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主題 3: 水と御霊の福音

[3-7] 変化した祭司職 (ヘブル 7:1-28)

変化した祭司職
(ヘブル 7:1-28)
「このメルキゼデクは、サレムの王で、すぐれて高い神の祭司でしたが、アブラハムが王たちを打ち破って帰るのを出迎えて祝福しました。またアブラハムは彼に、すべての戦利品の十分の一を分けました。まず彼は、その名を訳すと義の王であり、次に、サレムの王、すなわち平和の王です。父もなく、母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされ、いつまでも祭司としてとどまっているのです。その人がどんなに偉大であるかを、よく考えてごらんなさい。族長であるアブラハムでさえ、彼に一番良い戦利品の十分の一を与えたのです。レビの子らの中で祭司職を受ける者たちは、自分もアブラハムの子孫でありながら、民から、すなわち彼らの兄弟たちから、十分の一を徴集するようにと、律法の中で命じられています。ところが、レビ族の系図にない者が、アブラハムから十分の一を取って、約束を受けた人を祝福したのです。いうまでもなく、下位の者が上位の者から祝福されるのです。一方では、死ぬべき人間が十分の一を受けていますが、他のばあいは、彼は生きているとあかしされている者が受けるのです。また、いうならば、十分の一を受け取るレビでさえアブラハムを通して十分の一を納めているのです。というのは、メルキゼデクがアブラハムを出迎えたときには、レビはまだ父の腰の中にいたからです。さて、もしレビ系の祭司職によって完全に到達できたのだったら、――民はそれを基礎として律法を与えられたのです。――それ以上何の必要があって、アロンの位でなく、メルキゼデクの位に等しいと呼ばれる他の祭司が立てられたのでしょうか。祭司職が変われば、律法も必ず変わらなければなりませんが、私たちが今まで論じて来たその方は、祭壇に仕える者を出したことのない別の部族に属しておられるのです。私たちの主が、ユダ族から出られたことは明らかですが、モーセは、この部族については、祭司に関することを何も述べていません。もしメルキゼデクに等しい、別の祭司が立てられるのなら、以上のことは、いよいよ明らかになります。その祭司は、肉についての戒めである律法にはよらないで、朽ちることのない、いのちの力によって祭司となったのです。この方については、こうあかしされています。『あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である。』 一方で、前の戒めは、弱く無益なために、廃止されましたが、――律法は何事も全うしなかったのです。――他方で、さらにすぐれた希望が導き入れられました。私たちはこれによって神に近づくのです。また、そのためには、はっきりと誓いがなされています。――彼らのばあいは、誓いなしに祭司となるのですが、主のばあいには、主に対して次のように言われた方の誓いがあります。『主は誓ってこう言われ、みこころを変えられることはない。「あなたはとこしえに祭司である。」』――そのようにして、イエスは、さらにすぐれた契約の保証となられたのです。また、彼らのばあいは、死ということがあるため、務めにいつまでもとどまることができず、大ぜいの者が祭司となりました。しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。律法は弱さを持つ人間を大祭司に立てますが、律法のあとから来た誓いのみことばは、永遠に全うされた御子を立てるのです。」
 
 

イエスは天の祭司職を務めた

 
大祭司メルキゼデクとアロンの位の地上の大祭司とではどちらが優れているのか。
大祭司メルキゼデク

旧約聖書には、メルキゼデクという名の大祭司がいました。アブラハムの時代、ケドルラオメルと王たちがアブラハムと盟約を結び、ソドムとゴモラの全財産を奪って行きました。アブラハムは、自分の故郷で生まれた自分の訓練を受けたしもべを武装させ、ケドルラオメルとその盟約国との戦争に導きました。
そこで、アブラハムはエラムの王ケドルラオメルを打ち破り、王たちはアブラハムと盟約を結び、おいのロトとその所有物を取り戻しました。アブラハムが敵を打ち破った後、シャレムの王であり、いと高き神の祭司でもあったメルキゼデクは、パンとぶどう酒を持って来て、アブラハムを祝福しました。 そしてアブラハムは彼にすべての物の十分の一を与えました (創世記 第14章)。
聖書では、大祭司メルキゼデクとその大祭司の地位が詳細に示されています。大祭司メルキゼデクは、「平和の王」、「義の王」であり、父も母も、系図もありませんでした。日の初めも人生の終わりもなく、神の御子のように造られた彼は、絶えず祭司のままです。
聖書は、新約聖書のイエスの祭司職と旧約聖書の大祭司アロンの祭司職を比較することによって、メルキゼデクの位の大祭司であったイエス・キリストの偉大さを慎重に検討するよう告げています。
レビの子孫は祭司となり、アブラハムの子孫であったにもかかわらず、人々、すなわち彼らの兄弟たちから十分の一を集めました。しかし、アブラハムが大祭司メルキゼデクに十分の一をささげたとき、レビはまだ父の腰のところにいました。
旧約聖書の祭司は、イエスよりも偉大だったのでしょうか。それは聖書に説明されています。イエスは、地上の大祭司よりも偉大でしょうか。誰が誰に祝福されるべきでしょうか。ヘブル人の手紙の筆者は、これについて最初から話しました。「いうまでもなく、下位の者が上位の者から祝福されるのです。」 アブラハムは大祭司メルキゼデクを通して祝福されました。
私たちは、信仰の中でどのように生きるのでしょう。旧約聖書の聖なる幕屋のいけにえの制度を通して神の戒めに頼るべきでしょうか、それとも水と御霊のいけにえによる天の大祭司として私たちのところに来られたイエス・キリストに頼るべきでしょうか。
どの解釈を選択するかに応じて、私たちは祝福されるか、呪われるかが決まります。私たちは、神のみことばに従って生き、毎日いけにえをささげますか、それともイエスが私たちに水と血でただ一度ご自身をささげられることによって、私たちに与えられた救済を信じることを選択しますか。こうした二つの中から一つを選択しなければなりません。
旧約聖書の時代、イスラエルの民はアロンとレビの子孫を尊敬していました。新約聖書の時代では、誰が偉大なのか、イエスか、それともアロンの位の祭司でしょうか。それから、問題なく、私たちはイエスがより偉大であると答えることができます。しかし、人々はこの事実を明確に知っていながら、彼らの信仰のうちにそれに従う人はほとんどいません。
聖書は、この質問に対する明確な答えを与えてくれます。祭壇で誰も奉仕したことのない異なる部族のイエスが、天の祭司職を引き継いだことを教えています。「祭司職が変われば、律法も必ず変わらなければなりません。」
神は、モーセを通してイスラエルの民に、戒めと律法の613の詳細な条項を与えられました。モーセは、人々に律法と戒めに従って生きるよう命じ、人々はそうすることに同意しました。
 
なぜ神は初めの契約を捨てて、二つ目の契約をお定めになったのか。
人は初めの契約に従って生きるにはあまりに弱かったから。

聖書で、イスラエルの民は、モーセの五書にある神の戒め、つまり創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記によって生きることを誓いました。神は彼らにそれぞれの戒めを宣言し、彼らは迷うことなくすべての戒めに「はい」と言いました。
しかしながら、申命記の後、ヨシュア記以降、彼らは神の戒めに従って生きていなかったことがわかります。士師記から列王記第一、列王記第二まで、彼らは指導者の信用を失い始め、その後、聖なる幕屋のいけにえの制度を変えるほど腐敗しました。
そして最後に、マラキ書では、傷のない動物をささげるように神の命令があったにもかかわらず、ささげるのにふさわしくない動物を連れて来ました。彼らは、祭司たちに尋ねました。「どうか大目に見てください。この一つを受け入れてください。」 神の律法に従って、いけにえをささげる代わりに、彼らはそれを勝手に変えました。
イスラエルの民は、旧約聖書の時代に一度も神の律法を完全に守ったことがありませんでした。彼らは制度に啓示された救済を忘れ、単に無視しました。したがって、神はいけにえの制度を変えなければなりませんでした。エレミヤ書で、神はおっしゃいました。「わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。」
エレミヤ書 31:31-34 を見てみましょう。「見よ。その日が来る。――主の御告げ。――その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。――主の御告げ。――彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。――主の御告げ。――わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。――主の御告げ。――わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」
神は、新しい契約を結ぶとおっしゃいました。神はすでにイスラエルの民と契約を結んでおられましたが、彼らは神のみことばによって生きることができませんでした。ですから、神はご自分の民との新しい救済の契約をなさるとお決めになりました。
彼らは神の前で、「私たちはあなただけを礼拝し、あなたのみことばと戒めによって生きます」と誓いました。神は彼らに、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」とおっしゃり、イスラエルの民は、「もちろん、ほかの神々を礼拝することは決してないでしょう。あなたは私たちにとって唯一の神です。私たちには他の神は決していません。」 しかし、彼らは誓いを守りませんでした。
律法の中心的なものは、十戒から成り立っています。「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。あなたの父と母を敬え。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。あなたの隣人の家を欲しがってはならない」 (出エジプト記 第20章)。
また、彼らの生涯にわたって保管されていた613の詳細な条項に細分化されています。「娘にしないこと、息子にしないこと、継母にすべきこと...。」 神の律法は、すべての良いことをするように、悪いことをしないように命じました。これらは、十戒と613の詳細な条項です。
しかしながら、人類のすべての中で、神の律法のすべての条項を守ることができる人は、一人もいません。したがって、神は彼らがすべての罪から救われるための別の方法をお決めにならなければなりませんでした。
祭司職は、いつ変わったのでしょう。イエスがこの世に来られた後、祭司職が変わりました。イエスは、アロンの位のすべての祭司から祭司職を引き継ぎました。イエスは、レビの位の祭司の本来の権利だった幕屋のいけにえを破棄されました。イエスおひとりが天の大祭司職を務めました。
イエスは、アロンの子孫としてではなく、家の王たちであるユダの子孫として、この世に来られました。神は、イエスのバプテスマと十字架での血を通して、ご自身をいけにえとしてささげられ、人類すべてを罪からお救いくださいました。
ご自身をささげることによって、イエスは私たちが罪の問題を解決することを可能になさいました。イエスは、バプテスマと血のいけにえを通して、人類の罪をすべて洗い流されました。イエスは、いつまでも一つの永遠のいけにえをすべての罪のためにささげられました。
 
 
祭司職の変化とともに、律法の変化もあった
 
変化した救済の律法とは何か。
イエス・キリストの一つの永遠のいけにえ

友のみなさん、旧約聖書の祭司職は新約聖書で変わりました。旧約聖書の時代、レビの家のアロンの子孫のうちの大祭司は、過去一年間のイスラエル人の罪を贖うために、いけにえをささげました。大祭司は至聖所に入りました。いけにえの動物の血を携えて『贖いのふた』の前に行きました。大祭司だけが、至聖所である垂れ幕を越えることができました。
しかし、イエスの到来後、アロンの祭司職はイエスに引き継がれました。イエスは、永遠の祭司職を引き継ぎました。イエスは、全人類がすべての罪から救われるように、自分自身をささげることによって、永遠の祭司職を務めました。
旧約聖書では、大祭司がすべての民のために務める前に、雄牛の頭に両手を置くことによって罪を贖わなければなりませんでした。大祭司は、「神様、私は罪を犯しました」と言って、按手によって罪を移しました。それから彼は、動物を殺し、七たびその血を『贖いのふた』の前に振りかけました。
大祭司アロン自身が完全ではなかったなら、人々がどれほど無力であったかを想像できます。レビの息子である大祭司アロン自身は、罪人でした。ですから、彼は自分自身の罪と自分の家族の罪を贖うために雄牛をささげなければなりませんでした。
エレミヤ書第 31 章で、主はおっしゃいました。「わたしは契約を破る。わたしはあなたと契約を結んだが、あなたはその契約を破ってしまった。だから、わたしはあなたを聖別することができなかった契約を捨て、あなたに新しい救済の契約を与える。わたしは、もはやわたしの戒めによってあなたを救うのではなく、水と御霊の福音による救済をあなたにささげよう。」
神は、私たちに新しい契約をお与えになりました。時が来たとき、イエスは人の姿でこの世に来られ、世の罪を取り除くためにご自身をささげ、ご自分を信じる私たちを救うために、十字架で血を流されました。神は、バプテスマを通して人類すべての罪を取り除かれました。
神の律法は捨てられ、置き換えられました。イスラエルの民は、神の律法に従って生きていたなら、救われていたかもしれませんが、そうすることはできませんでした。「律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです」 (ローマ 3:20)。
神は、イスラエル人に彼らが罪人であり、律法が彼らを救うことができないことを、悟ることを望まれました。神は、彼らの行いを通してではなく、水と御霊の救済の律法を通して彼らをお救いくださいました。神は、無限の愛のうちに、イエスのバプテスマと血を通して、世の罪のすべてから救われることができる新しい契約を与えてくださいました。
イエスのバプテスマと血の意味を知らずに、イエスを信じるなら、みなさんの信仰はすべて無駄になります。みなさんがそうするとき、みなさんはイエスを全く信じなかったときよりも悩まされます。
神は、人類を罪からお救いくださるために、新しい契約を結ばなければならないとおっしゃいました。その結果、私たちは自分の行ないの律法によってではなく、水と血による救済の正しい律法によって救われています。
これは神の永遠の約束であり、イエスを信じる私たちに対する神の約束を成就なさいました。そして神は、イエスの偉大さについて私たちにおっしゃいました。神は、イエスを旧約聖書のアロンの位の祭司たちと比較することによって、イエスがどれほど偉大かを教えてくださいました。
私たちは、イエスの水と血による救済を信じることによって特別になります。慎重にこれを考慮してください。みなさんの牧師がどれほど学ばれ、よく話されても、彼はどのようにイエスよりも偉大になれるのでしょうか。その方法はありません。私たちは、水と血の福音によってのみ救われることができるのであり、決して単に神の戒めに従うことによってではありません。祭司職が変えられたため、救済の律法もまた変えられました。
 
 
神の愛の優越性
 
神の愛と神の律法とではどちらが優れているか。
神の愛

イエスが私たちをどのように救ってくださり、私たちに対する神の愛がどれほど偉大であるかを知って、私たちがイエスを信じるときに救われるのです。では、戒めへの信仰と神の愛の偉大さへの信仰との違いは何でしょうか。
律法主義者は、神のみことばよりも自分の宗派の教義と個人的な経験を重視しています。しかしながら、イエスへの真の完全な霊的信仰は、水と御霊を通して成就される救済の偉大さを信じることによってもたらされます。
今日でも、多くの人々は、原罪は赦されているけれど、日々の罪を毎日悔い改めなければならないと言います。多くの人々は、これを信じ、旧約聖書の戒めに従って生活しようとしています。彼らは、水と御霊によって来られたイエスの救済の優位性にまだ気づいていません。
旧約聖書において、イスラエル人は、罪から救われるために神の律法に従って生きなければなりませんでしたが、彼らは救われませんでした。主は、私たちの弱点と私たちが不完全であるという事実を知っているので、戒めを捨てるようになさったのです。私たちの行ないだけでは決して救われません。イエスは、水と御霊の福音を通して私たちを救うとおっしゃいました。「わたし自らが、あなたがた全員を罪から救おう。」 神は、創世記でこのように預言なさいました。
「彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく」 (創世記 3:15)。アダムとエバが罪を犯して堕落した後、彼らは神から自分たちの罪深さを隠すためにイチジクの葉の衣を作りました。しかし、神は彼らを呼び出し、救済の象徴として皮の衣を造られました。創世記は、救済の二種類の衣について教えています。一つはイチジクの葉で作られ、もう一つは皮で作られました。どちらが良いと思いますか。もちろん、動物の命が人を守るためにささげられたので、皮の衣の方が良いです。
イチジクの衣はすぐに枯れていきます。ご存じのとおり、イチジクの葉は五本の指を持つ手のように見えます。ですから、イチジクの葉の衣を着るということは、善行の陰に罪を隠すことを意味します。みなさんがイチジクの葉の衣を着て座ったなら、葉はすぐにバラバラに破れることでしょう。かつて私は子供の頃、くずの葉で鎧を作って兵士遊びをしました。しかし、どれだけ慎重に着ていたとしても、一日の終わりには破れてしまいます。同様に、人類の弱い肉体は聖化を不可能にします。
しかし、水と血の救済であるイエスのバプテスマと十字架での死は、神の愛の偉大さをあかしするのに十分以上に罪人を救いました。それは、神の愛が神の律法よりも優れているということです。
そのような人々が主に呼びかけるときはいつでも、罪を告白することです。彼らは唇をかみ、神に声を掛けて「神よー!」と叫び、毎日新しい衣を作り続けています。それでは、彼らがそれに飽きるとどうなるでしょう。
 
 
まだ神の律法への信仰を持つ者
 
なぜ律法主義者は毎日、自分の行ないで新しい衣を作るのか。
彼らは、自分の行ないが自分たちを義人にすることができないのだと知らないから。

イチジクの葉で衣を作る人々は、律法主義的な生活を送っています。こうした見当違いの信者は、定期的に衣を変えなければなりません。毎週日曜日に教会に行くとき、彼らは新しい衣を作らなければなりません。「神様、先週私はとても多くの罪を犯しました。しかし、主よ、あなたは私を十字架で救われたと信じています。主よ、十字架の血で私の罪を洗い流してください!」 彼らは、その瞬間にその場で新しい衣を縫い合わせました。「ああ、主をほめたたえます。ハレルヤ!」
しかし、彼らはすぐに自宅で別の衣を作らなければなりません。なぜでしょう。古いものがすり切れたからです。「愛する主よ、私は過去三日間にわたって再び罪を犯しました。私を赦してください。」 彼らは、何度も何度も悔い改めの新しい衣を作って、それから着ます。
初めは、衣は数日もつかもしれませんが、しばらくすると、彼らは毎日新しい物が必要となります。神の律法によって決して生きることができないので、彼らは自分自身を恥じます。「ああ、これはとても恥ずかしい。主よ、主よ。私はもう一度罪を犯してしまった!」 そして、彼らは悔い改めの新しい衣を作らなければなりません。「ああ、主よ、今日イチジクの葉の衣を作るのはとても難しいです。」 彼らは、新しいものを縫うために、一生懸命働いています。
年に一度か二度、彼らは山に登って断食します。彼らは、より強くより、丈夫な衣を作ろうとします。「主よ、私の罪を洗い流してください。私を新たにしてください。主よ、あなたを信じます。」彼らは夜に祈る方が良いと考えます。ですから、彼らは昼間に休み、暗闇が落ちるとすぐに、力を尽くして木につかまるか、暗い洞窟に入って行って神に叫びます。「主よ、信じます!」 「♪悔い改め、我の心を悔い改めの心で満たす♪」 彼らは大声で祈って、「信じます」と叫びます。このように、彼らは長持ちすることを望む特別な衣を作りますが、決してうまくいきません。
山の祈りの後に降りてくるのは、なんと爽快なことでしょう。さわやかな風のように、あるいは木や花に散らばる春の雨のように、彼らの魂は平和であり、全能のお方の恵みに満ちています。山の霊よりも清らかで、彼らは特別な新しい衣を着て世に直面します。
しかし、彼らが家や教会に戻って再び生活を始めるとすぐに、衣は汚れて擦れ始めます。
彼らの友人は「どこに行っていたの」と尋ねます。
「まあ、私はしばらく離れた場所にいたよ。」
「体重が減ったように見えるね。」
「まあ、うん。でも、それとは別の話さ。」
彼らは断食したことを決して明かすことをせず、ただ教会に行って祈ります。「私は女性を決して欲しがりません。決して嘘をつきません。隣人の家を欲しがりません。すべての人を愛します。」
しかし、細い足を持つ美しい胸の女性を見た瞬間、心の聖さは即座に純粋な欲望に変わります。「そのスカートがどれほど短いか見てみろ。スカートは日々どんどん短くなっていくぞ。またそれらの脚を見てしまう。ああ、ダメだ。ああ、主よ。私はまた罪を犯しました。」
律法主義者が敬虔に見えますが、彼らは毎日新しい衣を作らなければならないことを、みなさんは知っておく必要があります。律法主義は、イチジクの葉の衣への信仰、間違った信仰です。多くの人々は、神の律法に従って信心深く生きようと一生懸命努力しています。彼らは、自分の声がかなり敬虔に聞こえ始めるように、山で声の限りうめきます。
律法主義者が教会で祈祷会を仕切るとき、彼らは印象的に見えます。「天におられる聖なる父よ。私たちは先週、罪を犯しました。どうか、お赦しください...」 彼らは涙を流すと、会衆の残りの人々はそれに続いて涙を流します。彼らは自分自身に対して考えます。「この人は長い間、山で祈りと断食をしたんだろうな。とても敬虔で忠実に見える。」 しかし、彼の信仰が律法主義であるため、祈りが終わる前でさえ、律法主義者の心は傲慢と罪で満たされ始めます。
人々がイチジクの葉の特別な新しい衣を作るとき、彼らは二ヶ月か、三ヶ月ほど続くかもしれません。しかし、遅かれ早かれ、衣はぼろになり、新しいものを作り、偽善的な生活を続けなければなりません。これが、救われるために法律を順守しようとする律法主義者の生活です。彼らは、イチジクの葉から絶えず新しい衣を作らなければなりません。
「あなたはこの一週間、すべて罪を犯しましたよね。それなら、悔い改めなさい。」 
彼らは大声でみなさんに向かって叫びます。「悔い改めなさい!祈りなさい!」
律法主義者は、自分の声を神聖に聞こえさせる方法を知っています。「主よ、すみません。私は、律法に従っていませんでした。私は、あなたの戒めを守りませんでした。主よ、赦してください。もう一度赦してください。」
彼らは勇敢に律法によって生きようとしても、決してそうすることはできません。実際、彼らは神の律法と神ご自身に挑戦しているのです。彼らは神の前で傲慢です。
 
 
ベ・チュダルのような者
 
なぜ神は律法を破棄なさったのか。
なぜなら、律法は私たちを罪から救うために無益だから。

かつて、ベ・チュダルという若者がいました。朝鮮戦争中の1950年、共産主義の兵士たちがやって来て、彼に安息日に庭を掃除させるように命じて、彼の堅固な宗教的信仰を奪い、彼を共産主義にさせることを命じました。しかし、この宗教的な若者は、彼らの命令に従うことを拒否しました。彼らは主張しましたが、若者は再び拒否しました。
ついに、兵士たちは若者を木に縛り付け、銃を若者に向けました。「庭を掃除するか、殺されたいか、どっちだ?」
決断を迫られたとき、若者は「聖なる安息日に働くくらいなら、死んだ方がましだ」と言いました。
「あなたは自分の選択を選んで、我々はあなたが選んだことに喜んで従ってやろうじゃないか。」
すると、彼らはすぐに彼を射殺しました。後に、教会の指導者たちは、彼の揺るぎない宗教的信仰を記念するために、死後に故人を執事に任命しました。
彼の意志の強さにもかかわらず、彼の宗教的信仰は見当違いでした。 なぜ彼は庭を掃除し、そうした兵士たちに福音を宣べ伝えなかったのでしょうか。なぜ彼はそれほど頑固で、そのために死ななければならなかったのでしょうか。神が、安息日に働かないことで、彼をほめたたえるでしょうか。いいえ。
私たちは、霊的な生活を送るべきです。私たちの行ないではなく、私たちの信仰は神の御前において重要です。教会の指導者たちは、自分の宗派の優越性と正統性を誇示したいので、ベ・チュダルのような人を祝いたいのです。まるでイエスに挑戦した偽善的なパリサイ人のようです。
律法主義者から学べること何もありません。霊的な信仰について学ぶべきです。イエスがバプテスマを受け、十字架で血を流さなければならなかった理由を考え、水と御霊の福音の性質を研究するべきです。
最初にこうした質問に対する答えを見つけて、次に福音を世界中のすべての人々に広め、彼らが新しく生まれるようにするべきです。人生を霊的な働きにささげるべきです。
説教者がみなさんに、「この若者ベ・チュダルのようになりなさい。安息日を聖なるものとしなさい」と教えるなら、彼は日曜日にみなさんを教会に来させようとしているだけです。
ここに、はっきり証明する別の話があります。日曜日に教会に行くために多くの試練を経なければならなかった女性がいました。彼女の義理の両親は、キリスト教徒ではなく、彼らは彼女が教会に行くのを躍起になって妨げようとしました。彼らは彼女に日曜日に働くように言いました。しかし、彼女は、日曜日に家族が自分に教会へ行くのを妨げる言い訳をしないように、土曜日の夜に野外に出て、月明かりの下で働きました。
もちろん、教会に行くことは重要ですが、私たちがどれほど忠実であるかを示すために、毎週日曜日に礼拝に来ることで十分なのでしょうか。真の忠実な人は、水と御霊によって新しく生まれました。真の信仰とは、誰かが新しく生まれたときに始まります。
神の律法に従って生きることによって、みなさんは自分の罪から救われるのでしょうか。いいえ、私は律法を無視するように言っているのではなく、律法のすべての条項を守ることは、人間的に不可能であることは誰もが知っています。
ヤコブの手紙 2:10 には、次のようにあります。「律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。」 したがって、水と御霊の福音によってどのように新しく生まれたのかをまず考えてください。それから、福音を聞くことができる教会に行くのです。新しく生まれた後、忠実な生活を送ることができます。そして、主が召されるとき、みなさんは主の御前に喜びをもって行くことができます。
偽の教会に行こうとして時間を無駄にしないでください。見当違いの献金をしてお金を無駄にしないでください。偽りの聖職者は、みなさんが地獄に行かないようにすることができません。まず水と御霊の福音を聞き、新しく生まれてください。
イエスがこの世に来られた理由について考えてください。律法に従って生きることによって、天の御国に入ることができるなら、イエスはこの世界に来られる必要はなかったでしょう。イエスが来られた後、祭司職は変わりました。律法主義は過去のものになりました。私たちが救われる前、私たちは律法に従って生きることによって救われると思っていました。しかし、これはもはや真の信仰のしるしではありません。
イエスは、愛、バプテスマの水、血と御霊によって、世のすべての罪から私たちをお救いくださいました。イエスは、ヨルダン川でのバプテスマ、十字架での血、そして復活を通して、私たちの救済を成就なさいました。
神は、以前の規制が弱くて役に立たなかったため、以前の規制を廃止なさいました。「――律法は何事も全うしなかったのです。――他方で、さらにすぐれた希望が導き入れられました。私たちはこれによって神に近づくのです。また、そのためには、はっきりと誓いがなされています」 (ヘブル 7:19-20)。イエスはバプテスマと血で誓いを立て、すべての罪から救われました。律法主義からの殉教は、実りのない信仰であり、唯一の真の信仰は水と御霊の福音を信じることです。
実りのある信仰を持たなければなりません。どちらがみなさんの魂に良いと思いますか。定期的に教会に出席し、律法に従って生活する方が良いでしょうか、それとも水と御霊によって新しく生まれるという福音が宣べ伝えられている神の教会に出席する方が良いでしょうか。どちらの教会とどちらの宣教師がみなさんの魂にとってより有益でしょうか。それについて考え、みなさんの魂に良いものを選んでください。
神は、水と御霊の福音のみことばを持つ宣教師を通して、みなさんの魂を救われます。誰もが自分の魂に対して責任を負わなければなりません。真に賢い信者とは、自分の魂を神のみことばに託す人です。
 
 

イエスは誓いを通して祭司になった

 
レビの位の子孫たちは誓いを通して祭司になったのか。
いいえ。イエスだけが誓いを通して祭司とされた。

ヘブル人への手紙 7:20-21には、次のようにあります。「また、そのためには、はっきりと誓いがなされています。――彼らのばあいは、誓いなしに祭司となるのですが、主のばあいには、主に対して次のように言われた方の誓いがあります。『主は誓ってこう言われ、みこころを変えられることはない。「あなたはとこしえに祭司である。」』 ――」
そして、詩篇 110:4 には、次のようにあります。「主は誓い、そしてみこころを変えない。『あなたは、メルキゼデクの例にならい、とこしえに祭司である。』」 主は誓いを立てられました。主は、私たちと契約を結ばれ、記されたみことばを通して私たちにそれをお示しになりました。「わたしは、メルキゼデクの例にならい、とこしえに大祭司になる。メルキゼデクは、義の王、平和の王、永遠に大祭司である。わたしは、あなたの救いのために、メルキゼデクの例にならい、とこしえに大祭司になる。」
イエスはこの世に来られ、すぐれた契約の保証となられました (ヘブル 7:22)。雄牛と山羊の血の代わりに、すべての罪を洗い流すために、イエスはバプテスマを受け、十字架で血を流されることによって、ご自分をいけにえとしてささげました。
旧約聖書の時代、大祭司が亡くなったとき、その息子は30歳になったときに、祭司職を引き継ぎました。その息子が歳を取り、またその息子が30歳になったとき、彼は祭司職を息子に引き継ぎました。
大祭司の子孫は、非常に多くいました。ですから、ダビデは全員が順番に役割を引き受ける制度を掲げました。アロンの子孫は、すべて祭司として任命されたので、彼らには祭司職に仕える権利と義務がありました。ルカの福音書には、次のようにあります。「アビヤの組の者でザカリヤという祭司がいた。…さて、ザカリヤは、自分の組が当番で、神の御前に祭司の務めをしていた…」 (ルカ 1:5, 8)。
イエスはこの世に来られ、祭司職の奉仕を永遠に引き継がれました。イエスは、すばらしい事がらの大祭司として来られました。イエスは、水と御霊によって新しく生まれるという救済を成就なさったのです。
アロンの子孫は弱く、肉体が不完全でした。大祭司が亡くなったとき、何が起こったのでしょう。大祭司の息子が大祭司職を引き継ぎましたが、そのようないけにえは決して人類の救済を保証するのに十分ではありませんでした。人類による信仰は、決して真の完全な信仰になることはできません。
新約聖書の時代、イエスはこの世に来られました。しかし、イエスは永遠に生きておられるので、いけにえを絶えずささげる必要がありませんでした。イエスは、バプテスマによって私たちの罪を永遠に取り除いてくださいました。イエスは、ご自身をささげ、ご自分を信じるすべての人を完全に罪から解放なさるために十字架につけられたのです。
今、イエスは生きておられ、私たちのためにあかしするために神の右の座におられます。「愛する父よ、彼らはまだ不完全かもしれませんが、彼らはわたしを信じています。昔、私は彼らの罪をすべて取り除いていないですか。」 イエスは、永遠の私たちの救済の大祭司です。
地上の祭司は決して完全ではありませんでした。彼らが死んだとき、彼らの息子たちは祭司職を引き継ぎました。私たちの主は永遠に生きておられます。主は、この世に来られ、バプテスマのヨハネからバプテスマを受け、すべての罪のために十字架で血を流されることによって、私たちのために永遠の救済を成就なさったのです。
「これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です」 (ヘブル 10:18)。イエスは、時の終わりまで私たちの救済についてあかしなさいます。みなさんは水と御霊によって新しく生まれていますか。
「また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です」 (ヘブル 7:26)。「律法は弱さを持つ人間を大祭司に立てますが、律法のあとから来た誓いのみことばは、永遠に全うされた御子を立てるのです」 (ヘブル 7:28)。
私がみなさんにお伝えしたいのは、傷のないイエス・キリストが、バプテスマの水と十字架での血を通して、私たちの罪をただ一度で洗い流してくださったということです。イエスは、行ないの律法ではなく、すべての罪を取り除かれ、永遠に裁かれることによって、私たちをすべての罪から救われたのです。
イエスが永遠の救済を通して私たちをすべての罪から救われたと信じておられますか。そうであれば、救われます。しかし、もしそうでなければ、イエスの永遠の救済について学ぶべきことがたくさんあります。
真の信仰は、厳密に聖書に基づいた水と御霊の福音から来ています。永遠の天の大祭司であるイエス・キリストは、バプテスマと十字架での血とを通して永遠の救い主となられました。
 
 
私たちは自分の信仰を完全に理解しなければならない
 
「イエスを信じる」とはどういうことなのか。
イエスのバプテスマと十字架での死への信仰を持つこと。

イエスを正しい方法で信じ、信仰をまっすぐに定める方法を考えなければなりません。どうすればイエスを正確で正しい方法で信じることができるでしょう。イエスのバプテスマと十字架での血の福音を信じることによって、そうすることができます。
正しい信仰とは、私たち自身の誤った概念を加えることなく、イエスのみわざ、バプテスマと血を信じることです。これが本当であると信じておられますか。みなさんの霊的な状態は、どうでしょうか。自分自身の行ないや努力に頼りすぎていないですか。
イエスを信じ始めてから、あまり時間はありませんでしたが、律法主義のために約十年間苦しみました。最終的に、私はそのような生活に疲れました。その時のことを思い出したくないのです。私の妻は今ここに座っています。彼女は、それが私たちにとってどれほど酷いものであるかを知っています。
日曜日に、「ハニー、今日は楽しみましょう」と言うでしょう。
「だけど、今日は日曜日だわ。」
彼女は、日曜日にも服を洗いませんでした。ある日曜日、私のズボンが破れました。しかし、彼女は月曜日まで待つように私に言いました。実際のところ、安息日を正しく守ることを私はさらに強く主張しました。しかし、それはとても大変でした。安息日を正しく守ることはとても困難だったので、日曜日に休むことはありませんでした。当時のことは、今でも覚えています。
友のみなさん、イエスをほんとうに信じるには、イエスのバプテスマと十字架での血による私たちの罪の贖いを信じなければなりません。真の信仰とは、イエスの神性と人間性、そしてイエスがこの世でなさったすべてのことを信じることです。真の忠実な人は、神のみことばをすべて信じています。
「イエスを信じる」とはどういうことでしょう。それは、イエスのバプテスマと血を信じることです。これには深い単純さがあります。私たちがしなければならないことは、聖書を見て、福音を信じることです。私たちはみな、正しい方法で信じるべきです。
「主よ、感謝します。私は今、それが私の努力によって行われていないことがわかります。律法によっては罪の意識が生じます (ローマ 3:20)。私は今それをすべて理解しています。私は、律法が良かったのは、それが神の戒めだからであり、それによって生きるべきだと思ったのです。私は今まで一生懸命努力しましたが、今では、律法に従って生きることができると考えるのは間違っていました。私は今、神の戒めを決して守れないことがわかります。したがって、神の律法を通して、私は今、自分の心が邪悪な考えと罪で満たされていることを認識しています。私は今、律法が私たちに罪の意識を植えつけるために与えられていることを理解しています。ああ、主よ、感謝します。私はあなたのみこころを誤解し、律法を守るために一生懸命努力しました。従おうとしたのは、私は本当に傲慢でした。悔い改めます。私は今、イエスが私の救済のためにバプテスマを受け、血を流されたことを知っています。私は信じています。」
みなさんは、率直に、そして純粋に信じなければなりません。聖書に記されたみことばだけを信じるべきです。完全に新しく生まれることができる唯一の道です。
イエスを信じることとは何でしょう。一定の期間をかけて完了しなければならないものでしょうか。私たちの信仰は、みなさんが行わなければならない宗教でしょうか。人々は神を作り、そうした神に合う宗教を作りました。宗教は、人々が目標を達成し、人間の善を志すために取り組むプロセスです。
それでは、信仰とは何でしょう。それは神を信じ、神を仰ぐことを意味します。私たちは、イエスの救済を仰ぎ、この祝福を主に感謝します。これが真の信仰です。これが信仰と宗教の違いです。こうした二つを区別できたなら、信仰を理解しているために100点を獲得します。
新しく生まれていない神学者たちは、私たちがイエスを信じ、信心深く生きるべきだと言います。信心深くなるだけで、忠実になれるでしょうか。もちろん、私たちは良くなければなりません。新しく生まれた私たちよりも敬虔な生活を送るのは誰でしょう。
しかし、問題は、彼らがこれを罪人に話しているということです。通常の罪人の中には、12種類の罪があります。その人は、どのように敬虔に生きることができるのでしょう。確かに、その人の心は何をすべきかを理解しているかもしれませんが、その人の心はそれを実行することはできません。罪人が教会の外に出たとき、敬虔に生きることは単なる理論になり、その人の本能は彼を罪に導きます。
したがって、天の御国の永遠の大祭司への信仰を持つことによって、イエスのバプテスマと十字架での血を信じることによって、律法によって生きるか、救われるかを心の中で決めなければなりません。
イエスは、信じる者にとって真の大祭司であることを覚えておいてください。イエスのバプテスマと十字架での血による真の救済を知り、信じることによって、私たち全員が救われましょう。
 
 
新しく生まれている者は世の終わりを恐れない
 
新しく生まれている者はなぜ世の終わりを恐れないのか。
水と御霊の福音への信仰が彼らを罪から解放させるから。

みなさんがほんとうに新しく生まれるとき、みなさんは世が終わりを迎えることを恐れる必要はありません。韓国の多くのキリスト教徒は、1992年10月28日に世界が終わると主張しました。それは、なんて激動で恐ろしい日だろう、と彼らは言いました。しかし、彼らの主張はすべて間違っていることが判明した。ほんとうに新しく生まれた者は、最後の瞬間まで福音を広め、敬虔に生きます。この世界が終わるときはいつでも、私たちがしなければならないことは、水と御霊の福音を宣べ伝えることだけです。
花婿が来ると、ほんとうに水と御霊によって新しく生まれた花嫁は、「ああ、あなたはついに来た。私の肉はまだまだ不完全ですが、あなたは私を愛し、私をすべての罪から救ってくださいました。ですから、私の心には罪がありません。主よ、感謝します。あなたは私の救い主です。」
イエスは、すべての義人の霊的花婿です。結婚は、花婿が花嫁を愛しているため、結婚が行われるのであって、その逆ではありません。私は、それがこの世界で時々そのように起こることを知っていますが、天国では、結婚が行われるかどうかを決めるのは花婿です。花嫁に関係なく、花婿の愛と救済の申し出に基づいて結婚することを選ぶのは、花婿イエスです。これが天国での結婚のやり方です。
花婿は、花嫁についてすべてをご存じです。花婿の愛する花嫁は、そのような罪人だったので、バプテスマを受け、十字架で血を流されることによって、花婿は彼らに同情し、すべての罪から彼らを救ったのです。
私たちの主イエスは、アロンの子孫としてこの世に来られたのではありませんでした。彼は、地上のいけにえをささげるためにこの世に来られたのではありませんでした。その務めをするために、アロンの子孫であるレビ人が大勢いました。
実際、旧約聖書のいけにえの主人公は、イエスご自身にほかなりませんでした。したがって、本物がこの世に来られたとき、その影はどうなったでしょう。影は無くなりました。
イエスがこの世に来られたとき、イエスはアロンがしたようにいけにえを決してささげませんでした。イエスは、罪人の救済のためにバプテスマを受けて、血を流すことによって、人類のためにご自身をおささげになりました。イエスは十字架での救済を成就なさったのです。
イエスのバプテスマと十字架での血を信じる者にとって、救済は不確かな言葉ではありません。イエスは、私たちの罪を不明確に贖われませんでした。イエスは、それを明確になさいました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」 (ヨハネ 14:6)。イエスはこの世に来られ、バプテスマと死、そして復活によって、私たちを救われました。
 
 
旧約聖書はイエスのひな型
 
別の契約を結ぶ理由は何か。
初めの契約は無力で役に立たなかったから。

旧約聖書は新約聖書の影です。イエスは、旧約聖書の大祭司のようにいけにえをささげることはありませんでしたが、より良い祭司職、永遠の天の祭司職を務めました。この世の人々は、誕生から罪深いので、罪人になり、神の律法を通して決して義人になることはできません。したがって、神は別の契約を結ばれました。
天におられる父は、ご自分のひとり子をこの世に遣わし、ひとり子のバプテスマ、血、そして復活への信仰を持つように立ち返ることにおいて、私たちにお求めになりました。これは、神の第二の契約です。第二の契約は、水と御霊の福音を信じることが私たちに求められています。
主は、もはや私たちの善行を求めておられません。主は、救われるために生きる方法を教えておられません。主は私たちに、神の御子による救済を信じるように頼むだけです。主は、とりわけイエスのバプテスマと血を信じるように、私たちに求めておられます。そして、私たちは「はい」と言わなければなりません。
聖書では、ユダの家が王族を維持していました。イスラエルのすべての王は、ソロモン王までユダの家で生まれました。王国の分裂後でさえ、ユダの家は紀元前586年に崩壊するまで南王国の王位を保持していました。このようにして、ユダの人々はイスラエル人のために立つのです。レビ部族は祭司の一つでした。イスラエルの各部族には、独自の役割がありました。神は、ユダの部族に、イエスがその階級から現れると約束なさいました。
なぜ主は、ユダの部族とこの契約を結ばれたのでしょう。この契約を結ぶことは、イスラエル人が世の人々の代わりとなるため、世のすべての人々と契約を結ぶことと同じでした。イエスは、バプテスマ、十字架での死、復活による人類の救済という新しい契約を成就なさいました。
 
 

人類の罪は悔い改めによって洗い流されることができない

 
人の罪は悔い改めによって洗い流されるのか。
いいえ。

エレミヤ書 17:1 には、それぞれの人の罪が二つの場所に記録されていると記されています。「ユダの罪は鉄の筆と金剛石のとがりでしるされ、彼らの心の板と彼らの祭壇の角に刻まれている。」
私たちの罪は、私たちの心に記録されています。それが私たちが罪人であることを知る方法です。人がイエスを信じるようになる前、その人は自分が罪人であることを知りません。なぜでしょう。神の律法がその人の心にないからです。したがって、誰かがイエスを信じると、その人は自分が神の前に罪人であることを悟ります。
イエスを信じるようになってから十年後、自分が罪人であることに気づく人もいます。「なんと、私は罪人だ。私は自分が救われたと思っていたけれど、どういうわけか、まだ罪人だ。」 ある日、ついに自分が真の自分であると認識するようになります。彼らは、十年間とても幸せでしたが、突然彼らは真理をわかるようになります。なぜなのか、ご存じですか。この認識は、ついに自分たちの真の罪とそむきが神の律法を通して明らかにされたからです。そのような人は、新しく生まれることなく、イエスを十年間信じていました。
罪人は、心から罪を消すことができないので、神の前で罪人のままです。五年かかる人もいれば、十年かかる人もいます。三十年後、五十年後に認識に至る人もいれば、最後まで真理に気づかない人もいます。「愛する神よ、戒めを持つ前に、私はよかったものです。私は律法を守っていると確信していましたが、今では毎日罪を犯していることに気づきました。『私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました』 (ローマ 7:9)。私は、イエスを信じているにもかかわらず、罪人です。
みなさんを神のみことばによって生きることから妨げるのは、みなさん自身の罪です。みなさんの罪は、みなさんの心に記録されています。神は、そこにみなさんの罪を記録なさっているので、祈るために頭を下げたとき、みなさんのすべての罪が現れます。「驚けよ。私は、あなたが犯した罪だ。」
「でも、私は二年前におまえを贖った。また、なぜおまえは突然自分自身を見せているのか。なぜ立ち去っていないのか。」
「ああ、そんなに悪く思うなよ。私はあなたの心に記録されているのだ。どう考えても、あなたはまだ罪人だ。」
「いや、違う!」
ですから、罪人は、二年前に犯した罪のために再び悔い改めます。「主よ、私を赦してください。私はまだ以前に犯した罪に苦しめられています。私は自分の罪を悔い改めましたが、そうした罪はまだ私とともにあります。私は罪を犯してきたので、どうかお赦しください。」
しかし、そうした罪は悔い改めで消え去るでしょうか。人々の罪は、心に記録されているので、水と御霊の福音なしでは決して消すことができません。水と御霊の福音を通してのみ、真の贖いが成し遂げられます。私たちは、イエスの真の福音への信仰を通してのみ救われることができます。
 
 
わたしは、あなたの救い主になろう
 
新しい契約にどのように対応するべきか。
私たちは、心の中でそれを信じ、世界中に宣べ伝えなければならない。

天におられる私たちの主は、私たちと新しい契約を結ばれました。「わたしは、あなたの救い主になろう。わたしは、あなたを水と血を通して世の罪から完全に解放させる。わたしを信じるすべての者を確かに祝福する。」
神とのこの新しい契約を信じておられますか。私たちは、すべての罪から救われ、水と血による主の契約と救済の真理を信じると、新しく生まれます。
医師が私たちを正しく診断しないなら、私たちは彼を信頼しません。医師は、まず患者を正しく診断し、次に適切な薬を処方する必要があります。あらゆる種類の薬がありますが、医師は使用すべき薬を正確に知っている必要があります。医師が患者を正しく診断すると、患者を癒すために利用できる多くの薬があります。しかし、間違った診断では、こうした良い薬はすべて患者を悪化させるだけです。
同様に、みなさんがイエスを信じるとき、神のみことばに基づいて自分の霊の状態を診断しなければなりません。神のみことばで、みなさんの霊を調べると、みなさんの霊の状態が何であるかを正確に見ることができます。霊の医者は、例外なくすべての患者を癒すことができます。彼らはすべて、新しく生まれることができます。
みなさんが「私は贖われているか分からない」と言うなら、みなさんは救われていないということです。牧師がほんとうにイエスの弟子であるなら、彼は信者の罪の問題を解決できなければなりません。それから、牧師は彼らの信仰の問題を解決し、彼らを霊的に導くことができるのです。牧師は、信者の正確な霊的状態を見ることができなければなりません。
イエスは、世の罪をすべて取り除くためにこの世に来られました。イエスはバプテスマを受け、十字架で死なれました。イエスがすべての罪を贖われたとき、イエスはみなさんの罪を除外されたでしょうか。水と御霊のみことばは、すべての信者の罪を消し去ります。
福音は、ダイナマイトのようなものです。高層ビルから山まで、あらゆるものを爆破します。イエスのみわざは、まさにこのようなものです。イエスは、神の水と御霊の福音で、神を信じる人々の罪を拭い去ります。さて、聖書で表現されている水と御霊の福音を見てみましょう。
 
 

旧約聖書における按手の福音

 
旧約聖書で按手の目的とは何だったのか。
その目的は、罪のためのいけにえの上に罪を移すことだった。

レビ記 1:3-4 で、贖いの福音の真理を調べましょう。「もしそのささげ物が、牛の全焼のいけにえであれば、傷のない雄牛をささげなければならない。それを、主に受け入れられるために会見の天幕の入口の所に連れて来なければならない。その人は、全焼のいけにえの頭の上に手を置く。それが彼を贖うため、彼の代わりに受け入れられるためである。」
この一節は、全焼のいけにえが、いけにえの頭に両手を置くことによって、主の前、会見の天幕の入口でささげられるべきであり、いけにえは、傷がなく、生きている動物でなければならないことを告げています。
旧約聖書の時代、罪人は日々の罪を贖うために、いけにえの上に両手を置きました。祭司は、その血を取り、それを全焼のいけにえの祭壇の角に塗りました。彼はその後、その血は全部、祭壇の土台に注がれ、罪人は一日の罪を赦されたのです。
一年間の罪については、レビ記 16:6-10 に記されています。「アロンは自分のための罪のためのいけにえの雄牛をささげ、自分と自分の家族のために贖いをする。二頭のやぎを取り、それを主の前、会見の天幕の入口の所に立たせる。アロンは二頭のやぎのためにくじを引き、一つのくじは主のため、一つのくじはアザゼルのためとする。アロンは、主のくじに当たったやぎをささげて、それを罪のためのいけにえとする。アザゼルのためのくじが当たったやぎは、主の前に生きたままで立たせておかなければならない。これは、それによって贖いをするために、アザゼルとして荒野に放つためである。」 聖書で説明されているように、アザゼルとは「消す」という意味です。ですから、一年の罪は第七の月の十日に贖われたのです。
レビ記 16:29-30 には、次のように記されています。「以下のことはあなたがたに、永遠のおきてとなる。第七の月の十日には、あなたがたは身を戒めなければならない。この国に生まれた者も、あなたがたの中の在留異国人も、どんな仕事もしてはならない。なぜなら、この日に、あなたがたをきよめるために、あなたがたの贖いがなされるからである。あなたがたは、主の前でそのすべての罪からきよめられるのである。」
これは、イスラエル人が一年の罪を贖った日でした。これは、どのように行われたのでしょう。最初に、大祭司アロンが犠牲を払って出席しなければなりませんでした。イスラエルの民を代表したのは、誰でしょう。アロンです。神はアロンとその子孫を大祭司に定めました。
アロンは、自分と自分の家族のために贖いをするために雄牛をささげました。彼は雄牛を殺し、七たびその血を『贖いのふた』の前に振りかけました。アロンはまず、自分と自分の家族のために贖いをしなければなりませんでした。
贖いとは、罪のためのいけにえに罪を移し、罪のためのいけにえを自分の身代わりに死なせることです。罪人は死ぬべき人ですが、罪をいけにえに渡し、自分の身代わりに死なせることによって、罪を贖うことができます。
自分の罪と自分の家族の罪が贖われた後で、アロンは神の前に一頭のやぎをささげ、もう一頭のやぎはイスラエルの民の前でアザゼルとして荒野に放ちました。
一頭のやぎが、罪のためにいけにえとしてささげられました。アロンは、罪のためのいけにえの頭に両手を置いて、告白しました。「ああ、神よ。あなたの民イスラエルは、十戒すべてとあなたの律法の 613 の条項に違反しました。イスラエル人は罪人になっています。私は今、このやぎに両手を置いて、一年のすべての罪を移します。」
アロンは、やぎの喉を切り、その血を携えて幕屋の中の至聖所に入りました。それから七たびその血を『贖いのふた』の前に振りかけました。
至聖所の中には、契約の箱があります。その覆いは、『贖いのふた』と呼ばれ、箱の中には、マナのはいった金のつぼ、芽を出したアロンの杖、契約の二つの板がありました。
「アロンの杖」は復活を表わしており、「契約の二つの板」は神のさばきを表わし、そして「マナのはいった金のつぼ」は、神のいのちのみことばを表わしています。
契約の箱には覆いがあります。血は、七たび『贖いのふた』の前に振りかけられました。大祭司の青服のすそに金の鈴がかかっていたので、彼が血を注ぎかけると鳴りました。
レビ記 16:14-15 には、次のように記されています。「彼は雄牛の血を取り、指で『贖いのふた』の東側に振りかけ、また指で七たびその血を『贖いのふた』の前に振りかけなければならない。アロンは民のための罪のためのいけにえのやぎをほふり、その血を垂れ幕の内側に持ってはいり、あの雄牛の血にしたようにこの血にもして、それを『贖いのふた』の上と『贖いのふた』の前に振りかける。」
やぎの血を振りかけるたびに鈴が鳴り、外に集まったすべてのイスラエル人が音を聞いたことでしょう。彼らの罪の贖いは、大祭司を通してなされなければならなかったので、鈴の音は彼らの罪が赦されたことを意味しました。それは、イスラエルのすべての民にとって祝福の音でした。
鈴が七回鳴ったとき、彼らは言いました。「今、私は非常に安心しています。一年間の罪を心配していましたが、今は自由を感じます。」そして、人々は罪悪感から解放されて、自分たちの生活に戻りました。その時の鈴の音は、水と御霊によって新しく生まれるという良い知らせと同じでした。
水と御霊の贖いの福音を聞いて、それを心で信じ、口で認めるとき、これが水と御霊の福音のすべてなのです。鈴が七回鳴ったとき、イスラエル人の一年の罪がすべてきよめられました。彼らの罪は、神の前に洗い流されたのです。
大祭司は、イスラエル人のためにやぎをささげた後、もう一つのやぎを連れて行き、幕屋の外で待っている民のところに行きました。彼らが見ている間、大祭司アロンは別のやぎの頭に両手を置きました。
レビ記 16:21 には、次のようにあります。「アロンは生きているやぎの頭に両手を置き、イスラエル人のすべての咎と、すべてのそむきを、どんな罪であっても、これを全部それの上に告白し、これらをそのやぎの頭の上に置き、係りの者の手でこれを荒野に放つ。そのやぎは、彼らのすべての咎をその上に負って、不毛の地へ行く。彼はそのやぎを荒野に放つ。」
大祭司アロンは、もう一方のやぎ(アザゼル)の頭に両手を置き、イスラエル人の一年の罪をすべて神の前で告白しました。「神よ、イスラエル人はあなたの前に罪を犯しました。私たちは十戒とあなたの律法の613のすべての条項に違反しました。神よ、私はイスラエル人の一年の罪をすべて、このやぎの頭に移します。」
エレミヤ書 17:1 によると、罪は二つの場所に記録されています。一つは「行ないの書」にあり、もう一つは彼らの心の板にあります。
ですから、もし人々が罪を贖うなら、その罪は「行ないの書」と心の板から消さなければなりません。贖いの日、一つのやぎは、「さばきの書」に記された罪であり、もう一つは心の板に刻まれている罪のためでした。
 
神は、旧約聖書でいけにえの制度を通してイスラエル人に何を示されたのか。
救い主が来られ、最も正しい方法で罪をただ一度で消し去ること。

やぎの頭に両手を置くことによって、大祭司は一年の罪がやぎに移されたことを人々に示しました。罪がやぎの頭に置かれると、係りの者がやぎを荒野に放ちました。
パレスチナは砂漠の土地です。イスラエル人の一年の罪をすべて取り除いたやぎは、水も草もなかった砂漠に、務めのために任命された人によって放たれました。人々は立ち、アザゼルが荒野に入って行くのを見ました。
彼らは自分自身に言いました。「私は死ぬべきだったけど、やぎは私の罪の代わりに死ぬ。罪から来る報酬は死だけれど、やぎは私の代わりに死ぬ。感謝するよ、やぎ。お前の死は、私が生きることができることを意味する。」 ヤギは砂漠の奥深くに放たれ、イスラエル人は一年の罪を赦されました。
みなさんの心にある罪が罪のためのいけにえに移されるとき、みなさんは清められます。とても簡単です。ひとたび理解すれば、真理は常に単純です。
やぎは、地平線の向こうに消えました。係りの者は、やぎを解き放った後、一人で戻ってきました。イスラエル人の一年の罪は、すべて消えました。やぎは、水や草もない砂漠をさまよい、最終的にはイスラエル人の一年分の罪とともに死にました。
罪から来る報酬は死であり、神の正義は成し遂げられました。神は、イスラエル人が生きるように、やぎを犠牲になさいました。その年のイスラエル人のそむきは、すべて洗いきよめられました。
旧約聖書の時代のように、一日の罪と一年の罪が赦されたように、私たちの罪も同様にただ一度で赦されるのが、神のご契約でした。それは、神が私たちに救世主をお遣わしになり、私たちを生涯のすべての罪から救ってくださるという契約でした。契約は、イエスのバプテスマを通して実行されました。
 
 
新約聖書において水と御霊によって新しく生まれること
 
なぜイエスはバプテスマのヨハネからバプテスマを受けたのか。
世の罪を取り除くことによってすべての正しいこと (義) を実行するため。
新約聖書におけるイエスのバプテスマは、旧約聖書のまさに按手だった。

マタイの福音書 3:13-15 を読みましょう。「さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。『私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。』 ところが、イエスは答えて言われた。『今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。』 そこで、ヨハネは承知した。」
イエスはヨルダン川に行かれ、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けました。そうすることで、神はすべての正しいこと (義) を成就なさいました。イエスは、ヨハネからバプテスマを受けました。ヨハネは、女から生まれた者の中で、最もすぐれた人でした。
マタイの福音書 11:11-12 には、次のようにあります。「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。…バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。」
バプテスマのヨハネは、神によって人類の代表として選ばれ、キリストの6ヶ月前に遣わされました。ヨハネは、アロンの子孫であり、最後の大祭司でした。
バプテスマのヨハネは、イエスが自分のもとに来られた時、言いました。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」
「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」 イエスの目的は、人類が神の子どもになれるように、人類を罪から解放することでした。イエスはヨハネにおっしゃいました。「わたしたちは、水と御霊によって新しく生まれるという福音を完成しなければなりません。だから今、わたしにバプテスマを授けなさい。」
ヨハネは、イエスにバプテスマを授けました。イエスが世の罪をすべて取り除くバプテスマを受けられるのは、ふさわしいことでした。イエスは、最もふさわしい方法でバプテスマを受けたので、私たちはすべての罪から正しく救われました。イエスは、私たちのすべての罪がご自身に渡されるように、バプテスマを受けました。
イエスは、この世に来られ、30歳の時にバプテスマを受けました。それはイエスの最初の務めでした。イエスは、世の罪をすべて消し去ることによって、すべての正しいこと (義) を成就なさいました。
イエスはこの世に来られ、私たちをすべての罪から救い出すために最もふさわしい方法でバプテスマを受けました。「このようにして」すべての正しいこと (義) が成就されました。
神は、おっしゃいました。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」 (マタイ 3:17)。イエス・キリストは、人類の罪をすべて取り除き、十字架で血を流して死ぬことをご存じでしたが、「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」 (マタイ 26:39) とおっしゃって、父なる神のみこころに従われました。父のみこころは、人類のすべての罪を洗い流し、世の人々に救済をお与えになることでした。
ですから、従順な息子であるイエスは、父のみこころに従われ、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けました。
「その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の小羊』」 (ヨハネ 1:29)。イエスはすべての罪を取り除かれ、ゴルゴタの十字架で血を流されました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」 とあかししたのは、バプテスマのヨハネです。
みなさんには罪がありますか。みなさんは義人ですか、それとも罪人ですか。真理は、イエスが世の罪を取り除かれ、私たち全員の代わりに十字架につけられたということです。
 
この世にいるすべての罪人の罪がイエスに移されたのはいつなのか。
イエスがヨルダン川でバプテスマのヨハネからバプテスマを受けたとき、私たちの罪を背負われた。

私たちがこの世に生まれた後、私たちは1歳から10歳の間でさえ罪を犯します。イエスは、そうした罪を取り除かれました。私たちは、11歳から20歳の間にも罪を犯します。私たちが心と行ないで犯す罪は、イエスがすべて負われました。
私たちは、21歳から45歳の間にも罪を犯します。イエスは、それらの罪もすべて負われました。イエスは世のすべての罪を負われ、十字架につけられました。私たちは、誕生の日から死ぬ日まで罪を犯します。しかし、イエスはそれらの罪をすべて取り除かれました。
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」 最初の人アダムの罪から、この世で生まれる最後の人の罪まで、すべての罪が――それがいつであろうと――イエスは、それらすべてを負われました。イエスが負う罪を選別することはなさいませんでした。
イエスは、私たちの一部だけを愛することをお決めになりませんでした。イエスは、肉において来られ、世の罪をすべて負われ、十字架につけられました。イエスは、私たち全員に代わって裁きを受け、この世の罪を永遠に消し去られたのです。
イエスの救済から誰も除外されませんでした。「世の罪」 には、私たちのすべての罪が含まれます。イエスは、それらすべてを負われたのです。
イエスは、バプテスマと血によって、世の罪をすべて清められました。イエスはバプテスマを通して、それらをすべて取り除かれ、十字架で私たちの罪に代わって裁かれました。イエスが十字架で死なれる前に、「完了した」 (ヨハネ 19:30) とおっしゃいました。これは、人類の救済が完了したことを意味します。
イエスが十字架につけられたのは、なぜでしょう。なぜなら、肉のいのちは血の中にあり、血は人のいのちを贖うからです (レビ記 17:11)。なぜイエスは、バプテスマを受けなければならなかったのでしょう。世のすべての罪を負うことを望まれたからです。
「この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、『わたしは渇く。』と言われた」 (ヨハネ 19:28)。イエスは、旧約聖書で神のすべての契約が、ヨルダン川でのバプテスマと十字架での死によって成し遂げられたことを知って、死なれたのです。
イエスは、贖いがご自身を通して成就されたことを知り、「完了した」 とおっしゃいました。イエスは十字架で死なれたのです。イエスは私たちを聖なるものとなさり、死から三日目によみがえり、天に昇られ、今は神の右の座に着いておられます。
イエスのバプテスマと十字架での死を通して、すべての罪を洗い流すことは、水と御霊によって新しく生まれるという祝福された福音です。信じてください。そうすれば、みなさんはすべての罪を赦されます。
毎日悔い改めのために祈って、罪を贖うことはできません。イエスのバプテスマと十字架での死を通してのみ、贖いはただ一度で与えられました。「これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です」 (ヘブル 10:18)。
今やるべきことは、イエスのバプテスマと磔刑による贖いを信じることだけです。信じてください。みなさんは救われるでしょう。
ローマ人への手紙 5:1-2 には、次のようにあります。「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。」
義と認められる他の方法はありませんが、水と御霊によって新しく生まれるという祝福された福音を信じることだけがあります。
 
 
神の律法の目的
 
私たちは律法によって聖なるものとされることができるのか。
いいえ、できない。律法は私たちに自分の罪を知らせるだけ。

ヘブル人への手紙 10:9 には、次のように記されています。「また、『さあ、わたしはあなたのみこころを行なうために来ました。』と言われたのです。後者が立てられるために、前者が廃止されるのです。」 私たちは、律法を通して聖なるものとされることができません。それは私たちを罪人にするだけです。神は、私たちに律法に従わせるつもりはありませんでした。
ローマ人への手紙 3:20 には、次のように記されています。「律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」 アブラハムが契約を受けて以来、430年が経過した後、神はモーセを通してイスラエル人に律法をお与えになりました。神は、彼らが神の前に罪を犯すことの意味を知るように、律法をお与えになったのです。神の律法がなければ、人類は罪の意識がなかったでしょう。私たちが罪を理解するようになるために、神は私たちに律法をお与えになりました。
ですから、律法の唯一の目的は、私たちがみな、神の前に罪人であることを知らせることです。この知識を通して、私たちは、水と御霊によって新しく生まれるという祝福された福音を信じることによって、イエスに戻ることを意味しています。これが、神が私たちにお与えになった律法の目的なのです。
 
 
主は、神のみこころを行なうために来られた
 
私たちは神の前に何をしなければならないのか。
イエスを通して神の贖いを信じなければならない。

「『さあ、わたしはあなたのみこころを行なうために来ました。』と言われたのです。後者が立てられるために、前者が廃止されるのです。」 (ヘブル 10:9)。私たちは律法によって聖なるものとされることができないので、神は律法によってではなく、神の完全な贖いによって、私たちをお救いくださいました。神は、私たちを神の愛と正義によってお救いくださいました。
「このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。また、すべて祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえをくり返しささげますが、それらは決して罪を除き去ることができません。しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着かれました」 (ヘブル 10:10-12)。
贖いのみわざが完了し、イエスがなさることはそれ以上ないので、神の右の座に着かれました。イエスは再び、私たちを救うためにバプテスマを受けることも、ご自身をいけにえになさることもありません。
世のすべての罪が洗い流されている今、イエスがなさることは、イエスを信じる人々に永遠のいのちをお与えになることです。イエスは今、水と御霊による救済を信じる者を、御霊によって証印を押されます。
私たちは、主イエスが永遠に罪から救われたことを信じなければなりません。イエスは、バプテスマと血によって私たちを永遠に完全なものになさいました
 
 
神の敵になっている者
 
神の敵とは誰か。
イエスを信じていても心に罪がある者

ヘブル人への手紙 10:12-14 には、次のようにあります。「しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。」 イエスは、彼らの運命を決定するために、最後の審判まで待つとおっしゃいました。
神の敵は、まだ言うでしょう。「神よ、私の罪をお赦しください。」 サタンとその追随者たちは、水と御霊の福音を信じず、神の赦しを求め続けます。
私たちの主なる神は、今のところ彼らを裁かないでしょう。しかし、イエスの再臨の日には、彼らは永遠に地獄に投げ込まれ、裁かれるでしょう。神は、彼らが悔い改め、贖いを通して義人になることを望まれ、その日まで彼らを我慢なさいます。
私たちの主イエスは、私たちの罪をすべて取り除かれ、イエスを信じる私たちに代わって死なれました。イエスは、いつの日か二度目に現れて、イエスを信じるすべての人々を救い出されるでしょう。「ああ、主よ。すぐに来てください。」 イエスは、天の御国で永遠に生きるために、罪のない者を連れて、二度目に来られるでしょう。
主が戻られるときに、自分が罪人であると主張する者は、天国に居場所を見つけられません。終わりの日には、彼らは裁かれ、地獄の火に投げ込まれます。この罰は、水と御霊によって新しく生まれることを信じるのを拒む人々を、待っています。
私たちの主イエスは、偽りを信じる者を敵とみなしておられます。そういうわけで、私たちはこの不真実と戦わなければなりません。ですから、水と御霊によって新しく生まれるという祝福された福音を信じなければならないのです。
 
 
私たちは水と御霊の福音を信じなければならない
 
すべての負債(罪)が全額支払われた今、私たちの罪を贖う必要はあるのか。
いいえ、まったくない。

ヘブル人への手紙 10:15-16 には、次のようにあります。「聖霊も私たちに次のように言って、あかしされます。『それらの日の後、わたしが、彼らと結ぼうとしている契約は、これであると、主は言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いに書きつける。』」
イエスが私たちのすべての罪を消し去られた後、イエスは、「彼らと結ぼうとしている契約は、これである」 と言いました。この契約とは何でしょう。「わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いに書きつける。」 私たちはまず、神の律法に従って律法主義的な生活を送ろうとしていましたが、律法によってほんとうに救われることはできませんでした。
後に、水と御霊によって新しく生まれるという祝福された福音を、心で信じる人々をイエスがすでにお救いくださっていることを知るようになりました。イエスのバプテスマと血を信じる者はだれでも、贖われます。
イエスは、救済の主です。「世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです」 (使徒 4:12)。イエスは、私たちの救い主としてこの世に来られました。私たちは、自分の行ないを通して救われることができないので、イエスは私たちを救われ、愛と救済の律法によって、私たちをお救いくださったということを、私たちの心に記録なさいました。
「『わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。』 これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です」 (ヘブル 10:17-18)。
今、イエスは私たちの不法行為をもはや覚えておられません。イエスがすべての罪を取り除いてくださった今、私たち信者は赦される罪がもうありません。私たちの借金は全額支払われ、返済するものは何もありません。人々は、イエスのバプテスマと十字架での血を通して私たちをお救いくださったイエスの務めへの信仰によって救われているのです。
今やるべきことは、イエスの水と血を信じることだけです。「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」 (ヨハネ 8:32)。イエスのうちにある救済を信じてください。贖いを得るには、呼吸するよりも簡単です。みなさんがするべきことは、そのことをありのままに信じることです。救済は、ただ神のみことばを信じることなのです。
イエスが私たちの救い主であること (イエスのバプテスマと十字架での死) を信じ、救済が自分のものであるという信仰をただ持ってください。自分の考えを否定し、イエスのうちにある救済を信じてください。みなさんが本当にイエスを信じており、イエスとともに永遠のいのちに導かれる準備ができていることを、私は祈ります。