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 重要な主題に関する Paul C. Jong 師による説教

 

御霊によって歩みなさい

 


<ガラテヤ 5:16-26、6:6-18>

私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。しかし、御霊によって導かれるなら、あなた方は律法の下にはいません。肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。

みことばを教えられる人は、教える人とすべての良いものを分け合いなさい。思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族のために善を行ないましょう。ご覧のとおり、私は今こんな大きな字で、自分のこの手であなたがたに書いています。あなたがたに割礼を強制する人たちは、肉において外見を良くしたい人たちです。彼らはただ、キリストの十字架のために迫害を受けたくないだけなのです。なぜなら、割礼を受けた人たちは、自分自身が律法を守っていません。それなのに彼らがあなたがたに割礼を受けさせようとするのは、あなたがたの肉を誇りたいためなのです。しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。どうか、この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。これからは、誰も私を煩わさないようにしてください。私は、この身に、イエスの焼き印を帯びているのですから。どうか、私たちの主イエス・キリストの恵みが、兄弟たちよ、あなたがたの霊とともにありますように。アーメン。

 

御霊とともに歩むには
どうするべきか?
すばらしい福音を説き、
従います。

 

使徒パウロは、ガラテヤ人への手紙の中で御霊について書いています。ガラテヤ人への手紙第 5 章 13-14 節で彼は、「兄弟たち、あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という一語をもって全うされるのです」と述べています。

つまり、聖徒はすばらしい福音を信じて罪から救われ、解放されているのですから、その自由を肉の欲望にふけることに利用しないで、愛によって互いに仕え合い、すばらしい福音に仕えよと言っているのです。神は人間を罪のすべてからお救いくださったのですから、聖徒が福音を宣べ広めるのはふさわしいことです。パウロはまた、「もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい」(ガラテヤ 5:15)と言っています。



御霊とともに歩み、聖霊に満たされよ

ガラテヤ人への手紙第 5 章 16 節でパウロは、「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」と言いました。また第 22-26 節では、「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう」と言っています。ここでパウロは、御霊とともに歩むなら、御霊の実をつけると言っています。御霊は、人間が御霊とともに歩むことを求めておられます。しかし、人間は肉の身をもっています。

人間は、御霊の実を結ぶことのできない肉の体に生まれています。御霊と共に歩もうとしても、人間の本質は変わりません。すばらしい福音を信じて御霊を受けている者だけが御霊と共に歩んで御霊の実を結ぶことができるのは、そのためです。

聖書に御霊と共に歩めとあるのは、他の人々もまた罪を赦されるように、すばらしい福音を宣べ広めよというのです。すばらしい福音のために生きるなら、御霊の実を結ぶでしょう。つまり、これは人間性を変えることではないのです。すばらしい福音と歩むとき、人は愛・喜び・平安・親切・善意・誠実・柔和・自制といった御霊の実を結びます。御霊の実は、聖徒が他の人々を救って永遠のいのちを受けるようにするのを助けます。



肉の欲望と御霊の願い

パウロは、「肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです」(ガラテヤ 5:17)と言いました。贖われた者は肉の欲望と御霊とをあわせもっていますから、この二つの要素が常に争っています。その結果、どちらも完全に心を満たすことができません。

御霊は、人がすばらしい福音を宣べ広めて主に仕えたいと心の底から願うよう、導かれます。御霊は霊的な勤めに熱心に励むようになさいます。神のすばらしい福音を宣べ広めて人々を罪から救うのを助けてくださいます。

しかし、その一方で、人間の欲求が肉の欲望を掻き立て、御霊と共に歩めないようにします。これは、御霊と肉の欲望の永遠の戦いです。人が肉の欲望にのまれると、その人は肉のためによいようにしてしまいます。肉は御霊に対抗して自分の欲求を通そうとします。この二つは、互いに相反しており、そのために人間は、したいと思うことができません。

では、御霊と共に歩むには何が必要なのでしょうか。また、どのようなことを神は喜ばれるのでしょう。神は、すばらしい福音を説き、従うことが御霊と共に歩む生だとおっしゃいます。神は、御霊を内に宿している者が霊的生活を送れるよう、御霊と共に歩む心をお与えになります。人間が御霊と共に歩んで御霊の実を結ぶために神がくださった戒めは、すばらしい福音を説いて他の人々を罪から救うようにとのご指示でした。御霊と共に歩むとは、神の喜ばれる生を生きるということです。

御霊と共に歩むためには、まず内に御霊を宿していなければなりません。内に宿る御霊を受けたいのなら、まず神のくださったすばらしい福音を信じるのです。すばらしい福音を心の底から信じていないのなら、御霊を受けることも、罪からの救済を受けることもありません。それはつまり、御霊と共に歩むことができないということです。

御霊は、主にお仕えし、神に栄光をもたらすためにすばらしい福音を宣べ広めたいという欲求をくださいます。その気持ちは神と、すばらしい福音を全世界に宣べ広めることにささげられた心から生じます。それはまた、すばらしい福音を宣べ広めるためならなんでもしようという心から生じます。罪を赦され、すばらしい福音を信じて御霊を受けた者は、御霊と共に歩み、福音を宣べ広めることに身をささげることができます。これが、天からの霊的相続です。

内に御霊を宿している者は、まだ肉の欲望があっても、御霊が宿っておられるために、御霊に従い、御霊のうちに歩むようになります。パウロは、「御霊によって歩みなさい」と言いました。これは、イエスのくださった水と御霊のすばらしい福音を宣べ広め、他の人々が罪を赦されるようにしろということなのです。

御霊によって歩んでいて、時に、肉によって歩むことがあります。肉の欲望と霊の欲求とが人間の生の中で互いに戦いますが、ここではっきりと認識しておくべきことは、御霊を宿している者は御霊によって歩む生を生きなければならないということです。そうしてはじめて、人は神の恵みに満たされて生きるのです。御霊を宿している者が霊の果実を結ぶことを拒むなら、肉の身を結んで滅びることになります。その実は腐りやすく、惨めです。ここに、御霊によって歩むべき理由があるのです。

「御霊によって歩む」ということを聞いて、「内に御霊を感じられないのに、どうしてそんなことができるだろう」と思う人がいるでしょう。中には、神が顕現なさり、直接話しかけられてはじめて御霊の宿ることがわかると考える者もいます。しかし、これは誤解です。御霊は、水と御霊のすばらしい福音のために生きたいという欲求をくださいます。

御霊が宿っておられることを確信することもあるでしょうが、人間は肉に従って歩んでいるのですから、御霊を感じることはできません。中には、御霊は内で眠っておられると考える人々もいるでしょう。そうした人々は、御霊を受けてもまだ肉とともに歩んでいるのです。

彼らは肉のことだけに気を遣い、その命ずるままに行ないますが、最後にはますますつのる肉の欲求のために苦しむことになります。御霊を内に宿している者であっても、そうすることが自然だと思って、肉の欲望に従って生きがちです。しかし、肉に屈服する者は、やがて肉の奴隷になります。

主は、御霊に従って歩めとおっしゃいます。これは、すばらしい福音に仕えよということです。これはまた、水と御霊のすばらしい福音に身を捧げよということでもあります。福音を喜び、それによって生きることが、御霊に従って生きるということです。御霊によって歩むということがどういうことかを知って、そのように生きるのです。みなさんは、御霊によって歩んでいますか?



御霊を宿していない者は 御霊によって歩むことができるか

新たに生まれていない者は、御霊によって歩むということがどういうことかを知りません。ですから、大勢の人々が御霊を受けようとして、自分なりのやり方で求めているのです。そうした人々は、御霊を求めてすることが御霊に満たされるのと同じことだと考えます。

たとえば、礼拝のためにある礼拝堂に集まったとします。牧師が声高に祈ると、誰もが主の名を叫びだします。中には御霊に満たされたかのように異言を話す者もいますが、当人を含めて誰も何を言っているのか理解できません。その一方、床に倒れ、脱魂して身を震わせる人々もいます。彼らは絶対に悪魔にとりつかれているのですが、当人たちは、御霊を受けているのだと思っています。それから人々は「主よ、主よ」と叫び、興奮します。主の名を呼び、涙を流し、手を叩きます。この現象は通常、「聖霊に満たされている」とされています。

牧師は説教壇をドンドン叩きながら異言で話し、会衆は「主よ、主よ」と叫びます。人々はこうした雰囲気が好きで、中には、いかがわしい脱魂状態の間にエデンの園の善悪の知識の木とイエスの顔の幻を見たとさえ言う人々もいます。その人たちは、そうしたことが御霊を受け、聖霊に満たされ、御霊によって歩く方法だと考えています。そうした誤った振る舞いをするのは、みことばと聖霊について誤解していることに原因があります。

「御霊によって歩め。」 神は、新たに生まれた者にこうおっしゃいます。これは、神の喜ばれることをせよということです。パウロは肉の行ないを御霊の実にたとえて、「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」(ガラテヤ 5:22-23)と言いました。

「御霊によって歩む」とは、すばらしい福音を説き、他の人々を罪から救えということです。そうすれば、御霊の実を結ぶことができます。御霊の実は愛・喜び・平安・寛容・親切・善意・誠実・柔和・自制です。そして、この実は、すばらしい福音にしたがって生きてはじめて結ぶことができるのです。すばらしい福音に仕え、宣べ広め、そのために身を犠牲にするなら、御霊に満たされた霊的生を生きることができます。

御霊の実としての「善意」とは、良い行ないをするということです。これは美徳をも意味します。すばらしい福音のために美徳を保ち、何か他の人々のためになることをすることが善意です。神の目からして最高の善とは、他人のために福音を宣べ広めることです。

そして、「親切」とは、人々に思いやりをもつことです。他の人々に親切で、忍耐と親切さをもって福音に仕える人々は安らかです。御霊によって歩む人は主のみわざが行なわれるのを見て喜び、その働きをすることを好み、他人を愛し、あらゆることについて誠実です。御霊を内に宿している者は、誰もそうしろと言わないのに誠実に主のために働き、成し遂げます。その人は柔和で自制心があります。その人は御霊の実を結んでいます。御霊を宿している者は、御霊によって歩まなければなりません。そうしてはじめて御霊の実を結ぶことができるのです。

みなさんもまた御霊とともに歩むなら、御霊の実を結ぶことができます。しかし、そうしなければ、肉の欲望をもって歩むことになります。聖書のガラテヤ人への手紙第 5 章 19-20 節には、次のようにあります。「肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、穢れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」



肉の行ないは明白

肉の行ないは明白です。肉の行ないの第一は、「不品行」です。これは、異性と不道徳な関係をもつことです。第二は「汚れ」です。第三は「好色」です。第四の「偶像崇拝」とは、神以外の偶像に仕えることをいいます。第五は「魔術」。第六は「敵意」御霊をもたない者が肉に従って生きるなら、罪深い性質から他人に対する敵意を表に出さずにはいられません。第七は、「争い」です。これは、友人や家族とすぐ言い争うことを意味します。その他に、「そねみ、憤り、党派心」があります。これらはみな、肉によって歩む人々の特徴です。

第十一は「分裂」です。人が肉にだけ従って生きるのなら、教会のために働くことはできず、やがては自分で教会から去ることになります。第十二は「分派」です。肉によって歩く者は、自己満足のためにそうします。しかし、そうした生き方はみこころからかけ離れたものですから、やがてはすばらしい福音に背を向けます。分派とは、聖書の真理から離れることを意味します。みことばへの信仰をもって御霊によって歩む者は誰も、みこころに背を向けるようになることはありません。「ねたみ、酩酊、遊興」もまた、肉の働きです。肉にだけ従って生きる者は、結局そうしたことを行ないます。主が「御霊によって歩みなさい」とおっしゃったのは、このためです。新たに生まれた聖徒は、御霊によって歩まなければなりません。

新たに生まれていない者は、心に肉の欲情しかありません。その人たちが不品行・汚れ・好色・偶像礼拝をするようになるのは、そのためです。新たに生まれていない偽聖職者は、たくさんの金を寄付させようとして、会衆に「魔術」を使います。彼らは、最も多額の献金をする人々に重要な役目を与え、教会の高い地位につけます。肉によって生きる人々は他人に敵意を示します。教会を多くの教派に分け、自分の教派を誇り、他人のものを異端だと非難します。「争い・そねみ・憤り・党派心・分裂・分派・ねたみ」はみな、新たに生まれていない者の心にあります。肉にだけ従って歩むなら、聖徒も同じことになるでしょう。



御霊は新たに生まれたキリスト教徒に御霊の実を結ばせる

新たに生まれた者は、すばらしい福音を宣べ広めて生きなければなりません。一人きりで主に従うことは難しすぎるので、教会に加わってすばらしい福音に仕える働きをするのです。共に祈り、御霊のすばらしい福音によって歩む者になることに力を注ぐのです。御霊によって歩む者は、水と御霊の福音を宣べ広めるために生きます。つまり、肉によって歩むということは、自分のためだけに生きるということであり、御霊によって歩むことは、他の人々の魂を救うために働くということなのです。新たに生まれたキリスト教徒が大勢、こうしたすばらしい生を生きています。彼らは他人のためになることをして生きています。

世界中には膨大な数の、まだすばらしい福音を聞いていない人々がいます。私たちは、アフリカやアジアの人々を愛しています。遠い島々に住む人々を愛するのと同じように、ヨーロッパやアメリカの人々をもみな愛しています。その人々に水と御霊の福音のことを知らせて愛を示すのです。

御霊によって歩むのです。これを禁じる法は一つもありません。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」(ガラテヤ 5:22-23)福音を広めることを禁じる法律が、何かありますか? いいえ。聖徒は御霊の律法に従わなければなりません。パウロは、御霊によって歩めと言いました。主が私たち罪人のためにいのちをささげられたように、聖徒は他の人々に福音を宣べ広めるのです。人々を罪から救うことが、御霊によって歩むということです。御霊によって歩みましょう。

パウロはガラテヤ人への手紙第 5 章 24-26 節で、「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう」と言っています。御霊によって生きるのなら、迷える魂を救うために生きるのです。御霊の働きをし、共に歩むのです。神のくださった御霊は、心でイエス・キリストと生きるよう導かれます。御霊こそは愛の王です。神は、愛を伝える者として聖徒を使われます。

パウロは、「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです」(ガラテヤ 5:24)と言いました。彼はまた、新たに生まれた者はイエス・キリストと共に死んだとも言っています。真に新たに生まれた者はすでにイエスと共に死んでいます。自分ではそうとわかりませんが、イエスが人類の罪を贖われるために十字架につけられたとき、私たちはイエス・キリストと一緒に死んだのです。つまり、イエス・キリストが磔刑に処されたということは、みなさんと私が主と一緒に十字架上で死んだということなのです。その死は私たちの死であり、そのよみがえりは私たちの確かな復活を象徴しているのです。みなさんと私は信仰によってイエス・キリストと生き、死にます。信仰をもちましょう。信仰が、御霊によって歩むことへと導くのです。

神は、御霊によって歩む力をくださいました。ですから、罪を赦された私たち聖徒は、御霊によって歩まなければなりません。御霊を受けた者は、罪が赦されたことを感謝し、迷える者の救済のためにすばらしい福音を宣べ広めることに献身するのです。罪を赦されて新たに生まれても、肉の欲望に従って生きるなら、主の教会から離れてしまいます。私たち聖徒は、主イエス・キリスト再臨の日まで水と御霊の福音によって生きましょう。



虚栄心をもたず、御霊に満たされて生きよ

パウロは、「互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう」と言っています。虚栄とは何でしょう。肉の欲望にしたがって生きるということです。この世には、虚栄に走って生きる人々が大勢います。多数の人が金を蓄え、上位に立とうとして争い、世俗的な美を愛し、刹那的な生き方をしています。そうしたものは不確かなものであり、時が過ぎれば衰えて消え去ります。肉によって生きる人々には虚栄心があると言われるのは、そのためです。裕福であったとしても、その人たちの心にほんとうの平和と満足があるでしょうか。肉の果実は、やがて腐ります。この世の物は他の人々の魂には無益で、自分のためにだけあるのです。それらは自分の肉のためにだけ役立つのです。

聖書には、「ばらまいても、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでも、かえって乏しくなる者がある」(箴言 11:24)とあります。新たに生まれていない人々は、ひどく物惜しみをします。その人たちにとっては物質的なものがすべてなのですから、他人のことを思いやるだけの心の余裕がありません。彼らが自分の生活のことだけを気にするのは、そのためです。しかし、聖書では、正当な支払いを惜しむ者はかえって乏しくなるとしています。人々は肉の欲望に従って生きますが、その結果は、盗賊に出遭って死んでしまうのと同じことなのです。こうしたことが虚栄心の結果なのです。



御霊の望みに従おうとする人々

パウロは、御霊の内に生きたいと願いました。そして、実際にそうしました。彼は、みことばによってよく生きよと教えました。ガラテヤ人への手紙第 6 章 6-10 節で、彼は次のように述べています。「みことばを教えられる人は、教える人とすべての良いものを分け合いなさい。思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行ないましょう。」

パウロは、みことばを知る者に、良いものをすべて教師と分かち合うように勧めています。「良いもの」というのは、御霊によって歩む人生を送って迷える魂を救い、福音を宣べ広めて主をお喜ばせするということです。新たに生まれた者は、同じ心と愛、同じ判断をもって教え、御霊によって歩む人々に加わるのです。

「教える人とすべての良いものを分け合いなさい。」「良いもの」とは、教会を通して他の人々を罪から救うという意味です。パウロは、すべてを同じ心で、同じ祈り、同じ熱意をもって行なえと言いました。聖徒は一緒に主の働きをするのです。

パウロは、「思い違いをしてはいけません。神は、侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」と言っています。ここで、「侮る」とは「からかい、嘲笑する」ことを意味します。ですから、「思い違いをしてはいけません。神は、侮られるような方ではありません」とは、神をからかい、嘲笑してはならないということです。例えば、みことばを軽んじ、自分の言葉で解釈し、信じないといったことがあってはなりません。パウロは、「人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」と言いました。これは、肉の種を蒔く者は腐敗を刈り取るが、霊の種を蒔く者は永遠のいのちを刈り取るという意味です。

水と御霊のすばらしい福音によって生きるなら、何を刈り取るでしょう。永遠のいのちと、罪の赦しを受けます。聖徒は他の人々の魂を神の恵みによる罪の贖いと永遠のいのちへと導き、御霊の実を刈り取ります。

では、肉のために生きる人々は、どうでしょう。その人たちは、腐敗を刈り取り、最後には死しかありません。死んだ後は何も残りません。人間は無一物で生まれ、無一物で死んでいきます。

人々を罪から救う働きをするなら、その人たちは御霊の実を刈り取り、永遠のいのちを得ます。しかし、肉の欲望にしたがって生き続けるのなら、腐敗を刈り取ることになります。そうすると、呪いを刈り取り、呪いを他の人々に伝えます。ですから、信仰によって生きることについてすべてを知っていたパウロは、肉によって歩んではならないと注意したのです。

「善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。」パウロは御霊によって歩んだ神のしもべでした。聖書で彼が御霊によって歩んだとあるのを見て、御霊が直接、「パウロ、左へ行って誰それに会いなさい」とか、「その人は避けなさい」とお命じになったのだと考える人がいます。しかし、そうではありません。

パウロは救済の福音を人々に説き、彼らの魂を救う手助けをして、御霊によって歩みました。パウロはまた、御霊によって歩んでいた人々と協力して主に仕えました。キリスト教徒の中には、御霊によって歩まず、肉の欲望によって歩む人々がいます。彼らはパウロを歓迎せず、対立し、中傷しさえしました。パウロは、イエス・キリストの弟子たちに対立して中傷する人々とは関わりをもたないと言いました。

御霊によって歩みたいのなら、福音によって生きなさい。割礼を受けた人々は、パウロを迫害しました。ガラテヤ人への手紙第 5 章 11 節には、「兄弟たち、もし私が今でも割礼を宣べ伝えているなら、どうして今なお迫害を受けることがありましょう。それなら、十字架のつまずきは取り除かれているはずです」とあります。割礼を受けた者とは、「イエスへの信仰によって新たに生まれた者であっても、割礼を受けなければなりません。割礼を受けて包皮を切り取っていないのなら、その人は神の子供ではありません」と言って、割礼の習慣を守ろうとした人々です。なぜその人たちはパウロを迫害したのでしょう。パウロは、贖いと永遠のいのちの恵みとは、イエスのバプテスマと十字架上の血によってのみ得られると信じていました。それを彼は説きました。

人間を義人にする信仰は、真理を学び、それを説くことから来ます。パウロは、水と御霊の真理がとても重要だと考えました。真理を知る者は御霊によって歩むことができるのであり、割礼は全く必要ないと信じていました。彼はそれを説いたのです。しかし、割礼を受けた人々は、割礼が信仰と救済に不可欠の要素なのだと信じていました。しかしながら、神がくださった福音以外には福音はないのですから、それに加えたり、そこから差し引いたりしてはなりません。

パウロが御霊によって歩むと、仲間のユダヤ人から無視されたり、迫害されたりしました。「あなたがたに割礼を強制する人たちは、肉において外見を良くしたい人たちです。彼らはただ、キリストの十字架のために迫害を受けたくないだけなのです。なぜなら、割礼を受けた人たちは、自分自身が律法を守っていません。それなのに彼らがあなたがたに割礼を受けさせようとするのは、あなたがたの肉を誇りたいためなのです。しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。」(ガラテヤ 6:12-15)割礼を受けた人々にパウロは、「あなたがたに割礼を強制する人たちは、肉において外見を良くしたい人たちです。彼らはただ、キリストの十字架のために迫害を受けたくないだけなのです」と言いました。

パウロは、肉の欲望にしたがって生きる人々を非難しました。彼らは行ないにおいて、肉の欲望にしたがって歩んでおり、そうした人々は大勢いたのです。しかし、パウロはそうした人々との関係を断ちました。パウロは言いました。「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。」イエス・キリストは、世の罪を取り除かれるためにヨハネからバプテスマをお受けになり、パウロ、それに主と神が召された者全員をお救いになるために十字架上で死なれました。パウロは、「この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です」と言いました。世に対して死んでいたパウロは、イエス・キリストによって再び生きたのです。

聖徒は、実際、イエス・キリストの内に死んでいます。しかし、時に、このことを忘れます。信じていなければなりません。このことを信じていなければ、肉の欲望や家族に縛られ、それは主と共に歩む妨げとなります。肉はあまりに弱いので、家族でさえ、主に従うのを助けることができません。主だけが助けてくださることができるのです。聖徒は、世に対して十字架につけられました。死んだ者がどうして、この世のことで世俗の人を助けることができるでしょう。世に対して死んだ者は、世の物をもつことができません。

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御霊にっいたすバてのこと.

イエスは復活なさいました。イエスのよみがえりのおかげで、聖徒は新たな霊的いのちへと生まれ変わることができたのです。そこには新たな仕事、新たな家族、新たな希望があります。私たちは新たに生まれた民です。天の兵士として、私たちにはみことばを宣べ広める責任があります。パウロは、物理的な手段によってではなく霊的手段によって、他の人々が救済を得るのを助けて人となったと告白しました。彼は、自分がイエス・キリストによってすでに死に、新たに生まれたと言いました。信仰について同じ告白ができるような者になれるよう、努力しましょう。

ガラテヤ人への手紙第 6 章 17-18 節でパウロは、「これからは、誰も私を煩わさないようにしてください。私は、この身に、イエスの焼き印を帯びているのですから。どうか、私たちの主イエス・キリストの恵みが、兄弟たちよ、あなたがたの霊とともにありますように。アーメン」と言いました。パウロは主イエスの焼き印を帯びていました。御霊によって歩み、主に仕えて生きるために、パウロは自分の健康は二の次にしました。次第に視力が失われたので、書くこともできませんでした。そこで、パウロの手紙の多くは、テルテオのような同行者が、パウロがみことばを語るのを筆記したものなのです。パウロは、肉体的には弱くとも、御霊によって歩むことができるのを喜んで言いました。「たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」(コリントII 4:16)

パウロは、御霊によって歩むような者になれと勧めます。彼はまた、「御霊によって歩むとは、福音のために生きることです」とも言います。みなさんも私も、御霊によって歩むということがどういうことかを心しておきましょう。虚栄の対象を追求することなく、福音に仕え、福音のために生きるのです。残りの生涯を、信仰をもって御霊によって歩みましょう。

水と御霊の福音を信じているために、聖徒の心には本物の御霊が宿っておられます。聖徒が福音にしたがって祈るなら、神は喜んで答えてくださいます。御霊の実を結ぶとは、御霊によって歩み、魂を贖うということです。御霊によって歩み、福音のために生きるなら、御霊の実、すなわち、愛・喜び・平和・寛容・親切・善意・誠実・柔和・自制を結ぶことができます。水と御霊の福音を宣べ広めるには、苦しみが伴います。寛容さを失わず、親切な行ないをし、失われた魂のためになることをしなさい。

失われた魂のためになることをし、人々が御霊を受けることを可能にする福音を宣べ広める者に、御霊の実は結ぶのです。これが、御霊の実を結び、御霊によって歩むために必要なことなのです。

 

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