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 重要な主題に関する Paul C. Jong 師による説教

 

誤った教理


<ローマ人への手紙 第 8 章 29-30 節>

「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。」



上の部分では、イエス・キリストにある人々を救うことを神があらかじめお決めになったとしています。そうするために、神は人々をイエス・キリストにお召しになり、お召しになった人々を義とされ、義とした人々に栄光をお与えになったのです。聖書の基本はすべて、イエス・キリストの中に計画され、実行されました。ローマ人への手紙はこのことを語っているのですが、多くの神学者や偽りの聖職者は、この明白で単純な真理を自分自身の考えと独善とからなる単なる教理に変えて、熱心に広めています。ここでは、どれほど多くの人がこの真理を誤解しているかに注意を向けましょう。

神学者の中には、この節から五つの主要な教理 ── 1) 予知、2) 予定、3) 実際のお召し、4) 義認、5) 栄化 ── を導き出した人々がいます。この五つの教理は、「Golden Chain of Salvation (救済の金鎖)」として知られており、信者と不信者の間に等しく真実として広まっています。しかし、この人たちの主張は欠陥だらけなのです。

五つの教理はどれも神のなさったこと、すなわち、「神は予めご存知で、予め誰かをお選びになり、予め召され、義とされ、栄光をお与えになっているのだ」だけを述べているです。予定説は、神が救う人々を生まれる前から無条件にお選びになっていたと主張する教理です。しかし、聖書における予定では、神は罪人の上に愛を注いでご自分の子どもになさったと教えています。このようにお選びになって、神はその人々を召され、義とされ、栄光をお与えになったのです。



予定と選びについての神学的教理の誤り

キリスト教神学には、ジョン・カルビンの宣言した「五大教理」というものがあります。その中に予定説と選びの説があります。以下で私はこれらの教理の誤りを聖書に基づいて指摘し、水と聖霊の福音を証します。

選びの説はジョン・カルビンという神学者に発します。もちろん、神はカルビンの時代のずっと前にイエス・キリストにおける選びについてお話しになったのですが、カルビンの選びの教理は多くの人を惑わせました。この誤った教理は神の愛を制限し、差別的で不公平なものと規定しました。基本的に、神の愛には果ても限界もないのです。ですから、そのような限界を神の愛に設ける予定説は、どうしても誤っているのです。それでも、現実には、現在イエスを信じる人の多くがこの教理を自然で運命的なものとして信じているのです。

予定説は大勢の間で支配的な考えになっています。この教理は哲学的思索を好む人たちの嗜好に合うので、その心を占め、信じられるようにしているのです。この説では、既に創造の前に神は無条件にある者たちをお選びになり、それ以外の者は選びからとり残されるよう予めお定めになったとしています。これが本当なら、選ばれなかった魂は、神に抗議する根拠があり、神は不公平で偏見をもった存在だということになります。

このために、今日のキリスト教はたいへんな混乱に陥っています。多くのキリスト教徒が「私は選ばれているのだろうか? 神が創造の以前に私を拒んでいらっしゃるなら、イエスを信じることが何の役に立つのだろう?」と疑問に思い、苦しんでいるのです。その人たちは、自分が神の選びに含まれているのか除外されているのかということの方に関心をもつようになります。予定説がイエスの信者の中に大きな混乱を引き起こしたのはこのためです。人々は、本当に神のお与えになった水と聖霊の福音よりも、自分の選びについての疑問の方を重視したのです。

この教理はキリスト教の真理をただの世界宗教の一つにしました。しかし、今は、神の義を証した福音によってこれらの誤った教理をキリスト教社会から捨て去るべき時です。ですから、まず自分で予定説が正しいかどうかを確かめ、水と聖霊の福音を知り信じることですべての罪から救われましょう。神の義を知り信じる人々が、真に神に選ばれた人々なのです。



真実によって語られた予定と選び

エペソ人への手紙第 1 章 3-5 節には、「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にされようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです」とあります。エペソ人への手紙のこの部分で語られている選びは、「世界の基の置かれる前からキリストのうちに」(エペソ 1:4) 行なわれた選択です。これはまた、イエス・キリストはひとりたりとも罪からの救済の恵みから除外してはいないと告げています。

ここから、予定説の誤りがわかります。この教理の基本的な誤りは、神の選びの基準に対する先入観です。つまり、誰が救われ、誰が救われないかの基準が、みことばによるのではなく、神の恣意的な無条件の決定に基づくのだとしている点にあるのです。

イエスに対する信仰をこのような無条件の予定と選びの論理の上に置くのなら、不安と心配の中でどうしてイエスを信じることができるでしょう? カルビン主義者は、神を不公平で不正な神とする誤った教理を説いています。カルビンがこのような誤りを犯したのは、神の予定から「キリストのうちに」という条件を除いたことにあります。その重大な誤りが多くの人々を混乱させ誤り導いたのです。しかし聖書は、はっきり「神は私たち  を……キリストのうちに選び」(エペソ 1:4) と述べています。

 

カルビン主義者が主張するように、神が無条件にある人々をお選びになり、他の人々を理由もなく除外したというのなら、これ以上奇妙なことがあるでしょうか? カルビンは多くの人々の心の中の神を不公平な神にしたのです。しかし聖書のローマ人への手紙第 3 章 29 節には、「それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です」とあります。神はすべての人の神であり、救い主なのです。

イエスはすべての人の救い主です。イエスはヨハネによるバプテスマで人類の罪をすべてご自分で被られ、十字架上で血を流してすべての人に贖罪を与えられたのです (マタイ 3:15)。聖書には、キリストが世の罪をすべてバプテスマによってその身に被り、その罪を十字架に運び (ヨハネ 1:29)、人類に代わって裁かれる (ヨハネ 19) ことですべての罪人を救ったと記されています。また、ヨハネの福音書第 3 章 16 節には、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」とあります。イエス・キリストは神の義において、すべての人類のために、バプテスマによってすべての人の罪をその身に被られ、十字架上で死に、死からよみがえられたのです。

 

神が誰をお召しになったのかは、みことばに基づいて考えなければなりません。そのために、ローマ人への手紙第 9 章 10-11 節を見てみましょう。「このことだけでなく、私たちの先祖イサクひとりによってみごもったリベカのこともあります。その子供たちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと。」

ここでは、神の計画は「召してくださる方」によると言っています。では、神は誰をイエス・キリストの中にお召しになったのでしょう? それは、神がお召しになった罪人たちなのです。エサウとヤコブのどちらを神は愛されましたか? 神はヤコブを愛されました。神は、エサウのような自分自身の義に満ちた人を愛されませんでした。しかし、ヤコブのような罪人をお召しになり、水と聖霊の福音によって新たに生まれることを許されたのです。ヤコブのような罪人を選び、イエス・キリストによって愛されたのは、神の義の意向であったのです。

アダムがすべての人の先祖でしたから、人間は罪人の子孫として生まれました。詩篇 51 章でダビデは、母は罪ある者として自分を身ごもったと言っています。人間は罪人として生まれるので、どんなに決意しても、罪を犯します。人間は生涯を通して死ぬまで罪の実を結び続けるのです。マルコの福音書第 7 章 21-27 節では、りんごの木がりんごの実を結び、桃の木が桃の実を結ぶように、人間は罪をもって生まれたために、生涯罪の中に生きる定めなのだと言っています。

みなさんは、そうしたくないのに罪を犯した経験があるでしょう。これは、人が最初から、罪人として生まれたためなのです。人間は、心に姦淫、不品行、殺人、盗み、貪り、よこしま、欺き、好色その他の邪悪な考えをもって生まれてきました。誰もが罪の中に生きるのは、そのためなのです。罪は親から子に受け継がれるのです。人は祖先から受け継いだ罪をもって生まれてくるのですから、もともと罪の中に生きるよう定められているのです。イエスが救い主であることと神の義とを信じなければいけないのは、このためです。

では、これは神の最初の作品、アダムが失敗作だったということでしょうか? いいえ、そうではありません。神は人類を子どもとすることにお決めになり、そこで最初の人間が罪に堕ちるようになさったのです。神はもともと、イエス・キリストのバプテスマと血とによって人類を救って神の子どもとするために、罪人となるようになさったのです。ですから、人は例外なく罪人として生まれたのだという認識が必要です。

 

しかしながら、神は創造の前に、人類が罪人となることをご存知でしたので、イエス・キリストを地上にお遣わしになろうとお決めになりました。それからヨハネによるバプテスマで世界の罪をすべてイエスの上にお置きになり、十字架上で死なせられたのです。つまり、神は、信じた者すべてに罪の赦しの恵みをお与えになり、神の子どもとなさることに決められたのです。これが神のご計画であり、人類を創られた目的なのです。

誤解して「ヤコブとエサウをごらんなさい。ひとりは神に選ばれ、もうひとりは見放されたのではありませんか?」と尋ねる人がいるでしょう。しかし、神は、イエス・キリストによらずに救われようとする人々を無条件にお救いにはなりませんでした。神は明らかに、イエス・キリストによってすべての人を子どもとなさることをお選びになったのです。旧約聖書だけを見れば、神は一方だけを選んだような印象がありますが、新約聖書では、神がヤコブのような人々を選んだのは、イエス・キリストを通してすべての罪人を救うためだったのだということがわかります。神が誰をお召しになったのかをみことばによってはっきりと知っておきましょう。

エサウとヤコブのどちらを神は愛されましたか? 神はヤコブ、欠点だらけで欺きや不正に満ちた男の方を愛し、神の義によって救うためにお召しになりました。父なる神がイエス・キリストによって神の義に召されたのだという真理を信じることです。また、イエス・キリストの中の水と聖霊の福音が神の義そのものであることを信じましょう。

 

では、なぜ神はヤコブのような人々をお選びになったのでしょう? 神がヤコブをお選びになったのは、彼が不正な人間すべての代表であったからです。ヤコブが神に召されたのは、神のみこころにかなうものであり、「私たちはイエス・キリストにおいて選ばれた」というみことばに従ったお召しだったのです。このお召しはまた、「神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方による」というみことばにもかなっています。

イエス・キリストによって罪人を救うのは、神の愛によって神の義を完全に満たすという方法でした。これが神の義により罪人のために定められた救済の律法だったのです。神の義をまとわせるために、神はヤコブのような少しも独善的でない人々や、イエス・キリストによるお召しに答えた人々を召されました。

神は独善的で行ないの正しい人々をお召しになりましたか? それとも、全く独善的ではない、欠点だらけの人々をお召しになりましたか? 神がお召しになったのは、ヤコブのような人々でした。神は、罪のために地獄に行く定めにあった罪人たちをお召しになりました。自分が誕生の瞬間から罪人であり、神の栄光には届き得ず、そのために地獄に行く定めであることを認識しましょう。つまり、本来の自分を知ることが必要なのです。神はすべての罪人をイエス・キリストによってお召しになり、神の義によりお救いになりました。

神の民とは、神の義を信じることで義とされた人々です。神はすべての罪人をお召しになり、イエスによって贖われることを前もってお定めになり、その予定通りに実行なさったのです。これが神のおっしゃる予定とイエス・キリストによる真の選びなのです。神の真の選びを理解するには、まず旧約聖書に述べられている真の選びの背景を知る必要があります。



旧約聖書に記された神の選びの背景

創世記第 25 章 21-26 節は、まだ母レベカの胎内にいたときのヤコブとエサウのことを語っています。二人のうちから神はヤコブをお選びになりました。カルビンは選びの説をこの節に基づいて説きましたが、彼の解釈は神のみこころから隔たったものであることがすぐにわかります。神がヤコブをエサウより愛されたのには、理由があります。これは、エサウのような人々は、神に頼り信じるよりは自分の力を信じて生きるのに対し、ヤコブのような人は神の義を頼り信じて生きるからです。神がヤコブをエサウより愛されたというのは、神はヤコブのような人々を愛されるという意味なのです。私たちが「キリストのうちに」(エペソ 1:4) ばれたというのは、このためです。

イエス抜きの、神の義とは無関係の「無条件の選び」は、誤ったキリスト教教理でしかありません。この考えは、キリスト教に運命の神を導入して信仰するようなものです。しかし、真実は、神はすべての罪人をイエスの内に選ばれたと告げています。神はすべての罪人を「イエス・キリストのうちに」救うことをお選びになったのですから、神の選びは公正な選びです。神が無条件にヤコブを選び、エサウを理由なしに見放されたのなら、神は不公平な神であったでしょうが、神は人々をイエス・キリストのうちにお召しになったのです。そしてお召しになった人々を救うためにイエスを地上に遣わされ、ヨハネによるバプテスマによって世界の罪をその身に被らせ、それが神の義を全うして、十字架上で尊い血を流されるようになさったのです。神はこのようにしてイエス・キリストによって選び、愛されたのです。

人間の考えを捨て、聖書のみことばを文字通りの解釈によってではなく、霊的信仰によって信じましょう。つまり、父なる神は、みなをイエス・キリストによってお選びになったのです。しかし、カルビンは、神の選びをどのように扱っているのでしょう? 真の信仰は、神の義を知り信じるところにあります。人間の考えたことを真理として信じるのは、神ではなく偶像を拝むのと同じことです。

イエス・キリストによって神の義を信じるとは、誤った予定説を信じるのとは明らかに別物です。書かれた神のみことばによってイエスを知り信じるのでなければ、論理的思考のできない獣と変るところがないでしょう。私たちは「イエス・キリストのうち」の神の義の約束によって神の子どもに選ばれたのです。聖書のみことばに照らして自分の信仰を確認しましょう。

 

カルビン主義の五大教理は、「限定的贖罪」ということを説きます。これは、世界の多くの人々の中で、ある人々は神の救済から除外されていると主張します。しかし、神の愛と義とはそんな不公平なものではあり得ません。聖書には、「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます」(テモテI 2:4) と記されています。救済の恵みが限られたものであって、ある人々には与えられ、別の人々には許されないものなら、多くの人々がイエスへの信仰を諦めるでしょう。このような誤った教理を信じる人々は、水と聖霊の福音に戻り、イエス・キリストを救い主と知り信じることによって罪から救われて永遠のいのちを受けなければなりません。神はその義でイエス・キリストによってすべての人をお救いになったのです。

神が本当にある人々を愛し、別の人々を憎むのなら、人々は神に背をを向けるでしょう。今、神がこの場所にお立ちになっているとしましょう。神がご自分の右側に立っている人々を救済に、左側に立っている人々を地獄へ行くものと理由もなくお決めになったとしたら、それは正しいことでしょうか? 神の左側にいる人たちは、神に背くしかないでしょう。神がそのようであったなら、この世界の誰が真の神として仕え拝むでしょう? 神に無条件に憎まれた人々はみな抗議し、お返しに神を憎むでしょう。この世界の犯罪者の間でさえもそれなりの道徳律や公正さがあるといいます。では、創造者がそんなにも不公平であり得るでしょうか、それに、誰がそんな不公平な神を信じるのでしょう?

 

父なる神はすべての罪人を御子イエス・キリストの内にある神の義によって救うことをお決めになりました。カルビン主義の限定的救済の教理が神の義とは全く関わりがないというのは、このためです。しかしながら、このような誤った教理のために、不幸にも多くの人々がいまだに道を失い、神を誤って信じたり、神から離れていったりするのです。すべては自分たちの誤解のために。



真実を伝えない映画

数年前、ステファン・キングの「ザ・スタンド」という小説がテレビのミニ・シリーズになって世界中で高い評価を得ました。小説の筋は、こんなふうでした。1991 年、アメリカをある疫病が襲い、疫病に「免疫のある」数千人だけが生き残りました。生き残った人々のうち、本能的に神に仕える人々はコロラド州ボールダーに集まり、「ダーク・マン」を崇拝する人々はネバダ州ラスベガスに引き寄せられました。二つのグループは別々に社会を再建し、一方が他方を破壊しなければならなくなりました。

生き残った人々の中のスチュワートという青年は、世界の終わりがやってきたことを何度も夢に見、アビゲイルという老女が彼の夢の中で、ある場所に行くように、神は既に彼を選んだのだと告げます。映画では、神もイエスも信じてはいないのに神がこの青年を救ったのは、創造以前にそのように定められたからだとしています。

では、神は、イエスを信じない人々を無条件に救うのでしょうか? もちろん、違います。神は、イエス・キリストのうちにあって神の義を信じる人々をすべて罪から救うよう、予め定められたのです。

この映画の筋書きは、カルビン主義の予定説に基づいています。この映画はひとりの神学者の教理の一部を語る物語に過ぎません。なぜ神は恣意的にある人々を地獄に送ることをお決めになり、別の人をお救いになるのでしょう? 神は公正なので、すべての人をイエス・キリストによって選び、予め定められたのであり、神の義の救済から除かれた人はひとりもいません。イエス・キリストなしの神の予定と選びは無意味で、聖書の内容に沿いません。あまりにも多くの神学者が、神はある人々をお選びになり、残りの人々は見捨てられたたのだと主張し続けているのは、残念なことです。

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すでに宇宙を創造する前、神は、イエス・キリストによってご自分の義ですべての罪人を救ってご自分の子どもとなさることをご計画だったのです。つまり神は、すべての罪人をイエスの福音によってお選びになったのです。では、みなさんはどう信じますか?

深い山中で瞑想している仏教の僧侶は神の選びから除外されていると思いますか? 神の予定と選びとがイエス・キリスト抜きの無条件のものであるのなら、みことばを説いたり信じたりする必要はないでしょう。救い主イエス・キリスト抜きで、ある人々が救われ他の人々が救われないと定められているのなら、罪人がイエスを信じる必要は全くありません。イエスがバプテスマと十字架上の血とによって人類を罪からお救いになったことも、結局は無意味です。しかし、イエス・キリストのうちの神の義にあって、神はイエスを信じない仏教の僧侶をも、その人たちが悔い改めて心を神に向けたなら救われることをお許しになりました。

 

この世界には、イエスを信じて生きている人が大勢います。その人々を、一つのグループはエサウのような人々、もう一方はヤコブのような人々の二つのグループに分けるべきなのでしょうか? ヤコブのような人々は、自らを地獄に行くことを定められた罪人であると考え、そのためにイエスによって与えられた水と聖霊の福音を信じて罪から救われます。もう一方のグループはエサウのような人々からなり、その人たちは、自分自身の努力をイエスへの信仰に加えて天国の門を通ろうとします。

みなさんはどちらでしょう? ヤコブですか、エサウですか? みなさんは、神の義を信じていますか? それとも、誤った予定説を信じていますか? これら二つの信仰の間の選択が天国と地獄のどちらに行くことになるかを決めるのです。誤った教理を捨て、神の義によって語られた水と聖霊の福音を信じることで神の義を受け、神と和解してください。この信仰のみが、完全な救済と永遠のいのちとをもたらすのです。

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