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 重要な主題に関する Paul C. Jong 師による説教

 

御霊に満ちた生を 生きるには

 


<エペソ 5:6-18>

むなしいことばに、だまされてはいけません。こういう行ないのゆえに、神の怒りは不従順な子らに下るのです。ですから、彼らの仲間になってはいけません。あなた方は、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子供らしく歩みなさい。──光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。──そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。なぜなら、彼らがひそかに行なっていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。けれども、明るみに引き出されるものはみな、光によって明らかにされます。明らかにされたものは、光だからです。それで、こう言われています。「眠っている人よ、目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。また、酒に酔ってはなりません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。

 

御霊に満たされた生を送るためには、
どうすればよいのですか?
自分を捨て、十字架を負い、
よこしまな考えを捨て福音を
説くことに献身するのです。

 

御霊に満たされた生を生きるためには、福音を説くことに献身しなければなりません。御霊に満たされて生きるためには、まず、御霊が心に宿られるようにする恵みを受けなければなりません。御霊を受けるには、そのような信仰をもつ、つまり、神のくださった水と御霊の福音を信じるのです。この信仰をもてば、御霊が心に宿るようにする恵みを受けます。

御霊を内に宿している者は、御霊に満たされた生を求めるでしょうか。もちろんです。では、そのような人生を送ることのできない人がいるのは、なぜでしょう。それは、神のわざよりも自分の問題が先に来ているためです。つまり、神と共に歩むことができないのです。御霊に満たされた生を生きるには、神のみことばを学び、信じなければなりません。まず最初に、どのような生と信仰が必要かを聖書を読んで調べましょう。



御霊に満たされた生を送ることができない人がいるのはなぜか

まず、それは自身を捨てることができないためだと言えます。聖書は、自分を捨てる者だけが主と共に歩むことができるとしています。御霊に満たされた生を生きることは、自分の力によっては不可能なのですから、人はみな自分を捨てるために御霊を受ける信仰をもたなければなりません。御霊を内に宿している者であっても、神の御国への何らかの関心がなければ、自分を捨てることは困難です。ですから、御霊に満たされた生を生きるためには、水と御霊の福音に仕えることが必要です。そうしてはじめて、自分を捨て、義のしもべとして生きることができるのです。

マタイの福音書第 16 章 24-26 節には、次のようにあります。「それから、イエスは弟子たちに言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そうしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。』」

新たに生まれた者の中に御霊に満たされた生を生きることができない人がいるのは、肉の欲望を否定することができなかったためです。御霊を内に宿している者でも、御霊に従うことができるのは肉の欲望を捨てたときなのです。肉の生活の中には、主に従うために捨てなければならない要素が数多くあります。主は、「自分を捨て、自分の十字架を負い、そうしてわたしについて来なさい」とおっしゃいました。

肉を重視することは死ですが、霊的なことを重んじるのはいのちと平安です。御霊によって歩みたい者は、肉の生活を捨てなければなりません。この犠牲を払う者だけが、御霊に満たされた生を生きることができるのです。これが御霊に満たされることの真理です。

どちらに従いたいですか。主ですか、世ですか? 御霊に満たされた生を選ぶのも、欲望の生を選ぶのも、その人次第です。ほんとうに御霊に満たされた生を望むなら、それを選びなさい。神は人間をすべての罪からお救いくださり、御霊を宿すという賜物をくださいました。しかし、御霊に満たされた生を生きるかどうかは、その人次第です。つまり、御霊に満たされた生は、神が事前に定められたことではありません。御霊に満たされた生は、水と御霊のすばらしい福音を信じる人々の心によるのです。



御霊に満たされた生を生きる意思をもつ

御霊に満たされた生を生きる気持ちがあるのなら、神はそれを許されます。それを助け、祝福してくださいます。しかし、望まなければ、御霊に満たされた生を諦めなければなりません。

水と御霊の福音への信仰をもってはじめて、人は御霊を受けることができます。自身の意思によってではないのです。しかし、御霊に満たされた生を送ることは、その人次第です。

ですから、御霊に満たされた生を望むのなら、自分の心を調べ、神の助けを求めるのです。ほんとうに御霊に満たされた生を求めるなら、神は祝福し、望みをかなえてくださいます。しかし、目的を達成するためには肉の欲望を否定しなければなりません。

第二に、御霊に満たされた生を生きるためには自分の十字架を負うことが必要です。困難な状況にあっても神のみこころに従って生き、歩まなければなりません。御霊に満たされた正しい生を生きるというのは、こういう意味なのです。

第三に、主は、「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。人は、たとえ全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう」とおっしゃいました。これは、主に従うことが生に直接関わっているということです。まことに、主に従うなら、霊と肉は栄えるでしょうが、従わずに自分なりの生を生きることを選ぶなら、霊と肉は滅びます。

なぜ人は御霊に満たされた生を得ることができないのでしょう。それは、自分の考え、つまり、肉の欲望を否定できないためです。人がイエスに従うと、御霊が内なる自己を強めてくださるので、主は大きな力を働かせずとも導いてくださることがおできなのです。

エペソ人への手紙第 5 章 11-13 節には、「実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。なぜなら、彼らがひそかに行なっていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。明らかにされたものは、光だからです」とあります。キリスト教徒は、実を結ばない暗闇のわざに仲間入りしてはなりません。実を結ばない暗闇のわざに仲間入りすると、神はそれを明るみに出せとおっしゃいます。暗闇のわざは非難されます。秘密のうちに行なわれていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。けれども、明るみに引き出されるものはみな、光によって明らかにされます。

そのような恥ずべきことを明るみに出して話すことができるのは、誰でしょう。他の人々、兄弟姉妹、神のしもべがそうすることができないのなら、自分でそれを明るみに出さなければなりません。明るみに出されたことは、みな光によって明らかにされるとされています。ですから、自分の悪い行ないが正しくないことであると認め、御霊に導かれ、実を結ばない暗やみの行ないを自分や指導者の手で明るみに出すのです。

この世では、明るみに出されたことは非難されて終わります。しかし、神の世界では、明るみに出されたことはみな光によって明らかにされます。明るみに出すのが光だからです。人間は完全にはほど遠いのですから、この世で無意識のうちに数多くの罪を犯します。しかしながら、神のみことばの光で自身を照らすと、罪のことを自覚し、それを認めることができます。そこで、限りなく神に感謝をささげるようになります。

イエスが罪と不正の罪を全部取り除かれ、ヨルダン川で主がバプテスマをお受けになった時に神の義がすべて満たされたので、人間は神の義によって光に照らされることができます。人類が犯してきた何十億もの罪は、ヨハネがバプテスマを授けたときにイエスの上に移されました。主は、世の罪を取り除かれ、そうして負われた罪の罰として十字架上で死なれてよみがえられた、神の小羊です。イエスが人類の罪をすべて赦され、「完了した」(ヨハネ 19:30)とおっしゃったとき、人類はみな救われました。聖徒は、イエス・キリストのなさったことへの信仰によって聖化されました。罪が赦されているので、再び光の中に出、正しく神に仕えることができます。



神は、機会を生かして生きよおっしゃる

パウロは、御霊に満たされた生を生きたいのなら、機会を十分に生かして生きよと言っています。エペソ人への手紙第 5 章 16-17 節には、「機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい」とあります。御霊に満たされた生を生きたいのなら、機会を十分に生かすのです。愚かになってはなりません。主のみこころが何であるかを知り、それを行なうのです。どちらがより価値あることかを決めるのです。肉に忠実な生か、それとも、神にささげる生なのか。

新たに生まれた後、聖徒の内には御霊が宿っておられます。御霊を受けるのなら、それは、主人が主であられ、主は王であられるということです。主だけが救い主であられます。人は、主が絶対に神であられると認めなければなりません。主は唯一の主人です。主は私をお造りになり、すべての罪を赦して恵んでくださった主人です。また、主は、私の生死・祝福・呪いを支配なさる王です。主は支配者の王であられると認め、生涯を通して主に従うのです。

ピリピ人への手紙第 2 章 5-11 章に記されていることを見ましょう。「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、死にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」

パウロは、「そのような心構えでいなさい」と言いました。彼は、これがイエス・キリストのみこころであると言いました。パウロが言っていることは、「そのような心構え」が、創造主の神であられ、父なる神のみこころに従って民を罪からお救いになるためにこの世に来られたイエスのものであった、ということです。主はこの世に来られ、ヨハネから授けられたバプテスマによって世の罪をすべて取り除かれました。十字架上で死なれたとき、世の罪は主と共に終わりました。それから三日後に主はよみがえられ、救い主となられました。

創り主であられるイエス・キリストがこの世に来られたのは、人類をお救いくださるためです。イエスはバプテスマと十字架上の血とで愛を示されました。被造物はみな主の前にひざまづき、創り主であられながら身を卑しくして被造物になられ、人類に罪の赦しをもたらしてくださった愛に感謝するべきです。被造物がみな、主は真の救い主であられると告白しなければならないのは、このためです。主は、主がすべての被造物の主であられるばかりではなく、至高善の主であられると人間が告白するようになさいます。

神を信じ、内に御霊を宿している者たちは、「神は唯一の真の主人である」と信じ、イエス・キリストの愛を心に抱きます。主人は自分ではなく、人類を創られ、すべての罪から救ってくださったイエス・キリストであるという信仰をもつのです。また、主が、人間が祝福された新たな生を生きるようになさり、すべてを用意して私たちのために働いてくださる支配者であられるという信仰をもつのです。

新たに生まれた後、主人を変えたいとは思わない人が大勢います。御霊を宿していながら、自分が自分の主人であると主張する人が大勢います。御霊に満たされた生とは、神に従う生です。このような生は、一日にして得られるものではなく、イエスが自分の生の主人、人類と宇宙の他の被造物すべてを創られたお方であると信じてはじめて可能なのです。人類を罪から救われ、天の御国で永遠のいのちをくださった主イエス、主人であられる神に仕えるためには、信仰が必要です。

心に真理を抱いていなければなりません。多くの人々が、自分を自身の主人として生きています。彼らは自分の生の支配者であり続けます。しかし、今は主人を換える時です。聖徒は神を知る者となったので、本質的に主人は主です。

人はみな心に罪をもっていて、自身の悪行のために地獄に定められています。しかし、聖徒は水と御霊の福音への信仰によって神を見出しました。神は人類を深く愛されたのでこの世に来られ、ヨハネからバプテスマをお受けになって人類の罪をすべて取り除かれ、十字架上で死なれて真の救い主となられました。神への信仰によって聖徒はすべての罪から救われました。つまり、御霊を心に受けたのです。

聖書には、「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません」(ローマ 8:9)とあります。イエスによる贖い、つまり、御霊を受けたとき、聖徒は神の子供になりました。御霊は神であられます。そして、人は御霊に導かれて神の義の内を歩むのです。そのように生きるためには、自分の主人であることをやめなければなりません。イエスに出会って救われた後は、主を唯一の主人とするのです。



心の王座をイエスにお渡しする

自分が自分の生の主人であると考えていたのでは、主に従うことはできません。神が仕えよとお命じになったとき、自分を自分の主人であると思っていなければ、ただちに「はい」と言うでしょう。そうでなければ、「なぜそんなことをしなければならないのですか」と言うでしょう。自分の主人である人は、「私にさせたいことがおありなら、頼むべきだ」と考えて、神がさせようとなさることをしようとしません。そのような人にとって、神のご指示は退屈で厄介な言葉でしかありません。

しかしながら、御霊に満たされるためには、主のご命令に従わなければならないのです。屠殺場に引かれていく牛であってはなりません。自分の意志によって神に従うのです。正しい道へと導いてくださる神、救い主に従うのです。神は救済の恵みをくださった主であられます。神を主人としてお仕えし、その規則に従うなら、御霊に満たされるのです。みなさんやご家族が支配権をイエスに渡し、主を何よりも高いものとするならば、その生には恵みと祝福があるでしょう。

男が暴風の中を帆走し、イエスがその後ろに立っておられる絵をご覧になったことがあるでしょう。人生における困難を乗り越え、主の働きをしているように見えるとき、それは実際には主イエス・キリストが手を取り、導いていてくださるのです。人間の生を管轄するのは全能の神です。主は私たちを救ってくださいました。神は人間をサタンから守り、導き、その生を支配なさいます。

神は主人となられたのですから、人間を監督し、祝福なさることがおできになります。しかし、神を主人と認めなければ、神はその役割を果たすことがおできになりません。神は人格神であられるのですから、力ずくで人間を従わせようとはなさいません。万能の神であられても、人間が自主的に神を主人としてお仕えし、助けを求めなければ、何もなさいません。



すべてを主の上に

すべてを主に委ね、神が完全な支配権を握られるようにするのです。神に仕え、神が主人であると認めるのです。人間は完全にはほど遠いのですから、すべてを神に委ね、責任をすべてお渡しするのです。自分の家族、日々の生活その他すべてを神に委ねたなら、神から知恵を受け、神の望まれるとおりに、あらゆる問題を神がくださった信仰と知恵によって乗り越えて生きることができるようになるのです。

そうすると、問題は主人の問題となります。これは、全能の神イエスに従いさえすれば、主が責任を負ってくださるということです。御霊に満たされた生を生き、主の内にある平和を享受できるでしょう。誠実なキリスト教徒として神の前にひざまづき、主人と認め、お仕えするのです。

御霊に満たされた生を生きるためにはどのような信仰が必要なのかを、ピリピ人への手紙第 3 章 3 節に見ましょう。「神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。」 ここで「割礼の者」とは、御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない者を意味します。

割礼の者として生きることは、心からすべての罪を切り離し、それをヨハネからバプテスマを授けられたイエス・キリストの上に移すことを意味します。御霊に導かれる者は、御霊のおかげで生きています。彼らは神にお仕えし、イエス・キリストをたたえて言います。「イエスはこの栄光の生に導いてくださいました。主は私を義人とし、祝福してくださいました。お仕えするために必要な恵みのすべてをくださいました。」 このように生きなければなりません。これが御霊に満ちた生です。パウロは、「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい」(コリントI 10:31)と言いました。

ピリピ人への手紙第 3 章 13-14 章には、「兄弟たちよ、私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ずして一心に走っているのです」とあります。神は、過ぎ去った過去のことは忘れ、前にあるものに向かって進めとおっしゃいます。目標に向かって進むのです。正しい行ないであろうと、悪行であろうと、人は後ろにあるものを忘れ、前にあるものを目指して一心に進まなければなりません。この目標とは、イエス・キリストを信じ、おすがりしてみこころに仕えるということです。

人間は完全にはほど遠いので、肉の欲望の誘惑を感じたときには躓きがちです。しかしながら、神を仰ぎ、信仰をもつなら、弱点や不正のすべてを捨てることができます。イエス・キリストがヨハネからバプテスマをお受けになって十字架上で死なれたとき、人間の罪はみなその上に移されました。主がよみがえりによって救い主となられたとき、聖徒は主のおかげで新たないのちを与えられました。ですから、後ろにあるものはすべて忘れ、目標に向かって一心に進むのです。



御霊に満たされた生を生きるには

前にあるより高い目標に向かって進まなければなりません。それが負担になっているのなら、できる限り速やかに過去のことをすべて忘れることです。弱さのためにできないことはたくさんあります。しかし、重要なものは未来にあるのですから、それは問題ではありません。未来の方がより重要なのですから、信仰によって支配権をイエス・キリストに委ね、導いていただくのです。将来どのように生きるかを主に決めていただき、主の喜ばれることを行なうのです。



弟子たちのしたように生きる

罪の赦しへの信仰を深めてはじめて、人は御霊に満たされた生を生きることができます。これは大変重要です。テモテへの手紙第二第 2 章 1-10 節を読みましょう。「そこで、わが子よ。キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください。兵役についていながら、日常生活のことに掛かり合っている者はだれもいません。それは徴募した者を喜ばせるためです。また、競技をするときも、規定に従って競技をしなければ栄冠を得ることはできません。労苦した農夫こそ、まず第一に収穫の分け前にあずかるべきです。私が言っていることをよく考えなさい。主はすべてのことについて、理解する力をあなたに必ず与えてくださいます。私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。私は、福音のために、苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばはつながれてはいません。ですから、私は選ばれた人たちのために、すべてのことを耐え忍びます。それは、彼らもまたキリスト・イエスにある救いと、それとともに、とこしえの栄光を受けるようになるためです。」

パウロがテモテに言ったように、御霊は私たちにも「キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。多くの証人の前で私から聞いたことを、ほかの人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい」とおっしゃいます。

「キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。」 ここで、恵みによって強くなるとは、主を信じ、頼って水と御霊の福音への信仰を深めなければならないということです。イエス・キリストは、バプテスマによって人類の罪をすべて被られるためにこの世に来られ、十字架上で死なれ、復活なさって救い主となられました。これは、神の恵みにあって強くあり、神に感謝しなければならないという意味です。神は人類をお救いくださいました。ですから、人間は信仰によって、神の賜物として救済を受け入れるべきなのです。これが罪の赦しの救済です。これは、日々の早朝の祈りや教会建設のために献金することには何の関わりもありません。それらはみな、救済を受ける助けになるどころか、かえって有害なのです。

罪の赦しによる救済は、人間の行ないとは関わりなく、イエス・キリストが人類の罪をすべて被られるためにバプテスマをお受けになり、それから人類のそむきのすべてを消し去るために死なれたというものです。イエスは人類をすべての罪からお救いくださるために復活なさいました。牧師は、平信者同様、真理の福音を信じて赦されています。このようにイエス・キリストを心から信じる者は、誰でも罪の赦しを受けます。ですから、救済の恵みを信じて信仰を深めることができるのです。

御霊に満たされた生を生きたいのなら、水と御霊の福音への信仰を深めなければなりません。人間が生きていると、力が及ばず、苦手とする分野があります。救済の恵みの内に強くならなければならないのは、このためです。欠点が表に出るたびに、信仰について思いを巡らさなければなりません。「神は水と御霊の福音によってお救いくださった。イエスは、水と御霊によって罪をすべて赦してくださった。」この福音を信じて聖徒は義人となり、御霊を内に宿して自分を強めます。聖徒は、水と御霊の福音を信じてすべての罪から救われ、強くなりました。聖徒は信仰によって祝福された民となりました。

パウロは、「あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい」(コリントI 10:31)と言いました。これは、とても重要です。これは、自分の生を神にささげなければならないということです。「食べるにも、飲むにも。」神のわざをするためには、食べ、飲み、強くあらねばなりません。福音を宣べ広めるためには、良い食物を食べて健康であらねばなりません。

「兵役についていながら、日常生活のことに掛かり合っている者はだれもありません。それは徴募した者を喜ばせるためです。」(テモテII 2:4)福音を宣べ広めるためには、御霊に満たされた生を生きなければなりません。福音を宣べ広めるために生きるならば、誠実に生きることができます。このような誠実な生を生きる者はみな、御霊に満たされています。人はみな、御霊に満たされた生のために努力しなければなりません。懸命に働いて得た献金でさえ、福音のために使うのです。

御霊に満たされた生を生きたいのなら、自らを主にささげ、主に仕え、福音のために自分の金を遣い、喜びも悲しみもすべて神と分かち合うのです。このような生を生きたいのなら、福音に仕えようという強い意志をもって信仰に生きなければなりません。

多くの人々は、これまで自分のために生きてきました。壁を立て、自分の主人として、自分のために富を蓄えました。しかしながら、今は神のために生きるのです。神を唯一の主人とするのです。主は、「兵役についていながら、日常生活のことに掛かり合っている者はだれもいません。それは徴募した者を喜ばせるためです」とおっしゃいます。良き兵士として生きるとは、規則に従うということです。主のために忠実な兵士として生きるなら、主は問題を解決してくださり、導いてくださいます。主は、まず神の御国と義とを求めよとおっしゃいます(マタイ 6:33)。

神のみことばに嘘は一つもありません。神に従うなら、みことばの真実であることを体験するでしょう。しかし、よろしいですか、まず心に御霊を宿していなければならないのです。御霊を内に宿していない者は、自分の王座を神に明け渡すことができません。しかしながら、御霊を内に宿している者は、心の王座を神にお渡しし、そうして聖霊に満たされ、心に幸福と平和を得るのです。

水と御霊のすばらしい福音を理解し、信じさえすれば、御霊がほんとうに内に宿るようになります。御霊を受け、祝福された生を生きたいのなら、神を王として仕え、御国のために生きるのです。そうすれば御霊に満たされ、心は豊かになります。神の御国の子供としての恵みを得ると、幸いな生を生きることができます。

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御霊にっいたすバてのこと.

ここまで、主を信じて罪からの救済と御霊とを受けた者は、御霊に満たされた生を生きなければならないことをお伝えしてきました。御霊に満たされた生を定義し、どうしたらそうした生き方ができるかを説明してきました。また、信仰によって自身の王座を主にお渡しし、信仰をもって主にお仕えし、御霊に満たされた生を生きなければならないことを説明しました。

繰り返しますと、御霊を内に宿す者にとっては、新たに生まれることが終わりではないのです。その人は、御霊に満たされた生を生き続けなければなりません。よろしいですか、そのような生を生きてはじめて、霊と肉とは恵まれるのです。

こうした生は、自然に起こるものではありません。主を主人と信じ、心の最高の位置に置いてはじめて生じるのです。神は聖徒を救われ、御霊に満たされた生、福音に仕える生をすでにくださっています。神はまた、御霊に満たされた生を生きることができるよう、するべきことと、そのための役目とをくださいました。

神に身をささげ、神のために生きるのです。このすばらしい福音を宣べ広めて主に仕えなさい。そうすれば、心は御霊に満たされ、幸福と恵みとが内から流れ出ます。主が再臨される日には恵まれ、誇らかに神の前に立って報酬をいただくのです。みなさんと私は、御霊に満たされた生を尊重しましょう。信仰によってこのような生を生きるよう努力しましょう。そうすれば、御霊に満たされた正しい生を生きることができるのです。

御霊に満たされた生を生きるために、心の王座を譲りましたか? 主に心の最高の位置を差し上げなさい。御霊に満たされた生を生きる気持ちをもちなさい。そうすれば、御霊に満たされた生を生きることができるよう、主が祝福してくださいます。

 

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