救済・聖霊・幕屋・ヨハネの黙示録についての聖書学習のための無料キリスト教図書

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 重要な主題に関する Paul C. Jong 師による説教

 

全焼のいけにえの祭壇に示された信仰


< 出エジプト記 27:1-8>
  祭壇をアカシヤ材で作る。その祭壇は、長さ五キュビト、幅五キュビトの四角形でなければならない。高さは三キュビトとする。その四隅の上に角を作る。その角は祭壇の一部でなければならない。青銅をその祭壇にかぶせる。灰を取るつぼ、十能、鉢、肉刺し、火皿を作る。祭壇の用具はみな、青銅で作らなければならない。祭壇のために、青銅の網細工の格子を作り、その網の上の四隅に、青銅の環を四個作る。その網を下方、祭壇の出張りの下に取り付ける。これを祭壇の高さの半ばに達するようにする。祭壇のために、棒を、アカシヤ材の棒を作り、それらに青銅をかぶせる。それらの棒は環に通されなければならない。祭壇がかつがれるとき、棒は祭壇の両側にある。祭壇は中をからにして板で作らなければならない。

 


全焼のいけにえの祭壇に示された信仰についてお話ししましょう。イスラエル人が日々の生活の中で守るべき神の六百十三条の律法と戒めのどれかを破ったとき、自分の罪を知った時には、定められたいけにえの制度にしたがって、傷のないいけにえを神にささげました。そうしたささげ物をささげた場所が全焼のいけにえの祭壇です。つまり、イスラエル人は、傷のないいけにえの動物の頭に両手を置き、喉を切って血を流してその血を全焼のいけにえの祭壇の角につけ、残りを地に注ぎ、いけにえの肉を祭壇の上で焼いて罪の赦しを受けていたのです。

 

全焼のいけにえの祭壇の霊的意味

縦横 2.25m、高さ 1.35m の全焼のいけにえの祭壇は、アカシア材で作り、青銅をかぶせてありました。イスラエル人は、全焼のいけにえの祭壇を見るといつでも、自分が裁きを受ける定めにあって、滅びを避けることができない存在であることを認識しました。そして、いけにえの動物が殺されたように、自分もまた罪のために死ななければならないということを知りました。しかし、救世主がこの世に来られ、自分たちの罪のためのいけにえのささげ物のように呪われて殺され、罪を消してくださるとも信じていました。

全焼のいけにえの祭壇は、救い主イエス・キリストの影です。手を置く儀式と血を流すことによって、傷のない動物がいけにえとされたように、イエス・キリストが神の御子としてこの世に来られ、人類の罪全部の罰を受けられました。旧約のいけにえのささげ物が、手を置く儀式によって罪を全部負わされ、血を流さなければならなかったように、イエスはヨハネからバプテスマを授けられたときに世の罪をすべて被られ、罪の罰として十字架上で血を流されたのです。

このように、全焼のいけにえの祭壇は、イエス・キリストがバプテスマによって人類の罪を全部被られ、十字架上で死なれ、死者の中からよみがえられ、そうして人類をお救いくださったことを示しているのです。

 

罪を赦されるために、イスラエル人は全焼のいけにえの祭壇でいけにえのささげ物をささげた

レビ記第 4 章を見ると、油注がれた祭司、イスラエル人の会衆、支配者または平民の誰かが罪を犯したときにはいつでも、いけにえのささげ物を神のもとに連れて行き、その頭に両手を置き、殺し、血を取り、それを全焼のいけにえの祭壇に持って行って神にささげて罪の赦しを受けています。

実際、全焼のいけにえの祭壇は、イスラエル人が毎日罪のためのささげ物をささげた場所でした。祭壇では絶えることなくいけにえがささげられました。罪を始末したいと思うイスラエル人は、傷のない動物を用意し、それをいけにえのささげ物として全焼のいけにえの祭壇で神にささげました。罪人は、両手をいけにえの動物の頭に置いて罪をすべて移し、罪の罰として、その喉を切って血を流しました。すると、祭司はいけにえのささげ物の血を全焼のいけにえの祭壇の角につけ、肉と脂肪を祭壇の上で焼きました。イスラエル人は、このようにして罪の赦しを受けたのです。

罪を犯したのが誰であれ、イスラエル人の指導者・大祭司・祭司・全会衆、あるいは庶民の誰かであろうと、雄牛・山羊・雄羊といったいけにえの動物を連れて行き、それをいけにえのささげ物として神にささげて罪の赦しを受けなければなりませんでした。

罪人またはその代理人は、両手をいけにえの頭の上に置き、殺し、血を全焼のいけにえの祭壇の角につけ、残りを地面に注ぎ、それからいけにえのささげ物の脂肪を焼いて罪を赦されました。ですから、大勢の人々が全焼のいけにえの祭壇にいけにえの動物を連れて来て、ささげ物の頭に両手を置き、血を取り、それを祭司に渡したのです。

全焼のいけにえの祭壇にささげ物をささげる場合には、いけにえのささげ物は傷のないものでなければなりませんでした。罪人が神にささげ物をささげる場合、必ず傷のない動物を連れて来なければなりませんでした。この傷のないいけにえのささげ物の頭に両手を置いてはじめて、罪がその上に移されたのです。いけにえのささげ物をささげる際には、どの一つの手順もおろそかにできませんでした。

通常、罪を犯した人は、いけにえの動物の頭に自分の両手を置かなければならなかったのですが、イスラエル人の全会衆が罪を犯したときには、代表である長老たちがいけにえのささげ物の上に手を置きました(レビ記 4:15)。もちろん、頭に手を置かれたいけにえの動物は、喉を切って殺され、血を取られました。そして、最後に祭壇の上で焼かれたのです。

肉と脂肪と木を焼く煙がいつも全焼のいけにえの祭壇の周囲に漂い、角と祭壇の下の地面は、いけにえの動物の血で濡れていました。全焼のいけにえの祭壇は、イスラエル人の罪を清めるためにいけにえのささげ物がささげられた、罪の赦しの場所です。

絶え間なく煙が立ち昇っていた、この全焼のいけにえの祭壇は、縦横 2.25m、高さは 1.35m ありました。その半ばあたりに青銅の網が置かれ、網の上の薪の火で焼かれるささげ物の煙が絶え間なく立ち上っていました。このようにささげ物が焼かれて神にささげられた場所が、全焼のいけにえの祭壇でした。

 

全焼のいけにえの祭壇の用具はみな青銅製

全焼のいけにえの祭壇で灰を取り除いて捨てるために用いられた道具は、みな青銅でできていました。全焼のいけにえの祭壇自体は青銅をかぶせたアカシア材で作られていたので、祭壇にも用具にもみな青銅が使われていたわけです。

全焼のいけにえの祭壇の青銅には、明確な霊的意味がありました。青銅は、神の前での罪の裁きを示しています。ですから、全焼のいけにえの祭壇は、罪深い者は必ず罪を裁かれるということをはっきりと示している場所なのです。神は必ず人間の罪を裁かれます。いけにえのささげ物が焼かれて罪人の身代わりとして裁かれた場所が全焼のいけにえの祭壇であり、祭壇自体とその用具は、みな青銅でできていました。こうしたことは、罪には必ず裁きがあるのだということを告げているのです。

祭壇は、人間は罪のために殺される定めにあるのだけれど、いけにえの動物を全焼のいけにえの祭壇に連れて来てそれを神にささげれば、罪を洗われて罪の赦しを受け、また生きることができるということを示しています。全焼のいけにえの祭壇でいけにえとされたささげ物はみな、イエス・キリストのバプテスマとその血とが信じる者の罪を赦したことを告げています。ですから、いけにえのささげ物を全焼のいけにえの祭壇でささげた、この信仰は、新約の時代にイエス・キリストのバプテスマと血への信仰として続いているのです。

イエス・キリストを救い主と信じる際には、イエスのバプテスマと血とを罪の赦しと信じる信仰を神にささげます。この信仰は、旧約の幕屋の庭の門の青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布でできた垂れ幕を掲げて入る信仰にさかのぼります。

 

全焼のいけにえの祭壇でささげられたささげ物はすべてイエス・キリストを象徴する

イエス・キリストは、この世に来られて、何をなさったでしょう?人間は罪深い存在です。神に対して罪を犯し、律法と戒めを破りました。しかし、そうした罪をすべて消し去るために、イエス・キリストがヨハネからバプテスマを授けられて世の罪を被られ、そうして十字架上で血を流されました。いけにえのささげ物が手を置く儀式によってイスラエル人の罪を被り、それから殺されて全焼のいけにえの祭壇で焼かれたように、イエス・キリストは傷のないいけにえのささげ物としてこの世に来られ、バプテスマを受けられたので、十字架上で犠牲として血を流され、人類に代わって死なれることが可能になったのです。両手両足を釘で打たれ、血を流されて、主は身代わりとして人類の罪すべての罰を受けられました。こうして、主は人類をすべての罪と罰から救ってくださったのです。

全焼のいけにえの祭壇の実体となられたイエス・キリストは、この世に来られて何をなさったのでしょう?イエス・キリストは、バプテスマによって人類の罪を全部被られ、十字架につけられて死なれ、死者の中からよみがえられました。主はこの世に来られ、人類の確かな救済を完了なさり、それから天の御国に昇られました。

 

毎日罪を犯さずにはいられない人間

全焼のいけにえの祭壇にはまた、「昇る」という意味もあります。実際のところ、みなさんも私も毎日罪を犯します。ですから、いつでも神にいけにえのささげ物をささげていなければなりません。そのために、罪の罰の煙が常に神へと立ち昇っています。いったい、罪を犯さずに完全に生きられるような日があるでしょうか。イスラエル人のいけにえのささげ物は、祭司がイスラエル人の無数の罪を赦すささげ物をささげて疲れ果て、もう続けられなくなるほどに、絶え間なく、次から次へとささげられました。イスラエル人は毎日律法を破って神に対して罪を犯したので、毎日いけにえのささげ物をささげなければなりませんでした。

イスラエル人の代表であるモーセは、神がイスラエル人にお与えになった六百十三条の律法と戒めを人々に伝えました。「今、もしあなたがたに、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」(出エジプト記 19:5-6)

すると、イスラエル人は「私たちは主が仰せられたことを、みな行ないます」(出エジプト記 19:8)と約束しました。ですから、イスラエル人は、モーセの前に現われ、彼を通して語られるこの神を真の神と認め、信じようとしました。また、この神に守られたいと思ったのです。神がおっしゃったことをすべて守り、神の特別の宝であるだけではなく、祭司の王国、神の聖なる国になろうとしました。すなわち、神がお与えになった戒めをすべて守ろうとしたのです。

神は、イスラエル人が罪を犯すことをご存じでしたか?もちろんです。神がモーセをシナイ山に召され、啓示によって幕屋をお見せになり、詳細に体裁を示され、それを建てるようお命じになって、指示どおりに建造させたのは、このためです。神はまた、幕屋でささげ物をささげるいけにえの制度も定められました。

イスラエル人が神に罪のためのささげ物をささげようとするときは、傷のない雄牛・羊・山羊・山鳩または鳩を連れて来て、少数の例外を除いて、いけにえのささげ物の頭に手を置いてその上に罪を移さなければなりませんでした。それから喉を切って血を取り、それを祭司に渡しました。祭司はその血を取り、全焼のいけにえの祭壇の角につけ、残りの血は地面に注ぎ、いけにえのささげ物を細かく切って祭壇に置き、焼いて神にささげました。

イスラエル人は、このようにして罪を赦されたのです。ささげ物を焼くときには、肉だけではなく内臓の脂肪もすべて切り取って焼かなければなりませんでした。このようにして、神はイスラエル人の罪を赦されたのです。

 

罪の赦しを受ける唯一の方法

自分を見ると、いつも罪を犯すことを免れないことがわかります。人間は、いつでも罪を犯して生きています。弱いから、あまりに多くの欠点があるから、貪欲すぎるから、あるいは権力がありすぎるからといった、さまざまな原因から無数の罪を犯します。イエスを救い主と信じる人々の間にも、罪を犯さない者は一人もいません。

このように、神を信じていても、いつでも罪を犯す人間がすべての罪を洗われて救われる唯一の方法は、イエス・キリストのバプテスマを信じることです。イエスは、水と御霊によって来られた神であられます(ヨハネI 5:6)。主は、青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布によって、全焼のいけにえの祭壇のいけにえのささげ物としてこの世に来られました。イエスがバプテスマをお受けになって人類の罪を被られ、十字架上で血を流されて罪の罰を受けられ、そこで死なれたというのに、どうして、信仰によって罪の赦しを受けずにいられるでしょう。救世主イエス・キリストの救済のおかげで、みなさんと私は信仰によってただ一度で罪の赦しを受けることができました。

実際、聖徒はいつでも罪を犯しているのですが、イエス・キリストがこの世に来られて成就なさったバプテスマと血の救済のおかげで、罪のすべてから解放されているのです。主は、バプテスマによって人類の罪を被られ、世の罪を十字架まで運ばれ、磔刑に処され、そうして、罪から完全にお救いくださいました。つまり、人類の罪のためにバプテスマを受けられ、犠牲となって十字架上で血を流され、死者の中からよみがえられて、これを信じる者を救われたのです。人間は罪のために滅ぼされることを免れなかったのですが、イエスが青色・紫色・緋色の撚り糸によってくださった救済と慈悲のおかげで、聖徒は信仰によって救われています。つまり、神が罪から救ってくださったのです。神を信じることによって、すべての罪から救われているのです。全焼のいけにえの祭壇は、このことを示しているのです。

幕屋ではすべてが美しいものと思っておられるでしょう。しかし、庭に入ったなら、予想外のぞっとするような光景に出会います。方形をした青銅製の全焼のいけにえの祭壇は、いつでも煙と炎を吐いていて、恐ろしいでしょう。青銅の祭壇は罪人を待っています。その地面は血に濡れ、誰にでもそこが罪を罰するための場所であることがわかります。ここは毎日いけにえのささげ物がささげられている場所なのですから、肉と木の焼ける臭いに包まれます

全焼のいけにえの祭壇の下は、血が川のように流れています。イスラエル人は罪を犯すと、いつでもいけにえの動物を幕屋に連れて来て、手を置いて罪をその上に移し、喉を切り、血を取ってそれを祭司に渡しました。祭司は血を全焼のいけにえの祭壇の角につけ、残りは地面に注ぎました。

それからささげ物を細かく切り、腎臓と脂肪とともに肉を網の上に置いて焼きました。血を取ると、最初はさらさらして赤く流れます。しかし、しばらくすると、凝固して、べとついてきます。実際に幕屋に行ったなら、この恐ろしい血を目にしたでしょう。

イスラエル人は、神の戒めを破るたびに、全焼のいけにえの祭壇で、自分が祭壇上のいけにえのささげ物と同じように死ぬべきなのだと認めたのです。なぜでしょうか。神が血によって契約を結ばれたためです。「あなたたちが律法に従うなら、わたしの民、祭司の王国となるが、守ることができなければ、いけにえのささげ物が殺されるように、死ぬことになるのだ。」神は、このように血の契約を結ばれたのです。ですから、イスラエル人は、罪を犯して律法に反することをしたなら血を流さなければなければならないということを既定の事実として受け入れました。

実際、イスラエル人だけではなく、神を信じる者はみな、罪のためにいけにえの血をささげなければならないのです。このことから、神の前に、どんな些細なものであれ、深刻なものであれ、罪を犯し、そのために心に罪のある者は誰でも、その結果として罪の罰に臨まなければならないことがわかります。裁きの律法、つまり、罪から来る報いは死であるということは、神の前のすべての者に適用されるのですが、実際に神の裁きを恐れて、いけにえの制度という形で示された神の救済の律法に身を任せようとする人は、そう多くいません。

全焼のいけにえの祭壇は、罪から来る報酬は死であると定めた律法にしたがって、イエス・キリストが幕屋の庭の門に用いられた青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布という形で示された救済により人類を罪と罰とから救ってくださったことを告げています。いつでも罪を犯し、罪のために罰されなければならない人間のために、キリストはこの世に人間の肉の形で来られ、ヨハネから授けられたバプテスマによって人類の罪をすべて被られ、そうして負われた世の罪を十字架まで運ばれ、磔刑に処され、血を流され、はなはだしい苦痛を受けられ、犠牲となられ、そうしてみなさんや私を罪のすべてから救ってくださったのです。

キリストがご自分の体をいけにえとなさり、そうして救ってくださったために、みなさんと私は信仰によってすべての罪から救われることができたのです。つまり、罪のために死を免れなかった者のために、イエス・キリストがバプテスマによって罪をすべて被られ、十字架につけられて死なれ、死者の中からよみがえられ、そうして、すべての罪と罰とからお救いくださったのです。

この全焼のいけにえの祭壇を見ると、この信仰をもつようになります。いけにえのささげ物がいつでも祭壇でささげられていたのを見ると、毎日の罪のために死ななければならなかったのは人間であったのに、神は人間をいけにえのささげ物とはなさらず、代わりに主がこの世に来られて人類救済を成就なさったのだということを知り、信じることができるのです。バプテスマをお受けになり、十字架上で血を流され、死者の中からよみがえられて、イエスは人類を救ってくださいました。

父なる神が、罪を犯したかどで滅ぼす代わりにイスラエル人のいけにえのささげ物を受け入れられて罪をすべて赦されたのは、このためです。いけにえの動物の頭に両手を置いて罪を移し、殺してその血と肉と脂肪をささげるようにおさせになって、神はイスラエル人の罪を赦されました。このいけにえのささげ物によって、神は私たちの罪をもすべて洗い流されました。これこそが神の慈悲と愛なのです。

 

神は、律法のみによっては人間を扱われない

神がみなさんや私、それにイスラエル人全員を律法にだけ基づいて裁かれるのなら、何人がこの世に生きていられるでしょう。神が律法だけで人間を測り、裁かれたなら、誰ひとり一日たりと生きてはいないでしょう。人間の大多数は、二十四時間どころか、ほんの数分で死ぬことでしょう。一時間で死ぬ者があれば、十時間生き延びる者もあるでしょう。しかし、そう大きな違いはありません。いずれにしろ、みな死ぬことになるのです。人々は、現在のように六十歳、七十歳、八十歳、さらにそれ以上に達するほど長く生きることはできないでしょう。たちまちのうちに誰もが滅ぼされます。

今朝起こったことを考えてごらんなさい。息子さんは一晩中遊んでいて、まだベッドから出ようとしません。奥さんが起こそうとしています。息子さんが、起こそうとした母親を怒鳴りつけ、奥さんは自分に向かって怒鳴ったといって息子さんを叱りつけ、言いあいが始まり、そうして、朝の戦いが始まります。結局、母と息子はいずれも神の前で罪を犯し、どちらも一日ももちません。二人とも罪のために滅ぼされるのですから。

しかし、神は律法だけによっては人間を扱われません「私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって、私たちに報いることもない」(詩篇 103:10)

正しい律法によって裁かれるどころか、神は代わりに、この正しい義を満たすいけにえのささげ物を用意なさいました。手をその上に置いていけにえのささげ物の上に罪を移すようにおさせになり、自分の命の代わりにこのささげ物の血をささげるようになさって、神は人間の命ではなく、いけにえのささげ物の命を受けられ、私たちのとイスラエル人のものを含む人類の罪をすべて赦され、すべてから救われ、再び生きるようになさいました。そして信じる者を罪から救われ、ご自分の民になさいました。神は、このようにしてイスラエル人を神の御国の祭司になさったのです。

ここでいけにえのささげ物とは、イエス・キリストのことにほかなりません。人類の罪のために、イエス・キリストがこのいけにえのささげ物となられ、罪の罰を受けようとしていた人類をお救いになるために、バプテスマをお受けになって罪をすべて被られ、十字架上で血を流して死なれました。人類を罪からお救いになるために、父なる神のみこころに従い、神のひとり子がこの世に人間の肉の形で来られ、バプテスマによっていけにえのささげ物となられたのです。ヨハネから受けられたバプテスマによって人類の罪を被られ、世の罪を十字架まで運ばれ、十字架につけられて血を流され、そうして犠牲となられ、死んでよみがえられて、イエスはみなさんや私を完全にお救いくださいました。

イエスが身代わりとなってバプテスマを授けられ、磔刑に処され、三日後に死者の中からよみがえられたという救済のみことばを聞くと、胸が躍ります。人間ではなく、罪のない方が、罪をその上に移したバプテスマを受けられたので、そして、そうして負われた罪の報いとして、あらゆる苦難と虐げ、痛み、苦しみ、そしてついには死を受けられました。このすべては本来は人間が受けるはずのものだったのです。キリストがこのようにして罪から救ってくださったのですから、この真理を信じないことほど邪悪なことはありません。

 

青色・紫色・緋色の撚り糸によって成就された救済を信じよ

イエス・キリストがバプテスマによって人類の罪とその罰を受けられたとき、身代わりとなって犠牲となられ、みなさんや私を罪から救ってくださったのですから、人はみな「主よ、ありがとうございます」と言うような信仰をもたなければなりません。感動的な愛の物語や実話その他、ほろりとさせるような話に容易に心動かされる人は大勢いますが、神の無条件の愛に対しては、心は氷のように冷ややかです。人類のためにバプテスマを受けられ、十字架上で死なれるほどに主の恵みは大きいというのに、この恵みを認めず、してくださったことすべてに感謝しない、ひどい人間がまだいるのです。

神の御子イエス・キリストは人間のためにこの世に来られ、いけにえのささげ物となられました。バプテスマによって人類の罪をすべて負われ、十字架上で身をささげて犠牲となられたのです。すべては人間のために、イエスはぶたれ、裸にされ、迫害され、苦難をお受けになりました。このようにして救ってくださったのです。この真理を信じて、人は神の子供になるのです。これは、最高の霊感、言葉では表わし尽くせない神のすばらしい恵みです。キリストがこのように救ってくださっているのに、これを聞いても信じも感謝もしない人々が大勢いるのを見ると、ほんとうに悲しくなります。

イエスがこの世に来られ、バプテスマを受けられ、いけにえとなられたために、みなさんと私はすべての罪から救われているのです。ですから、イザヤ書第 53 章 5 節には、「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼のうち傷によって、私たちはいやされた」とあります。

人間は生涯を通して罪を犯します。滅ぼされることを免れなかった人類をすべての罪・罰・滅び・呪いからお救いくださるために、主は天の御国の御座を去られ、この世まで来られたのです。ヨハネの前に頭を垂れてバプテスマをお受けになり、罪を十字架に運ばれ、はなはだしい苦しみを受けられ、地面に血を流され、よみがえられ、人類のためのいけにえのささげ物となられ、真の救済の神となられたのです。

みなさんは、このことについて考え、心深くに保っていますか?みことばを聞いたときには、イエス・キリストが人々を罪からお救いになるために、ほんとうに人間の肉の形でこの世に来られ、バプテスマを受けられ、十字架につけられて死なれ、よみがえられたと信じ、大いに励まされるべきなのです。人間はみな地獄に行く定めにあると知ったなら、この救済がいかにうれしくありがたいものか、心の底から感じられるのです。神を信じ、その民になりたいと思っていたのですが、そうする方法はまったくありませんでした。しかし、ほんとうに罪の赦しを求めていたみなさんと私に、主はキリストがこの世に来られ、バプテスマを受けられ、十字架上で死なれ、三日後に死者の中からよみがえられたという真理のみことばによってお会いくださったのです。

このイエスの犠牲がなければ、どうして救済を受けることができたでしょう。けっしてできなかったでしょう。イエスのバプテスマと十字架の血がなければ、幕屋に用いられた青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布の救済がなければ、救済は真夏の夜の夢に過ぎなかったでしょう。主の犠牲がなければ、けっして罪から自由になって罰を免れることはできず、地獄の永遠の炎の中に投げ込まれ、永久に苦しんだことでしょう。しかし、キリストは旧約のいけにえのささげ物のように、犠牲となって救ってくださいました。

 

新約で成就された青色・紫色・緋色の撚り糸の救済

読者のみなさん、幕屋に用いられた青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布の真理をけっして忘れないでください。撚り糸で織った亜麻布は、神が遠い昔、ご自分が救い主として来られると約束なさった旧約と新約のみことばです。そして約束どおりにイエス・キリストがこの世に来られました。青い糸は、キリストがこの世に来られ、バプテスマによって人類の罪をすべて被られたことを告げています。つまり、キリストは、人類を罪と罰とからお救いくださるという約束にしたがってバプテスマを受けられたのです。私たちの罪とこの世のすべての人の罪を被られるために、主はヨハネからバプテスマをお受けになり、ほんとうに世の罪を被られました。これをけっして忘れてはなりません。イエスがいけにえのささげ物として来られ、バプテスマによって人類の罪をすべて被られたことを忘れたなら、救済はあり得ないのです。

人間は、この世でたいていは尊大に生きています。人間というものは、他人が自慢するのを聞くのは我慢できないのに、自分のことを自慢するのは大好きなのです。しかし、自分のことではなく、他人のことを自慢するようになる時が来ます。そして、これは青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布によって救ってくださったことでイエスに感謝するようになったときなのです。つまり、私はイエスのことを誇るようになったのです。今私は、イエスがこの世に来られたこと、人類の罪を消すためにバプテスマを受けられて罪をすべて負われたこと、イエスはバプテスマを受けられたために十字架につけられることが可能であったこと、そして、このようにして主が救ってくださったということをできる限り吹聴します。私は必ずこの真理を誇り、説き、すべての栄光を神にささげます。

しかし、イエスを信じると言いながら、バプテスマに触れずにみことばを説いたり、主の名を借りて自分の自慢をする人が大勢います。かつて、月三百ドルしか生活費を使わないというにせ牧師がいました。それがすばらしい行ないであるかのように、一か月たったの三百ドルでやっていける、旅行する際にはお金をぜんぜん持って行かない、信者がすべて経費を払ってくれるから、と自慢していました。しかし、信者のお金だって、お金なのではありませんか?このお金は計算に入れないで、自分のお金だけが大事なのですか? このキリスト教指導者は、何か必要になったときにはいつでも祈りさえすればいいのだと言います。「神様、私の旅費をまかなってください。主よ、信じています。」この祈りをささげると、誰か聖徒が現れて、お金をたくさんくれるのだというのです。そうした人がそのようなことをまるで誇るべきことであるかのように話すのを聞いていて、何を連想しますか?

マタイの福音書第 3 章 13-17 節には、「さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。『私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。』ところが、イエスは答えて言われた。『今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。』そこで、ヨハネは承知した。こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。 また、天からこう告げる声が聞こえた。『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。』」とあります。 ここは、イエスがバプテスマを受けられた時に起こったことを描いています。イエスがヨルダン川でバプテスマのヨハネからバプテスマを授けられて水から出られると、天国の門が開き、父なる神の声が聞こえました。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」バプテスマのヨハネは、これに驚愕します。

バプテスマのヨハネは、ヨルダン川で二度驚いています。最初は、イエスが自分のところにバプテスマをお受けになりに来られた時。そして、イエスにバプテスマを授けた後で天国の門が開いて父なる神の声が「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」とおっしゃるのを聞いて、また驚きます。

イエスは、なぜバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになったのでしょう。このマタイの福音書第 3 章 15 節に答えがあります。第 15 節と 16 節を読みましょう。「ところが、イエスは答えて言われた。『今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。』そこで、ヨハネは承知した。こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。」

マタイの福音書第 3 章 15 節は、イエスがバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになった理由を告げています。イエスは天の御国の大祭司で神のひとり子であられましたが、それでもご自分の民、人類を罪からお救いになるためにこの世に来られました。つまり、イエスは、罪を被って人類の身代わりとして罪の報いを受けるいけにえのささげ物としてこの世に来られたのです。イエスがヨハネからバプテスマを受けようとなさったのは、このためです。

しかし、なぜイエスは特にバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになったのでしょう。バプテスマのヨハネは、女の腹から生まれた者の中で最も偉大な者として、人類の代表であったためです。マタイの福音書第 11 章 11 節には、「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした」とあります。バプテスマのヨハネは、旧約の時代にマラキ書で予言された神のしもべでした。「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。」(マラキ 4:5)バプテスマのヨハネこそが、神が遣わされると約束なさったエリヤでした。

神はなぜ、バプテスマのヨハネをエリヤと呼ばれたのでしょう。エリヤは、イスラエル人の心を神に戻した預言者でした。当時、イスラエル人はバールを神として拝んでいましたが、エリヤは、真の神はバールとヤーウェのどちらであるかをはっきりと示しました。彼は、信仰といけにえのささげ物によって、イスラエル人に真に生ける神が誰であるのかを示し、偶像を拝んでいた人々を真の神のもとに引き戻した預言者でした。旧約の終わりで神がエリヤを遣わそうと約束なさったのは、このためです。神の姿に似せて造られた人類は、みな偶像崇拝・悪魔崇拝の誤った道にいたために、神は人々を連れ戻すしもべを遣わそうとおっしゃいました。そうしてやがて来る者が、バプテスマのヨハネだったのです。

マタイの福音書第 11 章 13-14 節には、「ヨハネに至るまで、すべての預言者たちと律法とが預言をしたのです。あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです」とあります。きたるべきエリヤとは、バプテスマのヨハネにほかなりません。第 11・12 節には、「まことにあなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかし、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています」とあります。

ですから、ここで「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした」とあるのは、神が人類全員の代表としてバプテスマのヨハネを立てられたということなのです。神は、バプテスマのヨハネがイエス誕生より六か月早くこの世に生まれるようになさいました。神はヨハネを旧約の最後の預言者・大祭司として用意なさいました。ですから、この世の大祭司として、バプテスマのヨハネがイエス・キリストにバプテスマを授け、そうして人類の罪をすべてその上に移したのです。つまり、バプテスマのヨハネがイエスにバプテスマを授けたのは、世の罪をすべてその上に移すためだったのです。イエス・キリストがバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになったのは、バプテスマによって人類の罪をすべて被られるためでした。

マタイの福音書第 3 章 15 節で、イエスが「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです」とおっしゃったのは、このためです。イエスが世の罪をすべて受けるためにバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになってはじめて正しいことがすべて実行されるのですから、ふさわしいことだとおっしゃったのです。

 

主はこうして罪人を救われた

イエスがヨハネから受けられたこのバプテスマは、旧約の手を置く儀式と同じものです。つまり、これは、旧約の時代に罪をいけにえのささげ物の上に移すために全焼のいけにえの祭壇の前で手を置いた儀式なのです。この世に来られ、バプテスマを受けられてイエス・キリストは、手を置く儀式の約束、すなわち、罪人がいけにえのささげ物の頭に両手を置いて罪を移して日々のささげ物がささげられた時、また、第七の月の十日、贖いの日に大祭司が両手をいけにえのささげ物の頭の上に置いてイスラエル人の一年の罪をすべて移した時はいつでもされた約束を果たされました。

旧約の手を置く儀式のように、イエスはバプテスマによって世の罪をすべて受けられたので、そうした罪をすべて洗い流されたのであり、人類の罪をすべて被っておられたので、身代わりとして犠牲となられ、罪の罰を受けられたのです。イエス・キリストは、このようにして真の救済の神となられたのです。

ですから、人間は、罪のために確実な死と滅びに臨むことを免れないのだと心から認めなければなりません。これを知り、感じるのです。よろしいですか、救い主イエス・キリストがこの世に来られ、人類のためにいけにえとなられ、救ってくださったのです。つまり、救済のみわざ、バプテスマと磔刑とよみがえりとによって、イエス・キリストは人類の罪をすべて洗い流し、完全に罪から救ってくださったのです。また、イエスが救済の賜物、つまり、救済を成就なさり、この完全な救済を賜物としてくださったことを信じるのです。イエスは、人間がただ信じさえすれば、そしてただ受け入れさえすれば必ず救われるように、すべての正しいことを実行なさいました。

このことをお知らせになるために、幕屋の庭の門の幕は青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布で作られたのです。これはまた、幕屋の庭の門を入って最初に目にするのが全焼のいけにえの祭壇である理由でもあるのです。全焼のいけにえの祭壇でささげられたささげ物はまた、イエス・キリストが人類を救われた、救済の方法を予示するものでもありました。全焼のいけにえの祭壇でささげられたささげ物は、手を置く儀式によって罪人の咎を受け、罪人に代わって血を流して死ななければなりませんでした。次に、いけにえのささげ物の血を祭壇の角につけ、残りは地面にまかれました。それから、動物の肉と脂肪を全焼のいけにえの祭壇の上でささげました。このようにしていけにえのささげ物が神にささげられたのです。いけにえのささげ物のこうした手順はみな、イエス・キリストが救い主となられた方法とまったく同じです。つまり、いけにえのささげ物によって、神はイエス・キリストがこの世に来られ、この方法によって人類を救われることを示されたのです。

罪人は、必ず両手を全焼のいけにえの祭壇でささげるいけにえの動物の上に置かなければなりませんでした。幕屋が水と御霊の福音のことを告げているというのは、このためです。この世に来られ、イエス・キリストは人類の罪をすべて被られるためにバプテスマをお受けになりました。キリストが父なる神の前で世のすべての罪人のいけにえのささげ物となられるためにお受けになったバプテスマは、救済の型です。

幕屋によって人は今、明確な信仰をもつことができます。贖いの日に、いけにえのささげ物が大祭司に両手を置かれてイスラエル人の罪を受けたように、そして、人々の罪がすべてその上に移されたために(レビ記 16)身代わりとして犠牲になったように、イエス・キリストが人類の罪を被られ、人類の罪のためのいけにえのささげ物となられるためにこの世に来られ、実際にいけにえのささげ物となられ、そうして人類を罪と罰のすべてからお救いくださったのです。今はこの愛の救済を完全に信じることができます。この真理を信じて、神がくださったこの愛の救済に感謝し、贖いをするができるのです。

どんなに幕屋についてよく知っていようと、信じていないならば、知識はすべて無益です。ですから、イエス・キリストのバプテスマの重要性を信じ、認識していなければなりません。幕屋には三つの入り口がありましたが、どれも青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布で作られていました。人々は、無知から幕屋の入り口を違ったふうに表現するでしょう。

糸の順番では、まず用いられたのは青い糸、次に紫の糸、緋色の糸、そして撚り糸で織った亜麻布が使われました。旧約の時代、神はこのように作れとイスラエル人にお命じになったのですから、入り口をこのように作ってはじめて、本物の幕屋の入り口を正しく表現することができるのです。

入り口をこのように作らなければならなかったのには理由があります。イエス・キリストが人類の救い主として、処女マリアの体から人間の肉の形でこの世に来られたということはともかく、そもそも人類の罪を被られるためにバプテスマをお受けになることがなければ、真の救い主となられることはあり得ませんでした。バプテスマをお受けにならなければ、十字架につけられて死なれることもまた、おできになりませんでした。ですから、青い糸が最初に織り込まれなければならなかったのです。この青い糸の相対的な重要性が大事なのです。

 

誰を信じるべきか

ですから、罪から救ってくださったイエス・キリストを信じるのです。神の御子、救い主イエス・キリストがくださった救済を信じて、人はほんとうに新たに生まれることができるのです。神の御子を救済の神と信じ、主がこの世に来られ、人類のためにバプテスマをお受けになってただ一度で罪を被られ、十字架上で人間が受けるはずであった罰を受けられたと信じて、人はみな真の救済を受けることができるのです。

イエス・キリストは、バプテスマ以外のどの方法によっても人類の罪を被ることがおできにならなかったのですから、この方法によって罪を被られてはじめて十字架に行かれ、そこで血を流して死なれたのです。主が神の御子であられようと、また、この世に救い主として来られようと、バプテスマによって人類の罪を被っておられなければ、救済はけっしてこの世で得られなかったでしょう。

ですから、罪がすでに消されているのだと確信するためには、聖書にある証拠を詳細に確かめることが肝要なのです。

ここで、大きな負債があるものとしましょう。すると、誰かが「大丈夫、私が払っておきますよ。心配無用。これは私が処理します。」会うたびにその人は、言います。「心配するなと言ったでしょう。私が面倒見るからと言ったはずです。」さらに、この人はなぜ自分を信用しないのかと、ますます腹を立てたとしましょう。この人が毎日「全部私が返済します。任せなさい」と言ったところで、実際に借金を払っていないのなら、ほんとうにこの人を信じただけで借金から解放されるでしょうか。もちろん、されません。

どんなに自信たっぷりに「私を信用するなら、負債はなくなります」と言ったところで、実際に支払わなければ借金はそのまま残り、この人はただ人をだましているだけなのです。ですから、何度も尋ねます。「それで、借金を返済してくれたんですか?」すると、相手も繰り返します。「なぜそんなに疑うんです。ともかく私を信用するんです。あなたの借金は全部払うと言ったでしょう。ただ私を信じさえすればいいのに、ほんとうに疑い深い人ですね。いいかげんにしなさい。」さて、こんどは、この人を心から信じたとしましょう。しかし、どんなに信じたところで、実際に借金を払ってくれないのなら、その人の言葉はみんな嘘です。

 

今日のキリスト教徒の信仰はこのようなもの

今日のキリスト教徒は、「イエスが十字架の上で尊い血を流して救ってくださったのです。そこで罪の罰をすべて受けられたのです。このようにして救ってくださったのです」と言います。大勢の牧師が会衆にこのように説いています。会衆の中の誰かが立ち上がって、「でも、私にはまだ罪があります」と言うと、人々は、「それは、あなたの信仰が足りないのですよ。ただ信じなさい。あなたの不信こそが罪なのです」と言います。「私だって、ほんとうに信じたいのです。でも、どうして信じららないのかわかりません。」「信じているのに、どうしてまだ罪があるのかわかりません。本当に信じているのに。」「信仰が足りないのです。もっと信じなさい。山に登って断食するんです。断食している間、信じなさい。」「断食しないで信じるわけにはいかないのですか?」「いや、断食しながら信じようとするんです。」

今日の牧師の多くは、信じなさいと言いますが、それでいて罪の問題を解決してくれません。そして、信じないことを非難するだけなのです。信者の方は、信じようとしても難しすぎたり、盲目的に心から信じていても、罪の問題がまだ残っていたりするのです。これは何がいけないのでしょう。どう説明できるでしょう。人々が真の強い信仰をもつことができないのは、イエス・キリストがバプテスマを授けられたときに人々の罪をすべて被られたことを知らないためです。彼らは誤り信じているために、どんなに信じようと、それでは罪の問題を解決できないのです。

信仰とは、確実な証拠もなく無条件に信じることによって得られるものでしょうか。もちろん、違います。信仰は、罪の問題がほんとうにどのように解決されたかを知り、それを信じたときにただちに得られるのです。「私は疑っていたのですが、主がすでに私の罪の問題を解決してくださっていることは明白です。どんなに信じまいとしても、救済を信じざるを得ません。この救済は本物だからです。問題を解決してくださって、ありがとうございます。」つまり、最初は疑っても、救済の証拠は実に確かなものですから、もはや疑えないのです。救済のしるしとその証拠として、イエスは水と御霊の福音という領収書を示されました。「このようにして、あなたの負債を返済しましたよ。」借金がすっかり支払われたことを示すこの受け取りを見てはじめて、真の信仰が得られるのです。

神を信じる、神であられるイエス・キリストが救い主である、救い主を信じると口では言っても、主が救ってくださり、罪が消されたという証拠がなければ、信じることはできません。つまり、罪が完全に贖われたことを示す領収書を示されたのでなければ、固く信じることはできないのです。この領収書を見ないで信じている人々は、ちょっと見には強い信仰心があるように見えるかもしれませんが、実際のところ、その信仰は盲信にすぎません。狂信でしかないのです。

 

狂信をよい信仰とみなすか

狂信的な牧師が他人にも同じ狂信を求めたなら、どうなるでしょう。「信じなさい。火を受けなさい。火、火、火。火のような御霊よ、私たちを火で満たしてください。主はみなさんを祝福なさいます。主はみなさんを豊かにしてくださいます。主はみなさんを祝福してくださいます。主はみなさんを癒してくださいます。」そうした牧師がこのような派手な言動をすると、聴衆の耳はがんがんといい、心臓がどきどきし始めます。最高の音響装置を通して牧師が「火、火、火」と叫びだすと、堂々と響く声に聴衆の心は高鳴ります。それから感情的に圧倒され、ほんとうに強い信仰に突き動かされたように叫びます。「主イエス、おいでください。ああ、御霊よ、おいでください。」

このとき、牧師は「祈りましょう。今、御霊が来られて、私たちを満たしてくださっています」と言って、さらに聴衆の感情を掻き立てます。バンドの鼓舞するような演奏がすぐにこれに続き、人々は手を高く上げ、感情のままに踊り、感情の爆発は最高潮に達します。それを合図に、牧師は言います。「では献金しましょう。特に、今夜は神が特別なささげ物を受けることをお望みです。特別献金をしましょう。」

すっかり感情に溺れている人々は、有り金をそっくり差し出してしまいます。にせ牧師は、集めた金をすべて積み上げられるだけの巨大な説教壇を事前に用意していて、その前には何十もの捕蝶網(献金皿)を置いています。バンドが聖歌の演奏を始め、人々の心が興奮にのまれると、牧師は蝶採集者(献金皿を回すボランティア)を人々の間に送り込みます。

献金が多ければ多いほど祝福も多いと嘘をつき、人々の感情を掻き立てて、こうしたにせ牧師は人々に涙を流させ、財布の紐を緩めさせます。感情を煽り立てて判断力や理解力を奪っておいて、それと知らずに金を手渡すようにさせるのです。これは、神のみことばに基づいたものでも、説教というべきものでもなく、詐欺に近い、狂信的で盲目的な行ないです。このように、狂信的な牧師は人々の感情を煽り立てて、思惑どおりにするのです。

主がバプテスマによって罪を被られたと知り、イエス・キリストを救い主と信じるなら、人は揺さぶられることなく、穏やかです。静かに心を動かす唯一のものは、イエスがバプテスマによって人間の罪を被ってくださり、十字架につけられて死なれたということだけです。神であられるイエスがバプテスマによって人類の罪を被られ、そうして負われた罪を贖われて死なれたことを考えると、深い感謝の念を覚え、心はすばらしい喜びに満たされます。しかしながら、聖徒の心の穏やかな感動は、この世の何よりも大きいのです。どんなロマンチックな愛の告白も、世界一貴重なダイヤモンドの贈り物も、これ以上に心を動かすことはありません。

それに対して、感情に基づいた狂信者の感動は、それほど長く続きません。しばらくはこの感情の中にいるでしょうが、毎日罪を犯し、そうした罪によって恥をかくと、恥ずかしくて顔を覆わずにはいられません。「イエスは十字架上で私たちのために罰を受けて死なれたのに、どうして私はいまだに毎日罪を犯すのだろう。」そこで、時がたつと、彼らは恥ずかしい思いをして、もはや感動することができません。さらに、恥ずかしくて神の御前に行くことさえできません。

神が全焼のいけにえの祭壇を示されたのは、このためです。いけにえの制度にしたがって全焼のいけにえの祭壇でささげられたいけにえのささげ物とは、救い主イエス・キリストにほかなりません。ですから、全焼のいけにえの祭壇は、イエスがこの世に来られ、実際に青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布によってただ一度で救ってくださったことを示しているのです。神は、この全焼のいけにえの祭壇を示され、人間がそれを信じて救われることをお望みです。

 

今の時代にするべきこと

この時代、新たに生まれた者がするべきことは数多くあります。まず第一に、世界中で水と御霊の福音を説かなければなりません。この青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布の真理を知らずにいる人々に真理を広めなければなりません。そうして、地獄の火の罰から救うのです。なぜでしょうか。幕屋に示された水と御霊の福音を知りも信じもしないでイエスに従っている人々が大勢いるためです。

この真理をそうした人々に広めるために、まだなすべきことはたくさんあります。全世界に送る本を出版しなければなりません。翻訳・校正・編集から、本を印刷して世界中の国々に送るために必要な資金を確保するためには、するべきことはたくさんあります。

ですから、仲間の働き手や牧師を見ると、いかにも忙しいのが見て取れます。教会の聖徒と働き手は全員そのように忙しいので、肉体的に苦しいことがあります。マラソン走者は、42.195km のコースのある時点で、あまりに疲労が激しいために、自分が走っているのか何かまったく違うことをしているのかさえわからなくなることがあるそうです。つまり、極度の疲労は人をぼんやりとさせるのです。たぶん、私たちもまた、福音のためのレースでこの時点に達しているのでしょう。福音のために生きることは、マラソン走者のようにゴールに向かって長距離を走るようなものです。福音のためのレースは主の再臨の日まで続けられなければならないのですから、みな困難に臨みます。

しかし、主が内におられるのですから、水と御霊の福音があるのですから、主が青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布によって救ってくださったと信じる信仰をもっているのですから、最も確かな真理を信じているのですから、みな新たな力を受けることができます。イエスが救済の賜物をお与えくださったので、みなさんと私はこの賜物を受けたのです。ですから、肉の苦労は問題になりません。かえって、困難になればなるほど、義人はより多くの力を見出します。私は、心から主に感謝します。

霊的に、心の中で、考えで、現実の環境の中で、主がくださった新たな力を感じ、ともにあられることを感じます。主が助け、支えていてくださるのですから、そして、主がともにおられるのですから、これまで以上に感謝を捧げます。ですから、使徒パウロも、「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」(ピリピ 4:13)と言いました。そこで、主が力をお与えくださらなければ何もできないと、毎日告白します。イエス・キリストは、人類のためにバプテスマを受けられたばかりではなく、十字架につけられて犠牲となられ、死に臨まれ、死者の中からよみがえられ、そうして救い主となられました。全焼のいけにえの祭壇を見るたびに、このことが思い起こされるのです。

全焼のいけにえの祭壇はアカシア材でできていて、青銅を厚くかぶせてありました。高さは約 1.35m、青銅製の焼き網がその中ほど、約 68cm の高さのところに置かれていました。ささげ物の肉は、この網の上に置かれて焼かれました。

全焼のいけにえの祭壇を見るたびに、人間は自身をありのままに見ることができるのです。また、イエス・キリストがバプテスマによって人類の罪を被られ、人類の罪をすべてお受けになって十字架上で血を流されたことを見るのです。みなさんと私は、ほんとうに神の前で罪と罰のために死ぬことを免れませんでした。罪と罰のために、みなさんと私は死んで永遠に呪われることを免れなかったのです。しかし、永遠の贖いのささげ物としてこの世に来られたイエス・キリストが、旧約のいけにえのささげ物のように人類のためにバプテスマを受けられ、死なれたために、救われているのです。

いけにえの動物は、生きている間はかわいらしいでしょうが、手を置く儀式の後で喉を切られて血を流して死ぬときは、どんなにむごたらしいことでしょう。このようにむごたらしく死ぬはずであった人間が罰を免れたのは、ほんとうにすばらしい恵みです。この恵みは、主が救済の賜物をくださったために可能になっているのです。青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布によって表わされたように、イエス・キリストがこの世に人間の肉の形で来られ、バプテスマと十字架の血とによってみなさんと私を救ってくださり、そうして真の救済の賜物をくださったのです。神はこのようにして、みなさんと私に救済の賜物をくださいました。これを心で信じていますか?この救済の賜物、イエスの愛を信じていますか? 誰もがこの信仰をもつべきです。

全焼のいけにえの祭壇を見るとき、イエス・キリストがこのようにして救ってくださったのだと知るのです。主は、人間に救済の賜物をくださるために、いけにえとなられました。いけにえのささげ物の上に両手が置かれ、いけにえのささげ物が血を流して死んだように、イエスは同じ苦しみを受けられ、救済をくださったのです。このようにして、主は罪から救ってくださいました。これを認識し、神の前で心から信じ、心の底から感謝をささげるのです。

神は、神がくださった救済の賜物と愛とを人間が信仰によって受けることをお望みです。神は、水と御霊によって来られて成就なさったバプテスマと十字架の血とを、人間が心で信じることを望まれます。みなさんが主の愛を心で信じ、救済の賜物を真に受けられることを願っています。ほんとうに心に受けていますか?

 

人々のためにこのように犠牲となった人

以前、「誰があなたのために死んでくれるでしょう。今日、誰かがあなたを慰めてくれましたか?イエス・キリストは、あなたのために犠牲となられました。このことで心が慰められませんか?」とあるチラシを見たことがあります。誰がほんとうにバプテスマを受けて人の罪を負い、人の罪を消すために身代わりとなって十字架上で死んでくれるのでしょう。誰が血を流して死に、愛を与えてくれるのでしょう誰が人のためにこのような犠牲をはらってくれるでしょう。それは親類ですか? 子供たち? 両親ですか?

違います。それは、人を造られた神ご自身です。人間を罪からお救いになるために、神はこの世に人間の肉の形で来られ、人の罪を被られるためにバプテスマを受けられ、人の罪の罰をお受けになって十字架につけられて血を流され、真の救い主となられ、死者の中からよみがえられ、今も生きておられ、救済と愛とを贈り物としてくださるのです。ほんとうにこの愛の救済を心に受けたいですか?ほんとうに心で信じていますか?

信じる者は誰でも主を受け、主を受ける者は誰でも救われます。主を受けるとは、キリストがくださった救済と愛を受け入れるということです。この愛、この罪の赦し、罪を負われたこと、そしてこの罪の罰を心で信じることによって、聖徒は救われているのです。これが救済の賜物を受ける信仰です。

幕屋のすべてはイエス・キリストを表わしています。神は、人間からどんないけにえも求められません。ただ、神がくださった救済の賜物を心で信じることだけを求めておられるのです。「私は救済の贈り物を与えるために、この世に来ました。旧約のいけにえのささげ物のように、わたしは手を置く儀式によって渡されたあなたたちの罪を全部受け入れ、いけにえのささげ物のように、身代わりとなって残酷な罰を受けました。このようにして救ったのです。」これが、神が幕屋によって告げておられることなのです。

神がこうして救ってくださり、それほどに愛してくださり、このようにして完全な救済をくださろうと、人間がそれを信じないのなら、すべては無益です。戸棚の塩が塩の用をなすためには、まずスープに入れられなければなりません。同様に、心で信じないのなら、神の完全な救済はまったく無益です。水と御霊の福音に感謝し、心に受け入れないのなら、イエスの犠牲は無意味になります。

救済は、救い主であられる神イエスがどのような犠牲と愛をくださったのかを知り、それを心に受け入れて主に感謝してはじめて受けられるのです。キリストの完全な救済を心に受け入れないで、ただ頭で理解しているだけならば、それはまったく無益です。

 

ただ真理をとらえよ

コンロの上でどんなにスープが煮立っていようと、塩を入れようと考えていて実際に入れることをしなければ、スープにはけっして塩味はつきません。主が全焼のいけにえの祭壇でささげられたいけにえのささげ物と同じように、人類のためにバプテスマをお受けになり、いけにえとなられて罪から救ってくださったと心で受け入れ、信じてはじめて人は救われます。神が救済の賜物をくださっているのですから、ただ感謝の心で受ければよいのです。主が完全にお救いくださったとおっしゃっているなら、人間はただそう信じるのが正しいのです。

神のくださった愛は、いいかげんに与えられたものなのですか?もちろん、違います。主の愛は完全です。つまり、主はみなさんと私を完全に救ってくださったのです。バプテスマによって人類の罪を完全に被られ、確かに十字架上で死なれたのですから、この愛に疑問の余地はありません。主は、このように完全に救ってくださり、救済の賜物をくださいました。人はみな神のくださったこの救済の賜物を受けるべきです。

ここで、私が手の中に最も貴重な宝石で作られた、とても高価なアクセサリを持っていたとしましょうそれを贈り物として差し上げたら、すぐさま受け取りさえすればよいのです。そうではありませんか? 自分の物にするのは、とても単純で簡単なことではありませんか? このアクセサリを手に入れるためには、ただ手を伸ばしてつかむだけでいいのです。それだけです。

ただ心を開き、罪を全部イエスのバプテスマによってその上に移したなら、容易に罪の赦しを受け、心の空洞を真理で満たすことができるのです。主は、救済を賜物としてこのように価なくださるとおっしゃっているのです。ただ手を伸ばしてつかみさえすれば、救済はみなさんのものです。

聖徒は、一銭も払うことなく救済を贈り物として受けています。そして、神はこの贈り物を受けたいと思う者には誰にでも与えることを喜ばれるのですから、感謝して受ける者は幸いです。神の愛を喜びをもって受け、神の愛に包まれる者は、この与えるお方を愛します。受けることによって、彼らは神のみこころを喜ばせるのです。この贈り物を受けることは正しいことです。神がくださった完全な救済の賜物を受けてはじめて、この真の救済の賜物が自分のものになるのです。それを心に受け入れないのなら、どんなに得ようとしても、救済の賜物はけっして得られません。

私もまた、この救済の賜物を受けました。「ああ。主は、私のためにこのようにバプテスマを授けられたのだ。バプテスマを授けられたから、主は私の罪全部の罰をお受けになったのだ。結局のところ、主は私のためにバプテスマをお受けになったのだ。主よ、ありがとうござます。」私は、このように信じるようになったのです。ですから、今、私には罪がありません。私は完全な罪の赦しを受けています。みなさんもまた、この罪の赦しを受けて救われたいのなら、今すぐ受け入れなさい。

あれ以来、私はずっとこの救済の賜物について考えてきました。今でも、これについてまた考えると、救済を主に感謝する以外には、するべきことが何もないことを知るのです。この救済の愛は心の中にあるのですから、けっして忘れることはありません。水と御霊の福音、青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布によって表わされた真理を受け入れ、信じて、初めて罪の赦しを受けたとき、私は深く神に感謝しました。そして数年が過ぎた今もなお、まだ同じ感謝の念を抱き、日々新たにしているのです。

イエスは、確かにこの世に私をお救いくださるために来られ、私の罪をすべて被られるためにバプテスマをお受けになり、私の罪の罰を受けられて十字架上で死なれたのです。これらすべてが私のために行なわれたのだと気づいた時、私はただちに受け入れ、自分のものとしました。これは、私が全生涯にしたことのうちで最善のこと、もっとも賢明なことであると思います。ですから、私は主がほんとうに愛し、慈しんでくださると信じ、また、主は愛してくださっているのですべてのことをなさったのだと信じ、告白します。「主よ、心から感謝します。主が愛してくださったように、私も主を愛しています。」このように告白することは、新たに生まれた者にとっては大きな喜びです。

主の愛は永遠に変わりません。主の愛が永遠に変わらないように、聖徒の主への愛も永遠に変わることがありません。時に、苦しみや困難に出会ったとき、心は道を逸れ、この愛を忘れ、裏切りたいとさえ思うでしょう。しかし、苦痛のために意識も失いそうな時にも、自分の苦痛のことしか考えられない時にも、神は、人の心がけっして神の愛を忘れることのないよう、誠実に支えていてくださいます。

神は人間を永遠に愛されます。主が人間のために被造物としてこの世に来られたのは、死ぬほど愛しておられたためです。どうぞ、神のこの愛を信じてください。そして、心に受け入れてください。今は信じていますか?

この愛によって罪から完全に救ってくださったことを主に感謝いたします。




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