救済・聖霊・幕屋・ヨハネの黙示録についての聖書学習のための無料キリスト教図書

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 重要な主題に関する Paul C. Jong 師による説教

 

幕屋の庭の入り口の色


< 出エジプト記 27:9-19>
  幕屋の庭を造る。南側に面して、庭の掛け幕を、その側のための長さ百キュビトの撚り糸で織った亜麻布を、張る。柱は二十本、その二十個の台座は青銅で、柱の鉤と帯輪は銀とする。同じように、北に面して、その長さで、長さ百キュビトの掛け幕とする。柱は二十本、その二十個の台座は青銅で、柱の鉤と帯輪は銀とする。また、西に面して庭の幅には五十キュビトの掛け幕と、その三本の柱、その三個の台座とする。前面の東に面する庭の幅も五十キュビト。片側に寄せて、十五キュビトの掛け幕と、その三本の柱、その三個の台座とする。他の片側にも十五キュビトの掛け幕と、その三本の柱、その三個の台座とする。庭の門には、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を使った長さ二十キュビトの刺繍した幕と、その四本の柱、その四個の台座とする。庭の周囲の柱はみな、銀の帯輪を巻きつけ、その鉤は銀、台座は青銅とする。この庭は、長さ百キュビト、幅は五十キュビトに五十キュビト、高さ五キュビト、幕は撚り糸で織った亜麻布、その台座は青銅とする。幕屋の奉仕に用いるすべての用具、すべての釘、庭のすべての釘は青銅とする。

 


新たに生まれた者と通常のキリスト教徒の間には明確な違いがあります。前者は神がすべての罪を消してくださったと知り、信じていますが、後者は自分の考えに基づいて、単なる宗教行為としてイエスを信じています。しかし、神を宗教的事物としてだけ信じている人は、とても繁栄しているので、ほんとうの真理を宣べ広めている者は、誤った信仰をもつ人々が誤った教えを広めて栄えているのを見て、がっかりします。がっかりするというのは、数多くのキリスト教徒がそうした欺きと不正に満ちたにせ宗教に引きつけられているからです。

私もまた、このためにしばらくの間落胆していました。私は真理に出会ってほんとうに新たに生まれ、私をみわざの道具としてお使いくださる神に感謝し、神の真理を広く遠く伝えたいと願っているのですから、あんなにも多くの人々が嘘にだまされて宗教生活を送っているのを見ると、ほんとうに悲しくなるのです。

それでも、御霊が心にありますし、自分には欠点はあっても罪はないということは、はっきりしています。ですから、心には感謝の念があります。また、自分の信じる福音について何ら恥じるところがありません。私が全世界の人々に福音を宣べ広め、人々が真理のみことばを聞いて信じたなら、その人たちもまた、神と人の前に何ら恥じるところがなくなります。この真理を信じたとき、みな神の子供になるためです。

みなさんもまた、信仰によって同じ恵みを受けておられるでしょう。神学を学んでいなくとも、この水と御霊の福音の真理を信じさえすれば罪の赦しを受け、神の子供になり、心に御霊を受けるのです。そうして、御霊とともに、いつでも神のしもべと一緒に歩むことができます。これは明らかな真理です。このように信じるのが真の信仰です。

私は嘘に満ちた世界に生きてはいても、心にはこの真の信仰がありますから、今この瞬間まで真理の福音を説いてくることができました。幕屋についてのみことばを説くようになってから、嘘つきたちの計略がよりはっきりとわかるようになり、嘘と真実とを識別できるようになりました。この幕屋の真理についてあかししてきているのは、このためです。幕屋によって本物の真理が広まるにつれ、人々が嘘と真実を識別できるようになっているのは、とてもうれしいことです。

幕屋に関するこの本を書いていて最も難しかったのは、用語の扱いでした。この点には、かなり気を遣いました。原文を調べ、幕屋に関する難かしい用語の中に誤った情報が入ったり、読者に誤解されることのないようにしました。自分では幕屋について理解し、知識もありますが、幕屋の様式と隠された霊的意味をごく限られた知識しかもたない人々に説明しなければならないため、幕屋の重要性をどれほど詳細に明確に説明できるものか、いささか不安でした。

もちろん、人々が初めて聞いてすぐさま理解し、信じたならば、すばらしいでしょう。しかし、ローマは一日ではなりません。同様に、何事にも言えることですが、真理と真の信仰を広めることもまた、一日ではなりません。これは、核心に向かって少しずつ掘り進めることによって、徐々に成し遂げられるのです。ですから、最初からあまり深く掘り下げることには慎重にならざるを得ませんでした。誰もが理解できるわけではないでしょうから。この点は、この本を書いていて最も難しかったのことの一つです。

それでも、神のお恵みによって、この本はついに、さほどの問題もなく出来上がりました。言うまでもなく、このことをとてもうれしく、ありがたく思っています。この本では、嘘と真実とを区別することによって、今日の水と御霊の福音の信者がいかに確かに疑問の余地なく救われているか、それに対して、この水と御霊の福音以外の福音の信者の信仰がいかに宗教的で無益であるかを明らかにします。私は、何よりも罪から救ってくださったことを神に感謝します。

今日、ただイエスを信じているので無条件に罪がないと主張する、いわゆる福音主義者が大勢います。彼らの心は、あらゆる種類の根拠のない誤った信仰に満ちています。幕屋を研究していて、彼らのいかに無益で誤っているかがそれまで以上にわかるようになりました。この発見のために、救済を心から神に感謝いたします。

 

幕屋の庭の門と囲い

一キュビトは約 45cm に相当する長さの単位ですから、聖書の引用部分から、幕屋の長方形の庭の長さは45m、幅は 22.5m だったことがわかります。六十本の柱が幕屋の庭を囲んでいました。各柱の高さは 2.25m ありました。東には幅 9m の門があり、残りの囲い(135m のうち、約 126 メートル)は白い亜麻布の掛け幕で囲まれていました。

幕屋の庭 の入り口は、青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布で作られ、幅 9m、高さ 2.25m ありました。つまり、この四種の糸で幅 9m、高さ 2.25m の幕を作ったのです。まず青い糸を白い亜麻布の全体に織り込まれ、それから紫の糸が高さ 2.25m に織り込まれ、次に緋の糸が高さ 2.25m に織り込まれ、白い糸を織り込み、高さ 2.25m の絨毯のように織られた厚く丈夫な幕が作られました。このように、高さ 2.25 m、幅 9m の幕が織られ、幕屋の庭の東の四本の柱から吊られました。

ですから、幕屋の庭に入るには、絨毯のような幕を引き上げなければなりませんでした。たいていの門とは違って、幕屋の門は木製ではありませんでした。柱は木でできていましたが、門の柱から吊られた幕は青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布で作られていました。

サーカスを見に行って、テントがどのように建てられているかを見たことがあるでしょう。入り口は通常、厚い布でできていました。幕屋の庭の門は、そうした入り口に似たところがありました。分厚い織物でできていて、入るためには固いドアのように押したり引いたりはできず、掲げられました。これは、幕屋の庭の入り口だけではなく、幕屋の聖所と至聖所の入り口も同じでした。

神はなぜイスラエル人に幕屋の庭と聖所・至聖所の入り口をみな青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布で作るようにとおっしゃったのでしょう?このご命令の陰にある神のみこころを知っておかなければなりません。ヘブル人への手紙には、旧約に記されたよきことはみな、一つの実体、つまり、イエス・キリストの影であると記されています(ヘブル10:1)。

同様に、幕屋の庭の入り口はイエス・キリストのバプテスマ、十字架上の死、それにキリストご自身と密接に関わっているのです。ですから、旧約を理解しにくいときは、新約を見ればわかるようになるのです。実体を見ることなしには、影を理解することはできません。影を投げている物または人を見てはじめて、それがどういうことであるかがわかるのです。神が旧約で罪人の救い主として用意なさった救い主が誰であり、その方が幕屋の実体であると知り、そのみわざが人類をすべての罪から救ったと、はっきり知っておきましょう。

では、誰が幕屋の実体、罪人の救い主となられた方なのでしょう?イエス・キリストにほかなりません。救い主イエス・キリストがどのようにこの世に来られ、どのようにして人類を罪からお救いくださったかを調べると、青色・紫色・緋色の撚り糸で罪人をお救いくださったという確証を得るのです。

イエスの罪人救済を理解するうえで、幕屋の庭の入り口の色で表わされた真理を知り、信じることが最も大切です。幕屋を調べるには、まず、庭の入り口が四種の糸で作られていたことに目を向けます。この入り口の秘密を説いたなら、イエス・キリストのみわざ全部をしっかり把握できるのです。四種の糸で織られた門の幕を見ると、どのようにイエスを理解し、信じなければならないか、どのような信仰が誤った信仰であるかがはっきりわかります。

幕屋の庭は、実際は羊小屋を思い起こさせます。救世主イエスは神の羊小屋の門であられ、また、よき羊飼いとなられました(ヨハネ 10:1-15)。庭を囲んだ柱を見ると、入り口、神の羊である新たに生まれた聖徒のよき羊飼いとなられた救世主を思い起こさせられます。

羊飼いは羊を守るために羊小屋の周りに柱を立て、そこに入り口を設け、この入り口によって羊を守りました。この入り口によって羊飼いは羊と親しく交わり、守りました。実際、神の羊でない者は誰もこの入り口を通ることを許されません。羊飼いは羊と狼を区別します。羊に羊飼いが必要なのは、このためです。

それでも、羊の中には羊飼いに導かれることを拒むものがいることがあります。そうした羊は、実際は危険な道であるのに、美しい良い道だと思って死の道に入ります。羊飼いの声を聞かず、導かれることを拒むためです。そうした羊は、実際、羊飼いにいのちを救われ、良い糧を与えられ、羊飼いのおかげですばらしい生を生きることができます。事実、羊飼いは救世主となられたイエス・キリストなのです。

 

イエス・キリストは幕屋の入り口の四つの色を示された

幕屋の庭の入り口に吊られた垂れ幕は、青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布で作られていました。この四色の糸が幕屋の入り口を作るのに用いられたのです。これは、救世主がこの地上に来られ、迷える羊、つまり、全世界の霊的イスラエル人を罪からお救いになり、神の罪のない民となさるために成就なさる四つのみわざを象徴しています。

四つのみわざによって来られる救世主が誰であるかを知っていれば、この真理によってすべての罪を洗われ、残りの生を水と御霊の福音を宣べ広めることにささげ、この信仰によって天国に入ることになることは明らかです。ですから、救世主が青色・紫色・緋色の撚り糸によって来られてすべての罪から救ってくださったという真理のみことばを誰もが知っていなければならないのです。

みなさんは、救世主の四つのみわざを信じて罪の赦しを受けたいですか?では、幕屋について学びましょう。この四つのみわざを知る者は、実際、青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布からなる罪の赦しを受け、義人になります。

イスラエル人は、四色の糸で織られた幕屋の入り口を見て、救世主がほんとうにいつか、この四つのみわざを全うなさるために来られると信じなければなりませんでした。

 

すべての罪人が信じるべき真理

幕屋の庭の白い亜麻布の掛け幕を見たなら、神がほんとうにいかに聖いかを知り、自分たちには救い主が必要であると悟ったことでしょう。実際、神の聖さを知った者は、「神様、私は罪のために地獄に行く定めにあることを認めざるを得ません。私は罪の塊にすぎないのですから。幕屋の庭の柱に掛かっている白い幕を見ると、その清さと威光のすばらしさのために、人は心の罪に気づき、自分が神と住むにはまったくふさわしくないことを知るのです。心が素直でない者が神の前に行こうとすると、そのたびに罪が露にされます。ですから、人々は神の前に行くのをためらいました。罪が明らかになることを恐れたためです。

しかし、そうした人は、救い主が罪の問題を青色・紫色・緋色の撚り糸によって解決なさったと知ると、救済を確信し、自信と希望をもって神の前に行くことができます。

幕屋の門に示された四つからなる真理は、救世主がこの世に人間の肉の形で来られ、ヨハネから受けられたバプテスマによって世の罪をすべて被られ、十字架上で血を流されたと告げています。水と御霊の福音によって幕屋の庭の門の四色の真理を正確に知り信じている者は、永遠の罪の赦しを受けることができます。イエスのバプテスマと磔刑、キリストがバプテスマと十字架上の血とによってすべての罪から完全にお救いくださったという真理は、幕屋の庭の入り口の四色のような救済です。

青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布は、罪人をすべての罪から救った救世主のみわざを表わしています。神が人類にくださった救済の真理は、この青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布という形で明かされています。実際、心に罪のある者は水と御霊の福音に明かされた救済の真理を信じて、すべての罪を赦されています。

無数の宗教がこの世界に生まれています。そうした世の宗教には、いずれもそれぞれの考えに基づいて作られた教義があり、信者が聖性を得ようとするように仕向けます。しかし、そうした世俗的な宗教によっては、ただの一人も罪を洗い流されません。それは、自分が罪に満ちた存在でしかないことを知らず、自分なりの考えに基づいて教義を作って信じたためです。人はみな自分では聖くなることのできない罪の塊なのですから、どんなに罪深い本質を消そうとしても、誰もけっして成し遂げることができません。罪から救う救い主が絶対に必要なのは、つまり、誰にもイエスが必要なのは、このためです。よろしいですか、人間には、イエス・キリスト以外には真の救い主はありません。

神の律法は、罪人が神の家に入ることを許しませんから、救世主がほんとうに罪を消してくださったと知り、信じていなければなりません。

人類の罪をただ一度で赦した福音とは、水と御霊の福音にほかなりません。世俗的宗教の教義を信じることは、罪のためにより深い困難へと向かうだけです。聖なる神は、必ず罪人の咎を罰されるのですから。

青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布によって明かされた真理は、新約の時代に水と御霊の福音によって成就されました。みなさんは、誰かが幕屋の庭の入り口は緋色の糸、あるいは紫と緋の色だけで作られたと言うのを聞いたことがありますか?もしそうなら、よろしいですか、たった今から、幕屋の入り口は、実際には青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布で作られていたと覚えておきましょう。神は、幕屋の庭の幕は、青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布によって織り手が作らなければならないと、イスラエル人にはっきりお命じになりました。

それでも、幕屋の庭の入り口は緋色の糸だけで織られたものと考えたために、主の四つのみわざの謎を解くことができない人が大勢います。イエスを信じていても、そうした人々の心に罪があるのは、このためです。キリストが青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布のみわざによって罪をすべて取り除かれたと知り、この真理を信じなさい。青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布によって成就された救済のみわざは、ほんとうにすべての罪から人を完全に救っているのです。よろしいですか、イエスはこの四つのみわざによって、人類の罪をすべて取り除かれたのです。この真理を知らないままに、自分なりの罪の赦しの基準を定めることは、間違いです。

幕屋の庭の入り口に用いられた青色・紫色・緋色の撚り糸の意味を知らないまま、「イエスを救い主と信じさえすれば人は無条件に救われるのだ」などと言う人々がいます。実際、キリスト教社会の指導者にイエスの四つのみわざについて質問すると、その多くがそれについて知らずにいることがわかるのです。彼らは、緋の糸のみわざだけを信じていると言います。もう一つ信じているとしたら、紫の糸のみわざも信じていると言うでしょう。しかしながら、実際には、主は青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布によって人類救済のみわざを完了なさったのです。ですから、主は救済の四つのみわざを行なわれたと信じるのです。幕屋の入り口の青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布の明かしている真理を知りたいと思う者は誰でも、知り、信じることができるのです。

「青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布の意味は、どうしたらわかるでしょう。」こうした糸と亜麻布の真理を求めて誰かにこう尋ねたなら、「聖書はあんまり深く詳細に知ろうとするものではありません。ためになりませんよ」と非難され、その人の知りたいという気持ちは無視されます。多くの人々は落胆し、青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布への興味を失います。そうして、入り口によって表わされた救世主にお会いすることは、けっしてないのです。

実際のところ、青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布の役割を知らないで救世主に会おうとする者は、キリスト教を世の宗教の一つとして信じる信心家にすぎません。神の家に入るには、幕屋の庭の入り口に用いられた青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布という形で明かされた救済の四つのみわざを正しく知っていなければなりません。この真理を見出した者は、新約の時代に主が水と御霊の福音によってそれを成就なさったことを知るのです。

神はモーセに、幕屋の庭の入り口を青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布で作るようにお命じになりました。では、この霊的意味は何でしょう?幕屋の庭の入り口の青・紫・緋の糸と、撚り糸で織った亜麻布の色は、イエスが人類の罪を消されるためになさったみわざをそれぞれ表わしています。ですから、これらの糸と亜麻布は互いに密接に関連しています。水と御霊の福音に耳を傾け、信じる者は、永遠の罪の赦しをイエスの四つのみわざとして信じることができます。

それなのに、青色・紫色・緋色の撚り糸という形で表わされた救済の真理を知ろうともせずに無視することは、すなわち、救世主に対する完全な無関心の現われであり、神に敵対する者になるのと同じことです。実際、多くの人が青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布に表わされた真理に無関心なままで、キリスト教を世の数多くの宗教の一つにすぎないものにしています。イエスの四つのみわざに無関心であるなら、それは、彼らがキリストに敵対する世俗的宗教の産物である証拠です。しかしながら、幸いなことに、まだ希望はあります。この世には、まだ水と御霊の福音を求めている人々が大勢いるのです。

幕屋の庭の入り口に明かされた罪の赦しの霊的真理を知ると、人は天の霊的恵みのすべてを受けることができます。この信仰は、救世主にお会いするために知り、信じなければならない、必要な信仰なのですから、一度だけではなく、永遠にもち続けなければなりません。キリスト教徒であるなら、この真理に耳を傾けなさい。

神の家に入ろうとする者は誰でも、青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布という形で表わされた真理を見出し、それにしたがって神をたたえるのです。

 

予言の成就者として来られた救世主

神はみことばによって、救世主が処女の体から生まれると予言なさいました。イザヤ書第 7 章 14 節には、次のようにあります。「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマニエル』と名づける。」また、ミカ書第 5 章 2 節では、救世主はベツレヘムに生まれるとしています。「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエル人の支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」旧約のみことばが予言したとおり、救世主がほんとうにこの世に来られました。救世主は、神のみことばにあるとおり、予言を成就してこの世に人間の肉の形で来られました。

では、人類史のどの時点に救世主は来られたのでしょう?イエス・キリストは、いつこの世に来られたのでしょう?ローマのアウグストゥス帝の治世(前 27-後 14)にこの世に来られました。イエスは、ヨハネからバプテスマを受け、磔刑を受け、十字架上で血を流されてみなさんや私を罪と罰のすべてをお救いくださるためにこの世に来られました。

イエスは、イスラエルがローマ帝国の植民地となり、アウグストゥスが皇帝であった時に、人類の救い主として来られました。イスラエルはローマの植民地だったので、ローマの法に従わなければなりませんでした。当時、アウグストゥス帝は、全ローマ帝国の者は人口調査の登録をするために各自の生まれた町に戻るべしとの命を発しました。アウグストゥスの命令に従って、直ちにこの人口調査が始まりました。人口調査はイスラエルを含んだ帝国内のすべての人間を記録しようとしていたので、イスラエル人はみな、それぞれの生まれた町に帰らなければなりませんでした。この瞬間から、イエス・キリストはすでに人類史の中ではたらいておられました。

 

旧約のみことばの成就を見よ

当時、ユダの地では、救世主はすでに処女マリヤの胎内に宿っておられました。マリヤはヨセフと婚約していました。王は、イスラエル人の十二支族のうちユダ族からだけ生まれると神が約束なさったように、マリヤもヨセフもユダ族の出身者でした。

ですから、ローマ皇帝アウグストゥスが人口調査を行なうように命令したとき、ユダ族のマリヤはすでに赤ん坊を宿していたのです。マリヤは臨月で出産が迫っていたのですが、皇帝の命令のために、人口調査の登録をするためにヨセフの生まれた町に行かなければなりませんでした。そこで、すぐにも出産が起こりそうだったのですが、マリヤはヨセフと共にベツレヘムに向かいました。マリヤの陣痛が始まると、部屋を見つけなければなりませんでした。しかし、町の中に空いた部屋は見つかりません。そこで、泊まれる所ならどこでも、たとえ厩であっても、使うしかありませんでした。そうしてマリヤは厩でイエスを出産しました。

西暦一年、イエスが生まれ、飼葉桶に入れられました。全能の神は、この世に人間の肉の形で来られました。動物が住んでいたところに人類の救い主が来られました。これは、イエスが救世主となられるために最も卑しい場所にお生まれになったことを意味します。このすべては創造以前に神が定められ、ご計画になっていたのです。ヤーウェ神が人類史を動かしておられるとは知っているでしょうが、神ご自身が実際にこの世に来られたとは、誰ひとり気づきません。ですから、神は、身を低められ、この世に卑しい人間としてお生まれになって人類全員を罪から救われることを誰でも知ることができるようになさいました。

では、なぜイエスは、よりによってベツレヘムにお生まれになったのでしょう?また、なぜ厩で、なぜイスラエルがローマの植民地として支配されていた時にお生まれにならなければならなかったのでしょう。これらすべては、ご自分の民を罪からお救いになるために注意深く用意されたご計画であることを次に説明します。

ヨセフとマリヤが生まれ故郷で人口登録をしたとき、ほんとうにその町で生まれたという証拠と、身分を示す文書を示さなければなりませんでした。祖先がほんとうに何世代にもわたってベツレヘムに住んでいたことを証明する証明書を示してはじめて人口登録できたのです。そこで、人々は先祖が誰であり、誰の家に属しているのかを明かし、そうした家系の詳細を人口調査に記録しなければなりませんでした。これらのどれも捏造したり省略したりできなかったので、ヨセフとマリヤの正確な身分を歴史的に記録なさることによって、神は人類史もまたイエスの誕生を明かしするようになさったのです(マタイ 1:1-16、ルカ 3:23-38)。これらすべては、旧約の予言のみことばを成就するためになさった、神のみわざです。

ミカ書第 5 章 2 節には、「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエル人の支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである」とあります。その誕生の日が訪れ、神はヨセフとマリヤがその町に到着するようになさり、予言されたベツレヘムの町に救い主がお生まれになりました。このことから、これは神が預言者の予言を成就なさるために行なわれたみわざであることがわかります。これは、人類の罪をすべて消し去るための神のご計画なさったことなのです。イエスがベツレヘムという小さな町にお生まれにならなければならなかったのは、旧約の予言のみことばを成就するためでした。

イエス・キリストが小さな町ベツレヘムにお生まれになる何百年も前、神はすでに預言者ミカを通して先の予言のみことばを与えておられました(ミカ 5:2)。また、預言者イザヤも主の降臨の七百年程前に、救世主が罪人の救い主となられるために来られるさまを予言しました(イザヤ 53)。神が預言者ミカを通して予言なさったとおり、イエス・キリストがほんとうにベツレヘムにお生まれになったように、神はいつでも予言のみことばを全うなさいます。

マリヤとヨセフが先祖の町に人口調査の登録に出かけて、予言は歴史的事実として実現しました。赤ん坊が生まれる時がちょうどマリヤがベツレヘムに到着する時になるようになさって、マリヤがこの町で出産するしかなくなるようになさり、神はみことばを実行なさったのです。

このことから、神は予言のみことばを語られ、そうしたみことばをそのとおりに実行なさる神であることがわかります。また、幕屋の庭の入り口に用いられた「撚り糸で織った亜麻布」が神のみことばの精密さと完全さを示していることもわかります。神は、創造以前にすでに人類救済を具体的にご計画になっておられ、それを予言のみことばに従ってすべて全うなさいました。

ですから、旧約のみことばは確かに神のみことばであり、新約のみことばもまた神のみことばであるとわかるのです。また、神がほんとうに全宇宙とこの地球を支配なさっていることも知り、信じることができます。つまり、全宇宙を創られたように、すべての人間・全歴史、すべての人の状況を完全に支配しておられることを神は示しておられるのです。ですから、神は、ご自分がそれを許されなければ、人間にはその意思によっては何であろうと、何一つ成し遂げることはできないことを示されたのです。

イエス誕生のとき、宿には空室がなかったために、動物の休むところで出産されなければなりませんでした。イエスはほんとうにベツレヘムの町にお生まれになりました。よろしいですか、これらすべてはみな、神の予言なさったみこころを誠実に実行なさったすばらしいみわざなのです。

ですから、この宇宙の歴史を動かすお方は神、人類を罪からお救いくださった救い主だと信じるのです。この真理が、神はすべての主であられるためにすべてを支配なさることを示す、神のみことばなのです。

こうして、イエスがベツレヘムという小さな町にお生まれになったことは偶然のことではなく、また、聖書のみことばを操作するために恣意的にでっち上げられたことでもないことが証明されました。これが神のおっしゃったことであり、また、イエスによって成就なさったことなのです。

これを知り、信じるのです。救世主による救済が青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布によって成就された真理であると心に受け入れ、信じるのです。神は、罪の赦しもまた偶然に成し遂げられることではなく、神の摂理によって用意されたイエスの四つのみわざによって成就されたことであると示されました。

さらに、これはまた、キリスト教が数多くの世俗的宗教の一つではないことをも示してます。世俗的宗教の創始者は人間に過ぎませんが、キリスト教の創始者は救い主イエスです。神は、キリスト教の真理は救い主が神そのものであられることに始まることを示されました。つまり神は、私たちの信じているキリスト教が単なる世俗的宗教の一つではないことをあかしなさったのです。この世の他の宗教とは違い、キリスト教は神のお与えくださった恵みのすべてによって設けられました。ローマ人への手紙第 11 章 36 節に「というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に栄光がとこしえにありますように」と記されているように、神は一人子を救い主として遣わされ、人類の罪の赦しのために水と御霊の福音をくださり、御霊が心に宿るようになさり、天の御国をくださったのです。ですから、人はみな、神とそのみことばを恐れ、従わなければならないと心で知り、信じるべきなのです。

救世主の誕生は、父なる神が創造以前に決められた救済のご計画に従ったものです。人類救済は、その内で完全に計画されました。神は、この真理が青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布の実体であると明確にわかるようになさいました。ですから、水と御霊の福音によって来た救済を罪の赦しと認め、信じるのです。この信仰によって、みなさんと私はすべての罪から救われます。この四つの色の真理もまた、水と御霊のみことばの福音への信仰によって完全になったと信じるのです。

 

人類を青色・紫色・緋色の撚り糸と撚り糸で織った亜麻布によって救われた救い主イエス・キリスト

イエス・キリストが罪人を罪から救われたみわざは四つからなります。青い糸(イエスのバプテスマ)、紫の糸(イエスは王の王、つまり、神であられる)、緋の糸(イエスの血)、そして撚り糸で織った亜麻布(旧約と新約の具体的なみことばによる、すべての罪人の罪からの救済の完了)です。イエスはまさに青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布によって、救い主となられました。

よろしいですか、水と御霊によって来られ、青色(イエスのバプテスマ)・紫色(イエスは神)・緋色の撚り糸(イエスの血)と、撚り糸で織った亜麻布(イエスは新約と旧約のみことばによって救済を成就なさった)によって人類を罪から救われたイエスを信じなければ、けっして罪と罪の罰から救われることはないのです。このように罪と罰とから救ってくださらなければ、主が完全な救い主になられることはなかったでしょう。

幕屋の庭の入り口の幕がなぜ青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布で作られていたか、霊的に知っておきましょう。幕屋の庭の入り口が青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布で作られていたのは、誰もが見ただけで入り口を知り、容易に見つけられるようにするためでした。この入り口によって神は、誰もが輝く家に入ることができるようになさったのです。

幕屋自体が輝く神の家です。幕屋の庭の囲いと入り口という形で示された救済の真理を知ることなしには、誰ひとり神の家に入ることができません。神は、幕屋を囲む白い亜麻布の幕の清さを無視し、門から幕屋に入るのではなく、囲いを越えて入ろうとする者はみな盗賊だとおっしゃいました。救済の門とは、イエス・キリストのことです(ヨハネ 10)。

聖書に、入り口は青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布でできていたとあるのは、神が旧約と新約の真理のみことばによってイエス・キリストが神の御子としてこの世に来られ、ヨハネからバプテスマを授けられ、十字架上で死なれ、死者の中からよみがえられ、救世主となられたことを明確に示しておられるのです。このように青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布の奥義を見出すことができます。神は、イエス・キリストが人間をこの世の罪の裁きからお救いくださるために来られた神の御子であり、人類救済を旧約と新約のみことばによって成就なさった救い主であると人間が信じるようにしてくださったことを信じるのです。

幕屋の庭の入り口がなぜ青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布で作られていたか、わかっていなければなりません。青い糸には、どのような意味があるのでしょう?紫の糸と緋の糸、それに、撚り糸で織った亜麻布には、どんな意味があるのでしょう?神のご計画を知ると、青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布のみわざはみな、神の人類救済のご計画と永遠のいのちの真理であり、そのために、罪の赦しの信仰によって人間は御国に入ることができるということもまたわかるのです。

青色・紫色・緋色の撚り糸を知り信じるというのは、イエスがバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになり、十字架上で血を流された理由、救世主とは誰か、旧約のいけにえの制度の奥義、新約の水と御霊の福音についてよく知っているということです。つまり、幕屋の庭の入り口に示された真理は、永遠に救われる真理を心から求めるすべての信者にとって肝要なものなのです。

幕屋についてよく知っている人が大勢いるように思われるでしょうが、実際はそうではありません。人々は、実際には幕屋の庭の入り口に織り込まれた青色・紫色・緋色の撚り糸の意味するところを何も知らないのです。青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布の奥義は理解しにくいので、大勢の人が学び、信じたいと願っています。しかしながら、この奥義は誰にでも理解できるものではないために、自分の考えに基づいて不正確に解釈していまう人が多いのです。実際、大勢の宗教指導者がこの幕屋の庭の門について好き勝手に誤った解釈をし、誤解し、自分たちの目的にかなうように利用しているだけなのです。しかし、神はもはやこうした嘘つきたちにキリスト教徒が欺かれ続けることを許されません。そこで、幕屋の庭の入り口に用いられた青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布の真理の意味を明確に説明なさり、人類をすべての罪から救われます。

ヨハネの手紙第一第 5 章 6-8 節には、次のようにあります。「このイエス・キリストは、水と血とによって来られた方です。ただ水によってだけでなく、水と血とによって来られたのです。そして、あかしをする方は御霊です。御霊は真理だからです。あかしするものが三つあります。御霊と水と血です。この三つが一つとなるのです。」この部分は、主がこの世に人間の肉の形で来られ、バプテスマによって人類の罪を被られ、血を流されて人類を救われたと明確に告げています。幕屋の庭の入り口が青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布によって作られていたのは、このためです。

第一に、青い糸は何を示しているでしょう?これは、この世に来られ、ヨハネからバプテスマを受けられて世の罪を被られ、実際に罪人の救世主となられたイエスについての真理の一部を示しています。実際、ヨルダン川でバプテスマのヨハネからお受けになったイエスのバプテスマが世の罪をすべてただ一度で被られたものであることを示しているのです。イエスは実際に全人類の代表者であるバプテスマのヨハネからバプテスマを授けられて世の罪をすべて負われました。こうして全人類の罪がキリストの頭に移されたのですから、これを信じる者は心に罪がありません。

第二に、幕屋の庭の入り口に織り込まれた紫の糸は、実際は何を意味しているのでしょう?これは、イエスが本物の王の王であられることを告げています。イエスは、実際、被造物ではなく創造主であられ、また、この世に来られた救世主なのです。救世主はすでに人間の肉の形でこの世に来られました。そして、イエスはヨハネから受けられたバプテスマによって世の罪をすべて被られ、犠牲としての死とよみがえりとによって、救世主を認め、恐れ、信じる民を罪とその裁きのすべてからお救いになりました。

イエスは、実は絶対神であられ、また絶対的な救世主なのです。イエスは絶対的な救い主です。イエスはバプテスマによって世の罪をすべて被られたので、十字架上で血を流して死なれ、死からよみがえられ、人類の罪をすべてきよめてくださったばかりではなく、身代わりとなって人類の罪の裁きをもお受けになったのです。

第三に、緋の糸はイエスが十字架上で流された血を示し、信じる者にキリストが新たないのちをくださったことを意味します。緋の糸の真理は、イエス・キリストがヨハネから授けられたバプテスマによって世の罪を負われて人類の罪の裁きを受けられたばかりではなく、罪に対して死んだ者にいのちを与える信仰をお与えになって、信じる者に新たないのちをくださったことを告げています。イエスのバプテスマと流された血とを信じる者に、イエスはほんとうに新たないのちをくださいました。

では、撚り糸で織った亜麻布には、どのような意味があるのでしょう?新約によって神は、旧約に記された救済の約束を全うなさったことを明らかになさっています。そして、新約でイエスがバプテスマで世の罪を被られ、十字架上で人類の罪のために裁かれたとき、神が契約のみことばによってイスラエル人に約束なさった救済は成就されました。

ヤーウェ神は、イザヤ書第 1 章 18 節で「『さあ、来たれ。論じ合おう。』と主は仰せられる。『たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。』」とおっしゃいました。また。幕屋でどのようにいけにえをささげるかを規定している旧約のいけにえの制度は──それによると、イスラエル人は手を置いていけにえの子羊の上に罪を移したのですが──神がイスラエル人と私たちになさった約束でした。これは、将来、神の子羊によって毎日の罪・年毎の罪からすべての人をお救いになるという約束を神が明かしておられるのです。

これはまた、やがて来る救世主の約束の印でもありました。そこで、新約の時代、イエス・キリストが旧約の方法に従ってバプテスマを受けられ、ただ一度で世の罪を全部負われましたが、これによって神の契約が成就されたのです。約束のみことばをお与えくださった神は、約束のとおりにすべてを実行なさることを示されました。イエスのお受けになったバプテスマは、契約の神がすべての契約を守られるということを明らかにしています。

 

水と血と御霊によって来られたイエス・キリスト

イエスはなぜヨハネからバプテスマをお受けになったのでしょう。人類の罪をすべて被られ、身代わりとして罪の裁きをお受けになるためです。人類全員の罪をすべて消し、真の救い主となられるために、イエスはバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられ、十字架に行かれ、血を流して死なれました。そうなさることによって人類の罪をすべて洗い流されたばかりではなく、身代わりとして罪の罰をすべて受けられ、そうして、永遠の救い主になられました。人間の罪はみな、ヨハネからバプテスマを授けられたときにイエスの上に移されました。そして、イエスは世の罪を十字架まで運ばれました。キリストがバプテスマによって人類の罪をすべて負われていたために、また世の罪を十字架まで運ばれたために、十字架につけられ、血を流され、身代わりとして死ぬことがおできだったのです。

イザヤ書第 53 章 5 節には、「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼のうち傷によって、私たちはいやされた」とあります。主のバプテスマによって、人間が共通の祖先アダムから受け継いだ原罪と、生涯に犯す行ないによる罪がみな、その上に移されました。そして、そうした罪すべてのために主は裁かれたのです。このように水と血によって来られ、主は人類の罪を消されました(ヨハネI 5:5-8)。

では、人類の罪をすべて負って消してくださった、この救い主でありまた救世主でもあられるイエス・キリストとは、誰でしょう?創世記第 1 章 1 節には「初めに、神が天と地を創造した」とあります。みことばによって宇宙を創造したこの強力な神とは、誰でしょう?罪人の救世主、みなさんや私を世の罪のすべてからお救いくださるためにバプテスマの水によって来られた方、世の罪全部の罰として十字架上で血を流された救い主にほかなりません。水と血と御霊によって、イエスは人類を罪と裁きのすべてから救ってくださいました。主は、人類の罪を被り身代わりとして裁かれるために来られた救い主です。

実際、イエス・キリストは神の御子であられ、ご自身神であられます。救世主は、実際は神なのですから。「イエス」という名は、「民を罪から救う救い主」という意味です(マタイ 1:21)。それに対して、「キリスト」、ギリシャ語の「Basileus」は、「王の王」という意味です。イエスは全宇宙を造られた創造主、すべての絶対的支配者、罪人の救い主、サタンを裁く王の王です。

この絶対神は、実際にご自分の姿に似せて人間を造られました。被造物である人間が弱さのために罪に陥り、滅びに定められたとき、この王の王は罪から救うことを約束なさり、この約束を実行なさるために来られました。人間を神の完全な罪のない民となさるために、主が水と血と御霊によって来られたのです。

創造主であられる救世主が人類の罪をすべて消されるためにこの世に人間の肉の形で来られ、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられ、人類の罪をすべて被られました。そして十字架上で死なれ、身代わりとして人類の罪の罰をお受けになりました。イエスはほんとうに救世主であられるのですから、また、救い主でいのちの主であられるのですから、主を信じることによって人間は新たな永遠のいのちを得ることができるのです。ですから、救世主はほんとうに神となられました。幕屋の入り口が青色・紫色・緋色の撚り糸で織られていたのは、このためです。これが人類を罪とその裁きのすべてから救った水と御霊の奥義だからです。

主がほんとうに罪から救ってくださったということは、曖昧なことではありません。主は、救済を曖昧に約束はなさいませんでした。救済をいいかげんには行なわれませんでした。また、神が実際に水と血によって人類を救われたという確固とした真理以外のことを恣意的に信じる者の信仰を、主はお認めになることができません。ですから、主は名前だけの信者におっしゃいました。「わたしに向かって、『主よ。主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。」(マタイ 7:21)

にせ教師は、ほんとうにイエスの名によって人々が御霊を受けるようにし、主の名によって悪魔を祓い、主の名によって多くの奇跡を行なったと主張します。しかし、マタイの福音書第 7 章 23 節で神は、そうした人々に「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け」とおっしゃるとしています。このことから、キリスト教徒の中には、実際にまだ罪深い、裁きの日に罪を裁かれて地獄に投げ込まれる者が大勢いることがわかります。

実際、「イエスは救い主です。イエスはすべての罪から疑問の余地なくお救いくださいました」とはっきり告白するキリスト教徒が大勢います。しかし、そのように断言していても、実際には救世主がほんとうにバプテスマによって罪を被られ、十字架上で血を流されてそうした罪の罰を受けられたということを学ぼうともしないのです。そうした人々はみな、数多くある世俗的宗教の一つを信じているかのように表面的にしか信じておらず、罪深いままで神の前に行きます。

ですから、主が「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」とおっしゃったように真理に基づいては信じていないために、主に認められていないのです。人がイエスを信じようと信じまいと、心に罪のある者は神の御国に入ることができません。そこは罪が存在しない場所なのですから、彼らには入る資格がありません。ですから、そうした人々は、必ず、この世にいる間に青色・紫色・緋色の撚り糸の真理を信じて天国に入る資格を得ていなければならないのです。幕屋の庭の入り口を青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布で織るようになさったのは、救世主のみこころです。罪のために地獄に向かっている人々は、これを信じなければなりません。

その人たちは真理を知らないのですから、また、イエスを自分で考えた誤った知識で信じているのですから、まだ罪深いままなのです。そうした人々にまだ罪があるのは、幕屋の素材に隠された真理に基づいて信じるのではなく、自分なりに救い主を考え出し、そうした考えに基づいて自分なりの救済の教義を作り、救済は神に悔い改めの祈りをささげ、漸進的聖化を達成しようとする自分の努力によって得られるのだと信じているためです。

イエスを救い主だと信じていると言いながら、実際はイエスのバプテスマと血とを信じていない人がこの世には大勢います。実際に青色・紫色・緋色の撚り糸を救済と信じる代わりに、イエスの血だけを信じることで、たとえ罪深いままであっても聖なる神の御国に入ることができると考えている人々が大勢います。

 

旧約と新約の一致

神は、イザヤ書第 34 章 16 節で、みことばにはすべて対応する部分があるとおっしゃっています。つまり、神のみことばはみな照応しているのです。神は、旧約のみことばが新約のみことばに対応しているかどうかを見よとおっしゃっています。旧約に記されていることには、新約に対応する部分があります。たとえば、旧約でイスラエル人がいけにえの子羊の上に手を置いて罪を移しているのに対して、新約ではイエス・キリストが世の罪をすべて被られるためにバプテスマを受けられ、それによって罪をすべて自分の上に移されるようになさいました。

水と血によって、イエスはいけにえのささげ物、罪人の救い主としてこの世に来られました。バプテスマによって世の罪を被っておられなければ、主が十字架上で死なれる必要はまったくなかったでしょう。主は明らかに、青色・紫色・緋色の撚り糸によって人類の罪をすべて消されました。これもまた、神がみことばによって約束なさっていました。それを、主はこのみことばによって来られ、人類の緋色の罪を洗って雪のように白くなさったのです。

実際、この真理を知る前、人間は間違いなく尽きることのない罪に満ち満ちていました。ですから、人間には、神の前で誇るべきことは何もありません。神の前で誇れることが何もないばかりではなく、神の前で自信をもっていられることもないのです。つまり、人間が賢いふりさえもできるようにするものは何もありません。神の前で、人間はただ「はいおっしゃるとおりです。」と言えるだけです。

神が「あなたは不正の種で、地獄に行く定めにあります」とおっしゃったなら、

「はい。そのとおりです。どうか救ってください。」

「私はこのように、水と血と御霊によって救いました。」

「はい、主よ。信じています。」

人間はいつでも「はい」としか言えません。神の前に立ち、「私はこれこれのことをしました。このように立派に教会に仕えました。ほんとうに心からイエスを信じました。ほかの誰も想像もつかないほどに頑強に信仰を守りました」と言うことはできません。

主はどのようにして実際に人類の罪をすべて消されたのでしょう?主は、青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布によって、旧約と新約のみことばによって消されたことを示されています。旧約では、青色・紫色・緋色の撚り糸で人類の罪を消され、新約ではイエスがこの世に人間の肉の形で来られ、ヨハネから受けられたバプテスマによって人類の罪をすべて被られ、人類の罪と裁きをすべてをお受けになって十字架上で血を流されて、救い主となられました。

バプテスマを授けられることによって、主は世の罪をただ一度で全部被られました(マタイ 3:15)。人間がこの世で犯す罪はみな、イエスの肩の上に移されました。こうしてバプテスマによって世の罪をすべて負われた後、罪を十字架まで運ばれ、磔刑に処され、血を流され、十字架上で死なれ、死者の中からよみがえられ、そうして人類の罪をほんとうに消されたのです。イエス・キリストは、こうして完全な救い主となられました。

人類の受けた神の義は、この世に水と血と御霊によって来られたイエス・キリストを信じて得られた義です。これは神から受けた救済というものであり、自分の力で成し遂げたことではありません。人間には、神の前で自慢できることは何もありません。

実際、聖徒は完全な救い主となられたイエス・キリストを信じてすべての罪から救われているのです。つまり、罪人だった私たちは、イエスのバプテスマと私たちのために流された血を信じて罪の赦しを受けたのです。救済の 70% 程度がイエスの救済のみわざによるものであり、残り 30% が罪を犯さないようにする自分の努力によるのであったら、徐々に聖化されたでしょう。救済が少しずつ成し遂げられるものであるのなら、文字通り一晩中起きて祈り、毎日悔い改めの祈りをして過ごし、地域のために働き、あるいは何でもできることをしていたことでしょう。

しかし、使徒パウロは、ローマ人への手紙で「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」(ローマ 7:24-8:1)と述べました。パウロのこの告白にあるように、私たちもまた、イエス・キリストを信じなければなりません。聖書は、イエス・キリストがこの死の体を完全にお救いくださったと告げています。では、誰が私たちを罪に定めることができるでしょう。誰ひとり、けっして罪に定めることはできません。イエス・キリストが、人間の不完全さに関わらず、すでに完全に救ってくださっているのです。

 

みなさんと私もまた、霊的パリサイ人であった

みなさんの中には、長い間イエスをほとんど知らずに信じてきた人がおいででしょう。つまり、水と御霊の福音に出会う前にすでにイエスを救い主と信じていたのです。私自身、新たに生まれることなく十年間キリスト教徒でいました。

初めてイエスを救い主と信じたとき、それはどちらかというと、新鮮な経験でした。この始まりがあまりに新鮮だったので、青色・紫色・緋色の撚り糸の真理のことを何も知らないまま、ただイエスを救い主だと信じるだけで無条件に救われるのだと思っていました。

初めてイエスを信じたとき、実際、心は喜びに満たされました。そこで、信仰を始めた当時はとてもうれしかったのですが、五年ほどしてから自分を見つめるようになり、犯した罪のためにずっと縛られていることに気づきました。まだ自由ではなかったのです。みなさんは、キリスト教徒としての最初の五年間に私が罪を犯したと思いますか、少しも犯さなかったと思いますか?私のことをご存じかどうかはわかりませんが、答えは明瞭です。もちろん、罪を犯しました。当時は真理を知らず、罪を犯すたびに苦しみ、苦しみから逃れるために、悔い改めの祈りをささげ、時には三日間断食さえしました。心の重荷が少し軽くなったと感じると、神をたたえることができました。「♪驚くばかりの恵みなりき ♪この身の汚れを知れる我に♪」 しかし、もちろん、その後でまた罪を犯してしまうのです。いたらぬところばかりで欠点だらけの人間なのですから、そんなことをする自分がいやでならなかったのですが、それでも毎日罪を犯すのです。一度たりとも罪の問題をすっかり解決することができませんでした。

そうした状況の中で、さらに五年が過ぎ、キリスト教徒になって十年ほどたったとき、突然、それまでの間にどれほどの罪を犯してきたかに思い至って愕然としました。そのような深刻な罪を毎日犯している自分を見て深く悲しみ、すっかり落胆してしまいました。律法の前に立ったとき、自分がほんとうはどんなに罪深いかを見出したのです。神の前に立つことがますます困難になっていきました。そして、正しい良心によってイエスをよく知り、信じているとは言うことができない罪人になってしまいました。ですから、キリスト教徒になって十年目に、自分でさえ罪深さを認めずにはいられませんでした。

イエスを信じ始めた当時は、自分はとても良いキリスト教徒だと思っていました。しかし、時が過ぎるにつれて、神の前に誇れることが何ひとつないのだということをますます深く感じるようになっていきました。私は思いました。「私はほんとうはパリサイ人なのだ。パリサイ人は聖書の中にだけいるのではなく、私自身が現代のパリサイ人なのだ。」

パリサイ人は、もったいぶった信心深さをひけらかす人々なのです。日曜ごとに教会へ行くときには聖書を小脇に抱え、キリスト教徒の仲間に大声で叫びます。「おはようございます。ハレルヤ。」そうして、礼拝中に誰かが十字架のことを言うのを聞くたびに泣いてしまいます。私自身もイエスの血を思って涙を流しました。それが真の礼拝をささげるということなのだと思っていました。しかし、この世に生きていると、誰もがやがて、次から次へと罪を犯している自分というものを知ります。そこで、再び悔い改めの祈りをささげ始めます。しばらくはすっきりした気分がするでしょうが、遅かれ早かれ、みな悔い改めの祈りをしきれなくなります。あまりにたくさん罪を犯してしまうのです。後には異言を話したり、幻を見たりする人々がいますが、それはみな無益です。どんなことをしようと、心の罪の問題を解決する役には立ちません。

やがて、自分が神の前では何の価値もない存在なのだと知り、また、罪のために地獄に行かなければならないのだと認識します。たとえそう悟るのに時間がかかったとしても、それでも、それは運のいいことなのです。実際、イエスを長く信じているほど、自分がいかにひどい罪人であったかに気づくようになるのです。しかし、パリサイ人は、これを隠すのが上手です。心の罪を隠して偽善者を演じるのがとても上手なので、周囲の人々から敬虔さをほめられます。

この世の信心家は互いを深く尊敬しています。しかし、どんなに他人から尊敬され、ほめられようと、神の前に立ったときには、ただの罪の塊にすぎません。

真理を知らない間は、私たちもまた、かつては悔い改めの祈りを熱心にささげていたのです。しかし、しばらくすると、うんざりし、「主よ、どうとでもなさりたいようになさってください。私は罪ばかり犯しています。また罪を犯しました。これについてお話しするのも恥ずかしいのです」と祈るようになります。ほんとうにあまりに恥ずかしいのですが、神は人間が罪を告白するのを喜ばれ、神の義によって罪を赦し、不正をみなきよめてくださると教えられているのですから、祈り続けるのです。「主よ、罪を犯しました。どうか赦してください。」それでも罪はまだ心に残っています。

神に祈ろうと頭を垂れるたびに、良心は罪を思い起こさせ、心を苛むのです。「あんなにたくさんの罪を犯して、よく神に祈れるものだな」と言って責めるのです。

そこで、しばらくすると、ほかに言うことがないので、ただ「主よ、主よ」と叫ぶことになります。そうして、ますます頻繁に山に登り、主の名を呼ばわることになるのです。人々の注意を引くことは恥ずかしいので、深夜、山に登り、そこにある洞窟に入り、主の名を叫びました。しかし、これもまた発作のようなもので、罪は心に残っているのです。

また、良心をなだめるために、もはや罪深くはないのだと自分に言い聞かせます。「神はとても慈悲深いのだから、罪を消してくださった。私は三日間断食して祈った。それに、そんなに罪を犯していないはずだ。慈悲深い神は赦してくれるんじゃないか。」

しかし、神の慈悲深さをたたえたとしても、ほんとうに自分を欺けるでしょうか。神の前で罪深いままだというのに、どうして自分の心を欺けるでしょう。けっしてできません。教会でどんなに高い指導的地位に上ろうと、どんなに他人からほめられようと、罪を犯し続けている限りは、けっして罪から自由になることはできず、結局は偽善者になってしまうのです。

心には罪深い欲求が次から次へと起こります。イエスの十字架上の血について何度も話し、十字架の血について考えるだけでぽろぽろと涙を流し、良きキリスト教徒であっても、それでも、完全な水と御霊の福音に出会うまでは罪深いままだったのです。キリスト教のしきたりに従って生活していても、それでも罪がありました。あれはパリサイ人の宗教でした。この世界には、こうした信仰をもつ人がまだ大勢おり、キリスト教社会にさえ、そのような人々がいるのです。

 

水と御霊の福音を信じて罪はすべて消えた

水と御霊の福音を知る前、この福音を信じる前、私たちはみな心に罪をもっていました。この青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布の真理を知る前、良心はいつも罪深く感じていました。正直なところ、人はみな神の前で罪深く、聖書には、「罪から来る報酬は死です」とあるのですから、みな罪のために地獄に行く定めにありました。そこで、罪のためにひどく苦しみました。神に罪を裁かれて肉体的にも精神的にも地獄に行く定めにあったのです。

私たちは数多くの人々をキリスト教に改宗させ、教えてきました。しかし、自分の良心をきよめることができないままに行なっていたのです。このことは、神の前で否定できません。神の前で、自分の心には罪があり、地獄に行く定めにあるのだと認識しました。

私にはまた、いつでも解決のできない疑問がありました。「主はなぜこの世に来られてバプテスマを受けられたのだろう。」イエスがバプテスマを受けられた理由を見出したいと思いました。なぜ、何のためにイエスはバプテスマを授けられなければならなかったのでしょう。自分のバプテスマはイエスへの信仰のしるしと理解することはできました。しかし、なぜイエスがバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになられたのかは、まったくわかりませんでした。なぜ主はバプテスマをお受けになったのでしょう。なぜ。

そこで、キリスト教社会の指導者の何人かに尋ねました。「牧師、質問があります。よろしいですか。」よろしいというので、尋ねました。「聖書のことなのです。新約でイエスがヨハネからバプテスマを受けられたことは、はっきりしています。でも、なぜバプテスマを受けられたのか、わかりません。なぜか、おわかりですか?」彼らは笑って、言いました。「そんなことも知らないのですか?日曜学校の子供たちだって知っていることですよ。聖書の原文や聖書辞典にも載っていることです。イエスは手本を示して私たちを導かれるために、モデルとして、それに、ご自分の謙虚さを示されるためにバプテスマを受けられたのではありませんか。」そこで、私は言いました。「でも、そんなに単純なことなら、ほんとうに日曜学校の子供だって知っているでしょう。私は原文と歴史的記録を調べましたが、バプテスマとは、そういうことではなかったのです。イエスがヨハネからバプテスマを受けたほんとうの理由があるのではないのですか?」

私は問い続けました。私はキリスト教徒になった直後から答えを探し始めました。問いへの答えを求めて何年もかけるしかありませんでした。この問題に関する研究書をすべて調べました。そのように探しても、尋ねても、何から何まで調査しても、イエスのバプテスマを明瞭に確定的に説明したものはどこにも見つかりませんでした。主が青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布という形で表わされた水と御霊の福音のことを啓示してくださるまで、最終的な答えを見出そうと、苦闘しました。

イエスのバプテスマという未解決の問題に没頭していたとき、たまたま、マタイの福音書第 3 章 13-17 節を読んだのです。「さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。『私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。』ところが、イエスは答えて言われた。『今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。』そこで、ヨハネは承知した。こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天からこう告げる声が聞こえた。『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。』」

このみことばを読んで、私はついに知りました。「ああ、これなのか。バプテスマをお受けになった理由は、イエスが旧約のいけにえのささげ物だったからなのだ。これが、青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布に隠された救済の真理なのだ。」

バプテスマのヨハネは、実は、旧約で神が遣わすと約束なさったエリヤだったのです。マラキ書第 4 章 5 節で神は、裁きの日の前にエリヤを遣わそうとおっしゃいました。また、マタイの福音書第 11 章 14 節では、神が遣わそうと約束なさったエリヤとは、バプテスマのヨハネにほかならないとあります。エリヤについてはわかりましたが、イエスがバプテスマのヨハネからバプテスマを授けられなければならなかった理由はまだはっきりしませんでした。そこで、マタイの福音書第 3 章 13-17 節に戻り、あのくだりをもう一度読みました。「『今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。』……こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。……『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。』」疑問はすっかり解けました。「すべての正しいことを実行する」ために、主はバプテスマを受けられたのです。イエスは、ほんとうにバプテスマによって人類全員を救うという正しいみわざを実行なさったのです。

バプテスマは、旧約の幕屋のいけにえの制度にしたがっていけにえのささげ物の頭に手を置いた、手を置く儀式と同じものです。こうしたいけにえのささげ物を罪人が全焼のいけにえの祭壇にささげる際には、いけにえのささげ物の上に両手を置いて罪を告白し、罪を移しました。大祭司は、イスラエル人の罪をすべて告白し、それをイスラエル人と自分たちのためのいけにえのささげ物の上に移しました。そして、新約の時にイエスがバプテスマのヨハネからバプテスマを授けられる。これらはみな、同じものなのです。私はついに、イエスは世の罪をすべて負われ、すべての人の罪を消されるために、あのようにバプテスマ(手を置く儀式)を受けられたのだと知りました。

そこで、聖書の原文を調べました。調べてみると、「このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです」の部分は、ギリシャ語では 「Afe" a[rti, ou{tw" ga;rprevpon ejsti;n hJmi'n plhrw'sai pa'san dikaiosuvnhn」と書かれています。ここで、「このようにして」と「正しい」は、ギリシャ語では「hutos (ou{tw")」と「dikaiosune (dikaiosuvnhn)」になっています。前者は、「このように」、「適切に」、「この方法によってだけ」、「最もふさわしい」または「この方法によって」という意味です。後者は、「義、正義または神の認められる徳」という意味です。

これは、イエスが罪人を罪から救われたことを告げています。これは、イエスがバプテスマを授けられ、血を流されて神の義を全うなさったことを告げています。つまり、これは、バプテスマによって人類の罪をすべて負われたことを意味しているのです。こうして謎は解かれました。あれほど人々を混乱させ、惑わせていたものの真の意味がわかったのです。イエスはバプテスマによって人類の罪をすべて負われていたので、十字架に行かれ、人類の罪の罰としてそこで死なれたのです。これが、水と御霊の福音に見出される真理でした。

つまり、私たち新たに生まれた者は、イエスがヨハネからお受けになったバプテスマが人類救済に不可欠の要素であり、主はバプテスマによってただ一度で世の罪を被られたと知ったのです。同じ真理をみなさんも水と御霊の福音の中に見出してください。そうしてはじめて魂が軽くなるのです。

実際、イエスがヨハネからバプテスマをお受けになった日のことをけっして忘れるわけにはいきません。罪がみなイエスの上に移されたのだと知った日をけっして忘れることができません。この真理に気づいたときに心に起こった変化を聖徒はみな見てきました。湖面に広がる波のように、それは心に広がりました。闇を貫いて、まばゆい夜明けの光が内に入り、私たちは救済の真理を知ったのです。

 

イエスの受けられたバプテスマによって世の罪がその上に移された

マタイの福音書第 3 章 13-17 節を読んでから、長い間一言も発することができませんでした。私は実際は罪深いのですが、イエスはバプテスマをお受けになる時、「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです」とおっしゃいました。ですから、イエスが十字架上で血を流されなければならなかった理由(緋の糸)は、バプテスマ(青い糸)にあったのです。このイエスは、神であられます(紫の糸)。旧約と新約のみことば(撚り糸で織った亜麻布)によって、主は救済の真理を告げておられます。つまり、イエスは人類の罪をすべて負われたのです。

では、私たちにはまだ罪がありますか、ありませんか?バプテスマのヨハネからバプテスマを授けられたときに、すべての人の罪がイエスの上に移されました。私たちの罪もまた、イエスの上に移されたのではありませんか? 世の罪があの時にイエスの上に移されましたか?まだ母の胎内にいたときにもっていた罪は世の罪ですか、違いますか? ほんの一歳のときに犯した罪は、どうでしょう。あれもまた、世の罪ではありませんか? 幼児期に犯した罪は、どうでしょう。あれもまた世の罪に含まれるのではありませんか?

正しく立脚していることを確かめるために、これらの問いを自らに問わなければなりません。このように、信仰とは、神のみことばに関して正しい基礎の上に立っているかどうかを確認するということなのです。十代のときに犯した罪が世の罪に含まれているように、幼児期に犯した罪もまた世の罪に含まれています。大人のときは言うまでもなく、人間が生涯に犯す罪はみな、世の罪です。そうした世の罪はみな、すでにイエスの上に移されています。そうではありませんか?もちろん、そうです。主は、私たちの罪ばかりではなく、人間一人一人の罪をみな被られたと記されてします。ですから、こう言えます。「罪はみんな、ほんとうにイエスの上に移されたのだ。では、まだ罪があるだろうか?いや、もう罪は何も残っていない。」

イエスが実際にヨハネからバプテスマを授けられために、バプテスマのヨハネは「見よ。世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ 1:29) とあかししたのです。イエスは、人類の初めから終わりまで、かつて生き、やがて生きる人間一人一人の罪を全部取り除かれました。人が全生涯に犯す罪を全部、すべての人の子供の罪までも、イエスはみな取り除かれました。この世界がどんなに長く続くにしろ、何千年、あるいは何十億年であろうと、主はバプテスマによって人々の罪を全部負われ、それを十字架まで運ばれ、磔刑に処され、そうして人類の身代わりとして罪の裁きをすべて受けられた──このことがわかったのです。

このためにイエスが死者の中からよみがえられ、救い主となられたのだと気づき、そう信じた時、疑問はすべて解けました。

イエスはお受けになったバプテスマと十字架上で血を流されることとによって、人類の罪を全部処理なさいました。聖書が幕屋の庭の入り口の青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布について語り、またヨハネの手紙第一第 5 章 4-6 節でイエスが水だけによって来られたのではなく、水と血によって来られたと告げているのは、このためです。ですから、「だから聖書は救い主イエスがバプテスマを受けられて神の義をすべて満たされたと告げているのか。これが真理なのだ。しかし、キリスト教指導者たちはみなこのことを知らないから、この真理を教えてくれなかったのだ」とわかります。

青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布の神の真理が、罪はないのだと告げてくれてはじめて、人は罪のない者となります。他人の魂の救済を承認することのできる人は誰もいません。他人からほめられても何の役にも立ちません。良いキリスト教徒だとか最高のキリスト教徒だとか人が言ったところで、それが罪からの救済になるでしょうか。他人からほめられることによってではなく、神のみことばが、キリストが青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布によって罪をすべて消されたと告げてはじめて、人は罪のない者になるのです。

みことばは、イエスが私の罪ばかりではなく、みなさんの罪までも消してくださったと告げています。このことから、救世主イエス・キリストが全人類の罪をすべて消されたので、ただ信じさえすれば、みな罪の赦しを受けることがわかるのです。こうして水と御霊によって罪の赦しを受けて、人は幕屋の庭への門をくぐるのです。

 

完全な信仰とは

幕屋の庭の門には、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を使った幕がかかっていました。主がこの世に来られてすべての罪から救ってくださったと信じる完全な信仰を誰もがもたなければなりません。主がこの世に人間の肉の形で誕生なさり、ヨハネからバプテスマを授けられ、十字架上で死なれ、死者の中からよみがえられ、そうして救い主となられたと信じるとき、人はみな神の子供になれます。聖徒は、行ないは欠陥だらけで、肉は無価値ですが、青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布を心で信じることによって、罪のない者になりました。ですから、義人になるということは、信仰によってのみ可能なのです。青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布という形で示された救済を信じて、聖徒は神の義に包まれました。つまり、水と御霊の福音を信じて神の子供になったのです。

完全には理解できない方がおられるでしょう。それなら、ただこの本を読み続け、教会においでください。これまで幕屋の一般的な点だけを見てきましたが、詳細な説明を読み始めれば、幕屋について完全に理解することができるでしょう。とても簡単なことですから、子供でも容易に理解できます。

イエスについての大雑把な知識に基づいた信仰をもっているのなら、どんなに長くイエスを信じようと、千年だろうと一万年だろうと、けっして罪から救われることがないでしょう。そうした人は毎日罪をもっています。そうして毎日泣きます。罪の呪いから逃れることができないからです。物事がうまくいき始めると、神が助けてくださっているのだと考えます。しかし、物事がうまくいかないようになると、「これは、十一献金をしなかったからかな。それとも、こないだの日曜、教会に行かなかったからだろうか。私は罪を犯し、ちゃんと神に仕えなかった。きっと、そのせいで神の罰を受けているんだ」と考えます。こうして、彼らは律法に縛られて死にます。聖書には、「律法は怒りをもたらす」(ローマ 4:15)とあるのですから。

完全な信仰をもつためには、青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布によって来られたイエス・キリストの四つのみわざを正しく知って信じなければなりません。イエス・キリストのくださった真理を知るのです。四段階の真理を明確に理解し、信じてはじめて、神の前に完全な信仰をもつことができ、また、神のほんとうに完全な子供になることができるのです。聖徒はイエスのこの四つのみわざを信じて罪のない者となったので、罪の束縛を逃れようともがくことなしに、いつでも罪のない義人でいます。聖徒は意志の力をはたらかせることなしでも罪のない信仰の民になっています。そして、良い行ないや努力なしでも罪がみな雪のように白く洗い流された、神の子供なのです。

両親に見守られて遊び、安らかに眠っている幼子のように、この真理を信じて、聖徒は父なる神の慈悲深い目の前で、ほんとうに心に平安を得ています。たとえ行ないは不完全であっても、ただ主のみわざを信じさえすればよいのです。不完全であればあるほど、主の愛が深く感じられるのです。

まだ青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布を信じる信仰をもてずに、罪の赦しを受けようとしてやかましく叫んでいるのですか?この真理を知っている者は、罪の赦しを受けるために叫ぶ必要はありません。ただ静かに信じています。信仰によって神の子供になった者は、水と血と御霊によって来られたイエス・キリストを真に知っている者です。彼らは表面的な行ないによっては神に仕えません。彼らは、まず愛と信仰によって仕えるのです。信じているのですから、神はお聞き届けになり、共に歩いてくださいます。私たちが信じているので、神は助けてくださいます。聖徒は、バプテスマと血とに信仰の基を置いてイエスを信じているために神のしもべとなり、正しいみわざに仕えているのです。

よろしいですか、神は完全な罪の赦しの救済をお与えくださるために幕屋の庭の救済の門を青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布で作られたのです。聖書は、イエスが水と血と御霊によって来られ、旧約の幕屋の庭の入り口の青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布によって人類を罪から救われたと告げています。主は罪からの救済の門となられました。私たちは、実際にすべての罪から救ってくださった救世主の四つのみわざを深く信じなければなりません。

 

イエスがヨハネから受けられたバプテスマは幕屋の庭の入り口の青い糸の実体

もう一度、マタイの福音書第 3 章 13-17 節を読みましょう。「さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。『私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。』ところが、イエスは答えて言われた。『今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。』そこで、ヨハネは承知した。こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天からこう告げる声が聞こえた。『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。』」イエスがバプテスマを受けられたこの時、処女マリヤから生まれて三十年が過ぎていました。「さて」ということばは、バプテスマのヨハネとイエスの二人が三十歳になった時を示しています。

イエスより六ヶ月早く生まれたバプテスマのヨハネは、この世の人類の代表者で、人々に悔い改めのバプテスマを授けていました(マタイ 3:11、11:11)。イエスは三十歳になったとき、ヨルダン川でバプテスマを授けてていたヨハネのところにバプテスマを受けに行かれました。しかし、バプテスマのヨハネは、イエスにそうさせまいとして、言いました。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」すると、イエスがおっしゃいました。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知し、イエスはバプテスマを授けられました。聖書はまた、イエスがこうしてバプテスマを受けられた時、天が開いて声が「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」と言ったと記録しています。

マタイの福音書第 3 章 15 節、ここでイエスは、ヨハネからバプテスマを受けられた理由を語っておられます。これは、幕屋の庭の青い糸を指し示しています。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」イエスがヨハネから受けられたバプテスマの目的は、幕屋の青色・紫色・緋色の撚り糸という形で表わされたみわざによって罪人の不正をお赦しになることにありました。そのようにすべての正しいことを実行するのは、二人にとってふさわしいことだったのです。

イエス・キリストがバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられてすべての人の罪を負われることは、神の正しい愛であり、すべての罪人救済というみわざの成就でした。ヨハネの福音書第 3 章 16 節には、「神は、実にそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」とあります。イエスは人類が罪のために滅ぼされることのないよう、世の罪から救われるためにバプテスマを受けられました。そうして二人がすべての正しいことを実行することがふさわしいことだったので、イエスがヨハネからバプテスマを受けられて神の義をすべて満たされて人類の罪を全部被られたのです。

「神の義をすべて」とは、何でしょう? イエスがバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられたのは、父なる神の義をすべて満たすためだったというのです。

ここで、神の義すべてとは、具体的にどういうことなのでしょう。「すべての正しいこと」とは、イエス・キリストがヨハネからバプテスマを受けられ、人類の罪をすべて被られることを指しています。バプテスマによって、イエスは世の罪をただ一度で負われました。誕生の目的が世の罪を一度で消されることだったのですから、イエスがヨハネから受けられたバプテスマは、明らかに正しいのです。神の義をすべて満たすということは、世の罪をすべて消す正しいみわざを全うすること、つまり、救済を完了することを意味したのです。

イエスのバプテスマは、神が人類を罪からお救いになるために不可欠の方法でした。神は旧約で、罪を消すために人類の代表としてバプテスマのヨハネを立て、御子イエス・キリストにバプテスマを授けさせ、そうして人類の罪をすべて御子の上に移すことを定められました。これこそが神の慈悲のみわざなのです。神は人類をとても愛されたので、イエスにヨハネからバプテスマを受けさせて、人類を子供となさり、罪を消す正しいみわざを完了なさったのです。イエスがバプテスマを授けられた後に水から上がられたとき、神が「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」とおっしゃったのは、このためです。つまり、父なる神は、「バプテスマによってわたしの息子があなたたちの罪をすべて負ったのです」とおっしゃったのです。

別の言い方をすれば、イエス・キリストは、この世に来られ、最もふさわしい方法、ヨハネからバプテスマを受けるという方法で人類の罪をただ一度で被られ、そうして人類の罪を消すためのいけにえのささげ物となられたのです。

神の御子が人類のためにバプテスマを受けられたので、また、こうして人類の罪を被られたので、イエスは負われた罪を十字架まで運ばれ、磔刑に処され、尊い血を流され、そうして全人類の救い主となられたのです。つまり、人類の罪のためにバプテスマを受けられ、犠牲となって十字架上で血を流され、死者の中からよみがえられて、イエスは信じる者を救われたのです。よみがえられて救済のみわざを完了なさった後、今は神の右手の座に着いておられ、時が来れば必ず再臨されます。これが水と御霊の福音であり、救済の核心なのです。

幕屋の庭の門について、出エジプト記第 27 章 16 節には、「庭の門には、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を使った長さ二十キュビトの刺繍した幕」と記されています。ですから、幕屋の庭の入り口には、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を使った幕がかかっていました。このことから、救済の賜物を信じて、人は天の御国に入るということがわかります。

幕屋の庭の入り口の幕に使われた青い糸は、人類の罪がみな、イエスがこの世に来られてバプテスマをお受けになった時にその上に移されたことを示してます。

紫の糸は、人類の罪のためにバプテスマを受けられたイエス・キリストが本質において全宇宙とその中のすべてのものを創られた創造主、みなさんと私の主であられることを示しています。紫は王の色(ヨハネ 19:2-3)ですから、このことから、イエス・キリストが王の王、すべての主であられることがわかります。「キリスト」という語は、「油注がれた者」という意味です。かつては王と祭司・預言者だけが油注がれました。ですから、イエス・キリストは人間の肉の形でこの世に来られましたが、実体は王の王であられるのです。つまり、イエスは全宇宙を創られた主、創造主であられます。イエスは全能の神であられ、また、父なる神のひとり子です。

幕屋の庭の門の幕に用いられた緋の糸は、この王の王がこの世に人間の肉の形で来られ、バプテスマによって人類の罪を被られ、磔刑に処されて十字架上で血を流されたことを示しています。イエス・キリストは、バプテスマを受けられ、尊い血を流され、人類の犠牲となられ、身代わりとなって人類の罪の報いを受けられました。緋の糸は、イエス・キリストの血の犠牲を示しています。

最後に、撚り糸で織った亜麻布は、旧約と新約の神の精緻なみことばを示してます。聖書は、旧約と新約のみことばによって人類救済について語っています。旧約で、神は罪人の救い主として来られると約束なさり、新約では、約束なさったように、神であられるイエス・キリストが実際にこの世に来られ、バプテスマを受けられ、十字架上で血を流されました。すべては人類の罪のいけにえとなられるために。

青い糸によって、神はイエス・キリストが人類を罪から救うためにこの世に来られ、バプテスマで罪を被られることを示され、紫の糸によって、バプテスマを受けられた方がほんとうは神であられることを示されました。そして、緋の糸によって神は、救い主としてこの世に来られ、バプテスマを受けられ、世の罪を十字架に運ばれ、尊い血を流されてみなさんや私を救われたことを示されたのです。

それに対して、この救済が神が旧約で約束なさったみことばによって来たことは、撚り糸で織った亜麻布によって表わされています。幕屋の庭の門の幕が青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布で作られていたのは、このためです。幕屋の庭の入り口を見ると、この幕は、神がどのようにして人類を罪から救ってご自分の民となさったかを明確に示しています。幕屋の庭の門の幕に用いられた青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布の霊的意味を信じましょう。

幕屋の庭の門については、聖書は最初に青い糸を上げています。通常は、紫、青、緋の糸の順番で考えますが、ほんとうは、聖書では青、紫、緋の順になっているのです。このことから、青い糸の重要さがわかります。イエス・キリストはほんとうに救い主としてこの世に来られましたが、ヨハネからバプテスマを授けられなければ、人間の罪がきよめられることはなかったでしょう。イエスが父なる神のみこころに従って世の罪から人類をお救いになるためにヨハネからバプテスマを受けられ、磔刑に処されたのは、このためです。

イエスはすべてを創られた宇宙の主であられ、また、神です。イエスは人間がこの世に生まれるようになさり、新たないのちをくださり、人間の生を支配する神であられます。イエスが人類を罪からお救いくださるためには、人類の代表からバプテスマを授けられ、そうして人類の罪を全部負われなければなりませんでした。つまり、ヨハネからバプテスマをお受けになることによって、イエス・キリストは真の救い主となられたのです。

人類を罪から救われるためにイエス・キリストはこの世に来られ、人類の罪をすべて被られるためにバプテスマをお受けになりました。最初にバプテスマがなければ、キリストが十字架につけられることは、けっしてなかったでしょう。幕屋の庭の入り口が、イエス・キリストがどのようにして人類を救われたか、つまり救済の具体的な方法を示しているのは、このためです。

幕屋の庭の入り口の幕は、イエス・キリストがこの世に来られ、ヨハネから受けられたバプテスマによって人類の罪をすべて被られ、十字架につけられたこと、つまり、イエスが人類の罪を処理なさることを告げているのです。イエスがバプテスマを授けられたとき、天が開き、神が「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」とおっしゃいました。イエス・キリストは救世主で救い主であられますが、また神の御子、みことばによって全宇宙を創られた創造主の神でもあられます。聖なる神として、イエスは真の救い主となられるためにバプテスマを受けて人類の罪をすべて負うことがおできでした。

全宇宙を創り、支配なさるイエス・キリストは、罪からの救済を明確に示されました。イエス・キリストが人類の罪を消すためにこの世に来られ、バプテスマによって罪をすべて被られ、十字架上で死なれたために、みなさんと私はほんとうに救われているのです。イエス・キリストは人間の生と死を司り、全宇宙を創られ、祖先と全人類をこの地上にもたらされた創造主です。イエスこそが青色・紫色・緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布の実体なのです。

神ご自身が、罪人のいけにえのささげ物としてこの世に来られたのです。人類を救われたイエスは、この神、全能の慈悲の神です。イエス・キリストは、バプテスマによって人類の罪をすべて被られたので神の義をすべて全うすることがおできになったのです。また、世の罪を十字架まで運ばれ、磔刑に処され、尊い血を流されたのも、このためです。幕屋の庭の入り口に示されているように、イエス・キリストは人類の罪をすべて消されるためにいけにえのささげ物となられました。

幕屋の庭の入り口だけではなく、聖所の入り口と至聖所の入り口、さらには神の家の覆いにまで青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布が用いられたは、このためです。イエス・キリストがみなさんのためにバプテスマを受けられたので、みなさんと私はそれを信じて罪を洗われているのです。イエスはすべての正しいことを実行なさるためにバプテスマを受けられました。この正しいことは、バプテスマですべての人の罪を負われることによって成就されました。ですから、人は自分の罪もまたその時にイエスの上に移されたと認め、信じればよいのです。

しかしながら、恣意的に、勝手に主を信じているキリスト教徒が実に大勢います。彼らはあまりに強情なので、自分なりの不法な信仰を捨てることをせず、最初から神に敵対しています。神がお与えくださった救済の方法にしたがって神を信じなければなりません。イエスは、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハネ14:6)とおっしゃいました。主は、「わたしが道です。わたしがみなさんを天国に導く道です。私は羊飼い、道、真理です。まことにわたしはあなたたちを救ったいのちなのです」とおっしゃいます。人類を罪からお救いくださって、イエス・キリストは新たないのちの主となられました。

 

イエスを信じるとき、どのように理解し、信じるべきか

主がこの世に来られ、救ってくださった方法を正確に信じることによってのみ、人はすべての罪から救われます。「信仰」という言葉には、「頼る」、「すがる」、「託す」という意味が含まれています。親は、高齢になって自分だけで生活していくのが困難になると、よく子供を頼ります。同様に、人間が神にすべてを託して生きるのは、ただ自分の力では罪を消すことができないからです。罪を犯すまいとしても、それでもいつも罪を犯してしまうのです。自分の力では罪から解放されることができないから神を信じ、主が人類のためにしてくださったことを信じて、救い主イエス・キリストに頼るのです。

イエスを信じて救済を求めるときに、まずどのような信仰が正しい信仰であるかを知っていなければならないのは、このためです。二千年以上前に、みなさんや私を──実際、この世のすべての人間を──罪からお救いくださるためにイエスがこの世に来られました。三十歳になられると、バプテスマのヨハネからバプテスマを授けられ、そうして世の罪をすべて負われました。これを信じるのです。イエス・キリストは、バプテスマによって、ただみなさんと私の罪を負われただけではなく、世の罪全部、過去・現在・未来のあらゆる罪をすべて被られたと信じるのです。

しかしながら、世の罪全部だけではなく、自分たちの罪もまたみな、バプテスマの際にイエスの上に移されたということを無視して、十字架の血だけを信じている人が大勢います。幕屋の庭の入り口が青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布で作られているのを見ていながら、その人たちの誰ひとり、どの信仰が正しいかを見極めることができないのは、このためです。

イエス・キリストが人類をお救いくださるためにこの世に来られたとき、場当たり的な方法で救われたのではありません。バプテスマによって実際に人類の罪をすべて被られ、磔刑によって人類の罪の罰をすべて受けられたために、みなさんと私は完全に救われているのです。イエス・キリストは、このようにして全人類を救われたのです。主が「わたしのところに来る者を、わたしはけっして捨てません」(ヨハネ 6:37)とおっしゃったのは、このためです。

イエスを信じると言うとき、主の人格だけ、あるいは全能だけを信じているのではありません。そうではなくて、キリストが神であられるのに、この世に来られ、バプテスマによってみなさんと私の罪をすべて被られ、人類のために十字架上で犠牲になられたのだと信じて救われているのです。幕屋に表わされた救済を見ると、イエスを信じると言う際にもっているべき信仰がどのようなものであるかがはっきりとわかります。

今日、十字架の木だけを信じ、絶え間なく「? 罪重荷を除くはいのちかな ♪ 主の血は悪魔の業をこぼつ奇しき力なり ?」と唱え、夢中になって「主よ、信じています」と盲目的にに叫んでいる人々が大勢います。どんなに熱烈にイエスを信じようと、ただ十字架の血だけを信じていては、けっして罪から自由になることができません。

人間は、生涯を通してけっして罪から自由になることはできないのですから、絶対に救い主が必要です。そして、この救い主がほかならぬイエス・キリストなのです。みなさんと私をお救いくださるために来られたイエス・キリストは救い主、王の王、全宇宙とその中にあるすべてのものを造られた創造主、いのちの主です。主はこの世に来られ、バプテスマによって人類の罪をすべて被られ、十字架上で死なれて罪をきよめてくださいました。つまり、バプテスマと十字架によって人類の罪の罰をすべて受けられたイエス・キリストを救い主と信じて、聖徒は救われているのです。このことを幕屋の庭の入り口は明確に示しています。

 

宗教としてのみイエスを信じる人々

最近、人々は十字架の血を信じるだけで救われるものと主張しています。そうした空しい主張をすることは、宗教としての信仰を示しているだけなのです。そうした人々は、「神に悔い改めの祈りをささげると、御霊が心の中で『我が子よ、あなたの罪を赦します』とおっしゃいます。あの声を聞いて、どんなにありがたかったか」と言います。そのように信じることが信仰のあかしなのだとして、そういうことを言うのです。

しかし、救済は感情的な感覚として来るのではありません。そうではなくて、人は知識・感情・意思といった、人間の人格のあらゆる面において救われているのです。つまり、まず救い主の神がどのように救ってくださったかを知り、それからそれを信じて救われるのです。では、宗教はどうでしょう?宗教とは、何ですか? 宗教とは、人間の考えに基づいて人間の作り出した制度でしかありません。

ずっと以前、私の家では母が料理をしていました。私はその手伝いをして、何を手伝ったらいいの、と聞きながら台所の中をついてまわりました。聖書のヤコブのようなものです。母が食事を作って台所で忙しく働いているとき、私はダイニングルームでテーブルをセットしていました。母と私は、なかなかいい組み合わせだったのです。朝起きると火を焚き、食卓を整え、食事の後は箒で台所の床を掃きました。朝の作業は、この箒で終了しました。

これは、当時の韓国ではそう珍しい光景ではありませんでした。しかし、面白いことに、台所の床を清めたこの箒が突然神になって、一見、頼むものを何でもくれるようになったのです。つまり、人々はこの擦り切れた箒に祈っているのです。そうした奇妙なことが当時はたくさんあったのです。こればかりではなく、家族や近所になにかしら不幸なことが起こると、呪術を行なうために巫女を呼んだものです。当時の人々は汎神論的な信仰をもっていて、神はいたるところにいると考えていたので、床を掃くのに使った箒が神になり得たばかりではなく、先祖の名が記された位牌、山の巨石、実際、目に見える物は何でも神になり得たのです。

今日、時が流れるにつれて、人々は徐々にそうした無知状態から抜け出てきていますが、当時は、どんな物でも神になることはよくあったのです。そこで、当時一番はやっていた職業は呪術でした。巫女が儀式を行ないながら、わけのわからない呪文を唱えていたのを覚えています。私は巫女が呪文を唱えるのをまねして、「アブラカダブラ、アブラカダブラ、昼の光よ来い、昼の光よ来い、昼の光が来れば、すべては我が物。カボチャ樽が割れたのは、信心が足りないためなり。アブラカダブラ、アブラカダブラ」と言ったものです。もちろん、意味などわかりません。

そうした呪術が近所の家で行なわれると、村中の人が見物に集まったものです。儀式で最も印象的だったのは、わけもわからずに笑いながら、死んだ豚の頭に紙幣を詰めるところでした。何枚の札が詰められたかで巫女の呪文とその能力が判断されたものです。この呪術は、朝日がさすまで一晩中続きました。

かつての知り合いの中に、処女の霊がついていると主張する人がいました。その人は、自分には処女の霊がついているので、悪霊はみな追い払うことができると言っていました。処女の霊は他のものよりも強力だとみなされていたのです。彼は、もしもっと強力な悪霊に出会うことになったら、追い出せずに絞め殺されるだろうと言いました。しかし、それでも、普通の悪霊ならみな追い払えるとのことでした。彼は呪術師だったのです。

通常は他の人々と同じように過ごしていました。しかし、除霊を依頼されると、呪術師の衣に着替え、派手な儀式を行ないました。人々の心が迷信的な考えでいっぱいだと、神のみことばとはまったく関わりのない、そうした原始的な宗教に従い、ありとあらゆる狂気じみた恥ずべきことを信じるようになるのです。

つまり、人々は、自分たちで宗教を作り上げるのです。今申し上げた例のように、人々は自分たちで神々を作り出しました。人間にはそのような本能があるので、キリスト教徒であっても、イエスが自分たちのために十字架につけられたと聞くと、容易に自分の感情に突き動かされ、やみくもに、盲目的に信じるのです。そして、イエスが神の御子で全宇宙を造られた創造主なのですよと言われると、その考えが気に入り、またも無条件に信じます。また、「私が道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」と聞くのが好きで、またも、ほんとうに理解してもいないのに、無条件に信じます。神のみことばはどれも間違っていませんから、初めてみことばを聞いたときにも、彼らはただイエスが好きだと言います。

しかし、イエスは、ご自分への信仰をもつと言いながらまだ心に罪のある者たちを裁くために来られるのです。また、水と御霊の福音を信じる者たちをお連れになるためにも来られます。水と御霊の福音の真理を知らない人々の多くは、自分なりの考えにだけ基づいてイエスを信じ、やがて、宗教的生活を始めて十年ほどしてから、自分は神の律法に従って生きることのできない罪人なのだということに気づきます。

私も、かつてはイエスを恣意的に信じていました。いつでもたたえの歌を歌い、イエスに会ったことにただ大喜びしていたのです。しかし、イエスを知った後で律法を知り、律法を知って自分の罪がわかるようになりました。自分の罪を知って、罪には永遠の罰があることを知り、その結果、罪のことで苦しむようになりました。

罪の苦しみを解決するために、心から悔い改めの祈りをささげました。しかしながら、そうした信仰は、人々が恵みを受けようとして何にでも祈るのと同じような迷信的信仰だったのです。みことばに記された律法を知ってひどく悩むようになったので、悔い改めの祈りをささげなければならないと考えました。そうした悔い改めの祈りは、感情的に何らかの安らぎを与えてはくれました。しかし、まだ心に罪が残っていたのですから、魂がまだ罪の奴隷であることを知って、苦しみ続けました。

このようにして、罪に縛られていたためにイエスを信じ愛するようになったのではなく、イエスを信じたために自分の罪に気づくようになり、こうして罪に気づいてから苦しむようになったのです。「イエスを信じるのが早すぎたのだ」とまで考えて、あまりに若いうちにイエスを知り、信じるようになったことを後悔しました。それでも、イエスを信じることをただやめることはできませんでした。そこで、罪の束縛から逃れるために、悔い改めの祈りをささげたのですが、無駄でした。そうした祈りは、問題を根本的に解決するためにはほとんど役に立たなかったのです。

普通の人は、罪を犯していてもそれに気づきません。しかし、教会に行くようになると、律法について聞いて自身の罪に気がつきます。そうして、罪に囚われるのです。そこで、まず感情的な悔い改めの祈りをささげて罪の問題を解決しようとします。しかし、時が過ぎれば過ぎるほど、罪に囚われていること、それを赦されなければならないのだと認識します。

どんなに悔い改めの祈りをささげても、祈れば祈るほど、罪は消えるどころかいっそう明らかになり、それまで以上に意識するのです。この時点から、そうした人々の宗教生活は苦痛に満ちたものになり、苦しみ続けます。彼らは考えます。「初めて信じた時はあんなにすばらしいと思ったのに、なぜ五年も十年もした今になって、こんなにいやな気分になるのだろう。なぜ前よりひどい感じがするんだ。」初めて信じた時にはあれほど確かだった救済されているという感じがもうないのです。イエスを信じるようになってから罪深くなったものと考えて、ありとあらゆる教理を自分の信仰に付け加え、結局は信心家になってしまいます。

そうした人々は、イエスが青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布によって罪から救ってくださったという真理を知らないために、ついには単なる信心家になるのです。イエスを信じると言いながら、それでも悩みます。心に安らぎがないためです。そうした人々は、別の神に替えるという手段をとることもできません。そうしようとしても、神以外のものを信じることは偶像崇拝になると知っているからです。イエスだけが神の御子であり、主だけが神であり、主だけが救い主だとはっきり知っているので、別の神を信じることもできません。それでも、真理を知らないために苦しみの中で生き、いつでも罪に悩まされています。

青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布によって来られたイエス・キリストを知り、信じなければならないのは、このためです。信心家になってしまうキリスト教徒はまた、イエスが王の王であられ、十字架上で血を流されたこと、聖書のみことばが神のみことばであることも知っています。

しかしながら、彼らが知らないのは、イエスがバプテスマによって、彼らの罪だけではなく世の罪もまたすべて被られたことです。そのために、信仰しているとはいっても罪人として生きているのであり、また、みな罪人のための場所に行くことになるのです。そうしたキリスト教の信心家は、イエスが具体的にどのようにして自分たちの罪を処理してくださったかを知らないために、自分のそのときの感情にしたがって信じます。その結果、盲人が象の各部分に触れて何か知ろうとするように、現実が信じることと一致しません。そうした人々が自分の信仰のどこがいけないのかわからないのは、このためであり、また混乱してしまうのは、このためなのです。

 

青い糸の真理を信じなければ、どうなるのか

幕屋の庭の入り口から青い糸を除外してイエスを救い主と信じたなら、どうなるのでしょう。神が幕屋の庭の門の幕を青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布で作るようにお命じになったとき、もしモーセがイスラエル人に、紫と緋の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布だけで作るように言い、イスラエル人が実際にそのように作り上げていたなら、どうなっていたでしょう。神は、それを幕屋の入り口とお認めになったでしょうか。けっしてお認めにはならなかったでしょう。神はイスラエル人に、幕屋の入り口を四種類の糸で作るようにおっしゃったのですから、そのとおりに作られたのでなければ、けっして幕屋の入り口とされなかったでしょう。四種の糸の一つも取り残すことはできませんでした。

幕屋の庭の門は、青色・紫色・緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布で作られなければなりませんでした。神であられるイエスが救い主として人間の肉の形でこの世に来られ、世の罪をすべて被られ、十字架上で死なれ、よみがえられ、そうして人類の罪を雪のように白く洗われたのですから、このイエス・キリストを頼り、信じて聖徒は罪から救われているのです。幕屋の入り口に用いられた糸は、罪から救われるためにはどのようにイエスを信じるべきかを告げています。幕屋の入り口に示された真理を信じる人々は、みな罪から救われています。彼らはみな罪の赦しを受けて、雪のように白くなっています。イエス・キリストは、みなさんと私の罪を洗い流してくださり、雪のように白くしてくださいました。イエス・キリストはみなさんや私のほんとうの救い主となられました。

これが、幕屋の入り口に示された真理なのです。しかし、紫と緋の糸と撚り糸で織った亜麻布を信じると言いながら、青い糸の意味するところを信じない人が大勢います。

この本の予備調査のために、キリスト教書店に行ったことがあります。そこには、著名なキリスト教指導者の著した幕屋についての本がありました。しかしながら、幕屋の庭の入り口について触れもしない人もいれば、次のような事実無根の主張をしている人もいるのです。「幕屋の庭の青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布は、何を告げているのでしょう。青は空の色です。ですから、これはイエスが神でああられることを告げているのです。緋はイエスがこの世に来られた時に十字架上で流された尊い血を指します。紫は、イエスが王であられることを告げています。」

こうした解釈は、まったくの見当はずれです。イエスが神であられることを告げているのは、紫の糸です。神はすでに紫の糸でイエスが王の王、主の主であることを告げておられるのに、どうして青い糸で繰り返されるでしょう。このような著者は青い糸の奥義を知らないために、正しく解釈することができなかったのです。

彼らは十字架の血だけを知っているので、緋の糸を重視します。そうした人々の幕屋の門の絵を見ると、白と赤が多いのです。青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布の四つの色が幕屋の庭の門にはっきり示されていなければならないのに、その人たちの絵は、緋と白の糸に紫がほんの少しで、青い糸はまったく使われていません。

青い糸の真理を知ることもなく、このような受け入れがたい信仰のことを語る人が大勢います。今の時代には、イエスが人類の罪をお受けになるためにバプテスマによってただ一度で世の罪を被られたと気づくこともなく、イエスの十字架の血だけを信じさえすれば救われると主張する人々が大勢います。そうした人の心には、いつでも罪があります。今日、明日、そしてその先──実際、死ぬまで──そうした人々は罪から解放されることなく苦しみ続けるのです。ですから、「神の前で私は死ぬまで罪人です」と告白する人々がいます。しかし、イエスを信じていながら死ぬまで罪人のままでいるというのは、ほんとうに正しい信仰でしょうか。

ではイエスを信じるようになってから、いつ義人になるのでしょう。天国はイエスのバプテスマと血とを信じて罪がなくなった者のための場所なのではありませんか。天国は義人のための場所です。罪人のための場所ではありません。罪から完全に救われて罪がなくなった義人だけが天国に入れます。

イエスを信じていながら死ぬまで罪人であると言う人々は、青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布のことを知らないために、何度信仰を告白しても救済に確信がもてません。イエスを信じ、祈っていても、祈りが応えられるとは信じていません。イエスを信じてはいるのですが、そうした人々は、イエスに助けられも愛されもしません。祈りをささげている間は愛を感じるでしょうが、信心がたゆむと、神に見捨てられ、憎まれているように感じます。ささげ物をし、祈っている時だけ、神が愛し、恵んでくださっていると感じます。そして、ささげ物をささげることができないと、神はもはや愛していてはくださらないと感じるのです。困難な時が来ると、なぜそのような苦労をしなければならないのかわからず、神が自分を憎んでおられるのだと思います。そして、ついには自分の惨めさを神のせいにして、信じるのをやめます。

結局、そうした人々と神の間の信頼は壊れます。その人たちの信仰は、自分の考えと感情の産物なのですから、表面的で、不安定で、誤っています。神の前に行くときには、自分の感情は捨てるのです。神の前に行くときには、罪のために地獄に行く定めにあった人間をイエス・キリストがバプテスマと血とによってお救いくださったと明確に信じる信仰だけをもって行くのです。神のみことばと律法のみことばの前で、水と御霊の福音の前で、そして自身の良心においても、人間は例外なく地獄に定められることを免れない存在なのだと認識していなければなりません。自分がいかに罪深い存在であるか、神がどのようにして罪から救ってくださったかを知り、学び、信じてはじめて、イエス・キリストがすでに真の救い主となっておられるのだと知ることができるのです。

 

真の信仰によってのみ、人は救済の賜物を受ける

ですから、善行をしたからではなく、青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布を信じて罪から救われているのだと認識していなければなりません。また、人類を罪からお救いくださるためにイエス・キリストがこの四つの真理の内に来られたのだと知り、信じるのです。主は旧約で、救世主として来られると約束なさいました。そして、その約束どおりに実際にこの世に来られ、バプテスマによって私たちの罪と人類全員の罪をただ一度で被られました。それから、そうした世の罪を十字架まで運ばれ、磔刑に処され、尊い血を流され、「完了した」(ヨハネ 19:30)とおっしゃって死なれました。三日後に死者の中からよみがえられ、以後四十日間あかしされてから、再び戻ることを約束なさって、神の御座の右手の座に昇られました。これを信じるのです。

「わたしは、青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布のわざによって、完全にあなたたちを救いました。そして、この救済の真理を信じる人々を連れに戻りましょう。また、その人たちに神の子供となる資格を与えます。この真理を心で信じる人々には、わたしはその罪を雪のように白く洗い、御霊を与え、子供にします。」主は、こうおっしゃったのです。

このみことばを信じるのです。主はすでにこれらの約束を全うされ、実際にこの世に生きている者の間ではたらいておられます。主はこの真理を信じる者を守られ、彼らのためにあかしなさいます。このようにして、聖徒は主のバプテスマと血とのみわざによって救われ、神の恵みと保護の中にあって義人として生きているのです。主が救ってくださったために、聖徒は信じて罪から救われています。

この幕屋についての本が全世界の言語に翻訳されたときには、世界中の人々がこの真理への信仰によって罪から救われることでしょう。罪の赦しはイエスの血によってのみ来るのだと言う人々は、もはやそのような主張ができなくなって、自分たちがいかに誤っていたかを知るでしょう。もはや誤ったことにしがみついてそれが救済だと言うことはできなくなるでしょう。イエスの血だけを信じて救われるのだとは、けっして言えません。

幕屋の庭の入り口には、水と御霊の福音、青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布の明確なみことばが示されています。これは旧約で約束され、予言された神のみことばです。それを神は新約でバプテスマと磔刑とによって実現なさり、すべての罪からの救済を成就されたので、救済の賜物を喜びと感謝をもって信じるなら、人はみな永遠の罪の赦しを受けることができるのです。

これは、ほんとうに易しく、完全なみことばです。しかしこれはまた、みことばへの純粋の信仰がなければ、全宇宙についての知識をもってしても理解することのできない真理でもあります。みことばをありのままに信じなければいけないのは、このためです。これはほんとうに尊い真理なのですから、知らずにいることはできません。人はみな、必ず水と御霊の福音を信じなければなりません。幕屋に用いられた青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布という形で表わされた真理を価なく容易にお教えくださって、神は、人間が信仰をもってこの尊い救済の賜物を受けることができるようにしてくださいました。

みなさんも私も、この真理を信じる者はみな、神の真理の愛に感謝をささげています。しかし、青色・紫色・緋色の撚り糸の真理を知らないまま人々に教え、誤った道へと導いている人が大勢います。その人たちにもこの真理を広めたいのです。真理を知らないために苦しんでいる人々に、その人たちが罪から解放されて救済の戸口をくぐるよう、私たちはこの水と御霊の真理の福音を説きます。幕屋の真理を説くと、これを信じる人々は救われ、信じない人々は罪のために滅ぼされます。イエスを信じることにしたのなら、青色・紫色・緋色の撚り糸の真理を知って信じるのです。

最初から青色・紫色・緋色の撚り糸の真理を知っている人は誰もいません。神は、「そして、あながたがは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」(ヨハネ8:-32)とおっしゃいました。真理とは何でしょう?真理とは、真の福音(エペソ 1:13)、つまり、青色・紫色・緋色の撚り糸という形で示された水と御霊の福音です。青色・紫色・緋色の撚り糸を正しく知り、信じることが真理への正しい信仰です。

神はなぜ、真理が人を自由にするとおっしゃったのでしょう?みなさんは、どのようにして罪から救われましたか? 青色・紫色・緋色の撚り糸を信じることによって、すべての罪から救われたばかりではなく、御霊が心に宿られたのではありませんか?心と良心から罪はすっかり消えていますか? ほんとうに信じていて、心の底から神が父であると言えますか、神は、罪のない者だけを子供となさるのですから、幕屋の庭の門の青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布を知り、信じる者の信仰だけを認められます。罪人は神の子供ではありません。神がお与えくださった唯一の福音、水と御霊の福音を信じる新たに生まれた者だけが父なる神の子供です。

聖徒は、この世に生きている間には数多くの困難や苦労・苦しみを経験するでしょうが、神が内に宿っておられるので、幸福です。不完全な存在ですが、神の義を信じ、全世界に青色・紫色・緋色の撚り糸の福音、神の義を与える福音を宣べ広めて、幸いな生を生きています。

何よりも、青色・紫色・緋色の撚り糸を神に感謝します。初めてイエスを信じたとき、どんなに敬虔に信じても心は罪深いままで、私はそのためにひどく苦しみました。どんなに心からイエスを信じていると言っても、罪は明らかに心の中にありました。人間が神の目に罪深いかどうかは、その人の良心を見ればわかります。つまり、良心に罪が記されているままの人は、まだ罪の赦しを受けることができていないのです。良心にごくわずかでも罪があるなら、それは、罪の赦しを受けていない証拠です。

しかしながら、罪の問題を、ごく些細なものであってもすべて解決する真理を知ることができずにいたとき、そのためにありとあらゆる疑問が起こったとき、神は青色・紫色・緋色の撚り糸のみことばを示してくださいました。

そのみことばは、先に読んだマタイの福音書にありました。マタイの福音書第 3 章 13-17 節を読んでいて、「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです」(マタイ 3:15)という部分に出会いました。イエスがバプテスマを受けられ、水から出られたとき、バプテスマによってすべての罪が消されたので、神がご自分の義をあかしされたのであり、正しいことがすべて実行されたのだと知り、信じました。

イエス・キリストがヨハネからバプテスマを授けられたとき、私の罪がみな明らかにイエスの上に移され、十字架上でただ一度ですべて処理されたのです。イエスがバプテスマをお受けになった理由を知り、信じたその瞬間、罪はみなすぐさま切り取られたので、解決されないでいた罪の問題と疑問は解かれました。この罪の赦しの真理を、水と御霊の福音、神の真のみことばを知り、信じて罪の赦しを受けたことを心からありがたく思いました。

主は記されたみことばによって来られ、私は水と御霊のみことばを心で信じることによって罪の赦しを受けました。以後私は、旧約と新約のみことばによって、青色・紫色・緋色の撚り糸の福音を大勢の人々に説いてきました。そして、今も、この救済の真理と奥義を広め続けています。真の福音は、人間の考えの産物とか、教義や感情的体験ではありません。

青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布によって、主は人類の罪を消されました。青色・紫色・緋色の撚り糸によって、全世界の人はみな救済の真理を明確に知り、この真理が水と御霊の福音にほかならないことに気づくでしょう。これはまた、この終わりの時に絶対に必要な真理です。無数の人々がこの真理を信じるようになるでしょう。

今の時代は、人々の義がみなばらばらになり、邪悪さがはびこっている時代です。周囲の環境が荒れると、人々は本来内に備わっていたあらゆる邪悪さを表に出します。それなのに、主は青色・紫色・緋色の撚り糸の福音によってみなさんや私を罪から救ってくださいました。この恵みは、なんとありがたく、尊いのでしょう。喜びと幸福に満ちているので、この明らかな救済を主に感謝いたします。

世界は今、神が予言なさった終わりの時に向かい、すでにその時代に入っています。このような時、神に献身的に仕える人がますます少なくなり、信者の信仰さえも弱まるとき、水と御霊の真理以外の何かに身をささげようとするのなら、心に傷をもつことになるだけです。神を信じる際に、青色・紫色・緋色の撚り糸の福音を信じないのなら、失望するだけです。何ら意味深いことを心に残しませんし、これといった果実を実らせることもないためです。

幕屋の四色の福音の真理──青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布──は明確な真理ですから、これは、この暗い世の唯一最高の福音です。幕屋に表わされた真理を知り、信じて罪の赦しを受けて生きていることは、このうえない恵み、最高の贈り物、すばらしい幸いです。

幕屋の庭の門の青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布を知り、信じる者は、偽物にではなく、真理に仕えているのですから、その心には永遠に大きな喜びがあります。

みなさんもまた、幕屋の庭の入り口に示されたこの真理を知り、信じていますか?知り、信じなさい。



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