救済・聖霊・幕屋・ヨハネの黙示録についての聖書学習のための無料キリスト教図書

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 重要な主題に関する Paul C. Jong 師による説教

 

洗盤に示された信仰


< 出エジプト記 30:17-21>
  主はまたモーセに告げて仰せられた。「洗いのための青銅の洗盤と青銅の台を作ったなら、それを会見の天幕と祭壇の間に置き、その中に水を入れよ。アロンとその子らは、そこで手と足を洗う。彼らが会見の天幕にはいるときには、水を浴びなければならない。彼らが死なないためである。また、彼らが主への火によるささげ物を焼いて煙にする務めのために祭壇に近づくときにも、その手、その足を洗う。彼らが死なないためである。これは、彼とその子孫の代々にわたる永遠のおきてである。」

 


幕屋の庭の洗盤

素材── 青銅製で、常に水が満たされていた。

霊的意味── 青銅は人類の罪全部の裁きを意味しました。人類の罪全部の罰をお受けになるために、イエスはヨハネからバプテスマを授けられた際に世の罪を被られました。ですから、洗盤は、罪が全部バプテスマによってイエスの上に移されたことを信じるなら罪がすべて洗い流されることを示しているのです。

幕屋で仕えた祭司もまた、幕屋に入る前には手足を洗って死を避けました。青銅はすべての罪の裁きを意味し、洗盤の水は、イエスがヨハネからお受けになって世の罪を被られたバプテスマを示します。つまり、洗盤は、渡された罪をイエスが全部お受けになり、そうして負われた罪の罰を受けられたことを告げているのです。洗盤の水は、旧約では幕屋の青い糸を、そして、新約ではイエスがヨハネからお受けになったバプテスマを指しています(マタイ 3:15、ペテロI 3:21)。

ですから、洗盤はイエスのバプテスマを示します。洗盤は、二千年以上も前にイエスがバプテスマのヨハネからお受けになったバプテスマによって人類の罪を、行ないによる罪を含めてすべて負われ、一度で洗い流されたことへの信仰を確認する所なのです。

この世には、水と御霊の福音を信じて新たに生まれた義人がいます。義人とは、青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布という形で示されたイエスのみわざによって罪はみな赦されたと信じて罪の赦しを受けた人々です。しかしながら、罪の赦しを受けた義人は、肉においては不完全なので、毎日罪を犯さずにはいられません。そうした罪が行ないによる罪なのです罪の赦しを受けた義人が行ないによる罪の問題を解決するために行く所が、ほかならぬこの洗盤です。義人が行ないによる罪を犯したときにはいつでも、幕屋の庭の洗盤の所に行って手足を洗い、そうすることによって、自分が神のみことばを信じているために、イエスがすでに行ないによる罪もまたすべて赦してくださっているのだと確認するのです。

聖書では、時に水は神のみことばを指すことがあります。しかし、水の最も重要な意味はイエスのバプテスマです。エペソ人への手紙第 5 章 26 節には、「みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとされる」とあり、ヨハネの福音書第 15 章 3 節には、「あなたがたは、私があなたがたに話したことばによって、もうきよいのです」とあります。洗盤は、罪の赦しを受けた聖徒が、たとえ肉がどんなに不完全であろうと、主が水ですべての罪をきよめてくださったという確証を得ることができるようにします。

ペテロの手紙第一第 3 章 21・22 節には、「そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。キリストは天に上り、御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えて、神の右の座におられます」とあります。直前の部分で、ペテロはノアの時代の水の霊的意味を説明してます。ノアは罪人たち、つまり、罪に囚われている魂に、最初の世界の汚れをすべてきよめる洪水について警告したのですが、洪水から救われたのは、たった八人でした。あの時の洪水は、神のみことばを信じたことがない者を全部殺しました。そして今、ペテロは洪水の出来事から、イエスのバプテスマがこの水の型なのだというのです。ですから、洗盤は、救われた後で神の前で救済を再確認する場所なのです。

信仰によって罪から救われた聖徒は、洗盤の水(イエスのバプテスマ)、青銅(神による罪の裁き)、イエスが人類を罪から救われたことを信じて神の恵みをまとっています。たとえ弱点と欠点だらけで、とうてい自分が義人であるとは思えなくとも、イエスのバプテスマ(罪を負われたこと、水)と十字架上での流血(罪の罰、青銅)への信仰を新たにして、自身が完全に義なのだと確認できるのです。聖徒はすべての罪とその罰とから救った神のみことばを信じているのですから、いつでも罪のない義人となれるのです。

聖徒の信じる神のみことばは、イエスがヨハネからお受けになったバプテスマによって私たちの罪をすべて被られ、身代わりとして罪の罰をすべて受けられ、十字架上で血を流され、そうして完全に罪から救ってくださったと告げています。神が幕屋の庭に洗盤を置かれたのは、状況がどうであろうと、聖徒が信仰によって、自分たちは完全に罪のすべてから救われている者であることを確認できるようになさるためです。

 

行ないによる罪から永遠に救われているか

十字架上で死なれる前、最後の晩餐の時、過ぎ越しのパンと飲み物を弟子たちと分かち合われた際、イエスはペテロその他の弟子たちの足を水で洗おうとなさいました。イエスはすでにヨハネから受けたバプテスマによって弟子たちの罪を負われていたので、洗盤の真理を教えようとなさったのです。イエスは弟子たちに、バプテスマを受けた今、自分は過ぎ越しの子羊として木から吊られて罪の贖いをする(死)のだと告げられました。ですから、イエスの十二弟子は、イエスを信じるようになっても不完全なままでしたが、再び罪人になることはありませんでした。

同様に、イエスが弟子たちの足を洗われたことは、真理のみことばがあかししたこと、イエスがすでに世の罪をすべて洗い流されたことを確認したのです。弟子たちが常に世の人々にイエスが救い主であると説き、イエスがすでに成就なさった水と御霊の福音(ヘブル10:1-20)を広めることができたのは、このためです。こうして洗盤は、真理を信じてすべての罪から救われている義人にイエスのバプテスマを思い起こさせているのです。これはまた、神ご自身が救ってくださったという救済を確信させるのです。

 

聖書には洗盤の大きさは記録されていない

幕屋の他の用具の大きさは記録されているのに、洗盤の大きさは記録されていません。これは、バプテスマによって人類の罪を被られた神の御子イエスが限りなく偉大であることを示しています。これはまた、人類を罪と罰とから救われたイエスの愛が無限であることをも告げています。洗盤は、神の愛の計り知れない偉大さを表わしているのです。人間は生きている限りは罪を犯すものです。しかし、ヨハネから受けられたバプテスマによって世の罪をすべて被られ、十字架につけられて血を流されることによって、イエスは人類の罪を永遠に消してくださいました。

洗盤は、幕屋で仕えた女性たちの青銅の鏡を熔かして作られました(出エジプト記 38:8)。これは、神のみことばが救済の光を罪人に照らし、闇を取り除くということを意味しています。よろしいですか、神はご自分が人間の罪を洗い流すことがおできになるように洗盤を作られたのです。この真理のみことばは、人々の心の奥底に潜んでいる罪を照らし、永遠に罪を洗い流し、そうして罪の赦しを与え、彼らを義人に変えたのです。つまり、洗盤は、イエス・キリストがみことばによって私たち罪人を完全にお救いくださったという真理を明確にあかしする役割を果たしたのです。

 

洗盤もまた青銅で作られた

洗盤を作るのに使われた青銅の意味が何か、おわかりですか?青銅は、ほかでもなく、人間が受けるはずであった罪の罰を意味してるのです。より正確には、イエスがバプテスマによって人類の罪をすべて負われて十字架まで運ばれ、身代わりとして裁かれたことを告げているのです。罪のために実際に罰されるべきだったのは人間です。しかし、洗盤の水によって、罪がみなきれいに洗い流されたことを再確認できるのです。これを信じる者は信仰によって、裁かれた者となり、もはや裁かれることがありません。

水を満たした洗盤は、「青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布によって、イエスがすでに罪を洗い流して完全に罪から救ってくださっているのです。主はあなたをきよめられました」と告げているのです。つまり洗盤は、罪の赦しを受けた義人に、罪が洗われ、救われていることを証明しているのです。

全焼のいけにえの祭壇が罪の裁きを意味しているのに対し、洗盤は、幕屋の素材の青い糸と関連して、新約でイエスがバプテスマによって人類の罪を被られたことを告げています。

人は、幕屋の庭の門の垂れ幕をくぐり、全焼のいけにえの祭壇を過ぎ、次に洗盤の所を通ってはじめて聖所に入れるのです。神の宿られる幕屋に入ることができるのは、信仰によって全焼のいけにえの祭壇と洗盤を確かに通った者だけなのです。幕屋の庭の洗盤の真理を信じて罪の赦しを受けた者だけが聖所に入れます。

自分の力で聖所に入ろうとすると、火が聖所から出て、その人を焼き尽くします。アロンの息子たちさえ例外ではなく、実際、そのために何人かが死んでいるのです(レビ記 10:1-2)。神が罪を負われて裁きをお受けになった義のみわざを知らず、この真理を無視する者は、罪のために殺されます。主による極めて具体的な罪からの救済を信じないで、自分なりの考えによって信じて神の御国に入ろうとする人々は、必ず罪のために火の裁きを受けることになります。罪の裁きは不可避なのですから、そうした人々を待つのは地獄だけなのです。

イエスは青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布によって罪からの救済を完了なさり、人間が聖所に入ることができるようにしてくださいました。この真理を信じて、聖徒は完全に罪から救われているのです。神は創造の前にすでに人類を罪からお救いになる計画を定められ、聖書の青い糸(イエスのバプテスマ)・緋の糸(イエスの十字架上の死)・紫の糸(神が受肉された)によって、みこころを詳細にお知らせくださいました。そして、このご計画にしたがって、青色・紫色・緋色の撚り糸という形で表わされたイエスのみわざによって、ほんとうにすべての罪人を罪と咎とからお救いになりました。

ヨハネの手紙第一第 5 章 4 節には、「私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です」とあり、その後の第 10 節には、「神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中にもっています」とあります。この救済のあかしとは何でしょう?水と血と御霊によって救済を与えた真理の福音が、神の御子への信仰のあかしです(ヨハネI 5:6-8)。つまり、聖徒の信じる水と御霊の福音だけが、罪を洗い流してご自分の民となさったという、神のあかしなのです。すべての罪から救われ、聖所に入り、神のお与えくださったいのちのパンを食べ、神の恵みの中で生きる唯一の道は、ほかならぬこの水と御霊の福音を信じることなのです。人間の罪をきよめる水と御霊の福音を信じて聖徒は救われ、教会とともにあって信仰生活を送っています。

水と御霊の福音の真理によって、教会で神のみことばを糧とし、教会と結ばれ、神に祈りを聞き届けられる義人として生きているのです。この真理を信じると、青色・紫色・緋色の撚り糸の信仰をもち、神のもとで神の恵みをまとって生きる義人となります。神の民だけが生きることのできる信仰生活は、水と血と御霊を信じることによってのみ得られます。イエスのバプテスマ、流血と死、そしてイエスが神であられることを心で信じることによって、人は罪のすべてから救われます。聖徒が教会で生きられるようにした信仰とは、青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布への信仰です。

今日、「ただイエスを信じさえすればいいのです。なぜそんな難しいことを言うのです。つまらないおしゃべりに時間を無駄にしていないで、ただ好きなように信じていればいいじゃないですか」と言う人が大勢います。そうした人たちにとっては、私たち聖徒はキリスト教社会で問題を起こす者にすぎません。しかし、罪の赦しを受けずにイエスを信じるなら、その人が永遠の滅びに臨まなければならないということは、極めて明確なのです。水と血と御霊の福音を完全に信じないのは誤った、欠陥のある信仰です。実際、それはイエスを救い主と信じないということです。

もし私が誰か知らない人に気に入られようとして、むやみに「あなたを信じています」と言い続けたなら、その人は、「この人は、ほんとうに私を信用しているのだな」と思って喜ぶでしょうか?ところが、実際はおそらく「あなた、私を知っているんですか? お会いしたことがないようですが」と言うでしょう。私が「でも、それでもあなたを信じています」と言って、相手をいい気分にしようとして、まじめな顔で見つめたなら、相手はそれを喜ぶでしょうか?おそらくその人は、私を、相手の意向を汲んで気に入られようとしている、ただの骨のないおべっか使いだと思うでしょう。

神もまた、盲目的に信じる人々を喜ばれません。「神を信じています。イエスを罪人の救い主だと信じています」と言うとき、イエスがどのようにして罪人の咎を取り除かれたかを知り、信じたうえで信仰を告白しなければなりません。まったく気骨のない人間のように考えなしに、あるいは盲目的に信じているなら、けっして救われません。まずイエスがどのようにして人類の罪を消されたかを明確に知ったうえで信じて、はじめて人は救われるのです。誰かを信じると言うときは、その人のことをよく知って、信頼できるとみなしているからこそ、その人をほんとうに信頼するのです。よく知らない人を信用するというのは、嘘をついているか、それとも容易に裏切られる愚か者であるかしかありません。ですから、イエスを信用すると言うときには、イエスがどのように罪をすべて消してくださったかを正しく知っていなければならないのです。そうしてはじめて、最後の瞬間に主に見放されることなく、新たに生まれた神の子供として天国に入るのです。

人を天国に導く真の信仰とは、青色・紫色・緋色の撚り糸への信仰です。つまり、真の信仰は、水(イエスのバプテスマ)と血(イエスの死)と御霊(イエスが神であられること)によって人類を救った、水と御霊の福音を信じることです。人類を救われた主の恵みがいかに偉大であるかを知り、信じるのです。この真理を信じることが救済へと導くからです。

人の信仰が完全であるかどうかは、その人が真理を知っているかどうかによって決まります。水と御霊の福音を心で信じてはじめて、人はイエスを救い主と信じることができます。そして、水と御霊の福音によって罪の赦しをくださったイエスを救い主と信じるこの信仰こそが、人類を罪のすべてから救う真の信仰なのです。

 

洗盤は、人類の罪を赦した救済の確認

洗盤には水が満たしてありました。洗盤は、聖所のすぐ前に置かれていました。洗盤は、自分が罪の赦しを受けていることを思い起こし、信仰によって確認する場所です。神が信者の罪をすべてきよめてくださったことを確認するのです。聖所に仕える祭司が汚れたときはいつでも洗盤で手足を洗ったように、罪の赦しを受けた者は、罪を犯したときいつでも、みことばにより、イエスがすでにそうした汚れとなった罪もまた消してくださり、身代わりとなって罰をお受けになって贖ってくださったと再度確認して、罪を洗い流すことができます。

人が汚れるのは、この世で生きている限り罪を犯し続けずにはいられないためです。では、汚れとなる罪を何できよめることができるのでしょう?王の王イエス・キリストが二千年以上前に罪人を救われるために人間の肉の形でこの世に来られ、バプテスマによって罪を被られ、十字架上で血を流され、そうして罪人の罪をすべて赦されたと信じて洗い流すのです。人は、イエスがバプテスマを受けられて人類の罪をすべて被られたということを信じてはじめて行ないによる罪をも洗い流し、罪の赦しを受けることができます。つまり、人は、神がすでに青色・紫色・緋色の撚り糸によって罪をすべて洗い流してくださっていると信じてはじめて、行ないによる罪もまたきよめることができるのです。

 

洗盤の真理を知り、信じる信仰をもって

洗盤への信仰なしには、けっして神の宿られる聖所に入ることができません。人間の行ないは常に完全ではあり得ません。人間には欠点があるのですから、時に罪を犯します。しかし、神がお与えくださった救済は完全です。みことばは完全だからです。神が完全な救済によって欠点を洗い流してくださったのですから、信仰によって大胆に聖所に入ることができます。洗盤を通らない者は、けっして聖所に入れません。聖徒は、イエスが二千年前にこの世に来られ、青色・紫色・緋色の撚り糸によって予言された水と血と御霊の福音によって世の罪をすべて消されたという真理への信仰によって、聖所に入る資格を得ました。主がすでに罪をすべて消し去れらて罪のない者としてくださったと信じることなしには、人は聖所に入ることができません。

青色・紫色・緋色の撚り糸を信じることなしには神の聖所に入ることができないのですから、水と御霊の福音を信じないのなら、教会でみことばを信じて神の恵みの御座の前に行く恵みも、神に祈って恵みを受けることも、しもべや聖徒とともに生きることもできません。仲間の信者とともに教会で生き、みことばを聞き、信じ、神に祈ることができるのは、神がすでに青色・紫色・緋色の撚り糸によって罪のすべてから救ってくださっていると信じたときだけなのです。

洗盤は、罪からの救済の最終的確認なのです。神は、洗盤を聖所のすぐ前に置かれ、水を満たされました。それは、罪の赦しの福音を信じる者に信仰の確認をお与えになるためでした。洗盤は信じる義人の汚れた良心をきよめます。

ヨハネの手紙第一第 2 章 1-2 節を読みましょう。「私の子どもたち、私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようにするためです。もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。この方こそ、私たちの罪のための、──私たちの罪だけでなく全世界のための、──なだめの供え物なのです。」アーメン。

もし誰かが罪を犯したなら、私たちには、父なる神の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。イエスは義人の汚れた心を水で洗ってくださいます。十字架につけられる前日、最後の晩餐の際、イエスは弟子たちを集められ、洗盤に水を注いで彼らの足を洗い始められました。「バプテスマを受けた時、わたしはあなたたちの罪を、これから犯す罪までも含めてすべて負いました。そして、あたたたちの代わりに十字架上で罰を受けます。わたしは、あなたたちの未来の罪までも負い、消し去りました。わたしは救い主となったのです。」

イエスが過ぎ越しの最後の晩餐の際に弟子たちの足を洗われたのは、これを告げられるためでした。足を洗っていただくことを拒んだペテロに、イエスはおっしゃいました。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」(ヨハネ 13:7)イエスは、水と御霊の福音を心から信じる者の完全な救い主になろうとなさいました。そして、青色・紫色・緋色の撚り糸を信じる者に、イエスは永遠の救い主となられたのです。

 

洗盤の用途

洗盤は、祭司たちが幕屋でささげ物をささげて働いているときに汚れを落とすために使われました。祭司は、イスラエル人の罪を贖うためのささげ物をささげるためにいけにえのささげ物を殺し、血を取り、肉を細かく切る際についた汚れを洗う必要がありました。祭司がささげ物をささげていて汚れると、水で洗わなければなりませんでした。この汚れを全部きよめたところが洗盤だったのです。

霊的なものであれ、肉のものであれ、罪を犯したときにはいつでも、また、神の戒めを破って汚れたときにはいつでも、この洗盤の水で汚れを洗い流さなければなりません。祭司は、何か不浄な物や汚いものに体が触れたときにはいつでも、望むと望まざるとに関わらず体の汚れた部分を水で洗わなければなりませんでした。

このように、神を信じる者が何か汚れたものや不浄な物に触れたときにはいつでも、そうした汚れを洗い流すために洗盤の水を使います。つまり、洗盤の水は、新たに生まれた者の汚れを洗い流すために与えられたのです。ですから、洗盤は神の慈悲をたたえているのです。洗盤の意味は、信じるか信じないか選択できるようなことではなく、イエスを信じる者には絶対に必要なものなのです。

神は、幕屋の他の物については高さ・幅・長さを何キュビトにするか指示され、すべて大きさを定めておられます。しかし、洗盤の大きさは指定なさいませんでした。これは、洗盤についてだけのことなのです。これは、毎日行ないによる罪を犯す人間に救世主がくださった、限りない愛を表わしています。この救世主の愛には、人間の罪をすべて洗い流す、手を置く形のバプテスマが見出されます。祭司がその職務中に汚れた時には大量の水が必要になるので、洗盤にはいつも水が満たされていなければなりませんでした。そこで、洗盤の大きさは必要によるのです。洗盤は青銅製ですから、祭司がその水で洗う時にはいつでも、罪の裁きについて考えることになります。

幕屋に仕える祭司は、手足の汚れをすべて洗盤の水で洗わなければなりませんでした。青銅が神の裁きを表わすなら、水は罪を洗うことを表わします。ヘブル人への手紙第 10 章 22 節には、「からだはきよい水で洗われたのです」とあり、また、テトスへの手紙第 3 章 5 節には、「聖霊による、新生と更新との洗い」とあります。これらの句のように、新約のみことばは、バプテスマの水によって汚れを洗うことについても多くを語っています。

祭司が生活の中で発生した汚れを洗盤の水で洗ったのなら、私たち、今日の新たに生まれたキリスト教徒は、生きていく中で犯した行ないによる罪をイエスのバプテスマを信じて洗い流すことができます。旧約の洗盤の水は、救世主がこの世に来られ、ヨハネから受けられたバプテスマによって世の罪をすべて洗い流されたことを示しています。

聖書によって、神はイスラエル人の犯した罪ばかりではなく人類史上のすべての人の犯した行ないによる罪もまたすべて、イエスがヨハネから受けられたバプテスマによってその上に移されたことを告げておられます。マタイの福音書第 3 章 15 節で、イエスがヨハネからバプテスマを受けられた際、「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです」とおっしゃっています。人類の代表ヨハネから手を置く儀式と同じ形でバプテスマを受けられて、イエスは人類の罪をすべて負われました。

ですから、罪がすべて救世主イエスの上に移されたことを信じて、人はみな心の罪の穢れをすべて洗い流すことができるのです。この真理を信じて罪をすべてイエスの上に移しているのですから、神の御子が世の罪を十字架まで運ばれ、十字架につけられ、血を流され、全人類の完全ないけにえのささげ物となられ、そうしてすべての罪から救ってくださったと信じさえすればよいのです。これを心で信じていますか?救世主がいけにえのささげ物となられたと心から信じる者は、永遠に救われています。

 

行ないによる罪の問題もまた、イエスのバプテスマを信じて解決する

聖書は、どのようにして行ないによる罪を洗い流すことができるかを告げていますか?旧約で祭司が洗盤の水で汚れを洗い流したのに対して、新約では、イエスがヨハネからお受けになったバプテスマによって世の罪を被られて神の義を満たされたと信じて、行ないによる罪の赦しを受けることができます。結局、罪はみな、真理を信じて洗い流されるのです。

イスラエル人が神に罪のためのささげ物をささげようとするときは、雄牛・羊・山羊・山鳩、または鳩といった、傷のないいけにえを幕屋に連れて行き、いけにえのささげ物の頭に両手を置いて罪を告白し、罪をすべて移し、それから、罪を負ったいけにえのささげ物を殺しました。喉を切って血を取り、全焼のいけにえの祭壇の角に血をつけ、残りは地面に注ぎました(レビ記 4)。一年分の罪さえもみな、贖いの日に罪のためのささげ物をささげて、信仰によって一度で赦されました(レビ記 16)。結局、私たちは旧約の罪のためのささげ物と同じ方法で、つまり、人類の罪を消すためにこの世に来られた救世主と十字架の血とを信じて、罪の赦しを受けているのです。

旧約の手を置く儀式は、イエスがヨハネから受けられたバプテスマと同じものです。救世主はヨハネからバプテスマを授けられ、十字架につけられて人類の罪をすべて取り除き、洗い流してくださいました。神が人類を完全に罪からお救いくださった方法が救世主のバプテスマと十字架上の血の働きなのですから、人間が罪を赦されるためには何をしたらよいのでしょう。生きていくうえで弱さのために毎日罪を犯してはいても、そうした罪はみな、水と血とによって来られたイエス・キリストが洗い流してくださったことを覚えて信じていなければなりません。神を信じていても、欠点のために人間は弱さと違反に陥ります。しかし、そうしたことをすべてご存じの神は救世主をこの世に遣わされ、バプテスマによって人類の罪を負うようになさり、いけにえとされて、救ってくださいました。

全焼のいけにえの祭壇と洗盤を幕屋の庭に置かれることで神は、人間が日々に犯す行ないによる罪を聖所、神の家に入る前に洗い流すことができるようにしてくださいました。しかし、これは、行ないによる罪を日々の悔い改めの祈りによって洗い流さなければならないということではありません。そうではなくて、救世主のバプテスマと十字架上の血への信仰が罪をすべてきよめるのです。神は、イエスを信じるようになってから義人が過って罪を犯したり悪いことをしたときには、洗盤の主、救世主が受けられたバプテスマを信じて、そうした罪をすべて洗い流すように定められました。

イエスが罪を被られたことと、すべての罪のために裁かれたことを同じことと考え、盲目的にいっしょくたにしてしまう人々が大勢います。しかし、人間は弱さのために毎日のように行ないによる罪を犯しているのですから、罪を洗うことと罪の裁きとは別々のものとして扱わなければなりません。イエスがヨハネからお受けになったバプテスマと十字架上の死とは、罪をすべて被られ、そうして負われた罪の罰をお受けになり、人類を完全にお救いくださるためのものでした。この信仰の内で、聖徒はただ一度で罪の裁きを受けることができるのです。ですから、日々に犯す行ないによる罪の問題は、救世主のバプテスマを信じて解決するべきものなのです。バプテスマと十字架のこの二つの要素を合わせて、単一の完全な救済が完成します。これが、完全な罪の赦しの真理です。罪の問題の解決法に関しては、イエスのバプテスマと十字架とを区別して信じるべきなのです。

祭司が幕屋でいけにえの動物を殺したとき、跳ね返った血などで汚れました。どんなに汚くなったかは、想像もできません。祭司はその汚れをすっかり洗わなければならなかったのですが、幕屋の庭の洗盤に水がなければ、そうすることはできなかったでしょう。大祭司であろうと、一年分の罪を赦された祭司であろうと、汚れを洗盤の水で直ちに洗わなければ、その人は汚れをまとったままで生きなければなりません。

大祭司がたとえどんな汚れに包まれようとも、幕屋の庭に洗盤が置かれていたので、いつでもきよめることができました。祭司は一年分の罪を完全に赦されていたとしても、そのように日々の罪を洗い流して、きよめられたのです。神は、ささげ物をささげる祭司がそのようにすべての汚れを洗盤で洗うものと定められました。そこで、神が幕屋の庭に洗盤を置かれた理由がわかるのです。また、この洗盤が全焼のいけにえの祭壇と聖所との間に置かれたわけもわかります。

 

洗盤が必要な理由

洗盤によって示された真理は、ヨハネの福音書第 13 章に明かされています。過ぎ越しのとき、弟子たちと最後の晩餐をなさってから、イエスは弟子たちの足を洗い始められ、ペテロのところに来られました。イエスはペテロの足を洗おうとなさり、足を出すようにとおっしゃいました。しかしながら、ペテロは辞退して言いました。「私があなたの足を洗うはずですのに、どうして主が私の足を洗ってくださるのです?」

ペテロが辞退したのは、師が弟子の足を洗うのはふさわしいことではないと考えたためです。「どうして先生に足を洗っていただけるでしょう。できません。」

ペテロはイエスに足を洗っていただくことを断り続けました。このときイエスがペテロにおっしゃったことには深い意味がありました。

「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」(ヨハネ 13:7)イエスは、こうおっしゃりたかったのです。「今は、なぜわたしがあなたの足を洗うのか分からないでしょう。しかし、まことにこれは行ないによる罪の問題を解決する鍵なのです。今から後、あなたは行ないによる罪を無数に犯すでしょう。しかし、すでに未来の行ないの罪までもわたしが被っているのです。そして、負った罪のために十字架上で血を流なさければなりません。ですから、わたしが未来の行ないによる罪までも処理した救世主であると知り、信じなさい。」

ペテロの頭では、救世主が自分の足を洗ってくださるということは、道徳的に正しいことではありませんでした。ですから、洗っていただくのを断ったのです。しかし、イエスは「後でわかるようになります」とおっしゃって彼の足を洗われました。

「わたしがあなたの足を洗ってはじめて、あなたはわたしと関係があることになるのです。今は、なぜわたしがあなたの足を洗うかわからないでしょう。しかし、わたしが磔刑を受けて天の御国に昇った後、わたしがあなたの足を洗った理由がわかるでしょう。わたしは救世主なのですから、すでにバプテスマによってあなたが将来犯す罪までも負いましたそしてあなたの罪のためのいけにえのささげ物となって、救い主となったのです。」

主がおっしゃったように、ペテロはその時はこうしたことが理解できませんでした。しかし、主が復活なさった後、理解します。実際、これは彼の行ないによる罪までも消し去った出来事だったのです。

「私はこの世で行ないによる罪を犯さずにはいられないために、救世主イエスは、バプテスマのヨハネから授けられたバプテスマによって行ないによる罪までも取り除いてくださったと私が信じるように、足を洗ってくださったのだ。救世主のバプテスマは、未来の行ないによる罪までも処理したのだ。イエスは、バプテスマによってそうした罪をすべて被られ、世の罪を十字架まで運ばれ、十字架につけられてすべての罪の罰を受けられたのだ。そして、死者の中からよみがえられることによって、真に完全にすべての罪から救ってくださったのだ。」

後になって、主を三度も裏切ってから、ペテロはようやくこのことに気づき、信じます。ペテロの手紙第一第 3 章 21 節で彼が「そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです」と述べているのは、このためです。ここで、「型」という語は、「旧約に対応する人物がいる新約の人物のように、前もって象徴や型によって予示された、あるいは指し示された人」を意味します。ですから、すぐ前の部分はイエスのバプテスマが旧約の「水」の型であるとはっきり告げています。

旧約では、一年分の罪の赦しを受けるために贖いの日の罪のためのささげ物を神にささげたとき、イスラエル人を代表する大祭司が両手をいけにえのささげ物の上に置き、人々が犯した罪を告白してささげ物の上に人々の罪を移しました。この手を置く方法は、新約におけるイエスのバプテスマと同じ形式です。旧約では、いけにえのささげ物は、移されたイスラエル人の罪を受けていたために、血を流して死ななければなりませんでした。喉を切ると、すぐさま血が流れ出ました。すると祭司は皮を剥ぎ、肉を細かく切り、火で焼いて神にささげました。

旧約のいけにえのささげ物の実体であられる救世主は、この世に来られ、手を置く儀式によって人類の罪を受けられ、十字架上で血を流され、身代わりとして死なれました。ですから、今日、みなさんと私はイエス・キリストのバプテスマと十字架上の死とによって、完全に罪の赦しを受けています。毎日の生活の中で犯す行ないによる罪も、そうした罪もまた主がお受けになったバプテスマと十字架上で流された血とによってすでにきよめられていると信じて洗い流さなければなりません。この真理を知り、信じるのです。イエスがバプテスマによって人類の罪をすべて被られ、洗い流してくださったと信じてはじめて、人は行ないによる罪のすべてから救われるのです。つまり、行ないによる罪を犯すたびに、水と御霊の福音への信仰によって確認するのです。そして、そうした行ないによる罪までもすでにバプテスマと十字架によってイエスが消してくださっていることを考えると、どんなことがあっても救済を失うことがなく、罪悪感に襲われてもただちに立ち直ることができるのです。

毎日の生活の中で罪の赦しを受けた義人が犯す罪までもすでにイエスが消してくださっているので、神は洗盤をお与えになり、水と血と御霊によって来た罪の赦しを受けている義人が、水と御霊の福音への信仰によって行ないによる罪を洗い流すようになさいました。

神が、会見の幕屋に仕えていた女性の使っていた鏡を集めて熔かし、洗盤を作られたのは、このためです。鏡は自らを映す物だからです。行ないによる罪を犯し、自分の弱さに絶望するたびに洗盤に行き、手足を洗うのです。洗盤の役割は、ヨハネからバプテスマを授けられたときにイエスが人類の罪をただ一度で被られたことを思い起こさせることにあります。この真理を罪の赦しを受けた義人にお教えになるために、主はイスラエル人に女性たちの鏡を熔かして洗盤を作り、その水で祭司が手足の汚れをすべてきよめるようになさったのです。

聖徒はイエスが神の御子、創り主、人類の救い主であると信じています。そして、救世主がこの世に人間の肉の形で来られ、ヨハネからお受けになったバプテスマによって渡された人類の罪をすべて負われたことを覚えておくのです。つまり、この世で行ないによる罪を犯したり、弱さに陥ったり、あるいは弱さが表に出るたびに、救世主が肉の形で来られ、バプテスマをお受けになり、十字架につけられ、そうしてすでに罪をすべて消してくださっていることを思い起こすのです。

これを覚えて信じていなければ、罪の赦しを受けてはいても、また行ないによる罪に縛られ、かつての罪深い自己に戻ってしまいます。ですから、弱さや欠点のために犯す罪はみなバプテスマによってイエスの上に移されているのだと、毎日信じるのです。救世主がヨハネけらお受けになったバプテスマによって人類の罪をすべて被られ、みな洗い流してくださったことを毎日思い起こし、改めて信じ、確認するのです。

主はヨハネからバプテスマを授けられて世の罪を被られ、血を流されたと信じることなしにイエスを信じて罪の赦しを受けることのできる者は、この地上に誰ひとりいません。たとえ罪の赦しを受けても、行ないによる罪を犯さない者は一人もいません。ですから、イエスのバプテスマを信じることなしには、誰もが罪深いのであり、神のみ心がすべての人に成就されることはけっしてないでしょう。神が御子を遣わされ、ヨハネからバプテスマを受けるようになさり、十字架上で血を流すようになさったのは、このためです。

イエス・キリストを救世主と信じるなら、イエスがヨハネからお受けになったバプテスマによって罪がみなその上に移され、世の罪を十字架まで運ばれ、磔刑に処され、血を流されて人類の受けるはずであった罰を全部受けられたのだと信じなければなりません。イエスのバプテスマと血とを信じて、人は罪の赦しを受けるのです。聖徒の罪はみな、この真理を信じて消されました。聖徒は神の愛を心で信じて義人になりました。私たちの心にはもう罪がなく、きよく、一点のしみもないのです。しかし、人間の肉にはまだ欠陥があります。毎日イエスのバプテスマを思い起こし、この信仰をいつでも確認していなければならないのは、このためです。欠点や弱さが露わになるたびに、悪い考えが起こって汚れるたびに、そして、行ないにおいて過ちを犯すたびに、イエスがヨハネから受けられたバプテスマによってそうした罪をすべて被られたことを思い起こし、この真理を改めて信じて心をきよめるのです。

罪を犯すたびに、まず神の前に自分の罪を認めます。それから、そうした罪がみなすでにバプテスマによってイエスの上に移されていることをもう一度信じるのです。イエスのバプテスマのみわざによってきよめられている者は、このみわざを信じて、毎日行ないによる罪をきよめるのです。イエス・キリストのバプテスマによって罪をすべて洗い流すことができるということを絶対に覚え、信じていなければならないのは、このためです。

さて、ここまで、神が全焼のいけにえの祭壇と幕屋の間に洗盤を置かれた理由を見てきました。神が全焼のいけにえの祭壇と幕屋の間に洗盤を置かれたのは、人間が神の前に行く時、きれいな体と心で行くようになさるためでした。イエスのバプテスマと十字架とによって完全な罪の赦しを受けた義人になった後でも、意図するとしないとに関わらず、罪を犯すたびに心はまだ汚れるのです。全焼のいけにえの祭壇のそばを通って神の前に行く時に洗盤で汚れをきよめなければならないのは、このためです。わずかでも汚れがあっては神の前に行くことができないのですから、洗盤の水で洗ってきよい状態で行けるように、神は全焼のいけにえの祭壇と幕屋の間に洗盤を置かれたのです。

 

神の前で正しい良心とはどのようなものか

ペテロの手紙第一第 3 章 21・22 節では、イエスのバプテスマが「正しい良心の神への誓い」であるとしています。ここで、「正しい良心」とは、イエスがヨルダン川でヨハネからお受けになったバプテスマによって、日々に犯す行ないによる罪をも含めて人類の罪をすべて洗い流されたと信じる心のことです。人類の罪を被られるために、主はヨハネからバプテスマをお受けになり、そうして罪を負われたのです。イエスは人類の罪をすべて負われていたので、十字架上で死なれなければなりませんでした。イエスのなさったことを無視し、信じないのなら、良心は邪悪なものでしかあり得ません。主のバプテスマを信じなければならないのは、このためです。神の前では、正しい良心がなければなりません。人間は肉においては完全に生きることができないでしょうが、少なくとも良心に関しては、神の前でやましいことなくいることができますし、そうでなければならないのです。

半世紀ほど前に韓国が朝鮮戦争の荒廃の中ですべてを失った時、外国から大量の援助物資が届きました。孤児院がそうした援助を最初に受けることになっていたのですが、それを私して富を築いた恥知らずな人々がいました。そうした人々には良心がありません。外国から粉ミルクや小麦粉・毛布・靴・衣服等の救援物資を送った時、それは、着る物もなく飢え、困窮した人々が服を着てまともな物を食べられるようにするためでした。外国の人たちは、邪悪な役人や横領者が援助物資を横取りしようとは、夢にも思っていませんでした。

正しい良心のある人々なら、貧しい人々に物資を公平に分配したはずです。海外からの援助を自分の富を築くために利用しないで、貧しい、餓死しかけている人々に公平に分配した人々は、神の前に何ら恥じることがなかったでしょう。彼らは正しい良心をもって生きたためです。しかし、そうしなかった人々は、自身の良心に泥棒と責められます。もちろん、そうした泥棒は、心を改めてイエスのバプテスマを信じるなら、今でも罪を洗い流すことができます。

人類の罪を被られ、行ないによる罪をすべて消されるために、イエスはこの世に来られ、バプテスマを受けられました。そうしてヨハネからバプテスマを受けられて、イエスは人類の罪をただ一度で洗い流されました。イエスのバプテスマを信じない人々に申し上げたい。「では、主のバプテスマを信じないことのどこがそんなに偉いのですか。どんな自信があって、信じないのです。あなたは、バプテスマへの信仰なしに御国に入れるほど立派なのですか。」

ほんとうに正しい良心をもつ者になりたいのなら、イエスがヨハネからお受けになったバプテスマによって、行ないによる罪をすべて洗い流すのです。そのためには、人間が生涯にわたって犯す罪をイエスがすべて被られ、洗い流されたと心で信じるのです。救世主イエスが十字架に行かれる前にヨハネからバプテスマ受けられたのは、このためです。

イエスは、姦淫の現場で捕らえられた女性におっしゃいました。「わたしもまたあなたを罰しません。わたしもまた、あたなを裁きません。」なぜでしょうか。イエスがすでにその女性の姦淫の罪も被られていたためであり、また、イエス自身がその罪の罰をもお受けになろうとしていたためです。主は、「わたしがあなたの罪のために罰を受けるのです。わたしのバプテスマを信じて罪をすべて洗い流すのです。ですから、わたしを信じてすべての罪から救われなさい。信仰によって罪の罰のすべてからも救われ、罪をすべて洗うのです。良心の罪をきよめ、わたしの水を飲みなさい。二度と渇くことがなくなるように。」

今日、みなさんと私は、イエスが人類を罪から救われたお方だと信じています。みなさんは、イエスがほんとうにバプテスマによって罪をすべて被られ、洗い流してくださったと信じていますか?主は、バプテスマをお受けになり、罪をすべて洗い流してくださいました。私たちは今、正しい良心をもって神のもとに行くことができます。なぜでしょうか。主がバプテスマを受けられ、人類の罪をすべて被られ、罪を十字架まで運ばれ、身代わりとなって十字架につけられて罰を受けられ、死者の中からよみがえられて洗い流してくださったからです。遠い昔、イエスがこの世に来られ、三十三年間生きられ、バプテスマによって人類の罪をすべて被られ、洗い流してくださいました。

人間の行ないによる罪までも被られて洗い流され、主は人間が神のもとに行き、義人となり、イエス・キリストの犠牲によって罪を裁かれることができるようになさいました。つまり、この主を信じることによって、人は神を父と呼び、その御前に進むことができるのです。イエスの水と血と御霊のみわざを信じる者は、正しい良心をもっています。それに対して、主の正しいみわざ、バプテスマと磔刑とを信じないのは、邪悪な良心に違いありません。

 

今日、迷信的な信仰をもつために、神のみことばをまじめに取らない人々が大勢いる

みことばを単なる装飾ででもあるかのように捨て去り、天の御国に入るには神への信仰をもったうえによい行ないをしなければならないと説く嘘つきが大勢います。そして、救済については、十字架の血のことだけを話し、肉の経験によって神にお会いするために祈ったり断食したりするために山に登らなければならないと誤解しています。この信仰以上に誤ったものはないのですが、そうした人々は、固く信じ込んでいるのです。彼らは言います。「私は罪のために苦しみました。それで、一晩中起きて祈りました。『神様、私は罪を犯しました。主よ、信じています。』その日、夜になってもまだ苦しんでいたのですが、一晩中起きて祈っていて夜明けが訪れた時、突然、火の塊を突きつけられたかのように感じました。そしてその瞬間、心がすっきりしたのです。心の中の罪がみな雪のように白く洗われました。ですから、あの時、私は新たに生まれたのです。ハレルヤ。」

こうしたものは、人間の考えた、無知で愚かな、神のみことばを無益なものにする考えです。よろしいですか、神は、このような神秘主義的なたわごとを言って人々を欺いて地獄の火へと導く者を何倍にもして罰されます。

「耳がものすごく痛かったのです。でも、信じるなら癒されると主がおっしゃったのを信じているので、『主よ、信じています』と言って、痛みをがまんしました。このように信じたとき、痛みがすっかりなくなったのです。」

「胃潰瘍で、何か食べるたびにものすごくおなかが痛んだのです。それで、食べる前に、祈りました。『主よ、私は苦しんでいます。でも信仰をもって祈ることを聞いてくださるとおっしゃいましたね。まだみことばを信じています。』そうすると、ほんとうに消化が楽になったのです。」

こうしたことは、何でしょう? これは、みことばによって主にお会いしていない例です。こうした例は、みことばによって信じない信仰の誤りを示しています。ああしたものは、みことばによって受けた祈りへの答えではなく、神秘主義的信仰にすぎません。ああした人たちは、みことばによってではなく、自分の感情と経験からくる誤りに基づいて信じています。実に残念で悲しいことには、そうした神秘主義者が今日のキリスト教徒の中に実に大勢いるのです。

このように、神のみことばをそっちのけにして、感情や経験に基づいてイエスを盲目的に信じることは、迷信的な信仰でしかありません。みことばを信じてもいないのにイエスを信じていると言う人々は、自分が悪魔に取りつかれているのかどうかを確かめるべきです。「祈っていた時にイエスに会いました。イエスが夢に現れました。一生懸命に祈ったら、病気が治りました。」愚かしい人々は誰でもこのようなことを言いますが、それは神のお与えくださった信仰ではなく、サタンに与えられた信仰だということは明白です。

青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布によって、主はご自分を示されました。主は今の時代に別の新しい方法でご自分を示されているのでしょうか。主はほんとうに幻や夢の中に現れるのでしょうか。主は足に太い鎖を引きずり、全身血だらけで茨の冠を被り、「よいですか、わたしはあなたのためにこのように苦しんだのです。さあ、わたしのために何をしますか?」とおっしゃる──主はこのようにお姿を現わされるでしょうか?とんでもないたわごとです。

それなのに、こうした夢を見てから神の前で「主よ、あなたのしもべとなって生涯心から仕えます。ここに祈りの家を建てます。ここに教会を建てます。生涯十字架を背負い、全国、全世界であなたをあかしします」と誓うような人々がいるのです。

実際、こうした献身的な牧師を通りや公共の場所でよく見かけます。例外なく、そうした人々はみな、夢でイエスをに会ったり祈っている時に主の声を聞いたりした後で、そのように生きることにした神秘主義者です。しかし、主はみことばによってだけご自身を示されるのです。みことばが人類に完全に与えられているというのに、夢の中や祈っている時に話しかけたりはなさいません。夢は人間の意識下の複雑な領域から生まれるものに過ぎません。そうした人々があのような夢を見るのは、みな報われぬ愛でイエスについてあれこれと想像し、考えてばかりいるからなのです。

眠りに落ちる前にある事柄について深く考えていると、夢の中でもその問題と取り組んでいることがあるのです。このように、夢は潜在意識の産物なのです。あまり考えすぎるとおかしな夢ばかり見るのは、このためです。そうしたことはみな、信仰とは何の関係もありません。肉体的な変化や潜在意識の反映にすぎません。

イエスが十字架上で血を流されることについて考えてばかりいると、茨の冠を被った主が夢に現れるのは、このためです。そうした夢は、それ自体は何も悪いことではありません。しかし、その夢をあまりにまじめに受け止めることは、大きな間違いです。もしイエスが全身から血を流した姿で現われ、実際に「わたしのために何をしますか?生涯、わたしのために苦行者として生きなさい。わたしのために、無一物になりなさい」とおっしゃったなら、どうでしょう。そのように生きるために、実際に全財産を放り出すような愚かな人々がいるのです。夢をまじめに受け取って恐れたり、夢のために人生が変わった人がいますか?それこそが、神秘主義です。

神は、みことばによってお会いになります。神は、夢や祈りの時の幻覚として現われたりはなさいません。神のみことばは旧約と新約に記され、人がこのみことばが説かれるのを聞いて心に受け入れると、みことばによって魂が御霊にお会いするのです。つまり、みことばによって、みことばによってのみ、人の魂は神にお会いするのです。

みことばから人は、イエスがバプテスマによって人類の罪をすべて被られたことを知ります。みことばを聞いて、人は心で信じるようになります。なぜイエスが十字架上で死なれなければならなかったのかという問いの答えもまた、みことばの中にあります。イエスはバプテスマを受けられて人類の罪を被られたので、十字架上で死なれ、救ってくださったのです。聖徒はみことばによって神を知り、みことばによって信じるようになったのです。イエス・キリストが神であられることも、みことばだけによって知り、信じるようになったのです。

 

記されたみことばによらないで、どうして神を信じられるか

神のみことばがなければ、どうして人間の罪をすべて消されたイエスにお会いし、信じることができたでしょう。神のみことばがなければ、信仰は無意味です。「私はこう考えます」──人間は、自分の考えを口に出します。しかし、それは真理ではありません。心が偽りに満ちているのなら、真実は心に入ることができません。言うべきことは、「私はこう考えます」ではなく、「聖書にはこうあります」です。聖書を読むと、神の語られた真理が心に来て、それまでの考えの誤りを正します。

みなさんの水と御霊の福音への信仰は、何でできていますか? それは自分の考えでできていますか? それとも、みことばを聞いて知り、信じるようになって新たに生まれたのですか?みことばによって、聖徒は神を心で信じ、お会いするようになったのです。幕屋の庭の門の幕が青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布で作られていたのは、このためです。

洗盤の水は、イエス・キリストが人類の罪を被られたバプテスマを示しています。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」(マタイ 3:15)聖徒は、神のみことばによって、イエスが世の罪を被られたバプテスマを知るようになりました。みことばによって、みなさんと私が生涯に犯す罪をすべて被られたイエスのバプテスマを知るようになったので、このみことばによって、バプテスマへの信仰を心にもつようになったのです。みことばによって、洗盤に示された真理を見出すことができたのです。

神のみことばから、洗盤が青銅でできていることがわかります。聖書では青銅は裁きを意味します。ですから、青銅の洗盤は、自身を映す鏡の役割をする律法に照らして見ると、人はみな滅ぼされる定めにあるということを意味しています。洗盤が幕屋で仕えた女性たちの鏡から作られたのは、このためです。主は、罪のために滅ぼされることを免れなかった人間を、この世に来られ、バプテスマをお受けになり、十字架上で死なれて救ってくださいました。記された神のみことばから、イエスはバプテスマをお受けになったので人類の罪をすべて被られ、十字架に行かれ、罪の罰を受けることがおできだったのだということを知りました。そして、この真理を心に受け入れて信じることによって、聖徒は救われているのです。みなさんは、どうですか?みなさんは、救われていますか?

神秘主義を信奉するある教派では、救済の正確な日付、何月何日に救われたかを知っていなければならないとしています。そして、この教派の牧師は、多くの信者の前で、祈るためにある山に登った時に自分が無価値な者であると気づいてイエスを信じ、救われたと告白したそうです。この人はたいそう誇らかに、自分は新たに生まれた正確な日時を忘れたことがないと言っています。これは、実際、撚り糸で織った亜麻布とは何の関係もない感情にすぎません。この牧師の信仰は、青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布には関わりがないのです。この教派の教える救済は、みことばからなる真の救済とは関係がなく、自分たちで作ったものにすぎません。

実際、自分で暗示をかけることができるのです。自分には罪がないと主張し、何度も何度もそのように考えていれば、自分に暗示をかけ、罪のない者になったと思い込むのです。こうした呪文を唱え続ければ、ほんとうに罪がなくなったかのように感じるのですが、そうした感覚はけっして長続きしません。ですから、じきにまた自分に暗示をかけます。「私には罪がない。私には罪がない。」これは、なんと自己中心的で、不実で無知で迷信的な信仰でしょう。

撚り糸で織った亜麻布は、旧約と新約の神のみことばを示しています。幕屋の庭と聖所・至聖所の入り口が青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布で作られていたことは、イエスが旧約と新約に記されているとおりに救済の門、救い主となられたことを示しています。ですから、私は神の語られたこの救済の確実であることを心から神に感謝しております。

祈る時に感情に訴えたり、派手なことをしたりしないのは、このためです。ただ祈り、神を信頼してすべてをお任せするのです。「父なる神よ、どうかお助けください。全世界に福音を説かせてください。仲間の聖職者と聖徒を守ってください。福音に仕える働き手をください。この福音を広め、信者がみことばを知り、信じるようにしてください。」これだけを私は祈るのです。感情を掻き立てて泣くために祈ったりしませんし、迷信的崇拝は私の祈りには無縁です。

どんなにがんばっても感情を掻き立てることができないと、なんとか涙を出すために、ずっと以前に亡くなった父親や母親のことを思ったり、他人にまじめに受け取られようとして、わざとらしく祈る人々がいます。そうしたでっち上げの祈りは、神に嘔吐を催させるごみの山のようなものです。人々はイエスの磔刑を思って、ただもう「主よ、信じています」と叫んで感情を掻き立てます。

しかし、それは、そうした人々の信仰が強いということなのでしょうか?自分の罪について考えて、「主よ、私は罪を犯しました。正しく生きられるようにしてください」と言って、感情を掻き立てようとしたなら、自分で感情的になることは十分にあり得ます。そうした感情的経験や思いきり泣くことは、ストレス軽減に役立ちますから、多くの人はさわやかな気分になって、それが信仰というものなのだと思うのです。人生は困難なことばかりなのですが、こうした感情的経験で、少なくともしばらくはよい気分になるので、そのような宗教生活を続けるのです。

 

主が青色・紫色・緋色の撚り糸と撚り糸で織った亜麻布によって来られたことを信じよ

主はみことばによって来られました。ですから、自分で感じるのを待つのではなく、神のみことばが告げておられることを聞くのです。重要なことは、この神のみことばを心で信じるかどうかです。祈るときには感情に集中してはいけません。そうではなくて、感情を適当なレベルに抑えておかなければなりません。なぜでしょうか。この世には、感情的な興奮が好きな人に近づいて、その感情の穴を利用しようとする嘘つきが大勢いるためです。人間は感覚に溺れて知的な部分がお留守になることが多いのですから、「すばらしい魂の復活」という旗印のもとで信仰復興集会が開かれるとき、そのねらいは参加者の感情を掻き立てることだけなのです。

しかしながら、新たに生まれた今、私にはそうしようとしてもそのような復興集会は開けません。神のみことばを説くことは、世の中でよくある大規模な霊的信仰復興集会のように人々の感情を掻き立てることではないからです。私は真理のみことばによって新たに生まれているのですから、かつては霊的生活に侵入していた感情面とは縁を切っています。

私たち、神のみことばを聞く義人は、知性を使い、心で信じるのであって、感情的興奮は好みません。聖徒は、人がみことばをありのままに語っているかどうかをすばやく判断し、その人がほんとうに信じているかを見極めて、真理を信じます。青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布の真理を知り、信じる者には、心に御霊が宿っていますから、みな感情的刺激が真理にはほど遠いものだと知っており、真理だけを心に受け入れます。

イエスは、青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布によって来られました。これは、何と驚くべきことでしょう。人類を救った主の愛は、何とすばらしいのでしょう。みことばに記されたイエスの四つからなるみわざによって、聖徒はみな、イエスがバプテスマによって罪をすべて被られ、十字架上で死なれ、そうしてすべての正しいことを実行なさって救ってくださったのだと信じるようになりました。

これを心で信じていますか? 福音を説く者は、撚り糸で織った亜麻布、つまり、旧約と新約のみことばの内で広めなければなりません。そして、その内容は青色・紫色・緋色の撚り糸でなければなりません。それを聞く者はそれを心に受け入れ、心の底から信じるのです。

 

洗盤の水が罪を洗い流す

バプテスマによって、イエスは人類の罪をすべて被られ、洗い流してくださいました。イエスのバプテスマは、洗盤の水にあたります。それは、罪のために地獄に行く定めにあった人間をきよめ、神の前に立つことができるようにしました。イエスはバプテスマによって人類の罪をすべて負われたので、十字架に行かれ、磔刑に処されて罪をすべて洗い流すことがおできだったのです。イエスのバプテスマと十字架の二つが、イエスが人類の罪の罰をすべて受けられたことをあかしするのです。バプテスマと十字架とによって、イエスは人類救済を完了なさいました。

悔い改めの祈りをささげることによっては、けっして罪をきよめることはできません。イエスがすでにバプテスマによって罪をすべて被られたので、罪がみな洗い流されたのです。このみことばを聞き、イエスがしてくださったことを信じて、人は罪全部の罰から解放されるのです。イエスが罰を受けてくださったので、聖徒は主のバプテスマへの信仰によって、すでに罪の罰をすべて受けています。まことに、私たちは信仰によって救われているのです。ある意味で、救済は実に単純なことです。救済の賜物と愛とを信じるなら、人は救われるのですが、信じなければ、救われません。

 

神の完了なさった救済以外には人間が救われるためにできることは何もない

神が救ってくださらなければ、人間は救済については何もできません。主が創造の前にすでにこのように人類をお救いになろうと決められて実行なさったので、すべては神の決定によるのです。父なる神は、御子と御霊によって人類を救うことを決められ、定められた時が訪れると、ひとり子イエスをこの世に遣わされました。イエスが三十歳になられて、救済のみわざを実行する時が来ると、父なる神はキリストにバプテスマを受けさせ、十字架上で死なせ、よみがえらせ、そうして救ってくださったのです。聖徒は、旧約と新約のみことばから、主が私たちのためにしてくださったことを知り、それを心で信じて救われました。心で信じて救われることは、信仰を心に受け入れることにほかなりません。

この聖書のみことばが神のみことばであると信じていますか?聖書こそが、初めから存在しておられた神、みことばなのです。旧約と新約のみことば、神のみことばによって、人は神を知り、お会いすることができます。旧約と新約のみことばによって、神が青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布によってお救いくださったことを知り、信じることができます。また、この真理を信じている者が救われているので、その人たちは、このみことばに確かに力があるとあかしすることができます。神のみことばを自分なりの狭い考えで測ることをせず、神が具体的にどのようにして救ってくださったかを知るのです。

旧約と新約から、みなさんが青色(イエスのバプテスマ)・紫色(イエスは王の王である)・緋色(十字架)の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布(旧約と新約のみことば)のみことばを聞き、信じられることを願っております。以後の生涯、神のみことばをさしおいて自分の物差しでみことばを測るなら、その人はけっして救われません。

神のみことばを自分がよくわかっていないと思うなら、信仰の先輩がどのように言っているかをよく聞くことです。それが牧師、働き手、平信徒であろうと、その人たちが神のみことばを説くのを聞き、説かれていることが神の前でほんとうに正しいのであれば、ただそれが正しいと認め、心で信じさえすればよいのです。

みことばを広める者は、簡単だから広めているのではなく、広めているものが神の前に正しいものだからそうしているのです。彼らが神の前で正しい知識、つまり水と御霊の福音、青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布の真理を宣べ広めるのは、このためです。誰から聞こうと、それがほんとうの神のみことばなら、「はい」と言って受け入れるしかありません。神のみことばには少しも間違いがないからです。

神のみことばを信じましょう。「信じる」とは、どういうことでしょう?それは、受け入れるということです。それは、信じることです。つまり、主が人類のためにバプテスマをお受けになったので、私たちは自分の弱さをすべて主に託し、おすがりするのです。「主は、ほんとうにこうして救ってくださったのだろうか。主を信じています。」このように信じるのが、真の信仰です。

この世の神学者の中から、正しく知り、信じている人を探し出すのはとても困難です。洗盤に達する前に、すでにその人たちは幕屋の庭の門の所でつっかえ、庭に入ることもできません。彼らが幕屋について説教をするときには、狡猾に意識的に庭の門を避け、幕屋についての本を出版する場合には、庭の囲いの九メートル以上も占めていた巨大な門を除いた挿絵を加えます。

時に、大胆に幕屋の庭の門について説く人がいますが、青い糸の基本的な意味を知らないのですから、「青は空の色です」とだけ言います。ですから、青い糸は空の色で、イエスが神であられることを表わしているのであり、緋の糸はイエスがこの世におられたときに十字架上で流された血を示しているのであると言って、幕屋の庭の門の真理を巧みに避けるのです。紫はどうなのでしょう。紫は、イエスが王の王、神であられることを告げています。イエスの神性はすでに紫の糸が完全に示しています。ですから、別の色の糸でそのことを繰り返す必要はありません。

青い糸の真理は、イエスがこの世に来られ、ヨハネからバプテスマを授けられ、ただ一度で人類の罪をすべて被られたということです。しかし、世の神学者は、このイエスのバプテスマを認めないので、けっしてそれを知ることも説くこともできず、たわごとを言っているだけなのです。青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布によって来られたイエスを信じない、新たに生まれていない人々は、イエスがバプテスマによってすべての罪を被られ、罪の罰を受けられたことを知りません。ですから、霊的に盲目になり、みことばを説くことができず、神のみことばを自分の考えによって恣意的に解釈して宗教化しているのです。彼らは「イエスを信じなさい。そうすれば救われます。今からは善良に、謙虚でありなさい」と教えます。彼らは、イエス・キリストへの信仰をよい行ないを重視する単なる宗教に変えました。

人々は、どんなに努力したところで善であることができないとわかっていますから、そうした、よい人間になろうとする気持ちを呼び起こす言葉に容易に欺かれます。宗教はどれも、「やればできます」とか、「聖くなるよう最善を尽くしなさい」と、ありふれた教訓を与えます。すべての宗教に共通しているのは、道徳にかなう考え、努力、人間の意思をとても高く評価している点です。たとえば、仏教はどうでしょう。仏教は、人間の無限の努力と意思を重視し、信者に「殺してはいけません。真理を求め、よい人間でありなさい」と言って、自力で聖くなれと教えます。ある意味で、その教えはキリスト教の教義とよく似ています。キリスト教と仏教が対極にありながらそんなにもよく似ているのは、いずれも単なる宗教だからです。

宗教と信仰とは、完全に別物です。真の信仰は、ただ神の義によって人類を救ってくださった主から与えられた贈り物を認め、心に受け入れることです。信仰とは、主がこの世に来られ、人類の罪を被るためにバプテスマをお受けになり、十字架につけられて人類の罪の罰をすべて受けられたと心で信じて罪の赦しを受けることです。主が水と御霊によって人類を罪と罰のすべてから救ってくださったと信じることが信仰です。信じていますか?ほんとうに心で信じるのです。

 

神はすでにすべての罪から救ってくださっている

ですから、人間はただこれを心で信じ、受け入れればよいのです。これが、神のほんとうに従順な子供が神の前でするべきことであり、それ以外はそれほど重要ではありません。神は人間を愛されたので、ひとり子をこの世に遣わされ、バプテスマを受けて罪を被らせ、十字架につけられて血を流させ、罰して死なせ、よみがえらせ、そうしてすべての罪から救ってくださったのです。

では、この真理を信じなければ、神はどうお思いになるでしょう?たった今も、神の心を喜ばせる従順な息子や娘になりたいのなら、神が御子によって罪をすべて消して罪から救ってくださったと信じるのです。感謝をもって心で信じているなら、自分の口で告白するのです。神を信じたいのだけれど、心で信じるのは難しそうですか?では、信仰を自分の口ではっきり告白してごらんなさい。そうして信じることを告白すると、信仰が植えられ、少しずつ育ちます。信仰は、勇敢に受ける者のものです。

ここで、私が本物のダイヤの指輪を持っていたとしましょう。それで、それをみなさんに差し上げるとしましょう。でも、一人が、指輪が本物のダイヤでできているとは信じられないと言って、断ります。指輪には本物のダイヤが使われているのですが、この人が信じないために、それはその人にとってはダイヤではないことになり、その人は本物のダイヤの指輪を手に入れる機会を逃します。

信仰とは、このようなものです。権威ある宝石鑑定人がその鑑定書で指輪には本物のダイヤが使われていると保証したら、その人は信じるようになるでしょう。神は、記されたみことばによって、人類にくださった救済は本物であると詳細に告げておられます。みことばがそうあかししているために救済を信じる者は、信仰の人です。「これが本当だとは信じがたいのですが、でも絶対者であられる神がそうだとおっしゃっているのですから、信じます。」このように信じると、信仰の人となり、最も貴重な贈り物がその人のものとなります。

それに対して、別の信仰もあります。詐欺師がまがい物のダイヤの指輪を作って、誰かがそのまばゆい輝きに惑わされて本物と思い、買ったとします。この人は、自分が賢い選択をしたと信じていますが、実際は、だまされたのです。本物ではないのに、指輪にはダイヤがついているという偽りの証人を信じると、このまがい物のダイヤは、その人にとっては本物のダイヤと同じものになります。指輪についているのはダイヤだと盲目的に信じているためです。しかし、もちろん、その人は偽物を手にしているだけなのです。同様に、にせの信仰をもっている人々がいます。その人たちは、自分の信仰に確信をもっているのですが、神のみことばに発したものではないのですから、偽物で根拠のない、神秘主義的なものなのです。

神は、「わたし以外の神をあがめてはならない」とおっしゃいました。神のみことばは神そのものであり、みことばは、人は水と御霊によって生まれなければ神の御国をみることはできないと告げています(ヨハネ 3:5)。神は、まず幕屋の庭の門の青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布でできた幕を通ることなしには、人が幕屋の庭に入ることができない、また、まず手足を洗盤できよめない者が幕屋に入ることはできないとおっしゃっています。このみことばだけが真理なのですから、これ以外のものはみな偽物です。

真理への信仰だけが真の信仰であり、他のものへの信仰は、みな偽物です。人はどんなに熱心に信じていようと、神のみことばではないものは、どこまでいっても神のみことばではありません。イエスがバプテスマと十字架の血とによって罪をすべて消されたとおっしゃったなら、人はただそれを信じればよいのです。そうなさったとおっしゃるお方は神なのですから、みことばへのこの信仰は本物です。主がほんとうにこれをなさらなかったのなら、それは主の過ちであり、信仰自体は悪くありません。他方、主が確かにそうなさり、人がそれを信じず、そのために救われなかったのなら、それはみな、その人の責任です。人間がするべきことは信じることだというのは、このためです。神が教会によって語られることを信じるのです。信じていますか?

教会によって語られることばとは、何でしょう?それは、青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布によって来られたイエス・キリストのみことばです。教会は、神のみことば、つまり、イエス・キリストがバプテスマによって人類の罪を被られたこと、イエスが神であられること、十字架上で人類の罪の罰をすべて受けられたことを広めています。イエスが人類を救ってくださったという真理への信仰が、神が保証される真のダイヤモンドの信仰です。

初めて神のみこころと幕屋によって表わされた霊的意味を知り、そのことを話すなら、それはとても簡単です。しかし、幕屋の外形についての表面的な知識だけで、本来のヘブライ語や歴史的背景を知ることなく探求するなら、何の得るところもなく、混乱するだけです。

イエスのバプテスマを信じなさい。イエスは、人間の心にあるすべての暗く汚い罪をきよめるバプテスマを受けられました。「バプテスマ」には、「罪を洗い流す・渡す・埋める・移す・覆う」という意味があります。イエスはそのようなバプテスマをお受けになったために、人間の罪をすべて被られたのです。これを今信じない者は、みな殺され、地獄に投げ込まれます。「洗いのための青銅の洗盤と青銅の台を作ったなら、その手、その足を洗う。彼らが死なないためである。これは、彼とその子孫の代々にわたる永遠のおきてである。」(出エジプト記 30:18, 21)信じなければ呪われます。信じなければ地獄に投げ込まれます。信じないのなら、ヤーウェの呪いと滅びが下り、永遠の炎の中に投げ込まれるのです。

「その手、その足を洗う。彼らが死なないためである。」神は大祭司に、これが彼とその子孫が代々従うべき永遠の掟であるとおっしゃいました。イエスを救い主と信じる者は、バプテスマと十字架の血とを信じなければなりません。信仰は、勇敢に受ける者のものです。救済は、信じて心に受け入れる時に得られます。真理は、信じてはじめて益になるのです。神がおっしゃったことを信じましょう。心にとって、不信ほど大きな障害はありません。

神は、祭司がご自分の前に来る時には、まず青銅の洗盤で手足を洗わなければならないとおっしゃいました。しかし、洗盤の水で手足を洗う信仰をもたない人は、大勢います。洗盤によって示されたこの信仰をもたない人はみな、神に殺されます。水と御霊の福音を心で信じてきよめられ、そうして神の御前に行き、死を免れ、賜物として御国を受けるのです。神の前でどんなに自説を主張したところで、機会を与えられたときに信じなかったならば、そのために必ず滅ぼされます。みなさんの誰ひとり、真理を信じないために死に臨むことがないように願っております。

イエスのバプテスマと十字架の血によって人間の罪を消し去った救済の真理を信じないのなら、はなはだしい罰を受けることになります。信じていますか?洗盤によって罪と罰とから救ってくださったことを神に感謝しましょう。

幕屋の残りの部分については、この本の続編で述べます。この本の伝えることによって、みなさんが神の子供となられますように。





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