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主題 3: 水と御霊の福音

[3-6] 真の霊的割礼 (出エジプト記 12:43-49)

真の霊的割礼
(出エジプト記 12:43-49)
「主はモーセとアロンに仰せられた。『過越のいけにえに関するおきては次のとおりである。外国人はだれもこれを食べてはならない。しかし、だれでも金で買われた奴隷は、あなたが割礼を施せば、これを食べることができる。居留者と雇い人は、これを食べてはならない。これは一つの家の中で食べなければならない。あなたはその肉を家の外に持ち出してはならない。またその骨を折ってはならない。イスラエルの全会衆はこれを行なわなければならない。もし、あなたのところに異国人が在留していて、主に過越のいけにえをささげようとするなら、彼の家の男子はみな割礼を受けなければならない。そうしてから、その者は、近づいてささげることができる。彼はこの国に生まれた者と同じになる。しかし無割礼の者は、だれもそれを食べてはならない。このおしえは、この国に生まれた者にも、あなたがたの中にいる在留異国人にも同じである。』」
 
 
旧約聖書でイスラエル人が神の子どもになるために不可欠な条件とは何だったのか。
彼らは割礼を受けなければならなかった。

旧約聖書と新約聖書の両方にある神のみことばは、神を信じる私たちにとって重要かつ貴重です。神のみことばは、いのちのみことばであるため、そうしたみことばの一つの聖句についてさえ、怠ることができません。
今日の聖句は、過越を守りたい人はだれでも、事前に割礼を受けなければならないことを教えています。神がこれをおっしゃる理由について考えるべきです。割礼を受けない限り、その人は過越を守ることができません。
私たちがイエスを信じることになっているなら、この命令をお与えになる神の目的を理解するべきです。割礼とは、男子の包皮を切り捨てることです。なぜ神は、アブラハムとその子孫に割礼を受けなさいとおっしゃったのでしょう。その理由は、罪を「切り捨てる」者だけが、神の民になると約束なさったからです。
そういうわけで、神は旧約聖書におけるイスラエルの民に、割礼を受けなさいと告げておられます。神の民になるために、イスラエルの民は割礼を受けなければなりませんでした。それは神の儀式、任職の基礎であり、神は割礼を通して、信仰によって罪を切り捨てた者の神になられました。さらに、新約聖書でも、神は信仰によって罪を切り捨てた者の神になられます。
 
 

過越

 
過越とは何だったのか。
イスラエル人がエジプトからの脱出を思い出して神に感謝する日。

イスラエルの民にとって最も重要な祝日は、過越でした。それは、イスラエル人が奴隷として約 400 年間住んでいた、エジプトからの脱出を覚えて、神に感謝する日でした。神は、パロのかたくなな心を動かすために、十の大きな疫病をもたらされました。これが意味することは、神がイスラエルの民を、エジプトからカナンの地へと導いたということでした。
イスラエルの民は、いけにえの子羊の血と割礼を通して、最後の災害、初子の死から救われたのです。したがって、神は彼らに、神のあわれみを思い出させるものとして、世代を通して過越を守りなさいとおっしゃいました。
 
 
過越を守るためにイスラエル人は何をしなければならなかったのか
 
過越を守るためにイスラエル人は何をしなければならなかったのか。
彼らは割礼を受けなければならなかった。

私たちは、過越を霊的に守るために、心の中に割礼を受ける必要があることを理解しなければなりません。イスラエルの民でさえ、過越を守るために、割礼を受けなければなりませんでした。
出エジプト記 12:43-49 には、次のように記されています。「過越のいけにえに関するおきては次のとおりである。外国人はだれもこれを食べてはならない。しかし、だれでも金で買われた奴隷は、あなたが割礼を施せば、これを食べることができる。居留者と雇い人は、これを食べてはならない。これは一つの家の中で食べなければならない。あなたはその肉を家の外に持ち出してはならない。またその骨を折ってはならない。イスラエルの全会衆はこれを行なわなければならない。もし、あなたのところに異国人が在留していて、主に過越のいけにえをささげようとするなら、彼の家の男子はみな割礼を受けなければならない。そうしてから、その者は、近づいてささげることができる。彼はこの国に生まれた者と同じになる。しかし無割礼の者は、だれもそれを食べてはならない。このおしえは、この国に生まれた者にも、あなたがたの中にいる在留異国人にも同じである。」 こうして、イスラエル人が割礼を受けた後、神は彼らに過越を守りなさいとおっしゃいました。
過越の肉を食べて、過越を守ることを許されたのは、誰だったでしょう。割礼を受けた者だけが、過越を守ることができました。
過越の子羊は、全員がご存じのように、世の罪を取り除かれたイエス・キリストです。
では、旧約聖書と新約聖書の割礼とは何でしょうか。割礼とは、包皮を切り捨てることを意味します。イエス・キリストも、この世に生まれた八日目に割礼を受けました。神は、過越の儀式に参加したすべての人に割礼を受けなさいと命じられましたが、割礼を受けていない者は、決して過越の祭りに参加することができませんでした。
したがって、神が定められたとおりに、すべての人が割礼を受けなければなりませんでした。イエスを信じるなら、新約聖書における割礼の意味を理解しなければなりません。
 
 

神がアブラハムに、行ないなさいとお命じになった割礼の儀式とは何だったのか

 
アブラハムとその子孫はどのようにして神の子どもになれたのか
割礼を受けることによって

創世記では、神はアブラハムに現れ、アブラハムとその子孫とに契約を結ばれました。第15章で、神はアブラハムの子孫が空の星のように増え、彼らに相続としてカナンの地を与えると、約束なさいました。
そして第 17 章で、神はアブラハムに、アブラハムとその子孫が神の契約に入って割礼を受けたら、神は彼らの神となられ、彼らは神の民となるとおっしゃいました。それは、アブラハムとその子孫との神の契約でした。神は、彼らが神の契約を信じて割礼を受けたとき、彼らが神の民になり、神は確かに彼らの神になると約束なさいました。
創世記 17:7-8 には、次のようにあります。「わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。」
割礼は、アブラハムとその子孫との神の契約のしるしでした。
 
 

霊的割礼を受ける方法というのは何を意味しているのか

 
霊的割礼とは何か。
イエスのバプテスマを信じて心にあるすべての罪を切り捨てること。

アブラハムは、神のみことばを信じたので、神はアブラハムを義人となさり、神の子どもとなさいました。神とアブラハムとの間の契約のしるしであったのは、割礼でした。
「次のことが、わたしとあなたがたと、またあなたの後のあなたの子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中のすべての男子は割礼を受けなさい」 (創世記 17:10)。
からだの割礼とは、包皮を切り捨てることを意味します。霊的には、イエスのバプテスマへの信仰を通して、罪をすべてイエスに移すことをも意味します。私たちは、イエスのバプテスマの救済を受け入れることによって、すべての罪を切り捨てるとき、霊的に割礼を受けます。新約聖書の割礼とは、イエスのバプテスマを通して、すべての罪を切り捨てることです。
したがって、旧約聖書における割礼とは、新約聖書におけるイエスのバプテスマであり、両方が私たちを神の民にする神の契約なのです。したがって、旧約聖書における割礼と新約聖書におけるイエスのバプテスマとは、まったく同じものです。
アブラハムの子孫が、自分たちの包皮を切り捨てたとき、神の民になったのと同様に、私たちは心からすべての罪を切り捨てたときに、神の子どもになります。イエスがバプテスマのヨハネからバプテスマを受けたときに、イエスがすべての罪を取り除かれたので、世には罪がないと信じることによって、私たちは心からすべての罪を切り捨てます。
イエスのバプテスマは、すべての罪人の罪を切り捨てることによって、彼らを義人にします。割礼の過程で包皮の一部が切り捨てられたのと同様に、イエスがヨルダン川でバプテスマのヨハネからバプテスマを受けたとき、人類の罪はすべての人々の心から切り捨てられました。これを信じる者は、霊的に割礼を受け、義人である神の民になることができます。
 
 
人々を神から断ち切る偽りの信仰
 
イスラエル人を神から断ち切らせたものは何か
無割礼

神はアブラハムに、割礼を受けていない人は、神の民から断ち切られなければならないとおっしゃいました。では、割礼とは何でしょう。そして、霊的割礼とは何でしょう。肉の割礼が体の一部から少しの包皮を切り捨てるのであれば、霊的割礼とは、私たちの心からすべての罪を切り捨て、バプテスマを通してその罪をイエスに移すことです。
イエスのバプテスマは人類の霊的割礼であり、それによって世の罪が私たちから切り捨てられ、イエスに移されました。イエスがバプテスマのヨハネからバプテスマを受けた理由は、すべての罪を取り除いた霊的割礼を通して全人類を救うためだったのです。
人類の罪はすべて、イエスに移されました。神は、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、そして彼らのすべての子孫の神になることで、アブラハムとその子孫との契約を結び、包皮を切り捨てました。こうして神は、割礼を通して罪を切り捨てるすべての者の救い主、神となられたのです。
罪を切り捨てる割礼とは何でしょう。それは、イエスのバプテスマと十字架での死を救済と信じて、新しく生まれたすべての者とアブラハムに対する神の契約です。このように、神は私たちにご自分の民になる特権をお与えになりました。こうして神は、割礼を受けた者の神なのです。
神は、アブラハムにおっしゃいました。「あなたがたの中の男子はみな、代々にわたり、生まれて八日目に、割礼を受けなければならない。家で生まれたしもべも、外国人から金で買い取られたあなたの子孫ではない者も。あなたの家で生まれたしもべも、あなたが金で買い取った者も、必ず割礼を受けなければならない。わたしの契約は、永遠の契約として、あなたがたの肉の上にしるされなければならない。包皮の肉を切り捨てられていない無割礼の男、そのような者は、その民から断ち切られなければならない。わたしの契約を破ったのである」 (創世記 17:12-14)。
霊的割礼なしで、イエスに入ろうとする者は誰でも、神の民から断ち切られなければなりません。霊的割礼とは、新約聖書におけるイエスのバプテスマであり、それを通して世の罪がすべてイエスに移されました。
イエスを信じる者はだれでも、御霊を受け、すべての罪から救われ、神の子どもになるように、旧約聖書の割礼と新約聖書のイエスのバプテスマも信じるべきです。イエスを信じる私たちにとって、旧約聖書の割礼と新約聖書のイエスのバプテスマは、同じです。
割礼の真の意味を理解できないなら、または、私たちの心に新しく生まれることを可能にする霊的割礼による救済を受け入れることができないなら、信仰は無益になります。私たちは、自分たちが神に忠実だと思うかもしれませんが、それはまるで砂の上に信仰の家を建てたかのようです。
神は、ご自分を信じるすべての者に、割礼を受けるために、霊的割礼であるイエスのバプテスマによる贖いを信じなさいとおっしゃいます。割礼がなければ、私たちは神の民になることができません。割礼がなければ、私たちは神の民の列から断ち切られることになります。したがって、神は、お金で買われた人であろうと、見知らぬ人であろうと、過越の祭りに参加する前に、割礼を受けなければならないとお定めになりました。
イスラエルの現地で生まれた者でさえも、割礼を受けていないなら、神の民から断ち切られることになっていました。イスラエルの民との神の契約は、イエスを信じる者全員にも適用されるはずです。
出エジプト記第 12 章で、過越の祭りの肉と苦菜を食べたイスラエルの民は、すでに割礼を受けていなければなりませんでした。過越の祭りの肉を食べる特権は、割礼を受けていた者だけに与えられました。
イスラエルの民が過越の肉を食べ、羊の血を家の門柱と、かもいに、それをつけたとき、彼らはすでに割礼を受けていたことを知ることが重要です。
神の儀式によって、もし人が割礼を受けていなかったなら、その人は神の民から断ち切られ、神の子どもの一人になる特権を失っていたことでしょう。これは、霊的割礼への不信仰の罪が、人々を破滅に導くことを意味します。イエスのバプテスマを通して霊的に割礼を受けた者だけが、救われることができます。
「そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです」 (Ⅰペテロ 3:21)。みなさんの罪がすべて、ヨルダン川でのイエスのバプテスマを通して、イエスに渡されたことをほんとうに信じておられますか。イエスのバプテスマと血である真理を本当に理解し、信じているなら、みなさんは霊的に割礼を受け、義人になっていることを悟るでしょう。また、十字架でのイエスの血は、イエスのバプテスマなしでは無意味であるという霊的な真理への信仰を持つでしょう。
イエスのバプテスマへの信仰を通して霊的に割礼を受けずに、イエスの十字架を信じることになっていたなら、みなさんは神のあわれみから追い出されていたことを悟るでしょう。まだ心に罪があることを悟っていたでしょう。
私たちは、神の贖いが、イエス・キリストのバプテスマで始まり、イエスの十字架での血によって成し遂げられたという真理を信じなければなりません。そうするために、私たちは真理のみことばであるイエスのバプテスマとその血を、私たちの救済として心に留めなければなりません。
私たちはこの信仰により、やみの力から救われ、光の子どもになることができます。この信仰が、ほんとうに新しく生まれた者を普通の信者の列から霊的に引き離すのです。
主イエスは、私たちに主のうちにとどまるようにとおっしゃいます。神は、すでにイエスのバプテスマと血で世の罪をすでに洗い流しておられます。したがって、神の民であるという焼き印を帯びるには、イエスのバプテスマを信じなければなりません。そうしなければ、神から断ち切られます。
贖いの救済は、新約聖書のイエスのバプテスマと旧約聖書の割礼にほかなりません。救済は、イエスのバプテスマ (霊的割礼) と十字架での血 (過越の子羊の血) の両方への信仰を持つときのみ、完全になります。
旧約聖書にある肉の割礼は、新約聖書にあるイエス・キリストのバプテスマと関係があります。イザヤ書 34:16 は、聖書にあるすべてのみことばには、連れ合いがいると告げています。「主の書物を調べて読め。これらのもののうちどれも失われていない。それぞれ自分の連れ合いを欠くものはいない。それは、主の口がこれを命じ、主の御霊が、これらを集めたからである。」
旧約聖書のそれぞれの単語には、新約聖書に関係しています。神のみことばは全部、対応する聖句があります。
 
 
愚かに間違った方法で信じる者はどうなるのか
 
世のすべての信者の中で誰が地獄に行くのか
霊的割礼を信じない者

今日、過越の子羊の血だけを信じる者が大勢います。彼らは尋ねます。「割礼とは、どういう意味ですか。それは、旧約聖書の時代のユダヤ人にのみ適用されました。新約聖書の時代に包皮を切り捨てる必要はありません。」
もちろん、これは本当です。私は、肉体的に割礼を受けるべきだとは言っていません。使徒パウロは、霊的割礼を非常に明確に説明しました。それは、私が今述べている心の割礼です。
肉体的に割礼を受けるように言っているのではありません。肉の割礼は私たちにとって意味はありませんが、すべての罪から救われるために、イエスのバプテスマを信じて、イエスのところに来て、霊的に割礼を受けなければなりません。
誰かが新しく生まれるには、霊的に割礼を受けなければなりません。イエスを信じる人はだれでも、霊的に割礼を受けなければなりません。罪をすべて切り捨てる唯一の方法であり、義人になる唯一の道なのです。私たちの霊的割礼の後にのみ、私たちは完全に罪のない者なのです。したがって、イエスのバプテスマを信じることによって、霊的割礼を心に受け入れなければなりません。
使徒パウロはまた、霊的割礼の重要性を信じていました。彼は、「心の割礼こそ割礼」 (ローマ 2:29) と言いました。私たちは一人ひとり、罪から解放されるように霊的に割礼を受けなければなりません。
みなさんの罪が、みなさんから切り捨てられた後、本当にイエスに移されているでしょうか。新約聖書でも、イエスを信じる者は、イエスのバプテスマを信じることによって、心に割礼を受けなければなりません。
使徒パウロは、これを手紙で明確にしました。神は、全人類を世の罪から救われ、彼らを神の民になさいました。イスラエルの民は、包皮を切り捨てて神の民になり、バプテスマを信じて罪をすべてイエスに移すとき、私たちは神の子どもになります。
神は、イエスのバプテスマと十字架での血への私たちの信仰をご覧になるとき、私たちを神の民として受け入れられます。この信仰が、私たちに霊的に割礼を受けさせ、救済へと導くのです。
 
 

救済は、イエスのバプテスマと血を通して罪人のために存在する

 
救済はイエスによってどのように完了されたのか。
バプテスマと十字架での死を通して

イエス・キリストが、バプテスマの水と十字架での血を通して完成なさった救済は、罪人のためです。小羊の血は裁きであり、イエスのバプテスマはすべての罪をイエスに移した霊的割礼でした。
今日のキリスト教会は、この霊的割礼の概念を軽んじてはいけません。たとえ旧約聖書の割礼が、私たちにとってそれほど意味がないとしても、イエスのバプテスマは決して無視されるべきではありません。
みなさんの罪はすべて、イエスのバプテスマによって取り除かれ、イエスのバプテスマがみなさんをすべての罪から救ったのだと、私は申し上げました。みなさんは、それを信じていますか。イエスのバプテスマを無視すると、新しく生まれる福音、イエスのバプテスマを通して完全な贖いの福音を、決して知ることができません。
神が私たちに告げる霊的割礼を、どうして無視できるでしょう。聖書を読むなら、割礼と過越の子羊の血は、密接に関係していることがわかります。これが霊的割礼の秘密、イエスのバプテスマです。
使徒ヨハネによって宣べ伝えられた福音は、イエスのバプテスマと十字架での血の福音にほかなりませんでした。ヨハネの手紙第一 5:6で、彼は次のように述べました。「このイエス・キリストは、水と血とによって来られた方です。ただ水によってだけでなく、水と血とによって来られたのです。」
ヨハネは、イエスが水と血と御霊によって来られたと述べました。水だけでなく、血だけでもなく、全体として水と血と御霊によってです。これら三つの要素、イエスのバプテスマ、イエスの十字架での血、そしてイエスの死からの復活は、私たちの救済の証拠です。
 
 

なぜ聖書はイエスのバプテスマと血を告げるのか

 
イスラエルの民は過越の子羊の血を通してのみ救われたのか。
いいえ。過越を守る前にすでに割礼を受けていた。

イエスのバプテスマと血は、私たちを水と御霊によって新しく生まれさせるものです。出エジプト記第 12 章は、次のようにあります。「自分のために子羊を連れて行き、その血を取り、家々の二本の門柱と、かもいに、それをつけなさい。わたしが血を見たら、あなたを過ぎ越すであろう。」 
これを知って、過越の子羊の血だけを信じることによって、すべての罪から救われることが可能でしょうか。それでは、なぜイエスのバプテスマが新約聖書でそれほど多く語られているのでしょうか。「バプテスマによってキリストとともに葬られた」 (コロサイ 2:12)。「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着た」 (ガラテヤ 3:27)。「今あなたがたを救うバプテスマ」 (Ⅰペテロ 3:21)。
使徒ペテロとパウロ、およびイエス・キリストの他のすべての弟子たちは、イエスのバプテスマについて語りました。彼らが指し示しているのは、ヨルダン川でのイエスのバプテスマであり、水と御霊によって新しく生まれる真理とは、イエスのバプテスマと十字架での血への信仰なのです。
実を申しますと、私はイエスを信じていましたが、イエスのバプテスマを認めることさえなしに、十年以上もの間、イエスの血だけを信じていました。しかし、この知識はそれ自体では、私の心の罪を取り除くことはありませんでした。私は、イエスを心のすべてで信じましたが、私の心はまだ罪に満ちていました。
十年後、私は霊的割礼 (イエスのバプテスマ) の意味を悟り、それから新しく生まれました。そうして初めて真理を悟りました。旧約聖書の割礼は、新約聖書のイエスのバプテスマを象徴しています。私は、それを信じていましたし、今でもそうです。
「新約聖書では、イエスの血とバプテスマの両方を信じることは正しい信仰なのだろうか。聖書によると私の信仰は正しいのだろうか。」 私は新しく生まれた後、こうしたことについて疑問に思いました。
イエスのバプテスマとその血の言葉を信じていましたが、疑問が私の心に残っていました。「イエスがバプテスマを受けたときに、すべての罪がイエスに移されたという真理を信じるのが正しいのだろうか、それとも、イエスが十字架での死を通してのみ、私たちをお救いくださったと信じるのが正しいのだろうか。イエスが私の神であり、救い主であると信じるだけで、十分ではないのだろうか。」 私は、出エジプト記第12章を読みながら、これを思い巡らしました。
今日、多くの人々が出エジプト記第 12 章を読み、イエス・キリストが救い主として、十字架で死なれたと告げることについて、よく考えることをしません。彼らは、キリストの血を信じることが正しいと思い、彼らの確信の真実をあかしします。彼らは臆することなく信じて、主はキリストであり、神の御子であると言うでしょうが、それでも彼らは罪人です。彼らは、イエス・キリストが救い主であると信じるなら、たとえ心に罪があっても救われると考えています。
このような信仰は、真の信仰ではありません。この信仰だけでは、彼らを新しく生まれるように助けることができません。イエスのバプテスマとその血だけが、私たちを義人にするのです。
では、出エジプト記第12章は、実際にはどういう意味でしょう。「イエスのバプテスマを無視しながら、イエスの血だけを信じることは、何の問題もないのか」と考えて、聖書を調べました。出エジプト記を読み終える前でさえ、救済はキリストの血だけでなく、バプテスマもあるという真理を発見しました。聖書を通して、私はイエスの十字架での血ならびにイエスのバプテスマを通して、心の割礼を受けていると確信しました。
 
 
なぜほとんどのキリスト教徒はまだ罪人なのか。
イエスのバプテスマを信じないから。

出エジプト記 12:47-49 で、私は、人が過越の祭りの肉を食べることを許される前に、割礼を受けなければならなかったことを悟りました。神が、第 49 節で、「このおしえは、この国に生まれた者にも、あなたがたの中にいる在留異国人にも同じである」 とおっしゃっている理由です。
したがって、割礼を受けなかった人は誰でも、過越の祭りの肉を食べることができませんでした。それが、私が見つけた真理です。同様に、イエスを救い主として信じるとき、私たちはまず、ヨルダン川でのイエスのバプテスマを通して、すべての罪がイエスに渡されたという事実を受け入れ、次にイエス・キリストがそうした罪のために十字架で死なれたという事実を受け入れなければなりません。
私は、イエスがバプテスマを通して取り除かれた罪のために、十字架で裁かれて死なれたことを悟ったとき、世のすべての罪とそむきから、私たちをお救いくださった霊的割礼の意味も悟りました。
その瞬間、私はすべての罪が消えたことを悟りました。私の心は、雪のように白くなり、そして私は最終的に水と血と御霊の福音を心に留めました。
私は、旧約聖書にある割礼と子羊の血と、新約聖書にあるイエスのバプテスマと十字架での血とを通して、すべての罪をイエスに移すという、私たちを救う二つのものがあることを悟りました。旧約聖書の割礼と新約聖書のイエスのバプテスマは、まったく同じものです。
イエス・キリストが裁かれたのは、自分自身に罪を犯したためではなく、バプテスマを通して世の罪をすべて負われたために裁かれたのです。人類の代表として、バプテスマのヨハネがイエスにバプテスマを授け、世の罪をすべてイエスに移したと信じる者は、イエスのバプテスマと十字架での血の両方を信じています。
聖書に繰り返し記述されているにもかかわらず、なぜそれほど多くの人々がイエスのバプテスマを否定するのでしょうか。そうすることによって、たとえイエスを信じていても、彼らはまだ罪人です。イエスを信じているでしょうが、それでも神から断ち切られています。彼らは、イエスを信じていても地獄に行く哀れな罪人です。
イエスを信じるなら、どうして彼らはまだ罪人でいられるのでしょうか。なぜ彼らは罪人として生きるのでしょう。なぜ彼らは滅びへの道を進んでいるのでしょう。それはとても哀れです。イエスの霊的なバプテスマを通して、すべての人々に永遠の救済をもたらしたイエス・キリストの上に、世のすべての罪が渡された事実を信じていないので、彼らはまだ罪人のままです。
人々は、イエスの血を信じることによって贖われていると考えますが、そのような信仰は、決して彼らを完全なものにしません。なぜでしょう。彼らは、罪をイエスに渡さなかったからです。
私たちは、神が定められた方法――霊的割礼の救済――である水 (キリストのバプテスマ) とその血を信じることによってのみ、救われることができます。それから、そうして初めて、私たちは神の真の子どもになることができるのです。
私たちは、自分自身に尋ねる必要があります。「霊的割礼としてイエスの血だけを信じるなら、私たちの罪を完全に洗い流すことができるのか。」 私たちは、答えを見いだすために、心を深く見る必要があります。
旧約聖書では、イエスのバプテスマと十字架での血を通して、救済を勝ち取ったように、割礼と過越の子羊の血を通して、人々は救われました。このようにして、私たちは神の裁きとこの罪深い世界から救われました。信じる者は神の子どもとなり、神は彼らの父となられます。
人は、これら二つのこと――割礼と過越の子羊の血、すなわちイエスのバプテスマと血――を信じることによって救われ、神ご自身の一人になります。これは、イエスによる真理です。これが、水と血と御霊によって新しく生まれるという真の意味なのです。
 
 

聖書で述べられている水と御霊の贖いとは何か

 
罪人はイエスの血だけを信じることによって義人になれるのか。
決してそうではない

イエスは、御国で王座を捨て、この世に来臨されました。イエスは、30歳のときに、世の罪をすべて取り除くために、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けました。
イエスの十字架での血は、世のすべての罪人の罪に対する神のさばきでした。イエス・キリストは、救い主としてこの世に来られ、水と血を通してすべての罪人を罪からお救いくださいました。
私たちは、血だけによって新しく生まれるのでしょうか。いいえ。イエスのバプテスマと血によって罪から救われています。イエスの血だけを信じている方々に質問したいと思います。「罪人は、キリストの血だけを信じることによって義人になることができますか、それともイエスのバプテスマと十字架での血の両方を通して義人になれるのでしょうか。それは、イエスのバプテスマと血を通して、私たち全員の罪をイエスに渡す信仰によるのでしょうか、それともただイエスの血だけによる信仰でしょうか。どちらが真理か、お尋ねしてもよろしいですか。」
ほんとうに水と御霊によって新しく生まれるには、次のことを満たさなければなりません。イエスは、肉においてこの世に来られ、ヨルダン川でバプテスマによって世のすべての罪を負われ、十字架で私たちのすべての罪のために裁かれたと信じなければなりません。このようにして、私たちの真の救い主イエス・キリストを信じることによって、私たちはほんとうに新しく生まれることができるのです。
もう一度お尋ねします。聖書で定義されている信仰とは何でしょう。それはイエスの血への信仰でしょうか、それともイエスのバプテスマと血の両方への信仰でしょうか。
イエスの血への信仰は、次のとおりです。イエスは、世のすべての罪のために裁かれ、非難されました。私たちの罪のために刺し通され、砕かれたので、私たちは恐ろしい裁きから救われました。しかし、それは完全な真理ではありません。この教義を受け入れる前に、一つの点を明確にしなければなりません。なぜイエスが十字架につけられたのでしょうか。
聖書は、罪から来る報酬は死であると明らかに告げています。イエスは、この世で決していかなる罪も犯されませんでした。イエスは、処女マリヤの身体を通して、人の肉において来られましたが、聖なる神の御子であり、罪人の救い主として、神の民の明白なかたちで来られました。そういうわけで、イエスが十字架で死なれる前に、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けなければならなかったのです。イエスがバプテスマを受けたとき、私たちの罪をすべてご自身に負われました。こうして、バプテスマがなければ、十字架で血を流すために、裁きを受けることはできなかったでしょう。
 
 
旧約聖書でのいけにえの制度
 
いけにえをささげるために不可欠な条件とは何だったのか
①    傷のない生きている動物
②    按手
③    その血

聖なる幕屋のいけにえの制度を通して、この真理を見てみましょう。旧約聖書では、罪人または大祭司がいけにえの子羊または山羊に両手を置いて、自分の罪またはイスラエルの罪をその頭に移しました。それから、いけにえは殺され、祭壇の前でささげられました。旧約聖書は新約聖書の前触れであり、イエス・キリストは、神が遣わすと約束なさった「いけにえの小羊」でした。
みなさんが、自分の罪をすべてイエスに移したのは、いつでしょうか。この質問について考えて、答えを出していただきたいのです。旧約聖書において、イスラエル人は、両手を置くことなしに、いけにえの動物を殺すことはできませんでした (按手とは、罪のためのいけにえに罪を移すことを意味します)。罪のためのいけにえが祭壇の前に連れて来られる前に、いけにえの動物に罪を移すために、按手が行われなければなりませんでした。
「その人は、全焼のいけにえの頭の上に手を置く」 (レビ記 1:4)。すべてのいけにえには、按手が必要とされたと、レビ記に記されています。イスラエルの民は、いけにえの頭に両手を置くことによって、罪を移すことができました。また、その血と肉を神の前に信仰においてささげることによって、罪から救われることができました。イスラエル人も、旧約聖書の時代に信仰によって救われました。
神の前で全焼のいけにえがささげられたとき、罪人は自分の罪を負わせるために、その全焼のいけにえの頭に両手を置かなければなりませんでした。その後、罪人のためにいけにえが殺されました。その血は、祭壇の四本の角に注ぎかけられ、残りは祭壇の土台の地面に注がれました。これが、罪人が贖われた方法でした。
新約聖書では、罪人はイエスの水と血への信仰を通して、罪をすべて贖われることができます。ヨハネの手紙第一 5:1-10 は、罪人がイエスのバプテスマと小羊の血 (十字架) を信じるときに贖われるのだと告げています。
したがって、どのような罪人も、イエスのバプテスマと十字架での血の両方を信じる限り、贖われることができます。イエスのバプテスマと血は、聖霊とともに、水と御霊によって新しく生まれるために不可欠です。
みなさん、イエス・キリストの血を信じることによってのみ、贖われることができるのでしょうか。十字架の血だけを信じることによって、自分が新しく生まれることができると考える者は、まだ心に罪があります。しかし、イエスのバプテスマを新約聖書の霊的割礼として信じることによって、私たちはすべての罪から救われることができます。この霊的割礼は、旧約聖書で告げる割礼に対する後の日の実体なのです。
すべての宗派には、独自の教義があります。私たちは、彼らが自分たちの誤った信仰を捨てない限り、すべて地獄に行く定めにあることを知っています。長老派教会は、予定説の教義に重点を置いています。メソジスト教会はアルミニウス説、すなわち人道主義を強調しています。バプテスト教会はバプテスマ、ホーリネス教会は聖なる生活を重視します。これらはすべて、真理のみことばとは異なります。
しかし、聖書で真理のみことばは、新しく生まれることについて何を告げているでしょう。聖書は、真理がイエスのバプテスマと血の中に見いだされると告げています。神のみことばを信じて従い、水と御霊によって新しく生まれることへの信仰がある者はだれでも、贖いを見いだすでしょう。
 
 
イエスのバプテスマの奥義とは何か
 
新約聖書での霊的割礼とは何か
イエスのバプテスマ

イエスのバプテスマは霊的割礼でした。旧約聖書では、神は割礼を受けなかった人は誰でも、神の民から断ち切られなければならないとおっしゃいました。
新約聖書の霊的割礼が、確かにイエスのバプテスマであることを知り、信じなければなりません。イエスは、公の宣教の初めに、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けたので、私たちは、バプテスマを信じることによって霊的に割礼を受けることができます。イエスがバプテスマのヨハネからバプテスマを受けなければならなかった理由を注意深く考えるべきです。
「さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。『私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。』 ところが、イエスは答えて言われた。『今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。』 そこで、ヨハネは承知した」 (マタイ 3:13-15)。
イエスは、「死の川」であるヨルダン川で、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けました。バプテスマのヨハネは、イエスの頭に両手を置いて、イエスが完全に浸されました。これが、バプテスマを受ける正しい方法です (バプテスマ:水に浸されること)。イエスが世の罪をすべて取り除くためには、旧約聖書で述べられている按手によって、同じようにバプテスマを受けなければなりませんでした。
イエスのバプテスマは、イエスを信じる者に対する霊的割礼です。「このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです」 (マタイ 3:15)。イエスが世の罪をすべて取り除かれ、私たちの神、救い主となられたのは、ふさわしいことでした。このように、記されているとおり、イエスが私たちの罪をすべて頭に負われ、十字架で死なれたのは、ふさわしいことでした。
イエスのバプテスマには、すべての罪人を新しく生まれさせる力があります。それは、水と御霊の福音の秘密です。
イエスが罪人をすべての罪から救うために、公の宣教において、なさった最初のことは、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けることでした。バプテスマとは、「洗われる、葬られる、渡す」という意味があります。
イエスは、神から求められた方法でバプテスマを受けることによって、世の罪をすべてご自身に負われたのです。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」 (ヨハネ 1:29)。イエスのバプテスマとは、イエスを信じる世のすべての人々が、霊的割礼を受けることを意味します。
その後、イエスは世の罪をすべて取り除かれ、すべての罪人の裁きを受ける神の小羊として、十字架へと歩まれました。こうして、イエスは全人類を罪から救われたのです。
したがって、救済として、旧約聖書の割礼であるイエス・キリストのバプテスマと十字架での血を信じるすべての者は、すべての罪から救われます。イエス・キリストは、バプテスマと血ですべての罪人を救われました。これが霊的割礼の真理です。
 
 
救済は血だけによるのか。いいえ、そうではない
 
イエスは何によって来られたのか
水と血によって

ヨハネの手紙第一 5:4-8 には、次のようにあります。「なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。このイエス・キリストは、水と血とによって来られた方です。ただ水によってだけでなく、水と血とによって来られたのです。そして、あかしをする方は御霊です。御霊は真理だからです。あかしするものが三つあります。御霊と水と血です。この三つが一つとなるのです。」
キリスト教徒のみなさん、みなさんの救い主として、キリストについてのあかしとは何でしょうか。水と血によって来られたのは、神の御子への信仰にほかなりません。
世に打ち勝つ勝利とは何でしょう。それは、水と血への信仰の力にほかなりません。水と血によって来られたのは、イエス・キリストです。そして、あかしをする方は御霊です。御霊は真理だからです。
地上であかしするものが三つあります。水と血と御霊です。そして、この三つが一つとなります。イエスは、肉においてこの世に来られ、永遠の滅びから私たちをお救いくださるために、バプテスマを受け、十字架で死なれました。私たちの創造主である神が、すべての罪人の救い主になられたというあかしは、私たち全員を救う水と御霊の福音の中にあります。
肉において御霊として、この世に来られたイエスが、ヨルダン川でバプテスマを受け、私たちの罪をすべてご自身に負われ、罪の裁きを引き受けるために、十字架で血を流されたというのが、私たちのあかしです。こうして、イエスはご自分を信じるすべての者をお救いくださいました。これが、水と御霊の原福音です。
 
 
神の救済をあかしする水と血とは何か
 
旧約聖書に記されている割礼の対応するものは何か
イエスのバプテスマ

水は、イエス・キリストのバプテスマを指します。旧約聖書では、イエスのバプテスマは割礼を意味していました。旧約聖書にある割礼に対応するものは、新約聖書にあるイエスのバプテスマです。世のすべての罪がイエスに渡された証拠は、イエスのバプテスマにあります。
この真理を信じる者は誰でも、神の前に立つことができ、また良心をもって、「主よ、あなたは私の救い主です。私は、あなたのバプテスマと血、水と御霊の福音を信じていますから。そういうわけで、私には罪がありません。私は神の子どもであり、あなたは私の救い主です」と言うことができます。私たちは、真の信仰をもって、これを告白することができます。これが言えるのは、イエスのバプテスマと血への信仰のためです。
私たちを新しく生まれさせる、みことばとは何でしょう。私たちの心における救済のあかしは、イエスのバプテスマと十字架での血です。これが、水と御霊によって新しく生まれる福音です。
キリスト教徒のみなさん、もう一度お尋ねします。「罪人は、キリストの血を信じるだけで救われるのですか。」 いいえ。救済は、十字架での死への信仰だけが必要とされているのではありません。罪人が新しく生まれることができるのは、水と血の両方――水と御霊の福音――への信仰を通してのみです。私は水、すなわちイエスのバプテスマを告げる聖書について、みなさんにお話しします。
ペテロの手紙第一 3:21-22には、次のようにあります。「そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。キリストは天に上り、御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えて、神の右の座におられます。」
使徒ペテロは、イエスのバプテスマが私たちを救う型であり、罪からの救済の証拠でもあるとあかししました。イエスのバプテスマは、旧約聖書にある割礼の同等のものです。イスラエルの民が神のみことばを信じ、旧約聖書の時代に神の子どもとなるために包皮を切り捨てたように、イエスのバプテスマは、新約聖書の時代において、私たちをすべての罪から救います。
したがって、旧約聖書の割礼と新約聖書のイエスのバプテスマは、まったく同じです。みなさんはみな、イエスのバプテスマが確かに割礼と同じであると信じておられますか。ペテロの手紙第一 3:21に記されているように、今私たちを救うバプテスマをあらかじめ示した型でもあるのです。記された神のみことばで議論できますか。
この世に生きている私たちは、どのように罪から解放されるのでしょうか。罪からの救済が私たちにあるのは、イエス・キリストがすべての正しいこと (義) を実行するために、バプテスマをお受けになったから、というだけです。マタイの福音書 3:15 には、次のようにあります。「このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」
世のすべての罪がイエスに渡されたので、イエスを信じる者は全員、今罪がありません。すべての罪が、バプテスマを通してイエスに移されたという真理を受け入れることによって、私たちはみな義人になることができます。イエス・キリストは、すべての裁きから私たちを救うために、私たちの罪をすべてご自身に負われ、十字架で死なれました。
友のみなさん、すべての罪人を罪から救う二つのものとは、水と血です。イエスが私たちの罪を負われ、十字架で私たちのために死なれたことが、イエス・キリストがこの世での三年間の公の宣教の間に私たちのためになさった主要な二つのことです。
ヨハネの福音書 1:29 は、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」 とあります。イエス・キリストは、世の罪を取り除くためにバプテスマを受け、私たちのそむきを贖うために十字架で死なれました。イエスは、神の御子であり、創造主として、世の罪を取り除くことによって、神が旧約聖書でなさった割礼の契約を成就なさいました。
イエスのバプテスマ、水と血の福音を心で信じる者はみな、水と御霊によって新しく生まれるでしょう。そして、主は、信じるすべての人の救い主になられます。主に感謝します。ハレルヤ。イエスは、神が約束なさったように、私たちの救済を成就なさり、世のすべての罪から私たちをお救いくださいました。
 
 
肉体の汚れを取り除くものではない
 
肉は時間とともに聖なるものとなるのか。
いいえ。肉は死ぬ日まで罪を重ね続ける。

ペテロの手紙第一 3:21 には、次のようにあります。「そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。」
誰かが、イエス・キリストを救い主として信じるようになったからといって、肉の罪を犯すことをやめたわけではありません。私たちは、罪を犯し続けるでしょうが、イエスのバプテスマを信じることによって、私たちの世の罪をすべてイエスに移すことができます。こうした二つのものを救済の不可欠な要素として信じることによって、私たちは罪から救われます。
新しく生まれることは、全人類の救い主としてイエスを心に迎え入れることを意味します。罪の赦しは、私たちの心でも成し遂げられます。イエスのバプテスマと十字架での血を信じるとき、私たちの心は新しく生まれますが、肉で罪とそむきを犯し続けます。しかし、肉のすべての罪は、すでに赦されています。
イエスのバプテスマは、救われているすべての者にとってのあかしです。キリストのバプテスマを通して罪の赦しを信じるとき、私たちには罪がありません。イエスのバプテスマを通して、救済の真理を心に留め、水と御霊の福音を通して義人となるとき、私たちは新しく生まれます。
これは、旧約聖書におけるアブラハムの信仰、使徒パウロが語った義人になる信仰、そして使徒ペテロがあかしした救いの型です。
アブラハムが神のみことばを聞いて信じ、義人となったように、イエスのバプテスマと十字架での死を信じるとき、私たちは救われます。
ヨハネの福音書 1:12 には、次のようにあります。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」 バプテスマと血を通して、私たちをすべての罪から救われた方、イエス・キリストをみなさんの救い主として受け入れますか。私たちは、神の御子の水と血を通して与えられた救済を受けなければなりません。
救済は、イエス・キリストの血だけによるものでしょうか。いいえ。それは、イエスの水と血によるものです。聖書では、救いがイエスの血だけによるものではないと明確に述べられています。それは、イエスのバプテスマと血によるものです。
イエスのバプテスマは、新約聖書の霊的割礼です。すべての罪を私たちから切り捨てるのは、救済の真理です。イエスが世の罪のために裁かれたという事実は、イエスが私たちのために、みなさんや私のために裁かれたことを意味します。
罪の赦しの福音、イエスのバプテスマと血を受けることによって、私たちはすべての罪の裁きから解放されます。信仰をもって、私たちがこの世で犯すすべての罪から救われます。私たちがイエスのバプテスマとその血を救済として受け入れると、心の中の罪が洗い流されます。これが本当のことだと信じて理解しておられますか。みなさんが水と御霊の福音を信じるようになられることを心から願っています。信じて、永遠のいのちを得てください。
使徒パウロは述べました。「心の割礼こそ割礼です」 (ローマ 2:29)。私たちは、どのように心に割礼を受けているでしょう。キリスト・イエスが肉においてこの世に来られたこと、世の罪をすべて取り除くバプテスマ、私たちの罪のためにイエスの十字架での死、そしてイエスの死からの復活を信じるとき、霊的に割礼を受けることができます。
使徒パウロは、心の割礼こそ割礼であると告げました。心の割礼とは、イエスのバプテスマと血を信じることを意味します。心に割礼を受けたいのなら、イエスのバプテスマと血の福音を心に留めなければなりません。それで、そうしてはじめて、みなさんはほんとうに神の子どもになることができるのです。
 
 

バプテスマのヨハネは神に遣わされたのか

 
バプテスマのヨハネとは誰か。
人類の代表であり、アロンの血統の最後の大祭司だった。

ここで、イエス・キリストにバプテスマを授けたバプテスマのヨハネを、尋ねる必要があります。バプテスマのヨハネは、全人類の代表でした。マタイの福音書 11:11-14 には、次のようにあります。「まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。ヨハネに至るまで、すべての預言者たちと律法とが預言をしたのです。あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです。」
キリスト教徒のみなさん、イエスは、女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出なかったとおっしゃっています。神の初めの契約の時代であるバプテスマのヨハネの誕生とともに、旧約聖書の時代が終わりました。神の契約を成就なさることになっていたイエス・キリストが、ついに来られたからです。
それでは、神の契約を成就することになっていたのは誰だったでしょう。イエス・キリストとバプテスマのヨハネです。バプテスマのヨハネは、世の罪をすべてイエスに移しました。旧約聖書の最後の大祭司は、誰だったでしょう。アロンの子孫は誰だったでしょう。イエス・キリストご自身は、それがバプテスマのヨハネにほかならないとあかししました。バプテスマのヨハネは、女から生まれた者の中で最もすぐれた人類の代表でした。
私たちが持っている事実をゆっくり考えましょう。モーセ、アブラハム、イサク、ヤコブは、すべて女から生まれました。しかし、旧約聖書と新約聖書の両方の人々の中で、女から生まれたすべての人の中で最もすぐれた人は誰でしょうか。バプテスマのヨハネです。
アロンが、旧約聖書の贖いの日に、いけにえのささげ物の頭に両手を置いたのと同じように、バプテスマのヨハネは、旧約聖書の最後の預言者とアロンの子孫として、新約聖書で神の小羊にバプテスマを授けました。ヨハネは、イエス・キリストにバプテスマを授けて、世の罪をすべてイエスに移しました。ヨハネは神のしもべでした。ヨハネは、イエス・キリストにバプテスマを授けることによって、全人類の心の霊的割礼を成就しました。
私たちは救済のあかしとして、イエスのバプテスマとともに、イエスの血を信じなければなりません。イエス・キリストは、バプテスマを通して世の罪をすべて取り除かれ、そうした罪のために裁かれました。そして、私たちがすべきことは、ただそれを信じることだけです。イエスがなさったことを信じるのが、神のみこころです。
水と御霊によって新しく生まれる福音を心に留めると、アブラハムの子孫になり、神の子どもになることができます。キリストのうちにいる者はごくわずかですが、まだ心にイエスを受け入れていない者は大勢います。
一日は終わろうとしており、夜のとばりが下りつつあります。イエスのバプテスマを信じて、イエスがみなさんの心に入るようにさせてください。イエスのバプテスマとその血への信仰が、みなさんを霊的な救済によって祝福するでしょう。
救済の福音、イエスのバプテスマと血の福音を信じるとき、霊的な油注ぎが来ることをいつも心に留めておいてください。イエスのバプテスマと血の福音を信じることによって、賢い娘 (マタイ 25:4) のように霊的なともしび (教会) と油 (聖霊) を用意できることを知ってほしいのです。イエスを信じる者は、心に御霊を持って教会に行きます。
 
 

イエスは誰のためにバプテスマを受けたのか

 
イエスはどのような目的でバプテスマを受けたのか。
人類の罪をすべて洗い流すために

「『私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。』 ところが、イエスは答えて言われた。『今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです』」 (マタイ 3:14-15)。
イエスは、人類の罪をすべて洗い流すためにバプテスマを受けました。イエス・キリストは、神の御子であられ、私たちの救い主であられます。イエスは、私たちを造られた創造主であられます。イエス・キリストは、私たちを神の民となさるために、父なる神のみこころによって来られました。
旧約聖書では、すべての預言者は誰について語ったのでしょう。彼らは、イエス・キリストについて語りました。旧約聖書のすべての預言者は、私たちのすべての罪を取り除き、永遠に私たちを罪から解放するために、この世にイエスが来臨することについて語りました。
イエスは、旧約聖書で預言されたように、この世に来られ、人類の罪をすべて、アダムとエバから地上の最後の人までの罪を取り除かれました。
さて、イエスのバプテスマとその血による救済を心に留めてください。みなさんはまだ、これが真理かどうか、確信がないのでしょうか。まだ心に罪があるのでしょうか。「このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」 イエスは、すべての正しいこと (義) を実行なさるために、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けました。
「バプテスマ」という言葉自体は、「洗われる」という意味です。イエスは、旧約聖書で述べられている按手の方法で、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けました。
人類のすべての罪を負われた後、イエスはヨルダン川にご自身を浸しました。川は、罪人に対する死と裁きを意味します。キリストの水で浸ることは、十字架での死を象徴しています。キリストが水から出られたことは、復活を意味します。イエスは、十字架で死なれてから三日目に復活なさったのです。
イエスは、私たちの神であられ、救い主であられます。イエスがバプテスマを受けるために、この世に来られ、十字架で死ぬために血を流され、三日目に復活なさり、今や神の右の座におられるという事実は、イエスが全人類を死からお救いくださったという明らかな証拠です。この真理を心から信じておられますか。
イエスのバプテスマは、新約聖書の霊的割礼です。「心の割礼こそ、割礼です。」 心の割礼は、すべての罪をイエスに移す真理であるイエスのバプテスマを信じるときに完了します。心の割礼とは、イエスのバプテスマを認めることであり、それを通して私たちはすべての罪をイエスに移したのです。
みなさんは、心に割礼を受けておられますか。心の割礼を信じるなら、みなさんの罪はただ一度で洗い流されます。この目的のために、イエスはすべての正しいこと (義) を実行なさり、すべての罪人の救済を保証なさいました。
キリスト教徒のみなさん、この救済の証拠をみなさんの心と思いに留めてください。これは真理です。イエスの救済を心に留めると、みなさんはすべての罪から解放されます。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」 (ヨハネ 1:12)。
なぜイエスが、この世にバプテスマを受けに来なければならなかったのか、今はおわかりですか。みなさんは今、それを信じておられますか。イエスは、全人類の罪を取り除くために、バプテスマを受けました。それは割礼のバプテスマでした。イエスのバプテスマは、霊的割礼を与えてくださいます。そういうわけで、使徒パウロは心の中で割礼を受けなさいと告げているのです。私たちが心でイエスのバプテスマと血を信じるしかないほど、非常に明らかに、イエスはそのように救ってくださいました。心の中で神のみことばに、「はい、アーメン」と言うべきです。それは真理ではありませんか。それを信じておられますか。
 
 
心でこの真理を受け入れるか
 
イエスを礼拝する前に何をしなければならないのか。
水と血の真理を心に留めなければならない。

イエスがこの世に来られてから、ほぼ2000年が過ぎました。この神の恵みの時代に、私たちは心にイエスの真理、水と血を留めなければなりません。ほかにすることはありません。
「心の割礼こそ割礼です。」 私たちは、心の中の信仰を通して、割礼を受けなければなりません。私たちは信仰によってのみ救われます。旧約聖書では、イスラエル人は割礼と羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいにつけられた過越の血を通して救われました。
救済として、イエスのバプテスマと血を信じる者は、神の裁きを恐れません。そうしたものは通り過ぎるからです。神の裁きは、真理を心に留めないすべての人の上に降りかかるでしょう。イエスを無益に信じ、こうしてまだ罪の奴隷である人が大勢います。
彼らは、どのようにして、そうなったのでしょう。なぜ彼らは、まだ罪に苦しんでいるのでしょう。彼らが、イエスのバプテスマと血の真理を知らないからです。イエスのバプテスマを無視したり見落としたりして、イエスの血だけを信じています。
救済は、イエスの血だけへの信仰を通して得られるのでしょうか。聖書は、これがそうだと教えているでしょうか。これについて旧約聖書と新約聖書は、何を告げているでしょう。聖書によると、神の小羊の血だけでなく、イエスのバプテスマによっても救いがもたらされます (Ⅰヨハネ 5:3-6)。
イエスの血だけを信じておられますか。そうする人は、まだ心に罪があるはずです。彼らは誤った信仰に打ち勝ち、真の福音に立ち返らなければなりません。
信じない者は、イエスがヨルダン川でバプテスマを通して罪をすべて取り除かれたことを知らずに、自分が誤解させられていたことを今すぐ認めなければなりません。彼らは、イエスのバプテスマを受け入れることを怠っていたことを認めなければなりません。彼らは、イエスがバプテスマを通して世の罪をすべて取り除かれたことを、心に留めなければなりません。救済は、イエスのバプテスマと十字架の両方を信じるときにのみ、得られます。言い換えると、水と御霊の福音を通してのみ、永遠のいのちを得ることができるのです。
キリスト教徒のみなさん、みなさんは今までイエスの血への信仰だけに頼って生きておられますか。もしそうなら、間違いなく心に罪があります。罪を犯すなら、心に罪があります。神の律法に従って生活しているのに、自分が罪から解放されていると思うなら、それは感情から出てくる感覚にすぎません。この確信は、神のみことばによるのではありません。
 
 
まだ手遅れではない
 
真理は私たちを何から自由にさせるのか
罪と死の原理から

まだ手遅れではありません。みなさんがしなければならないことは、イエスのバプテスマと血を信じることだけです。そして、心に割礼を受け、すべての罪から解放されます。すべての罪から解放されるということは、イエスのバプテスマと血の福音を信じることによって、みなさんが救われるということです。
みなさんは、罪からの救済のためにイエスのバプテスマと血を信じる気持ちがありますか。これを信じると、救済がどのようなものかを学ぶでしょう。みなさんは、心の平安を受けるでしょう。それで、そうして初めて、みなさんは義人になります。みなさんの働きを通してではなく、神のみことばへの信仰を通してです。もしみなさんが救済のためにイエスの血だけを信じて、頼っているなら、イエスのバプテスマと血の両方を信じるようにお勧めします。
キリスト教徒のみなさん、罪からの人類の完全な救済は、イエスのバプテスマと血の福音を通して成就されました。御霊は神です。神は、人間の肉においてこの世に来臨されました。
神は預言者を通して、神の御名をイエスと呼ぶべきだとおっしゃいました。イエスが神の民を罪から救うことになっていたからです。神はおっしゃいました。「『見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』 (訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である)」 (マタイ 1:23)。
神は、罪人を救うためにこの世に来られました。世の罪をすべて取り除くためにバプテスマを受け、こうしてすべての罪人を救われました。これが真理であり、水と血の救済なのです。私は、みなさんにこのことをお伝えするために、ここにいます。私たちは、イエスの血によってのみ救われているのでしょうか。もちろん違います。私たちは、イエスのバプテスマと十字架での血によって救われています。
今日、イエスのバプテスマを信じない偽預言者や異端者が、非常に大勢います。イエスはおっしゃいました。「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」 (ヨハネ 8:32)。
私たちは、真理を知っていなければなりません。イエスがバプテスマについて語られた理由と、それを信じるべき理由を知っておかなければなりません。神が、なぜ旧約聖書で割礼を受けるよう、イスラエルの民におっしゃったのか、なぜ過越の子羊の血についておっしゃったのかを知っておくべきです。
話の一部しか知らないと、真理を認識することはできません。イエスは、おっしゃいました。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません」 (ヨハネ 3:5)。
 
 
キリストにつくバプテスマ
 
私たちはどのようにキリストの死につぎ合わすのか。
イエスのバプテスマを通してイエスにすべての罪を移すことによって

聖書は、救済の秘密をあかししています。イエスの血だけによってでしょうか。いいえ。それは、イエスの血とバプテスマとによるものです。使徒パウロは、このことについて、ローマ人への手紙第 6 章と他の多くの手紙でしばしば語りました。
ローマ人への手紙 6:3-8 を読みましょう。「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。」
第 5 節を見てみましょう。「もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです」 とあります。
私たちの罪がすべて、バプテスマを通してイエスに移されたので、イエスの死は私たちの死だったのです。ですから、イエスのバプテスマは、イエスの十字架での血を私たちとつぎ合わさっています。
イエスのバプテスマと血への信仰が、イエスとつぎ合わされることを可能にします。「罪から来る報酬は死です」 (ローマ 6:23)。したがって、十字架でのイエスの死は私たちの死でした。イエスは、私たちの罪をすべてご自身に負うために、バプテスマを受けました。この真理を信じることは、救い主イエス・キリストと自分をつぎ合わせることなのです。
 
 
宗教生活の一部として単純にイエスを信じるべきではない
 
「神は真実で正しい方」とは何を意味していたのか。
イエスが一度で私たちの罪を洗い流され、真理を信じる者をだれでもお救いくださることを意味する。

多くの人がイエスを宗教的な生き方として信じているので、教会に行き、祈って、悔い改めて、激しく泣きます。彼らは毎日罪を告白し、赦しを求めます。彼らは祈ります。「イエス様、あなたは私のために十字架で死なれたと知り、信じています。そうです。信じています。」
明らかに、彼らは次の聖句を誤解しています。「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」 (Ⅰヨハネ 1:9)。彼らは、罪の告白を通して毎日罪を赦されるべきだと主張しています。しかし、上の一節の罪は、些細な日常の罪を意味するものではありません。その聖句が意味することは、私たちがまだ救われていないことを告白するとき、私たちはただ一度で罪を赦されるということです。
「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」 (ローマ 10:17)。「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」 (ヨハネ 8:32)。
キリスト教徒のみなさん、真理は明らかです。イエスがヨルダン川でのバプテスマを通して罪をすべて取り除かずに、十字架で死なれたと信じているなら、みなさんの信仰は無益になります。キリスト教徒がすべての罪から救われたいなら、その人の罪がヨルダン川でのイエスのバプテスマを通してイエスに渡され、十字架ですべての罪の裁きを受けてくださったのだと信じなければなりません。言い換えれば、イエスのバプテスマと血の両方を信じるべきです。
「世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです」 (使徒 4:12)。イエス・キリストは、バプテスマを通してすべての罪を負われ、救い主になられました。イエスは、私たちを永遠の滅びから救うために、水と血によって来られました。「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」 (ローマ 10:10)。みなさんは、罪人ですか、義人ですか。
ガラテヤ人への手紙 3:27 には、次のようにあります。「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。」 この節は、イエスがバプテスマを通して世のすべての罪を負われた後に、十字架につけられたという真理を告げています。イエスは、三日目に死からよみがえり、今は神の右の座に着いておられます。神は、神を信じるすべての者の救済の主となられました。
もしイエスがバプテスマを受けておられなかったなら、もしイエスが私たちのために十字架で血を流しておられなかったなら、イエスは私たちの救い主になられなかったでしょう。水と御霊の福音を信じるときにのみ、私たちは救われることができるのです。
 
 
モーセの息子であっても
 
神がモーセをエジプトに行く途中で殺そうとしたのはなぜか。
モーセが息子に割礼を施していなかったから。

みなさん、みなさんはイエスの水と血によるすべての罪の贖いの秘密を聞いておられます。こうした神のみことばを聞くことができるのは、すばらしい祝福です。
それは、ただイエス・キリストの血だけでしょうか。旧約聖書の時代、人々は割礼と過越の子羊の血を通してアブラハムの子孫になりました。今、私たちはイエスのバプテスマと血を信じることによって、神の民になります。神は、モーセを通して旧約聖書の中でこの証拠を示されました。
イスラエルの民を救うために、神はモーセに語り、神の民をエジプトから連れ出すようにおっしゃいました。それで、モーセはしゅうとのイテロの許可を得て、ミデヤンの地を去り、妻と息子たちと一緒にエジプトに向かいました。モーセが家族をロバに乗せたとき、主は宿営地でモーセに会い、モーセを殺そうとされました。
しかし、モーセの賢明な妻チッポラは、この理由を知っていました。彼女は鋭い石を拾い、息子の包皮を切り、それをモーセの両足に投げつけて、言いました。「まことにあなたは私にとって血の花婿です。」 そこで神はモーセを行かせました。
これは、割礼を受けていない者が、たとえモーセの息子であろうと必ず殺す、という神のおっしゃり方でした。イスラエルの民にとって、割礼は神の契約のしるしでした。彼らは、もし割礼を受けないままでいるなら、神は指導者の息子でさえ、神の民から誰でも確実に断ち切るであろうことを知っていました。したがって、モーセの息子を断ち切ることを避けるために、神はモーセにこのように警告なさいました。
チッポラが息子の包皮を取り除いて、モーセの足元に投げつけ、「まことにあなたは私にとって血の花婿です」 と言ったのは、割礼のために神の要求に応じることだったと、聖書は告げています (出エジプト記 4:26)。
イスラエル人の間で割礼を受けなかった人はだれでも、神の民から断ち切られなければなりませんでした。割礼を受けた者だけが過越の子羊の肉を食べ、神の民として儀式に参加することが許されました。
使徒パウロは、ヘブル人でした。彼は、生まれて八日目に割礼を受け、偉大なラビ、ガマリエルのもとで厳格な教育を受け、イエス・キリストがヨルダン川でバプテスマを受けた理由と、十字架につけられた理由を正確に理解しました。ですから使徒パウロは、すべての手紙でイエスのバプテスマについて書きました。
使徒パウロはまた、私たちの救済の完成として、イエスの血についてしばしば語りました。血はイエスの贖いの最終段階にすぎず、真の霊的割礼はイエスのバプテスマでした。イエスのバプテスマなしに、イエスの血を強調するのは無意味です。
使徒パウロは、しばしばイエスの十字架について直接語りました。なぜそうなったのでしょう。それが私たちの救済の最終的な証拠だからです。イエスが世の罪をすべてご自身に負われても、裁きを受けるために十字架で血を流されていなかったなら、私たちは完全に救われなかったでしょう。そういうわけで、使徒パウロが頻繁に十字架について語ったのです。十字架は、私たちの救済の最終段階です。
救済の真理が歪まずにこの世代に伝えられていたなら、今では罪のない者がもっと多くいたでしょう。しかし、残念なことに、真理は時とともに失われ、多くの人々が、バプテスマの真の意味を理解することなく、十字架についてのみ知っています。
彼らは福音の抜け殻だけに信仰を持っているので、彼らがどれほど長くイエスを信じていようと、罪人のままです。彼らは、10年後、あるいは50年の宗教生活の後でも、罪人のままでしょう。
 
 
私のあかし
 
神は罪人を義人と見なされるのか。
いいえ。神は公正。義人とは、イエスのバプテスマを通してイエスにすべての罪を移して罪から解放されている者。
 
私は、20 歳の時にイエスを信じ始めました。それ以前は、神の律法を知らなかったので、自分の人生でどれほどの罪を犯したか分かりませんでした。その時まで神を知ることさえなしに、自分のやり方で生きていました。
それから私は病気になりました。私はとても病気だったので、死ぬと思っていました。ですから、少なくとも自分の死の前に、すべての罪を贖われるべきだと決めました。私のような罪人のために、イエスが死んだと聞いたので、私はイエスを信じることに決めました。最初は、喜びと感謝に満ちていました。
しかし、しばらくすると感情は薄れ始めました。数年後、私は毎日新しい罪を犯さざるを得ませんでした。何度も何度も罪人になりました。十年後、私はまだ罪人であり、実際には以前よりも悪い罪人でした。私は十年間イエスを信じましたが、私が罪人であるという事実は変わりませんでした。私は信者であり、罪人でもありました。
「♪泣くことは我を救わない。我の顔は涙に浸されていても、それは我の恐怖を和らげることができず、何年もの罪を洗い流すことができなかった。泣くことは我を救わない♪」 と歌ったにもかかわらず、私は罪を犯すたびに泣きました。
「神様、この一つの罪をお赦しください。これを一度赦してください。二度と罪を犯しません。」 私は罪を犯した後、かつて三日間祈っていました。私は奥の部屋に閉じこもり、三日間断食しながら祈りました。私の良心はとても重かったので、私は泣いて神の許しを求めました。三日目、私は気分が良くなり、神の御前に行けることができると思うようになりました。
「また私は罪を洗い流したぞ。ハレルヤ。」 そして部屋から出て来て、しばらく一生懸命に暮らしました。しかし、私はすぐに再び罪を犯し、私の絶望感が高まりました。かつて私は、この悲観的な過程を何度も繰り返していました。初めは、イエスを信じるのはとても良いと感じていたのですが、信じる時間が長くなればなるほど、未使用の部屋のほこりのように、罪が積み重っていきました。
十年後、私は信じ始めた時より悪い罪人になっていました。「どうして人生の早い段階でイエスを信じたのだろう。私が亡くなる直前の80歳になるまで待っていたら、イエスを信じるのはずっと簡単だっただろう。そうすれば、私は罪を意識せず、毎日悔い改める必要がなかったに違いない。」 私は、神のみこころに従って生きるべきだと思いましたが、不可能でした。気が狂いそうだったのです。
私は神を求め、新たに探し始めました。私は神学の研究に多くの時間を費やしました。しかし数年後、私の心はさらに無力になりました。宗教理論に関する本を読み始める前、かつて私は暖かいベッドで快適に眠ることは決してなく、聖ダミアンのように生きると言いました。私は、決して自分を甘やかすことはせず、代わりに、自分を完全に貧しい人にささげることを誓っていました。
この聖人の人生について読んだとき、私は彼のように生きることを誓いました。私は自分のために禁欲生活をしようとしました。私は、硬いセメントの床にひざまずいて、一度に何時間も祈っていました。それで、あたかも私の祈りがもっと意味を持ち、その後自分自身について良くなったように感じました。
しかし、10年後、私はもう我慢できませんでした。それで私は神に祈りました。「天におられる神よ、私をお救いください。私は心からあなたを信じます。誰かが私の喉にナイフを突きつけても、私はあなたへの献身を変えないことを知っています。しかし、私は心からあなたを信じているのに、なぜ私はまだ空虚を感じるのですか。どうしてそんなにイライラするのですか。なぜ私はこれまで以上に悪い罪人になったのでしょうか。罪について考えたことがありませんでした。私はあなたを信じるようになりました。そして今、私は何年もあなたに信仰を抱いていたのに、どうしてそれほど悪くなったのだろうかと疑問です。私に何があったのでしょうか。」
この時点で、私はその理由を知りました。私は罪から救われることなく、神を信じていました。私は当時、真理を知らず、それは私を狂わせるのに十分でした。
心に罪があるのに、どうして神の恵みの贖いについて、他の人に伝えることができるでしょう。他の人にイエスを信じるように、どうして言えたでしょう。私は何度も何度も祈りました。「愛する神様、私はもうすぐ神学校を卒業し、牧師に任命されます。しかし、私が罪を持つ牧師になったなら、他の罪人に贖いについて、どのように話すことができるでしょう。私は自分自身が罪人であり、使徒パウロの手紙を読んだとき、キリストの御霊を持たない者は、神の子どもではないことがわかりました。しかし、どれほど熱心に調べても、御霊は私の中にありません。初めは、そこにあったと感じましたが、消えました。何が起きたのでしょう。主よ、理由を教えてください。」
実際、その理由は、イエスへの単純な信仰を通して贖われたと思い込んで、自分を欺いていたからです。私は長い間、これに苦しみました。神は、熱心に神を求める者にご自分を示すと約束されました。神は、ついに神の真理のうちに、私にお会いくださいました。イエスを信じ始めてから十年は、まだ罪人でした。しかし、イエスのバプテスマと血の秘密を知ったとき、また、旧約聖書の割礼の意味と新約聖書の霊的割礼の意味を発見したとき、さらに、キリストのバプテスマによる救済の秘密を悟り、信じたとき、私の苦しみはすべて終わりました。私の魂は雪のように白くなりました。
それは、みなさんにとっても同じです。イエスのバプテスマとその血の福音を信じるなら、みなさんも罪のない人になります。みなさんはまだ不完全かもしれませんが、義人になるでしょう。この真理を自分の心に留め、それを他の人に知らせると、彼らも救われ、「ハレルヤ!」と叫んで神を賛美するでしょう。
私は、贖われているすべての兄弟姉妹を祝いたいです。私たちのすべての罪から救ってくださったために、イエスをたたえます。ハレルヤ!私たちはすべての罪を喜んで贖われています。
私たちは、すべての幸せを単なる言葉で表現することができないほど、大きな祝福です。一緒に歌を歌いましょう。「♪神の御名は秘密になっている。まだすべての生き物の秘密を宣言していないから。家を建てる者たちの見捨てた石のように捨てられ、それが私の心の最も貴重な宝石となった。♪」
 
 

イエスのバプテスマと血はすべての罪人を罪から救うのに十分過ぎるほどある

 
すべての罪を私たちの心から消すものは何か
イエスのバプテスマ

イエス・キリストは、バプテスマと血を通して世の罪をすべて洗い流されました。イエスは、私たちに霊的割礼を施し、私たちを神の民になさいました。イエスは、新しく生まれた者の神であられます。
罪に対する裁きは、いつもあります。しかし、イエスは私たちをお救いくださるためにバプテスマを受け、十字架で裁かれました。イエスの血で、イエスは私たち全員を救われ、三日目に復活されました。イエスを死からよみがえらせたのは、父なる神でした。
イエスのいのちは私たちのいのちであり、神の子どもとしての私たちの存在のしるしです。イエスのバプテスマは、私たちの罪をすべて取り除かれ、十字架でイエスの尊い血は、イエスが私たちに代わって裁きを受けたことの証拠です。
友のみなさん、みなさんは心にイエスのバプテスマと血の証拠がありますか。もう一度お尋ねします。私たちの救いは、イエスの血によってのみもたらされるのでしょうか。いいえ。それは、イエスのバプテスマと血とが一緒になるのです。
 
 
異端者とは誰か
 
異端者とは誰か
イエスのバプテスマを信じることをせずに自分自身を非難する者

友のみなさん、みなさんは毎日イエスの信仰を告白しているにもかかわらず、まだ罪人ですか。イエスを信じているにもかかわらず罪人なら、その人は異端者です。異端は神の真理を信じていません。テトスへの手紙 3:10-11は、異端について教えています。「分派を起こす者は、一、二度戒めてから、除名しなさい。このような人は、あなたも知っているとおり、堕落しており、自分で悪いと知りながら罪を犯しているのです。」
自分で悪いと知っている者は、言います。「神様。私は罪人です。私はあなたを信じていますが、まだ罪人です。誰が何を言っても、私は罪人であり、それが真理であることを知っています。」
神は、その人におっしゃいます。「あなたはまだ罪人で、わたしの子どもではないのか。では、あなたは異端者であり、地獄の炎に投げ込まれなければならない。」
みなさんの心にイエスのバプテスマの福音を信じることなしに、イエスを信じるなら、自分を罪人だと非難し、自分の霊には罪があると神に告白するなら、みなさんは神の御前に異端者です。
 
 
真の信者とは誰か
 
救済について神のあかしとは何か
水と血と御霊

イエスのバプテスマと血の福音を信じる者、神の民になっている者、罪を洗い流されている者は、すべて義人です。イエスを信じながら、どうしてまだ罪人でいることができるでしょう。罪人は、神の御国に入ることができません。
イエスを信じることによって義人になった者は、心に神のあかしがあります。あかしとは、イエスのバプテスマと血です。この救済のみわざは、イエス・キリストがこの世でなさったことです。
したがって、イエスが私たちの罪をすべて取り除かれたことによるバプテスマの福音を信じることを拒む者は、神から断ち切られます。
信仰における兄弟姉妹のみなさん、罪人の救済は、イエスの血だけでなく、イエスのバプテスマである水でもあるという福音を心から受け入れますか。
イエスがこの世でなさったみわざを信じる者は誰でも、水と血と御霊を受け入れる者は誰でも、すべての罪から救われます。これが、水と血と御霊の福音の真理であり、知恵です。
全人類がイエスを通して救われるように、イエスはバプテスマを通して私たち全員の罪を完全にきよめられました。今、みなさんがほんとうにイエスを信じるなら、罪人であることはあり得ません。
イエスは、私たちを死からよみがえらせました。悪魔の欺瞞のために流され、神から遠く離れたすべての魂をお救いくださったのです。イエスは、すべての滅びた魂を見つけることを望んでおられます。神はイエスを通して、水と血と御霊の福音とともにみわざをなさいます。神は私たちを召され、私たちは今、神によって贖われ、救われることができます。
この最も深淵な真理を信じておられますか。救済は、ただの血によるものではなく、イエスのバプテスマと十字架での血との両方によるものだと、私は話しています。血によってのみ救われていると言う人は、自分の心に罪があることを認識しなければなりません。
私たちはみな、自分の救済がイエスの血を信じるだけで十分だと思っていました。以前はそう考えていましたが、今では十分ではないことを理解するべきです。私たちは、水と血と御霊によって来られたイエス・キリストを信じて、救われ、新しく生まれました。
すべての罪人は、イエスのバプテスマとその血への信仰を通して、新しく生まれることができます (Ⅰヨハネ 5:5-10)。神をたたえましょう。ハレルヤ!