救済・聖霊・幕屋・ヨハネの黙示録についての聖書学習のための無料キリスト教図書

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 重要な主題に関する Paul C. Jong 師による説教

 

聖所の垂れ幕と柱


< 出エジプト記 26:31-37>
  青色、紫色、緋色の撚り糸、撚り糸で織った亜麻布で垂れ幕を作る。これに巧みな細工でケルビムを織り出さなければならない。これを、四つの銀の台座の上に据えられ、その鉤が金でできている、金をかぶせたアカシヤ材の四本の柱につける。その垂れ幕を留め金の下に掛け、その垂れ幕の内側に、あかしの箱を運び入れる。その垂れ幕は、あなた方のために聖所と至聖所との仕切りとなる。至聖所にあるあかしの箱の上に「贖いのふた」を置く。机を垂れ幕の外側に置き、その机は幕屋の南側にある燭台と向かい合わせる。あなたはその机を北側に置かなければならない。天幕の入り口のために、青色、紫色、緋色の撚り糸、撚り糸で織った亜麻布で刺繍した幕を作る。その幕のためにアカシヤ材の柱を五本作り、これに金をかぶせる。それの鉤も金で、また、それらの柱のために青銅の台座五つを鋳造する。

 


聖所

聖所の柱と垂れ幕の色とに秘められた霊的意味について考えてみましょう。ここでいう幕屋は長さ 13.5 メートル、幅 4.5 メートルで、聖所と至聖所の二つの部屋に区切られています。聖所の中には燭代、供えのパンの机、至聖所にいる間に香をたくための壇、あかしの箱、「贖いのふた」が置かれていました。

聖所と至聖所からなる幕屋は、四方を幅 70 センチ、高さ 4.5 メートルのアカシヤ材の板で囲まれていました。幕屋の入り口には、金をかぶせたアカシヤ材の柱が五本立っていました。人が外庭から幕屋に入った戸口自体は青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布で作られた垂れ幕でできていました。

幕屋の外庭には、高さ 2.25 メートルの柱が 六十本立っていました。東側にあった庭の入り口もまた、青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布とでできており、幕屋の庭に入るには、この外庭の入り口を通るしかありませんでした。幕屋の庭には、全焼のいけにえのための祭壇と洗盤がありました。

この二つを通り過ぎると、高さ 4.5 メートルに及ぶ幕屋の入り口に達しました。幕屋の入り口には柱が五本あり、その台座は青銅でできていました。幕屋の庭の入り口同様、幕屋の入り口もまた、青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布とで作られ、五本の柱についた金の鉤で吊られていました。この幕は、幕屋の内と外とを仕切っていました。


まず幕屋の入り口の柱について考える

幕屋の入り口の柱は高さ 4.5 メートルありました。この柱から、青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布でできた垂れ幕が吊られていました。

第一に、幕屋の入り口の五本の柱が高さ 4.5 メートルであった点についてみましょう。これは、どういう意味なのでしょう。これは、人類の罪を消し去って子どもとなさるために、神ご自身がたいへんな犠牲を払われたということを示しています。みなさんや私は根本的に実に不完全で弱い存在なのですから、数多くの違反を行ないながら、この世に生きています。みなさんと私は、この世で四六時中罪を犯さずにはいられない深刻な罪人なのですから、数多くの欠点をもち、違反行為を行なっています。幕屋の入り口の五本の柱は、人類をそうした欠点と世の罪とからお救いになるために、神がひとり子イエス・キリストを人類の罪を贖うための犠牲になさり、それによって実際に世の罪からお救いになったことを示しています。

つまり、人間の欠陥と、この世で犯した罪のために、イエス・キリストはご自分の体を神へのいけにえのささげ物となさって、世の罪を十分以上に贖われ、人類を救われたのです。人が不実なことを行ない、主の聖なるものに対して誤って罪を犯した場合、「罪科のためのいけにえ」として雄羊を連れて来て、それに五分の一を加えて祭司に渡さなければなりませんでした (レビ記 5:15-16)。これは、イエス・キリストがみなさんや私を罪からお救いになるために身をささげられて、十分以上に罪の報いを支払われたということなのです。主は人類の罪を消し去るためにこの世においでになり、人類の罪の「罪科のためのいけにえ」として身をささげられました。

全焼のいけにえや罪のためのいけにえ、和解のいけにえといった、聖書に記されているささげ物は、罪を犯した者が両手をいけにえのささげ物の上に置いて罪をその上に移せるようにと定められたものでした。そのようないけにえのうち、「罪科のためのいけにえ」では、人間の汚点を消し去るためにいけにえのささげ物がささげられました。この「罪科のためのいけにえ」は、人が誤って他人を傷つけたときに被害者に償いをして関係を修復するためにささげられました。「罪科のためのいけにえ」には、罪の償いとしての罰金と賠償金とに 20% を加えることになっていました。これが、「罪科のためのいけにえ」の基本的な規定でした。これは、人が他人を傷つけたときに、その汚点を贖うという目的のために定められたいけにえでした。

みなさんや私は罪から縁遠いでしょうか? 人間は生涯罪を犯しながら生きるのではありませんか? そうしないではいられないのです。みなアダムの子孫なのですから。自分にどれだけの欠点があるか、また、いかに多くの罪を犯しながら生きているのかは、自分でよくわかっています。お互いに、また神に対して、どれほどの邪な行ないをしてきたでしょう? 人間は、こうした邪な行ないを罪であると認識するにはあまりに愚鈍で不完全であるために、しばしばそういうことを忘れて生きています。しかし、みなさんや私は、神の前で自分が実に多くの違反行為を互いに、また神に対して行なってきたか、また神の前には罪人に過ぎないということを認識せずにはいられません。

こうした罪人をすべての罪からお救いになるために、神はイエス・キリストを「罪科のためのいけにえ」として遣わされようとなさったのです。イエス・キリストをいけにえとなさって人類の罪の報いを受けさせることによって、神は人類に救済の恵みをお与えくださいました。父なる神が、ただ人類をその罪から救ってご自分の民となさるためだけに御子をこの世に遣わされ、バプテスマを受けさせ、十字架につけさせたのです。どうしたら、この尊い犠牲に応えることができるでしょう。罪人をすべての罪からお救いになるために、主は罪を贖ういけにえとなられ、そうして世の罪から人類をお救いになりました。これが神の驚くべき恵みでなくて何でしょう。神の愛はなんと深く、広く、高いのでしょう。幕屋の入り口の柱が高さ 4.5 メートルあったという事実そのものが、神がイエス・キリストをお与えくださった愛を物語っています。

私たちのようなつまらない存在を罪の罰からお救いになるために、主はご自身をいけにえとなさったのです。このことを神に感謝いたします。罪の罰として地獄に行くのが不可避であったときに、主が人類を罪からお救いになるために身をささげられたのです。どうして感謝せずにいられるでしょう。神に感謝します。ヨハネからバプテスマをお受けになって、イエスは尊い身に人類の罪を負われ、罪の代価を十字架上の血で支払われ、そうして罪と罰とからお救いくださったのです。ですから、この福音への信仰によって感謝するばかりなのです。これが、幕屋の入り口の柱に表わされた救済の深い意味なのです。

幕屋の入り口の柱は、それぞれ高さ 4.5 メートルありました。聖書では、「5」という数は「神の恵み」を意味します。ですから、五本の柱があったということは、神のお与えくださった救済の賜物を示しているのです。神は人類を愛され、救済の愛で包まれ、ご自分の民になるために欠けるところのないようになさったのです。聖書では、金は、青色・紫色・緋色の撚り糸と撚り糸で織った亜麻布とで人類を救われた神を信じる信仰を表します。つまり、聖書は金によって、神ご自身がこの世に来られ、バプテスマをお受けになって人類の罪を負われ、十字架上で死なれ、死者の中からよみがえられて、それによって人類を完全に義となさったということを心の底から信じる「信仰」のことを告げているのです。聖所の柱がどれも金をかぶせてあったのは、このためです。

幕屋の入り口の柱の台座が青銅で作られていたのは、主が身代わりとして罰をお受けになって、罪のために地獄に行くしかなかった人類をバプテスマと十字架上の血とによって救われたことを示しています。人間は欠点だらけなので、死につけられるしかないつまらない存在だったのですが、それでもご自分の民となさるために、絶対的で聖なる神が、人間よりはるかに尊いご自身をいけにえとなさり、それによって人類を父なる神の子どもとなさったのです。「金」がこの真理を信じる信仰を意味するのは、このためです。幕屋の入り口の色は、このように解釈するべきものであり、また、これについて考え、感謝し、心の核心で信じなければならないのです。


幕屋の柱の青銅の台座

幕屋では、その戸口にあった柱の台座だけが青銅でできていました。これは、この地上でみなさんや私が互いに、また、神に対して数多くの罪を犯しており、そうした罪のために滅びることを免れないということを示しています。この青銅の台座に秘められた真理は、全焼のいけにえの祭壇について考えさせます。門から幕屋の庭に入って罪人がまず出会ったのは、全焼のいけにえがささげられた、全焼のささげ物のための祭壇でした。

ここでいう「祭壇 (altar)」には、「昇る」という意味があります。全焼のいけにえの祭壇は他でもなく、イエス・キリストがバプテスマをお受けになり、十字架上ですべての罪人の身代わりとなってささげられたということを示しています。全焼のいけにえの祭壇は、手を置くことによって罪を負わされたささげ物が、背負った罪の罰として殺された場所でした。祭司は、こうしたいけにえのささげ物の血を全焼のいけにえの祭壇の角につけ、残りをその下の砂地に注ぎ、肉は祭壇の上で焼きました。そこは、罪を被ったささげ物が殺された、死の場所でした。

全焼のいけにえの祭壇は、幕屋の庭の門と幕屋との間にありました。ですから、幕屋に入ろうとする者はみな、まず全焼のいけにえの祭壇の前を通らなければなりませんでした。ですから、全焼のいけにえの祭壇を通らずには幕屋に入ることは絶対にできなかったのです。言うまでもなく、全焼のいけにえの祭壇は、イエス・キリストのバプテスマと十字架との影そのものでした。そして、主のバプテスマと十字架とは、神の前に来たすべての罪人の不正を贖ったものだったのです。

ですから、まず罪をもってきて全焼のいけにえの祭壇の前で止まり、いけにえのささげ物に手を置くことで罪をその上に移し、ここでいけにえの血を流すことによって自分は罪から救われたのだと思い起こさずには、罪人は神の前に行くことができないのです。この信仰が神の前に行く道であり、同時に罪の赦しの恵みと罪の罰、つまり、罪のゆえの死を身代わりとして受けさせることへと導くものなのです。

イスラエル人は、罪を贖うためにいけにえを連れて来ると、まず手をその頭に置いて罪を移してから殺して血を採り、その血を全焼のいけにえの祭壇の角に塗り、残った血はみな祭壇の土台に注ぎました。全焼のいけにえの祭壇の下の地面は土でした。ここで「土」は人間の心を表します。ですから、これは、救済の律法に基づいていけにえのささげ物が罪を受けて身代わりとして死んだのだと、罪人が心から信じて罪の赦しを受けることを示しているのです。全焼のいけにえの祭壇の角は、『いのちの書』に霊的に記されている罪のことを告げています。

旧約の時代の罪人は、いけにえのささげ物の頭に手を置いて罪をその上に移したと信じて罪の赦しを受けることができました。このささげ物が血を流し、全焼のいけにえの祭壇にささげられました。罪人がそれによって罪を贖うことができた、手を置くことといけにえのささげ物を焼くこととが行なわれなければ、人が神の前に行く道は完全に塞がれ、もはや聖なる神の前に進むことはできなかったでしょう。つまり、このいけにえの制度以外には、神の前に行くことを可能にする真理はなかったのです。

このように、イエス・キリストのバプテスマと死、贖いのいけにえへの信仰なしには、人が罪の赦しを受けて神の前に行く道はないのです。どんなに美しく、完全で、かわいらしく、傷のない子羊をイスラエル人が祭司の前に連れて来たとしても、その頭に手を置かなければ、それによっていけにえが罪を負っていなければ、また、いけにえが血を流して死ななければ、何の役にも立たなかったでしょう。

信仰の問題については、イエス・キリストがヨハネからお受けになったバプテスマと十字架上で流された尊い血が人類の罪をすべて贖ったのだと信じなければ、完全な罪の赦しを受けたとは言えないのです。イエスがお受けになったバプテスマと十字架上の死とが罪人と神との間にあって、それが罪人をその咎から救う仲立ちとなっているのです。

全焼のいけにえの祭壇は、天におられる万物の支配者であられる神ご自身がはからわれ、イエス・キリストによって成就された救済のご計画の型なのです。モーセは、神がシナイ山で示された救済の方法と型に従って幕屋を築きました。聖書を読むと、この指示が繰り返し与えられていることが見て取れます。出エジプト記第 25 章 40 節には、「よく注意して、あなたが山で示される型どおりに作れ」とあります。

人々は十字架を作ってそれにイエス・キリストをつけることはできましたが、他には何もできません。人々はイエスの手を縛り、ゴルゴタに引いていくことはできました。彼らは自分たちが神の前で何をしているかを知らないままに、イエスを十字架につけました。こうしたことは、神がすでにご計画になった摂理に従って成就されなければならなかったことなので、罪人はここまでは行なうことができたのです。しかしながら、バプテスマと十字架上の血とによってすべての罪人をただ一度で救われたのはイエス・キリストでした。バプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになって世の罪を負われ、それをすべて一度に洗い流され、十字架上で血を流されたのです。

ですから、主イエス・キリストが十字架上で死なれる前にヨハネからお受けになったバプテスマが人類救済にとって不可欠な、最も重要な出来事であったのです。イエスが罪を被られたことと罪の罰をお受けになることとは、創造の前からすでに神が定めておられたことです。ヨハネの福音書第 3 章で、イエスはニコデモに、これが 水と御霊の福音であるとおっしゃっています ですから、イエスのバプテスマと十字架とは、神が事前にイエス・キリストのうちにご計画になっていた摂理なのです。

イエスご自身が、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ 3:16) とおっしゃっています。また、イエスのバプテスマについて、ペテロもまた、「そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです」(ペテロI 3:21) と言っています。さらに、使徒の働きには「あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました」(使徒 2:23) と記されています。

イエスがお受けになったバプテスマと十字架上の血とは、万物の支配者であられる神の意図とご計画にしたがってすべて成就されました。こういうわけで、この真理を心に受け入れて信じることなしには、誰ひとり神の御国に入ることができないのですから、人は神が人間から信仰を求められると知って、信仰をもたなければならないのです。水と御霊の福音を信じる信仰なしには、誰ひとり救われることができません。イエスがご自分から進んでヨハネからバプテスマをお受けになり、ご自身を罪人の手に渡して十字架上で血を流そうとお決めにならなければ、罪人はけっしてイエスを十字架につけることができなかったでしょう。イエスは、ゴルゴタに引かれて行くようにと他人から促されたわけではなく、完全にご自分の意思によってバプテスマをお受けになって世の罪を被られ、十字架上で血を流され、それによって罪人をその罪のすべてからお救いになったのです。

イザヤ書第 53 章 7 節には、「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない」とあります。ですから、主イエス・キリストのバプテスマと十字架上の死とは、完全にご自身の意向によるものであり、それによって、イエスのバプテスマと十字架上の血とを信じる者たちをただ一度ですべての罪からお救いになったのです。主のみわざに関して、ヘブル人への手紙の著者もまた、「しかし、キリストはただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです」(ヘブル 9:26) と記しています。

キリストのバプテスマと十字架上の死との影である全焼のいけにえの祭壇に、天の救済の霊的賜物を見ることができるのです。全焼のいけにえの祭壇でのいけにえのささげ物の死は、すべての人間の罪のために必要であったイエスのバプテスマと死とを示しているのです。旧約では、手を置くことによって罪を負わされ、身代わりとして死んだいけにえのささげ物によって、罪人は咎を贖いました。同様に、新約では、神の御子がゴルゴタで残虐に殺される以前、まずヨハネから授けられたバプテスマによって世の罪を被られました。このためにイエスは十字架につけられ、血を流して死なれなければならなかったのです。

ですから、神は、御子を殺した殺人者たちとご自分の間に和解をもたらすために、イエスが手を置かれ、十字架につけられて死ぬように予め定められたのです。神は、手を置くことと死とからなる救済の律法を定められました。そして、この律法に従ってイスラエル人がいけにえのささげ物をささげることで罪の赦しを受けることができるようになさいました。

つまり、罪人をお救いになる、ただそのために神ご自身が和解のいけにえとなられたのです。神のこの救済は、なんと果てしなく深く、賢明で正しいことでしょう。神の知恵と真理は実に驚くべきものであり、人間には到底窺い知ることができません。手を置くことと血を流すことからなり、全焼のいけにえに具現された救済の摂理を誰が想像できるでしょう。パウロ同様、人間にできることはただ、「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう」(ローマ 11:33) と、ただ感嘆するしかないのです。水と血と御霊の福音は、神が罪人を完全にお救いになった、唯一の正しい福音なのです。


全焼のいけにえの祭壇の角

幕屋の庭に置かれた全焼のいけにえの祭壇の四隅には青銅の角がついていました。聖書では、この角は罪の裁きを表します (エレミヤ 17:1; 黙示 20:11-15)。このことから、十字架の福音が、イエスがお受けになったバプテスマに基づいていることが分かります。ですから、使徒パウロは「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です」(ローマ 1:16) と言いました。また、コリント人への手紙第一 第 1 章 18 節には、「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です」と記されています。

全焼のいけにえの祭壇の角は、神の正しい裁きと救済とがバプテスマと十字架上の死とよみがえりとによって完全に成就されたことを明確に告げています。


全焼のいけにえの祭壇の環につけられた 二本の棒

荒野で造られた幕屋の道具類は、みな持ち運びできるようになっていました。これは、イスラエル人の放浪生活に合致したものでした。彼らはカナンの地に定住するまで荒野をさまよわなければなりませんでした。荒野を行く間は放浪生活が続いたため、イスラエル人が移動するよう神から命じられたときに祭司が祭壇を運べるよう、神は全焼のいけにえの祭壇の環に通すための棒を二本用意おさせになりました。

出エジプト記第 27 章 6-7 節には、次のようにあります。「 祭壇のために、棒を、アカシヤ材の棒を作り、それらに青銅をかぶせる。それらの棒は環に通されなければならない。祭壇がかつがれるとき、棒は祭壇の両側にある。」 二本の棒は全焼のいけにえの祭壇の両側についた四個の青銅製の環に通されているので、レビ人は、イスラエル人が移動する際に祭壇を担いで運ぶことができました。全焼のいけにえの祭壇は、キリストのバプテスマと十字架とを表わします。ですから、レビ人が二本の棒で全焼のいけにえの祭壇を持ち上げて荒野を運んだように、イエスのバプテスマと十字架の福音もまた、この世の荒野をしもべによって運ばれるのです。

次に進む前にもう一つ確認しておかなければならないことは、イスラエル人が全焼のいけにえの祭壇を運ぶために二本の棒が用いられたという点です。同様に、水と御霊の福音もまた、二つの部分からなっています。一つはキリストがヨハネから授けられたバプテスマであり、もう一つは主イエス・キリストが十字架上でお受けになった罰です。この二つが一つになって、罪の赦しの救済は完了しました。全焼のいけにえの祭壇には二本の棒がありました。つまり、これには取っ手があったのです。一本の棒では不十分でした。棒一本では、運ぶときに祭壇が安定しません。

同様に、水と御霊の福音もまた、二つの部分からなっています。イエス・キリストがヨハネからお受けになったバプテスマと、十字架上で血を流されたことです。つまり、イエスのバプテスマと十字架上の死とは互いに補い合う要素であり、二つで正しい真理をなしているのです。イエスのバプテスマと血とが罪人の罪の赦しを正しく完了しました。この二つ、イエスのバプテスマと十字架上の死は、一方が無視されれば他方を無視するのと同じことになるのです。キリストのバプテスマと流血とがなければ、救済はあり得ません。

もちろん、よみがえりはもまた重要です。キリストのよみがえりがなければ、死は空しく、何の効果もなかったでしょう。死せるキリストだけを信じるなら、主は誰ひとり、ご自身さえもお救いになることができなかったでしょう。しかし、バプテスマをお受けになり、十字架上で血を流して死なれ、再び生きるために死を克服なさったキリストは、水と御霊の福音を信じて神の下に来た者にとっての真の救い主となられました。イエスはまた、永遠の救済の主・守り手となられました。

よみがえりなしにキリストの死だけを広めることは不合理であり、ごまかしに過ぎません。キリストのよみがえりなしには、十字架は神の失敗に過ぎなかったでしょう。またイエスをただのつまらない犯罪者にしてしまったでしょう。そればかりではなく、神を嘘つきよばわりし、聖書のみことばを嘲ることになってしまったでしょう。キリストはヨハネからバプテスマを授けられ、十字架上で死なれて死者の中からよみがえられ、それによって信じる者の救い主となられたのです。

今日のキリスト教徒の多くが信じている、イエスのバプテスマを除外した福音は、神を裏切り、人々を欺いて魂を地獄へと導きます。そのような福音を信じることは、神の永遠の真理のみことばを無視して退けることです。キリストの十字架だけを教える偽預言者は、キリスト教を世の数多くの宗教の一つに過ぎないものにしています。その人たちの従っている福音が水と御霊の真の福音とは全く違っているのは、このためです。

キリスト教は、唯一の神と生けるキリストを信じる唯一の宗教です。しかしながら、キリスト教が他の世の宗教すべて以上のものに見えていて、まことの真理であると主張していたとしても、水と御霊の福音への信仰を取り残してただ一神教的な信仰を説くだけなら、それは愛と真理の信仰ではなく、高慢の宗教に過ぎません。


全焼のいけにえの祭壇の場所

ここでもう一度、幕屋の庭の全焼のいけにえの祭壇が置かれていた場所について考えてみましょう。幕屋に備えられた物のうち、全焼のいけにえの祭壇は最も大きな物でした。これはまた、祭司が礼拝のために聖所に入ろうとするときに幕屋で最初に出会う備品でした。全焼のいけにえの祭壇は神への信仰の始点でしたが、人々が神に近づく際には、一定の手順に従う必要がありました。つまり、全焼のいけにえの祭壇は、不信仰者ではなく信者となって罪の問題を解決しなければならないという真理を表しているのです。イエスがヨハネからお受けになったバプテスマと十字架とを信じずには、誰ひとり生ける神の前に進むことはできないためです。

神の御子のバプテスマと死とを信じることによって、人はすべての罪から救われているのです。信じないことによってではありません。聖徒は、ただ神の御子のバプテスマと流血とを信じることによって罪から救われ、新たないのちを受けています。この水と御霊の福音が極めて重要かつ根本的で、最も完全であるため、繰り返しこれに思いを致さなければならないのです。この福音を認め、信じるのです。人間はみな地獄に行く運命にあると心から信じ、また、この信仰とともに、主がバプテスマをお受けになって人類の罪をすべて被られ、十字架上で血を流されて人類の罪の罰をお受けになったと信じるのです。

全焼のいけにえの祭壇と同様に、幕屋の入り口の柱の台座もまた青銅でできていたことは、人間は誰もが欠点のゆえに地獄に投げ込まれる運命にあることを認めなければならないということを示しています。そして、「罪から来る報酬は死」と告げている神の裁きによると、人間はみな罪のために地獄に行く運命にあることは明らかです。

しかし、ほんとうに地獄に行かなければならない、そのようなつまらない存在を罪のすべての裁きからお救いになるために、主は肉の体でこの世においでになり、バプテスマをお受けになって人類の罪をその身に負われ、世の罪を十字架に運ばれ、罰を受けて血を流され、そうしてみなさんや私を完全に罪と罰とからお救いくださったのです。この真理を信じる者だけが神の教会に加わり、神の民となることができるのです。幕屋の入り口の垂れ幕と柱とは、この信仰をもつ者だけが神の民となって御国に入ることができることを示しているのです。


幕屋の垂れ幕の四色によって示された 真理を信じる

みなさんは、主がこの世に来られて青色・紫色・緋色の撚り糸と、白い撚り糸で織った亜麻布に示されたみわざによって人類を救われたと信じますか? 紫の糸は、イエスが神であられることを示しています。青い糸は、神であられるイエスがこの地上で人となられてバプテスマをお受けになり、人類の罪を被られたことを示します。そして、緋の糸は、人類の罪をすべて負われたイエス・キリストが十字架につけられてご自身を犠牲になさったことを示しているのです。イエスのバプテスマと十字架につけられたイエスが死者の中からよみがえられ、それによってみなさんや私を完全にお救いくださったと信じることが肝要です。

この真理を心から信じる者だけが神の教会の働き手となることができるのです。幕屋の入り口の柱は、働き手を示しています。先に述べたように信じる者だけが神の民であり、そうした者だけが働き手、柱として神に仕えることができることを示しているのです。

白い撚り糸で織った亜麻布は、神の民、義人となった者は心に少しも罪がない者であることを告げています。義人とは、青色・紫色・緋色の撚り糸の真理を信じて罪の赦しを受けた者です。主は、この地上に来られてヨハネからお受けになったバプテスマと十字架上の血とによってすべての罪人を救われました。主は尊いいのちをささげられることによって人類を救われたのですから、私たちは水と血によって来られた主を信じるしかないのです (ヨハネI 5:6)。

紫の糸は、イエスが王の王であられるということを示しています。つまり、卑しく欠点だらけの人類を主が尊いいのちをお捨てになって救ってくださり、そうして人間を神の民としてくださったと信じなければならないのです。さて、この真理を心から信じさえすれば、完全な救済への信仰によって、みな罪のない義人となることができるのです。私たちがそのような信仰をもてるようにこの信仰の贈り物をくださったことを神に感謝しましょう。

実際、聖徒がこの真理を信じるようになったことは、それ自体が神からの贈り物なのです。罪からの救済もまた、神からの贈り物です。神は、人間よりはるかに尊いご自分のいのちをくださって人類を罪からお救いになりませんでしたか? イエスがバプテスマをお受けになり、十字架上で死なれ、死者の中から復活なさって救済の賜物をくださったために、今この福音を信じる者はみな、救済の贈り物を受けて神の民となることができるのです。救済のことに関しては、人間自身による働きはまったくありません。ただ青色・紫色・緋色の撚り糸によって来られたイエス・キリストを信じること以外には、するべきことは何ひとつありません。救済は神から人間への贈り物です。

イエスへの信仰はまず、「人間はほんとうに地獄に行く運命にあるのだろうか」と考えるところから始まります。なぜでしょうか。なぜなら、初めて自身の罪深い本性を知ったとき、イエスが人類の犯した罪の「罪科のためのいけにえ」となられたことを信じざるを得ないためです。罪を犯していても救われることができるのは、人類に代わって犠牲になられた主がお与えくださった救済の賜物によって可能になったことなのです。私たちは、イエスを信じることだけで救われていますか? それで、信仰によって神の民となっていますか? ほんとうにそのような信仰をもっていますか? 救済は自らの行ないによるのではなく、神からの贈り物であると告白できますか? 神のくださった救済の賜物を信じる前に、人間はみな地獄に行く運命にあったと認めましたか? こうしたことを再度確かめるのです。


幕屋はイエスの細密な肖像画

幕屋に表された真理は、偽預言者の口を閉ざします。彼らの前で聖徒が幕屋のみことばを開き、それについて話すと、彼らの偽りがすべて暴露されます。

幕屋の入り口の柱はすっかり金で覆われていました。このことから、幕屋のどこにも人間の跡がないことがわかります。幕屋の中の物にはみな金がかぶせてありました。戸口の柱には金がかぶせてあり、柱の上部もまた金がかぶせてありました。しかしながら、柱の台座は青銅でできていました。このことから、罪と欠点のためにみなさんや私はみな地獄に行く定めにあることがわかります。そうではありませんか? ほんとうにそうではありませんか? みなさんもまた、毎日犯す罪と汚点のために地獄に行く定めあると、ほんとうに信じていますか? みなさんが罪のために地獄に行く定めにあることは、神の正しい裁きによっているのです。では、この裁きを受け入れますか? そうしなければなりません。これは単なる知識ではありません。信じて受け入れるべきことです。

聖書には、「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」(ローマ 10:10) とあります。自分が地獄に行く定めにあると心で認め、主が青色・紫色・緋色の撚り糸で表されたみわざによって成就された救済の賜物をくださって救ってくださったと信じて、人は聖所に入って暮らすことができるのです。聖徒は、主がこの地上に来られ、人間よりはるかに尊いお方がバプテスマをお受けになって人類の罪を被られ、十字架上で血を流して死なれ、そうして人類の罪をすべて洗い流して滅びからお救いくださったと信じています。青色・紫色・緋色の撚り糸でお救いくださって、主は人間を義人となさいました。

これを心の底から信じなければなりません。この真理を心の底から信じる者だけが神の教会に加わり、神の民・働き手となることができるのです。この真理をただの人間の考えによるものとして受け入れることは、真の信仰ではありません。「なるほど、幕屋にはこういう意味があるのですか。青色・紫色・緋色の撚り糸については、よく教会で聞いていましたが、そういうふうに解釈できるのですね。」 これまでは真理を頭の中でこのように信じていたとしても、今は水と御霊の福音を心から信じるべき時なのです。

幕屋の入り口の柱の台座は、青銅でできていました。青銅の台座は幕屋の入り口の五本の柱にしか使われていません。至聖所の垂れ幕を吊った柱には青銅の台座が使われていません。その柱の四つの台座は、みな銀でできていました。聖書では、銀は神の賜物と恵みを、金は心の底から信じる真の信仰を示しています。それに対して、青銅は罪の裁きを表わします。人間はみな罪のために神の裁きを受けることになっているのではありませんか? みなさんの一人一人が、罪と汚点のために神と人々の前で裁かれなければなりませんでした。そうではありませんか? みなさんだけがそうだと言っているのではありませんよ。そうではなくて、神の前で私自身もそうなのだと認めます。つまり、これをみなさんだけでなく自分自身にも問うているのです。そして、私について言えば、自分は汚点のために裁かれる定めにあったのであり、罪のために律法に従って地獄に行く定めにあったのだと、神の前で心から認めます。これは、はっきりと認めます。

そんな私のような人間のために、主はこの世に来られたのです。主は人間の肉の形でおいでになり、バプテスマをお受けになって私の罪をすべて被られ、十字架上で死なれて私の罪の罰をすべてお受けになり、そして、死者の中からよみがえられて完全な救い主となられたのです。私はこう信じているのです。そして、このように信じることによって、神が創造の以前にすでにご計画になっていた救済はすべて完了したのです。私がこれを心の底から信じたときに完了したのです。

みなさんの心もまた、同じです。この真理を信じることによって、神がこの世界をお創りになる以前にすでにイエス・キリストの中にご計画になっていた救済もまた、みなさんの心の中で完了したのです。人間をご自分の民になさるという神のご計画は、人がこのご計画を心の底から信じたときに成就するのです。心で信じることによって、真の救済は心の底に生まれます。救済は、人間の肉の考えによって成し遂げられるものではありません。救済は、どんな神学的教義によっても得られません。そうではなくて、これは真理への信仰によってのみ得られるのです。


創造の以前にすでに救済はイエス・キリストの うちに計画されていた

救済は、イエス・キリストにある者にバプテスマと十字架上の血とによって与えられた賜物です。この救済は、この地上で約二千年前に実際に成就されました。この救済の賜物からは、誰ひとり除外されていません。すべての人々の罪を消し去ろうという神の救済のご計画をイエスが成就なさったからです。ですから、この救済を心の底から信じる者はみな、神の子どもとなっているのです。彼らの罪はすべて雪のように白く消され、また彼らは価なく罪の赦しを受けています。

しかし、この世には罪の赦しを受けていない人々が大勢います。それは、どのような人々でしょう? 知っていながら真理を信じない人々です。自分は地獄に行く定めにあると心の底から告白しない人々、水と血と御霊の福音を認めない人々、そうした人々は、主と関係がありません。

神の救済は、自分の罪深い本性を知り、罪のために呪われて地獄に落ちる定めにあると認める者だけに与えられるのです。幕屋の入り口の青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布で作られた垂れ幕を吊った五本の柱は、どこに立っていたでしょう? 青銅の台座の上に据えられていました。みなさんと私は罪のために地獄に行く定めにありました。この事実を認めたときはじめて、救済はこの認識の上に立てられたのです。「神は世をたいそう愛されたので」、みなさんや私のために主はこの世においでになり、バプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになって犠牲となって十字架上で血を流され、それによって罪からの救済をお与えくださったのです。

ですから、みなさんも私も心から水と御霊の福音を信じなければなりません。少なくとも一度、心は、「私はほんとうに地獄に行く定めにあるのに、主が水と御霊によって救ってくださったのだ」と認めなければならないのです。それから、心で信じて救われるのです。ローマ人への手紙第 10 章 10 節には、「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」とあります。

救済を心の底から信じ、それを口で告白するのです。「主は青色・紫色・緋色の撚り糸でお救いくださいました。私は地獄に投げ込まれて滅びるはずであったのに、主が罪を洗い流してくださり、罪を被られ、身代わりとなって罰をお受けになり、そうして完全にお救いくださったのです。主は私を完全に神の子どもとなさいました。」 このように心の底から信じ、口で告白するのです。信じていますか?

もしや、青色・紫色・緋色の撚り糸の真理を信じていながら、主がこのようにして救ってくださったと信じながら、まだ自分が地獄に行く定めにあることを認めていないのですか? 聖書には、「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」(ローマ 3:23) とあります。真の信仰とは、すべての人が罪を犯して地獄に行かなければならないのに、主はこの世に来られてバプテスマをお受けになり、十字架上で死なれ、死者の中からよみがえられて、それによって人類を義人となさったのだと信じることです。

この救済は、なんとすばらしいものでしょう。ただ驚くべきことではありませんか? 幕屋は、どのようにでも作られたものではなく、神の詳細にわたるみことばに従って作られました。神は幕屋によって、ご自分の尊いいのちをささげて人類をお救いになると予言なさったのです。神は幕屋によって、イエスがバプテスマをお受けになり、十字架上で死なれて尊い救済をお与えになること、人間はただこれを心の底から信じればよいのだと告げられました。誰が人に救済を与えることができるでしょう。人は、みなさんと同じような人間の肉の形で来られたイエス・キリストを信じることによって救われます。

誰かが人の罪と罰とを身代わりとなって引き受けたなら、十分以上に感謝する理由になるでしょう。しかし、人間よりは何百万倍も尊く豊かな主イエスは、人類のために尊いいけにえとなってくださったのです。これは、どんなにありがたいことでしょうか。いと高き主が青色・紫色・緋色の撚り糸で救済をお与えくださったことは、なんという尊い贈り物でしょう。この賜物は、なんとありがたいものでしょう。どうして心で信じないでいられるでしょう。

自身の罪深さを認める者全員がこの真理を信じなければならないのは、このためです。この真理を信じる資格があるのは、自分が地獄に投げ込まれることを免れないと認める者です。自分がほんとうに罪人であり、確実に地獄に行く定めにあるのだと認める者だけが神の尊い救済を信じ、また、信仰によってそれを受ける資格があるのです。真理を心の底から信じる者は、神の教会の働き手となることができます。

取るに足りない能力によってこの世界で有名になった人々と比べてみても、私たちは何ひとつ誇るべきものをもたない、卑しい存在です。それなのにどうして、聖く完全で万能の神の前で自らを誇ることができるでしょう。神の前でできることはただ、欠点のために死ぬことを免れない存在であるというのに、そんな人類を主がお救いくださったということを認めることだけです。

聖書には、「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」(ローマ 6:23) とあります。確かに、人間は罪のために死の報いを受けなければならないのです。しかし、主が地獄に行く定めにあった人類をお救いくださったので、今はこの信仰によって天国に行くことができるのです。この信仰がなければ、みな永遠に地獄に行かなければならないのです。そうではありませんか? もちろん、そうです。人間はみな地獄に投げ込まれても仕方がないのです。

しかし、いと高き主が底知れなく深い愛によってこの世に来られ、バプテスマをお受けになり、十字架上で血を流して罰をお受けになったので、確実であった地獄の定めを免れることができているのです。主が尊いいのちを人類のためにささげてくださったので、聖徒は罪の赦しを受けました。それなのに、主が罪のすべてから一度で永遠に救ってくださり、そうして救済の賜物をくださったと、どうして信じないでいられるでしょうか。どうして義人となることを拒めるでしょう。どうしてこれを信じないでいられるでしょう。幕屋の垂れ幕を吊った柱が金で覆われていたように、人間もまた心を信仰で完全に覆わなければならないのです。自身を信仰ですっぽりと包むのです。水と御霊の福音を心の底から信じるのです。この真の福音を心の底から信じることなしには、人は神の前に行くことができません。

信仰によって、ほんとうに地獄に行く罪人になることができます。信仰によって、神の前で義人となることもまた可能です。つまり、信仰によって、主が水と御霊によって人類を救ってくださったと信じることによって、罪人は罪の赦しを受けることができるのです。「人間には、一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブル 9:27) という主のみことばは、このようにして成就されるのです。

人間は初めにこの世に生まれてきたとき、すでに罪のために滅びに定められているのです。しかしながら、神は主イエス・キリストによる救済の恵みをお与えくださいました。ですから、水と御霊の福音を心の底から信じることによって、聖徒は神の子どもになることができたのです。神は信じる者すべてに救済の無条件の愛をくださいます。しかし、この福音を信じない者を不信の罪によって滅びに定められます (ヨハネ 3:16-18)。


救済の二つの真理を信じよ

人間は罪のために呪われて死に定められた罪人であったのですが、神がご計画になり、お与えくださった青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布の救済によって、罪の赦しを受けたのです。よろしいですか、神に「私はほんとうに地獄に行くのです」と告白しなければならないのです。そしてまた、「しかし、主が水と血によって救ってくださったと信じてします」とも告白するのです。人間は水と血と御霊の福音、すなわち青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布の真理を信じなければならないのです。この真理を心の底から信じることによって、聖徒は救われているのです。福音を信じることによって、聖徒は救われました。

聖徒は、水と御霊の福音を信じることによって救われています。主が、地獄に行くはずであったすべての人類を青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布によって救ってくださったと信じてはじめて、人は神の民となれるのです。信じていますか? 青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布への信仰だけが真の信仰なのです。

これが幕屋の入り口の垂れ幕に示された霊的意味なのです。信じていますか? 真理を心で信じるようになると、真の信仰について正しく語ることができます。真の信仰とは、心で信じることなしに真理を口先だけで告白することだけではなく、真理を心の底から信じてそれを口で告白することなのです。人間を永遠に救った青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布の救済を信じるのです。

どんなに懸命に神に仕えても、感謝の意を十分示すことはできません。では、どうして救済のことを忘れることができるでしょう。地獄に行くことを免れなかったみなさんと私を、主がすべての罪から救ってくださったことを、どうして忘れることができるでしょう。自身の汚れが毎日露呈されるというのに、どうして水と御霊の福音を忘れることができるでしょう。この福音による以外には救われる道がないというのに、どうしてこの福音を無視することができるでしょう。聖徒は常に感謝の気持ちをもっています。聖徒は常に喜んでいます。いつでも主をたたえずにはいられません。

この真理を知らない人々は、神は人類をおもちゃとしてお作りになっただけで、からかって面白がっているのだと言います。彼らは神に敵対して言います。「神は退屈してるのでしょう。人間をおもちゃとして作り、遊んでいるのです。人間は罪を犯すと知っていて、それでも人間が罪を犯すのをただ眺めていて、それで今度は罪人を救ったと言っているのです。人間を弄んでいるだけなのではありませんか? 神は人間を作り、それから好きなように弄んでいるのです。それなら、神は人間をおもちゃとして作ったのではないのですか?」 無数の人々がこのように考えています。その人たちは、ほんとうに愛しているのなら、神は人間を不完全な罪人にするのではなく、完全な存在にするべきだったのだと言って、神を恨みに思っています。神のみこころを知らないままに神を非難する人々は実に大勢いるのです。


人間は神の被造物

植物や動物同様、人類もまた神の被造物です。しかし、神は人間を植物や動物のようには創られませんでした。人間を作る以前にすでに、神は人間を御子イエス・キリストにあるご自分の民とし、栄光に与るようにしようと決めておいででした。そして、そのために人間を創られたのです。人類創造の目的は、他の被造物の場合とは異なっていました。では、神は何のために人間を創られたのでしょう? ただ神の栄光をたたえるよう作られた植物や動物とは違い、御国で栄光と栄華のうちに永遠に生きるようになさるためです。神が人類をお創りになった目的は、人間が自身の罪深さを知り、創造の主として救ってくださった救い主を信じ、それによって完全になり、将来神の御国に入るようになさることでした。

神は、人間をロボットやおもちゃとして造られたのではありません。創造者を認め、救い主を信じ、水と御霊の福音によって新たに生まれて自分の子どもとなるようにと造られたのです。ですから、人類創造のこの目的に従って、人は栄光を享受するのです。この世では、聖徒は他の魂に福音を伝えるために自らを犠牲にしますが、神の御国では、仕えられる身となります。神は根本的に人類を何のために造られたと思います? それは、神の栄華と栄光を人類が永遠に享受できるようになさるためなのです。神が人類を創られたのは、ご自分の民として、栄華と栄光を分かち合われるためでした。

人間はなぜ生まれたのでしょう? 人生の意味とは何でしょう? 人間はどこから来て、どこへ行くのでしょう? こうした哲学的問は、いまだに答えが出ていません。そこで、人々は問題を解こうとして苦しんでいるのです。自分の未来を知らず、占い師や魔法使いに頼る人々さえいます。これはみな、人間を創られた神を認めず、神が与えてくださった救済を信じないためなのです。

しかしながら、神は人間をご自分の子どもとなさるために、他の被造物とは違うように創られたのです。そして、創造の以前に既に人類救済をご計画になり、青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布とによって、すなわち、水と御霊によって人類を救われたのです。青色・紫色・緋色の撚り糸によって表わされた救済の律法によって人類をお救いになって、神は確かに目的を達成なさいました。

ですから、イエス・キリストの内に永遠のいのちをくださるという、この神の目的を知り信じるのです。これを知らなければ、人生の謎は永遠に解かれないままでしょう。なぜ人はこの世に生まれてきたのでしょう。なぜ生きなければならないのでしょうか。なぜ食べなければならないのでしょうか。なぜ人は運命的な生を生きなければならないのでしょう。どうしたら、生老病死の問題を解決できるのでしょう。なぜ人は罪のために地獄に行かなければならないのでしょう。なぜ人生はこうも悲劇的なのでしょう。なぜ人生はこうもつらいのでしょう。こうした疑問への答えはみな、人類をイエス・キリストの内に救った水と血の福音による神のお答えの中に見出されます。

神が人間をこの世に生まれさせ、苦労の多い困難な生の中で天の御国への希望をもつようになさったのは、罪のために地獄に行くはずであったみなさんや私をお救いになるためであり、永遠のいのちを受けるようになさるためなのです。水と御霊の福音を信じたとき、人生の謎はすべて解決されます。


神は、みなさんや私のために偉大なすばらしい 計画を立てておられる

ご計画になったように、神は御子イエス・キリストをこの地上に遣わされ、バプテスマをお受けになるようになさって人類の罪をすべて尊い身に移し、それによって、永遠の滅びに臨んでいた人類をすべての罪と罰、呪いからお救いになりました。ですから、この真理を信じるのです。また、免れようのない滅びの運命から神の御子の御国へと移され、永遠のいのちを享受できるようにしてくださった神に感謝するのです。つまり、神による救済の真理は、幕屋の入口にかけられた垂れ幕の青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布によって表わされた水と御霊の福音なのです。

幕屋の入り口の柱の青銅の台座は、人間の根本的な罪深さを示しており、それによって、人間がイエスの水と血の福音を信じることができるようにしているのです。幕屋の入り口の柱と、青色・紫色・緋色の撚り糸と撚り糸で織った亜麻布で作られた垂れ幕は、みな地獄に行く定めにあった人類をイエス・キリストの尊い犠牲によって滅びからお救いになった、神の慈悲を表わしています このように水と御霊の福音を信じることによって、私はすべての罪から救われました。みなさんもまた、これを信じていますか?

幕屋に示された真理を信じていますか? みなさんと私は幸運です。地獄に向かう人々が大勢いる中で、私たちが真理を見出し、今イエス・キリストにあって生きていることは、ほんとうにすばらしい恵みです。私たちはほんとうに、この世に生まれて罪を犯して地獄に行くこと、臆病な生を生きて地獄に投げ込まれることを免れることができない、この世では無価値で無用な存在であったのです。しかし、それでも、主はこの世においでになり、バプテスマをお受けになり、十字架上で死なれ、死者の中からよみがえられ、そうして完全に罪からお救いくださったのです。もはや地獄とは何の関わりもないというばかりではなく、また価値ある有益な正しいわざを行なうことができるようになったことに、ただ驚くばかりです。

聖所に入ることができるのは、ただ一度で罪の赦しを受けた者だけです。主は、過去の罪を消してくださっただけではなく、バプテスマをお受けになって人間が生涯に犯す罪を被られ、十字架上で死なれて人類の罪を永遠に消されたのです。ですから、このようにただ一度で成就された救済を信じる者だけが祭司としての信仰をもつ者であり、そのような者だけが聖所に入ることができるのです。

厳密に言って、幕屋の制度によると、通常の祭司は至聖所に入ることができませんでした。大祭司だけが入れたのです。そして、永遠の大祭司とは、イエス・キリストにほかなりません。イエス・キリストが人類をお救いくださったと信じる者だけが神の家、至聖所にイエス・キリストとともに入ることができるのです。

「これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です。こういうわけですから、兄弟たち、私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」(ヘブル 10:18-22)自分は地獄に行く定めにある邪悪な存在であると気づき、「きよい水 (イエスのバプテスマ)」と「イエスの血」とで洗われてすべての罪の赦しを受けた者は、永遠に神とともに住むために御国に入ることができるのです。

罪がきよめられたのは、毎日罪を悔いたからではなく、主がこの世に来られ、バプテスマをお受けになることによって世の罪をただ一度で被られ、十字架上で罰をお受けになって永遠に人類の罪をすべて消してくださったからなのです。「このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」 イエスはバプテスマによって人類の罪を一度で永遠に被られ、世の罪を十字架まで運ばれ、そこで死なれ、死者の中からよみがえらえれ、それによってただ一度で永遠に人類をお救いくださったのです。この真理を心の底から信じる者だけが聖所に入ることができるのです。聖徒は、主が人類全員をただ一度でお救いくださったこと、人間が生涯に犯す罪と全宇宙の罪のすべてを処理なさったことを信じて、罪の赦しを受けました。

みなさんは、主がバプテスマをお受けになって罪をただ一度で被られたことを信じていますか? また、世の罪を負われ、十字架上で死なれ、死者の中からよみがえられ、それによってただ一度で完全な救い主となられたと信じていますか? 三十三年間の生涯で、主イエスはこの世の罪をすべて永遠に消し去られました。主はすべての罪を消され、ただ一つの汚点をも残されませんでした。私はこれを心の底から信じています。主がバプテスマをお受けになったとき、世の罪をただ一度で被られたこと、十字架上で血を流されて私の罪全部の罰をただ一度受けられたこと、そして、死者の中からただ一度よみがえられて再び生きられて完全な救い主となられたことを信じています。この信仰によって、私はすべての罪から救われているのです。

これを信じることによって、人はみな天の御国に入ることができるのです。この世に生きている間、この信仰について毎日考えなければなりません。なぜでしょうか? まだ犯していない罪までも主が取り除いてくださっているからです。しかし、罪を犯すたびに告白しなければなりません。そして、そうした罪までも主がバプテスマで負ってくださったのだと、心の底から信じるのです。改めて信じて、主は世の罪を処理なさったのだと認めるのです。なぜでしょうか? 水と御霊の福音について繰り返し考えることをしなければ、心は穢れるからです。まだ犯していない罪までも主が被ってくださったので、人は弱点が露呈されるたびに信仰をもって、青色・紫色・緋色の撚り糸のみわざに感謝するのです。

主がこの地上に来られて人類の罪をただ一度で被られたのだと、誰もが信じなければなりません。ただ一度で、人類の罪はすべてイエス・キリストの上に移されました。イエスがバプテスマの際に世の罪をすべて負われたためです。イエス・キリストがバプテスマをお受けになって十字架上で死ぬことによって永遠の救済をお与えくださったのですから、人はこの真理を固く、勇気をもって信じるのです。主イエスは、ご自分がヨハネからお受けになったバプテスマを固く信じることにって人は神の御国を受けることができるとおっしゃいます。イエスは、「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています」(マタイ 11:12) とおっしゃいました。この信仰によって、聖徒は体・考え・心・肉の汚れの罪のすべてを赦されているのです。主がバプテスマによってそうした罪のすべてを被られ、罪の罰をすべて受けられたと信じ、神の御国を受けるために罪のすべてから救われなければなりません。

どんなに不完全であろうと、この信仰をもちさえすれば、信仰の民となれるのです。たとえ不完全な存在であろうと、主は完全に救ってくださっているのです。ですから、これを信じるのです。主が永遠に生きられるのですから、人類の救済もまた、永遠に完全なのです。人はただイエス・キリストがくださった救済を信じさえすればよいのです。そうなのです。聖徒は、主を心で信じて救われているのです。

主は完全な救い主であられるので、人類の罪の問題をすべて解決なさいました。主がバプテスマをお受けになり、十字架上で血を流され、一度死なれ、死者の中からよみがえられ、それによって永遠の救済をくださったと信じていますか? この救済は、なんとすばらしいものでしょう。人間は行ないにおいて不完全ですが、それでも、この真理を信じることによって神の御国に入ることができるのです。信仰によって、人は神の御国に入り、神のすばらしい威光と光輝のすべてを受けることができるのです。水と御霊の福音を信じる者には、それを受ける資格があります。しかし、この信仰がなければ、誰ひとり神の御国に足を踏み入れることさえできないのです。

青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布とによって人類を救った真理は、創造以前に既に神がイエス・キリストの内にご計画になっていました。神が人類をお救いになろうとお決めだったので、主はこの世に来られ、バプテスマをお受けになって人類の罪をただ一度で被られ、世の罪を十字架まで運ばれ、ただ一度罰を受けられ、一度死なれ、死者の中から一度よみがえられ、それによって人類に永遠の救済をくださったのです。これは、青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布のみわざによる人類救済です。この救済を信じるのです。そうしてはじめて、信仰によって完全に神の民となるのです。そうしてはじめて、人は信仰によって神の働き手となるのです。聖徒は完全な神の御国に入り、永遠に生きます。

完全な神が人類を完全に救ってくださったのです。しかし、人間はいまだに毎日不完全です。人間の肉は不完全だからです。しかし、どうしてなのでしょう? 主が完全にバプテスマをお受けになったとき、ほんとうに罪を被られたのですか、そうではないのですか? もちろん、そうなさいました。主がバプテスマによって人類の罪を取り除かれたので、人は罪がすべてほんとうにバプテスマによってイエスの上に移されたのだと認めるのです。みなさんは、罪がほんとうにイエスの上に移されたと認めますか? そうなさることによって、イエスは私たちの罪と世の罪を十字架まで運ばれ、十字架につけられ、それによって神の救済計画を完全に成就なさったのです。人間は不完全ですが、信じることによって神の御国に入ることができます。何を信じることによって、ですか? 青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布のみわざを信じることによって、人は神の御国に入ることができるのです。

罪の赦しを受けた後、不完全な人間が立派な信仰をもち、教会で活躍しているのです。神の教会は強い者が支配するところではなく、不完全な者が信仰によって支配するところなのです。なぜでしょうか。神の教会では、人は自分が不完全であると知ってはじめて、信仰によって主に従うことができるためです。教会はいたわりと癒しの場所です。天国は幼児が「まむしの子に手を伸べ」(イザヤ 11:8) て噛まれないところですが、この地上の楽園とは、教会にほかなりません。これが、教会の驚くべき奥義です。

人が神の御国に入るのは、信仰によってです。天の御国を得るのは、堅い信仰をもつ激しい者です。みなさんは、この真理を心で信じていますか? 私もまた、信じています。だからこそ、神に感謝をささげます。

神に感謝しているので、この福音に仕えているのです。私はこの真理のために生き、福音に仕えています。青色・紫色・緋色の撚り糸の真理を知らない人が大勢いるためです。しかし今は、他の人々がこの福音に仕えているかどうかはおいて、まず第一にみなさんに必要なのは、これを信じることです。

イエスが罪からただ一度で救ってくださったと信じて、みなさんが罪から救われることを願い、祈っております。





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