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 重要な主題に関する Paul C. Jong 師による説教

 

信じる者の内に御霊が宿るようにするすばらしい福音

 

<イザヤ 9:6-7>

ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は、「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。

 

何が信者の内に御霊が
宿るようにするのですか?

水と御霊の すばらしい福音が。

 

御霊を受けるには、水と御霊の福音への信仰をもつことが必要です。主は不思議な助言者、力ある神と呼ばれました。主は、ご自分が天国への道であるとおっしゃいました。イエス・キリストは、すべての人にすばらしい福音の賜物をくださいました。

しかしながら、この世には、いまだに闇の中で生きている人が実に大勢います。その人たちは闇から逃れようとしますが、すばらしい福音のことを知らないために、自分の罪から逃れることができません。そうして、誤った教義のために衰えていきます。それに対して、真理を求める者はすばらしい福音に出会い、以後の生を神の恵みに満たされて生きます。私は、人々がすばらしい福音を見出して罪をきよめるのを助けるようにしてしてくださったのは、神からの特別の恵みだと信じています。

罪からの解放は、神の恵みなしには不可能なのです。主に出会って御霊を受けたなら、その人は実に恵まれています。残念なことに、多くの人は今、このすばらしい福音への信仰によって神の恵みを受けられることを知らずにいます。

神の恵みは、神のひとり子イエス・キリストがくださったすばらしい福音を信じて得られるのです。イエスは人類を世の罪からお救いくださり、慈悲をお与えくださるお方です。人類を罪から救って心から罪悪感を消すことは、他の誰にもできません。誰が自分の罪と永遠の死の苦しみから自らを救うことができるでしょう。

神は、「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である」(箴言 16:25)とおっしゃいます。人々は自分なりの宗教を創始し、滅びと死へと自らを駆るのです。多くの宗教は正しさを重視していることを誇り、人々を罪から救うための方法を示します。しかし、主がお与えくださった水と御霊の福音だけが人間を罪のすべてから救うことができるのです。イエスだけが、罪人を罪から救うことのできる救い主であられるのです。

ヨハネの福音書第 14 章 6 節で、主は「私が道であり、真理であり、いのちなのです」とおっしゃっています。主は、死への道についていた者に自らの肉と血とをお与えくださいました。主はまた、ご自分が真のいのちへの道だとおっしゃいました。神は、イエスのすばらしい福音を信じないのなら、その人は天の御国に入ることができないとおっしゃいます。天の御国に入るには、水と御霊の福音を信じ、罪を赦され、主が救い主であられると信じなければなりません。



昔イスラエルで

「ウジヤの子のヨタムの子、ユダの王アハズの時のこと、アラムの王レツィンと、イスラエルの王レマルヤの子ペカが、エルサレムに上って来てこれを攻めたが、戦いに勝てなかった。」(イザヤ 7:1)

イスラエルは、もともとは一つの国でした。しかしながら、イスラエルは南北に分裂しました。神殿は南部ユデアのエルサレムにあり、ソロモン王の子レハブアムが支配していました。後にソロモンの召使の一人ヤロブアムが北部に別の国を建て、そのためにイスラエルは二つに分かれます。その時から神への信仰は衰えていきます。信仰の衰退は、今日ある異端のもととなりました。ヤロブアムは、こうして異端者の始めとなりました。彼は自分の王座を守ろうとして神の律法を改変し、そうして異端者の始祖となったのです。彼はイスラエルの北王国の民のために別の宗教を作り出し、南王国ユダを侵略しようとさえしました。二百年近くが過ぎても二つの王国の間の敵対心は変わりませんでした。

しかしながら、神はイザヤを通して次のようにお告げになりました。「アラムは、エフライムすなわちレマルヤの子とともに、あなたに対して悪事を企ててこう言っています。『われわれは、ユダに上って、これを脅かし、これに攻め入り、わがものとし、タベアルの子をそこの王にしよう。』と。神である主はこう仰せられる。『そのことは起こらないし、ありえない。実に、アラムのかしらはダマスコ、ダマスコのかしらはレツィン。六十五年のうちに、エフライムは粉砕されて、もう民ではなくなる。また、エフライムのかしらはサマリヤ、サマリヤのかしらはレマルヤの子。もしあなたがたが信じなければ、長く立つことはできない。』」(イザヤ7:5-9)

その時、神はイザヤを通してアハズ王に預言しましたが、王は神を信じていませんでした。アハズは単に自分がアラム軍の攻撃も退けられないだろうことを心配していたのですが、アラムとイスラエルが連合したことを聞いて、恐怖に震えました。しかし、神のしもべイザヤがやって来て、言いました。「六十五年以内に北のイスラエルは滅びます。そして、二人の王の企てた邪悪な企みはけっして実現しません。」

神のしもべはアハズ王に、神からしるしを求めるよう言いました。「あなたの神、主から、しるしを求めよ。よみの深み、あるいは、上の高いところから。」(イザヤ 7:11)「さあ、聞け。ダビデの家よ。あなたがたは、人々を煩わすのは小さなこととし、私の神までも煩わすのか。それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」(イザヤ 7:13-14)神はこう預言なさったのです。ご自分の民を罪からお救いになると。



神の敵とは誰か

人類の敵は罪であり、罪はサタンにその源があります。では、誰が罪からの救い主なのでしょう。救い主は、ほかならぬイエス・キリスト、神の御子です。人間には根本的な肉の弱さがあります。ですから、どうしても罪を犯してしまいます。人間はサタンの支配下にあります。大勢の人々がいまだに占い師を訪れて、そうした偽預言者の指示どおりに生きようとしています。これは、その人々がサタンの支配下にある直接的証拠です。

主は、処女が男の子を産み、インマヌエルと名づけるとおっしゃって、イザヤに救済のあかしを示されました。イエスを罪深い人間の肉の形で遣わされ、罪人をサタンのくびきからお救いになることが神のご計画でした。預言のとおり、イエスが処女マリアから生まれた人間としてこの世に来られました。

イエスが来られなければ、人間はいまだにサタンの支配下にあったことでしょう。しかし、イエスはこの世に来られ、すべての罪人を罪から救うすばらしい福音をくださるためにヨハネからバプテスマを授けられ、十字架上で死なれました。ですから、大勢の人々がすばらしい福音を信じ、罪の赦しを受け、神の子供になりました。

今日でも、多くの神学者は、イエス・キリストが神であるか人間であるかについて議論しています。保守的神学者は、「イエスは神です」と言いますが、新神学者は、イエスはヨセフの庶子であると反論します。これは、なんという嘆かわしい考えでしょう。

新神学者の中には、イエスに水の上を歩く力があったとは信じられないと言う人々がいます。彼らは、「イエスは実際には地平線の向こうの低い丘を歩いていたのです。弟子たちは遠くからそれを見て、水の上を歩いていると思ったのですよ」と言います。今日の新神学派に属する神学博士は、みながすぐれた神学者というわけではありません。そのほとんどは、聖書の中で自分が理解できることだけを信じることを選んでいます。

別の例を挙げると、聖書では、イエスが二匹の魚と五個のパンで五千人を養ったとしています。しかし、彼らはこの奇跡について、とても懐疑的です。彼らは、これを次のように説明します。「人々はイエスについて来て、飢え死にしそうになっていました。そこで、イエスは弟子たちに残り物の食物をすっかり集めさせました。その時、子供がすすんで自分の食べ物をイエスに差し出しました。すると、大人たちはみなこれに感動して自分たちの食物を取り出しました。そこで、食物をみんな集めて食べたところ、籠十二杯分が残ったのです。」 こうした神学者は、神のみことばを自分たちのごく限られた理解力に合わせようとしているにすぎません。

神の真理を信じることは、神のお与えくださったすばらしい福音への信仰をもつということです。信仰とは、一つのことが意味をなしているからというだけでそれを信じ、他のことは意味をなさないから信じないということではありません。理解できようと、できまいと、神を信じ、そのみことばを記されているとおりに信じるのです。

イエスが人の子としてこの世に来られたということは、人類を罪のすべてからお救いになるために遣わされたということです。神であられるイエスは、人類をお救いになるためにこの世に来られました。イザヤは、主が人の子として処女からお生まれになると予言しました。

創世記第 3 章 15 節で、神は蛇におっしゃいました。「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼はおまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」 これは、神が人類を罪からお救いになるためにイエスを人の形で救い主として遣わされるということを意味しています。

聖書には、「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。死のとげは罪であり、罪の力は律法です」(コリントI 15:55-56)と記されています。死のとげは罪です。人が罪を犯すと、死の奴隷になります。しかし、主は、「女の種がおまえの頭を踏み砕く」と約束なさいました。これは、サタンのもたらした罪のとげをイエスが破壊することを意味しています。

イエスはこの世に来られ、世の罪を取り除くためにバプテスマをお受けになり、そうして負われた罪のために十字架につけられて裁かれました。イエスは、すばらしい福音を信じる者全員を罪からお救いになりました。アダムとイブが罪を犯したとき、神は人類をサタンの力からお救いになろうと約束なさいました。現代の世の中で神の敵とは、すばらしい福音を信じない人々です。



イエスがこの世にお生まれになった理由

神は、人類を罪からお救いになるために律法とすばらしい福音とをくださいました。神の律法によると、人間は神の前には罪人になります。また、律法は人間が自分の罪を知るようにと与えられました。人間が罪と律法自体の奴隷になると、主は律法の正しい要求を満たされるために、この世に来られました。

イエスは律法の下にお生まれになりました。イエスは律法の時代に誕生なさいました。人間に律法が必要であったのは、罪の赦しを受けるためには自身の罪を知らなければならなかったためです。汚れていることに気づいてはじめて、人は衣服を清めます。同様に、罪を認識するためには、神の律法を知っていなければなりません。律法がなければ罪の意識はなく、イエスがこの世に来られる必要はなかったでしょう。

神の律法を知っていれば、神にお会いする機会があります。人間は、律法を知っているからこそ自分の罪を知ることができるのです。人間が罪を知ってはじめて、イエス・キリストは、人間が信じるように、すばらしい福音をもたらされたのです。神が律法をくださらなければ、人間は罪人ではなく、裁きは存在しなかったでしょう。そこで、神は人類に律法と、罪人全員を罪から救うすばらしい福音とをくださったのです。

創り主と被造物との間になくてはならない律法とは、神の救済の律法です。これは、愛の律法です。神は人間に「しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない」 (創世記 2:17) とおっしゃいました。これが、神が人間にお与えになった律法でした。この律法が、神が人類全員を罪からお救いになる愛の基となったのです。救済の律法には、罪の赦しの基礎があります。神は、ご自分が人類の創り主であり、すべてはみこころにしたがって存在するようになったのだとおっしゃいます。これは、神は絶対者であられ、人間はすばらしい福音によって成就される救済の律法を信じなければならないということです。

絶対神は絶対善です。神は、この世への愛から、ひとり子をいけにえとなさり、御子はすべての罪人の救い主となられました。神が人間をお造りになっておいて、罪から救うためにすばらしい福音をくださらなければ、人間は神に抗議したでしょう。しかし、神は人類を滅びからお救いになろうとお思いになり、そこで、救済の律法を定められました。律法があるからこそ人間は自身の罪に気づき、罪を直視し、イエスのすばらしい福音を信じるようになりました。人間が神のみことばにそむくと、律法の前に罪人となります。そして、結局、罪人はみな神の前で跪き、罪の赦しをくださるように乞うのです。

イエスは人類を罪からお救いになるために処女から生まれてこの世に来られました。イエスは神が人間のためにご計画になったことを実現なさるためにこの世に来られました。聖徒は、主のすばらしい福音を信じます。ですから、主をたたえます。

「なぜ神は人間をこんなにも弱くお造りになって容易に罪に陥るようにし、自分の悪い行ないのためにこんなにも苦しむようになさったのでしょう」と文句を言う人がいるでしょう。しかし、神は人間が苦しむことをけっして望まれません。人間が苦しむようになさったのは、人間がイエスの福音に懐疑的だったためです。神が人間に苦しみとすばらしい福音の両方をくださったのは、子供として神と同じ力をもつようになさるためです。これが神のご計画でした。

しかし、悪魔は、「違う。そうじゃない。神は独裁者だ。思うように生きたらいい。自立しなさい。自分の努力で身を立てなさい」と言います。悪魔はまた、人類が神を信じることを妨げようとします。しかし、神から離れて生きることを選んだ人々は、神の救済のご計画の妨げです。イエスはこの世に来られ、サタンに支配されている人々に罪を放棄せよと呼びかけられました。人間は神と離れて生きてはなりません。



人間は地獄に定められた罪人として 生まれる

この世には、不変の真理というものはありません。しかし、イエスのすばらしい福音は不変の真理です。ですから、人はその真理を頼りとしてサタンの力から解放されるのです。人類はアダムとイブから罪を受け継ぎ、キリストの介入がなければ、地獄の火に定められていました。それが、イエスの犠牲のおかげで神の子供になる力に恵まれたのです。「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。」(イザヤ 9:1)神はこの世に御子を遣わされ、すばらしい救済を信じた者に栄光をお与えになりました。

「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」(イザヤ 9:2)今日、このことばはみなさんと私に当てはまります。すばらしい福音を信じることによって、聖徒はこの地上では得られない永遠のいのちを恵まれました。イエス・キリストは、世の罪のすべてから人類をお救いくださり、すばらしい福音を信じる者に永遠のいのちと天の御国をくださいます。



絶望した者に主は福音のすばらしい光を投げかけられた

人間は、霧のように、この世につかの間存在し、じきに消えます。人間の命は、一年生の植物のようなものです。草は一年のほんの数ヶ月だけ命を保ち、摂理にしたがって消えます。人間の生はみな、こうした草のように無意味な空しいものです。しかし、神は疲れ果てた魂にすばらしい福音をくださり、その義によって、子供にしてくださいました。なんとすばらしい恵みでしょう。神の愛のおかげで、無意味な生は永遠の生となりました。また、聖徒は子供となる資格をも恵まれました。

すばらしい福音を信じて神の恵みを受けた魂の告白を読んでみましょう。

「私はキリスト教の神を信じない家庭に生まれました。ですから、母が毎朝水を入れた鉢を前にして天と地の神に家族の幸福を祈るのをすばらしいことだと思って育ちました。成長するにつれ、自分の価値や存在理由がわからなくなり、そのために、自分が生きようと死のうと、どうでもいいことなのだと考えるようになりました。自分の価値を知らなかったので、孤独に生きていました。

こうした生に疲れた私は、大急ぎで結婚しました。結婚生活は満足のいくものでした。これといって欠けたことがなく、静かに穏やかに生きていました。それが、子供が生まれ、その時から自分の中に愛が芽生えるのに気づきました。自分勝手な欲求は次第に消えていきましたが、家族を失うことを恐れるようになりました。

そこで、神を探し始めました。私は弱く力ない者だったので、自分の愛する人々を見守ってくれる絶対者が必要でした。そうして教会に出席するようになりましたが、私の信仰は母の信仰と大差ないものでした。母は水の鉢の前で祈りました。私の祈りは、漠然とした恐れと希望に基づいたものにすぎませんでした。

あるとき、近くの教会で催された少人数の集まりに出て祈っていると、涙が流れだしました。私は困惑し、泣くのをやめようとしましたが、涙は流れ続けます。回りの人々は私の頭に手を置いて、聖霊を受けたことを祝ってくれました。しかし、私は混乱していました。神のみことばさえよく知らず、信仰はぼんやりとしたものにすぎなかったので、この力が聖霊のものであるということを確信できませんでした。

私が参加していた教会はペンテコステ・カリスマ運動に関係していて、多くの人は私のような経験をしており、ほとんど全員が異言を話しました。ある日、御霊に満たされているとされていた牧師が指導する信仰復興集会に招かれました。牧師は教会に大勢の人々を集め、自分にはそのための霊的力があるので、誰かの副鼻腔炎を治そうと言いました。しかしながら、私は、副鼻腔炎は病院で簡単に治療できる病気だと思っていたので、牧師がどのようにして聖霊を受けたのかということの方に関心がありました。しかし、牧師はどうやら治療の試みに成功した後で、高校生が大学入試に合格するかどうかを予言できると自慢し始めました。大勢の人々が、それが神の力であるかのように牧師の力をほめました。

しかし、私にはその人のことがわかりませんでした。また、牧師がどんな力をもっていたにしろ、それが聖霊と何か関係があるとは思えませんでした。副鼻腔炎を治せようと、誰かの入試の結果を予測できようと、それが重要なこととは思えませんでした。ですから、牧師の一見奇跡らしいものが聖霊の働きであるとは思えなかったのです。

私の考えていた神の力と愛は、そこで見たものとは違ったものでした。そのため、その教会に行くのをやめ、牧師の力を信じている人々を避けました。その後、もっと静かな教会に加わりました。そこを選んだのは、より神のみことばに沿っているように思えたためです。私はそこで律法を学び、律法によって自分が実に不正な人間であることを知りました。神は恐怖の対象になり、自分が神の御前では立派な存在ではないことを知り、聖霊に無視されているように思いました。

イザヤ書第 59 章 1-2 節には、『見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あながたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ』と記されています。これは私の状況に該当するように思えました。自分のしたり、考えたりすることがみな罪深かったので、神の子供となって御霊を受けることは不可能だったのです。

神を恐れ、ひっきりなしに悔い改めの祈りをささげました。誰一人そうしろとは言いませんでしたが、私は神の前で立派な人間でありたかったのです。罪深かったので、それまで以上に悔い改めの祈りを熱心にささげました。しかし、そうした祈りでは罪を洗い流すことはできませんでした。私がしていたことは、神に自分の考えと誠意とを示すことだけでした。ですから、まだ罪は私の内にありました。そのころから、神に不満を述べるようになりました。神の目に完全であろうとしましたが、すぐに完全になることはできませんでした。そこで、不満と罪が重なっていきました。

そうした宗教的混乱のさ中にいたときに、父が卒中を起こしました。手術を受け、四十日間病院で過ごして、父は亡くなりました。しかし、私は一度たりとも父のために祈ることができませんでした。私は罪人でしたから、父のために祈ったなら、その苦しみが増すばかりだろうと思ったのです。自分の信仰の欠如に苦しみ、神に従いたいと思ってもそうはできませんでした。そこで、不平を言い続け、ついには神に背を向けました。私の宗教生活は、そのようにして終わりました。神を信じたなら御霊が内に宿り、平安を見出すだろうと思ったのですが、そうではなかったのです。それ以後、人生はいっそう無意味になり、私は恐れと不幸の中で生きました。

しかし、主は私をお見捨てにはなりませんでした。主は、みことばによって真に御霊を受けた信者に会わせてくださいました。その人から、イエスがヨハネから授けられたバプテスマによって人類の罪を被られ、そうして負われた罪の罰を十字架上で受けられたことを教えられました。この世の罪は全部、私の罪も含めて、みな赦されているのです。これを聞き、理解したとき、罪がみなきよめられたのがわかりました。神は私が罪の赦しを受けるのを助けてくださり、聖霊の祝福をくださり、穏やかな生活をお与えくださいました。神は静かに私を導かれ、善と悪とを明確に知るようにしてくださり、この世の誘惑に勝つ力をお与えくださいました。神は私の祈りに答え、正しく、生きがいある生を生きるよう助けてくださいます。御霊をくださったことを心から神に感謝しています。」

人はみな主の恵みを受けており、聖霊を受けることができます。すばらしい福音をくださったことを主に感謝いたします。神は義人にこのような幸福をお与えくださいます。義人の心は喜びに満ちています。主は永遠の幸福をくださいました。聖徒は神の救済と愛と恵みがいかに尊いものであるかを知り、そのことを感謝しています。主は天のすばらしい福音によって幸福をくださいました。これは、お金では買うことのできないものです。神は、聖徒が喜び、正しくあるようにと、すばらしい福音とともに聖霊を遣わされました。すばらしい福音が人間の生を喜ばしいものにするのです。主はすばらしい福音をくださり、義人が幸いな生を享受することを喜んでおいでです。

ルカの福音書には、マリヤが「神にとって不可能なことは一つもありません。……ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」(ルカ 1:37-38)と言ったと記されています。マリヤが御使いの告げた神のみことばを信じた瞬間、イエスが孕まれたのです。同様に、信仰によって、義人は心にすばらしい福音を宿します。

「あなたが彼の重荷のくびきと、肩のむち、彼をしいたげる者の杖を、ミデヤンの日になされたように粉々に砕かれたからだ。」(イザヤ 9:4)サタンは人間の生のあらゆる苦しみ・病気・困難を起こさせますが、人間はそれを克服するにはあまりに力弱いのです。しかし、神は人間を愛しておられるのでサタンと戦われ、勝利なさいました。

「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は、『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」(イザヤ 9:6-7)

神は、イエスがもたらされたすばらしい福音によって人間に神の子供としての栄光をお与えくださると約束なさいました。神は約束のとおりにサタンを打ち破られ、人類をサタンの力からお救いになりました。

主はこの世に来られ、その力で罪の闇をすべて取り除こうと約束なさいました。ですから、主を不思議な助言者ともお呼びするのです。主は数々のすばらしいことをしてくださいました。神がこの世に人の子として来られるという決定は、理由あってのことでした。「『さあ、来たれ。論じ合おう。』と主は仰せられる。『たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。』」(イザヤ 1:18)

主は人間を罪からお救いくださり、永遠の赦しをくださると約束なさいました。イエスは不思議な助言者と呼ばれ、そのとおり、人類のためにすばらしいみわざをなさいました。「その名は、『不思議な助言者、力ある神……』と呼ばれる。」 助言者として、神はすばらしい福音による人類救済をご計画になり、人類を永遠に罪から救うためのご計画を実行なさいました。

神の愚は人間の賢にまさります。人類を罪のすべてから救うためにイエスがヨハネからバプテスマを授かって十字架上で死なれることは、神の知恵によることでした。神は人類のために神秘的なみわざをなさいましたが、人間を罪のすべてから救ったのは愛の律法です。愛の律法は、人間が水と血とによって聖霊を受けるよう導く、真理の福音です。

主はイザヤ書第 53 章 10 節で、「しかし、彼を砕いて、痛めることは、主のみこころであった」とおっしゃっています。イエスは、神のみこころを行なわれるためにご自分の魂を罪のためのささげ物となさいました。神は世の罪を御子イエス・キリストの上に移され、人類の罪の罰として磔刑の苦しみをお受けになるようになさいました。これが、ただ一度で人類を罪から救ったすばらしい福音です。キリストは人類のためにいのちをささげられ、罪を贖われ、救済の恵みをくださいました。



神の定めたいけにえの制度


イエスは、ヨハネによる
バプテスマによってどれだけの
罪を負われましたか?

時の始まりから終わりまで
過去・現在・未来の罪を。



聖書は、かつて一日の罪の赦しのためにささげられたささげ物のことを語っています。罪人は傷のない動物を連れて行き、動物の頭に手を置いて罪を移しました。それからいけにえを殺し、その血を祭司に渡しました。祭司は動物の血の一部を全焼のいけにえの祭壇の角につけ、残りを祭壇の下の地面に注ぎました。

このようにして、人は一日の罪を赦されました。手を置くことは、罪人がいけにえの上に罪を移すための方法でした。いけにえの制度に従っていけにえをささげた者は、罪の赦しを受けました。いけにえの制度は、イエスが人類の罪をすべて取り除かれる以前に人間が罪を贖う手段だったのです。

神はまた、贖いの日を定められ、イスラエル人が一年間に犯した罪を贖えるようになさいました。このいけにえは第七の罪の十日にささげられました。神は、大祭司アロンを、イスラエル人の一年の罪をいけにえの山羊の上に移す者と定められました。儀式は神の定められたとおりに行なわれました。罪の赦しは、神の知恵と人類への愛によって与えられました。これが神の力です。

全焼のささげ物の祭壇の角は、人類の罪が記録された「いのちの書」(黙示 20:12)を表わしています。祭司が罪のためのいけにえの血を全焼のささげ物の祭壇の角につけたのは、いのちの書に記された名前と違反とを削除するためでした。血はすべての肉のいのちです。いけにえはイスラエル人の罪を取り除き、いけにえの山羊は罪を贖うために殺されました。神は、身代わりとして裁きを受けるように、いけにえの動物を殺すようになさったのです。これは、神の知恵と人類への愛を示しています。

イエス・キリストは神のご計画を実行なさるために、この世に罪のためのささげ物として来られました。イエスはその犠牲によって世の罪を取り除かれました。この約束のみことばには、「しかし、彼を砕いて、痛めることは、主のみこころであった」、また、「世の罪を取り除かれた」とあります。

「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は、『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」(イザヤ9:6-7)

不思議ですばらしい約束とは、イエスが神のみこころを実行なさり、世の罪を取り除かれ、信じる者すべてに平和をくださるというものです。神の約束は愛の約束であり、神はそれによって、すべての人類に平和を与えようとご計画になったのです。神はこれをお約束なさり、それを実行なさいました。

マタイの福音書第 1 章 18 節には、「イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。」 「イエス」とは、「救い主、民を罪から救うお方」という意味です。「キリスト」とは、「油注がれた王、王」を意味します。イエスには罪がありませんでした。また、イエスはその民を罪からお救いになるために処女からお生まれになった王、救い主であられます。

「『マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。』このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。」(マタイ 1:21-22)



イエスはバプテスマによって世の罪をすべて被られた

マタイの福音書第 3 章 13-16 節には、「さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。しかしヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。『私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。』ところが、イエスは答えて言われた。『今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。』そこで、ヨハネは承知した。こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった」とあります。

ここには、バプテスマのヨハネが登場します。なぜイエスはヨハネからバプテスマをお受けにならなければならなかったのでしょう。イエスは、世の罪をすべて被られるためにバプテスマをお受けにならなければならなかったのです。罪をすべて取り除くことは、神のご計画に従って行なわなければなりませんでした。

「主権はその肩にあり」(イザヤ 9:7)。ここで、「主権」とは、イエスが天の支配者、世の王として、権威と力を備えたお方であることを意味しています。これは、イエス・キリストにだけ与えられた権威です。イエスは人類の罪をすべて取り除くためにすばらしいことをなさいました。このすばらしいこととは、ヨハネからバプテスマをお受けになることでした。イエスが「このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです」とおっしゃったのは、世の罪をすべて取り除くことが正しくふさわしいことだという意味でした。

ローマ人への手紙第 1 章 17 節には、「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです」と記されています。神の義は福音の中に明かされています。水と御霊の真の福音は、ほんとうに神の義を明かしているでしょうか? はい。真の福音とは、イエス・キリストがバプテスマと磔刑によって世の罪をすべて取り除かれたというものです。水と御霊の福音は、神の義が明かされているすばらしい福音です。イエスは、どのようにして世の罪を取り除かれたのでしょう。バプテスマのヨハネがヨルダン川でバプテスマを授けたときに、イエスは世の罪をすべて取り除かれました。

「すべての正しいこと」とは、ギリシャ語で「dikaiosune」です。これは、イエスが最も正しくすばらしい方法で人類の罪をすべて取り除かれたことを意味しています。イエスが世の罪をきよめられたことが絶対的に正しく公正であったことを意味してます。イエスは世の罪を取り除かれるためにヨハネからバプテスマを授けられなければなりませんでした。

神は、人類に平和をもたらすためにはイエスのバプテスマが絶対に必要であることをご存じでした。イエスは、ヨハネからバプテスマをお受けになって十字架上で血を流されなければ、救い主におなりになれなかったでしょう。イエスは世の罪をすべて取り除くための罪のためのいけにえとなられました。

イザヤ書第 53 章 6 節で神は、「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべてのとがを彼に負わせた」とおっしゃっています。神のみこころを実行なさるために、イエスは世の罪を負われなければなりませんでした。イエスが罪のためのいけにえとして人間の肉の形で来られ、ヨハネからバプテスマをお受けになったのは、このためです。

イエスは、神のご計画を成就して神の永遠の愛を示されるために人類の罪をすべて負われ、そうして負われた罪の罰をお受けにならなければなりませんでした。イエスがバプテスマの後で水から出られると、神は、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」(マタイ 3:17)とおっしゃいました。



一人のみどりごが、私たちのために生まれた

「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。一人の男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」(イザヤ 9:6)イエスは神の御子です。イエスは全世界を創られた創造の神です。万能の神の御子であられるばかりではなく、創り主、平和の王でもあられます。イエスは、人類に幸福をくださった神であられます。

イエスは真理の神です。人類の罪をすべて取り除かれ、救われ、安らぎをくださいました。この世に罪はありますか? いいえ。罪はありません。罪がないと自信をもって言えるのは、イエスがバプテスマと十字架上の血によって世の罪をすべて洗い流されたと告げている、すばらしい福音を信じているためです。イエスは嘘をつかれませんでした。イエスはバプテスマと血とによって罪を贖われました。これを信じるすべての人を子供となさり、平安をくださいました。イエスは、聖徒が聖化された子供として信仰をもって永遠に生きるようにしてくださいました。主をたたえ、感謝をささげます。



見よ。世の罪を取り除く神の小羊

ヨハネの福音書第 1 章 29 節には、「その翌日、ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の小羊』」とあります。イエス・キリストは、バプテスマによって世の罪をすべて取り除いた翌日、再びバプテスマのヨハネの前に姿を現わされました。バプテスマのヨハネは、イエスについてあかしして、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言いました。彼はまた、ヨハネの福音書第 1 章 35-36 節でもあかししています。「その翌日、またヨハネは、ふたりの弟子とともに立っていたが、イエスが歩いて行かれるのを見て。『見よ、神の小羊。』と言った。」

イエスは、神が旧約で約束なさったとおりに神の小羊として来られた救世主です。救世主イエス・キリストは、不思議な助言者、力ある神として来られ、人類をすべての罪からお救いくださるためにバプテスマをお受けになりました。一人の赤ん坊が私たちのために生まれました。その赤子はヨハネから授けられたバプテスマによって世の罪をすべて負われ、罪を贖われ、人類に平和とすべての罪の赦しをくださる平和の君となられました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」

かつて人は、罪のために死ぬしかありませんでした。人間はその罪深い本質のために無数の罪を犯し、やがては地獄に行く定めにありました。人々は惨めな人生を送りました。その弱さのため、誰ひとりとして、神の御国に入るどころか、夢に見ることさえできませんでした。神であられるイエス・キリストは、ヨルダン川でヨハネからバプテスマをお受けになったときに人々の罪をすべて被られ、人々の罪の罰として十字架につけられました。死の間際に、キリストは「完了した」(ヨハネ 19:30)とおっしゃいました。これは、イエスが全人類を罪と死とからお救いになり、すばらしい福音を信じる者は誰でも完全に救ったことをあかしする叫びでした。

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」 世の罪がみなどこにあるか、ご存じですか? それは、イエス・キリストの上にあるのではありませんか? この世で人間を卑しめる罪や違反はみな、どこにありますか? それはみなイエス・キリストに移されました。人間の罪はみな、どこにありますか? それは、権威あるお方の肉にあります。それは、全能の神の肉にあります。



誕生から墓までの罪全部

人間は、生涯を通じて罪を犯します。人間は生まれたその日から二十歳になるまで罪を犯します。二十年間に犯された罪はみな、どこに行ったのでしょう。それはイエス・キリストの肉に移されました。二十一歳から四十歳になるまでに犯した罪もまた、イエスの上に移されました。人が何年生きようと、生涯の始めから終わりまでに犯した罪はみな、イエス・キリストの上に移されています。人類が犯した罪はみな、アダムに始まってこの世で最後の人間のものに至るまで、イエスの上に移されました。子供や孫の罪までも、すでにイエスの上に移されています。罪はみな、イエスがバプテスマをお受けになったときにその上に移されました。

この世にまだ罪がありますか? いいえ。一つも残っていません。聖徒はイエス・キリストがくださったすばらしい福音を信じているので、この世には罪が一つも残っていません。みなさんは、心に罪がありますか? いいえ。アーメン。聖徒はイエス・キリストが人類をすべての罪から救ってくださったと告げるすばらしい福音を信じています。このすばらしいみわざを行なってくださった全能のイエスをたたえます。

イエス・キリストは、人間の失われた生を回復してくださいました。今、聖徒は、神とともに生きることができるよう、すばらしい福音を信じています。神の敵であった人々──暗い森に隠れるしかない罪人たち──でさえ、すばらしい福音を信じれば罪から救われることができます。

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すばらしい福音は、主がヨハネからバプテスマを授けられ、十字架につけられ、よみがえられて人類の罪をすべて洗い、きよめてくださったと教えています。聖徒は、イエスの福音を信じて神の聖化された子供になりました。イエスは、人類の罪のためにご自分の体をささげられました。全能の神の御子であられ、この世でただの一つも罪を犯したことのないイエスが世の罪をすべて取り除かれ、信じる者全員をお救いくださったのです。イザヤ書第 53 章 5 節には、「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた」とあります。

イエスは、原罪と行ないによる罪を含め、世の罪をすべて取り除かれ、ただ一つの違反も残されませんでした。イエスは十字架上の死によって罪を贖われ、そうして人類を罪のすべてからお救いくださいました。イエスは、このすばらしい福音によって世の罪をすべて洗い流されました。聖徒はイエスによって新たないのちを得ました。すばらしい福音を信じる者は、もはや霊において死んでいません。イエスが罪をすべて贖ってくださったのですから、聖徒には新たな永遠のいのちがあります。聖徒はイエス・キリストのすばらしい福音を信じて神の子供になりました。

みなさんは、イエス・キリストが神の御子だと信じていますか? イエスが救い主であられるとも信じていますか? 私は信じています。イエス・キリストは私たちのいのちです。聖徒はイエスによって新たないのちを見出しました。人間は、罪と違反のために死に定められていました。しかし、イエスがバプテスマと十字架上の死によって罪を贖ってくださいました。イエスは人類を罪への隷属、死の力、サタンのくびきからお救いくださいました。

主は、人類を罪から救ってくださってイエスを信じる者みなの救い主となられた神であられます。ヘブル人への手紙第 10 章 10-12 節と 18 節を読むと、主が聖化してくださったために、人間はもはや罪の赦しを受ける必要がないことがわかります。聖徒はイエスを信じて神の御国に入ります。私たちは罪と違反のために死ぬべく定められていたのですが、今はイエスのバプテスマと血とを信じたために、天国に入り、永遠のいのちを享受することができるのです。

「よい牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ 10:11)主はバプテスマと十字架上の死、そして復活とによって人類を世の罪からお救いになるためにこの世に来られました。主はまた、これを信じて罪の赦しを受けた者の内に御霊が宿るようにしてくださいます。主よ、ありがとうござます。主の福音は、信者の内に御霊が宿るようにするすばらしい福音です。ハレルヤ。主をたたえます。

 

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