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 重要な主題に関する Paul C. Jong 師による説教

 

御霊が内に宿るように信じよ

 

<マタイ 25:1-12>

そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて待っていた。花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。ところが、夜中になって、「そら、花婿だ。迎えに出よ。」と叫ぶ声がした。娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。「油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。」しかし、賢い娘たちは答えて言った。「いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。」そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。そのあとで、ほかの娘たちも来て、「ご主人さま、ご主人さま。あけてください。」と言った。しかし、彼は答えて、「確かなところ、私はあなたがたを知りません。」と言った。



御霊は誰に来られますか?

イエスのバプテスマと血とを
信じて罪を赦された
者に。



霊の宿っている娘たちは 誰のたとえか

ここには、五人の賢い娘たちと五人の愚かな娘たちが登場します。愚かな娘たちは、賢い娘たちに油を分けてくれるよう頼みました。しかし、賢い娘たちは、愚かな娘たちに言いました。「いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。」 そこで愚かな娘たちが油を買いに行っている間に、油を用意していた賢い娘たちは婚礼の祝宴に出席しました。では、どうしたら主のための油を用意できるでしょう。するべきことは、心に罪の赦しを受けて主をお待ちすることだけです。

人々の信仰には二種類あります。一つは罪の赦しの福音への信仰。これは、御霊を受けることにつながります。もう一つは、主が罪を赦してくださっているかどうかには無関心で、ただ自分の信仰信条に忠実であるものです。

自分なりの信条に忠実な者にとって、すばらしい福音は厄介なだけです。花婿が来た時になって油を買いに行った愚かな娘たちのように、御霊を受けようとして一つの教会から別の教会へと移る人々は、ほかならぬ自身に欺かれているのです。そうした人々は、最後の審判の日までにすばらしい福音を心にもっていなければならないということを知りません。彼らは自分たちの熱意で神の関心を引いて御霊を受けようと思っています。御霊を受けようとして大変な努力をした執事の告白をみましょう。この告白は、参考になるでしょう。

「私は御霊を受けるためにあらゆることをしました。信仰に熱烈に身を捧げれば御霊を受けることができると思って、教会を移り歩きました。そうした教会の一つでは、礼拝の一部に電子ピアノとドラムの演奏を用いていました。集まりを司祭していた牧師が御霊を受けたいと思っている人を一人一人呼び、その額をぴしゃりと叩くと、叩かれた人は異言で話し始めました。牧師はマイクを持って走り回り、『火を受けなさい、火、火』と叫びました。そして、手を人々の頭に起くと、中には興奮して気絶する人々もいました。私は、こうしたことが御霊を受けることと関係があるのかと疑問をもっていましたが、すでにそうした集まりに酔っていたのです。それなのに、聖霊を受けられたことがありませんでした。

あの経験の後、山に登り、松の木にしがみついて一晩中泣き、祈ろうとしました。洞窟の中で祈ることまでしましたが、それも無駄でした。その後、四十日間徹夜で祈ることをしましたが、それでも、どうしても御霊を受けることはできませんでした。ところがある日、聖霊についてのセミナーに招かれたのです。セミナーは週一回、七週間にわたって行なわれました。

セミナーは神の愛、十字架、イエスの復活、手を置くこと、霊の果実、そして霊的成長についてのものでした。そのセミナーが終わろうというころ、牧師が私の頭に手を置いて聖霊を受けるよう祈り、私は言われたとおりにしました。体の力を抜き、両手のひらを空に向けて上げ、何度も『ラーラーラー』と叫びました。『ラーラーラー』と叫んでいるうちに、突然、私は別の言語で流暢に話し始めました。大勢の人が、私が聖霊を受けたことを祝ってくれました。しかし、家で一人でいるうちに、こわくなりました。そこで、セミナーでボランティアの仕事をするようになりました。できる限りボランティアの仕事をするべきだと思って、奉仕をしながら国中を歩きました。そして、患者に手を置いたとき、病気が癒されるように思われました。すぐにまたぶり返したのですが。それから、幻影を見、予言することができたのです。驚いたことに、予言したことは必ず実現しました。そのときから、あらゆる所に招かれて、有名人のように扱われました。それでも私はこわかったのです。それがある日、声が『あちこち移り歩くのはやめて、家族が救済を受けるのを助けなさい』と言うのを聞いたのです。しかしながら、救済とは何かわかりませんでした。知っていたのはただ、他の人から聞いたことだけでした。それは、聖霊の賜物を使わなければ、聖霊がそれを取り上げるだろうというのです。一方、私は自分の力を使うことを恐れながらも、使わずにはいられませんでした。

ある日、女性呪術師がイエスを信じたいと願っていることを聞き、友人たちと一緒に彼女を訪ねました。私たちは、行くことを事前に告げていませんでした。しかし、その呪術師は門の外で待っていて、言いました。『おいでになることはわかっていました。』それから、突然私たちに水をかけ始め、言いました。『東洋の呪術師と西洋の呪術師に違いはありません。』彼女は私たちを『イエス呪術師』と呼び、私たちを指差して、『この人はこわいけれど、あっちの人は違います』と言いました。その女性呪術師の言うことを聞いて、頭を殴られたような気がしました。自分がこれまでしてきたことは呪術師のすることと何ら違いはないのだと考え始めました。それまでしてきたことの何一つも聖霊をもたらしませんでした。私の心にはまだ罪があったためです。」

この告白から、聖霊を受けることは、人間の能力の及ばないことであることがわかります。この告白にあるような信仰は、神の福音に基づいたものではないのですから、こうした信仰生活をしている人々は、ともしびに油が入っていません。

聖書のともしびとは教会のことであり、油は聖霊を指しています。聖書は、神の教会であろうとなかろうと、聖霊を受けることなく教会に出席する人々は愚か者だであることを示しているのです。

愚か者は、毎日感情と体を燃やします。愚か者は神の前で熱心な体と感情とを燃やします。感情が二十センチあって、一センチ燃やすのに一日かかるとしたら、たった二十日で感情は燃え尽きることになります。彼らの信仰の陰にある感情は、早朝の祈祷や終夜祈祷・断食祈祷・信仰復興集会などで新たな力を得ますが、感情は生涯を通じて燃え続けるのです。彼らはこの終わることなく感情を燃え立たせる過程に溺れているのです。

彼らの感情はイエスの名において燃やされます。教会に出席し、感情を燃やしますが、心はまだ混乱しており、何か他のものを探しています。それは、信仰が身体的経験からきているためです。ですから、炎が消えないよう、そうした感覚を常に補強している必要があるのです。しかしながら、そのような信仰によっては聖霊を受けることができません。感情を燃やしても聖霊を受けることはできません。

人はみな、神の御前で聖霊を受けるための正しい信仰を備えなければなりません。そうしてはじめて、御霊を受ける資格を得るのです。どうしたら聖霊を受けるに価する者になれるような信仰を得ることができるのでしょう。答えは、ヨルダン川でのイエスのバプテスマと十字架上の血によって成就された、すばらしい福音の中にあります。

神は、人間は「悪を行なう者どもの子孫」(イザヤ 1:4)だとおっしゃいました。これを認めなければなりません。

人間は本来、十二種の罪をもって生まれます(マルコ 7:21-23)。人間は、生まれた日から死ぬ日まで罪を犯さずにはいられません。

ヨハネの福音書第 1 章 6-7 節には、「神から遣わされたヨハネという人が現われた。この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである」と記されています。バプテスマのヨハネはイエスにバプテスマを授けて世の罪をすべて渡し、言いました。「見よ。世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネ 1:29)人類は、ヨハネがイエス・キリストに授けたバプテスマのおかげで罪のすべてから救われています。ヨハネがイエスにバプテスマをお授けして、イエスは世の罪を取り除いた神の小羊であると告げていなければ、イエスが人類の罪を全部被られて十字架まで運ばれたことを人間が知ることはできなかったでしょう。また、聖霊を受ける方法を知ることもできなかったでしょう。しかし、聖徒はヨハネのあかしのおかげで、イエスが人類の罪をすべて取り除かれたことを理解し、御霊を受けることができました。

この信仰によって、聖徒は花婿イエスをお迎えする用意が整っている花嫁となりました。聖徒は、イエスを信じ、聖霊を受ける用意がすっかりできている娘です。

みなさんは、心から水と御霊の福音を信じていますか? イエス・キリストが、ヨハネからお受けになったバプテスマによって罪をすべて取り除いてくださったと信じていますか? 聖書は、「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」(ローマ 10:17) としています。聖霊を受けるためには、イエスがヨハネからバプテスマを授けられ、十字架上で死なれたと信じるのです。よろしいですか、イエスが人間としてこの世に来られ、ヨハネからバプテスマを授けられ、十字架上で死なれてよみがえられたと信じてはじめて聖霊を受けることができるのです。

今日でも、先に引用した話の中の十人の娘が二つのグループに分けられたのと同じように、信者には二通りあります。みなさんは、どちらに属していますか? 水と御霊を信じて御霊を受けなさい。教会に出席していながら、まだ聖霊が来られるのを待っているのですか? 聖霊を受けるための正しい方法を知りましょう。

どのような信仰があれば御霊を受けることができるのでしょう。シャーマニズムの恍惚とした興奮によって聖霊を受けることができますか? 昏睡状態で御霊を受けることができますか? 狂信的宗教を信じて御霊を受けることができますか? いつでも神に罪の赦しを願って祈っていなければなりませんか? 聖書は、イエスがバプテスマをお受けになって水から出られたとき、神の霊が天から下ったとしています。イエスは、人類の罪をすべて被られ、人類の違反のすべてを贖うために十字架につけられるのだとお告げになるために、バプテスマをお受けになりました。

イエスは世の罪を被られるためにヨハネからバプテスマをお受けになり、人類が救われて御霊を受けるようになさるために十字架に行かれました。これが真理です。イエスはヨハネからバプテスマを授けられ、十字架上で人類の罪全部の罰をお受けになり、よみがえられました。罪の赦しを受けるためには、イエスがヨハネからお受けになったバプテスマと十字架上の血とを信じなければなりません。イエスのバプテスマの部分(マタイ 3:13-15)から、イエスのバプテスマを信じてきよめられた者の上に聖霊が鳩のように平和に来られることがわかります。

御霊を受けるためには、イエスがヨハネからお受けになったバプテスマと十字架上の血とを信じることが必要です。聖霊は、罪の赦しを信じた人の上に鳩のように平和に来られます。すでに聖霊を受けている者は、それが信仰による罪の赦しによって可能になったのだということを心しておきましょう。聖霊は、罪の赦しを心から信じる人の上に来られます。

イエス・キリストは、永遠のいのちのパンとワインによって来られました(マタイ 26:26-28、ヨハネ 6:53-56)。イエスがバプテスマの後で水から出られると、天からの声が、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」(マタイ 3:17)と言いました。

神を三位一体として信じることは簡単です。神はイエスの父であり、イエスは神の御子です。聖霊もまた神です。三一神は、人間には一体の神です。

よろしいですか、十字架だけを信じたり、よい行ないによって自分を聖化しようとすることによっては、けっして御霊を受けることができません。ヨハネは人類の罪を全部その上に置くためにイエスにバプテスマを授けたこと、イエスは人類の罪をすべて贖われるために十字架につけられたことを信じてはじめて、人は御霊を受けることができます。実に単純な真理ではありませんか。罪の赦しと御霊を受けることは、難しいことではありません。

神は、簡単な言葉で話されます。通常の人の IQ は 90〜110 です。福音は、普通の人が理解できるくらい簡単です。四、五歳の子供でも、すばらしい福音を理解することはけっして難しくありません。しかし、聖霊の宿ることについて神がもっと高度な方法で語られたなら、どうして神のおっしゃることが人間に理解できたでしょう。神は人類の罪をすべて正しく赦され、それを信じた者に賜物として御霊をくださいました。

神は、手を置くことや悔い改めの祈りによっては御霊を受けることはできないとおっしゃいます。断食や献身をしても、たとえ山で一晩中祈っても、聖霊は来られません。どのような信仰があれば、内に御霊を受けることができるのでしょう。それは、イエスがこの世に来られ、人類の罪をすべて取り除かれるためにバプテスマをお受けになり、十字架上で死なれ、よみがえられたことへの信仰によるのです。



ほんとうにこれを信じなければならないのか

なぜ罪の赦しを受けて聖霊を受けなければならないのでしょう。神の御国の民になるためには、御霊が必要です。ですから、御霊を受けるためには、イエスが救い主であられること、イエスのバプテスマと血とを信じ、罪を赦されなければなりません。

なぜ神は罪を赦された者に御霊をお与えになるのでしょう。ご自分の民としての印をつけられるためです。イエスをみことばにしたがって信じる者に、その証として、神は御霊をくださいます。

実に多くの人々が誤った信仰をもち続けています。イエスのバプテスマを信じて御霊を受けることは、ほんとうに簡単です。すでに御霊を受けている者にとっては容易なことです。しかし、罪の赦しを受けていない人々には不可能です。その人たちは真理を知らず、狂信的な動作によって宗教的昏睡状態に陥るといったような、聖霊を受ける別の方法を求めています。彼らはほんとうに何も知らないため、サタンの蒔いた種に惑わされて、迷信的な宗教の影響を受けるようになるのです。

御霊は、イエスのバプテスマと十字架上の血を信じて罪の赦しを受けた者の内に宿られます。神による救済を信じる者だけが、「私には罪がありません」と告白できます。水と御霊の福音を信じていないのなら、その人は、自分には罪がないと言うことができません。同様に、神は、イエスのバプテスマと十字架上の血とを信じるご自分の子供への誓いのしるしに御霊をお与えになります。

イエスのバプテスマと血が人類の罪を取り除いたとあかししたのは、誰ですか? イエス、その弟子、そして聖霊があかししました。すべての人々を罪から救うことを計画したのは、誰ですか? 父なる神がなさいました。このご計画を実行なさったのは、誰ですか? イエス・キリストです。このご計画が実行されたと最終的にあかししたのは、誰ですか? 聖霊です。

神は、人類をご自分の民になさろうとして、そのためにイエスのバプテスマと血とによってすべての罪からお救いくださることを決められました。ですから、三一神が人類の究極的な救済をあかしなさり、罪の赦しを認められるのです。

マタイの福音書第 3 章 17 節には、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」と記されています。神の御霊を宿している者は、神の民です。彼らは神の子供です。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」イエスは本来、神であられます。父なる神は、「罪の赦しを受けたいのなら、わたしのひとり子イエスがすべての人類の罪を永遠に取り除いたと信じ、御霊を受け、子供になりなさい」とおっしゃいます。これを信じる者は罪の赦しを受け、神の娘や息子になります。神は、彼らをご自分の子供と証明なさるために賜物として御霊をくださいます。聖徒は、イエスのバプテスマをその血とともに信じて、はじめて罪の赦しを受けました。

心を空しくして赦しの福音を信じないでいると、原罪はすでに消えたが、それでも行ないによる罪の赦しを受けるためには、やむことなく悔い改めの祈りをささげなければならないと信じがちです。そのような考えをもってしまうと、聖書は理解し難い、わけのわからないものになります。そこで、イエスの弟子たちとは違った信条をもつようになります。

聖霊は祈りによって来られるという人々がいます。しかし、それは厳密には聖書の観点からして正しくありません。もっともらしく聞こえますが、聖書は、イエスがヨハネから授けられたバプテスマの後で水から出られたときに御霊が鳩のように下られたとしています。これは、御霊を受けたいのなら、世の罪をすべて取り除かれるためにイエスがこの世に来られ、ヨハネからバプテスマをお受けになり、十字架上でそうして負われた罪の裁きをお受けになり、復活なさって救い主となられたと信じさえすればよいということなのです。

人がこの真理を信じて御霊を受けたとき、神は何とおっしゃるでしょう? 神は、「あなたはわたしの子です。これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」とおっしゃいます。神は、将来イエスを信じて罪を赦される人々にも同じことをおっしゃるでしょう。これが、人類を子供になさるという神のお約束です。

しかし、人々はまだ他に御霊を受ける方法があるものと考えています。叫びやこの世での努力で聖霊が下られると信じているのですか? 神のみわざはみこころだけによって支配され、神は罪の赦しを受けた者にだけ御霊をお与えになるのです。神は、「わたしは、あなたたちの罪をすべて取り除くように、息子にバプテスマを受けさせ、そうして負った罪の罰として十字架につけられるようにしました。息子をあなたたちの救い主に任じました。息子が成就した罪の赦しを受け入れるのなら、聖霊を遣わしましょう」とおっしゃいます。

父なる神は、みこころのままに行なわれます。人間が一晩中跪いて胸が裂けるほどに主の名を叫び続けたところで、神が御霊を遣わされるとは限りません。ただその人を非難して、「まだ真の知識を受けないで誤った信条にしがみついていますね。あなたが真の信仰を拒んでいる間は聖霊を与えません」とおっしゃいます。

この世でなら、人間の決定は状況によって変わるでしょう。しかし、神が罪をお赦しになって聖霊をお与えになるために定められた律法は変わることがありません。誤った信条に捕らわれてしまったなら、再び正しい道を見出すのは困難です。聖書は、イエスは従わない者にとっての躓きの石であるとしています(ペテロI 2:8)。

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御霊にっいたすバてのこと.

イエスを信じていながら、イエスがバプテスマをお受けになった理由を知らず、贖いの福音の半分しか知らない人々は、必ず地獄に落ちます。ですから、初めてイエスを信じるときには、罪の赦しの福音を構成するイエスのバプテスマと血とについて知っていなければなりません。そうして罪の赦しを受けるのなら、その人は御霊をも受けます。

イエスのこの世での生について考えましょう。イエスは受肉なさり、バプテスマによって世の罪を全部取り除かれました。イエスはまた、人類を地獄の炎からお救いくださるために人類の罪の罰をお受けになって十字架上で死なれました。イエスを信じる者は、賜物として御霊を受けます。

ですから、人はみな御霊を受けるために真の道を辿らなければなりません。必要なことは、真理のみことばに沿って考えることです。そうすれば、イエスはその人を守り、祝福なさいます。心を空しくしてみことばを信じる者は罪の赦しを受け、御霊に導かれて真理の内に生きることができます。さらに、その人たちは御霊の助けを受けて他の人々をも正しい道へと導くことができます。

イエスのバプテスマと血とが成就した贖いを信じなさい。そうしてはじめて、信仰をもって主に従い、罪の赦しと永遠のいのち、御霊を内に宿す恵みを受けることができるのです。イエスは、バプテスマと十字架上の死とによって世の罪をすべて取り除かれた赦しの主です。イエスは人類の罪をすべてきよめられ、真理の福音を信じる者に御霊をお与えになります。真の信仰をもつことによって、人は御霊を受けることができるのです。

 

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