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主題 9: 使徒パウロのローマ人への手紙

[Chapter 5-3] 神とともに (ローマ 5:1-21)

(ローマ 5:1-21)
ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。また、キリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。
そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、──それというのも全人類が罪を犯したからです。というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。ただし、恵みには違反の場合とは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。また、賜物には、罪を犯したひとりによる場合と違った点があります。さばきの場合は、一つの違反のために罪に定められたのですが、恵みの場合は、多くの違反が義と認められるからです。もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりのイエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。
こういうわけで、ちょうどひとりの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、ひとりの義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられるのです。すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。
律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。
 
 
<ローマ 5:1>ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
ローマ書は、罪の赦しは人間の義によって受けるものではなく、神の義によって信仰を認められて受けるものであることを明らかにしています。パウロがこの第 5 章で、神の義を信じて神との平和を保っていると説明しているのは、そのためです。神がその義によって罪からお救いくださったのですから、神の義を信じないで平和を得ないでいるというのは、理屈に合いません。聖書は、神の義を信じると、すべての罪から救われると告げています。これは、神の義を信じたときに得られる平和です。
神の義は私たちを完全にしました。ですから、神の義を知り、心で信じる者は誰でも罪全部の赦しを受けます。
使徒パウロはローマ 1:17 で、「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです」と述べました。ローマ書は、人間の義では罪から救われないとしています。ローマ第 5 章で使徒パウロは神の義を含む福音を再度要約しています。これは、神の義をローマの聖徒たちに広め、彼らの信仰がますます強まるようにと、そうしたのです。
しかしながら、この部分を義認説という間違った教えの観点から解釈する人がまだいるのです。そうした教義に基づいてこの部分を歪めるのは間違いです。義認説というのは、キリスト教徒はイエスを信じているのだから、たとえ罪がそっくり残っていても、神は罪のないものと見なしてくださるという説です。これが義認説の要点です。
しかしながら、神の義は、そうは言っていません。神の義を信じている者は信仰によって義とされている、としているのです。神の義を信じて、はじめて義認されるのです。神は、罪のある者を罪なしとはなさいません。
 
 

信仰により、私たちの立つ恵みに入る

 
<ローマ 5 : 2>また、キリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。
私たちに与えられた神の義は、自分たちの善行によるものではありません。私たちは、すでに成就し、絶対的力のある「神の義」を信じて、ただ一度ですべての罪から救われました。では、神の義とは何でしょう。神が御子をこの世に遣わされ、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けさせ、十字架上で死なせ、復活おさせになり、すでにこの惑星に生きるすべての人を罪全部から完全に救われたことをいうのです。ですから、神の義を信じる私たちは神の子どもとなり、神の栄光の中に入っているのです。
ローマ 5:2 には「また、キリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます」とあります。使徒パウロはここで再度強調していますが、神の義が既に成就し、固く立っており、私たちは信仰によって神の義を得たのです。ですから、みなさんと世の他のすべての人は、信仰の律法によって、すでに立つこの神の義を得ることが可能になっているのです。神の義を信じて義人となられれば、みなさんもまた、永遠のいのちの恵みを受けるのです。
神の義について明瞭に知っておくべきことは、イエスのバプテスマと血とがすべての罪から救ってくれたのだということです。神の義を信じて聖くなり、真の信仰をもてるのは、そのためです。真の信仰とは、神の義の含まれた真理を信じるものなのです。神ご自身がすでに成就された神の義を義認説で置き換えて信じてはいけません。神の義は人間が作り出した説ではありません。神の義はイエスのバプテスマと血によって確かに完了されたのです。神の義を信じなければ、罪人がすべての罪から救われることはできません。ですから、神の義を正しく理解し、正しく信じなければなりません。神の義の代わりに義認説を信じてはいけないのは、それでは罪が消えないからです。
神はご自分の義を信じる者の信仰をお認めになります。神は、ご自分の義を信じる者の心に永遠の安らぎをくださいます。神の義が教えているのは、人類の罪が神と人間との平和を破ったけれど、イエス・キリストがバプテスマと血によって罪をみな消し去り、神と人間とを和解させたということです。
真の神の義を信じて、はじめて神との間に平和をもてるのです。神の義を信じる私たちは、もはや神の敵ではありません。神の義を信じた結果、真の平和が訪れました。そうした平和を用意なさったのは父なる神です。イエス・キリストがこの世に遣わされ、ヨハネから受けられたバプテスマ、血、死、そしてよみがえりによって、人間を神の敵にしていた世の罪をすべて消されたのです。
しかしながら、神の義を信じない者は、自分の義を立てようとして神の義に敵対します。そうした人は直ちに改め、神に屈しなければなりません。今は、神の義を信じて、罪をみな贖う恵みを受けなければなりません。
神の平和は、どのようにして罪人に来るのでしょう。神との平和は、神の義を信じてはじめて得られます。これ以外に神との平和を得る道はありません。それなのに、罪人は神との平和を望んでいても、神の義を知りません。ですから、神との間に平和がないのです。罪人であるキリスト教徒が神の義をもって信じていないのなら、常に犯している罪のために救いに確信をもてません。そこで、根拠のない教義に頼るようになるのです。その結果は嘆きと果てしない絶望しかありません。それに対して、私たち神の義を信じる者は今、実際に神との平和を享受しています。
 
 

すべてに打ち勝つことを可能にする神の義

 
<ローマ 5:3>そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
「そればかりではなく」、つまり、信仰によって救われただけではなく、私たちはまた、患難さえも喜んでいます。これはすべて、神の義を信じているからです。ここでは患難が忍耐を生み出すとしています。この信仰は使徒パウロのあかしであり、私たちのあかしでもあります。神の義を信じて救われた者は、時にこの神の義を宣べ広めて迫害されます。神のみこころに従うために患難を受けるのです。
 
<ローマ 5:4> 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す。
しかしながら、忍耐は品性を生み出し、品性は希望を生み出します。神がただ一度ですべての罪からお救いくださり、新たな天と新たな地とをくださったので、私たちは希望をもって忍耐強く待ちます。これが、聖徒が忍耐する真の目的です。
患難が聖徒の忍耐を生み出すのです。聖徒が患難に耐えるのは、神の恵みがすぐに来ると信じているからです。「忍耐強い心」とは、主が早く戻られることを待ち望む心です。神は患難を通じて聖徒の心を向上おさせになります。そうすると、深い信仰をもち、どんな苦しみにも耐えることができるようになるのです。ですから、どんな患難も神の義への信仰を無にすることはできません。
神の御前で、聖徒は神の義のみことばに堅く立ち、いつも主の再臨を待ち望んでいます。私たちの忍耐は、主のお約束を信じていることから生じ、患難に耐える力は、神の真理の愛が心に注がれているから、あるのです。
主のくださった神の義を信じる者は、神の御霊を受けています。御霊は、神の義を固く信じるようにし、そうして神のお約束を信頼するように導かれます。
 
 
希望を与える神の義
 
<ローマ 5:5>この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
神の義を信じる者は天の御国を望んでいます。ですから、この世で主の御国のために生きていることを恥じません。それは神の愛が心に注がれているからです。神の愛とは、義認説や漸進的聖化説ではなく、神の義を信じて得られるものです。しかし、いまだに神の義を措いて義認説を信じている人が大勢います。
神の義を成すイエスのバプテスマに関して、神に敵対して「聖書のどこで、イエスがバプテスマのヨハネから受けたバプテスマで世の罪が移されたと言っているのです」と言う人がいます。
聖書でイエスのバプテスマの意味は、①洗われる、②沈められる、③埋葬される、④移される、です。イエスがバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられた時に世の罪が移されたというのは、旧約での手を置くことと同じ原則によるのです。そこでは大祭司が犠牲の山羊の頭に両手を置き、イスラエル人の心の罪を洗い流しました。イスラエルの民もまた、神の定められた、手を置くことに基づいた、いけにえの制度のみことばを信じ、信仰によって罪を洗い流しました。
ですから、イエスがバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられ、水に沈まれたのは、世の罪を受け入れられたということであり、これはさらに、イエスが十字架上で死なれたのは、世の罪をみな受け入れておられた、まさにそのためだったのです。イエスの埋葬は、バプテスマによって世の罪を被られていたから死なれたのだということを示しています。「罪から来る報酬は死」であり、これは神の律法です。ですから、イエスがバプテスマを受けられ、埋葬されたことは、人類の罪をみな被られ、身代わりとして死なれたことを示しているのです。
イエス・キリストはバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられた時、「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです」(マタイ 3:15)とおっしゃいました。そこで、バプテスマを受けられて水から出られた時、人類を罪から救う神の義が成就したのです。
それなのに、自分は頭が良いと思っている人々がいて、みことばの意味を勝手に解釈し、みことばを頼みにしようとはしません。聖書は神の義を成就した「罪の洗い」について「バプテスマ」という語を用いています。神は旧約の按手、それに新約のイエスのバプテスマによる世の罪を洗い流した義について語られました。神の義を信じる者とは、イエスのバプテスマと血とが自分の救済のためであったと信じている人です。そうした人が神の義に従っているのです。
 
 
私たちが生まれる以前から
 
<ローマ 5:6>私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
ここでは、「私たちがまだ弱かったとき」とありますが、これは、まだ新生していない時を指しています。イエス・キリストは、いつこの世に来られたのでしょう。およそ二千年前に来られました。私たちの誰もまだこの世に生まれていなかった時に、主はこの世に来られたのです。
神は、最初の人間アダムとイブに、すべての罪人の罪の赦しのご計画を約束なさいました。神は蛇に「彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく」(創世記 3:15)とおっしゃいました。サタンはアダムとイブにみことばを信じない心を起こさせました。しかしながら、新約は、イエスがバプテスマのヨハネからお受けになったバプテスマと十字架上で流された血とによってすべての罪人をあらゆる罪から救ってくださったとしています。神が創世記で、サタンはイエスのかかとにかみつくとおっしゃったのは、主がこの世でバプテスマを受けられ、磔刑に処されるという意味だったのです。これはイエスのバプテスマと死のことを言っているのです。主がバプテスマによって人類の罪を被られ、十字架上で死なれることを予言したものなのです。ですから、「私たちがまだ弱かったとき」というのは、私たちがこの世に生まれる前にすでに、罪をみな贖うことを主が約束されたことを告げているのです。そして、私たちがまだ誰も生まれていないうちに、主はそのみわざを行われました。ですから、神の義を全うしたイエスのバプテスマと血とが罪の赦しのためであると信じなければなりません。
第 6 節は、「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました」とあります。パウロはここで、私たちが生まれる前に、すでに神の義が成就されていたことを述べています。つまり、主のバプテスマと血とを信じて世の罪全部から救われたのであること、罪の贖いは悔い改めの祈りをささげて受けるのではないことを告げているのです。
神の義を知らない人は、イエス・キリストを信じるようになった時に原罪は贖われたけれど、行いによる罪は毎日悔い改めの祈りをささげて赦されるのだと主張します。しかし、神はそうした考えをお認めになりませんし、それは神の義を信じる信仰とは関わりのないものです。ですから、そのような信じ方をしてはいけません。神の義は、そうした信仰では得られないからです。
そうした人はまた、信者は徐々に聖化されるのであり、死の床で体と魂から完全に罪がなくなって天国に行くのだと言います。新たに生まれていないキリスト教徒の中には、義認説を説く人々がいます。それによると、神の目からするとまだ罪のある人であっても、イエスを信じていさえすれば、罪のない者と見なされるというのです。これは人間の考えたことに過ぎません。神が罪人を義人と呼ばれるなら、神を聖なる神として信じることはできないでしょう。そういうことを信じるのは、神を嘘つき呼ばわりすることです。よろしいですか、父なる神は、イエスを信じているかどうかに関わりなく、心に罪のある者をみな裁かれます。
父なる神は義をくださるために、私たちが生まれるずっと前にイエスを遣わされました。御子にバプテスマを受けさせました。イエスはそれによってバプテスマのヨハネから世の罪を受け取られたのです。主がバプテスマを受けられ、人類の罪をみな負われたので、十字架上で血を流して死なれたのです。これが神の義であり、誤りない真実です。マタイ 3:15 でイエスがバプテスマを受けられた際におっしゃった「すべての正しいこと」とは、「義にかなう正しいこと」という意味です。人類の罪をみな消されるために主は自らこの世に来られました。バプテスマのヨハネからバプテスマを受けられて世の罪をみな負われました。十字架に行かれ、磔刑に処されて血を流され、世の罪の罰を受けられました。これらすべてにより、一度で神の義を満たされました。
この世に生まれた人間が罪を犯すことをご存じだったイエス・キリストは、罪から救おうと約束なさいました。バプテスマのヨハネからお受けになったバプテスマと十字架上の死、そして、よみがえりによって約束を実行なさいました。旧約の時代、いけにえの動物は按手によってイスラエル人の罪を負いました。新約の時代、イエス・キリストはバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられて人間の罪を負われ、十字架上で死なれ、そうして、すべての人間を罪から救われ、神の義を成就なさったのです。神の義を信じなければならないのは、そのためです。また、義認説は根拠のない説であることを知っておかなければなりません。神は、ご自分の義への信仰だけをお認めになります。ローマ書は、人間の義を捨て、神の義を信じよと教えています。
 
 
神はその愛を示された
 
<ローマ 5:7>正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
ここは、この世には他人のために自ら犠牲になる者はほとんどいないということを述べています。ごくまれにですが、正しいと信じることのために命を投げ出す人々がいます。つまり、正しいことをしようとして、他人のために犠牲になる人々がいるのです。しかし、神のしもべのために死ぬ人はめったにいないというのです。
 
<ローマ 5:8>しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
「私たちがまだ罪人であったとき」とあるのは、神の義を信じるようになる前、その人が罪人であったかどうかを問うているのです。神の義を信じる前、私たちは罪人でしたか、義人でしたか? みな罪人でした。
しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
これは、私たちをすべての罪からお救いくださるために、遠い昔にイエスの受けられたバプテスマと十字架上で流された血とにより、父なる神が罪の赦しを完了なさったということです。私たちがまだ罪人であった時に、キリストはバプテスマと死によって、人間への愛を示されたのです。
世界創造以来、人間はみなアダムの子孫として生まれ、したがって、自動的に罪人になっています。人間は罪深い体をもって生まれますから、神の義への信仰なしには罪から逃れることができません。罪のために、人間には破壊と苦しみしかないのです。しかしながら、神は御子を遣わされ、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けさせ、十字架上で死なせ、ただ一度でその義を成就なさったのです。神はその義によって世の罪全部の贖いを完了なさいました。これは神が人間にくださった完全な義です。
パウロは人間の弱さと神の義とを対照させ、神の愛の偉大さを示しているのです。みなさん、義認説を信じてはいけません。あれは人を惑わせるだけです。また、漸進的聖化の説を信じてもいけません。人間の肉の考えは神の義をだめにするだけです。人間にはそもそも、生まれつき何の善も義もないのです。人間が善を備えて生まれてきたなら、イエスが罪人をすべての罪から救って成就された神の義は、これほど尊しとされていなかったでしょう。
咎のために罪に縛られていたのが、今は神の義を信じて義を得ているなら、感謝し、神の義への揺るがぬ信仰をもっていなければなりません。神の愛は、神の義を信じる者だけが知ることができます。それは、世の罪全部から人間を救ったのは神の義だけだからです。ここで、使徒パウロの用いた語について考えてみましょう。
 
 
人間の弱さ
 
人間は生まれつき悪を行う者の子孫なのだと言われています(イザヤ1:4; マルコ 7:21-22)。誰もが本質的に罪人として、何らの義ももたずに生まれます。これは、すべての罪からの救いは絶対に、本人の義によるものではないということです。つまり、人間はみな生まれたその日から死ぬまで罪を犯し続ける体をもっているのです。ですから、聖徒が罪から救われているのは、すべてこれ神の義を信じたからなのです。罪から救われるには、その人自身の義は何ら必要ありません。言葉を換えて言えば、人間の義は何の役割も果たしてはいないのです。
「不敬虔」というのは、神に激しく敵対しているという意味です。人間の義は神の義に敵対します。人間は神の御前で自分の罪が明らかになることを恐れており、また、罪を裁かれる神を嫌います。神はそっちのけで、何でも望むことをしようとします。そして、自分なりの義を立てようと努力します。そうした人が神の義の方を向けないのは、そのためです。罪の問題を解決し、贖ってくださった神の義の力を受け入れません。自分の罪深い行いや欲情が問題になるのを望まないからです。神は正しいのです。しかし、人間の義は神の義を認めることを拒みます。それに対して、自分の義が崩れ、自ら罪人と認める者は、神の義の愛を信じて罪から救われるのです。
「罪人」とは、神の定められた目標に達せなかった人を言います。人間は神の義を信じませんから、罪と絶望の中に生きています。「敵」とは、神の義を成す水と御霊の福音を信じないで、敵対する者をいいます。それでも、神はその義により、みなを罪からお救いくださっています。
 
 
遠い昔に完了した罪の赦し
 
<ローマ 5:19>ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
イエス・キリストが十字架上で血を流されたのは、神の義の総体に終止符を打ったのです。これは神の義の終結でした。神の義とは、イエス・キリストが人類をお救いになるためにこの世に来られるという約束だけではなく、実際に約束どおりに来られ、バプテスマを受けられて世の罪を負われ、十字架につけられて血を流されたことを指します。イエス・キリストは人類の罪を消すためにこの世に来られ、神の義を成就なさるためにバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられました。十字架上で血を流され、死者の中からよみがえられ、そうして、神の義を信じる者みなを罪全部から救われました。
聖書は、十字架の血が神の義を完了させたとしています。イエスの受けられたバプテスマの意味を知らない人たちがいます。そうした人は、イエスの血さえ信じれば義認されると言います。しかしながら、イエスが罪の罰を受けられるためには、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けられ、それによって世の罪を受け取るという過程が不可欠だったのです。そうしてはじめて、その身に世の罪を負われたのです。
聖書では、木の十字架は呪いの象徴とされています(申命記 21:23; ガラテヤ 3:13)。主が呪われた十字架につけられて血を流されたのは、ヨルダン川でヨハネから受けられた、神の義を満たすバプテスマがあったからなのだということを知り、信じていなければなりません。主がこの世に来られ、神の義を満たすためになさったことを信じて、つまり、イエスがバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられ、呪われた十字架につけられて人間の罪の罰をすべて受けられたことを信じて、はじめてすべての罪から救われるのです。
結果には必ず原因があります。神が初めに天と地を創られ、人間を造ろうと決められたので、私たちは存在するのです。そのように、物事には原因と結果があるのです。人間を罪から救うために主がこの世に来られ、それからバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられたのは、バプテスマをお受けになる必要があったためであり、そのバプテスマがあったから十字架につけられ、血を流されたのです。イエスがバプテスマのヨハネから受けられ、神の義を成就したバプテスマの意味を知らない人がまだ大勢いるのは、まことに腹立たしいことです。そうした人はいまだに十字架の血だけが神の義なのだという誤りを信じています。神の義のことは何も知らずに、ただ自分なりの義を立てようとしています。
聖書には「文字は殺し、御霊は生かす」(コリント II 3:6) とあります。ここで「文字」とは、神のみことばを文字通りに解釈し、信じることをいいます。神の義の内でみことばを信じなければなりません。文字通りに信じたのでは、誤解が生じます。神の義を誤解して信仰していたのでは、罪の赦しを受けられません。聖書の霊的意味は文字自体に隠されているのではありません。神の義の内にある水と御霊の真理に隠されているのです。ですから、神の義を信じなければなりません。神の義が何であるかを明瞭に知り、それに沿って信じて、はじめて罪の赦しを受けられるのです。神が「文字は殺し、御霊は生かす」(コリントII 3:6) とおっしゃったのは、そのためです。
みなさんは神の語られた義をご存じですか。イエスがバプテスマのヨハネからお受けになったバプテスマの意味を深く理解したうえで十字架を理解しておられますか。イエスがこの世に来られ、バプテスマのヨハネから受けられたバプテスマの意味を明確に理解し、そのうえで十字架を信じてはじめて、すべての罪から救われます。
 
<ローマ 5:10-11>もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。
「敵であった私たち」というのは、人間が罪のために神の敵であった時のことです。聖書は、人間が敵になったのは罪を犯したためだけではなく、アダムの子孫として、生まれながらに罪人であったためだとしています。詩篇 51:5 でダビデが「私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました」と言っているのは、そのためです。人間はアダムの子孫として生まれてくるため、神の敵になっているのです。しかしながら、主がこの世に来られ、バプテスマを受けられ、死なれ、死者の中からよみがえられて父なる神との和解をさせてくださったので、私たちは神の義を信じて、再び神との平和を得ることができたのです。主は神の義により、すべての罪からお救いくださいました。
このように、神の義はイエスのバプテスマと死により成就し、私たちは、その神の義を信じて神と和解できたのです。神の義とは、主が神の御前で贖いの子羊になられ、この世でバプテスマを受けられ、十字架につけられて死なれたことをいいます。ですから、神の義を信じる者とは、イエスがバプテスマのヨハネから受けられたバプテスマと、十字架上で流された血とを信じて神と和解した者なのです。つまり、本来は神の敵であった者が、今は神の子ども、家族になっているのは、すべて神の義を信じたためなのです。神はご自分の義を信じる者をご覧になって、「あなたはわたしの子です」とおっしゃり、私たちもまた、何のためらいもなく「父なる神」とお呼びするのです。
彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。
これは、主が死者の中からよみがえられたので、私たちの体もまた終わりの日によみがえりを受けるということです。
 
 
キリストとアダム
 
<ローマ人5:12>そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、────それというのも全人類が罪を犯したからです。
使徒パウロが第 12 節以下で述べていることは、どのようにして罪がこの世に存在するようになったかということです。彼はまた、罪の重さと、イエスがどのように膨大な罪を消されたかも説明しています。
ここで「そういうわけで」とは、私たちがこの世に生まれる前、神を知る以前に、イエスがこの世に来られ、バプテスマによって罪を被られ、十字架上で血を流して罪をみな贖われ、そうして完全に罪からお救いくださったことを指しています。パウロが「そういうわけで」と言ったのは、そのためです。罪人はみな、先に説明いたしました神の義を信じて、罪全部から救われることを強調しているのです。
聖書では、一人の人間によって罪が世に入ったとしています。そうして、すべての人が死ぬようになりました。
こうして死が全人類に広がったのと同様に、────それというのも全人類が罪を犯したからです。
先の「ひとりの人」とはアダム、つまり最初の人間です。アダムとイブのせいで全人類に死が広がったのです。誰もが罪を犯すので、人間はみな例外なく死ぬことになります。
人間の本質については二つの説があります。性善説と性悪説です。性善説が人間の生まれつきの性質を善だとしているのに対し、性悪説では、人間の生まれつきの性質は悪だとしています。学者たちは長年、この二つの陣営に分かれて人間の本質について議論してきました。しかし、神は聖書で、一人の人間によって罪がこの世に入ったとおっしゃいました。一組の男女、アダムとイブのせいで罪が入り、その罪のために人間は死ぬようになったのです。
 
<ローマ 5:13>というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。
使徒パウロは義の福音を再度説明するために、神の定められた律法について述べています。神はモーセを通じてイスラエル人に律法をお与えになりました。それ以前、人々の心にはすでに罪がありました。アダムとイブの犯した原罪を受け継いでいたためです。
律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。
神が人類に律法をくださる以前から、罪は人間の心にありました。しかし、人間は罪を罪と認識していませんでした。それが律法を与えられて、はじめて罪を知るようになったのです。ここでは律法と関連づけて罪を説明しています。罪を罪として明らかにするには、律法が必要です。人間は罪を相続して生まれてくるのですから、生涯罪を犯し続けます。これはすべて一人の人間のせいです。つまるところ、人間は罪のために死に至るのです。パウロはここで、その罪を明らかにするものこそが律法なのだと言っています。
ローマ 3:19-20 には、「さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです」とあります。
神はなぜ罪人に律法をお与えになったのでしょう。人間の罪を明らかにするためです。誰もが心に罪をもっています。しかし、律法がなければ誰一人、罪を罪と認識できませんし、自分が悪を行う者の子孫であることを知りません。ですから神は律法をお与えになったのです。
たとえば、人が何か善行をしたとしましょう。その人は誇らしく思って、「私ほど立派な生き方をする者はいないだろう」と言います。自分は高潔に生きていると思い、善人と自認しています。しかしながら、そうした人は神の律法を知らないから、そう思うのです。律法を知っていたなら、自分は高潔に生きていると、自信をもって神に言える者は一人もいません。
律法は六百十三の戒めに分けられますが、その要旨は十にまとめられます。十戒がそれです。十戒は、神との関係において、また人間の間で、守るべき規則を定めたものです。律法の要点である十戒に照らして個々の生き方を見るなら、誰一人罪なしとはいえないのです。それは、人間には律法の戒めのたった一つでも守ることができないからです。
「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」という第一の戒めから破ります。人間は自分の生を神より愛します。お金、名声、力を神よりも愛します。必要に応じて多くの偶像をもちます。ですから、神以外に多くの神をもつのです。別の人間を神として崇める人が大勢います。その一方では木や岩といった被造物を崇める人もいます。そうした人はみな罪を犯しているのです。「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」という、神のくださった戒めの前に立つ時、自分たちが神の御前でこの戒めに背いたことを認めざるを得ません。
律法がなかった時には、人々は罪を罪と思いませんでした。アブラハムはみことばを信じたので、義人と認められました。しかし、その子孫はエジプト脱出の後、荒野で暮らしていた時に偶像崇拝をしながら、自分たちが神に対して罪を犯しているのだとは知りませんでした。イスラエルの民はシナイ山でモーセを通じて律法を与えられる前、罪について知りませんでした。神以外の神をもってはならないという律法を与えられてはじめて、偶像崇拝が罪であることを知ったのです。
神はイスラエルの民と全人類に律法をお与えになり、そのすぐ後で、いけにえの制度をもお与えになりました。神の定められたいけにえの制度は、律法によって罪を認識した時にはいつでも傷のない犠牲の子羊を幕屋に連れて行き、頭に両手を置いて罪を移し、喉を切って血を採るようにとイスラエルの民に命じていました。血を祭司に渡すと、祭司は血を全焼のいけにえの祭壇の角につけ、残りは地面に注ぎました。このように、イスラエルの民は律法によって罪を知ったので、神の定められたいけにえの制度によって罪の赦しを受けたのです。つまり、律法が咎を指摘したからこそ、罪を認識したのです。
使徒パウロが、ユダヤ人と世の人々は律法が存在する前には罪を罪と思っていなかったと言ったのは、そのためです。ですから、水と御霊の福音について話す前に、まず律法のことを述べなければならなかったのです。使徒パウロが律法といけにえの制度と関連づけて神の義について説いたのは、罪と神による罪の赦しとを知らせるためだったのです。
 
<ローマ 5:14>ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。
パウロがここで「ところが」と言っているのは、一人の人によって罪がこの世に入り、罪のために死が存在するようになって以来、アダムのために罪人となった人間みなを主がお救いになったことを強調するためです。使徒パウロは信仰のない者に福音を説いていますが、人間が生まれつきもつ罪と対照させて、改めて神の義の福音を説明しています。
ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。
使徒パウロは人類の祖先アダムから説き起こして、イエスの来られたわけを説明しました。つまり、人間がみなアダムから罪を受け継ぎ、そのために生涯罪を犯し、死に、呪われるようになったときに、救い主が来られたというのです。パウロはここで、アダムはやがて来る救い主のひな型であるとしています。また、イエスがどのようにして人間の罪をみな消されたかを説明しています。つまり、一人の人間のために誰もが罪を犯し、死に、呪われる定めにあったとき、イエスが救い主として来られ、ただ一度で無数の人の罪をみな消されたというのです。つまり、一人の人アダムのせいで人間がみな罪人になったように、一人の人イエス・キリストのおかげで誰もが救われるようになったというのです。
パウロがアダムのことを「きたるべき方のひな型」だと言ったのは、イエス・キリストのことを言っているのです。
一人の人によって罪が世界に入り、罪とともに死が世界に入ったのです。
これは、一人の人アダムによって全人類に罪が入ったけれど、イエス・キリストの成就した神の義を信じれば、罪から救われるということなのです。
 
 
ひとりの人イエス・キリストによって 
 
<ローマ 5:15>ただし、恵みには違反のばあいと違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。
使徒パウロは続けて、どのように罪が世に入り、その罪が神の義によってどのように贖われたかを説明しています。ここで「賜物」とは、イエスのくださった救済の賜物を指します。つまり、神の義が水と御霊により罪をみな消し去って、完全に救ってくれたというのです。
ただし、恵みには違反の場合とは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。
全人類はアダムの子孫ですから、この世にはアダムの血を引いていない者は一人もいません。アダムの咎のために、罪がアダムの子孫全員に広まります。そうして、人間はみな罪人として生まれるのです。つまり、誰もが罪を犯し続けます。そのため誰もが死に至ります。罪がみな一人の人アダムから来ているように、罪からの救いもまた、一人の救い主から来るのです。イエス・キリストのくださった救済の恵みにより、今、この世のすべての人に罪からの救済が与えられています。また、神の救済の愛も、すべての人に与えられます。
人間は分派を作りたがります。人種、国、民族、文化等で別れ、好きなように法を定めています。しかしながら、神なしでは誰一人生まれません。神が人間を造られたから、人間はこの世に生まれてくるのです。ですから、国や人種、法を異にしていても、私たちはみな神の御前ではアダムの子孫です。そこで、神の律法もみことばも、すべての人に等しく適用されます。一人の人のために人間はみな罪人として生まれ、罪を犯し続け、罪に溺れています。これは、この瞬間にもいたる所で続いているのです。
神はアダムとイブを造られ、彼らから子孫を作ろうとご計画になりました。しかしながら、二人がサタンに欺かれて善と悪との知識の木の実を食べ、堕落した結果、全人類に世の罪が入ったのです。アダムとイブは、こうして罪が世に入った後で子どもを作りました。では、その子どもたちはどうだったのでしょうか。子どもたちもまた親の罪をそっくり受け継いで、罪人として生まれました。アダムとイブの子孫はみな、心に十二種の罪をもっていましたから、他人から罪を犯すことを教わらなくとも、自然に罪を犯すものなのです。殺人、姦淫、好色、嫉妬、盗みといった十二種の罪は子供たちに受け継がれました。そこで、そうした罪が自然に心から生じるのですから、人間は今日も明日も、一年十二ヶ月、何度も繰り返し罪を犯し続けます。
リンゴの木は、たとえ望まなくとも、りんごの実を結びます。桃の木は、どんなに別の実を結びたいと思ったところで、桃の実しか結べません。人間もまた、そもそも罪をもって生まれているのですから、どんなに罪を犯すまいと思い、努力しても、罪を犯し続けることを免れません。誰でも考えや行い、思いにおいて罪を犯し続けます。状況が許せば、頭の中にだけあった罪を実行に移します。それも、十二種の罪を一度で全部犯しさえするのです。
世俗の法は行いによって犯した罪だけを罰します。しかしながら、神の律法では心の中で犯した違反さえも罪であり、罰の対象になります。ですから、人間が罪と意識していないものをも、神は確かに罪だとなさっているのです。人間が心の中で犯す違反もまた、神の目からすると罪とされます。これは神の定められた律法です。一人の人から罪が入り、その罪から死が入ったというみことばは真実です。ですから、悪を行う者の子孫である人間が罪を犯さずに聖く生きられるというのは嘘です。これは白く塗られた墓、つまり、アダムという一人の人間のために人間がみな罪深いものになっているということを隠そうとする偽りに過ぎません。
もちろん、私は意図的に罪を犯せと申しているわけではありません。そうではなくて、私が申したいのは、人間は意図的に、そうしようとして罪を犯しているのではなく、生まれつき罪の種であるために、罪を犯さずにはいられないということなのです。罪を犯すか犯さないかは教育レベルや人格には関わりがありません。誰もが、種々の状況でさまざまな罪を繰り返し犯す罪人なのです。
では、罪人でしかいられない人間が、どうしたら神の罪のない子どもになれるのでしょう。パウロは、一人の人間によって罪がこの世に入ったのと同じように、一人の人間によって、すべての人間が、神の義を信じて救済の賜物を受け、すべての罪を贖われると答えています。
 
 
罪よりも偉大な神の義
 
<ローマ 5:16>また、賜物には、罪を犯したひとりによる場合と違った点があります。さばきの場合は、一つの違反のために罪に定められたのですが、恵みの場合は、多くの違反が義と認められるからです。
パウロは罪の救いと比較しながら、神の義についての説明を続けています。「賜物」というのは神のくださった救いのことで、この賜物は「罪を犯したひとりによる場合と違った点があ」ります。つまり、神からの賜物は基本的にアダムのくれたものとは違うというのです。一人の人のせいで人間はみな罪人として生まれ、死ぬまで罪を犯します。しかし、「恵みの場合は、多くの違反が義と認められる」のです。つまり、人間をすべての罪から救った神の恵みは、信者を完全に義としました。神の義は、人類の犯した罪全部よりも大きいからです。
アダムの子孫は祖先アダムのせいで、いまだに罪を犯し続けています。ひとたび生まれたなら、三十代、四十代になっても、さらには死ぬ時まで、いつまでも罪を犯し続けます。人間は現在形で罪を犯し続けます。世界が正確にいつ終わるかはわかりませんが、人間はこの世の終わる日まで罪を犯し続けるでしょう。しかしながら、神の救済のおかげで、長く人間を苦しめてきた罪はみな贖われ、信仰によって義とされるようになっています。罪が増し加わるところには、それ以上に救いの賜物が与えられると神がおっしゃったのは、そのためです。神の救済の賜物は神の義の中にあることがここからよくわかります。
 
 
ひとりの義の行為
 
<ローマ 5:17>もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。
使徒パウロはさらに、一人の人の罪によって死がこの世に入り、この一人の人によって死が支配するようになったと説明しています。死が支配したのは、誰もが罪を犯したからです。
こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。
使徒パウロは、私たちがまだ犯していない罪までも対象にしています。それは、人間が一人の人アダムのために、死ぬまで罪を犯すことを免れない存在になっていたからです。この世にかつて生まれた者がそうであったように、やがて生まれる者もまた、死ぬまで罪を犯すことを免れませんから、人間は世の終わり、歴史の終わりまで罪を犯し続けます。しかしながら、それでも神の賜物は、それらの罪を全部合わせたよりも豊かなのです。
 
<ローマ 5:18>こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。
イエスはこの世に来られ、すべての人間がこの惑星の終わりまでに犯す罪をみな、一度で消されました。墨より黒く、緋よりも赤い罪をみな取り除くために、バプテスマを受けられ、磔刑を受けられ、そうして、すべての罪からただ一度で完全にお救いくださいました。ですから、アダムという一人の人間のために罪が世に入ったのですが、イエスのもたらされた救済の力は、それよりもはるかに大きかったのです。それは罪をみな消し去って余りありました。
イエスを信じる人が「主よ、私は罪を犯しました。お赦しください」と言うとき、その人は実際には神の義を知らず、自分なりの義を立てているのです。主はみなさんと私が犯した罪、生まれた時から死ぬまでに犯す罪、また、子孫が将来犯す罪をも、みな贖ってくださいました。つまり、世の始まりから終わりまで、すべての人間の罪を全部贖われたのです。
「世」とは、最初の男女、アダムとイブの時代から、イエスと弟子たちが生きてこの世にあった時代、そして、現在、さらに未来をも意味します。神は始めであり、終わりです。神は人間の現在の罪だけではなく、将来犯されるであろう世の罪をもすべて取り除かれました。人間はみな絶えず罪を犯すものですから、イエスはこの世に来られ、バプテスマを受けられ、世の罪をただ一度で被られ、それを十字架まで運ばれ、磔刑に処され、すべての罪・死・裁きからお救いくださったのです。イエスの恵みには、それほどに偉大な驚くべき力があるのです。
イエスはすべての人、つまり、過去に生きた人、現在生きている人、これから先、罪をもって生まれ、罪を犯し続ける人々みなの罪をすべて被られました。主は一度十字架につけられて死なれ、死者の中からよみがえられ、そうして、ただ一度で人類を完全に救われたのです。神の義の賜物がまことに偉大で豊かであり、人間がみな深く感謝しなければならないのは、そのためです。
しかしながら、この救済の恵みを知らない人は、まだ義認説や漸進的聖化説を唱えているのです。そうした人は、「ひとりの義の行為により」というのは、「人間は毎日罪を犯すのだから、まだ罪人であるのに、神は罪のない者と見なしてくださる」という意味だと解釈するのです。こうした解釈やそれに伴う考えが義認説を成すのです。神の義についての無知や不信から生じた、このような主張は神への反逆です。
しかしながら、主がこの世に来られたときに神の義を満たされたと信じる者もいます。神はそうした信者を恵みにより、子どもになさいます。神は、罪のある者を罪なしとは見なされません。実際に罪のない者となさったうえで、ほんとうに子どもになさるのです。
 
 
主の従順により
 
<ローマ 5:19>すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。
第 19 節には、「ひとりの従順によって多くの人が義人とされる」とあります。パウロはここでも対照を用いています。ここで、桃の木が人間のようなものだったとします。リンゴの木のほうがずっと人々の役に立つと思った桃の木は、これからはリンゴの実をつけようと決めます。しかし、桃の木がほんとうにリンゴの実をつけられるでしょうか。いいえ、不可能です。桃の木は桃の木でしかありません。リンゴの木にはなれません。リンゴではなく、桃の実しか結べません。この世界の終わりまで、桃の木は自分と同じ桃しか生み出せないのです。
それと同じように、一人の不従順のために大勢が神の御前で罪人になりました。そして、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。神であられるイエスが人間としてこの世に来られ、三十歳でバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられ、神の義をすべて満たされました。つまり、罪をみな被られたのです。
ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。
神はすべての人を義人になさったので、人は信仰によって義人になるのです。神の義は、イエス・キリストがこの世に来られ、罪をみな取り除かれたと告げています。これは一人が全員を代表する代表原則を意味します。一人の人アダムのために全人類が自動的に罪人になり、呪われて地獄に投げ込まれる定めにありました。一人の人イエスのおかげで、私たちは今、神の子どもになっています。イエスがこの世に来られ、三十歳の時にバプテスマを受けられて人類の罪をみな受け取られ、それを十字架まで運ばれ、磔刑に処され、「完了した」と告げられたからです。神の子どもには、イエスが三日後に死者の中からよみがえられたように、自分たちもまたよみがえりを受け、神の傍らにおられる主とともに千年王国と天国で永遠に生きるという希望があります。こうしたことはみな、この世の罪をみな消した一人の義の行為によって起こるのです。
あまりに多くの人が、このことを知らないままローマ書に関して記述しています。その結果、様々な説、自分なりの考えを生み出し、本が分厚くなるばかりです。そうした著者たちは、義認説(キリスト教徒が心に罪をもっていても、神は罪のないものと見なしてくださるという説)や漸進的聖化説(罪を隠そうとするもの)を唱え、人間の義だけを立てているのです。これらは神の「いのちの律法」にはまるで関わりのないものであり、世の無数の人々を神の義に敵対させています。
しかし、聖書は、イエスがヨルダン川で人類の始めから終わりまでの罪全部を実際に被られ、三年後に磔刑に処され、ただ一度ですべての罪からお救いくださったとしているのです。主は死者の中からよみがえられ、永遠のいのちをくださいました。これが聖書の証している真理です。これが真実だというのに、大勢の人が、いまだにまったく知らずにいるのです。
「水と御霊の福音しか知らないのですか」と言って、私たちに敵対する人がいます。しかし、世に数多い牧師の中で、何人がほんとうにこの福音を説いているでしょう。たいていは、「イエスを信じれば天国に行きます。イエスを信じるのは良いことです。イエスを信じ、高潔な生き方をしなさい」と言うだけです。彼らがいわゆる福音を説いて言えることは、これだけです。しかしながら、それは福音ではありません。イエスが一人一人をどのようにして救ってくださったかについて、聖書に則って詳しく教えを受けてはじめて、人は正しい信仰をもてるのです。それなのに、「イエスが救いです。信じなさい。さもなければ地獄行きです」と叫んだなら、人々を怖がらせるだけではありませんか。
善行をしたから義人になり、悪いことをしたから罪人になるのではありません。キリスト教徒が、みことばとはまったく関わりなく、自分の努力で罪を消して聖くなろうとするのは間違いです。自分の行いで聖くなりさえすれば神の御国に入れるのでしょうか。それとも、主がどのようにして世の罪をただ一度で消されたかを知り、心で信じて義人になり、天国に入れるのでしょうか。神の義を信じて義人になれるのです。
しかしながら、ローマ第 10 章は、神の義を知らないユダヤ人が自分なりの義を立てようとして逆らったとしています。ユダヤ人は今もなおイエス・キリストを認めず、高潔に生きる努力をしながら、やがて来る救世主を待っています。自分なりに敬虔で聖くあろうとし、遠い昔に廃止された制度なのに、雄牛や小羊を殺していけにえとしています。彼らは今日でも保守とリベラルに分かれています。一方は律法を文字通りに守ることを信条とし、他方は祝祭や世の神秘的な美しさに魅かれています。また、神の存在さえ否定するユダヤ人もいます。
神の実在を信じているユダヤ人でも、神の真実を信じるのではなく、自分の義を守り、ひけらかそうとします。そこで、今日に至っても黒い服を着、黒い帽子を被り、髭をのばしています。律法が髭をそることを禁じているからです。いまだに徹底的に律法に従おうとして、紙片に聖書の文句を書き、読むために腕につけたり、「主への聖なるもの」と書いたプレートを額につけたりしているのです。しかしながら、二千年以上も前にこの世に来られ、バプテスマによって人類の罪をみな被られ、十字架上で死なれたイエスが救い主になられた神の小羊であるということは、認めようとしません。
そうした人々だけではなく、今日のキリスト教徒でさえ、「イエスを信じる者は誰でも救われます」とか、「教会に来て信者になったのですから、あなたは選ばれた民です」などという、くだらないことを言うのです。みなさん、イエス・キリストを信じてその内に救われようとする者を主は救われます。主は、やみくもにご自分の名を呼ぶ者を救うとはおっしゃいませんでした。正しい信仰をもつには、聖書全体をよく知り、その核心となるメッセージを理解しなければなりません。使徒パウロはそのメッセージを伝えるために、繰り返しみことばを説明しています。そうしなければ、聞き手が、理解するべきみことばの意味を把握できないことがよくあるからです。数多くの教会でイエスについての教えが説かれているにもかかわらず、総体的に世界中でキリスト教が衰退しているのは、そのためです。
「バプテスマ」とは、「埋葬される」、「渡される」「移される」「洗われる」という意味です。みなさん、イエスはなぜ十字架につけられたのでしょう。バプテスマのヨハネからバプテスマを受けておられたからです。しかし、キリスト教徒がイエスの磔刑について考える時、どれだけ苦しまれたことだろうか、としか考えません。誰のために、なぜ死なれたかということさえ知りません。ただ、自分が罰されたのであったら、どれほど苦しい思いをしただろうかと考え、「主よ、たいへんなお苦しみだったでしょうね」と言うのです。主は人間の罪を被っておられたので、人間を聖くするために死なれたのです。自分の感情が何らかの意味で信仰を反映しているという考え方は捨てなければなりません。地獄に行く定めにある自分や他のすべての魂を思って涙を流すべきなのです。
真実を知り、正確な知識をもってはじめて、福音を正しく宣べ広めることができます。イエスは人類の罪を被られたので、十字架上で死なれたのです。主がこの世に来られたとき、バプテスマによって人類の罪を被ることなく、ただ死なれたのではありません。主は、「あなたたちのために十字架上で死にましょう。十字架を見て、いつでも罪を悔いなさい」とはおっしゃいませんでした。イエスが三十歳の時にそのみわざの最初になさったことは、ヨルダン川に行かれ、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けられることでした。四福音書は、まずヨルダン川、バプテスマのヨハネ、そしてイエスがヨハネからバプテスマを受けられたことを語っています。イエスは二十九年、間私人として生きられました。それが三十歳になられると、人類を罪から救う働きを始められます。その最初になさったのが、バプテスマを受けられることでした。
イエスがバプテスマを受けられ、人類の罪を負われた後、バプテスマのヨハネはあかしして言いました。「見よ。世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネ 1:29)
つまり、イエスはヨルダン川でバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになったときに、世の罪を受け取られたのです。「バプテスマ」とは、「洗われる」、「水に沈められる」、「埋葬される」、「渡す」という意味です。聖書に基づいた正しいバプテスマとは、洗礼を授ける者と受洗者が水に腰まで浸かり、授ける物が受洗者の頭に両手を置いて「父と子と聖霊の御名においてバプテスマを授けます」と言うものです。
義人にはイエスへの信仰のあかしがあります。つまり、イエスがバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられた時に自分のものを含めた世の罪がみな移され、イエスは十字架につけられ、お救いくださったと信じているのです。
イエスはこの世に来られ、ヨルダン川でバプテスマをお受けになって人類の罪を受け取られたため、十字架上で死なれることがおできだったのです。イエスが世の罪を被っておられなければ、罪がないというのに、どうして十字架上で罰をお受けになることができたでしょう。聖書には、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」(ガラテヤ 3:13)とあります。では、罪のないイエスが、どうして十字架につけられたのでしょう。
キリスト教徒の多くは、あまりに宗教的にイエスを信じています。仏教徒が仏陀の石像を拝んだり、お寺に寄進したりして、自分はよい信者だと思うように、多くのキリスト教徒は、献金し、礼拝に欠かさず出席しさえすればよいのだと思っています。「私はイエスを信じている。十字架の血を信じている。主の尊い血を飲んだ。」
しかし、神の義を信じて、はじめて主の尊い血を飲むことができるのです。つまり、イエスの血とバプテスマを信じて偉大な救済を飲むのです。私たちは、イエスが身代わりとなって十字架上で死なれたのは、バプテスマによって一瞬で罪がみな移され、主はそれを受け取られた、まさにそのためだったのだと信じています。主が十字架上で死なれたのは、負われた罪の罰だったのであり、バプテスマを受けられた時に罪を洗い流されたと信じて主の救済の恵みを受けるのです。
信仰は世俗的な恵みだけを求めるものではありませんから、私たちは現実を客観的に見なければなりません。牧師は聖書を開き、選んだ部分について説教をしなければなりません。しかしながら、聖書を開いても、見当はずれのことばかり話す牧師があまりに多いのです。会衆は聖書から霊的ことを学び、理解し、信じなければなりません。それなのに、形式的な行い重視の信仰しか教わりません。
すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。
「ひとりの人」イエスが従順にこの世に来られ、バプテスマによって罪を負われたから、罪がみな洗い流されたのです。イエスは人間の罪を受け取られたから、身代わりとして十字架上で死なれなければならなかったのです。イエス・キリストの死が私たちの死であるのはなぜか、なぜイエスは貫かれ、虐待され、打たれたのか────その理由は、バプテスマを受けられた時に、すでに世の罪を負っておられたからです。イエスはピラトの宮廷で苦しみを受けられましたが、死の時まで口をつぐんでおられました。
主は、バプテスマで人類の罪をみな被っておられたため、どうしても罰を受けなければならないことをご存じでした。それが御父のみこころだったので、イエスは毛刈り人の前の子羊のようにおとなしかったのです。イエスは死なれる直前に「完了した」とおっしゃいました。これは人類救済のみわざ完了を告げられたのです。それから三日後に死者の中からよみがえられ、四十日間あかしなさり、それから昇天なさいました。神の義を成就なさったイエス・キリストを救い主と信じるなら、どんなに欠点だらけの人間であろうと、主は義人にしてくださいます。イエス・キリストはどんな罪も残さず取り除かれました。すべてを負われました。
 
 
一人の人によってすべての人が罪人になり、一人の人イエス・キリストによって、世の罪がみな消えた
 
<ローマ 5:20>律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。
パウロはここで、律法が入ってきたのは、違反が増し加わるためだと述べています。人間はアダムの子孫として、基本的に罪をもって生まれ、常に罪を犯しています。しかし、罪を犯しても、それを罪と知りませんでした。つまり、律法がなかったので、自身の罪に気づかなかったのです。しかし、ひとたび神の戒めの律法が来ると、罪を罪と認識しました。律法によって、それまでそうと知らなかった罪を知ったため、その結果として、ますます罪が増えたのです。人間は生まれながらに多くの罪を犯します。しかし、いったんそれに気付くと、罪はますます増えたのです。ですから、聖書には「律法が入ってきたのは、違反が増し加わるため」とあるのです。
続いて「しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました」とあるのは、人間は神の戒めによって罪を知り、神の義を信じて神の息子や娘になるという意味です。律法によって「私はこんなに欠点だらけだ。私はほんとうに罪深い」と知ってはじめて、神の義を成す完全な福音が神の恵みそのものだということを知るのです。自分の罪をよく知る者だけが、地獄に行く定めにあることを認識します。そしてまた、イエスのバプテスマと十字架上の血とが救ってくれたことを知り、感謝の念をもって信じるのです。つまり、律法によって罪を知り、さらによく知る者は、神の義の福音によって、罪よりもはるかに大きな救済の恵みを認めることができるのです。
 
<ローマ 5:21>それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。
罪が死によって支配したように、神の知恵により、神の義が人間を罪から完全に救ったため、神の子どもになった私たちは今、王の子どもになるというのです。恵みのうちに支配させると神がおっしゃったのは、そのためです。ですから、イエス・キリストのバプテスマと血とを信じて罪をみな贖われ、永遠のいのちを受けたのです。
みなさんがこの世に誕生なさる以前、イエスがこの世に来られる前、アダムがいました。アダムは神の創られた最初の人間で、全世界のすべての人間の祖先です。彼は神から禁じられたことをし、罪を犯しました。そうして、彼のために、その子孫である私たちに罪が受け継がれてきたのです。
そこで、アダムの子孫として罪をもって生まれた人間をお救いになるために、神はひとり子をこの世に遣わされました。その御子こそが、ほかならぬイエスです。イエスは父なる神に従われました。父なる神のご命令に従ってバプテスマを受けられ、人間の罪をみな負われました。世の罪を被られて十字架まで行かれ、十字架上で死なれ、死者の中からよみがえられて、人類の救い主となられました。
父なる神に従われたイエス・キリストが世の罪をすべて贖われたと信じておられますか? 信じる者はみな救われますが、信じないで悔い改めの祈りや儀式、敬虔であろうとする試み、自身の美徳などによって義人になろうとする者は、みな地獄に行くことになります。
漸進的聖化説と義認説は、神のみことばを知らない人間が作り出した愚かな説です。ああしたものは、みことばを正しく解釈できない無能な学者が作り出した、たわごとでしかないと見るべきです。神の真理は明瞭です。
私たちは、一人の人イエス・キリストが受肉してこの世に来られ、すべての罪から救ってくださったと信じて、世の罪から救われています。これを信じる者はみな救われています。これを信じておられますか。
神の義を信じるのなら、その人は間違いなく罪から救われています。多くの偽預言者が説いている、「忠実に悔い改めの祈りをささげ、この世で高潔に生きるなら徐々に聖くなる」という説は、「イエスがこの世に来られなくても、救われる」と言うのに等しいものです。イエス・キリストだけが救済の門なのですから、人間の努力と善行が救済の助けになるという漸進的聖化説は、まったく真理に反しています。
主は、人間には律法のごくわずかでも守れはしないとおっしゃいます。もしわずかでも律法に違反すれば、すべて破ったのと同じことです。ですから、自分は神の律法を守れると言っている人は、まったく自分を知らないのです。そして、自分なりの義のために、ついには神の義に敵対してしまいます。神の定められた義を人間の考えや理屈に基づいて理解しようとしてはいけません。神は、その義によって人間をすべての罪から完全にお救いくださり、人間がそれを信じて子どもになるのを待っておられます。みなさん、どうか、イエスのバプテスマと十字架上の血とを心から信じ、神のくださる豊かな恵みを受けてください。
神は全能で慈悲深いお方ですから、その義によって完全にお救いくださいました。主はすべての罪から完全にお救いくださいました。神に深く感謝いたします。