救済・聖霊・幕屋・ヨハネの黙示録についての聖書学習のための無料キリスト教図書

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 重要な主題に関する Paul C. Jong 師による説教

 

永遠の贖い



< ヨハネの福音書 8:1-12 >
イエスはオリーブ山に行かれた。そして、朝早く、イエスはもう一度宮にはいられた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕えられたひとりの女を連れて来て、真中に置いてから、イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」イエスはまた彼らに言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」


イエスはどれだけの罪を
拭い消されましたか?
世の罪全部です。

イエスは永遠の贖いをお与えくださいました。この世界には、イエスを救い主と信じて贖われない者は誰もいません。主は人類すべてを贖われました。自分の罪のことで苦しんでいる罪人がいるなら、それは、イエスがバプテスマと磔刑とによって罪のすべてからお救いくださったことについて誤解しているためです。

人はみな救済の奥義を知り信じなければなりません。イエスはバプテスマによって人類の罪をすべて被られ、十字架上で死なれることによって人類の罪の裁きを受けられたのです。

すべての罪からの永遠の贖い、水と御霊の救済を信じなさい。すでにみなさんを義としている、イエスの大いなる愛を信じなさい。イエスがヨルダン川と十字架上で救済のためになさったことを信じなさい。

イエスは人間の隠された罪もすべてご存じでした。罪について誤解している人々がいます。そうした人々は、罪の中には贖うことができないものがあると考えます。イエスはすべての罪を一つ残らず贖われているのです。

イエスは、この世界にただの一つの罪も残されませんでした。この世の罪のすべてを拭い消されたので、実際のところ、もはや罪人はいないのです。みなさんは、福音が罪を全部、将来の罪までも贖っていることをご存じですか? これを信じて救われなさい。そして、すべての栄光を神にささげなさい。



姦淫の現場で捕えられた女

この世界でどれだけの人が
姦淫の罪を犯すでしょう?
全員。

ヨハネの福音書第 8 章には、姦淫の現場で捕えられた女が登場します。そして、イエスがどのようにして彼女を救ったかが語られています。彼女の受けた恵みに与りたいものです。人間は生涯のある時点でみな姦淫の罪を犯すと言っても言い過ぎではありません。人はみな姦淫の罪を犯します。

そう思わないのは、あまりに頻繁にそうしているために、意識しなくなっているためです。なぜでしょうか。実に多くの姦淫の中で生きているためです。

ヨハネの福音書第 8 章の女を見て、私は、いったい姦淫したことのない人間がこの中にいるのだろうかと考えました。姦淫の現場で捕えられた女のように姦淫したことのない人間は、一人もいません。人はみなそうしているのに、していないふりをしているのです。

私が間違っていると思いますか? いいえ。間違っていません。心の中をよくよく見てください。地上の誰もが姦淫しているのです。人々は通りで女性を見つめて、考えで、行ないで、いつでも、どこでも姦淫の罪を犯します。

ただ、自分たちがそういうことをしていることに気づかずにいるのです。生涯無数の姦淫をしてきたことに死ぬまで気づかない人々が大勢います。現場を見つかった人々だけではなく、つかまったことのない人々もです。人は誰でもこれを心の中で、行ないでするのです。これは生活の一部ではありませんか?

気を悪くしましたか? これは、真理です。恥かしさから隠しているだけなのです。ほんとうのところ、今の世の人々はいつでも姦淫の罪を犯しているのですが、自分がそうしていることに気づかないのです。

人々は、魂でも姦淫します。神の被造物である人間は、この地上で自分が霊的姦淫をして生きていることに全く気づきません。主は全人類にとってただ一人の夫なのですから、他の神々を拝むことは霊的姦淫をするのと同じことです。

現場でつかまった女は、私たちのような人間です。私たち贖われた者と同様に、彼女は神の恵みを受けました。しかし、偽善的なパリサイ人は彼女を一人立たせ、自分たちが裁判官であるかのように責め、石を投げつけようとしていました。自分たちが純粋で一度も姦淫の罪を犯したことがないかのように彼女を責めて裁こうとしていたのです。

キリスト教徒のみなさん、自分が罪の塊であることを知っている者は、神の前で他人を裁きません。自分もまた生涯姦淫の罪を犯すことを知って、そうした人々は、人類全員を贖われた神の恵みを受けるのです。ずっと姦淫の罪を犯し続けてきた罪人であると知った者だけが神の前で贖われることができるのです。



神の恵みを受ける者

神の恵みを受けるのは
誰ですか?
つまらぬ者

姦淫の罪を犯すことなく清く生きる者は神の恵みを受けますか、それとも、自分が罪深い者であると認めるつまらない者が恵みを受けるのですか? 恵みを受けるのは、神の贖いの完全な恵みを受ける者です。自分ではどうしようもない者、弱い無力な者が贖いを受けます。そうした人々が神の恵みに与るのです。

自分には罪がないと考えている人々は、贖われることができません。贖うべきことがない者が、どうして贖いを受けることができるでしょう。

律法学者とパリサイ人は、姦淫の現場で捕えられた女をイエスの前に引き出して、女を真中に置き、イエスに尋ねました。「先生、この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。……ところで、あなたは何と言われますか。」なぜ彼らは女をイエスの前に連れて来て試そうとしたのでしょう?

彼ら自身もまた何度も姦淫の罪を犯してきながら、イエスに裁かせて女を殺し、責任を押し付けようとしたのです。

イエスは彼らの考えをご存じでしたし、また、その女についてもすべてを知っておいででした。そこで、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」とおっしゃいました。すると、律法学者とパリサイ人は年長者から順番に一人また一人と立ち去り、イエスと女だけが残りました。

立ち去ったのは、宗教指導者である律法学者やパリサイ人です。彼らは、まるで自分たちは罪人ではないかのように、姦淫の現場で捕えられた女を裁こうとしていました。

イエスは、この世への愛を告げられました。イエスは愛の主です。イエスは人々に食物を与え、死者をよみがえらせ、未亡人の息子が再び生きるようになさり、ベタニヤのラザロをよみがえらせ、癩者を癒し、貧者のために奇蹟を起こされました。罪人の罪をすべて取り除かれ、救済をお与えになりました。

イエスは人類を愛されています。イエスは何でもおできになる全能のお方ですが、パリサイ人と律法学者はイエスを敵とみなしました。彼らが女をイエスの前に連れて来て試みようとしたのは、このためです。

彼らは言いました。「モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」彼らはイエスが石で打つように言うだろうと思ったのです。なぜでしょうか。神の律法に記されているところに従って裁くならば、姦淫の罪を犯した者はみな例外なく石で打ち殺されます。

人はみな石で打ち殺されなければならず、みな地獄に行く定めにあります。罪から来る報酬は死です。しかしながら、イエスは女を石打ちせよとはおっしゃいませんでした。そうではなくて、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」とおっしゃいました。


なぜ神は人類に六百十三項目の
律法をお与えに
なったのでしょう?
自らを罪人と知るように
なさるために。

律法は怒りをもたらします。神は聖く、その律法もまた聖いのです。この聖なる律法は六百十三条からなります。神が六百十三条の律法をお与えになったのは、人間が罪人、不完全な存在であるということに気づくようになさるためでした。律法は、贖われるためには神の恵みを求めなければならないことを教えます。これを知らず、律法に記されていることだけを考慮するならば、現場で捕えられた女がそうされようとしたように石で打ち殺されなければならなかったでしょう。

神の律法の真理を知らない律法学者とパリサイ人は、女と、おそらくは私たちをも石打ちにすることができると思ったでしょう。しかし、自分と同じ罪深い存在である無力な女に、誰が石を投げつけようとするでしょう。たとえ女が現場を押さえられたにしろ、この世界の誰ひとりとして彼女を石で打つことはできません。

この女と私たち一人一人が律法にのみ則って裁かれるなら、女も私たちも恐ろしい裁きを受けることになったでしょう。しかし、イエスは私たち罪人を罪と正しい裁きとからお救いくださいました。人間は極めて罪深いのですから、神の律法が文字通りに厳密に適用されたなら、誰が生きていることができるでしょう? 一人残らず地獄に行くことになるでしょう。

しかし、律法学者とパリサイ人は律法の字面しか知りませんでした。律法が厳密に適用されれば、彼らが裁いた人間と同じように、彼らも死刑にされたことでしょう。実のところ、神の律法は人間が罪を認識するように与えられたのですが、人間はそれを誤解し、誤って適用したために、苦しんできたのです。

今日のパリサイ人は、聖書のパリサイ人同様、記された律法しか知りません。その人たちは神の恵みと正しさと真理を理解するべきです。救われるには、贖いの福音を教えられる必要があります。

パリサイ人は、「律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか」と言いました。彼らは自信満々で石を握って尋ねました。イエスはそれについて何も言うことがないだろうと思ったのです。彼らはイエスが罠にかかるのを待ちました。

イエスが律法に従って裁けば、彼らはイエスもまた石打ちにしたことでしょう。彼らは女とイエスの両方を石打ちにしようとしていたのです。イエスが女を石で打ってはいけない言ったなら、彼らはイエスが神の律法をないがしろにしたと言って、?神のかどでイエスを石打ちにしたでしょう。恐ろしい計略です。

しかし、イエスは身を屈めると、指で地面に書かれました。人々は尋ね続けます。「あなたのお考えは、どうですか。何を地面に書いているのです。早く質問に答えなさい。あなたは何と言われますか。」彼らはイエスに指を突きつけ、回答を強い続けます。

すると、イエスは立ち上がられ、彼らの中で罪のない者が最初に女を石で打つようにとおっしゃいます。それからかがまれ、地面に書き続けられました。これを聞いた人々は良心の咎めを覚え、一人また一人と、年長者たちから始めて、みんな出て行きます。イエスはただ一人、そこに立っている女とともに残されました。



「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」

罪はどこに記録されて
いますか?
人間の心の板と
『行ないの書』に。

イエスは、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」とおっしゃって、地面に書き続けられました。年長者二人がその場を離れて行きました。年長のパリサイ人は、より多くの罪を犯しているのですから、最初に立ち去るでしょう。若い人たちもまた立ち去ります。イエスが私たちの間に立っておられ、私たちは女を囲んで立っていたとしましょう。イエスが、罪のない者が最初に石を投げろとおっしゃったら、誰がそうしたでしょう?

イエスは地面に何を書いておられたのでしょう?人間を創られた神は、人間の罪を二箇所に記されています。

まず、人間の心の板に。「ユダの罪は鉄の筆と金剛石のとがりでしるされ、彼らの心の板と祭壇の角に刻まれている。」(エレミヤ書 17:1)

神は人類の代表であるユダを通して話されます。人類の罪はダイヤモンドのペン先のついた鉄の筆で刻まれています。罪は人間の心の板に記されています。イエスは身をかがめて、すべての人間は罪人であると地面に書かれました。

神は人間が罪を犯すことをご存じで、罪を心の板に刻まれます。まず、神は人間の行ない、人間が律法の前に弱いものであるために犯した罪を記されます。罪が心に記録されると、人は律法を見たときに自身が罪人であることに気づくのです。神は心と良心とに罪を記録なさるので、人間は自身が神の前に罪人であることを知ります。

イエスは再び身をかがめ、地面に書かれました。聖書はまた、人間の罪がすべて神の前の『行ないの書』に記されているとしています (黙示 20:12)。その本には罪人一人一人の名前とその罪が記されています。罪はまた、その人の心の板にも記されています。人間の罪は『行ないの書』と心の板の両方に記されています。

罪は、老若を問わず、すべての人の心の板に記されています。人々がイエスの前で何も言えなかったのは、このためです。女を石打ちにしようとしていた人々は、みことばの前に無力でした。


二箇所に記録されている
人間の罪はいつ
消されますか?
イエスの水と血の贖いを
心に受け入れたとき。

イエスの救済を受けると、『行ないの書』に記された罪はすべて消され、名前が『いのちの書』に記されます。その名が『いのちの書』に記されている人々は天国に行きます。彼らのよい行ない、この世で神の御国と神の義のために行なったこともまた、『いのちの書』に記されます。そうした人々は天国に受け入れられます。罪から救われた者は永遠の御国に入ります。

よろしいですか、あらゆる人の罪はみな二箇所に記されているのですから、誰ひとり神を欺くことはできないのです。心で罪を犯したり姦淫したりしたことのない人は誰もいません。人はみな罪人であり、不完全です。

イエスの贖いを心に受け入れていない人々は、罪に苦しむしかありません。そうした人々は自信をもてません。罪のために、そうした人々は神と他人を恐れます。しかし、水と御霊の贖いの福音を心に受け入れた瞬間、心の板と『行ないの書』に記された罪は、すべてきれいに消されます。すべての罪から救われたのです。

天国には『いのちの書』があります。水と御霊の贖いを信じる人々の名はその本に記録されていて、その人たちは天国に入ります。その人たちが天国に入るのは、この世界で罪を犯さなかったためではなく、水と御霊の贖いを信じてすべての罪から救われているためです。これは「信仰の原理」(ローマ 3:27)です。

キリスト教徒のみなさん、律法学者もパリサイ人も、姦淫の現場で捕えられた女性と同様に罪人でした。

実際、彼らは他の人々を欺いて自分たちが罪人ではないと思い込ませていたのですから、より罪深かったでしょう。宗教指導者たちは公に認められた盗賊でした。彼らは魂の盗賊、つまり、いのちの盗賊でした。彼らは自身贖われていないのに、厚かましくも権威ありげに他人に教えました。

律法によれば、罪人ではない者は一人もいません。人が義人となることができるのは、罪を犯さないからではなく、すべての罪を贖われることによってなのです。義人となった人は『いのちの書』に名を記されています。問題は、その人の名が『いのちの書』に記されているかどうかです。人間は生涯罪を犯さずに生きることができないのですから、名前を記されるためには永遠に贖われなければなりません。

天国に受け入れられるかどうかは、真の福音を信じているかどうかにかかっています。神の恵みを受けるかどうかは、イエスの救済を受け入れるかどうかによります。捕えられた女性はどうなったでしょう? 自分が死ぬことを知っていたのですから、彼女は跪いて目を閉じたでしょう。おそらくは恐れと後悔とに泣いていたかもしれません。人々は死に臨むと自分に正直になります。

「ああ、神様、私が死ぬのは正しいことです。どうか魂を受け入れ、憐れんでください。イエス様、どうか憐れんでください。」彼女は贖いの愛をイエスに乞いました。「神様が裁かれるなら、私は裁かれます。私には罪がないとおっしゃるなら、罪は消されます。神様次第です。」彼女は、おそらくこうしたことをみんな言っていたでしょう。彼女は、すべてはイエス次第だと告白したことでしょう。

イエスの前に連れて来られた女性は、「私は悪いことをしました。どうか姦淫したことをお赦しください」とは言いませんでした。彼女は、「どうか私を罪からお救いください。罪を贖ってくださるなら、私は救われます。そうでなければ、私は地獄に行きます。贖いが必要なのです。神の愛と憐れみが必要なのです」と言いました。彼女は目を閉じ、自分の罪深さを告白しました。

イエスは尋ねられました。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」彼女は答えました。「だれもいません。」

そこで、イエスはおっしゃいました。「わたしもあなたを罪に定めない。」イエスがその女性を罪に定められなかったのは、イエスがヨルダン川でのバプテスマによって女の罪をすべて取り除いておられ、女がすでに贖われていたためです。今や、その女性ではなくイエスが、彼女の罪のために裁かれなければならなかったのです。



イエスは、「わたしもあなたを罪に定めない」とおっしゃった

女はイエスに罪に
定められましたか?
いいえ。

この女性はイエスの救済の恵みを受けました。彼女はすべての罪を贖われました。主イエスは、人類の罪をすべて贖ったのだから、人間はみな義人であるとおっしゃいます。

イエスは聖書でそうおっしゃっています。イエスはヨルダン川でのバプテスマによって取り除かれた人類の罪の報いとして十字架上で死なれました。イエスは、バプテスマと十字架上の裁きとを信じる者すべてを贖ったとはっきり告げておられます。人はみなイエスの記されたみことばが必要であり、またみことばを堅持することが必要なのです。そうすれば、贖いの恵みを受けるのです。

「神様、私はあなたの前では少しも良いところがありません。私の中には少しも良いものがありません。私には罪しかお見せするものがありません。でも、イエスが贖いの主であると信じています。イエスはヨルダン川で私の罪をすべて取り除かれ、それを十字架上で贖われました。イエスはバプテスマと血によって私の罪をすべて取り除かれました。主よ、信じています。」

人はこのようにして救われるのです。イエスは人間を「罪に定め」られません。イエスは人が神の子どもとなる権利をお与えくださいました。水と御霊の贖いを信じる者のためにすべての罪を取り除かれ、義となさいました。

みなさん。あの女性は贖われました。姦淫の現場で捕えられた女性は、主イエスの贖いの恵みを受けました。私たちもまた、そのように恵みを受けることができるのです。自分の罪を知って神に憐れみを求める者、イエスの水と御霊の贖いを信じる者は誰でも、神から贖いの恵みを受けるのです。自らの罪深さを神の前で認める者は贖われますが、自身の罪に気づかない者は贖いの恵みを受けることができません。

イエスは世の罪をすべて取り除かれました (ヨハネ 1:29)。この世の罪人は、イエスを信じるならば、誰でも贖われることができます。イエスはおっしゃいました。「私もまたあなたを罪に定めない。」イエスが罪に定めないとおっしゃったのは、彼女の罪がすでにバプテスマによってイエスの上に移されていたためです。イエスは人類の罪をすべて被られ、そうして負われた罪のために身代わりとなって裁かれたのです。



イエスの前に贖われなければならない

神の愛と裁きとどちらが
大きいのですか?
神の愛

パリサイ人は手に石を持ち、今日の宗教指導者同様、律法を文字どおりに解釈しました。彼らは、律法は姦淫の罪を犯すなと言っているのだから、そのような罪を犯した者は石で打ち殺されなければならないと考えていました。姦淫の罪を犯さないふりをしながら女性をみだらな目で盗み見ていました。彼らは贖われることも救われることもできません。パリサイ人と律法学者は、この世の道徳家です。彼らはイエスがお召しになった者ではありません。この人たちは、イエスが「あなたを罪に定めない」とおっしゃるのを聞きませんでした。

姦淫の現場で捕えられた女性だけが、このうれしいみことばを聞いたのです。イエスの前で正直であれば、人は同じように救われるのです。「神様、私は生涯姦淫の罪を犯さずにはいられません。自分でそれに気づかないでいるのは、あまりに頻繁にしているからです。毎日何度もこのような罪を犯しているのです。」

自分が死ぬべき定めにある罪人であるということと律法とを認め、正直に神に向かって「神様、私はこのような存在です。どうかお救いください」と言うならば、神は贖いの恵みをお与えくださいます。

イエスの愛、水と御霊の福音は神の正しい裁きを克服しました。「わたしもあなたを罪に定めない。」イエスは人を罪に定められません。イエスは、「あなたは贖われた」とおっしゃいます。主イエス・キリストは憐れみ深い神です。主は世の罪のすべてから人類を救われました。

主は正義の神であり、愛の神なのです。水と御霊の愛はその裁きよりも大きいのです。



主の愛はその裁きよりも大きい


なぜ主はすべの人間を
贖われたのでしょう?
主の愛はその裁きよりも
大きいから。

神が裁きを完全に実行なさったら、すべての罪人は裁かれて地獄に送られたことでしょう。しかし、人類を裁きから救ったイエスの愛がより大きいために、神は御子イエスを遣わされたのです。イエスは人類の罪をすべてその身に受け、人類全員に代わって裁きを受けられました。そこで、イエスを救い主と信じる者は誰でも神の子ども、義人となります。主の愛はその裁きよりも大きいので、すべての人間を贖われました。

神が正義によってのみ人間を裁かれなかったことを感謝しましょう。イエスは律法学者・パリサイ人とその弟子たちに向かって、「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためでなく、罪人を招くために来たのです」(マタイ 9:13) とおっしゃいました。毎日牛や山羊を殺して、「神様、毎日の罪をお赦しください」と言って神にささげる人はまだいるでしょう。神はささげ物は望まれず、それよりは水と御霊の贖いへの信仰を求められます。主は人間が贖われて救われることをお望みです。愛をお与えになり、信仰を求められます。みなさんは、これがわかりますか? イエスは完全な救済をお与えくださいました。

イエスは罪を憎まれますが、神の姿に似せて造られた人類を深く愛しておいでです。創造の前にすでにバプテスマと血によって罪をすべて消し去り、人類を子どもにしようとお決めになっていました。神はやがて贖い、イエスをまとわせ、子どもとなさるために人類を創られたのです。これが、被造物である人間への神の愛なのです。

神が正しい律法によってのみ人類を裁かれたなら、人間はみな死ななければならないでしょう。しかし、御子のバプテスマと十字架上での裁きとによってお救いくださったのです。みなさんは信じていますか? これを旧約で確認しましょう。



アロンはいけにえの山羊の上に手を置いた

イスラエル人の代表として
生きた山羊に罪を移したのは
誰ですか?
大祭司です。

世の罪はすべて、旧約の按手と新約のバプテスマへの信仰によって消えました。旧約では、イスラエル人の年ごとの罪はみな、大祭司が傷のない生きた山羊の頭に両手を置くことによって贖われました。

アロンは生きているやぎの頭に両手を置き、イスラエル人のすべての咎と、すべてのそむきを、どんな罪であっても、これを全部それの上に告白し、これらをそのやぎの頭の上に置き、係りの者の手でこれを荒野に放つ 。」(レビ記 16:21)

旧約の時代には、このようにして贖われたのです。日々の罪の赦しを受けるには、傷のない子羊か山羊を幕屋に連れて行き、祭壇にささげました。両手をささげ物の頭に置くと、罪はいけにえの上に移されました。それからいけにえは殺され、祭司は血を祭壇の角につけました。

祭壇の四隅には角がありました。角は黙示録第 20 章 12 節にある『行ないの書』を象徴しています。いけにえの血の残りは地面にまかれました。地面は人の心を象徴しています。人間は塵から創られたからです。人々は、このようにして日々の罪を贖いました。

しかしながら、毎日罪のためのささげ物をするわけにはいきませんでした。そこで神は、人々が年に一度、一年の罪を贖うことができるようになさいました。これは第七の月の十日、贖いの日に行なわれました。その日には、大祭司がイスラエル人全員を代表して二頭の山羊を連れて行き、両手を置いて人々の罪をすべて移してから、イスラエル人の贖いのために神にささげました。

アロンは生きているやぎの頭に両手を置き、イスラエル人のすべての咎と、すべてのそむきを、どんな罪であっても、これを全部それの上に告白し、これらをそのやぎの頭の上に置き……。

神はイスラエル人の大祭司アロンを代表者に任じられました。すべての人々が個々に手を置く代わりに大祭司が全員を代表して、一年の罪の赦しを受けるために生きた山羊の頭に手を置きました。

大祭司はイスラエル人の罪をすべて神の前に告げました。「神よ、イスラエルの子らは罪を犯しました。偶像を拝み、律法の条項のすべてにそむき、御名をみだりに唱え、偶像を造り、それを主よりも愛しました。安息日を聖なるものとせず、両親を敬わず、殺し、姦淫し、盗み……。私たちは嫉妬し、口論しました。」

彼はすべての罪を列挙しました。「神よ、イスラエル人も私も律法を守ることができませんでした。すべての罪を贖うために、この山羊の頭に両手を置き、罪を全部移します。」大祭司は全員に代わって両手をささげ物の上に置き、罪を全部その頭に移しました。按手、つまり手を置くことは「渡す」ことを意味しました。(レビ記 1:1-4、16:20-21)


旧約の時代、
贖いはどのように
行なわれましたか?
罪のためのささげ物の頭に
手を置くことによって。

神はイスラエル人にいけにえの制度をお与えになって、罪を移して贖われることができるようになさいました。神は、罪のためのささげ物には傷のない動物を用意するべきこと、罪のためのささげ物が人の身代わりとなって死ななければならないということを定められました。個々の罪人の贖いは、そのように行なわれました。

しかしながら、贖いの日には、罪のためのささげ物が殺され、その血が聖所に運ばれて「贖いのふた」の上に七回散らされました。こうしてイスラエル人は、第七の月の十日に一年の罪を贖ったのです。

大祭司は、いけにえをささげるためにただ一人聖所に入り、人々は外に集まって大祭司のエポデの縁についた金の鈴の音に耳を傾けました。血が「贖いのふた」の上に散らされると、金の鈴が七回なりました。すると、人々は罪がすべて贖われたことを喜びました。金の鈴の音は、うれしい福音の音であったのです。

イエスが特定の人々だけを愛されて贖われるというのは真実ではありません。イエスは、バプテスマによって世の罪をただ一度で取り除かれました。主は、人類を一度で永遠にお救いになろうとなさったのです。人間は毎日罪を贖うことはできません。そこで、罪が一度に全部消されたのです。

旧約では、贖いは按手と罪のためのささげ物の血とによって得られました。アロンは全員の前で生きた山羊の頭に手を置き、一年に民の犯した罪を全部列挙しました。彼はイスラエル人の前で罪を山羊の上に移しました。大祭司がいけにえの山羊に手を置いた後、人々の罪はどこへ行ったのでしょう? すべて山羊の上に移されました。

それから山羊は「係りの者」によって連れ去られました。山羊はイスラエル人の罪をすべて負い、水も草もない砂漠に連れて行かれました。それから、焼けるような陽の下を砂漠をさまよい、ついには死にました。山羊はイスラエル人の罪のために死にました。

これが神の愛、贖いの愛なのです。人々は当時、このようにして一年分の罪を贖ったのです。しかし、今は新約の時代です。イエスがこの世に来られてから二千年ほどが過ぎました。イエスは旧約でなさったお約束を全うなさいました。イエスはおいでになり、人類の罪をすべて贖われました。



すべてを贖う

「イエス」とは、どういう
意味でしょう?
人々を罪から救う
救い主。

マタイの福音書第 1 章 20-21 節を読みましょう。「彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフ、恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。』」(マタイ 1:20-21)

天においでの父なる神は、世の罪をすべて洗い流すために処女マリヤの体を借りて御子をこの地上に遣わされました。神はマリヤに使いを遣わされておっしゃいました。「ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスをつけなさい。」これは、マリヤの体から生まれる男の子は救い主になるという意味です。「イエス・キリスト」とは、ご自分の民を救う者、つまり、救い主という意味です。

では、イエスはどのようにしてすべての人を罪からお救いになるのでしょう? イエスはヨルダン川でのバプテスマによって世の罪をすべて取り除かれたのです。バプテスマのヨハネがイエスにバプテスマを授けたとき、世の罪がすべてイエスの上に移されました。マタイの福音書第 3 章 13-17 節を読みましょう。

さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。『私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。』 ところが、イエスは答えて言われた。『今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。』 そこで、ヨハネは承知した。こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天からこう告げる声が聞えた。『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。』

イエスは全人類の罪を贖うためにバプテスマのヨハネのところにおいでになりました。水の中に進まれ、ヨハネの前で頭を垂れました。「ヨハネ、バプテスマを授けてください。わたしたちがすべての正しいことを実行するのはふさわしいことなのです。世の罪を全部取り除いてすべての罪人を罪から救うには、バプテスマによって彼らの罪を取り除かなければなりません。今すぐバプテスマを授けてください。そうしてください。」

ですから、すべての正しいことを実行するのは、ふさわしいことでした。イエスはヨルダン川でバプテスマのヨハネからバプテスマを受け、まさにその瞬間、人類の罪を贖う神の義はすべて全うされたのです。

このようにして、イエスは人類の罪をすべて取り除かれたのです。みなさんの罪もまた、すべてイエスの上に移されました。これが分かりますか?

イエスのバプテスマと御霊を信じ、救われなさい。


すべての正しいことはどのように
実行されましたか?
イエスのバプテスマ
によって。

神は最初にイスラエル人に、世の罪はすべて手を置くことと罪のためのささげ物をいけにえとしてささげることによって洗い流されると約束なさいました。しかしながら、人々が個々に山羊の頭に手を置くことは不可能でしたので、神はアロンを聖別して大祭司となさり、アロンがすべての人々に代わっていけにえをささげることができるようになさいました。そこで、アロンは罪のためのささげものの頭の上に一年の罪をすべて、ただ一度で移しました。これが神の知恵と贖いの力なのです。神は賢明で驚くべきお方です。

神は全世界をお救いになるために御子イエスを遣わされました。そうして罪のためのささげ物が用意されたのです。さて、イエスの頭に手を置いて世の罪をすべてその上に移す全人類の代表が必要でした。その代表がバプテスマのヨハネでした。聖書には、神は全人類の代表をイエスより先に遣わされたと記されています。

それが最後の大祭司、バプテスマのヨハネでした。マタイの福音書第 11 章 11 節には、「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした」と記されています。彼は人類のただ一人の代表者でした。神は、イエスにバプテスマを授けて世の罪をすべて移すよう、ヨハネを全人類の代表として遣わされました。

地上の六十億人が今イエスのもとに行き、罪を渡すために手を置かなければならないとしたら、頭はどうなるでしょう? この世の六十億人以上の人々がイエスに手を置かなければならないとしたら、大変なことになるでしょう。熱心さのあまりに強く手を置く人々のせいで、イエスの髪がすっかり抜け落ちるかもしれません。ですから、神はその知恵によって、ヨハネを代表に任じられ、一度で永遠に世の罪をすべてイエスの上に移されたのです。

マタイの福音書第 3 章 13 節には、「さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた」とあります。これはイエスが三十歳の時のことです。イエスは生後八日目に割礼を受けましたが、その後三十歳になるまでの記録はほとんどありません。

イエスが三十歳になるまでお待ちにならなければならなかったのは、旧約の定めるところに従って天の大祭司となられるためでした。申命記で、神はモーセに、大祭司の職務を行なう者は少なくとも三十歳になっていなければならないとおっしゃっています。イエスは天の大祭司です。これを信じていますか?

新約のマタイの福音書第 3 章 13-14 節には、「さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。『私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。』」とあります。人類の代表者とは、誰ですか? バプテスマのヨハネです。では、天の代表者は誰ですか? イエス・キリストです。代表者同士が出会いました。では、どちらが上でしょう? もちろん、天の代表が上です。

そこで、宗教指導者たちに向かって大胆にも「まむしのすえたち。悔い改めなさい」と叫んだバプテスマのヨハネが、イエスの前では謙虚になりました。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。

このとき、イエスはおっしゃいました。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」イエスは神の義を全うなさるためにこの世に来られましたが、それはバプテスマのヨハネがバプテスマを授けたときに成就されたのです。

そこで、ヨハネは承知した。こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天からこう告げる声が聞えた。『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。』

これは、イエスがバプテスマをお受けになったときに起こったのです。イエスがバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになって世の罪をすべて取り除かれたとき、天国の門は開かれました。

バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は、激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」(マタイ 11:12)

預言者全員と神の律法は、バプテスマのヨハネまでを預言しています。「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は、激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」イエスのバプテスマを信じる者はみな、例外なく天の御国に入ることができます。



「わたしもあなたを罪に定めない。」

なぜイエスは十字架で
裁かれたのですか?
人類の罪をすべて取り
除かれたため。

イエスはバプテスマのヨハネからバプテスマを授けられて、世の罪をすべて取り除かれました。後に、姦淫の現場で捕えられた女にイエスは「わたしもあなたを罪に定めない」とおっしゃいました。イエスが女を罪に定められなかったのは、ヨルダン川で世の罪をすべて取り除かれ、そうして負われた罪のために、女ではなくご自分が裁かれなければならなかったためです。

イエスは世の罪をすべて拭い消してくださいました。「罪から来る報酬は死」であるために、十字架上で苦しみに耐えなければならないかったのですが、イエスがいかにそれを恐れておられたかが聖書から見てとれます。イエスはオリーブ山で三度、裁きを取り除いてくださるよう神に祈られました。イエスは他の人間同様、肉と血の体をおもちでしたので、苦痛を恐れられたのはもっともなことです。イエスは裁きを全うなさるために血を流されなければなりませんでした。

旧約の罪のためのささげ物が罪を贖うために血を流さなければならなかったように、イエスは十字架上でいけにえとならなければならなかったのです。イエスはすでに世の罪をすべて取り除いておられたので、こんどは人類の贖いのためにご自分のいのちをささげなければなりませんでした。イエスは、神の前で裁かれなければならないことはご承知でした。

イエスは心に全く罪がありませんでした。しかし、バプテスマによって罪を移されていたので、神は御子をお裁きになる必要があったのです。そこで、第一に、神の義が完了され、第二に、人類救済のために愛をお与えになったのです。ですから、イエスは十字架上で裁かれなければなりませんでした。

「わたしもあなたを罪に定めないし、裁くこともしません。」人類の罪は意図的なものもそうでないものも、認識しているものも気づかずにいるものも、すべて神に裁かれることになっています。

しかしながら、神は人類を裁かれませんでした。神は、バプテスマによって人類の罪をすべて被られたイエスを裁かれました。神は、愛と憐れみのために、罪人を裁くことをなさりたくありませんでした。バプテスマと十字架上の血とは、人類へのイエスの贖いの愛でした。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ 3:16)

このことから神の愛がわかるのです。イエスは、姦淫の現場で捕えられた女を罪に定められませんでした。

女は、姦淫の現場で捕えられたのですから、自分が罪人であることを知っていました。その人は心だけではなく、肉にも罪をもっていました。罪は否定しようがありませんでした。しかしながら、イエスが自分の罪をすっかり取り除いてくださったと信じていたために、彼女は救われました。イエスの贖いを信じるならば、人は救われます。信じなさい。それが身のためなのです。


最も幸いな人とは
誰ですか?
罪をもたない者。

人はみな罪を犯します。人はみな姦淫の罪を犯します。しかし、人は罪のために裁かれることがありません。人はみな罪を犯しているのですが、イエス・キリストの贖いを信じている者は心に罪がありません。イエスの救済を信じる者は最も幸福な人です。すべての罪から救われた者は最も幸いな人です。つまり、そうした人は今イエスの内にあって義人なのです。

神はローマ人への手紙第 4 章 7 節で、幸福について「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである」とおっしゃっています。人間は死ぬまで罪を犯し続けます。人間は神の前に不法を行なう不完全な存在です。人間は律法を知るようになった後でも罪を犯します。人間はあまりに弱いのです。

しかし、神はただ一人の御子のバプテスマと血によって人類を救われ、人類、みなさんや私に、人はもはや罪人ではない、今は神の前に義人なのだとおっしゃいます。神は、人間は神の子どもだとおっしゃいます。

水と御霊の福音は、永遠の贖いの福音です。これを信じていますか? 信じる者を神は義人、贖われた者、子どもとおっしゃいます。この世で最も幸福なのは誰でしょう? 真の福音を信じて救われた人です。みなさんは、救われていますか?

イエスはみなさんの罪を取り残されましたか? いいえ、主はバプテスマですべての罪を取り除かれました。信じなさい。信じてすべての罪を贖われなさい。ヨハネの福音書第 1 章 29 節を読みましょう。



ほうきで掃いたように


イエスはどれだけの罪を
取り除かれたのでしょう?
世の罪をすべて。

その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。『見よ。世の罪を取り除く神の子羊。』」 (ヨハネ 1:29)

見よ。世の罪を取り除く神の小羊。

バプテスマのヨハネは世の罪をすべてイエスの上に移しました。翌日、ヨハネはイエスが世の罪を取り除かれた神の子羊であられることをあかししました。イエスは世の罪をすべて被られました。

世の罪すべてとは、世界の創造から終わりまでに人類がこの世界で犯す罪全部を指します。約二千年前、イエスは世の罪をすべて取り除いて人類を贖われました。神の子羊として、イエスは人類の罪をすべて取り除かれ、人類に代わって裁きを受けられました。

人間が犯す罪はみなイエスの上に移されました。イエスは世の罪を取り除かれた神の子羊となられました。

イエスはこの世界に卑しい人間、世の罪人をすべてお救いになるお方として来られました。人間は弱く邪悪で無知なために、また、愚かで不完全なために、罪を犯します。つまり、人間は共通の祖先アダムから罪を受け継いだために罪を犯すのです。すべての罪は集められ、ヨルダン川でのバプテスマでイエスの頭に置かれました。イエスは十字架上で肉の死によってすべてを終えらえれました。イエスは埋葬されましたが、三日後に神はイエスを復活なさいました。

すべての罪人の救い主、勝利者、裁き手として、イエスは今神の右手の座にお着きです。イエスは何度も人類を贖われる必要はありません。人間は救われるためにはただイエスを信じさえすればよいのです。信じる者には永遠のいのちが、信じない者には滅びが待ち受けています。ほかに道はありません。

イエスはみなさん全員を救われたのです。みなさんは地上で最も幸福な人々です。みなさんは、弱さのために必ずや将来罪を犯すでしょう。しかし、イエスはその罪もまた、みな取り除かれているのです。

みなさんの心には何か罪が残っていますか? ──いいえ──

イエスは全部取り除かれましたか? ──はい。取り除かれました。──

人はみな同じです。誰も他の人よりも聖いということはありません。しかし、偽善的な人間が多く、そうした人々は、実際はその人たちもまた罪人であるのに、自分は罪人ではないと考えます。この世は罪を育む温室です。

女性は家を出るときには赤い口紅やおしろいを顔につけ、髪をカールさせ、きれいな服を着、ハイヒールを履き……。男性もまた、理容院で散髪し、身だしなみを整え、きれいなシャツとしゃれたネクタイを締め、ぴかぴかの靴を履きます。

しかし、外見は王子や王女のように飾っても、人間の内側はどうしようもなく汚れているのです。

お金は人を幸福にしますか? 健康は人を幸福にしますか? いいえ。永遠の贖い、すべての罪の赦しだけが人間を真に幸福にするのです。一見どんなに幸福に見えようと、心に罪があるのなら、その人は惨めです。そうした人は裁きを恐れて生きます。

贖われた人は、ぼろを着ていても獅子のように大胆です。その人の心には罪がありません。「主よ、私のような罪人をお救いくださって、ありがとうございます。罪をすべて拭い去ってくださいましたね。私が愛をお受けする資格がないことは承知しています。それでも、お救いくださったことに感謝いたします。罪のすべてを永遠に贖っていただきました。神に栄光あれ。」

救われた人は真に幸せな人です。贖いの恵みを受けた人は、真に幸せな人です。

イエス、「世の罪を取り除く神の子羊」が人類の罪をすべて取り除かれたので、人間には罪がありません。イエスは十字架上で人類救済を「完了」なさいました。人間の罪は、みなさんのも私のも含めて、すべて「世の罪」に含まれています。ですから、私たちはみな救われているのです。



神のみこころにより

イエス・キリストの内にある
者には心の中に罪が
ありますか?
いいえ。

みなさん、姦淫の現場で捕えられた女は、イエスのみことばを信じて救われました。この話が聖書に記されているのは、この女がイエスの永遠の贖いの恵みを受けたためです。しかしながら、偽善的な律法学者やパリサイ人はイエスの前から逃げました。

イエスを信じるならば、その人を待ち受けるのは天国です。しかし、イエスのもとから立ち去るなら、人は地獄に行くのです。イエスの正しいみわざを信じるなら天国にいるようなものですが、信じないのなら、地獄にいるようなものです。贖いは個人の努力次第で得られるものではなく、イエスによる救済で与えられるのです。

ヘブル人への手紙第 10 章を読みましょう。「律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。もしそれができたのであったら、礼拝する人々は、一度きよめられた者として、もはや罪を意識しなかったはずであり、したがって、ささげ物をすることは、やんだはずです。ところがかえって、これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです。雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。『あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで満足されませんでした。そこでわたしは言いました。『さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行なうために。』 後者が立てられるために、前者が廃止されるのです。このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。」(ヘブル 10:1-10)

「神のみこころに従って」人類の罪をすべてただ一度で取り除かれるためにイエスは命をささげられ、ただ一度裁かれ、よみがえられたのです。

ですから、人間は聖化されているのです。「聖なるものとされている」(ヘブル 10:10)の部分には、現在完了形が用いられています。これは、人類の贖いが完全に終わっていて、二度と触れる必要はないことを示しています。みなさんは聖化されているのです。


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新たに生まれる
また、すべての祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえをくり返しささげますが、それらは決して罪を除き去ることができません。しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。」(ヘブル 10:11-14)

みなさんは、永遠に聖化されているのです。明日罪を犯したなら、また罪人になるのですか? イエスはその罪もまた取り除かれたのではありませんか? 取り除かれました。イエスは未来の罪もまた取り除かれました。

聖霊も私たちに次のように言ってあかしされます。『それらの日の後、わたしが、彼らと結ぼうとしている契約は、これであると、主は言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いに書きつける。』またこう言われます。『わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。』 これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です」(ヘブル 10:15-18)。

「これらのことが赦される」とは、神が世の罪全部を消されたことを示しています。イエスは人類の救い主です。私の救い主であり、また、みなさんの救い主でもあられます。イエスを信じることによって聖徒は救われました。これがイエスの贖いであり、神からの最高の恵みと贈り物なのです。すべての罪を贖われたみなさんと私は、最も恵まれた者なのです。

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