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 重要な主題に関する Paul C. Jong 師による説教

 

福音に示された神の義

 

<ローマ 1:16-17>

「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。」



神の義を受けよ

使徒パウロはキリストの福音を恥じませんでした。彼は堂々と福音をあかししました。しかしながら、多くの人がイエスを信じていても泣いている理由の一つは、罪があるためです。これはまた、神の義を認めることができずにいるためでもあります。人は神の義を信じ、自分なりの義を捨てて救われることができるのです。

使徒パウロは、なぜ福音を恥じなかったのでしょう。まず第一に、福音には神の義が示されていたためです。

福音、ギリシャ語の「euaggelion」は、「良い知らせ」という意味です。イエス・キリストがベツレヘムに誕生なさったとき、夜に羊の群れを守っていた羊飼いの前に御使いが現われて、「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」(ルカ 2:14) と言いました。「平和が、御心にかなう人々にあるように。」これが、良い知らせでした。主の福音は人類をあらゆる罪から救い、世の罪を洗い流しました。イエスは人類の罪を全部洗い流されました。肥やしの山の蛆のようにうごめく者や泥の中で罪を犯した者の罪を主ご自身が、みな洗い流されたのです。

使徒パウロはまず、福音には神の義が示されていると述べています。人類の罪をすべて消し去った福音には、神の義が明かされています。神の義によって人は聖徒、義人になることができます。これはまた、永遠のいのちを受けて罪のない者になるようにします。

人間の義とは何でしょう。人間というものは、何かしら自慢できることがあると、それを神の前で誇示したいと思います。良い行ないをして自尊心を高めるのが人間の義というものです。しかしながら、人間を罪のすべてから救ったイエスの義のみわざは、神の義が福音に明かされるようにしたのです。これが神の義です。

今日、大方のキリスト教徒は、神の義の福音を知らないで福音を説いています。彼らは、「イエスを信じなさい、そうすれば救われてお金持ちになります」と言います。しかしながら、それは神の義の福音の教えではありません。そうした福音はとても広く普及しているようですが、たいていの人は何も知らず、福音を理解していません。これは、聖書がベストセラーでありながら、人々が実際にはその内容を知らずにいるのと似ています。この世で最も尊く有益なものは、神がくださった福音です。

「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。」神の福音は砂漠のオアシスのようなものです。イエスは、数多くの罪を犯した罪人たちのところに来られ、彼らの罪をみな洗い流されました。しかしながら、人々は神からの世の罪を洗い流した贈り物を拒み、自分の義を打ち立ちようとしているのです。礼拝・献身・熱意・奉げ物・悔い改めの祈り・断食祈祷・主の日を守ること・神のみことばを実行することといった自分の努力を立てて神からの贈り物を拒む人々は、神の義を拒んでいるのです。自分の義を放棄してはじめて神の義を受けることができるのです。



彼らは無花果の葉を縫い合わせて 衣を作った

創世記 3:21 には、「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった」と記されています。

最初の人間アダムはサタンの計略にはまり、神に対して罪を犯しました。罪を犯した直後にアダムとイブがしたことは、無花果の葉を縫い合わせて衣を作ることでした。無花果の葉を縫い合わせて作った衣は、皮の衣とは対照的です。これは、「人間の義」と「神の義」との違いです。みなさんは、大根の葉を編んだことがありますか?韓国では、大根の葉を切り取り、藁と一緒に編んで乾かします。冬には、そうした乾かした葉を入れて味噌味のスープを作ります。とてもおいしいのですよ。

アダムとイブは罪を犯した後で無花果の葉を綴じ合わせて衣を作りました。こうした行ない──善行・自らに課した試練・自己犠牲──が人間の義と呼ばれるものです。これは神の義ではなく、独善です。二人が無花果の葉で衣を作ったことは、神の前で自分たちの罪を隠そうとする高慢の罪を示しています。自分の義、自分の献身・奉げ物・試練・礼拝・悔い改めの祈りを綴じ合わせて衣にし、心にある罪を覆い隠そうとすることは、神の前で高慢を積む「偶像崇拝」です。

無花果の葉を縫い合わせて衣を作ったなら、神の前で罪を隠せるでしょうか。善行によって罪を隠せますか? けっしてできません。葉はその日のうちに落ち始め、三日もすればすっかり落ちてしまいます。植物製の衣類は長持ちしません。無花果の葉を縫い合わせて衣を作る人々、つまり、自分の行ないで神によく仕えて義人になろうとする人々は、天の御国に入ることができません。人は、自分の行ないの義によっては罪の赦しを受けることができません。

アダムとイブが無花果の葉で衣を作って恥を隠そうとしたとき、神は「あなたは、どこにいるのか」とアダムに呼びかけられました。アダムは園の木の間に身を隠したまま答えます。「私は裸なので、恐れて隠れました。」罪のある人は、木の間に隠れようとします。聖書では、木はしばしば人間を意味しています。心に罪のある者は、人々の間に身を隠そうとします。そうした人は、教会で最後列や前ではなく、人々が集まる中間に座ろうとします。なぜでしょうか。人々の間に隠れようとするのです。

しかしながら、神の目から罪を隠すことはできません。そうした人は、自分の義を捨て、主の義を信じて罪を赦されなければなりません。ぼんやりとした信仰をもっている人、真理を信じていない人はまた、同じような人々の間に身を隠して天の御国に入ろうとします。しかし、善行によって罪を隠そうとする人々とともに地獄に行くことになるのです。罪人は神の前で罪人として明かされ、神に身をささげなければなりません。

無花果の葉で衣を作ったアダムに、神は「なぜ実を食べたのですか。誰が食べさせたのですか」とお尋ねになりました。「あなたがくださった女が、木の実をくれたので食べたのです。」「イブ、なぜあなたはそういうことをしたのですか。」「蛇が私をだましたので、食べたのです。」そこで神であられる主は、蛇におっしゃいました。「おまえがこんなことをしたので、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりも呪われる。おまえは一生、腹ばいで歩き、塵を食べなければならない。」蛇がずるずる這うのは、このためです。神はまたアダムとイブに、「あなたたちもまた罪を犯した。だまされて罪を犯した者と罪を犯させた者は、どちらも罪人です」とおっしゃいました。今日、偽預言者もまた、まがい物の福音を説いて、「火を受けなさい」と言います。彼らにだまされた人々は、偽預言者と同じように扱われ、地獄に行きます。



主はアダムとその妻に皮の衣をお作りになった

主は、「サタンにだまされて罪を犯したアダムとイブを、そのままにはしておけない。そもそもは、人間を私と同じ姿に創って子供にしようと思っていた。だから、計画を成就するために彼らを救うことにしよう」とお考えになりました。神は、このご計画をおもちだったのです。そこで、神は罪を動物に移し、その動物を殺し、皮を剥ぎ、皮で衣を作ってアダムとイブにお着せになりました。これは人類救済の象徴として行なわれました。実際、無花果の葉で作った植物性の衣は一日ももたず、何度も何度も修復しなければなりません。神は、アダムとイブに永遠のいのちの衣をお着せになっておっしゃいました。アダムとイブ、来なさい。動物から皮の衣を作ったから、これを着なさい。これは、あなたたちのために死んだ動物の皮です。」主は、アダムとイブに新たないのちをお与えになるために、神の義に基づいてアダムとイブに皮の衣をお着せになったのです。神であられる主は、信者に神の義による救済をまとわせられるのと同様に、アダムとその妻のために皮の衣を作られ、それをお着せになりました。

しかしながら、神による救済とは別の、人類による救済は、無花果の葉で作った植物の衣です。神は、ご自分の義である皮の衣を着せてくださいました。主は、ご自分の肉と血をくださって、義によって罪の赦しをまとわせてくださいました。主はバプテスマと磔刑を受けて人類の罪の罰全部を身代わりとしてお受けになり、罪をすべて取り除いてくださいました。神は、イエスのバプテスマと血の福音によって神の義を信じる者に罪の赦しをお与えになります。これが、罪人を罪から救う福音です。

この世界には、神の義を拒んで自分なりの義を立てようとする人が大勢います。その人たちは、自分なりの義を捨てなければなりません。ローマ 10:1-4 には、次のようにあります。「兄弟たち、私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は、知識に基づくものではありません。というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。」

イスラエル人は、自分の義を立てるために律法主義に固執して神の義を無視しました。神は、人間が罪を意識するようにと律法をお与えになりました。人間は十戒によって罪の知識を得、幕屋のいけにえの制度によって人を罪から救う、神による救済の義を信じて罪を赦されました。ですから、幕屋の罪のためのいけにえは、新約においてイエスが神の代理そのものであられることを示しているのです。しかしながら、イスラエル人は神の義を知りませんでした。



イエスがバプテスマをお受けになった理由

イエスは、なぜバプテスマをお受けになったのでしょう。この世の罪をすべて洗い流すために、バプテスマのヨハネがイエスにバプテスマを授けました。イエスはバプテスマを受ける直前、バプテスマのヨハネに「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです」(マタイ 3:15)とおっしゃいました。これが、イエスがバプテスマをお受けになった理由なのです。イエスがバプテスマをお受けになったのは、人類の罪をすべて洗い流すためでした。イエスはバプテスマを授けられることによって世の罪を取り除かれました。「見よ。世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネ 1:29)

イエスはすべての罪を取り除かれ、罪の贖いとして磔刑をお受けになりました。しかしながら、イスラエル人は、イエスが罪人の完全な救い主となられたことを知りませんでした。

イスラエル人は神の義に従いませんでした。しかし、イエスは信じる者すべてにとって、律法による義の終わりだったのです。律法の終わりとは、イエスが世の罪をすべて洗い流されたということです。キリストは、信者全員が聖化されるよう、律法の呪いである裁きをお受けになりました。主は律法の呪いを終わらせられたのです。イエスはすべての人の罪を贖われました。イエスは全人類の罪を洗い流すためにバプテスマをお受けになりました。イエスは、バプテスマを受けるべくご自分の身をヨハネに差し出し、世の罪をすべてその身に負われ、世の罪を取り除かれたのです。そうして、すべての人を罪から救われました。イエスはバプテスマと磔刑にとによってこの世の罪を取り除かれ、律法の呪いである裁きを終わらせられました。主は律法の裁きと呪いから完全に人類をお救いくださいました。

それは律法の終わりであり、神の義による救済の始まりでした。イエスはバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになって、ふさわしい形で世の罪を取り除かれました。イエスによる救済の義を信じていて、どうして心に罪があることがあり得るでしょうか。「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。」イエスのバプテスマと血とが神の義でした。神の義を信じるということは、イエスのバプテスマと血とを信じるということです。

神の義は、イエスのバプテスマによって正しく満たされました。これを信じなさい。そうすれば、すべての罪から救われます。イエスのバプテスマによって罪人に義が与えられ、罪のない者とされるのです。また、神の義の裁きは、イエスの磔刑でした。「キリストが律法を終わらせられた」のです。律法が存在する限り、まだ裁きを受けていない者は神の裁き受けることになります。神の律法は罪を明らかにし、罪の報いが死・呪いと地獄であると明かします。そこで、イエスのバプテスマと十字架上の血とが律法の呪いを終わらせたのです。イエスは、すべての正しいことを実行なさるために罪をすべて取り除かれ、律法を終わらせられました。



愚か者は油を用意しないでともしびを持って行った

マタイ 25:1-13 を読みましょう。これは、花婿、主の再臨を待つ十人の娘たちのたとえ話です。聖書を読んで、神の義とは何であるかを考えましょう。

「そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて待っていた。花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。ところが、夜中になって、「そら、花婿だ。迎えに出よ。」と叫ぶ声がした。娘たちはみな起きて、自分のともしびを整えた。ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。「油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。」しかし、賢い娘たちは答えて言った。「いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。」そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできている娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。そのあとで、ほかの娘たちも来て、「ご主人さま、ご主人さま。あけてください。」と言った。しかし、彼は答えて、「確かなところ、私はあなたがたを知りません。」と言った。だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。」(マタイ 25:1-13)

天の御国は、花婿を迎えるためにともしびを持って行った十人の娘のようだと記されています。天の御国に入ったのは誰でしょう。十人の娘たちのうち、誰が天の御国に入ったでしょう。イエスを信じていながら天の御国に入れなかった娘がいるのは、なぜでしょう。主は、この部分でこのことについて告げておられます。十人の娘のうち五人は賢く、他の五人は愚かでした。愚か者は、油を用意しないでともしびを持って行きました。「ともしび」とは、「教会」のことです。油を用意しないでともしびを持って行ったというのは、御霊のない教会に行ったということです。聖書では、「油」は聖霊を意味しています。

愚かな娘たちは、何をしたでしょう。ともしびは持って行きましたが、油は用意しませんでした。イエスを信じてはいても新たに生まれていない者は、熱心に教会に通うでしょう。「私の教会はほんとうに正統です」と、誰もが言います。世の中のキリスト教徒は、みなそう言います。創設者と自分の教派の特徴をたいそう誇りにします。愚かな娘たちは、ともしびは持って行きましたが、油を用意しませんでした。賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて行きました。

人間とは何でしょう。人間は神の目には器です。人間は塵です。人間は塵でできています。ですから、人間は神を入れることのできる器です。賢い娘たちは、入れ物に油を入れてともしびを持っていきました。



油を用意せずにともしびだけを持つ愚かな娘は感情を燃やす

聖書は、イエスを信じる者の中には「愚かな娘たち」がいることを告げています。彼らはともしびは持っても、油は持ちません。これは、新たに生まれていないということです。灯心は油なしで長もちするでしょうか。ここで大事なことは、どんなに良い灯心であっても、油のないランプはすぐに燃え尽きるということです。まだ新たに生まれていない信者は、最初は主への熱い愛情をもっています。これは、ほんの四、五年しかもちません。やがて、主への情熱的な愛は消えます。その人たちは、罪の赦しを受けていないことに気づかなければなりません。

新たに生まれていない者、あるいは油(御霊)のない人々は、「ずっと以前はちゃんと信仰していました。最初は良かったのですが、もうだめです。あなたもじきに私のようになりますよ」というようなことを言います。彼らは新たに生まれることなく信仰生活を送る偽預言者、偽の聖徒です。その人たちの信仰は油(御霊)に基づいていないのですから、救済への信仰をもたなければなりません。その人たちの信仰は、自分の感情にだけ基づいています。イエス・キリストの水と血を信じて救済を受け、賜物として神の油を受けなければなりません。「灯心」は人間の心のことです。

先に引用した部分で、娘たちは花婿を待っていました。ここでは、イスラエル人の文化的背景をよく知っておかなければなりません。イスラエル人は夜に結婚式を行ないますが、それは花婿の到着とともに始まります。そこで、花嫁は花婿を待たなければなりません。イスラエル人の結婚式は、こうしたものなのです。

「花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。」すると、叫び声がします。「おおい、花婿が来たよ。」すると、花嫁は立ち上がり、大騒ぎで身だしなみを整えます。十人の娘たちが花婿を待っていると、「そら、花婿だ」という叫び声がして、花婿がやって来ます。「娘たちはみな起きて、自分のともしびを整えた。ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。「油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。」」愚か者はいつでも愚かです。彼女たちは花婿が到着する前に油を用意しておくべきだったのです。ランプの灯心がどんなに弱いものであっても、油の入ったランプは消えません。

油を用意せずにランプだけを持ってきた愚かな娘たちは、灯心だけを燃やします。これは、心だけが燃えているということです。「私は新たに生まれ、新たに生まれた人間として生き、御霊に満たされなければならない。」その人たちは、このように熱心に心を燃やします。私の子供時代、夜は部屋の照明に灯油ランプを使っていました。ランプで紙片を焼くと、あっという間に燃え尽きます。火は三十センチ以上も燃え上がり、まばゆい光を放ちますが、それはすぐに消えます。

地獄に行く愚かな娘たちとは、油なしに心(感情)を燃やし、実際に主にお会いしなければならなくなるとその信仰の炎が消える人々です。その人たちは内に御霊を宿していません。その人たちは御霊を宿していないのに、正しく信じていると思っています。「♬もゆるみたまよ♬」そうした人々は、実に活動的です。女性たちはダンスに溺れ(スピリットダンスと呼ばれる)、胸をときめかせて「おいでください、どうぞ、おいでください」と言います。あの人たちは愚かで気違いじみています。救い主の前でまだ罪をもっているのなら、その人は愚かです。イエスを信じていながらまだ心に罪があるのは、愚かな娘たちのようなものです。愚かな娘であってはなりません。



主は罪のある花嫁とご結婚できない

主は聖なる神であられます。「花婿」は神、神の御子であられ、罪は何一つありません。神が聖徒の花婿であられます。しかしながら、罪がありながら、どうして神にお会いできるでしょう。みなさんは心に罪をもって神にお会いしたいのですか? それは、たいへん愚かしいことです。

花婿イエスは、この世に来られ、花嫁を聖化なさいました。主はバプテスマをお受けになって罪をすべて洗い流され、花嫁を義人になさいました。主は彼らをご自分の内の花嫁に選ばれました。時が満ちると五人は「どうぞおいでください」と言います。しかしながら、他の五人はまだ闇の中に立っています。暗い顔をして、どうして結婚式に臨めるでしょう。花婿はやって来て、「お元気でしたか」と尋ねます。愚かな五人の娘たちは、罪のために暗い顔をしています。罪が心のそこかしこにくっついているので、その娘たちは深い悲しみの内にあります。

どうして主は罪のために泣き悲しんでいる花嫁と結婚おできになるでしょう。「このように聖化してくださって、ありがとうございます、主よ。」このように言える人は、たとえその人自身は弱くとも、花婿がその人を愛して弱さと罪をすべて洗い流したので、霊的花婿と幸福になります。花婿は通常、衣服や最高の香水・化粧品を贈り、花嫁が化粧をするようにさせます。すると、花嫁はそれらすべてを使って着飾り、花婿に会う用意をします。

人間が花嫁として主にお会いできるよう導かれるために、主はこの世に花婿として遣わされました。主はヨルダン川で罪の赦したのためにご自分の体をくださいました。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(ヨハネ 1:14)人間が主を信じて恵みと真理と罪の赦しを得られるよう、主ご自身が人類の罪をすべて取り除かれたのです。花婿が花嫁の罪をすべてヨルダン川で取り除いたのです。主は、身代わりとして十字架上で罰を受けられ、花嫁を罪からお救いになりました。



お金や試練で御霊を買えるか

しかしながら、愚かな娘たちは賢い娘たちに油を分けてくれと頼みました。花婿が近くまで来たとき、ともしびが燃え尽きようとしていたためです。御霊を分け合うことができるでしょうか。お金で御霊を買えるでしょうか。善行や試練・お金で罪の赦しを買うことができるでしょうか。賢い娘たちは愚かな娘たちに、リバイバル礼拝を行なう牧師から御霊を買うようにと告げました。愚かな娘たちは、すでに買ったと思っていました。油をお金で買えると思っていました。多額の寄付や献身をし、正統の教会に加わり、繰り返し祈ることで何かが得られると思い、熱心に信仰生活を送りました。

しかし、何があろうと、この世の何物をもってしても、誰ひとり主のくださった罪の赦しを買うことはできません。愚か者は、主の前に立つまで感情を燃やそうとします。五人の愚かな娘たちの一人は、「主に従います。祈りや悔い改めの祈りをしに山に登ります。主にお仕えしに行きましょう。外国に福音を説きに行きましょう」と言って信仰生活を始めます。

ついに花婿が鳴り物入りで到着します。愚かな娘たちは、花婿が来たとき油を買いに出かけます。しかし、罪の赦しを受けて油(御霊)を用意していた娘たちは、結婚の祝宴に向かいます。花婿は、すべてを用意してから花嫁に会いました。それから戸を閉ざしました。イエスは、ただ無作為に五人の娘たちを選ばれたのではありません。「五」という数は、聖書では「恵み」を意味します。五人の娘は、恵みによって罪の赦しを受け、神の恵みと義のみわざを信じる者を表わしています。彼女たちは花婿のしてくれたことを認識し、自分たちを義人にした主の義を信じます。しかしながら、他の娘たちは、遅れてやって来て、「主よ、主よ、開けてください」と言います。しかし、主は「確かなところ、私はあなたがたを知りません」とお答えになります。



罪が消されてはじめて 御霊の賜物を受ける

油を用意しない者は、主にお会いできません。主は、神の義を信じて天の御国を待つ者、心に罪の赦しを受けている者を天の御国にお入れになります。主は約束のみことばを告げられました。

「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。」では、罪の後で何が起こるのでしょう。聖書は、「そうすれば、賜物として聖霊を受けます」(使徒 2:38)と告げています。神の義の福音を受けるなら、心の罪が実際に消され、聖霊が来られます。神の御霊を物理的に感じることはできません。それでも、御霊は存在します。聖徒が自分には罪がないと言えるのは、御霊と神のみことばが心にあるためです。ほんとうに存在するのです。弱い人間であっても、主の義を受ける者は義人になります。しかしながら、主の義をもたない者は、罪人のままでいます。



神の義が啓示されている

主は、水と血によって来られました。主はバプテスマによって人類を罪からお救いになりました。バプテスマによって人類の罪を取り除かれ、血を流され、身代わりとして人類の罪全部の罰をお受けになりました。使徒ヨハネとペテロ、パウロは、これについてどう言っているでしょう。みな、イエスの肉と血について語っています。彼らはイエスのバプテスマと十字架上の血について語っています。マタイ 3:13-17 は、イエスのバプテスマを正確に描写しています。イエスは罪人を罪のない者にし、世の罪をすべて洗い流すためにヨルダン川でバプテスマをお受けになりました。

ペテロの手紙 I 3:21 を読んでみましょう。ペテロは、救済の型はイエスのバプテスマであったとあかししました。「そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。キリストは天に上り、御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えて、神の右の座におられます。」(ペテロ I 3:21-22)

ここには、「そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。……イエス・キリストの復活によるものです」と記されています。人類の罪をすべてその身に被られたイエスのバプテスマが人類救済のあかしだったのです。主が十字架上で血を流されたことは、人間が罪の裁きを受けていることをあかししています。私の言っていることがわかりますか? イエスは水と血と御霊によって来られたお方だと聖書は告げているのです(ヨハネ I 5:6-9)。イエスは人間の肉の形でこの世に遣わされ、大祭司アロンが民の罪を移すためにいけにえの上に手を置いたのと同じ形で人類の罪をすべて取り除かれました。

水、すなわちバプテスマが人類を救う型なのです。これは肉体の汚れを除くことではないと記されています。これは、罪の赦しを受けた後は罪を犯さないということではありません。人はイエスのバプテスマを信じて罪の赦しを受けます。では、人間は肉で罪を犯さないのですか?─はい、犯します。大勢の人々が罪の赦しを誤解し、「心に罪がなければ、二度と罪を犯さないでしょう」というようなことを言います。これは誤解です。聖書には、「この地上には、善を行ない、罪を犯さない正しい人はひとりもいないから」(伝道者の書 7:20)とあります。肉はまだ弱いのです。死ぬまで弱いままなのです。肉の体は死ぬまで罪を犯します。

「バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓い」なのです。バプテスマとイエスの血への信仰によって、心が神に対して正しい良心に変わるのです。主がバプテスマによって罪をすべて取り除いてくださったと信じて、良心は神を主、救い主と呼ぶことができるのです。



心の霊的糧とは イエスのバプテスマと血

心の糧とは、イエスのバプテスマと血です。心の糧と、人間の罪を洗い流した型は、イエスのバプテスマです。ですから、使徒ペテロは、バプテスマが人間を救う型なのだと言ったのです。

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ローマ書についての聖書学習

ペテロ I 1:22-23 を読みましょう。「あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。」アーメン。

聖徒はイエスのバプテスマと血とを信じて新たに生まれ、罪の赦しを受けました。記された主のみことばを信じて聖徒は新たに生まれました。聖徒は、「生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによ」って新たに生まれました。ハレルヤ。新たに生まれることは、生ける、いつまでも変わることのないみことばによって起こります。神のみことばは規範、つまり物差しなのです。これが救済の基準です。神による救済の物差しは変わることがありません。

ヨハネ 1:29でバプテスマのヨハネは、「見よ。世の罪を取り除く神の小羊」と告げています。ヨルダン川でバプテスマを受けた「神の小羊」は、その肉と血によって人類を救ったいのちのパンです。

聖徒は神のみことばを信じて聖化され、救われました。聖書には、「私たちの信仰は神のみことば、イエス䖁キリストのみことばを聞くことから始まります。なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる。』と書いてあるとおりです」(ローマ 10:17、1:17)とあります。福音を信じて人は義人になれるのです。

みなさんは、聖化されていますか?──アーメン。みなさんには、罪が何もないのですか? それが福音、良い知らせ、ギリシャ語の「euaggelion」です。神の義とは、何でしょう。それは、主がご自分の肉と血をくださって人類の罪をすべて消されたということです。神の義によって、人間は聖化されるのです。神の義とは、罪のないイエスが世の罪を取り除かれ、罪人のために十字架につけられたことです。それは水、世の罪をすべて清めたイエスのバプテスマです。イエスがバプテスマと磔刑によって世の罪を取り除かれたので、神の義が人間に与えられました。神の義はイエスのバプテスマと死とからなり、十字架は裁きの型なのです。これが福音に示された神の義です。

 

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