救済・聖霊・幕屋・ヨハネの黙示録についての聖書学習のための無料キリスト教図書

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 重要な主題に関する Paul C. Jong 師による説教

 

幕屋の板につけられた 銀の台座二個と 二つのほぞ


< 出エジプト記 26:15-37>
  幕屋のために、アカシヤ材で、まっすぐに立てる板を作る。板一枚の長さは十キュビト、板一枚の幅は一キュビト半。板一枚ごとに、はめ込みのほぞ二つを作る。幕屋の板全部にこのようにしなければならない。幕屋のために板を作る。南側に板二十枚。その二十枚の板の下に銀の台座四十個を作らなければならない。一枚の板の下に、二つのほぞに二個の台座を、他の板の下にも、二つのほぞに二個の台座を作る。幕屋の他の側、すなわち北側に、板二十枚。銀の台座四十個。すなわち一枚の板の下に二個の台座。他の板の下にも二個の台座。幕屋のうしろ、すなわち、西側に板六枚を作らなければならない。幕屋のうしろの両側のために板二枚を作らなければならない。底部では重なり合い、上部では、一つの環で一つに合うようになる。二枚とも、そのようにしなければならない。これらが両隅となる。板は八枚、その銀の台座は十六個、すなわち一枚の板の下に二個の台座、他の板の下にも二個の台座となる。アカシヤ材で横木を作る。すなわち、幕屋の一方の側の板のために五本。幕屋の他の側の板のために横木を五本、幕屋のうしろ、すなわち西側の板のために横木を五本作る。板の中間にある中央横木は、端から端まで通るようにする。板には金をかぶせ、横木を通す環を金で作らなければならない。横木には金をかぶせる。あなたは山で示された定めのとおりに、幕屋を建てなければならない。青色、紫色、緋色の撚り糸、撚り糸で織った亜麻布で垂れ幕を作る。これに巧みな細工でケルビムを織り出さなければならない。これを、四つの銀の台座の上に据えられ、その鉤が金でできている、金をかぶせたアカシヤ材の四本の柱につける。その垂れ幕を留め金の下に掛け、その垂れ幕の内側に、あかしの箱を運び入れる。その垂れ幕は、あなた方のために聖所と至聖所との仕切りとなる。至聖所にあるあかしの箱の上に「贖いのふた」を置く。机を垂れ幕の外側に置き、その机は幕屋の南側にある燭台と向かい合わせる。あなたはその机を北側に置かなければならない。天幕の入り口のために、青色、紫色、緋色の撚り糸、撚り糸で織った亜麻布で刺繍した幕を作る。その幕のためにアカシヤ材の柱を五本作り、これに金をかぶせる。それの鉤も金で、また、それらの柱のために青銅の台座五つを鋳造する。

 

幕屋自体は四十八枚の板からなっていました。南と北に各二十枚、西側に六枚、後ろの隅二つに各二枚。各板は長さ 4.5 メートル、幅約 67.5 センチでした。板をまっすぐに立てるために、銀の台座二個とほぞがあって、きっちりとはめこんでいました。ここからも、神の救済はキリストへの信仰による恵みによってのみ与えられるものであることがわかります。


キリストへの信仰による恵みの救済

たいていのキリスト教徒は、エペソ人への手紙第 2 章 8-9 節にある有名な一節、「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。誰も誇ることのないためです」を知っており、暗誦さえします。しかし、不幸なことに、神の恵みが具体的には何であり、救われるためにどのような信仰をもたなければならないのかを知りません。しかしながら、きっちりとはめこんだ二個の銀の台座と二つのほぞが、神の救済の奥義を明確に示しています。

板の下に置かれた「二個の台座と二つのほぞ」の真理を知るには、まず福音の基本的真理を知っておかなければなりません。幕屋の入り口は、どれも青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布でできていました。この四つの色は、人間が罪と滅びとから救われるには、イエスのバプテスマと血とが必要なことを示しています。そして、この四色はイエスによる救済の真理を疑いの余地なく信じられるようにしているのです。青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布の体現した、人類を救った真理を明確に知っておきましょう。

イエスは、「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」(ヨハネ 8:32) とおっしゃいました。ですから、幕屋の戸口の垂れ幕と至聖所の垂れ幕とが体現した霊的真理を知って、完全な罪の赦しを受けるのです。青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布は幕屋の入口の素材でした。

つまり、イエス・キリストはヨハネからバプテスマをお受けになって人類の罪をただ一度で被られ、世の罪を運んで十字架上で血を流されることによって世の罪のすべてから救われた人類の救い主であり、信じる者の王であられるのです。王であられるイエス・キリストが確かに人類を救うことがおできになったのは、バプテスマを授けられてから十字架につけられたためです。ですから、青色・紫色・緋色の撚り糸は、罪から救われるためには除外することのできない明確な真理を告げているのです。罪を被られるために、イエスはヨハネからバプテスマをお受けになり、世の罪を十字架に運ばれて血を流されて、ただ一度で罪のすべてから救われ、こうして救済のみわざを完了なさったのです。

ここで、青い糸 (イエスのバプテスマ)・緋の糸 (イエスの流血)・紫の糸 (イエスが王であられること)、そして撚り糸で織った亜麻布 (イエスはみことばの神であり、人間を義となさった) という四つはみな、人類救済にを構成する要素であることを信じるのです。よろしいですか、これにもかかわらず、その一つだけを信じることですべての罪から救われようとするなら、そのような救済は完全ではありません。なぜでしょうか? 幕屋の各板の下には、ほぞが二つあって、銀の台座にはめられて板を支えるようになっていたためです。

聖書で「銀」は神の恵み、神の賜物を意味しています。ローマ人への手紙第 5 章 1-2 節には、「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。また、キリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます」と記されています。救済は、信仰が神の恵みに正しく対応したものであるときに与えられます。幕屋の各板の底部に二つのほぞがあり、そのほぞが銀の台座にはめられて板を支えたように、救済が完全になるのはイエスのバプテスマと十字架上の血との両方を信じたときだけなのだと神は告げておられるのです。

人はみな、各板から二つのほぞが突出していた理由とその実体とを信じなければなりません。

二個の台座と板の二つのほぞとは、新約の時代にイエス・キリストが来られ、バプテスマのヨハネからバプテスマ授けられ、十字架につけられ、十字架上で血を流して死なれ、それによって救済を完了なさるという、水と御霊の福音の影です。

つまり、罪の赦しの恵みは、イエスが人類の罪を消されるためにヨハネからバプテスマを授けられ、十字架上で血を流されたという正しい救済を実際に信じる者の心にだけ与えられるのです。ですから、罪から救われるには、イエスのこの二つのみわざを信じる信仰が必要なのです。実際、幕屋のすべては、人類を罪からお救いになったイエスの細密に描かれた肖像なのです。主がイスラエル人に、幕屋の各板に二つの溝と二個の銀の台座を用いるようにおさせになったのは、ゆえないことではありません。

神がくださったバプテスマと流血とのみわざによって、人類は罪すべてと罪の罰のすべてから完全に救われました。つまり、水と御霊の福音を信じることによって、聖徒は神の子どもになる資格を得たのです。純金のような聖徒の信仰は、この神の賜物を受けることによって築かれました。


イエスを信じていながら、自分がほんとうは何 者であるかをまだ知らないのか

自分を良い人間だと思っていますか? いかなる状況にあっても、いかなる形にしろ、自分には悪を全く許さない正義感があると思いますか? 神の戒めを毎日心の中で守り、実生活で従い、実行しようとしているから、ただそれだけで、自分は神の前でなんとか義人で通用すると思っていますか? 人間のしていることは、ひそかに姦淫や不品行をしながら義人を装っているだけです。

今日、ケーブルテレビから衛星放送に至るまで、何百というチャンネルがあります。二十四時間放送のこうしたチャンネルは、それぞれ特別な番組を絶え間なく送っています。中でもとりわけ商業的に成功しているのは、アダルトチャンネルです。ただチャンネルを切り替えるだけでありとあらゆる種類のポルノを見ることができるアダルトチャンネルが、たくさんあります。ポルノのウェブサイトはどうでしょう? 言うまでもなく、ポルノのスパムメールが世界にあふれています。誰もがそうした卑猥なウェブサイトを非難しますが、需要と供給の法則ということを考えると、ああしたサイトが成功しているのは、無数の人々が実際に密かにそうしたものを楽しんでいるからなのです。

この現象は、私たち人間が基本的に腐敗し、みだらなのだということを示しています。聖書は、不品行・姦淫・好色に触れることで人類の罪深い心を指し示しています。神は、こうしたことは人間の心から起こって人を汚すのであり、明らかに罪なのだとおっしゃいました。では、人間はみな罪に満ちているのではありませんか? 神は、人間本来の性質は罪深いものだと繰り返しおっしゃいました。

しかし、人間はほんとうにこれを認めているでしょうか? どうですか? 目を閉じ、耳をふさげば人間の根本的な罪深い性質から逃れることができるでしょうか? 人間は想像力と思考とによって、ありとあらゆる罪を犯さずにはいられません。そのような罪を犯してはならないのだと、どんなに自分に言い聞かせても、どんなに罪を犯すまいとしても、みな無駄です。実際、人間の肉はけっして、まったく肉の罪を犯さない完全な聖人になることはできません。かえって、罪を好み、罪を犯さずにいようなとどいう気持ちはまったくないのです。人間の肉と心は常に、聖いものからはるかに遠い所にあります。そして実際、罪に近くありたいと欲するばかりではなく、より大きな罪を犯したいと欲するのです。

東洋では、生まれたときから孔子の教えを学ぶ人が大勢います。そこで、そうした教えを実践しようと努力します。それに対して、西洋では、カトリック教や律法主義的キリスト教会が宗教世界を支配し、西洋人の多くは、努力し続けさえすればいっそう聖くなるのだと考えて、神の律法を守ろうと努力してきました。しかし、宗教的背景に関わりなく、神の前に立ち、真の自己が露呈されてみると、みな同様に罪の塊、悪を行なう者の子孫なのです。

人間は悪であり、欠点だらけで、塵と土からできた罪の塊なのです。人に認められんがためではなく、心から善行をしており、善行を誉められたりすると、ほんとうに居心地悪く思うような、一見善良そうな人々でさえ、根本的な性質が神の前に映されたときには、罪の塊であり、悪を行なう者の子孫であることを免れないのです。人類の義を称揚することは神の前にはなはだしい悪なので、罰を認め、水と御霊の福音、神の愛を受け入れなければ、罪による滅びを免れることができません。神の前では、人間の努力は塵ほどの善とも解釈されません。人間は神の前には、ただ汚いものなのです。

聖書では、人間はしばしば木にたとえられます。アカシヤの丸太自体は、まず金をかぶせなければ神殿の入り口の柱とすることができません。神のお与えくださった救済の恵みがなければ、人は火の裁きに臨むしかない塵に過ぎません。

しかしながら、人間は罪人のままであったのに、神は救世主イエス・キリストにバプテスマを受けさせ、血を流して死なせることで人類の罪と違反のすべてを取り除かれました。こうした救済は、救世主が来られる千年ほど前にダビデ王が詳細に予言しました。「東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。主は、私たちの成り立ちを知り、私たちがちりにすぎないことを心に留めておられる。」(詩篇 103:12-14)

神の義を知る前は、人間の義が生活の基準でした。私もまた、神の賜物の救済を知らず、みことばに信仰をもっていなかったときにはそのようでした。実際、自分自身には正しいところは少しもなかったのに、それでも自分はちゃんとした人間だと思っていました。そこで、幼い時から不正に我慢がならず、とても太刀打ちできない人たちとも争いました。「正しく生きよ」が私の座右銘でした。このように神の前の自分を見ることができなかったので、自分なりの義でいっぱいになっていたわけです。そこで、自分は他人よりも良い人間だと考えて、正しく生きようと努力しました。

しかし、私のような者は、神の義の前には罪の塊に過ぎません。神が守れと命じられた十戒や六百十三条の律法のただ一つさえも守れるような人間ではなかったのです。守ろうとする意思があること自体、人間は罪を犯すこと以外は何もできないという神のみことばにさからい、神に敵対する悪い行ないであったのです。人間の義はみな、神の前には悪に過ぎません。
好色と腐敗の洪水の中で神とその律法を失ったこの世代はまた、罪悪感をも失っています。しかしながら、人間は毎日罪を犯さずにはいられず、例外なく地獄に行く定めにあるのだと認めなければなりません。


人間は不正で罪に満ちていたが、 主は水と御霊の福音によって罪から救われ、 ご自分の民となさった

人間はみな悪ですが、救済の賜物によって、主はそのような存在をすべての罪から救われました。聖所の長さ 4.5 メートル、幅 67.5 センチの板は、どれも金をかぶせたアカシヤ材で、聖所の壁として立てられました。各板の下には銀の台座二個があって板を支えていました。ここで銀の台座は、神がご自分だけでみなさんや私を完全にお救いくださったこと表わしています。
神が人類を救われた真理は愛です。それによってイエス・キリストがこの世に来られ、人類の罪を負われるためにバプテスマを受けられ、人類の罪に対する罰をお受けになって十字架上で死なれ、そうして、世の罪全部とすべての罰とから救ってくださったのです。主がくださった救済の賜物を信じて、聖徒は新たに生まれました。人類に与えられたこの救済の賜物は、金のように朽ちることなく、永遠に変わりません。

主が人類にお与えくださった救済は、イエスのバプテスマと血とからなり、それが人類の罪をすべて消し去りました。主がすべての罪から人類を救われたので、みなさんや私は心や考え、実際の行ないによって犯す罪のすべてから完全に救われることができたのです。神がくださった救済の贈り物を信じることによって、私たちは尊い聖徒となりました。幕屋の板を支えた二個の台座によって、神は水と御霊による救済を告げておられます。神は、聖徒が子どもとなったのは、完全にご自分の恵みと賜物なのだと告げておられるのです。

イエスのバプテスマと血への信仰を除いたなら、人間には何ひとつ残りません。人間はみな、罪のために滅ぼされる定めにあった存在でした。人間は罪から来る報酬は死であると定めた神の律法に従って確実に訪れる死の前に震えるはずだったのであり、待ち受ける正しい火の裁きを知って嘆く、単なる死すべき者でした。水と御霊の福音を抜きにしては無であるというのは、このためです。

今罪のあふれた時代に生き、人間の運命は、火の裁きを待っているだけなのだということをけっして忘れてはなりません。人間は、そうした死すべき存在なのです。しかしながら、神が水と御霊の救済をくださったので、神の恵みを受けています。救世主がこの地上に来られ、ヨハネからバプテスマを受けられ、十字架上で血を流して死なれ、死者の中からよみがえられ、そうして人類を罪と悪と罰のすべてから救ってくださいました。この完全な水と血の福音を信じることによって、聖徒はすべての罪から救われたのです。ただ信仰によって神に感謝するばかりです。

人間は肉において不完全なのですが、それでも働き手と聖職者と私は、水と御霊の福音を世界中に宣べ広めています。この世は実に堕落しているのですが、聖徒は水と御霊の福音を信じているために、純粋に、どんな邪悪さとも無縁で主に仕えることができているのです。このような心をもつようになったのは、自分の力によるのではなく、主が救済の恵みによって聖さをくださったからです。

主が罪と罰とから完全にお救いくださったためにこの救済の力に包まれているのであり、また、ただこのゆえに聖徒は主に純粋にお仕えすることができるのです。主が水と御霊とによってすべての罪から救ってくださったので、不完全さにも関わらず、もはや自分の罪や欠点、罰に縛られずに主にお仕えすることができるのだと、私は信じています。

私が今の私であるのは完全に神の恵みによる

ほんとうに、主の恵みがなければ、こうしたことはすべて不可能でした。主の恵みなしには、水と御霊の福音を全世界に広め、純粋に福音に仕えることは不可能だったでしょう。みなさんや私が福音を守り、仕えながら生きることができるのは、これは完全に神がくださった救済の恵みのおかげなのです。

聖徒は信仰によって神の神殿の柱 (黙示録 3:12)、御国の民となったのです。主が金のような信仰をくださったので、私たちは今、神の家で暮らすことができます。世に罪が満ちあふれているこの時代、大方の人が神を忘れ、?神行為をする中にあって、聖徒は清い水で洗われてきよくなり、清い水を飲んで純粋に主に仕えることができます。この恵みにどんなに深く感謝しているかは、到底言葉で言い表すことができません。

実際、私たちの信仰はこのようなものなのです。どうして義人となることができたでしょう。自分の中に良いものは何もないというのに、どうして自らを義人であると言うことができたでしょう。どうしてみなさんや私のような罪深い存在が罪のない者となれたでしょう。自身の肉の義によって罪のない義人となれたでしょうか。肉の考え、自分なりの努力、自分の行ない、こうしたもののどれかが人を罪のない義人にできるものでしょうか。水と御霊の福音への信仰なしに義人となれたでしょうか。青・紫・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布の体現した神の救済への信仰なしに、義人となれたでしょうか。救世主が成就なさり、神のみことばに明かされた水と御霊の福音による救済を信じることなしに、義人となれたでしょうか。けっしてなれなかったでしょう。緋色の撚り糸だけを信じることによっては、人はけっして義人になれません。

救い主、救世主イエス・キリストがヨハネから授けられたバプテスマによって、人間の生涯に犯す罪全部を含む世の罪をすべて負われ、人類の罪をすべて消してくださったので、聖徒は信仰によって義人となったのです。旧約のいけにえのささげ物が、罪人または大祭司に頭に手を置かれて罪人の罪を負ったように、新約の時代には、イエスがヨハネからバプテスマを授けられて世の罪をすべて被られたのです。イエスはほんとうにバプテスマによって人類の罪をすべて被られました (マタイ 3:15)。ヨハネはイエスが「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ 1:29) であるとあかししました。

バプテスマをお受けになって、イエスは続く三年間、人類救済のために働かれ、毛を刈られる前の物言わぬ羊のように十字架に行かれ、神にご自分の身をささげられ、罪と罰とをすべて終わりになさり、人間に新たないのちをくださいました。
イエス・キリストは、ヨハネから授けられたバプテスマによって人類の罪を被られ、黙って我が身を引き渡され、ローマ兵に両手両足に釘を打たれ、十字架につけられたのです。十字架につけられて、イエスは体の血を流されました。そして、「完了した」(ヨハネ 19:30) とおっしゃって、人類救済の完了を告げられたのです。

このように死なれた後、三日後に死者の中からよみがえられ、天の御国に昇られ、人類に永遠のいのちをくださって救い主となられました。バプテスマのヨハネから受けられたバプテスマによって世の罪を負われたこと、十字架、よみがえり、昇天によって、イエスは完全な救い主となられました。ですから聖書は、「これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です」(ヘブル 10:18) と告げているのです。


十字架上の血だけへの信仰と漸進的聖化の説は、 けっして人を罪から完全に救わない

キリスト教徒は、イエスの十字架上の血だけを信じていては、けっして救われることができないと知らなければなりません。人間は目と行ないで毎日罪を犯すのですから、十字架上の血だけを信じることによっては罪を消し去ることができません。今日、人々の生活の中で最も多く犯されている罪は不品行です。生々しく猥褻な性表現の文化が世界に広まり、この罪が人間の肉に深く植え付けられています。聖書は姦淫するなと命じますが、今日の現実は、その環境のために多くの人々がそうしたくなくともこの罪を犯してしまうようになっています。

神は、欲情をもって女性を見る者は誰でもすでに心で姦淫を犯しているとお告げです (マタイ 5:28)。それなのに、毎日目にするものはみな猥褻です。そこで、人々はそのような好色の罪を絶え間なく犯しているのです。それなのに、どうして悔い改めの祈りをささげることで聖化されて神の御国に入ることができるでしょう。どうして義人になれるでしょう。長い間自らを律すれば心は正しくなり、年をとるとどうにか聖化されるのでしょうか。より柔和な性格になるのでしょうか。より忍耐強くなるでしょうか。もちろん、そうはなりません。実際は正反対です。

キリスト教の主流となっている教義の中に「漸進的聖化説」があります。この教義は、キリスト教徒が長い間イエスの十字架上の死を信じ、毎日悔い改めの祈りをささげ、毎日主に仕えていると徐々に聖化され、温和になるとしています。この教義によると、イエスを信じるようになってから時が経てば経つほど、人は罪と関わりがなくなり、行ないは高潔になり、死期が近づくころには完全に聖化され、全く罪がなくなるのだといいます。

また、いつでも悔い改めの祈りをささげているだろうから、服を洗うように毎日罪を洗い流してる。だから、いずれ死んだときには完全に義となった者として神のもとに行くのだと教えます。このように信じている人は大勢います。しかし、これは人間の考えから生まれた単なる憶測にすぎないのです。

ローマ人への手紙第 5 章 19 節には、「すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです」とあります。この節は、人間はみなひとりの「人」の従順によって罪がなくなったのだと告げています。みなさんや私ができなかったことを、イエス・キリストがご自分でこの世に来られることで達成なさったのです。みなさんや私が自分では罪から解放されることができないのをご存じで、イエスは代わって罪を贖ってくださいました。これは、みなさんにも私にも絶対にできなかったことです。この世に来られてバプテスマをお受けになり、十字架につけられ、死者の中からよみがえられることによって、主はみなさんや私を救われ、罪のすべてをただ一度できよめてくださいました。

イエス・キリストが罪の赦しによって救済をお与えくださることができたのは、神のみこころに従われたためです。救世主として神のみこころに従われ、イエス・キリストはバプテスマと十字架、よみがえりによって救済の恵みをくださったのです。この救済の賜物をくださることによって、イエスは罪の赦しを全うなさいました。そして今、主が罪からの人類救済を全うされたので、信仰によって、聖徒はこの救済の恵みの衣に包まれているのです。これは、人間自身の努力によってはけっしてなし得ないことでした。

しかしながら、たいていのキリスト教徒は、イエスがお受けになったバプテスマを信じず、十字架上で流された血だけを信じ、自らの行ないによって聖化されようとしています。つまり、イエスはヨハネからバプテスマをお受けになったときに人類の罪を被られたのですが、人々はいまだにこの真理を信じていないのです。マタイの福音書第 3 章は、イエスが布教の最初になさったのは、ヨハネからバプテスマをお受けになることであったと告げています。これは四つの福音書の著者全員があかししていることです。

イエスは、人類の代表、女から生まれた者の中で最も偉大な者であったバプテスマのヨハネからバプテスマを授けられて人類の罪を負われたのです。しかし、このことを無視し、信じない人が実に大勢います。そうした人々は、バプテスマを信じずにイエスを信じ、イエスが十字架上で流された尊い血だけを熱心にたたえます。イエスの十字架上の死に心を痛め、感情に衝き動かされて、たたえの中でやかましく叫びたてます。「?血にはすばらしい力がある。♪力が、すばらしい力が子羊の尊い血にはある?」 つまり、その人たちは、自分たちの感情・勢い・力にかき立てられて神のもとに行こうとします。しかし、よろしいですか、そうすればするほど、より偽善的になり、きよいふりをしても、実際は心の中に罪がたまっていくのです。


水と御霊の福音を知りもせずに どうしてイエスを救い主と信じられるのか

人々が幕屋について話すのを聞くと、自分たちが実際には何を言っているのか、少しもわかっていないのが見て取れます。幕屋を信じるということに関して、都合がよくふさわしいと判断することを勝手に信じるだけでいいはずがありません。主が全うされた罪からの救済は実に綿密なものなのですから、神は、人類救済の成就がいかに念入りで確実なものであったかを人間が知ることができるようになさいました。

神は幕屋によっても、主が青色・紫色・緋色の撚り糸、水と血とによって人類を救われたことが人間にわかるようになさいました。人類の罪を消されるために、主は「ただ水によってだけでなく、水と血とによって来られたのです」(ヨハネI 5:6)。聖徒の信じる水と血、御霊は一つです。人間として来られ、バプテスマのヨハネからバプテスマを授けられ、死なれ、死者の中からよみがえられることによって、神は人類を救われたのです。

幕屋から、聖徒はこの詳細な救済の描写を見出し、信じることができました。各板の二つのほぞと二個の銀の台座について考察することによって、イエスが人類を罪から救われた方法を知りました。そして、このように真実を知って、青色・紫色・緋色の撚り糸の体現したイエスのみわざを信じなければなりません。

聖書を別にすれば、この救済の起源はどこにも見出せません。人間には、バプテスマと十字架との二つの要素からなる救済の賜物が必要です。この真理を信じる者は、神から生まれた者となることができます。水と御霊によって人類を罪から救われて、神は人類救済を完了なさいました。

つまり、二つのほぞはそれぞれの板の下に作られ、二個の銀の台座にはめられていたのです。この真理は人間と罪の赦しにとって絶対に必要で、極めて重要です。最も大事なことは、神が成就してくださった救済を信じなければならないということです。青色・紫色・緋色の撚り糸の真理を信じなければ、けっして救われることがないのです。

聖なる幕屋の板がまっすぐ立つためには、どれにも二個の台座が必要だったように、イエス・キリストを信じる場合、神の恵みの二つの真理が必要なのです。それは、何でしょう? イエスがバプテスマをお受けになって人類の罪を被られ、それを十字架まで運ばれ、そこで人類の罪の裁きと罰とをすべて受けられたということです。義人とされるのは、完全な救済の二つの恵みを心から信じた者だけなのです。イエスのバプテスマと十字架上の血、救済の賜物の二つの核心への信仰によって、人は神の家でまっすぐに立つことができるのです。二つのほぞが二個の銀の台座にはめられて、板はまっすぐに立つことができました。

同様に、救済の二つのほぞを信じる正しい信仰によって、聖徒は真に無実の民とされたのです。イエスがくださった水と血の福音を信じることによって、人は永遠に変わらない金のような信仰を受けるのです。青・紫・緋の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布の体現したこの水と御霊の福音を信じることによって、人は完全な罪の赦しの救済を受けた聖徒となります。


これまでの神学と水と御霊の福音の時代

原始教会の時代を除いて、313 年のミラノ勅令以後、キリスト教は今日のキリスト教を含め、イエスのバプテスマを取り残した十字架の福音を広めてきました。原始教会の時代からキリスト教をローマの新たな公認宗教とした 313 年まで、キリスト教は水と御霊の福音を説いていました。しかし、以後はローマカトリック教会が支配的な宗教になります。やがて十四世紀初頭から、最初はイタリア北部の豊かな都市国家の間に、人間の考えをすべての中心とし、人間性の復興を唱える文化が台頭します。これがルネサンスです。

十六世紀になると、イタリアに始まったこの文化の底流は西欧世界全体に広まり始め、人本主義的な、人間の作り出した哲学を研究する学者たちが神学研究を始めました。彼らは聖書を自分の頭で解釈してキリスト教教義を築き始めます。しかし、真理を知らないために、聖書をその総体として正しく理解することができませんでした。そこで、自分の頭では理解できないことを、世俗的な知識と思考とを組み込むことによって乗り越え、こうして独自のキリスト教教義を生み出したのです。

その結果、無数のキリスト教教義や神学理論がキリスト教史上に生まれます── ルター主義、カルビニズム、アルミニウス派、新神学、保守主義、合理主義、批判神学、神秘神学、自由神学、フェミニスト神学、黒人神学、果ては無神論的神学等々。

キリスト教の歴史はたいへん長いように思われるでしょうが、実際はそれほど長くはありません。原始教会期以来三百年にわたって、人々は聖書を学ぶことができました。しかし、やがて中世、キリスト教の暗黒時代が訪れます。この時代、信者が聖書を読むこと自体が断首刑に処されるべき犯罪でした。神学の風が吹き始めるのは 1700 年代を待たなければなりませんでした。神学が生き生きと活動するようになると、キリスト教は 1800 年代と 1900 年代に花開くように見えました。しかし、今多くの人々は、神秘的教義に陥り、個人の体験に基づいて神を信じています。が、神学理論の多様性にも関わらず、キリスト教の諸分派はみな信仰のうえで共通点があります。それは、イエスの血だけを信じるという点です。

しかし、これは真理でしょうか。そのように信じていて、実際に罪は消えるでしょうか? 人は毎日罪を犯します。人は心で、考えで、行ないで、いたらなさから、毎日罪を犯します。では、イエスが十字架上で流された血だけを信じていて、そうした罪を赦されるでしょうか? イエスがバプテスマを授けられて人類の罪を負われ、十字架上で死なれたのは、聖書に記された事実です。しかし、十字架上の血だけを信じ、毎日悔い改めの祈りをささげることで罪を赦されたと言っている人々が実に大勢いるのです。人の心の罪は、そのような悔い改めの祈りをささげることできよめられましたか? 不可能です。

キリスト教徒なら、イエス・キリストがこの世に来られ、ヨハネからバプテスマをお受けになって世の罪を被られたという、この救済の真理を知り、信じていなければなりません。それなのに、まだこの真理を無視し、知ろうとも信じようともしないのですか? もしそうなら、イエスを嘲り、御名を卑しめ憎む罪を犯しているのあり、ほんとうにイエスを救い主と信じていると言うことはできません。イエス・キリストが全うなさった救済からバプテスマを取り残して、どうにでも好きなように信じることによっては、けっして救済の衣に包まれることができません。

それなのに、多くのキリスト教徒は、イエスが人類の罪を消し去られたという真理をありのままに信じず、代わりに自分なりの考えに従って、それが何であるにしても、自分の気に入った歪められた真理を信じているのです。今日、そうした人々の心は誤った教義的な信仰のためにますます頑なになり、自分の罪は十字架上の血だけを信じて消されるのだと信じています。

しかし、神がご計画になった救済は、次のようなものなのです。イエスのバプテスマ、十字架上の死、よみがえりを信じることによって、人は永遠に罪の赦しを受けることができる。しかし、次のような公式を不変の法則だと誤解し、誤り信じて、この救済の真理からバプテスマを除いてイエスを信じる無数の人々が現れています。「イエス (十字架とよみがえり) + 悔い改めの祈り + 高潔な行ない = 漸進的聖化によって救済を受ける」 このように信じる人々は、罪の赦しを受けたと口先で言っているだけなのです。しかしながら、実際のところ、その心にはまだ処理されていない大量の罪が詰まっています。

みなさんは、まだ心に罪がありますか? 今イエスを信じていても心に罪があるのなら、明らかにその信仰に重大な問題があるのです。イエスを単なる宗教的事項だと信じているために、良心にやましいところがあり、心に罪があるのです。しかしながら、まだ心に罪が残っていると知ることができるという事実そのものが、実に幸運なことなのです。なぜでしょうか? 自分に罪があるとほんとうに知っている者は、罪のために地獄に行くことを免れないと自覚します。そうすると、魂が謙虚になり、真の救済のみことばを聞くことができるのです。

神から罪の赦しを受けたいのなら、心の準備ができていなければなりません。神の前に心の用意ができている人々は、「神様、罪の赦しをいただきたいのです。長い間イエスを信じてきましたが,まだ心に罪があります。罪から来る報酬は死なのですから、私は地獄に投げ込まれるしかないのです」と認めます。このように、そうした人は、自身が神の前に全く罪深いのだと知っています。神のみことばを知る者、神のみことばは文字通りに実現されると信じる者は、その心の用意ができているのです。
神はそのような魂に例外なく会われます。そうした人々は、みことばを聞き、自分の目でみことばを読み、確認し、そうして、「ああ、私は誤って信じていたのだ。それに、無数の人々が今、誤り信じているのだ」と悟ります。そして、水と御霊の福音を信じることによって、他の人がどう言おうと、罪の赦しを受けるのです。


すべての罪から救われた者はみな 水と御霊の福音を信じて信仰を守る

しかしながら、この世には、新たに生まれた者の心をも揺るがせ、汚すような、よこしまな教義が無数に満ちています。主イエスは、「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに十分気をつけなさい」(マルコ 8:15) と警告なさいました。ただ一度聞くだけでも人々の心を汚す、そのような種の入った教えがいくつあるのかは、数えることもできないのです。よろしいですか、この世は不品行の中で揺れているのです。

信じる者は、自分たちがどのような時代に生きているかを正しく知って信仰を守らなければなりません。しかし、このような罪深い世の中に生きていても、主が罪から救ってくださったのだという揺るがぬ真理が心の中にあります。人類の不変の救済のあかしのみことばが、水と御霊の福音なのです。世に揺るがされも引きずられもしない真理への信仰をもちましょう。

この世のものはみな、真理ではありません。神は、義人は世に勝利するとおっしゃいました。不変の真理の福音への信仰によって、義人は悪魔に打ち勝ち、世に勝利するのです。不完全な存在ではあっても、その心や考え、体は神の家にあり、信仰によって救済の福音の上に堅く立っているのです。聖徒は、主が人類を救われた水と血の福音の上に堅く立っています。
このために、聖徒は神に深く感謝しているのです。世の中にどんなに罪があふれていても、少なくとも私たち義人には、心の中で金のように輝く、わずかの曇りもない良心があるのです。義人はみな、信仰によって世に打ち勝つ生を生きます。主が再臨される日まで、そして、御国にあっても、みなこの信仰をたたえます。聖徒はお救いくださった主を永遠にたたえ、この信仰をお与えくださった神をたたえます。

神の前に私たちの内にあるこの心からの信仰は岩の上に建てられているのですから、どんなことがあっても揺るぎません。ですから、この世に生きている間にどんなことが起こっても、主の前に立つ日まで信仰によって心を守ります。たとえこの世のすべてが破壊されても、この世が罪に溺れても、そして、たとえこの世がかつてのソドムとゴモラよりもひどいものになっても、聖徒は世に従わず、貞節に神を信じ、神の義を求め、救済の二つの恵み──イエスのバプテスマと十字架上の死──神の真の恵みを広めるわざを続けます。


真の福音を信じるふりをする者

実際には水と御霊の福音を信じていないのに、青色・紫色・緋色の撚り糸の真理を信じているふりをする人々がいます。しかし、そうした人々は水と御霊の福音を心から信じていないために心に罪があることが見て取れます。その人たちは、隣人から借りた斧の頭を水の中に落としてしまった人 (列王記II 6:5) のようなものです。

同様に、必要が生ずると一時的に水と御霊の福音を利用しようとする人々がいることでしょう。しかし、この水と御霊の福音が真理であると信じることなしには、説教したり交流したりするときに真の信仰によって語ることができません。真理への信仰がない人々は、悲しいことに中途で信仰生活を放棄してしまうのです。しかし、水と御霊の福音の真理は変わりません。水と御霊の福音を信じなければならないのは、このためです。

しかし、中には、ヘブル人への手紙第 7 章 12 節「祭司職が変われば、律法も必ず変わらなければなりません」を引用して、「律法もまた変わったのです。ですから、イエスが全うされた救済は旧約と同じ方法によって全うされたわけではないのです。イエス・キリストが来られて、修正された方法、十字架上で死なれることだけで人類を救われたのです」と言う人々がいます。また、「イエスが十字架上で死なれたときに人類の罪を神が御子の上に移したようですよ」と言う人々もいます。

しかし、そうした主張はどれも誤っており、根拠がありません。「では、神が罪のないイエスを十字架につけられて、それから、世の罪をその上に移したということなのですか?」と尋ねることで容易に反論できるのです。神のみことばを信じるときには、自分の考えを主張するのではなく、ありのままに信じなければなりません。自分なりに思うことはあったとしても、聖書がそうした主張が誤りであるとしているのなら、自分なりの義は捨てて、みことばを信じるのです。

時が過ぎれば過ぎるほど、主が水と御霊の福音によってお救いくださったことがありがたく、尊く思われるようになります。自分なりの考えに基づいて信じていると、信仰生活が危機に陥り、教会から去りそうになることがあります。しかし、二つのほぞが二個の銀の台座にはめられることで幕屋の各板を支えたように、イエスがバプテスマをお受けになって人類の罪を被られ、十字架上で血を流されたという真理への信仰は、信徒を堅く支えてくれるのです ヨハネからバプテスマをお受けになって、十字架につけられて血を流され、身代わりとして罰をお受けになって、主はすべての罪からお救いくださいました。ですから、信仰は永遠に揺るぐことがありません。

箴言第 25 章 4 節には「銀から、かなかすを除け。そうすれば、練られて良い器ができる」とあります。この句にあるように、下劣で邪悪で堕落したものが数多く肉の考えに浮かんだとしても、イエスはバプテスマと血とによってそれらの汚れたもの、人類の罪をきよめられ、神の義の働き手としてくださったのです。主は世の罪をきよめてくださいました。ヨハネからバプテスマをお受けになり、それによってただ一度で人類の罪を負われ、十字架につけられて血を流されることで罪の罰をすべてお受けになり、イエスは人類を世の罪からすっかり救ってくださいました。

ですから、水と御霊の福音を信じる者は永遠の救済を約束されているのです。私たちの行ないは時に危なっかしく見えるでしょうが、銀の台座が二個のほぞと結びついて各板を支えたように、水と御霊の福音が信仰を堅く支えてくれます。


聖徒を支える永遠の救済の恵み

さて、こんどは、幕屋の板をまとめる横木について見ましょう。出エジプト記第 26 章 26-27 節には、次のようにあります。「アカシヤ材で横木を作る。すなわち、幕屋の一方の側の板のために五本。幕屋の他の側の板のために横木を五本、幕屋のうしろ、すなわち西側の板のために横木を五本作る。」 幕屋全体の形は長方形でした。幕屋の入り口と至聖所の垂れ幕のためには柱が立てられ、残りは板でできていました。板は五本の横木でまとめられていました。

横木を通すために各板に金の環が五個つけられ、横木自体はアカシヤ材で、これもまた金がかぶせてありました。横木五本は幕屋の北・南・西の三方の板につけられました 板は金の環を通した横木によってまとめられ、固定されていました。下部は銀の台座で、側面は横木五本で支えられ、板はしっかりと固定されて立っていました。

四十八枚の板が横木五本でまとめられ、互いに支え合っていたように、神の民もまた、水と御霊の福音によって神と結ばれています。神の教会は、水と御霊の救済の賜物を受けた者が集まって信仰生活を送るところです。イエスはペテロに、教会を岩の上に立てよう (マタイ 16:18-19) とおっしゃいました。ですから、罪の赦しを受けた者が集まって神の御国を形成した場所が教会なのです。神は、青色・紫色・緋色の撚り糸の体現したイエスのみわざによって人類を世の罪から完全に救われたことを示されています。

出エジプト記第 26 章 28 節には、「板の中間にある中央横木は、端から端まで通るようにする」とあります。中央横木は一つの側の板をすべてつなぐだけの長さがありました。では、この中央横木が板の中間の端から端まで通っているということには、どういう意味があるのでしょう? これは、義人が互いに団結し、その信仰を共有することを意味しています。つまり、主のくださった水と御霊の福音によって全うされた救済を信じることによって、聖徒は互いに信仰の内に交わることができるのです。義人は信仰によって真摯に向き合うことができます。仲間の聖徒や聖職者に会って交流するときに心が通うように感じるのは、このためです。

「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ」

エペソ人への手紙第 4 章 3-7 節を読みましょう。「平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。体は一つ、御霊は一つです。あなた方が召されたとき、召しのもたらした望みが一つあったのと同じです。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。しかし、私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。」 使徒パウロは、平和の絆で結ばれて御霊の一致を熱心に保てと告げました。イエスのバプテスマと十字架、この二つからなる救済の賜物を受けるとき、平和が心に訪れます。罪の赦しを心に受けると、キリストにある一つの家族となります。つまり、一つの体になるのです。

「主は一つ。」 人類を救われたイエス・キリストは一つです。「信仰は一つ。」 みなさんは、何を信じていますか? 青・紫・緋の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布で表わされた水と、イエスの血、御霊の救済を信じています。「バプテスマは一つ。」 使徒パウロは、ここでもイエスのバプテスマを強調しています。ここでは十字架には言及せず、すべての信者を無条件にきよめたイエスのバプテスマを特に示しています。イエスのバプテスマを信じるということは、バプテスマによってキリストにつく者とされ、キリストをその身に着たということです (ガラテヤ 3:27)。「主は一つ。」 神は一つです。この神は、ひとり子を遣わされて人類を救われました。

これらはみな、水と血と御霊への一つの信仰を指しています (ヨハネI 5:8)。水と御霊の福音への信仰をもつとき、心が通い合うのです。罪の赦しを受けた者は、真摯に向かい合うことができます。時には、お互いを完全に理解できないことはあるでしょう。しかし、中央の横木が板の中央の端から端まで通っているように、罪の赦しを心の中心に受けているのなら、みな互いにわかり合うことができるのです。「この兄弟もまた罪から救われている。でも、肉は弱いのだから、心には肉の名残がたくさんあるのだ。他のみなと同じように、この人もまた、悪を行なう者の子孫なのだ。でも、主はそれでも水と御霊の福音によって、この人の罪をお赦しになったのだ。」 このように、互いを理解するようになり、主をたたえます。

人がどんなに不完全であろうと、罪の赦しを受けて教会にとどまるなら、その顔は輝き、考えは輝き、心もまた輝きます。そして、互いに心を通わせることができるのです。義人は互いにわかり合うことができます。なぜ、こういうことが可能なのでしょう? 信仰が可能にするのです。聖徒が互いにわかり合えるのは、他のどんな要因によるのでもなく、信仰によるのです。では、何のせいで他の人と心を通わせることができなくなっているのでしょう? 聖徒は、キリストの内にいない人々とは心を通わせることができません。その人たちは真理、水と御霊の福音を心で信じていないためです。水と御霊の福音を信じない人々は、聖徒とは全く心を通わせることができません。

兄弟姉妹のみなさん、神の教会とは、どのようなものなのでしょう? それは、キリスト・イエスにあって聖なる者とされた、聖徒とよばれる人々の集まりです (コリントI 1:2)。イエス・キリストがバプテスマをお受けになって罪を洗い流してくださり、罪を負われ、十字架上で罪の罰を受けることで救ってくださり、死者の中からよみがえられて救い主となられたという真理を信じる者の集まりです。神の教会とは、水と御霊の福音を信じて一つになった人々の集まりにほかなりません。

この信仰が私の心とみなさんの心の両方にあるために、教会にいるときに心を通わせることができるのです。神が人間をご覧になるときに、その外見をご覧にならずに心の底をご覧になるのと同じように、罪の赦しを受けた聖徒もまた、外見を見ず、互いの信仰の中心を見て交流するのです。「この人は、ほんとうに心で真理を信じているだろうか。」私たちは、それを見るのです。性格がどんなに異なっていようと、その人が「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。……すべてのものの父なる神は一つ」を信じている限りは、問題になりません。

信じて幕屋の柱と板になり、信じて神の家族になったのです。みなさんは、水と御霊の福音を信じていますか? 信じているので、純金 (信仰) が神の家で輝くように全世界に救済の光を広めているのです。聖徒が罪の赦しを受けて間もない人々と心を通わせるのは、御霊がその人たちの心にも宿っているためです。罪の赦しを受けさえすれば、みな心を通わせ合うことができます。しかし、罪の赦しを受けていなければ、心を通わせ合うことができません。外見に基づいて人を差別する罪人は、容貌・富・名声といった表面的なものに基づいて互いに異なった対応をするのですが、私たち義人は、そうしたことを心の中でしません。義人には差別がありません。

誰かが初めて罪の赦しを受けると、私はよく言います。「あなたは、ほんとうに罪の赦しを受けましたか? まだ罪がありますか、それとも、罪はみんな消えましたか? ところで、聖書について尋ねたいことがたくさんあるのでしょうね。信仰生活をしていく中で、おいおいお尋ねなさい。それに、あなたの欠点が明らかになるでしょう。また、何かしら失敗をすることもあるでしょう。しかし、教会の指導者や先輩たちが、すべてうまくいくように助けてくれますよ。」

みなさん、私たち義人には教会が必要です。幕屋もまた神の教会を意味します。水と血を信じない人々は、神の教会に来て住むことができません。青色・紫色・緋色の撚り糸という形で表わされた水と御霊の福音を信じない人々は、教会に来て住むことができません。真理を信じる者だけが教会に住み、神の民・働き手となり、さらに、神の栄光を見ることができるのです。人が神の子どもとなれるのは、血だけ、あるいは他の肉の資格によるものではありません。牧師の中には、たいそう権威のある人もいるでしょうが、水と御霊の福音を信じていないのなら、その人は神の子どもではありません。


水と血によって来られたイエスが人類を 完全に救われた

主がこの世に来られてなさったことは、誕生・バプテスマ・流血・よみがえりであると要約できます。これはみな、罪の赦しのみわざです。イエスは、青色・紫色・緋色の撚り糸のみわざにより使命を達成なさいました。幕屋に用いられた青色・紫色・緋色の撚り糸は、人類の罪からの救済のためのものです。神の救済は綿密なものなのですから、人間は好き勝手に神を信じてはなりません。救済をありのままに信じるのです。

信仰は、イエスのバプテスマと十字架上の血という、救済の二つの真理に沿ったものでなければなりません。二本のほぞが二個の銀の台座の穴にきっちりとはまっていたのは、このためです。イエスがくださった真理を世の知識の一つに過ぎないものとみなして、そのようなものとして信じることはできません。みなさんと私は、二個の銀の台座の体現したイエスの救済のみわざを信じて神の前に救われています。

幕屋はイエスの救済の方法を詳細に示していますが、この救済は実際に、すでに人類のために成就されているのです。神がくださった救済の二つの賜物を信じなさい。幕屋に用いられた金は信仰を表します。真理をありのままに信じるなら、救済と主の栄光はその人のものとなりますが、信じなければ、得ることができません。信仰によって神の栄光に包まれ、主に守られて幕屋の中に住みたいですか、それとも、ずっと信じないでいて、永遠に呪われたいですか? 十字架の血だけを信じるのならなら、救われることができません。十字架の血とバプテスマとは一つなのだと信じるのです。主からの贈り物は、この二つからなっているのです。

神の御霊が人の心に宿るのは、イエスのバプテスマと流血というこの二つの要素を信じたときだけです。聖霊は、この二つを信じない者の心にはけっして宿られません。口先だけで信仰を告白して心で信じていないのなら、知識が単なる知的活動の一つに過ぎないのなら、けっして救われることがありません。救われるためには、まず救済の境界を定めた明確な線を引かなければなりません。「これまで、私は救われていませんでした。私が信じていた救済は本物ではありませんでした。しかし、水と血とによって来られたイエスを信じることによって、今は救われています。」 人は少なくとも一度、まず罪人になって、はじめて義人となることができます。救われていない者として、罪のために滅びる定めにあると認めなければなりません。それから水と御霊の福音を信じて完全に救われた者となるのです。

青色・紫色・緋色の撚り糸、イエスのバプテスマと血とによって、人は完全な救済を受けるのです。バプテスマと血とによって、主は完全な救済の賜物をくださいました。自分なりの考えに基づいて信じることがないようにと、主はこの救済を幕屋にも詳細に明かされたのです。この救済が極めて尊く完全なので、誰もが信じるに値するのです。主の救済のただ一つの要素、十字架の血だけを信じてはいけません。イエスのバプテスマと血の両方を一つとして信じるのです。この中にまだ救われていない人がいるのなら、今すぐにでもこの真理を信じて救われるよう、心から願います。

ここにそのような人がおられますか? 可能性は常にあります。しかし、この場の誰にもそのようなことが起こらないことを願っています。何が起ころうと、私は救われていない人々の中に加わることはできません。私たちは青い糸と緋の糸の二つ、すなわちイエスのバプテスマと血とを信じて完全に救われています。主がそれによってお救いくださったこの二つの救済の賜物を神に感謝いたします。神が救済を完全に成就なさったので、私はすでに呪いと裁きとからも解放されているのです。

ほんとうに、青糸と緋の糸による救済は、言いようもなく尊いものです。救済は十字架の血だけによるのではなく、イエスのバプテスマだけによるのでもなく、バプテスマと十字架の血との二つによって完全になったのであり、この二つを信じることによって、人は神の子どもになれるのだと信じるのです。私たちは水と御霊の福音のみことば、幕屋の板の二本のほぞと二個の銀の台座に隠された奥義を信じて永遠のいのちを受けました。

世の罪からお救いくださった主に心から感謝いたします。ハレルヤ。





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