歩けないのです。どうしようもないのです。私の中には罪が満ち満ちているのです。救いようがないのです。ですから、聖なる神について話すなんて、しないでください」と言う人々がいます。

こうした人は、自分が罪の塊であることを知ってはいるのですが、神が愛の福音によって完全に救ってくださったということを知らずにいるのです。自分が罪の塊であることを知っている者だけが救われます。

実際、誰もがそんなふうなのです。だれもが行く先々で罪をこぼし続けています。人はみな罪の塊なのですから、罪はただあふれ出るのです。そうしたありようから救われる唯一の道は、神のお力によることです。これは、実に驚くべきことではありませんか? 腹を立てたり、幸福だったり、または快適な時にあっても罪をこぼしている人間が、主イエス・キリストによってのみ救われるのです。イエスは人類をお救いになるために来られました。

イエスは人類の罪をすべて消し去られました。自分が罪の塊であると認め、救われなさい。

リストに戻る

 


印刷用画面   |  

 
Bible studies
    説教
    信仰声明
    福音とは
    聖書用語
    キリスト教に関するFAQ

   
Copyright © 2001 - 2019 The New Life Mission. ALL RIGHTS reserved.