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 重要な主題に関する Paul C. Jong 師による説教

 

御霊と交わりたいですか

 

<ヨハネI 1:1-10>

初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、──このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。──私たちの見たこと、聞いたことをあなたがたに伝えるものは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるのなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。

 

御霊と交わるために
必要な条件とは
何ですか?

まず水と御霊の福音を
知り、信じて
信仰によって罪をすべて
きよめること。

 

御霊と交わりたいのなら、まず、主の前にごく些細な罪があっても、そうした交わりは不可能であるということを心しておきましょう。「どうしたら人間が主の前にごく些細な罪もなくなるのだろう」と思われるでしょう。しかし、心から主と交わりたいと願うのなら、心に一点の闇もあってはならないのです。ですから、主と交わるためには、贖いの福音を信じて罪をすべてきよめなければならないのです。

御霊と交わりたいと心から願うのなら、まず水と御霊の福音を知り、信じ、信仰によって罪をきよめるのです。水と御霊の福音を知らず、心に受け入れることがなければ、主と交わろうなどとは考えないことです。御霊と交わることは、水と御霊の福音によってすべての罪が心から除かれて、はじめて可能になります。

水と御霊の真理によって、誰の心からも罪はみな除かれます。主は、水と御霊のすばらしい福音を信じる者に御霊をくださいます。ほんとうに主と聖霊と交わりたいですか? では、自身の罪を認め、罪をきよめるためにすばらしい福音を信じなさい。そうしてはじめて、ほんとうに主と交わることができるのです。

主と交わりたいのなら、イエスがヨルダン川でヨハネからお受けになったバプテスマを信じなければなりません。また、十字架上の血をも信じるのです。ほんとうに御霊と交わりたいのなら、聖霊とはどなたであるかを知っておかなければなりません。聖霊とは、聖なるお方です。ですから、すばらしい福音を信じる者の内にだけ宿ることがおできになるのです。

イエスがヨハネからお受けになったバプテスマと血とを信じて罪をきよめられ、御霊と交流するようになった人の告白をみてみましょう。

「この世には、大勢の人間がいて、それぞれが自分の考えをもち、それぞれの生き方をしています。私もそういう人間の一人でした。子供時代からごく平凡に生きてきて、母について教会に行き、自然に神を信じるようになりました。父は無神論者で、しばしば私の信仰を批判しましたが、他の家族は、みな教会に通っていました。教会に行くことが生活の重要な部分でした。

しかしながら、思春期になり、病の床についている父を見ると、生と死、天国と地獄といったことについて、いろいろと考えるようになりました。たいていの人は、神を信じるなら天国に行って神の子供になれると言いましたが、私には確信がもてませんでした。自分が神の子供になれようとは思えませんでした。この世でよい行ないをすれば天国に行けると聞いて、恵まれない人々のためによい行ないをしようとしました。

しかし、心の片隅では、自分が罪を犯していることを知っていました。傍目には善人に見えたでしょうが、自分では罪悪感を覚えずにはいられませんでした。そうしたときには教会に行き、『ほんとうに神様の子供にしてください。どうかほんとうのことを教えてください』と祈るのが常のことでした。祈っていると、心に新たな欲求が起こりました。みことばについての教えを聞いても、理解することも実感することもできませんでした。私は自分の生の空しさや罪、死等々いったことのために疲れ果てました。

私は思いました。「新たに生まれたい。新たに生まれることができたら、こんな生き方はしないだろう。」しかし、そう思いながらも、前ほど頻繁には教会に行かなくなり、思春期が過ぎていきました。仕事を見つけなければならない時になりましたが、思ったよりもずっと困難でした。それまで以上に苦しみ、どんなにそうしようとしても、笑うことができませんでした。空しい心で自身を見つめ、私は抑鬱状態になりました。そのとき、兄から福音を聞いたのです。

『そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。』(使徒 3:19-20)これは、水と御霊の福音そのものです。それまで通っていた教会で学んだことは、イエスが人類の罪のために十字架上で死なれたということだけでした。しかし、この福音は、イエスが人類の罪を取り除くためにバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになり、十字架上で人類の罪の裁きを受けられたと告げていました。

私は生まれてからずっと教会に通い、神の子のふりをしていましたが、失敗しました。みことばを理解しようとしましたが、できませんでした。しかしながら、水と御霊のすばらしい福音を聞き、それを信じると、内にあった罪と、私を苦しめていたものがみな消え去り、心が穏やかになりました。

以前は、熱心に神を信じて休まずに教会に通えば天国に行けるものだと思っていました。しかし、神は水と御霊の福音を送ってくださり、私の罪は赦されました。神は賜物として御霊をくださいました。贖いを受ける前、私は御霊のことも異言で話すということも知りませんでした。ただ教会に行き、誠実に生き、教会に仕えれば神は祝福してくださるものと信じていました。しかし、水と御霊のすばらしい福音によって、罪が赦されてはじめて御霊を受けるのだと知ったのです。

それ以前は、神を信じていてもまだ罪の内にありました。そうして、御霊を受けることの重要性を知らずに生ぬるい生を生きていました。しかし、聖書に基づいてすばらしい福音を説く神のしもべを通して、御霊が私の内にも宿られるということを知り、信じるようになりました。

贖いを受けた後、最初、御霊が内におられるのかどうか確信がもてませんでした。しかし、みことばを学び続けているうちに心に新たな信仰が花開き、自分が御霊を受けていることがわかりました。ほんとうなのです。確かに御霊が内に宿っておられることを感じます。主が罪を赦してくださったとき、罪のない者だけが神の子供となり、御霊を受けると知っていました。

また、主の前で完璧であろうとか、完全な生を生きようとすることによっては、けっして御霊を受けることができないのだとわかりました。自分が罪人であることを知っていながらどうしたらいいかわからない者に神は来られます。切に求め、必要としている者に神は会われます。

よい行ないをし、好き勝手に神を信じることによっては天国へ行くことはできないこと、イエス・キリストが水と御霊のすばらしい福音によって罪からお救いくださるためにこの世に来られたことを神は示してくださいました。神は、永遠に内に宿るよう御霊をくださいました。

子供とし、御霊をお与えくださったことを主に感謝します。主が助けてくださらなければ、私はいまだに心に罪をもち、地獄で永遠の滅びを受けることになっていたでしょう。」

同じように、私もかつては十字架上の血だけを信じ、御霊を受けたいと願っていても受けることができずにいました。当時、イエスを信じていましたが、心に罪があって、御霊を受ける妨げとなっていました。罪人は心に御霊を受けることができません。それでも、多くの罪人は心が罪でいっぱいなのに御霊を受けようとします。

御霊を受け、交流したいと心から願うのなら、水と御霊のすばらしい福音を信じて贖いを受けるのです。みなさんは、まだ罪人ですか? では、すでに御霊を受けている人々から真の福音をお聞きなさい。御霊と交流したいと願う人は、渇いた心をもち、水と御霊のすばらしい福音を頼みにしなければなりません。

義人だけが、教会を通して聖霊のことばを聞くことができます。義人はすばらしい福音を聞いて信仰に生きることができますが、罪人は一度も福音を聞くことなく、地獄に定められた呪われた生を生きます。

ですから、水と御霊の福音のことを知らなければなりません。なぜこの福音を信じなければならないのでしょう。律法の宗教から逃れ、神のみことばに基づいたすばらしい福音への信仰を築くために必要なのです。イエスの弟子たちは、このすばらしい福音に従いました。今、この福音は御霊を受けた者のものになっています。水と御霊のすばらしい福音は、原始教会の当初に使徒たちが従ったのと同じ福音です。キリスト教徒はみな聖霊を受けなければなりません。そうしてはじめて神の子供になるのです。

まだ水と御霊のすばらしい福音を信じていない人々は、きっと心に罪があります。その人たちは、御霊と交流できません。聖霊と交流するためには、まず神がお与えくださった水と御霊の福音を信じ、御霊を受けなければなりません。



聖書は繰り返し聖霊に触れている

御霊を内に宿すことは、イエス復活の後で始まりました。今日こそは救済の日であり、今こそは限りない恵みの時です。しかし、水と御霊の福音を受けないならば、また、御霊と交わることなく生きるなら、実に残念なことです。

みなさんは、御霊と交わっていますか? 罪のために御霊との交わりを妨げられているのですか? では、神がくださった水と御霊の福音について学び、信じなさい。水と御霊の福音を信じるなら心に御霊が宿られ、共にいてくださいます。御霊は水と御霊の福音を信じる者の心にだけ宿られます。御霊はしばしば義人の心にみこころを示されます。パウロが御霊と共に行なった働きは、すばらしい福音を広めることでした。

御霊を受けている人は、どうしたら見分けられるでしょう? 何が基準になるでしょう? 基準は、水と御霊のすばらしい福音を信じているかどうかです。水と御霊のすばらしい福音を知り、信じているなら、その人には御霊が宿っておられます。

御霊はすばらしい福音を信じていない人の内には宿られません。御霊は、イエスがヨハネからお受けになったバプテスマと十字架上の血から来る罪の赦しを信じる者の内にだけ宿られます。

みなさんは、御霊と交わりたいですか? 聖霊を受け、交流するためには、どのような福音を理解していなければならないか、ご存知ですか? すばらしい福音は、イエスがヨハネからお受けになったバプテスマと十字架上の血のへの信仰の内に見出されます。水と御霊の福音を信じていないならば罪は赦されず、御霊は内に宿られません。聖霊は、ご自分を受けようとする者が水と御霊の福音を信じることを求められます。

御霊は罪人の心の中に宿ることはおできになりません。御霊を受けたいのなら、すべての罪をきよめるために、まず、すばらしい福音を信じるのです。また、御霊と交わりたいのなら、すばらしい福音を忠実に宣べ広めなければなりません。御霊に導かれたいのなら、いつでもすばらしい福音を愛し、どこに行ってもそれを広めようとしなければなりません。御霊は水と御霊の福音を宣べ広める者と共にあります。

御霊を内に宿すことは、義人、すなわち、すばらしい福音を信じる者にだけ与えられます。義人、すなわち、すばらしい福音を信じる者だけが御霊と交わることができます。聖霊の認められるすばらしい福音は、イエスがヨハネから授けられたバプテスマとイエスの血とによって成就された福音です(ヨハネI 5:3-7)。

使徒ペテロもまた、すばらしい福音を信じ、「そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです」と言いました。聖書で「水」はしばしば、イエスがバプテスマのヨハネからお受けになったバプテスマのことを指しています。

御霊を受けることができる者は、すばらしい福音によって贖いを受けており、罪がありません。すばらしい福音を信じる者は、御霊の導きを受け、霊と真理とによって父なる神に礼拝することができます(ヨハネ 4:23)。御霊は、義人が御霊に満たされて生きるよう導きます。御霊を内に宿している者は、主をたたえて永遠に生きることができます。御霊は、義人が神の子供であることを保証します。聖徒は水と御霊の福音と聖霊の内で永遠に生きます。



御霊は、自らを欺く者と交わられない

ヨハネの手紙第一第 1 章 8 節で、聖霊は罪人に「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません」とおっしゃっています。御霊は、自らを欺く者の心には宿られません。御霊は、「なぜイエスのバプテスマと血とによって成就されたすばらしい福音を信じないのです」と罪人を責められます。

初めはイエスのバプテスマと血のあかしなしに御霊を受けたと信じていた、新たに生まれたキリスト教徒の告白をみましょう。この人は今、水と血の福音を信じて御霊を受けています。ここでは、誰の内に御霊は宿られるのかに注意しましょう。

「自分がこの世に存在する理由を知ったとき、神は私の内に宿られるようになりました。自分を振り返ってみて、この酷薄な世界に生きるにはいかにも力弱いことだけでも神を強く求める動機になっていたのだと思います。とりわけ神を探し求めたわけではなく、自然に、目には見えないけれどおられる神の存在を受け入れていました。もちろん、ほんとうに神はおられるのだろうかと自問しましたが、そう考えるだけでも恐ろしいことでした。神がすべての創り主であられると固く信じていたためです。

神を拒む人々は愚かに思えましたが、それでも、ある意味で私よりもずっと強く見えました。その人たちは、何でも自分の力で乗り越えていけるように見えたのに、私はというと、弱々しい愚か者のような気がしていました。しかし、死後の生への希望があったので、神をいっそう深く崇めていました。天国というのは、私のようにいつでも不完全だと感じているような人間のための場所なのだろうかと思いました。その疑問があったために、天の楽園をより強く願いました。

両親は信仰をもつ人々を見下し、兄弟は、これといった信仰心もなく教会に通っていました。彼らは、教会への傾倒はすぐにやむだろうと思い、私が中学生になるまで、教会に行くのを止めようとしませんでした。そこで私は教会を転々とし、結局は家の近くにあった小さな教会に大学に入るまで通いました。

その教会を選んだのは、そこでは福音を重視していたためです。教会の牧師は福音派の信仰復興推進者で、聖書のみことばに反することは何もしないように見えました。私には、勉強に追われている時にも真剣に宗教生活を送る理由がありました。

その理由というのは、人々が教会の仲間を異教徒呼ばわりするとき、自分の教会は正しいのだと信じ、自分は天国に行くのだと確信していたことです。その確信は福音に基づいていました。罪人は天国の門をくぐれないと言われていますが、別の教会では、心には罪が満ちているとも言っていました。私はまた、教会に加わる前は、自分の教会の人々は罪人であったと信じていたため、この非難はそれほど気になりませんでした。

しかし、いわゆる福音派信仰復興運動をしている人々は、それまで知っていた人々とは違っていました。彼らは、イエスを正しい方法で信じるならば、その人には罪がないと言いました。そして、罪のない者だけが天国に行くのだと。また、イエスは十字架上で人類を裁かれたのだから、人間はもはや罪人ではなく義人であるとも言いました。最初はこれを信じませんでしたが、考えてみると、筋が通っています。私は若く、天国に行きたいのなら、神は罪がお嫌いなのだから、罪がなくなったときはじめて入れてくださるのだと思っていました。

その教会は、私がそれまで親しんでいたのとは違った信仰をもっており、礼拝の儀式も少し違っていました。しかし、天国は選ばれた少数者だけが入れる場所なのですから、その教会の人々は正しい信仰を選んでいるように思われました。教会ではイエスの肉と血とを重視していたため、日曜ごとに一口のパンを食べ、ワインを飲みました。この儀式は聖書のことばに基づいたものだったので、私はそれを受け入れていました。しかし、後になって、信者たちはほんとうの意味を理解することなく儀式に参加しているだけであることに気づきました。

私は、御霊は信者の心、義人の心に住まわれ、祈りをすべてお聞きになるのだと思っていました。そこで、聖霊が自分の内に宿っておられるのだと信じていました。神が自分と共におられることに確信をもっていたので、信じている福音を疑うことがありませんでした。困難な時があっても、神がすぐそばにおられるかのように神に話しました。他の誰にも言えないようなことを言っているときにも、神はそれをお聞きになっているのだと信じていました。ですから、神を信じ、頼っていたのです。

異言を話しに信仰復興集会に出かける人々が理解できず、断食祈祷の会に参加する人々のことを笑いました。そうした努力を見て、思いました。『なぜあの人たちは聖霊を受けるためにあんな無意味な努力をしているのだろう。聖霊は、人が罪のない者になったときにおいでになり、いつでも共にあられるのに。あの人たちは罪人なのだな。どんなにがんばっても、聖霊はあの人たちには下られないさ。』私はその人たちを憐れみました。なんと愚かな、と思いました。そういう気持ちでしたから、福音を信じる自分の信仰が最高であり、他の人々の信仰は、みな嘘だと思うようになりました。

私はこの上なく傲慢になりました。十年間、自分なりの宗教生活を送っていました。しかし、時がたつにつれ、疑問が起こるようになりました。『十字架上の血の福音のおかげで私には罪がない。しかし、ほかの信者もみな罪がないのだろうか? あの人たちも、ほんとうに福音を信じているのだろうか。』なぜそんなことを考えるようになったのか、わかりませんでした。ただ疑問が浮かび、誰にも質問できなかったのです。これは個人的な信条であり、侵してはならないことでした。それに、他の人に聞くのは失礼なことだったでしょう。

しかし、こうしたことを自分に問い始めたのです。大学時代、かつては宗教的戒律によって禁じられていたことをし始め、心は暗くなり、信仰が薄れ始めました。もはや自分の信仰に確信がもてませんでした。『自分は義人だと言えるだろうか。イエスは、ほんとうに罪をすっかりきよめてくださったのだろうか。』こうした迷いの中で、強いて十字架の福音のことを考え、自分を納得させていました。しかし、強いれば強いるほどますます迷い、もう教会の礼拝にも参加しなくなりました。以前はクラブ活動を言い訳にしていました。

そうした迷いと混沌の中で、ついに真理に出会ったのです。水と御霊の福音のことを聞いたのです。それは、まるで雷に打たれたようでした。衝撃があまりに激しかったので、泣きそうになりました。福音を聞いて、それまで信じていたことがみな誤っていたのだと思いました。

私はイエスの上に自分の罪を移してはいませんでした。イエスが私の罪を取り除いたのであり、自分は罪のない人間なのだとぼんやりと信じていたのですが、それは事実ではなかったのです。なぜイエスは、バプテスマをお受けになるためにこの世に来られたのでしょう。ご自分が子羊のように柔和であることを示そうとなさったのでしょうか。人間として来られたことを証明するためでしょうか。それとも、ご自分のやがて来る死を予言なさるためでしょうか。それまでぼんやりとしか知らなかったバプテスマにそれほどの重要な意味があるとは、夢にも思いませんでした。事実は、イエスは全人類の代表ヨハネからバプテスマをお受けになり、そのバプテスマによって、人類の罪がすべてイエスの上に移されたのです。

『ああ。だから、イエスは人類の罪を被る神の子羊となられたのだ。』すべてがはっきりとしました。『イエスは十字架上で私の罪のために裁かれたのだ。だから、私の心には罪がないのだ。』水(イエスのバプテスマ)と血(十字架)、それに御霊(イエスは神)の福音を知った瞬間、心にあった罪が消えました。

私はほんとうに罪がない義人となり、ついに御霊が心に宿りました。それまでの十字架への信仰は、私の心にあった罪をきよめるには不十分でした。自分の罪がどのようにイエスの上に移されたかを知らなければ、罪を赦されることはなく、御霊は内に宿られません。主に感謝します。私はすばらしい福音によって御霊を受けることができました。

何の努力もすることなく、水と御霊の福音によって赦され、今は御霊が内に宿られ、永遠にとどまられるのです。今は、自分は罪のない人間であると誇らかに告げ、天の御国が自分のものであることを誇れます。この場をお借りしまして、このような恵みを価なくくださったことを主に感謝いたします。ハレルヤ。」

御霊を受ける者は、自分は神の前に罪のない者であると言うことができます。どんなに長い間イエスを信じていようと、神がくださったすばらしい福音を信じないのなら、その人は必ず心に罪をもっています。そのような人は、神ばかりではなく自らをも欺いています。こうした人々は、けっして主にお会いしません。罪人が御霊と交流したいと思うなら、まず自分をごまかすことをやめ、罪を犯していることを認めなければなりません。そうしてはじめて、水と御霊の福音を信じる資格を得るのです。このすばらしい福音を信じる人々には、御霊を受ける資格があります。

御霊は罪人に何とおっしゃるでしょう。イエスのバプテスマと血とによって成就されたすばらしい福音を信じて罪の赦しを受けるようにと助言なさいます。罪を犯していながら、自分は罪人ではないと言うのなら、その人はけっして御霊を受けることができません。すばらしい福音を信じないで、自分は罪を犯していないと言う人々は、神と自身を欺いています。罪人は水と御霊のすばらしい福音を知り、御霊を受けなければなりません。そうしてはじめて神の恐ろしい裁きから救われるのです。



義人は罪を告白して 聖霊と交わることができる

私は、水と御霊の福音を信じて御霊を受けている人々と話します。神が義人に何とおっしゃっているかを見ましょう。ヨハネの手紙第一第 1 章 19 節には、「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」とあります。ここは、イエスがバプテスマをお受けになったときに人類の罪をすべて被られ、十字架につけられて罪を贖われたと告げているすばらしい福音を思い起こして、人は行ないによる罪を穢れた心からきよめることができるという意味です。義人は、行ないによる罪を神に告白しなければなりません。そうしてはじめて御霊と交流できるのです。義人は行ないによる罪を告白し、すばらしい福音を信じ続けるのです。

遠い昔、イエスのバプテスマと血とのすばらしい福音が人類の罪をすべてきよめました。ですから、義人はこの福音を信じてすべての罪から解放されなければなりません。主はすでに水と御霊の福音によって罪をすべて赦してくださっています。義人は、罪から解放されるためにすばらしい福音を信じるのです。義人は、行ないによる罪によって穢れたとき、水と御霊のすばらしい福音を信じて心をきよめることができます。

主は、遠い昔にバプテスマと血とによって義人の罪をすべてきよめてくださいました。ですから、信じる者はほんとうにすべての罪から救われています。しかしながら、義人は神の前で自分の罪を告白し、認めなければなりません。また、義人は、すべての罪から解放されるためには、すばらしい福音をなすイエスのバプテスマと血の信仰に戻らなければなりません。そうすると、義人はいつでも御霊と共に、新鮮な新たな生を生きます。自分の弱点のことを思い煩うことなく主にお会いできる者は、水と御霊のすばらしい福音のおかげで神と真に交流することができます。



どうしたら聖霊とほんとうの意味で 交わることができるか

聖霊と交わりたいと思う人は大勢います。しかし、イエスを信じてはいても、どうしたら望みをかなえることができるかは知らずにいます。人はみな、水と御霊の福音を信じて御霊を受け、そのときから御霊と交流するようになります。

同様に、義人が御霊と交流する唯一の道は、水と御霊の福音の真理を知り信じることだけです。義人と聖霊の交流は真の福音なしには行なえません。御霊との交流はどうなのでしょう。それは、すばらしい福音の真理を信じてはじめて可能なのです。



神は、人間は生涯罪を犯すとおっしゃる

ヨハネの手紙第一第 1 章 10 節には、「もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません」とあります。神の前で罪を犯していない人間は、一人もいません。聖書でも、「この地上には、善を行ない、罪を犯さない正しい人は一人もいないから」(伝道者の書 7:20)とあります。人はみな神の前で罪を犯します。自分は罪を犯していないと言う人がいるなら、その人は嘘つきです。人間は生涯、死ぬまで罪を犯します。イエスが人類の罪をすべて被られるためにヨハネからバプテスマをお受けになったのは、そのためです。人間が罪を犯さなければ、神を救い主と信じる必要はないでしょう。

主は、自分は罪を犯していないと考えている人々に、「あなたたちの内にわたしのことばはない」とおっしゃいます。水と御霊のすばらしい福音への信仰をもたないのなら、その人は滅びてもしかたがありません。義人や罪人が、自分は神の前で罪を犯していないと言うのなら、その人にはすばらしい福音を信じる資格がありません。

主は、すべての人にすばらしい福音という賜物をくださいます。聖徒は、すばらしい福音によって罪の赦しを受けるために罪をすべて告白し、悔い改めました。聖霊と交わるために聖徒は、罪の赦しとして神のくださったすばらしい福音に戻り、信じることができます。御霊とほんとうの意味で交流することは、水と御霊の福音の中にあり、水と御霊の福音を信じている者だけが神と交わることができるのです。

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御霊にっいたすバてのこと.

人類は、アダムとイブから受け継いだ罪のために、神から遠いところにいます。しかし今、罪の種を相続している人間が再び神と交わる日を待てるのです。そのためには、イエス・キリストの水と御霊の福音に戻り、人間を神から遠く隔てた罪を赦されなければなりません。

すばらしい福音を信じる者は、すべての罪から救われ、神は彼らを御霊で満たされます。義人は御霊を受けているので、神と交わることができます。ですから、罪のために神から切り離されている者は水と御霊のすばらしい福音に戻り、信じなければなりません。そうしてはじめて、神と真の交流をもつようになるのです。

御霊を内に宿すことは、すばらしい福音への信仰によって与えられます。よろしいですか、御霊が宿ることは、水と御霊の福音を信じることによってのみ実現するのです。すばらしい福音を信じることが神への新たな道を創るのです。主は、原罪と行ないによる罪のために神と人間との間を隔てていた壁を崩され、水と御霊のすばらしい福音への信仰によって人が神と交わることができるようになさいました。

人は、再び聖霊との交わりができるようにならなければなりません。聖霊との真の交わりは、水と御霊の福音を理解し、信仰することによって実現します。御霊との交わりは、罪の赦しがすばらしい福音によって受けられるということへの信仰をもったときに起こります。罪の赦しを受けていない人々は、御霊と交わることができません。つまり、水と御霊の福音を信じることなしには、誰ひとり御霊と交われないのです。御霊と交わることが困難なのであれば、まず自分が水と御霊の福音を信じておらず、罪を赦されていないということを認めなければなりません。みなさんは、御霊と交わりたいですか? では、イエスのバプテスマと血とによって成就された福音を信じなさい。そうしてはじめてすべての罪を赦され、報酬として心に御霊を受けるのです。すばらしい福音は、必ず御霊との交わりを与えてくれます。

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