救済・聖霊・幕屋・ヨハネの黙示録についての聖書学習のための無料キリスト教図書

ホーム  |  サイトマップ  |  お問い合わせ   |  ヘルプ    
聖書学習 無料
キリスト教図書
無料
キリスト教電子ブック
団体概要
 



 重要な主題に関する Paul C. Jong 師による説教

 

キリスト教における偽者と異端者


<イザヤ書 第 28 章 13-14 節>
「主は彼らに告げられる。『戒めに戒め、戒めに戒め、規則に規則、規則に規則、ここに少し、あそこに少し。』これは、彼らが歩く時、うしろざまに倒れ、手足を折られ、わなにかかって捕えられるためである。それゆえ、あざける者たち──エルサレムにいてこの民を物笑いの種にする者たちよ。主のことばを聞け。」



聖書の異端

聖書では、「異端者」はどう
定義されているか?
イエスを信じながら心に罪のある
者を異端者としている。

今の世の中、とりわけ、開発途上国には偽者の新聞記者が大勢います。彼らは新聞記者の振りをしていますが、通常は何かしら犠牲者のしたことを暴露すると脅して金を取ります。偽者というのは、本物らしく見えるけれども、実際は違うものを指します。つまり、外見と中身が全く違うものをいうのです。

「異端」と「偽者」という語は、とりわけキリスト教の教会でしばしば用いられます。

しかし、何が異端であり、何をして「偽者」というのかということに関して明瞭な定義はありませんし、こうした概念を厳密に聖書に基づいて教える人もほとんどいません。

こうした状況ですから、聖書が「異端」をどう定義しているかを明らかにし、検討しておくべきでしょう。また、実際の異端の例をいくつか挙げ、ご一緒に考えてみましょう。いずれにしろ、神を信じる者は生涯に少なくとも一度は異端について考えてみなければなりません。

テトスへの手紙第 3 章 10-11 節では、堕落しており、自分で悪いと知りながら罪を犯している人を異端としています。異端者とは、自らを罪人として断罪する人です。ですから、イエスを信じながら心に罪のある人々は、神の前で異端者なのです。

イエスはバプテスマによって罪をすべて取り除かれました。しかし、異端者は罪人に救済をもたらす真の福音を信じることを拒否して自らを罪人としてしまいます。

みなさんは異端者ですか? 正しい信仰生活を送るためにはこのことについて考える必要があります。

まだ水と御霊の福音を聞いていないのなら、イエスを信じながら自分を罪人として断罪しているのではありませんか? 自らを罪人と考える人は、イエスの完全な救済と水と御霊の福音を軽んじてイエスにあだとなることをしているのです。

自らを神の前に罪人とすることは、自分が神の子ではないと認めることです。イエスに「主よ、私は罪人です」と告白する人々は、自らの信仰を考え直すべきです。

イエスが世の罪をすべて取り除いて永遠の断罪から完全に救ってくださったというのに、どうしてイエスを信じながら自分は罪人だと言えるのですか? イエスがバプテスマによってすべての罪を取り除き、そのために十字架上で完全に裁かれたというのに、どうして価なしに与えられた救済の贈り物を否定し自らを罪人と言うのですか?

そうした人々は、みことばにそむいて自らを罪人とするために、異端者なのです。神の前で異端とならないためには、水と御霊の福音を知っていなければなりません。

イエスを信じながら新たに生まれていない人は、まだ心に罪があるのですから、異端者です。

神は私たちのものを含め世の罪のすべてを取り除いてくださったのですから、その救済の恵みを無視する者はみな異端者です。神は聖いのですから、人間が心に罪をもてば、その人は異端者です。神のわざを行なうには、まずイエスのバプテスマと十字架上の血の福音を信じなければなりません。



聖書での異端の始まり

祭司の資格で最も重要なものとは?
新たに生まれた者であること

列王記 I 第 12 章 25-26 節を読みましょう。「ヤロブアムはエフライムの山地にシュケムを再建し、そこに住んだ。さらに、彼はそこから出て、ペヌエルを再建した。ヤロブアムは心に思った。「今のままなら、この王国はダビデの家に戻るだろう。」ヤロブアムはソロモンの部下のひとりでした。ソロモンが晩年堕落すると、ヤロブアムは王に叛き、ソロモンの息子レハブアムの時代にイスラエルの十部族の王となりました。

ヤロブアムがイスラエルの王となって最初の問題は、民が神殿のあるユダに戻るかもしれないということでした。

そこで、それを防止する策を考えました。彼はベテルとダンに金の子牛を造り、これを拝むことを民に強制しました。列王記 I 第 12 章 28 節には「そこで、王は相談して、金の子牛を二つ造」ったとあります。一つはベテルに、もう一つはダンに置き、そのようなことをするのは深刻な罪だったのですが、それを拝むよう民に命じました。王は礼拝を先導するための祭司を勝手に任じさえしました。

「このことがあって後も、ヤロブアムは悪い道から立ち返ることもせず、引き続いて、一般の民の中から高きところの祭司たちを任命し、だれでも志願する者を任職して高き所の祭司にした。」(列王記 I 13:33) これが異端の始まりです。

現在でも、異端者は神のしわざをしようと申し出る者を祭司に任じています。たとえ水と御霊によって新たに生まれていなくとも、神学校を卒業した者は誰でも聖職者や福音伝道者、宣教師、長老になることができます。

新たに生まれていない者がどうして聖職者になれるのでしょう? そうした人が祭司に任じられたなら、その人を選んだ教会は異端者製造工場になります。

異端の始まりについてもう一度考えましょう。まず、ヤロブアムは政治的権力を維持するために神の代わりに金の子牛を使いました。第二に、祭司になりたいと申し出る者は誰でも授任しました。つまり、普通の人々を祭司に任じたのです。現在、これと同じことが行なわれています。

異端の歴史はヤロブアムの時代のずっと後まで続きます。水と御霊によって新たに生まれていない人々は、祭司になることを許されるべきではありません。

神学校を卒業しただけの人が誰でも聖職者や福音伝道者になれるものでしょうか? 神に認められていないのに、その人たちが神に仕えてよいのでしょうか? いけません。神に認められた人々だけがしもべとなることを許されるのです。神に認められた人々とは、水と御霊によって新たに生まれた人々です。

列王記 I 第 12 章 25-26 節と列王記 I 第 13 章には、ヤロブアムの罪が神の怒りを招いたと記されています。この話は誰もが知っているべきです。もしよく知らないなら、聖書に戻って確認してください。

自分の教会では神の代わりに金の子牛を使っているのではないかと考えてみましょう。もしや、信者が水と御霊によって新たに生まれる福音に戻らないようにと地上の恵みを強調しているのではありませんか?

信者に、イエスを信じれば病を癒されるなどと言っていますか? 物質的な恵みを得られると言っているのですか? 新たに生まれていない人々を教会の聖職者や役員に任じ、自分の宗派が唯一の正統なのだと主張していませんか? それならば、神の前にヤロブアムと同じ罪を犯し、神の怒りを招いているのです。



異端者は金の子牛の神を拝む

今日でさえ、金の子牛を礼拝する異端者は大勢います。その人たちは、一千頭の全焼のいけにえをささげたソロモンに神は恵まれたと指摘します。列王記 I 第 3 章 3-5 節には次のようにあります。「ソロモンは主を愛し、父ダビデのおきてに歩んでいたが、ただし、彼は高き所でいけにえをささげ、香をたいていた。王はいけにえをささげるためにギブオンへ行った。そこは最も重要な高き所であったからである。ソロモンはそこの祭壇の上に一千頭の全焼のいけにえをささげた。その夜、ギブオンで主は夢のうちにソロモンに現れた。神は仰せられた。『あなたに何を与えようか。願え。』」

人々は「ソロモンの一千頭の全焼のいけにえ」のような不正な約束をして信者から金を騙し取ります。愚かな信者たちは金を脅し取られます。そして、金の子牛を神として礼拝する人々は巨大な教会建設のための献金に金を奪われます。これは、教会が小さすぎるからではなく、信者から金を巻き上げるために行なわれるのです。

会衆に拝ませるための金の子牛を設置することは、異端者が金を脅し取るための口実に過ぎません。神を信じる者は絶対にだまされてはなりません。金の子牛の礼拝のためにささげた金は神にはささげられません。ヤロブアムのような貪欲さに満ちた偽りの祭司が私するのです。こうした異端者の罠にはまってはなりません。

では、なぜ神はソロモンの一千頭の全焼のいけにえを喜ばれたのでしょう? ソロモンは自らの罪を知り、そのために死ななければならないことを認め、信仰によっていけにえをささげたからです。彼は神の救済への感謝として一千頭の全焼のいけにえをささげたのです。ソロモンは水と御霊の贖いのことを考えながら、毎日一千頭の全焼のいけにえをささげました。

偽りの祭司にだまされないよう、異端のほんとうの意味を覚えておいてください。



新たに生まれることなく聖役を行なう者は異端である

異端者は、新たに生まれる
ことについて何と
言っているか?
幻覚や夢その他の霊的体験に
よるとしている。

自分は信仰によって新たに生まれていないのに、他の人々に新たに生まれることを教える人々がいます。その人たちはみな異端者です。その人たちは、自分が水と御霊の福音を知らないために新たに生まれることができないのに、他の人々に新たに生まれるように言います。これには笑うしかありません。

偽者の祭司は水と御霊の福音を歪めて誤った福音を告げます。その人たちは、毎日自分の罪を洗い流すようにと言います。

「行って山で祈りなさい。断食をしてみなさい。神のわざに身をささげなさい。夜明けと共に祈りなさい。従順でありなさい。教会建設のために大金を寄付なさい。しかし、自分の罪は自分で何とかしなさい」と言います。

かつてある人が、自分は新たに生まれたとあかしするのを聞きました。夢の中で並んでいると、自分の番が来てイエスに名を呼ばれたというのです。そして、それが新たに生まれたあかしなのだと言いました。しかし、この確信は正しいでしょうか? イエスはそのようにはおっしゃいませんでした。

ヨハネの福音書第 3 章で、イエスは「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません」とおっしゃいました。神は、水と御霊によって新たに生まれた人々だけが祭司になれるとおっしゃっています。夢や幻想、霊的恍惚あるいは悔い改めの祈りによって生まれたという人は、誰でも異端者です。

現在、記された神のみことばを信じず、水と御霊によって新たに生まれる代わりに宗派の教義を信奉している人々が大勢います。水と御霊によって新たに生まれる福音を説くことを拒否する人々は偽者のキリスト教徒であり異端者です。



改革者と既存のキリスト教

いつから真の福音にほかの
宗教が混ぜられ、歪められる
ようになったか?
西暦313年にローマ皇帝
コンスタンティヌスが
ミラノ勅令を発布して以来

キリスト教の宗派はいつできたのでしょう? 長老派やメソジスト、バプテスト、ルター派、ホーリネス、フルゴスペルといった宗派は、いつ始まったのでしょう?  宗教改革が始まったのはほんの五百年ほど前です。

初期のキリスト教徒は、イエスがまだこの世にいらっしゃった時に従った人々です。「Christians (キリスト教徒)」とは「キリストに従う者」という意味です。

最初のキリスト教徒は使徒とその弟子たちでした。使徒と教会の聖職者たちは西暦 313 年まで真の福音に従っていました。しかし、コンスタンティヌス大帝のミラノ勅令以後、キリスト教徒と異邦人が交わり始め、一千年以上続く暗黒時代を招来します。

後に十六世紀のはじめに、マルティン・ルターが「義人だけが信仰によって生きる」と唱えて宗教改革を主張しました。その少し後、1500~1600 年の間にジョン・カルビン、ジョン・ノックスのような改革者がカトリシズムからの分離運動を率いました。宗教改革が成し遂げたことはこれで全部です。

宗教改革は、単にローマカトリック教会とは別の新たな教会を打ち立てるための運動でした。宗教改革者は、カトリシズム自体は否定していません。

彼らの目的は、水と御霊によって新たに生まれる信仰を広めようというものではなく、ローマカトリック教会の抑圧と腐敗から自由になろうとするものでした。ローマカトリック教会はこの運動を「Protestantism (プロテスタント主義)」と呼びました。これは、「抗議する者」という意味です。

当時、ローマカトリック教会は、死んだ祖先を天国に送れるよう高価な免償符を買うよう人々に勧めていました。ルターはカトリシズムが誤っているとは考えませんでした。彼はただ、ローマカトリック教会がサンペトロ寺院建設の費用をまかなうために免償符を売ることをやめさせようとしていたのです。

その結果、現代のプロテスタント教会にはカトリック教会の名残があるのです── 幼児の洗礼、ローマカトリック教会の告解に似た悔い改めの祈り、聖なる儀式、神学校を卒業した者だけを祭司と認めること、壮麗な堂々とした教会。これらはみな、ローマカトリック教会の名残です。

1500 年代初期の宗教改革以来、プロテスタント主義の歴史はほんの五百年ほどしかありません。今年は宗教改革 481 周年に当たります。マルティン・ルターが自らの教会の総本山に対して抗議したのがほんの 481 年前のこととは考えにくいでしょう。この比較的浅い歴史からして、プロテスタント主義は唯一の正統であると主張することはできません。キリスト教の改革はまだ続いています。そして、ずっと続くはずです。

しかし、一つだけ心しておくべきことがあります。水と御霊によって新たに生まれた者だけが天の国に入れるということを忘れてはなりません。そしてこれを宣べ広げましょう。みなさんはイエスの福音、水と御霊によって新たに生まれる福音を説いていますか? そうでないのなら、神のしもべではありません。神は「水と御霊によって新たに生まれる」福音を人間が信じることをお望みなのです。ヨハネの福音書第 3 章でイエスがニコデモにお教えになったのはこれです。

聖書には、水と御霊によって新たに生まれる福音のことしか語っていないのでしょうか、それとも社会のために働くことや聖い生活をすることを説いているでしょうか? もちろん後者も重要です。しかし、それは水と福音によって新たに生まれた後にできることです。福音を人間が信じることが神のみこころです。



異端者の教え

異端者とは、誰ですか?
イエスを信じながら
まだ罪人である者。

偽者のキリスト教徒や異端の信仰はいつから世に栄えるようになったのでしょう?

イスラエル人は、列王記 I 第 12-13 章にあるように、ヤロブアムの時代に二つの王国に分裂する時までは一柱の神を信仰していました。それ以後、キリストが来臨されるまで、異端の信仰が栄えるようになりました。そして現在では実に大勢の異端者がいます。

聖書のイザヤ書第 28 章とテトスへの手紙第 3 章 10-11 節には、偽りのキリスト教教義についての記述があります。聖書では、異端者とは、イエスを信じながら心に罪のある者であるとしています。このような人は誰でも異端者です。

こうした人々は、イザヤ書第 28 章 9-10 節にあるように教えます。「彼はだれに知識を教えようとしているのか。だれに啓示を悟らせようとしているのか。乳離れした子にか。乳房を離された子にか。彼は言っている。『戒めに戒め、戒めに戒め、規則に規則、規則に規則、ここに少し、あそこに少し』と。」

異端者は戒めに戒めを、規則に規則を重ねる。これは、どういう意味でしょう? これは、「イエスへの信仰によって新たに生まれたという人々にはくれぐれも注意しなさい」と言っているのです。そうした人々は、ただただ気をつけなさいと言います。その人たちは、異端になってはいけないから聞いてはいけない、行ってはいけないと言います。

しかし、自分たちの信仰が正統なものであるとそれほど自信があるのなら、なぜ、彼らの信仰はみことばにあるのとは違うという人々を退けることができないのでしょう? あわれなことです。その人たちは正統のキリスト教徒であると主張しますが、自分たちが異端者と呼ぶ者に打ち勝つべきことばがないのです。真のキリスト教徒は、どんな異端者にもみことばで打ち勝てます。

正統のキリスト教徒を主張する人々は、新たに生まれた人々を、異なったことを信じるからという理由だけで異端者と非難します。水と御霊の福音を信じていて、どうして異端になれるでしょう。

異端者と呼ばれる人々が水と御霊の福音を説くならば、その人たちこそ真の正統のキリスト教徒です。同様に、自らを正統のキリスト教徒と称する人々が水と御霊の福音を説かないのなら、その人たちは異端です。

「正統」と「異端」との違いは、水と御霊の福音を説くか、イエスを信じて心に罪があるかないかという点にあります。みことばを信じ水と御霊によって新たに生まれた者がどうして異端者でしょう。

イエスのバプテスマと十字架上の血とを信じ完全に罪を除かれていることが異端ですか? 水と御霊の福音を信じないことが「正統」ですか?

聖書から離れていきながら「正統」のキリスト教徒であると主張する分派主義者は実に大勢います。その人々はイエスのバプテスマ (水) を否定し、十字架上の血のみを説くために、聖書に記されているとおりに水と御霊によって新たに生まれることから離れていきます。

現在のローマカトリック教会とプロテスタント教会との違いは何でしょう? 宗教改革者がローマカトリック教会に反抗し、ローマカトリック教会から出てプロテスタント主義を築いたように、現代の人間もまた、盲目のキリスト教徒や偽りの祭司に抵抗しなければなりません。そうしてはじめて真の福音に目を開き、真の信仰をもち、水と御霊の福音によって完全に救われることができるのです。


異端者にならないためには、
どうすればよいか?
水と御霊によって
新たに生まれればよい。

聖書は、イエスのバプテスマと十字架上の血とを信じる者だけが真の信仰の道を歩むのだとしています。ヨハネの福音書第 3 章 1-12 節で、イエスはニコデモにそうおっしゃいました。

異端者はいつでも、信者に信仰に献身せよと教えます。日の出と共に祈り、もっと懸命に努力しろと促します。これは盲目の人に走れと言うようなものです。

どんなに懸命に祈っても、水と御霊によって新たに生まれていないのなら、無益です。私たちが、水と福音によって新たに生まれた者が義であると言うと、異端者はローマ人への手紙第 3 章 10 節「義人はいない。ひとりもいない」を引いて反論します。この句を引いて、信者を異端者よばわりするのです。

しかし異端者はあちらです。この句の本来の意味は、見た目ほど単純ではありません。異端者は聖書全体を読んでいません。使徒パウロは、この世には義人はひとりもいないと言いました。パウロはただ、イエス・キリストがおいでになって神の救済によってすべての人類を罪から救うまでは、義である者はこの世にひとりもいないと述べている旧約の句を引用しているのです。しかし、イエスによって救われた人々は、義となります。

章全体を読めば、真実は明らかです。異端者は、自分たちと違うことを信じている者に用心しろと信者に警告するだけです。彼らは、正統と認める教会以外の場所で信者が礼拝することを禁じます。そこで、会衆は水と御霊の福音を説く教会に行こうとしません。

その人たちは真の福音に耳をふさぐので新たに生まれることができません。これが人々を地獄へと送る偽りの指導者たちが教えていることです。そして彼らもまた神に裁かれるでしょう。異端者は神のもとに戻らなければなりません。

異端者とは誰でしょう? 水と御霊の福音を信じて贖われた人々ですか、それとも、イエスを信じると言いながら水と御霊によって新たに生まれていない人々ですか?

テトスへの手紙第 3 章 11 節では、イエスを信じながら「自分で悪いと知りながら罪を犯している」人々は異端者であるとしています。

彼らは信者に、水と御霊によって新たに生まれる福音を説く信仰復興集会は危険だから行かないようにと教えます。「正統」である者がどうして対立する信仰を恐れるのでしょう? 彼らが恐れるのは、自分たちの側に真理がないからです。「戒めに戒め、戒めに戒め。」異端者の教えとは、このようなものです。

異端の祭司はこの本から少し、あちらの本から少し、哲学者の言葉や、文学の断片などを集めて自分の考えと混ぜ合わせ、もっともらしく聞こえるようにするのです。

その人たちは信者を無知な者とみなし、世俗的な教えで教育しようとします。真の教会はみことばを説き、信者をみことばによって導きます。人々は世俗のことを学びに教会に通うのではありません。そうではなくて、世の中では聞けない天のことを聞くために教会を訪れるのです。人々はイエスのみことばを聞きに来るのです。

人々は罪人として教会に入りますが、出る時には罪のない義である信者として出ていきたいのです。しかし、異端の祭司は何を教えるでしょう? 彼らは信者に、神のしもべが真の福音を説く信仰復興集会に行かないようにと言います。彼らは、信者が水と福音によって新たに生まれることを妨げます。

実に愚かなことです。信者はだませても、神を欺くことはできません。


にせの祭司は信者を水と御霊によって
新たに生まれさせる
ことができるか?
いいえ。新たに生まれた
者だけがそうできる。

異端者たち、あなたたちが真の神のしもべだというのなら、御霊が責めているのが聞えないのですか? 引き返しなさい。真の神のしもべが水と御霊によって新たに生まれる福音を説く信仰復興集会に信者が参加するのを止めたり妨げたりするのはやめなさい。

異端者は信者を神学論でのみ教えるので、他の説に出会うと、負けるのです。あわれなことです。偽者の祭司は、みことばなしに聖役を務めるのが上手です。彼らは説教し、相談に乗り、自分たちの誤った信念にのみ則って仕事をします。みことばなしに聖役についたり説教したりする者は異端者であり雇われ人です (ヨハネ10:13)。

偽者の聖職者が異端者であるというのは、内面と外面とが異なるからです。既成の宗派に属さない教会を異端の教会と決めつける人々がいます。しかし、そうした教会の中には、大方の宗派があまりに聖書からかけ離れているために所属したがらないところもあるのです。

異端者は自分の罪の問題を解決していないのに、信者には罪の赦しを受けるようにと言います。彼らはヤロブアムと同じ罪を犯しています。まだ心に罪をもちながら神の仕事をしようとしている人がいるのなら、その人は自分の罪と神の聖性とは全く相容れないものであることを知らなければなりません。その人は異端者なのです。

ですから、教えを説いたり教会の仕事についたりする人がまだ罪人であるのなら、自分は異端者であると自覚しなければなりません。その人が異端者であるのは、キリストの救済の福音、水と御霊によって新たに生まれる福音を知らないからです。異端者から聖書の教えを受けて同じように他の人に教えるなら、その人は異端者になります。

木はその果実によって何の木とわかります。イエスのバプテスマと血とを信じて義となった人々だけが人を義にできるのであって、いまだに罪人である人々は罪人を生み出すことしかできません。「同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。」(マタイ 7:17)



異端の祭司が説教で説いていること

異端の祭司は、
説教で何を説くか?
世俗的な神学論と
人間の考え

偽りの祭司はあれこれと気を遣います。何のためでしょう。水と御霊によって新たに生まれるという確固とした信仰がないために、嘘を知られるかもしれないから気を遣うのです。

異端者はここから少し、あそこから少しと取ります。彼らは人々を欺き、福音の真の意味を知らないまま教えます。

「戒めに戒め、戒めに戒め。規則に規則、規則に規則。ここに少し、あそこに少し。」(イザヤ 28:13)

彼らは一行ごとに解説します。「ええと、この言葉はギリシャ語でこれこれの意味で、ヘブライ語ではこれこれです。それからこれこれの説があります。」といった話し方をします。彼らはまた人々に、黒白を明瞭に述べている救済論に出会ったときには気をつけるよう注意します。「マルティン・ルターはこう言い、ジョン・カルビンはああ言ったが、ジョン・ノックスはこれこれと言った。それで、こうしたものはそれぞれに筋が通っているようだ」と言います。

その人たちは、自分が何を話しているのか、また何を信じているのかも知らないのです。真の信仰をもつ人は、真理を明瞭な言葉で語ることができます。真の信者は、新たに生まれた人々とそうでない人々との違いをはっきり言えます。私たちは水と御霊によって新たに生まれる福音を明瞭に説いています。

しかし、異端者は混沌としています。彼らの信仰はコウモリのようなものです。コウモリが昼間は洞窟の中にいて夜だけ外に出るのを好むように、異端者はあれこれの理論を好み、あれこれを信じます。彼らは何が真理であるかを知りません。異端の祭司が地獄に行くとき、その信者もまた共に破滅に向かうのです。偽りの預言者を信じたために地獄に行く人は実に大勢います。

みなさんの聖職者は、水と御霊によって新たに生まれた人ですか? その人は、新たに生まれる福音のみことばを聖書に記されている通りに説きますか? そうなら、ほんとうに幸運です。そうでないのなら、断罪されることになります。新たに生まれていないのなら、水と御霊の福音を聞き、それを説明した書物を読んで新たに生まれてください。

異端者は水と御霊によって新たに生まれる福音を嫌います。彼らは「イエス・キリストは人類の罪を消すためにおいでになって、そうなさったのです。今でも人類の罪を洗い流していらっしゃって、この先もずっとそうなさるのです」と説きます。こんなことがあり得るでしょうか? その人たちは、自分は義であると言いますが、罪を犯しています。彼らは、あるときは義ですが、次の瞬間には罪人です。

彼らの信仰は偽りの教えです。まがい物です。今は義で後では罪人になると言う人は異端者であり、偽りの預言者です。自らを罪人として断罪し、自ら堕落する人も同じことです。



神の怒りは異端者に従う者の上に

異端者は何を重視するか?
行ない

異端者の言うことは一貫していません。ですから、信者から新たに生まれる方法を尋ねられても、水と御霊によって新たに生まれるよう導くことができません。彼らは、人は幻想により新たに生まれるのであり、自分がそうなっても知りようがないのだという奇妙な考えを信者に与えます。実におかしなことです。

ヨハネの福音書第 3 章で、イエスは「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません」とおっしゃっています。しかし現在、新たに生まれた義人はあつかましい異端者だと言われます。

異端の祭司は、自分は謙虚だから自ら義人であるとは言えないと主張します。彼らは信者に言います。「水と御霊によって新たに生まれる恵みが話される信仰復興運動に出てはいけません。新たに生まれたら、異端者になります。この教会で非難されますよ。ここに残りたいのなら、罪人のままでいなさい。そうすれば、時が来たら神が義人にしてくださいます。」 こういうことを言うのです。彼らの言わんとするところは、新たに生まれるかどうかはその人次第だということです。

異端者は信者に言います。「私たちと一緒にいなさい。しかし、新たに生まれることはあなたの責任ですよ。ですから、自分でおやりなさい。今のままでいて、時が来たら神の前に行くのです。そうしたら、ほんとうのことがわかります。その後何が起こるかはわかりません。しかし、ここは正統の教会なのですから、ここにいなさい。」 これは事実でしょうか?

こうした異端の祭司は、ここから少し、あちらから少し取ってきて自分の説を作り上げます。そしてそれを唯一の真理とするのです。彼らは水と御霊について教える神のみことばを知りません。

異端者は聖書を自分の考えに基づいて解釈します。聖書はみことば自体に基づいて解釈するべきなのに、彼らは自分なりに解釈するのです。キリスト教に多数の神学者や宗派が存在するのはそのためです。

異端の宗派や神学者が多いために、異端の書物が無数にあります。偽者の祭司はこの本から少し、あの本から少しと引用して説教します。しかし、真の祭司は聖書のみによって説教します。

異端者はさまざまな狡猾な方法で信者から金を騙し取ります。彼らはこの世界で上等なものを食べ裕福な暮らしをしますが、新たに生まれることができなかったために地獄に行きます。これが、神がそうした人々にお定めになった末路です。

神は、最初は彼らを我慢なさいます。しかし、水と御霊によって新たに生まれることを頑強に拒む人々は、地獄に送られます。

神は異端者を裁かれます。異端者は熱烈に神を信じ、初めは何冊もの聖書解釈書や神学研究書を読みます。しかし、徐々に人間の見地から説くようになり、信者が絶対に新たに生まれないようにします。

異端者は人間の行ないを重視します。水と御霊によって新たに生まれる福音を説かない聖職者は、神の前で異端者です。

彼らは信者を絶え間なく抑圧します。四十日間の終夜祈祷会や百日間の早朝祈祷会、山上の祈祷に参加を勧め、定期的な断食を奨励し、教会建設のための献金、一千頭の全焼のいけにえ、信仰復興集会のための寄付等々を要求します。おまけに各信者の寄付金額のグラフまで作る始末です。彼らの仕事の果実を見るだけでも異端者であることが見て取れます。

神の怒りは異端者に従う者の上にも下ります。新たに生まれることなしに説く聖職者もその信者もみな、神の怒りの下にあるのです。



異端者は信者の心を読み取ろうとする

なぜ異端者は信者の心を
読もうとするのか?
彼らは新たに生まれていないため心に
御霊が住んでおらず、偽善によって
聖職を務めるから。

異端の祭司は毎日泣きます。彼らは上席の執事や女執事、長老、執事、それに平信者のみなの気に入られなければなりません。そうして毎日を過ごすのです。

彼らは毎日偽善者として振舞います。「きーよくあわーれみ深く……」彼らは罪に満ちていますが、聖らかなことを言わなければなりません。そこで、日ごとにますます偽善的になります。

かつてある牧師が「内に御霊をもたずに聖役を行なうのは冒瀆です。」と言ったことがあります。贖われていないのに神のわざを行なうのは異端であるというのです。これは呪わしい生活です。あなたがこうした異端者のひとりならば、水と御霊によって新たに生まれなければなりません。

イエスを信じながら新たに生まれていないのなら、その人は異端者です。すべての人は水と御霊によって新たに生まれる福音に戻らなければなりません。水と聖霊によって新たに生まれた義である者だけが福音を他の人に説けます。



異端者は安らぎのためだけに泣く

異端の祭司はどのようにして
信者を満足させるか?
いつでも平安を求めて叫び、
信者は罪人であっても
天の国に入れると言う。

イザヤ書第 28 章 14-15 章には、次のように記されています。「それゆえ、あざける者たち──エルサレムにいてこの民を物笑いの種にする者たちよ。主のことばを聞け。あなたがたは、こう言ったからだ。『私たちは死と契約を結び、よみと同盟を結んでいる。たとい、にわかに水があふれ、越えて来ても、それは私たちには届かない。私たちは、まやかしを避け所とし、偽りに身を隠してきたのだから。』」

この冷笑的な人間は誰でしょう? 彼らはみことばを自分たちの誤った信条と混ぜて説く人々です。祭司がどう考えようと、神学論が何と言おうと、聖書の正しい解釈を伝えければなりません。しかし異端の祭司は聖書を自分の好きなように説きます。これが冷笑的な人々です。

「私たちは、死と契約を結び、よみと同盟を結んでいる。たとい、にわか水があふれ、越えて来ても、それは私たちには届かない。」

異端者は、災厄は自分たちのところを訪れないと言います。彼らは人々に心配するなと言います。破滅と地獄とが彼らを待ち受けていますが、心配するな、自分たちには破滅と地獄はあり得ないと言います。ですから、生きたいのなら、あの異端者たちには近づかないことです。

異端者は、水と御霊によって新たに生まれる必要はないと言います。ほんとうですか? いいえ、全く違います。水と御霊によって新たに生まれなければ、天の国に入ることができません。

天の国に入らなくてもいいですか? これは、地獄で焼かれてもいいかと尋ねるのと同じことです。言うまでもなく、答えはいずれも「いいえ」です。水と聖霊によって新たに生まれる福音を信じて共に天の国に入りましょう。

異端の祭司は人々を誘惑し、イエスを信じているのだから、罪人のままでいても大丈夫、地獄には行きませんよ、と言います。

イエスは人が罪人のままでいても世話をしてくださるでしょうか? 罪人は天国に行けますか? 罪人であっても地獄に行かなくてすむのですか? 聖書には、イエスを信じていれば心に罪があっても地獄には行かなくてよいと書いてありますか?

異端者は、死と契約を結んだので、死は自分たちを訪れないと言います。彼らは、信者は心に罪があっても地獄に落とされることを避けられると言います。ほんとうにそうなると思いますか?

異端者は死と地獄は彼らの前にないと言って人々に自信を与えます。異端の祭司は、新たに生まれていない人々を執事、長老、牧師に任じます。しかし、その人々は水と御霊の福音を信じていないために地獄に行くことになるのです。彼らは信者に水と御霊の福音を信じる心を植え付けるようにするべきです。

信者は、たとえ罪人であっても天国に入る資格があるのでしょうか? 罪人は天国に行けますか? 聖書には罪人は天国に行けるとありますか? いいえ。罪がありながら義である人はいますか? いいえ。異端と偽りの神学論はこうしたことを教えます。

聖書には、「罪から来る報酬は死です。」(ローマ 6:23) と記されています。これは神の律法です。神は罪人をすべて地獄に送られます。しかし、水と御霊によって新たに生まれた人々は天国に迎え入れられます。

「たとい、にわかに水があふれ、越えて来ても、それは私たちには届かない。私たちは、まやかしを避け所とし、偽りに身を隠してきたのだから。」異端の祭司は事実上こういうことを言い、心に罪があっても地獄に行くことはないと確信しています。彼らは偽りの神学論の影に隠れているのですから、神にはお救いになる手立てがありません。彼らは自分たちの神学論だけを信じます。神のみことばではなく自分たちの神学論を信じるのですから、彼らは異端者で罪人であり、地獄に行く定めにあります。そうした人が実に多いのは悲しいことです。



異端者は金のことをだけ考える

異端の祭司の目的とは?
信者からできるだけたくさんの
金を搾り取ること

異端者と偽者の祭司は金のことをだけ考えています。彼らは強欲です。「この人がうちの教会に来たら、いくら寄付するだろうか?」 彼らは人が払う十一献金のことを考えます。これは金の子牛を拝むのに等しいことです。「主よ、どうか成功させてください。うんとお金をもうけさせてください。」偽者の祭司は人々にこんな祈りをするよう教えます。

彼らは、「イエスを信じるのなら、うんとお金が儲かります。不妊症でも妊娠できます。事業がうまくいくでしょう」などと言います。

こうした偽者の祭司に大勢の人々がだまされ、金を騙し取られて、その苦労の代償に地獄へ行くのです。なんという不正でしょう! 異端者に欺かれていた人が事実に気づくと、自分を欺いていた人々にどれだけの金を寄付してきたかを知って驚きます。その人は自分が彼らに従って懸命に努めてきた愚かさを責めます。

異端者は、自分たちが正統と信じるところの宗教の実践にはとりわけ熱心です。彼らの信者は、早朝祈祷会、山上祈祷会、特別献金、十一献金、週ごとの寄付などに献身します。信者からお金を集める口実は実にたくさんあるのです。

彼らの信者は実によく努力するのですが、誰からも水と御霊の福音を教えられないので、心にまだ罪があります。そのことについて質問する人々もいますが、答えを得ることはありません。水と御霊によって新たに生まれていない人はみな異端者です。



あわれな異端者とその信者

この世で最もあわれな人々とは?
水と御霊によって新たに生まれる
ことなく聖職を務める人々

「あわれた異端者たち! まず自分の贖罪のために働きなさい!」偽りの信仰の最たるしるしはヤロブアムの金の子牛を礼拝することです。旧約の時代に異端者が最初にしたことは、神殿を建て、そこに金の子牛を置くことでした (列王記 I 12:25-33)。

今日、彼らは大きな教会を建て、信者から金を強要します。彼らは信者に、壮大な教会建築に寄付するために銀行から借金するようにと言います。会衆の宗教的感情を高めてから献金皿を回します。皿はたちまちのうちにお金、指輪、金時計でいっぱいになります。異端者はこのようにするのです。異端の教会はどこでも同じです。

彼らは外見は霊的なことに関心があるように見えますが、実際は金にだけ関心があるのです。お金のことだけを問題にする教会からは離れていなさい。金持ちだけが優遇されるような教会には行かないでください。会衆のひとりひとりの寄付額を発表することは間違っています。その人たちはもっとお金をほしがっているからです。

異端者は信者をその気にさせるようなことを言います。

「イエスを信じれば恵まれます。」

「神の仕事に身をささげなさい。より多くの仕事をすれば、それだけ多くの恵みを受けられるのです。」

「長老の職につけば、物質的に恵まれますよ。」

そこで信者は互いに執事になろうと競います。代償がなければ誰が長老になりたいと思うでしょう? それに長老は経済的に貢献するよう期待されています。

長老は宗派の教義をどれだけ深く信じているか、社会でどれだけ重要な地位についているか、教会にどれだけの金を寄付できるかによって選ばれます。ほんとうです。

異端者はお金のことだけを考えます。彼らは大きな教会を建てたがります。その人たちは、お金さえたくさん寄付するなら、信者が地獄に行こうと気にしません。

異端者とは、パンのために働く人々です。彼らは聞こえのいい肩書きで人々をとらえます。信者にむやみに肩書きを与え (エゼキエル 13:17-19) ます。これは人々を教会につなぎとめ、教会の富を増すためです。異端者は水と御霊の福音を説きません。彼らは自分たちの懐を肥やすことだけを考えます。

教会にほんの数ヶ月出席しただけの人でも執事になれます。さらに、その人が教義をよく知っていて相当の財力があるのなら、長老に昇格されます。これはみな、金の子牛を神の代わりにしたヤロブアムの罪の恥ずべき伝統です。

異端者は金の子牛に礼拝します。彼らは人々を新たに生まれさせません。世俗的な恵みを約束して信者からただ金を取ります。教会の財政が豊かになりさえすれば、信者が地獄に行こうと気にしません。



異端者は自分の説教を信じない

異端者は「たぶん」「おそらく」という言葉をよく使います。自分の話していることに確信がないからです。彼らはみことばを信じず、自分の説くことをほんとうに信じてはいません。彼らの信仰体系は神のみことばへの信仰の範疇にはありません。彼らは「〜ということが考えられます」と言います。彼らは絶対に明瞭に確信をもって話しません。嘘を教えるくらいなら、信者に何も教えない方がよいでしょう。

異端者は、水と御霊によって新たに生まれるように人々を導くことができません。彼らはただ、さらに多くの人々を地獄に行く定めにするのです。



異端者は偽りの預言者の役をする

御霊に対する冒?とは?
イエスのバプテスマを信じず、
罪人のままでイエスを信じること

マタイの福音書第 7 章には、イエスを信じながら地獄に行くことになる人々のことが記されています。異端者は終りの日に神の前で抗議するでしょう。聖書に記されているように「その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって預言をし、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども、わたしから離れて行け。』」 (マタイ 7:22-23)

彼らは、イエスが人類の罪をすべて洗い流したことを信じません。彼らは水と御霊の福音を信じません。

彼らは不法をなします。これは、どういう意味でしょう? これは、彼らがまだ心に罪がありながら、イエスを信じるように人々に言うという意味です。これのどこがそんなにいけないのかと思うでしょうが、これは神に対する深刻な罪なのです。

罪人が他の人々にイエスを信じることの必要を説くとき、自分が水と御霊によって新たに生まれていなくては、人々が新たに生まれるように導くことができません。そこで異端者は、イエスを信じる罪人だけを作り出すのです。不法をなすのは御霊に対する罪です。

異端者は、神のみことばを信じることも、書かれているとおりに福音を信じることもしません。ただ信者から金を強要します。イエスを信じてはいても、彼らは罪人です。自分が新たに生まれてもいないのに他の人々を導こうとします。このように彼らは不法をなします。



異端者は義人の下手なまがい物

新たに生まれた者とそうでない者とを
どうして見分けるか?
罪があるかどうかを調べる。

自らを罪人だという偽りの祭司にだまされてはなりません。彼らにお金を与えてはなりません。苦労して稼いだお金をあのような罪人に与えてはなりません。

罪の問題を助けることのできない祭司にお金を与える必要はないでしょう。教会にお金を寄付したいなら、せめて水と御霊の福音によって罪が拭い去さられてからにしなさい。

芸術に贋作があるように、実生活にもまがい物があります。例えば、心の罪のすべてを洗い流すことのできないまがい物の宗教があります。まがい物の宗教はどうして見分けられるでしょう? まがい物とは、一見本物らしく見えますが、実際は本物ではないものです。

それは自分で見極めなければなりません。真の祭司とは誰でしょう? 異端者とは誰でしょう? 何が正統の信仰でしょう? 正統である者はイエスとイエスの贖いの力を信じます。その人たちの心には罪がありません。しかし、異端者は心に罪があります。

では、すべての人々は異端者のようなのでしょうか? そうかもしれません。しかし、聖書に戻りましょう。イエスを信じながら新たに生まれていない人は誰でも異端者です。新たに生まれた人が正統であることは明らかです。すると、新たに生まれていない人々は異端ということになります。異端者とは、イエスを信じながら心に罪をもっている人々です。

異端者は義人のまがい物です。イエスを信じることが聖化につながるということは知っているでしょうが、残念ながら彼らはまだ心に罪があります。彼らは、自分は罪人だと信じています。それでも天国に行ける、自分は神を信仰しているのだと主張します。彼らは義であるように聞えますが、まがい物にだまされてはなりません。



異端者には神の裁きが待ちうける

純粋な福音がなぜ
変えられたのか?
にせの祭司と異端者が人間の誤った
考えを福音に加えたため。

「それゆえに、──万軍の主、イスラエルの全能者、主の御告げ。──『ああ。わたしの仇に思いを晴らし、わたしの敵に復讐しよう。しかし、おまえの上に再びわが手を伸ばし、おまえのかなかすを灰汁のように溶かし、その浮きかすをみな除こう。こうして、おまえのさばきつかさたちを初めのように、おまえの議官たちを昔のようにしよう。そうして後、おまえは正義の町、忠信な都と呼ばれよう。』シオンは公正によって贖われ、その町の悔い改める者は正義によって贖われる。そむく者は罪人とともに破滅し、主を捨てる者は、うせ果てる。まことに、彼らは、あなたがたの慕った樫の木で恥を見、あなたがたは、みずから選んだ園によってはずかしめを受けよう。あなたがたは葉のしぼんだ樫の木のように、水のない園のようになるからだ。つわものは麻くずに、そのわざは火花になり、その二つとも燃え立って、これを消す者がいない。」(イザヤ書 1:24-31)

神は、人間が神ではなく人間を信じるのなら、人間のために恥を見ようとおっしゃいます。自分の選んだ教会のために恥を見、この恥は水のない園の木の葉がしぼむようなものだろうとおっしゃいます。

神のみことばよりも人間の規則を信じる偽りの祭司とその信者は火口 (ほくち) に、その行ないは火花となるだろうとおっしゃいます。いずれも地獄で焼かれます。偽りの祭司と罪を赦されていない異端者は、義人の敵や罪人と同様に神の炎に裁かれます。

神学論によってのみ建てられた教会は、外から見ると荘厳ですが、内には何もありません。神のみことばと水と御霊によって新たに生まれる福音への信仰に基づいていない教会は、水のない園のようなものです。

たしかに木であるかもしれませんが、それは実をつけることのない死んだ木です。井戸に水がなければ、それはもはや井戸ではありません。

「つわものは麻くずに、そのわざは火花になり、その二つとも燃え立って、これを消す者がいない。」御霊をもたない者は、他の人間から見れば強そうですが、神の目からすると、地獄の火に投げ込まれる定めにある火口に過ぎません。

主は、「夜回りよ、今は夜の何時か」(イザヤ書 21:11) とお尋ねになります。永遠のいのちをもつ義人は、夜の闇の中で水と御霊の福音を説かなければなりません。

神は光であり、サタンは闇です。神は人々を義へと導き、サタンは混沌と偽りの神学によって偽りの神殿へと導きます。

預言者イザヤの時代、人々の信仰は今と同じように混沌としていました。人々は、神のみことばに神学と人間の規則とを混ぜ合わせました。彼らが人間の作り出した混沌としたものによってイスラエル人をはなはだしく誤り導いたため、神は彼らを処分することになさいました。

「その浮きかすをみな除こう。こうして、おまえのさばきつかさたちを初めのように、おまえの議官たちを昔のようにしよう。」神に絶対に受け入れられることのないささげ物は合金のようなもの、すなわち神の真理と人間の理論の混合物です。

神は混ぜ物の入ったささげ物を決してお受けになりません。人間の目には純粋に見えても、人間の誤った信条と混ぜ合わされ、不純物が入っているために、神はお認めになりません。

神はイスラエル人、とりわけ異端者と偽りの祭司、罪人たちをお叱りになりました。

出エジプト記や民数記を読むと、神は初めは人々をお叱りになっていません。神はイスラエル人を助け、恵みをお与えになりました。しかし、ヨシュアの死後、士師記以後、イスラエル人は侵略を受けます。

しかしながら、彼らは自分たちの道を選びました。当時神は預言者エレミヤを送り、イスラエル人にバビロンに降伏するようお告げになりました。

エレミヤは、人々にバビロンに降伏するよう告げました。これには霊的な意味があって、義である者が異端者に水と御霊の福音に降伏するようにと告げることを象徴しています。



神は異端者をお咎めになる

なぜ神は異端者を
非難なさるのか?
神ではなく偶像に
仕えるから。

神のしもべは、なぜイスラエル人を叱ったのでしょう? それは、彼らがいけにえの制度を変え、普通の人を祭司に任じ、いけにえの日を変えたからです。

彼らは贖いの日を第七の月の十日から第八の月の五日に変え、レビ族以外の者を祭司に任じました。こうして新たに生まれる道をふさいだのです。

神は偽りの祭司をお叱りになりました。神ではなく金の子牛に仕えた者は異端の祭司になりました。

実際のところ、神は偶像を礼拝しただけではお叱りになっていません。私たちも時に偶像を拝むのではありませんか? 私たちはしばしば罪を犯しますが、ただ神の恵みによって咎を深刻な罪とは見なされていないのです。しかし、神を金の子牛と置き換えることは許されません。同じことが、いけにえの制度を変えたり普通の人を祭司に任じることについてもいえます。

こうしたことは実に恐ろしい罪です。最も深刻な罪です。神を金の子牛に置き換えて、どうして許されましょうか。列王記 I 第 12 章 25-26 節と列王記 I 第 13 章には、ヤロブアムの罪が神の怒りを招いたと記されています。

旧約で怒りを示されたように、神は今、ご自分にそむく罪人を滅ぼされます。神はイスラエル人に、金の子牛を礼拝することをやめない者を断罪するとおっしゃいました。



異端者は不法ないけにえをささげる

神に仕える前に
何をするべきか?
すべての罪を洗い流す。

イスラエルの王と異端の祭司は神にそむき、いけにえの制度を軽んじる者たちを祭司職に任じました。よこしまな心をもった王ヤロブアムは、レビ族の出身ではない者を祭司に任じました。

レビ族の者だけが、祭司となって幕屋の中で働けるのです。厳密には、祭司はアロンの家から出なければなりませんでした。これが神の永遠の掟でした。しかし、ヤロブアムはレビ族以外の者を祭司に任じ、金の子牛にいけにえをささげさせました。これが神の怒りを招いたのです。

今日でも、新たに生まれていない人々が聖職者や教会の長老、執事になっています。これは神のおきてにそむくことであり、怒りを招きます。神は不法ないけにえをお喜びになるでしょうか? 異端者は自分たちの金の子牛を破壊し、神に戻って新たに生まれなければなりません。

イザヤ書第 1 章 10-17 節には、次のように記されています。「聞け。ソドムの首領たち。主のことばを。耳を傾けよ。ゴモラの民。私たちの神のみ教えに。『あなたがたの多くのいけにえは、わたしに何になろう』と、主は仰せられる。『わたしは、雄羊の全焼のいけにえや、肥えた家畜の脂肪に飽きた。雄牛、子羊、雄やぎの血も喜ばない。あなたがたは、わたしに会いに出て来るが、だれが、わたしの庭を踏みつけよ、とあなたがたに求めたのか。もう、むなしいささげ物を携えて来るな。香の煙──それもわたしの忌みきらうもの。新月の祭りと安息日──会合の召集、不義と、きよめの集会、これにわたしは耐えられない。あなたがたの新月の祭りや例祭を、わたしの心は憎む。それはわたしの重荷となり、わたしは負うのに疲れ果てた。あなたがたが手を差し伸べて祈っても、わたしはあなたがたから目をそらす。どんなに祈りを増し加えても、聞くことはない。あなたがたの手は血まみれだ。洗え。身をきよめよ。わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け。悪事を働くのをやめよ。善をなすことを誓い、公正を求め、しいたげる者を正し、みなしごのために正しいさばきをなし、やもめのために弁護せよ。』」

この部分を注意深く読むと、イスラエルの宗教指導者たちが極めて信心深かったことがわかります。しかし、信心深さにもかかわらず、誤ったいけにえをささげ、神の律法に逆らったために滅ぼされました。

彼らはいけにえをささげる時に神の掟どおりにせず、みことばに従いもしませんでした。これらの指導者たちは実に信心深かったので、無数のいけにえを神にささげました。聖書には、幕屋の中に血が川のように流れたと記されています。

しかし、神は彼らのしたことをごらんになって、それはゴモラの罪と同じだとおっしゃいました。神は人々がご自分の前にいけにえをささげているのをごらんになったのですが、実際彼らは罪を犯していたのです。いけにえを全くささげない方がよいと神はおっしゃいました。神はいけにえを望まれませんでした。

人々が金の子牛の前にいけにえをささげた時、神は人々の罪をお許しになることができませんでした。もう我慢なりませんでした。神はご自分の命じたとおりの方法でいけにえをささげるようにとおっしゃいました。そうでなければ、いけにえを全くささげない方がよいのです。

いけにえが正しい方法で神にささげられなかったために、祭司は神に対して罪を犯しました。罪を洗い流さずに神に仕え神のわざを行なうことは、神の前に重大な罪なのです。



異端者は学校教師のようなもの

異端者は何を教えるか?
新たに生まれる方法ではなく、
道徳を。

異端者は一見聖く見えます。彼らは説教壇に立つと堂々としているので、大勢の人々が外見にだまされます。彼らの言うことは、いかにももっともらしく聞こえます。そうして、いつでも善を行なうようにと注意して説教を終えます。それは、どのような説教でしょう? 彼らの説教と学校教師の授業とはどう違うでしょう?

教会は、新たに生まれた者が共に神に礼拝する所です。このような教会だけが真の教会です。真の教会は神の前でどのように振舞うべきかを教えようとはしません。真の教会の祭司は水と御霊の福音を説きます。人がどんなに弱くとも、神は罪をすべて洗い流してくださいます。

異端の祭司は信者に「これをしなさい、あれをしなさい」と言って負担をかけますが、自分自身は助けるために小指も動かそうとしないのです。

異端の祭司は自分の子どもに高価なヴァイオリンを買い与え、外国の学校に送り込みます。どうして一介の祭司にそんなお金があるのでしょう? そのお金はどこから手に入れたのでしょう? そんなお金があるのなら、福音を宣べ広げるために使うべきではありませんか? 祭司は高級車を乗り回すべきでしょうか? 重々しく見えるように高級車に乗るべきですか? 高級車を乗り回す祭司は盗人です。信者が小型車さえ買えないでいるときに、祭司が高級な車をもつのは正しいことですか? 彼らの行ないからだけでも異端の祭司は見て取れます。

異端の祭司は巨額の金を要求します。教会の中には、祭司に月一万ドル以上支払うところがあります。そしてこれは正規の賃金だけなのです。彼らは教育費、書籍費、育児費、訪問費などさまざまな経費を支給されています。

それでも十分な金をもらっていないと苦情を言う人々が中にはいるのです。彼らは月に一万ドルをもらっていながら、さらに要求します。一万ドルはささやかな額ですか? 祭司は水と御霊の福音を説いてやっていけるだけのものを得て満足しているべきです。

真の祭司は神から慰めと平安を得ます。しかし、異端の祭司には平安がなく、金銭的な代償を求めます。こうした祭司は実際、金の子牛に礼拝しているのです。

教会は時にシオンと呼ばれます。シオンほど美しい教会はありません。神の教会とは、水と御霊の福音が説かれている所です。

イザヤ書第 1 章 21 節には、次のように記されています。「どうして、遊女になったのか、忠信な都が。公正があふれ、正義がそこに宿っていたのに。今は人殺しばかりだ。」イザヤ書は、教会は「正義がそこに宿っていた」としています。

神は正しく公正です。人間は不完全であり、アダムの子孫として罪と共に生まれるために、イエスが水と御霊によって人類の罪を洗い流すためにこの世においでになりました。神はこのように公正なのです。

旧約では、人々は自分の不完全さを自覚した時に神のもとに来ていけにえをささげました。「私は、これこれのことで過ちを犯しました。私が悪いのです。」それによって毎日の罪を許されました。また、贖いの日に一年の罪の赦しをも受けることができました。

同様に、新約では、イエス・キリストが人類の罪を一度に永遠に洗い流すためにこの世においでになり、バプテスマを受け、十字架につけられました。

しかし、新年礼拝では、大勢の人々が泣き、悔い改めます。「神様、どうか去年一年に犯した罪をお許しください それに、どうか新年にお恵みください。」こうした人々は異端者です。

では、水と御霊によって新たに生まれた者の救済の真理とは、何でしょう? イエスは二千年ほど前にこの世においでになり、人類の罪を一度に永遠に取り除き、永遠に罪からお救いになりました。イエスは水と血とによって人類を世の罪のすべてからお救いになりました。しかし、人類が毎日罪の赦しを求めるなら、イエスは何とおっしゃるでしょう?

「どうして、遊女になったのか、忠信な都が。公正があふれ、正義がそこに宿っていたのに。今は人殺しばかりだ。」自らを罪人という人々は、みな異端者です。



異端の祭司は、水と御霊によって新たに生まれる福音を説くことができない

神は、罪人の祈りを
聞かれるか?
いいえ。罪が神と引き離すため、
神はお聞きになれない。

神は、ご自分を信じながら赦しを求める人々を殺人者とお呼びになります。その人たちは赦しを求め、また自らを罪人と呼ぶのですから、イエスにもう一度おいでになって死んでくれというのでしょうか? イエスのバプテスマと十字架とが救済の実体です。

ペテロの手紙第 3 章 21 節には、イエスのバプテスマが人類救済の型であると記されています。イエス・キリストは人類を罪から救うために一度死なれました。イエスは人類の罪を一度で永遠に洗い流し、三日後に復活なさいました。今イエスは神の右の座に着いておいでです。

イエス・キリストは、人類を罪から永遠に救うためにただ一度バプテスマを受けられ、ただ一度十字架上で死なれたのです。イエスは三十歳のときバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになりました。そして人類を世の罪のすべてから救うためにただ一度、死なれました。これは永遠の裁きが行なわれたということではありませんか?

異端者たちが自分を罪人だと言うのは、イエスにもう一度おいでになって十字架につけられてくれと頼んでいるのです。実際、人々が許しを願うたびにイエスはそれを繰り返さなければならないでしょう。

水と御霊の福音を心で信じる人々は永遠に罪から救われており、天国に行って永遠のいのちを受けるのです。義である人に会う人は誰でも水と御霊によって救われ、神の恵みを受けた民のひとりとなるのです。神の前に義の救済を求める人は誰でも恵まれます。

イザヤ書第 1 章 18-20 節を読みましょう。「『さあ、来たれ。論じ合おう。』と主は仰せられる。『たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。もし喜んで聞こうとするなら、あなたがたは、この国の良い食べ物を食べることができる。しかし、もし拒み、そむくなら、あなたがたは剣にのまれる。』と、主の御口が語られた。」

水と御霊の福音に忠実であれば地の実りを享受できるが、拒み逆らうなら剣にかかるだろうと神はおっしゃっているのです。

神はおっしゃいます。「来なさい、一緒に議論しよう。話そう。あなたたちは不完全ですか? あなたたちは義ではないのですか? あなたたちは自分を愛し過ぎていますか? あなたたちは戒めに従って生きられないのですか? あなたたたちは律法の定めたようにできないのですか? わかっているけれども実行できない? では、わたしに来なさい。あなたたちの罪は緋のようだけれど、雪のように白くなるだろう。あなたたちの罪は紅のように赤いけれど、羊毛のようになるだろう。」 これは、神は公正に罪人を救われ、義となさるという意味です。

神がアダムとイブをお創りになったとき、世に罪はありませんでした。しかし、サタンがすぐに現れます。サタンは二人を誘惑し、神に逆らって罪を犯させ、その結果、人類はみな罪人となりました。サタンが人類を堕落させたのです。初め、アダムとイブは神の前で罪人ではありませんでした。二人は神と共にエデンの園に住みました。しかし、二人は罪人となりました。そこで今、神はお召しになります。さあ、共に議論しよう。話し合おう。

「この世でどれだけの罪を犯しましたか? 死ぬまでにどれだけの罪を犯しますか?」

「ああ、神様。罪を犯さずにいるのは不可能です。どんなにがんばっても聖化されません。」

「ふむ。では、これまでどれだけの罪を犯したのかな?」

「ええと、主よ、全部は思い出せません。でも、気になっているのがいくつかあります。あの時のことを覚えておいでですか? 何のことかおわかりでしょう……それに、あの時のことも、ええと……」

すると、神はおっしゃいます。「それでは聞こう。それで全部だと思いますか? それ以外にいくつあるかわかりますか? しかし、あなたが覚えている罪のすべて、あなたが忘れてしまった罪のすべて、それに将来犯す罪のすべても、わたしは永遠に洗い流したのですよ。それにあなただけではなく、あなたの子どもとその子ども、あなたの子孫の罪もすべてです。わたしは義である神です。わたしはあなたたちの罪を一度で永遠に洗い流しました。」

アダムの罪から地上最後の人間の罪まで、人類すべての罪を流し去られた神はアルファでありオメガ、始めであるとともに終わりです。

「わたしは救い主の全能の神です。」

「わたしはヤーヴェ、あわれみ深い神です。」

「わたしはあわれみに値する者をあわれみ、慈しみに値する者を慈しむ。」

神のあわれみを願い、正直であるならば、神は慈しんでくださいます。父なる神は人類すべてに恵みたいとお思いです。神は人類すべてが義になることをお望みです。神は愛と慈しみから、すべての人間を義である子どもになさりたいとお思いです。


新たに生まれた者に、
神は何を望まれるか?
世界中に福音を宣べ
広ベることを。

神は人間を雪のように白くしたいとお望みです。イエスは、バプテスマと血とで世界の罪を一度に永遠に取り除かれました。教会が信者全員の罪といのちの問題を解決できないのなら、真の教会とはいえません。

人々は祭司のところにやって来て尋ねます。「私には罪があります。どうしたらいいでしょう? 何度も何度も悔い改めましたが、でも罪はなくなりません。もうこれ以上やっていけません。宗教生活を続ける自信がありません。」 こうした問題に正しく答えられないのなら、その祭司は異端者です。彼は「それは、あなた次第ですよ。山に行って祈りなさい。四十日間の断食をなさい」と言うでしょう。

異端の祭司や宗教指導者は不純物だらけなので、水と御霊の福音を知りもしません。彼らは自分たちの魂が天国と地獄のどちらに行くことになるかを知りません。

こうした指導者は、神の前で正しい者ではありません。彼らは偽者であり、異端者です。この人たちは、外見はイエスを信じているように見えますが、心にはまだ罪が満ちています。彼らは自らの罪を洗い流していません。彼らは、罪をすべて洗い流す水と御霊の福音を説くことができません。こうした人々にだまされてはなりません。

御霊についてもっと詳しくお知りになりたいですか? 御霊ついての無料図書をお受け取りになるには、下のバナーをクリックしてください。
新たに生まれる

テトスへの手紙第 3 章 10-11 節には、次のように記されています。「分派を起こす者は、一、二度戒めてから除名しなさい。このような人は、あなたも知っているとおり、堕落しており、自分で悪いと知りながら罪を犯しているのです。」彼らはイエスを信じながら新たに生まれていないために、自らを罪人として断罪しています。彼らは水と御霊の福音を無視し、ないがしろにし、自分たちは罪人であり地獄に行くしかないと言います。

その人たちはキリスト教における異端者です。イエスを信じながら心に罪をもつ人は誰でも異端者です。異端者は神と相容れません。神は聖らかです。しかし、異端者は聖くありません。水と御霊の福音を信じる人々は、すべての罪をきよめられています。ですから、イエスを信じながら心に罪をもつ人は誰でも異端者です。神を信じながらまだ罪人であるという人々からは遠ざかっているべきです。

まだ聞いていない人たち、信じたいと思いながら知らずにいる人々に福音を説きましょう。人々が新たに生まれるのを助けましょう。水と御霊の福音を阻もうとする人々を退けましょう。

水と御霊によって新たに生まれる福音を世界中に宣べ広げるのです。アーメン

リストに戻る

 


印刷用画面   |  

 
Bible studies
    説教
    信仰声明
    福音とは
    聖書用語
    キリスト教に関するFAQ

   
Copyright © 2001 - 2019 The New Life Mission. ALL RIGHTS reserved.