救済・聖霊・幕屋・ヨハネの黙示録についての聖書学習のための無料キリスト教図書

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 重要な主題に関する Paul C. Jong 師による説教

 

裂けた垂れ幕


< マタイの福音書 27:50-53>
  そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後に墓から出てきて、聖都にはいって多くの人に現われた

 

至聖所は神の住まわれる所でした。大祭司だけが年に一度、贖いの日にイスラエル人の罪の赦しのためにいけにえの山羊の血を持って至聖所に入ることができました。幕屋の至聖所、神の住まいは、罪人たちの不正をぬぐい消すためにその頭に手を置いたいけにえの山羊の血を持たなければ入れない所だったためです。つまり、大祭司でさえ神のおられるところに入る前には、いけにえをささげて罪の赦しを受けていなければ、神の呪いを免れることができなかったのです。

神殿の垂れ幕は、いつ裂けましたか? イエスが十字架上で血を流して死なれたときに裂けました。なぜイエスは、十字架上で血を流して死なれなければならなかったのでしょう? 神の御子イエスが人間の肉の形でこの世においでになり、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを授けられて罪人の咎のすべてを被られたためです。世の罪のすべてをバプテスマによって負われたので、イエスは十字架上で血を流して死んで、はじめて罪の呪いをすべて終わらせることがおできだったのです。神殿で至聖所と聖所とを分けている幕が上から下まで裂けたのは、このためです。これは、神と人類とを隔てていた罪の壁が一度で永遠に崩れたということなのです。

つまり、お受けになったバプテスマと十字架上で流された血とによって、イエスがすべての罪を消されたのです。イエス・キリストのバプテスマと血とによって、父なる神は人類の罪を一度で永遠に消し去られ、天国への道を開かれ、バプテスマとイエスの流血とを信じる者が誰でも天国に入れるようになさったのです。

イエスが十字架上で死なれたとき、三時間の間、辺りが暗くなりました。ヨルダン川でのバプテスマによって世の罪をすべて負われて十字架につけられたイエスは、死の間際に「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれました。これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ 27:46) という意味です。それから最後に「完了した」とおっしゃって死なれました。そして、三日後によみがえられ、四十日間あかしされ、それから弟子と信奉者たちの多くの目の前で昇天なさいました。


父なる神はほんとうにイエスを見捨てたのか

イエスがお受けになった苦しみはあまりに激しかったため、父なる神から見捨てられたように感じられました。罪の罰の苦しみは、それほどに激しかったのです。イエスはヨハネからバプテスマを授けられて世の罪を負われたので、十字架上で罪の罰をお受けになったとき、実際に父なる神は一時的に面を背けられたのです。父なる神は、罪ある者は誰でも裁かなければなりませんでした。世の罪がすべてイエスの上に移されていたため、イエスは罪の罰として十字架上で突かれ、血を流さなければなりませんでした。

神であられるイエスがバプテスマをお受けになって人類の罪を被られたので、世の罪がイエスの聖なる体の上に移されたのです。そこで、世の罪を被られたイエスは、一時的に父なる神に面を背けられ、人類の罪を贖われるために十字架上での死を受けられ、それによって人類をすべての罪から救われたのです。イエスが罪の罰のはなはだしい苦しみをお受けにならなければならず、父なる神がしばし御子から面を背けられなければならなかったのは、このためです。

しかし、これは、イエスが父なる神から永遠に見捨てられたということではありません。そうではなくて、これは、イエスが人類の身代わりとなって罪の罰をお受けにならなければならず、そこで、ほんの一時、父なる神から見捨てられることが必要だったということなのです。イエスが苦痛に「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたのは、罪のためにはなはだしい苦しみを受けられたためですが、これによって人類は罪の罰から救われているのです。人間は罪のために神から見捨てられるべき存在だったのですが、イエスが人類の罪を被られ、十字架上で罪の罰の苦しみを受けられ、さらに、一時父なる神から見捨てられさえなさったのです。

もうご存じのとおり、ソロモン王の時代に神殿が建設されて後、幕屋は神殿に場所を譲りました。しかし、幕屋の基本的制度は、それ以前と同様、神殿にも適用されていました。ですから、神殿の至聖所と聖所との仕切にも垂れ幕が用いられていました。主が十字架上で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた瞬間、神殿の垂れ幕は上から下まで裂かれました。この出来事は、バプテスマと十字架上で流された尊い血とによって主が人類の罪を洗い流されたために、天国の門が広く開かれ、信じる者がみな入ることができるようになったということを告げています。そこで、水と御霊の福音を信じて、人はみな信仰によって天国に入ることができるのです。

幕屋の制度の啓示により、旧約の時代の人々もまた、やがてイエスが救世主として来られることを信じており、そこで、彼らもまたすべての罪を赦され、神の子どもとなっていました。新約では、神の罪の赦しの義はすべて、主がヨルダン川でバプテスマをお受けになり、十字架上で死なれたときに一度で永遠に成就されました。主がお与えくださった罪の赦しの福音を聞き信じ、聖徒が感謝の心をもつのは、水と御霊の福音があるためです。

自分の力では罪から解放されることがなかったでしょう。しかし、神が水と御霊によってくださった救済の真理のおかげで、この真理を信じて罪を赦されているのです。イエスがくださった水と御霊の福音を信じることによって罪は消え、今は信仰によって天の御国に入ることができるのです。それなのに、どうして神に感謝せずにいられるでしょう。主が死なれた瞬間に天国の門が上から下まで裂けたと知っているのですから、神に感謝するばかりです。主がヨルダン川で受けられたバプテスマによって人類の罪をすべて被られ、十字架上でその血によって罪の罰を受けられ、それによって信じる者全員を罪から救われたというのは、うれしい知らせです。

イエスが十字架上で死なれたときに神殿の垂れ幕が上から下まで裂けたということは、今この時代、水と血の福音を信じて罪をきよめられた者は天国に入ることができるということを告げています。これが、主がくださった救済の真理の決定的な証拠です。人間は罪人なのですから、罪の壁に妨げられて神の前に行くことができずにいたのですが、バプテスマと血とによって、イエスが罪の壁をただ一度で消されたのです。神が神殿の垂れ幕を上から下まで裂かれたことは、神の御子が罪人の咎を取り除かれたバプテスマと十字架上の血とを信じる者がその罪を完全にきよめられ、妨げなく天国に入れることを示しているのです。神は、このように人類を罪からお救いになりました。

イエスは、ご自分が全うされた救済のみわざの証拠として神殿の垂れ幕を上から下まで裂かれました。ですから、ヘブル人への手紙第 10 章 19-22 節には、「こういうわけですから、兄弟たち、私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか」とあります。

イエスが十字架上で死なれたとき、その垂れ幕が裂け、至聖所の入り口が広く開かれました。ここで開かれた至聖所の入り口が、新たな生ける天国への道を開いた、神の福音のみことばなのです。ここで聖書は、人間の心の中と体の罪はみなイエスのバプテスマ (きよい水) と血によって消し去られたのであり、そのために、全き信仰をもって完全な救済によってきよめられることができると告げているのです。

このことを、神に深く感謝いたします。人間は、どんなに努力したところで天国に入ることはできませんでした。しかしイエスは、私たちのような存在のために、バプテスマと十字架上で血を流されるという正しいみわざによってすべての罪からお救いくださり、天国の門を広く開かれ、水と御霊の福音を信じる者だけが天国に入るようになさったのです。今は水と御霊の福音を信じる信仰によって人が罪をきよめられ、天国に入ることが可能になっています。

主がバプテスマと磔刑とによって天国の門を開かれたので、人間はこの真理を信じることによって罪を洗い、天国に入ることができるのです。では、どうして神に感謝せずにいられるでしょう。主の犠牲的な愛には、とうてい感謝しきれません。至聖所の入り口の垂れ幕は、イエスが人類の罪を負われるためにお受けになったバプテスマと、人類に代わって罪の罰をお受けになるために体をささげられたいけにえのささげ物とによって裂かれました。


天国に入る道はただ一つ

聖徒はイエスのバプテスマと十字架上の血とを信じているので、天国に入ります。真理の福音を信じる以外には、天国に入る道はありません。神は、水とイエスの血との福音を信じる者のためにそうしたみわざをなさったのですから、イエスが人類のためになさったことを信じることによってのみ、人は天国に入ることができるのです。

キリスト教徒が自身の努力や献身その他の偽善的な試みによっては天国に入ることができないのは、このためです。神は、イエスがお受けになったバプテスマと流血とを信じて罪をきよめられた者だけが天国に入ることができるものと定められました。この真理を信じる者は、イエスが神の御子、神、永遠の救い主であられ、バプテスマと流血とによって人類を罪から救われたと信じます。そのような人々に、神は罪を洗うことを許されるのです。父なる神は、ただイエスがお受けになったバプテスマと十字架上で受けられた苦しみとによって、これらを信じる者が天の御国に入ることができるようになさったのです。

天国に入るのに、お金が要りますか? もしそうなら、代金を支払って救済を得るでしょうから、それは主が価なくお与えくださった救済ではありません。天国に入るには、水と御霊の福音を信じる信仰以外には何も必要ありません。つまり、天国に入るには、代金も行ないも自分なりの努力も全く必要ないのです。天国に入るには、人間の人格に関わるものは何一つ必要ではありません。人間が天国に入る資格を得るために、神は努力や行ない・意志・代償・善良さを要求なさいません。

天国に入るためには、ただ一つのものが必要です。それは、イエスがヨルダン川でお受けになった、罪を洗い流すバプテスマと、十字架上で人類の罪の赦しのために血を流された犠牲とを信じる信仰なのです。これ以外の道はありません。唯一必要なのは、イエスのバプテスマと血とを信じる福音を信じる信仰です。罪の赦しを受けて天国に入るためにイエスが全うされた水と御霊の福音を信じることが必要なのは、このためです。

愛の主イエスは、水と御霊の福音によって完全な救済を成就なさいました。イエスがすでに罪の赦しの救済を完了なさっているので、罪人がこの福音の真理を心から信じるなら、すべての罪から救われるのです。主は、罪の多寡に関わらず、人類の罪をすべて赦されました。また、信仰によって誰でも天国に入ることができるようになさいました。

罪人が水と御霊の福音を信じて天国に入ることができるようにイエスが天国の門を開かれたのは、まことに特別な救済の恵みです。「主は、私の罪を全部負われるためにバプテスマをお受けになり、身代わりとなって十字架上で死なれました。主は私の罪を洗い流され、天国の門を開いてくださいました。主は私を深く愛しておられるので、バプテスマをお受けになり、血を流され、それによって罪の赦しを完了なさったのです。」 このように救済の真理を信じたとき、人は信仰によって天国に入ります。

イエスを救い主と信じることは、そう難しいことではなく、実は、どちらかというと簡単なことなのです。ただイエスがこの世に来られて成し遂げられた既成の事実を心に受け入れさえすればよいのです。ヨルダン川でバプテスマのヨハネからお受けになったバプテスマと十字架上で流された血、それに御霊によって、イエスは人類の罪をすべて消し去ってお救いくださったのですから、このイエスを心で信じたとき、人はみな救われるのです。

「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ 8:32) 罪が大きかろうと小さかろうと、バプテスマをお受けになって血を流されることによって、イエスはすべてを消し去られました。人間を罪から解放する真理、この水と御霊の福音を信じることによって、人は永遠の救済を受け、この真の救済の自由に出会うのです。

水と御霊の福音を成就なさることによって、主は天国の門を広く開け放たれました。主はこの世に来られ、バプテスマをお受けになり、十字架上で死なれ、三日後に死者の中からよみがえられました。この真理、水と御霊の福音が人間を神に近づけ、将来天国を手にすることができるようにしたのです。さて、罪から解放されて神の子どもとなり、天国に入りたいのなら、イエスのバプテスマと十字架上の血とを信じて罪の赦しを受けなければなりません。この真理が罪の赦しを受けることを可能にし、人を天国の門に導くのです。

主は人間についてすべてご存じです。人間がいつ生まれているか、また、これまでに犯してきた罪とこれから犯す罪とをご存じです。主はまた、どんなに努力しても人間は自力では罪を消すことができないことをもご存じです。そのように人間をよく知っておられるために、主はバプテスマと十字架上の血とによって人類の罪をすべて消されたのです。


イエスはなぜこの世に来られたのか

「イエス」という名は、救い主を意味します。イエスがこの世にお生まれになったのは、罪からの救済は人間には成し得ず、神の力をもってするしかなかったためです。このように、イエス誕生には明確な目的が伴っていました。人類を罪のすべてからお救いになるためにイエスが処女の体からこの世にお生まれになったのは、このためです。つまり、イエスが女の体からお生まれになったのは、アダムとイブの違反のために罪を受け継いだ罪人のためだったのです。この世の罪人全員をその咎のすべてから救う救い主となられるために、主は神の力によって処女の体に孕まれてこの地上に来られました。

主がご自分の被造物の体を通してこの世にお生まれになったのは、自ら傷のないささげ物となられるためでした そして、時が来ると、人類に救済をもたらされるために一歩一歩事を進められたのです。主は、三十歳になられたときにヨルダン川でバプテスマを授けられました。この地上にお生まれになった目的を達成なさるためには、イエスはバプテスマを受けて世の罪を負わなければなりませんでした。そこで、それを実現なさるためにヨハネからバプテスマを受けられたのです (マタイ 3:13-17)。

イエスはこうしてバプテスマによって世の罪を負われ、三年後に十字架につけられました。主はバプテスマをお受けになって世の罪を負われたために、身代わりとして人類の罪の罰を受けられたのです。バプテスマのヨハネから授けられたバプテスマと十字架上の血とによって、主はすべての罪を消され、それによって、信じる者が罪から救われるようになさったのです。

どんなに無知であろうと、どんな弱さに捕われていようと、どんな罪人であろうと、神は水と御霊の福音を信じる者が天国、主の御国に入ることができるようになさいました。イエスがヨルダン川でバプテスマをお受けになり、十字架上で血を流されたのは、罪を贖われるためでした。イエスが罪を贖われ、ご自分を犠牲になさって全うなさった救済のおかげで、信じる者は水と御霊の福音への信仰だけで罪を洗い流すことができるのです。これがキリスト教の根本的な真理であり、罪の赦しの核心なのです。

主は、この世の罪人全員の救い主となられるためにこの地上に来られました。そして、実際に人類全員を罪から救われたのです。主はすべての罪人が、誰であろうと、みわざを信じることによって天国に入ることができるようになさいました。

これが主の愛です。主は人類を深く愛されたために、お救いになるためにバプテスマをお受けになり、血を流されたのです。ご自分の身同様に愛された人類を罪からお救いになるために、主はバプテスマをお受けになり、血を流されて救済を全うされたのです。人間は死ぬまで罪を犯し続ける罪人でした。罪に苛まれ、人間は神から遠ざかり続けるばかりでした。そのような存在をお救いになるために、主は救済のみわざを成就なさり、そのおかげで人間は神と結ばれることができるようになったのです。

主は、罪人であった人類を神の愛によって救われました。罪人をその咎からお救いになるためにバプテスマをお受けになり、血を流されて、神の義と愛とを成就なさいました。福音を信じる私たち聖徒は、主がしてくださったことに深く感謝しており、その前に額づくとき、信仰による感謝の念をとても言い表せないほどなのです。主がお与えくださった罪の赦しの真理がそれほどに高貴で絶対的な愛であるため、どのような理屈も甘いことばも、けっして表現することができないのです。

二千年以上前には、私たちの誰ひとり生まれてさえいませんでした。地上の神殿の垂れ幕と天の神の御国の神殿の垂れ幕が開かれたのは、約二千年前のことです。当時、私たちはまだ母の胎内に宿ってさえいませんでしたが、主はすでに私たちについてすべてご存じでした。人が生まれること、みな生涯それぞれの生き方をするだろうことをご存じでした。そして、主は愛してくださいました。私だけではなく、みなさんや他の人々を同様に愛されたのです。主はそんなにも人類を愛されたために、すべての罪人が、イエスが全うされた水と血と御霊の福音を信じることによって天国に入れるようになさいました。水と御霊 (イエスのバプテスマと十字架上の血) とによって、イエスは人類の罪からの救済を完了なさいました。

神殿の垂れ幕が上から下まで裂けたということは、実に驚くべきことです。イエスが十字架上で死なれたからといって、どうして至聖所の垂れ幕が裂けることがあるでしょう。この垂れ幕は、今日の絨毯のようなものです。たいへん厚く丈夫に織られていました。パレスチナでは、今日でもそうした絨毯のように織られた厚い垂れ幕を目にすることがあります。実に緊密に織られているため、引き裂くには四頭の馬が反対方向に引っ張らなければならないと言われています。馬の強さはどれくらいあるでしょう。そのように、引き裂くのに四頭の馬を必要とするような丈夫な垂れ幕が、イエスが十字架上で死なれたときには上から下まで裂けたのです。

なぜ垂れ幕は裂けたのでしょう? イエスが人類の心にあった罪をすべて洗い流されたために裂けたのです。イエスがバプテスマをお受けになり、十字架につけられて死なれることで正しいみわざを全うされたために、裂けたのです。バプテスマによって世の罪を負われ、十字架上で罰をお受けになることによって、イエスは信じる者たちに天国に入る道を開かれました。人はただ、信じるだけでよいのです。主は、人がみなただ信じることによって入れるよう、天国の門を開かれたのです。


イエスのバプテスマと血とは両方とも 救済に必要か

旧約の時代よりも前に計画された救済の方法、いけにえのささげ物のために定められた儀式に則って、イエスの頭に手が置かれました。いけにえのささげ物が手を置かれることで罪をすべて負って死ぬことが神の定められた救済の律法であったため、人類を永遠に救われるためにいけにえのささげ物として来られたイエスは、手を置く形であるバプテスマをお受けになることによってのみ、人類の罪を消すことがおできになったのです。至聖所に入るには、大祭司でさえ、手を置くことで罪を負わされたいけにえのささげ物の血を携えていなければならなかったのは、このためです。

では、なぜ大祭司は血を持ってそこに入らなければならなかったのでしょう? 肉のいのちは血の中にあるのですから、ご自分の前に来る前に罪を贖うようにと、神が大祭司にお命じになったのです (レビ記 17:11)。人間はみな罪のために死ななければなりませんでした。しかし、イエスがヨルダン川でバプテスマをお受けになることで人類の罪をすべて被られ (罪は全部、バプテスマによってイエスの上に移された)、すべてを負われ、十字架につけられ、そうして流された血、ご自分の命で人類を救われたのです。このことから、罪人が神の前に行くときには、水と血をと信じる福音をもっていなければならないことがわかります。心からイエスのバプテスマと流された血とを信じてはじめて、人は罪のために罰されることを免れるのです。

さて、誰ひとり悔い改めの祈りをささげたり、断食したり、罪の赦しのためにささげ物をしたりする必要がなくなるように、イエスは人類の罪をすべて洗い流されました。悔い改めの祈りをささげる必要はありませんし、罪のために罰されることもありません。イエスがすでに罪の赦しのためのささげ物をささげ、罰をお受けになったためです。人間はただ、青色・紫色・緋色の撚り糸が体現した救済を心で信じることだけなのです。

イエスがお受けになったバプテスマが旧約の幕屋に用いられた青い糸であること、イエスの流された血が緋の糸であることを信じさえすればよいのです。イエスの本質が王の王であるということは、幕屋の入り口に用いられた紫の糸によって表わされています。ですから、青色・紫色・緋色の撚り糸の体現した罪の赦しを信じて罪を洗い流され、また、罰はすべて終わっているのだと信じているなら、誰でも天の御国に入ることができるのです。この福音が、水と御霊の福音そのものなのです。


イエスが十字架上で死なれたときに、なぜ垂れ幕は上から下まで裂けたのか もう一度考えよう

旧約に記された青色・紫色・緋色の撚り糸は、信じる者に罪の赦しを受けて天の御国に入る恵みをもたらす福音でした。イエスがバプテスマをお受けになって十字架上で死なれたときに垂れ幕が裂けたのは、このためです。イエスを信じる者には、これは、神ご自身がくださった水と御霊の福音の真理です。「ああ、イエスは私に代わってヨハネからバプテスマをお受けになったから十字架上で血を流して死なれ、そうして罪の報いである死を贖われたのだ。」 十字架上で死なれるとき、イエスは「完了した」とおっしゃいました。その瞬間、天の御国への道が開かれたのです。

人間は罪の壁を築き続けるしかありません。そのために神と隔てられていた者を救われるために、イエスはこの地上に来られました。これはイエスご自身の意思によるものですが、同時に、それはまた父なる神とその人類への愛に動かされたものでもあるのです。父なる神のみこころに従い、イエスは世の罪がその上に移されることになるバプテスマをお受けになりました。イエスはバプテスマによって世の罪を被られたため、十字架に行かれ、磔刑にされ、血を流して死なれ、三日後に死者の中からよみがえられ、そうして救済のみわざを完了なさいました。これが青色・紫色・緋色の撚り糸が体現したみわざ、罪人をその咎から救う罪の赦しであり、いけにえの制度の終わりだったのです。

イエスがみわざによって救済を完了なさったので、それまで人間が誰ひとり入れなかった天国の門が開かれました。これは、救済の門がもはや旧約の手を置くことといけにえのささげ物とされた動物の血とによっては開かれず、今は、イエスが受けられたバプテスマと十字架上で流された血とを信じる信仰によって開かれることを示しています。垂れ幕が裂けたことは、救済の完了を意味します。神は、主が全うされた水と御霊の福音を知り、心から信じる者が誰でも天国に入ることができるようになさいました。神殿の幕が裂けたのは、このためです。

イエスのバプテスマと十字架上の血とを信じる信仰によって、人は天の御国に入るのです。罪が全くなかったイエスがこの世に肉の形でおいでになり、人類の罪をすべて負われるためにヨハネからバプテスマを受けられました (マタイ 3:15)。さらに、主はご自分の命を罪の贖いとしてささげられ、神の前に行くときに人間が携えていなければならない永遠の贖いのささげ物となられました。ですから、人はみな、イエスが人類救済のためバプテスマをお受けになた後で流された血を信じるべきなのです。人類を罪から救って神の民となさるために、イエスはご自分の体を裂いて天国の門を開かれました。

イエスによる人類救済については、十字架上で血を流されただけではないということを知っておかなければなりません。十字架上で死なれる三年前に、主はすでにヨルダン川でのバプテスマによって人類の罪を負われていたのです。ですから、イエスは全人類のためにヨハネからバプテスマを授けられ、それからローマ兵の手によって十字架につけられたのです。みなさんや私がこの世に生まれる前にすでに、イエスはバプテスマを受けられ、血を流されることによって、罪をきよめてくださっていたのです。

イエスがヨハネからバプテスマをお受けになったのは、事前にただ一度で人類の罪を負われるために全うするべき救済の方法だったのです。イエスが流された血は、そうして負われた罪を贖うものでした。イエスは神であられますから、授けられたバプテスマと十字架上で流された血とが、確かに罪からの救済を成しているのです。これが、全人類救済のために主が払われた完全な犠牲です。水と御霊の福音のみことばが人類の罪をきよめ、人類全員を罪と呪いとから解放したと信じていますか?


イエスのバプテスマと十字架上の血とによって 人類の罪はすべて洗い流された

イエスがヨハネからバプテスマをお受けになったのは、人類の罪を洗い流されるためでした。イエスの布教活動からバプテスマを除いて救済のみわざを見るなら、世界創造以前からイエス・キリストの内に計画されていた人類救済はみな嘘になります。世界創造の前にすでにイエスは、人類の罪を被るためにバプテスマをお受けになって血を流す用意をなさっていたのです。

イエスが全人類の代表者であるバプテスマのヨハネからバプテスマを授けられ、それによってすべての罪を受けられたのは、このためです (マタイ 11:11-12; マタイ 3:15)。バプテスマを授けられることによってイエスが罪人の咎を洗い流されることが、救済の方法でした。イエスは罪人の咎を負われ、それをきよめられ、人類が罪のために死ぬ代わりに、ご自分が身代わりとなられ、そうなさることによって、これを信じる者をすべての罪と罰とからお救いくださったのです。この方法、すなわち、バプテスマをお受けになるという方法で、イエスは人類の罪全部をその身に負われ、罪の罰をすべて受けられて十字架上で血を流されたのです。「このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」(マタイ 3:15) イエスがヨルダン川でバプテスマをお受けになったことは、罪人の罪を全部被られたことを意味します。

みなさん、イエスが二千年以上前にこの世に来られ、三十歳になられたときにバプテスマをお受けになり、みなさんに代わって血を流されたことを、ただご自分の目で見ていないから信じられないのですか? しかし、人類の欠点のすべてをご存じの神は、世界創造の前にすでに水と血による人類救済をご計画だったのです。そして、ご計画に従ってイエス・キリストとバプテスマのヨハネをこの世に遣わされて人類全員の救済を成就なさったのです。人間がこの真理をすっかり知ることができるようにと、神はしもべにみことばを書き記させました。書き記されたみことばによって、神は救済のご計画と成就とを全人類に明かされたのです。書き記されたみことばによって、イエスが人類の罪をすべて被られるためにヨルダン川でヨハネからバプテスマをお受けになったという真理を誰でも知ることができるようになさったのです。

人はみな、人類の救済としてイエスが受けられたバプテスマと十字架上で流された血とを信じなければなりません。肉眼で見てはいませんが、心で信じるのです。信仰は、みことばに基づいたときに、真の信仰となるのです。主は、トマスに「見ずに信じる者は幸いです」(ヨハネ 20:29) とおっしゃいました。お受けになったバプテスマと流された血とによって、イエスはみなさんや私を救われました。神は、これを信じる者が誰でも天国に入れるようになさいました。

イエスが十字架上で死なれたときに神殿の幕が裂けたのは、このためです。イエスは人類と神とを隔てていた罪の壁を崩されました。イエスがなさったことは、罪の壁をすっかり崩して余りあったのです。イエスは、誰でも水と御霊の福音を心に信じるだけでまったく妨げなく天国に入れるようになさいました。心で信じさえすればほんとうに天国に入れるようにと、この真理をお与えくださったことを、神に感謝いたします。

イエスが罪人をお救いになるためにこの地上に単なる被造物の形で来られたことは、どれほどの大事件だったでしょう。世界創造と比べても、これは、実に驚くべき出来事でした。主、すべてを造られた創造主が被造物を造られることは当然なのですが、創造主が被造物のようになられ、バプテスマをお受けになって世の罪を被られ、十字架につけられたということは、偉大な救済のみわざにほかならないのです。

どうして創造主がご自分の被造物のようになられたのでしょう。また、イエス、神ご自身が自らを低められ、人類の代表バプテスマのヨハネからヨルダン川でバプテスマをお受けにさえなったのです。これは、なんと驚くべき出来事でしょう。しかし、これだけではないのです。イエスはご自分を徹底的に低められ、死につかれさえなさったのです。十字架上で無数の残酷な苦しみを受けられ、血を流して死なれたのです。こうしたことはみな、神の愛、慈悲、大いなる恵み以外のものではあり得ません。

人類の罪はすべて、主のバプテスマと十字架上の血とによって完全にきよめられました。神殿の垂れ幕を裂かれて、イエスは三日後に死者の中からよみがえられ、信じる者みなと、この真理のうちにお会いになることを望まれているのです。このように、罪人を救った主のみわざは、この宇宙とその中のすべてを造った創造のみわざよりもはるかに偉大なのです。イエスの誕生、バプテスマ、十字架上の死、よみがえり、昇天と再降臨、それに、人類を神の子どもとなさったことは、神の愛のみわざです。
主はみなさんや私をすべての罪から救ってくださいました。主は水と御霊の福音によってみなさんや私を世の罪のすべてからただ一度で救ってくださいました。ですから、人間は信仰によって義となり、神に感謝をささげることができるのです。神は救済の恵みをすっかりくださいました。信じていますか?

兄弟姉妹のみなさん、みなさんや私は地獄に投げ込まれるしかない存在です。私たちは罪のために滅ぼされるしかない、悲しみの内に生きる存在であったのに、主が世界創造の前からすでにご計画になっておられた救済によって、罪から救ってくださったのです。人間は、自分の罪のただ中に座って嘆き、恨み、運命を呪って生きるしかありませんでした。しかし、そのような存在が天の御国に入ることができるようにと、主がすべての罪から救ってくださったのです。そうして、主は救済の主となられました。

イエスは水と御霊の福音をくださり、また、罪の赦しを保証なさっています。イエスご自身が救済の主となられたのです。イエスは世の罪を被られ、身代わりとなって死なれ、そうして完全な救い主となられました。


イエスが受けられたバプテスマと 流された血とを信じるか

罪からの救済は、イエスが受けられたバプテスマと十字架上で流された血とを信じることで成就します。罪人がイエスを救い主と信じて救われるには、バプテスマと十字架とを順番どおりに扱い、この二つがそろってはじめて完全な救済が成ったのだと信じなければなりません。

まさか、イエスがバプテスマをお受けになって十字架上で死なれたと信じていないのではないでしょうね? イエスがヨハネから受けられたバプテスマを無視し、信じることを拒んでいるのではありませんか? 神の義は、イエスがバプテスマを受けられたのは罪人の咎のすべてを被られるためであり、尊い血を流されて死なれたのは人類の罪の罰を受けられたものであったために、満たされたのです。ですから、イエスを信じると言うときには、バプテスマと十字架上で流された血の二つが一つの救済なのだと信じていなければなりません。

神は、イエスのバプテスマと血を流されることとの両方が必要だとみことばに記されています。それなのに、救われるには十字架上で流された血だけを信じればよいのだと主張する人がいまだに大勢いるのです。もしみなさんがその一人なら、自分の信仰をまじめに見直し、心を改め、この二つの不可欠な要素を信じるのです。そうせずに十字架上で流された血だけを信じるなら、主の布教活動における聖なるみわざをすべて無にすることになります。そのような信仰をもっているのなら、欠陥のある信仰に背を向け、聖書全体で語られている真の信仰をもたなければなりません。イエスのバプテスマがなければ、十字架上の死にどんな意味があったのでしょう。イエスがバプテスマのヨハネからバプテスマを授けられていなければ、その死は人類の罪とは全く関わりのないものだったでしょう。

みなさん、帳簿から自分の名前を消すには、実際にお金を持っていって債権者に支払わなければないでしょう。負債者は、負債相当額の金を渡さなければなりません。そうしてはじめて、名前がリストから消されるのです。同様に、罪を贖われるために、イエスは人類の罪と不正とをバプテスマによって負われ、血を流されて消されたのです。

お受けになったバプテスマによって、主は実際に人類の罪を全部取り除かれたのであり、そのために、血を流されて罪の罰をお受けになったのです。借金を返すには、常識ではその額に相当する額を持っていかなければなりません。負債者が金を払わずに、借金を払ったと主張して帳簿から名を消すように要求したなら、ほんとうに名前は消されるでしょうか。名前が消されたとどんなに本気で信じたところで、実際は、名前はまだ帳簿に記されているのです。

負債者が借金から自由になるのは、借金が実際に支払われたときだけです。罪人が罪の赦しを受けるには、イエスの受けられたバプテスマによって罪がその上に移されたと信じる信仰を心にもたなければなりません。私たちは、イエスの頭に罪を移したこのバプテスマを自分で授けたわけではありません。

そうではなくて、バプテスマのヨハネという媒介者によって、罪をイエスの上に移すことができたのです。バプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになったイエスは、世の罪を負われ、十字架に行かれ、血を流して死なれました。救済の型であり、受取証であり、それによってイエスが人類の罪を負われて救ってくださったバプテスマを信じることによって、人間は救済のあかしを受けることができます。主が人類のためになさったことを心で信じて、人は罪の赦しを受けることができます。なぜでしょうか? バプテスマと血とによって、主が新たないのちをくださったためです。

イエスが十字架上で死なれたとき、至聖所の幕が二つに裂けました。大地が揺れ、岩が転がり、墓が開き、眠りについていた聖徒の体の多くがよみがえりました。こうした出来事によって神は、イエス・キリストが訪れて人類の罪をすべて消し去るというみことばを信じる者をよみがえらせることを示されたのです。イエスがほんとうに死者の中からよみがえられるのであり、イエスを信じる者はほんとうに復活されるのだということを示されたのです。イエスは人類を罪からお救いになったばかりではなく、霊的に死んでいた人類に新たないのちをくださいました。人類に新たな命をお与えになるためにイエスはバプテスマをお受けになり、十字架上で死なれ、復活なさったのです。神は、人間が聖都に入って永遠に生きることができるようになさいました。信仰をもって主に感謝いたします。

赦しを受けた者が住むのは天国です。ですから、この世で罪の赦しを受けた者はみな天国に入り、そこで暮らすのだと信じなさい。天国は、罪の赦しを受けた者のものです。水と御霊の福音を信じることと、新たに生まれることとは別物ではなく、同じことなのです。
水と御霊の福音のみことばを信じると、信じたその瞬間に新たに生まれるのです。罪人が罪の赦しを受けると、神の子どもとなります。ご自分の子どもに神は、天国を贈り物としてくださいます。人間は肉の中にあって何の行ないをしていなくとも、救い主を信じる信仰というただ一つのものをご覧になって、主は罪の赦しと天国を贈り物としてくださったのです。

主がこの世に来られ、バプテスマをお受けになり、血を流されたことは、みな事実です。イエスは十字架上で死なれたとき、すでにバプテスマで世の罪を被っておられました。イエスは十字架につけられる前、ヨハネからバプテスマをお受けになっていて、すでに世の罪を負われていたのです。ですから、イエスがバプテスマをお受けになって世の罪をすべて負われたために、罪から来る報酬は死であると定めている律法による罰をお受けにならなければならなかったのです。人類を罪から救われるために、イエスはバプテスマの際に被られた世の罪を負って十字架上で死なれなければならなかったのです。

イエスが十字架につけられたとき、釘を打った人々はユダヤ人ではなく、ローマ人兵士でした。イエスは異邦人の兵士によって十字架につけられたのです。人類の罪のために十字架上で血を流され、イエスは最後の息で「完了した」と叫ばれました。その瞬間、神殿の垂れ幕は上から下まで真っ二つに裂けました。さらに、地震が起こり、岩が裂け、墓が開き、眠っていた多くの聖徒たちの体が生き返ったと、聖書は告げています (マタイ 27:51-52)。イエスが十字架上で死なれた時に起こったことを見た百人隊長とローマ人兵士は、「この方はまことに神の子であった」(マタイ 27:54) とあかししました。神は、これらの異邦人兵士の口が、イエスが生ける神の御子であるとあかしするようになさったのです。

今、全世界に真の福音をあかししなければならないのは、聖徒、水と御霊の福音の信者にほかなりません。水と御霊の福音によって誰もが変わったのです。人がイエスから罪の赦しを受けると、御霊が心に宿るために来られるので、自分では努力などしなくとも霊的に変化します。新たに生まれた義人の心は、毎日新たになります。神の教会では水と御霊の福音のみことばをいつでも聞くことができるためです。人々は、みことばを聞きにやって来てイエスをたたえ、たたえると、詩句が心に刻まれ、毎日心が新たになるのを覚えるのです。義人は常に心が変化しており、自分でその変化を実感できるのです。

そして、変化し義人となった者を見て、不信者は「この人たちはほんとうに救われているのです。彼らは真のキリスト教徒、神の民です」とあかしするようになります。このように、聖徒の罪の赦しは、自分だけで証明できるたぐいの救済ではありません。ローマ人の百人隊長と兵士たちもまた、この真理、つまり、イエスは十字架につけられたときに、神の御子として罪人を世の罪からお救いになったということをあかししました。同様に、神ご自身が、イエスが水と血とによって人類をすべての罪から救われたと信じる者たちのあかしをなさいます。


悪魔さえも屈服させた水と御霊の福音

水と御霊の福音は、悪魔さえも屈服した救済です。イエスが「完了した」とおっしゃったとき、悪魔は言ったでしょう。「ああ。悔しいが、どうしようもない。そのとおりなのだ。この世にはもはや罪が一つもない。例外なく誰もが完全に罪なき者なのだ。実にいまいましいが、どうしようもないのだ。」

つまり、悪魔自身、イエスが全うなさったこの救済を認めざるを得なかったのです。しかし、それでも、罪の赦しを受けた者たちが信仰の生活を送るのを妨げようとします。イエスが全うなさった水と御霊の福音を信じる者は神の子どもなので、神のために生きようとします。悪魔にとって、これは罪の奴隷として自分のしもべとなる者が少なくなるということですから、神のしもべがこの真理を世界中に広めることを妨げようとします。

罪の赦しを受けた者が水と御霊の福音を広め続けたなら、罪を赦された人がもっと増えるでしょう。サタンが人々の弱点をついて捕え、妨げるのは、ただ一人でもイエスに従うのを止めようとするためです。

「イエスを殺せ」と言って人々の心を刺激した悪魔は、イエスを十字架につけて殺させました。しかし、悪魔がすべてが終わったと思ったそのとき、十字架につけられて瀕死の状態にあったイエス大きな声で「完了した」と叫ばれたのです。サタンはこれに驚愕しました。邪魔されるどころか、ヨルダン川でのバプテスマによって人類の罪を負われ、十字架上で死なれることによって、イエスは人類を罪と罰から救う救済を全うなさったのです。悪魔はこの神の知恵に気づきませんでした。悪魔は、ただイエスを十字架上で殺しさえすればすべては終わると思っていたのですが、そうではなかったのです。バプテスマをお受けになって世の罪を被られた後、イエスは十字架上で身をささげて死なれることで罪人の罪の贖いを完了なさったのです。

肉体の死によって、イエスは罪をすっかり贖われたのです。ですから、もはや人間の中に罪は見出されません。なぜでしょうか? 罪から来る報酬が死であると定めている律法によると、イエスがすでに罪人に代わって死なれているのです。イエスはヨルダン川で罪人の不正のすべてを負われたために、罪人の身代わりとなって死ぬことがおできだったのです。

「完了した。」イエスは最後の息で、十字架上でこう叫ばれました。イエスが死なれたので、悪魔はもはや人間に向かって「おまえには罪がある、そうだろう」とは言えなくなりました。イエスの誕生とバプテスマ、十字架上の死、それに血とよみがえりのために、悪魔はイエスの前に完全な敗北を喫したのです。悪魔は人間が常に罪を犯すようにして人間と神との間を隔てましたが、結局は、神の御子イエスの知恵、つまり、イエスが罪を洗われ、罰を受けられたことで、サタンは完全に打ち負かされたのです。

イエスのバプテスマと十字架上の血とを信じていて、まだ罪があるでしょうか? もちろん、ありません。自分には罪がないと言うことは、肉の良心によってはできないことです。しかし、イエスのバプテスマと血とを信じることによって、人間は今、自分には罪がないと堂々と告げることができるのです。イエスがヨルダン川でバプテスマを受けられて世の罪を被られ、人類の身代わりとなって十字架上で死なれ、それによって救ってくださったと信じていますか? この真理への信仰によって、自分には罪がないと言うことができます。そして、実際、心には微塵も罪がないはずなのです。神の前で感謝の念があふれ出て、信仰をもって感謝をささげるのは、このためです。

「神様、私の信仰はつまらないものでしょうが、芥子粒ほどの信仰であっても、感謝をささげます。神様の大いなる愛を受けることもできない者でしたのに、それでも御霊が心に来られました。ですから、水と御霊の福音を信じる信仰をもって、神様の愛を心に抱きます。主が心の中におられてともにあられるので、毎日心には感謝の思いがあります。この心をくださったことを、深く感謝いたします。」 このように、主は感謝する心をくださいました。そして、主は毎日祝福してくださいます。

ですから、ただ私だけではなく、完全な救済を聞き信じるすべての人々もまた、心に罪が何もないのです。聖徒は水と御霊の真理を信じたために、神の子どもとなる救済の恵みを受けました。そして、イエスの誕生とバプテスマ、血を信じて神のもとに戻り、この真理を信じること以外にすべての罪から救われる道はないと、すべての人が気づくことを、神は心から求めておられます。

使徒の行ない第 4 章 12 節は、「この方以外には、誰によっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間には与えられていないからです」と断言しています。聖徒はイエスを救い主と信じます。これを信じる者の内に感謝の思いが湧き起こります。ですから、聖徒には神に感謝する心があります。主は人類に救済をお与えくださいました。また、感謝する心をもくださったのです。主は永遠のいのちをくださいました。こうした豊かな恵みのすべてをお与えくださったことに感謝し、主に栄光をささげずにはいられません。

たとえ信仰は芥子粒ほどささやかなものだろうと、イエス・キリストが人類のためになさったことを心で信じるなら、人はみな救われます。どうか、神が価なくくださったこの救済を信じること以外には、救済のために人間にできることは何もないのだと知り、信じてください。罪の赦しは自分の努力によっては受けることができないものなので、神がご自分で人類の罪のすべてを一方的に消し去られ、信じる者に救済をお与えになるのです。さて、あとはただ、信仰によってこの罪の赦しを受けるだけなのです。

韓国には、「ただのものばかりほしがれば、はげになる」ということわざがあります。英語のことわざなら「There is no such thing as a free lunch (ただより高いものはない)」ということになるでしょう。確かにそのとおりです。人生においては何ひとつ価なしには手に入りません。そして、私たちは、見返りなしに贈り物をほしがる者をからかいます。それでも、救われて天国に行くことは、水と御霊の福音を信じることによって、まったく無料で達成されるのです。あまりに多くの無料のものをもらうあつかましさは、肉においてはみっともないものでしょう。しかし、神からの贈り物を受ける霊的あつかましさは、神の前での恵みなのです。神は人間の罪のない心を見ることを喜ばれること、それをご覧になると、その者を腕に抱かれることをみなさんが知ってくださるよう、祈ります。

私たちは神から価なく与えられた恵みが好きです。そして、主に感謝せずにはいられません。主は、この世に来られ、水でバプテスマを受けられ、十字架上で血を流され、そうして天国の門を開かれました。至聖所の垂れ幕を上から下まで裂かれることによって、主は、水と御霊の福音を信じて新たに生まれた者が誰でも天の御国に入ることができるようになさいました。みなさんもまた、水と御霊の福音を心に信じて天国に入ってください。

バプテスマをお受けになり、血を流され、死者の中からよみがえられたこと、それによって罪の赦しの戸を開いてくださった恵みを主に感謝いたします。





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