The New Life Mission

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水と御霊の福音とは

使徒パウロは、次のように述べました。「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと。」 「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれた」という節にある「聖書」という言葉は、何を意味するのでしょうか。それは、旧約聖書を意味します。使徒パウロは、イエスが旧約聖書の契約と黙示によって、私たちの罪のために死なれたと述べました。イエスは、どのように私たちのすべての罪を贖われたのでしょう。正義のみわざ――イエスのバプテスマと十字架での死――を通して、贖いをなさったのです。

初代教会の時代に、二世紀の終わりまでクリスマスがありませんでした。初代のキリスト教徒は、使徒たちとともに1月6日を「イエスのバプテスマの日」としてのみ記念し、それが唯一の初代教会の記念でした。

使徒たちは、なぜイエスのバプテスマに大きな重点を置いたのでしょうか。それは、使徒たちがイエスから受け、世に宣べ伝えられた水と御霊の真の福音の秘密なのです。イエスは、次のようにおっしゃいました。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません」(ヨハネ 3:5)。聖書によると、イエスは私たちをすべての罪からお救いくださるために水と血とによって来られたと書かれています(Ⅰヨハネ 5:6)。血は十字架を意味し、水の意味は何でしょう。

信者の水のバプテスマとイエスのバプテスマとを混同されないように願っています。イエスのバプテスマの意味に十分注意してください。現在、私たちは信者の水のバプテスマまたは洗礼による再生の教義に焦点を合わせていません。)

なぜイエスはバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになったのでしょうか。なぜイエスは、ご自分のバプテスマを「すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしい」とあかしされたのでしょうか(マタイ 3:15)。

ヘブル人への手紙 10:1 には、次のようにあります。「律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから。」 旧約聖書の時代に救済のために、神がご自分の民にお与えになった代表的ないけにえを見てみましょう。誰でも罪を犯して罪の意識があったなら、罪人は罪の贖いをするために罪のためのいけにえをささげなければなりませんでした。レビ記 1:3-5を見てみましょう。「もしそのささげ物が、牛の全焼のいけにえであれば、傷のない雄牛をささげなければならない。それを、主に受け入れられるために会見の天幕の入口の所に連れて来なければならない。その人は、全焼のいけにえの頭の上に手を置く。それが彼を贖うため、彼の代わりに受け入れられるためである。その人は主の前で、その若い牛をほふり、祭司であるアロンの子らは、その血を持って行って、会見の天幕の入口にある祭壇の回りに、その血を注ぎかけなさい。」 ここで、罪のためのいけにえが神の前で正しくあるためには、以下の三つの条件を満たす必要があったことがわかります。

  • (1)傷のない、いけにえの動物を準備しなければならなかった(3節)
  • (2)全焼のいけにえの頭の上に両手を置かなければならなかった(4節)
  • (3)罪を贖うためにいけにえを(血を流して)殺さなければならなかった(5節)

上記のこうした聖句では、いけにえの動物が殺される前に、按手をすることによって、罪がいけにえの動物の頭に移されたという神の律法を確認しなければなりません。それは非常に重要な真理です。次のレビ記の章では、罪の赦しのために「罪のためのいけにえの頭の上に手を置く」といった表現を非常に多く見つけることができます。レビ記16:21によると、「アロンは生きているやぎの頭に両手を置き、イスラエル人のすべての咎と、すべてのそむきを、どんな罪であっても、これを全部それの上に告白し、これらをそのやぎの頭の上に置き、係りの者の手でこれを荒野に放つ」と書かれています。

大祭司アロンがやぎの頭に両手を置いたとき、イスラエル人の罪はすべて、やぎの頭に移されました。罪人がいけにえの頭の上に両手を置いたとき、罪人の罪はいけにえの頭の上に移されました。同様に、人が祭司職に任命されると、伝道師は祭司職を経るために人の頭の上に両手を置きます。したがって、「按手」とは、罪をいけにえに渡すという行為でした。それは「移す」という意味です。

それから、「肉のいのちは血の中にある。…いのちとして贖いをするのは血である」(レビ記 17:11)ので、動物は血を流して殺されなければなりませんでした。

しかしながら、イスラエル人が罪を犯す度に罪のためのいけにえをささげても、死ぬまで毎日罪を犯さずにはいられなかったので、すべての罪を贖われるには、あまりに弱かったのです。ですから、神はイスラエル人に、年に一度、一年間のすべての罪を赦されるもう一つの機会を開かれたのです。それは贖いの日の儀式でした。贖いの日、アロンは生きているやぎの頭に両手を置き、すべてのイスラエル人の一年間の罪を一度にすべてそこに移しました(レビ記 16:21)。

アロンは当時のイスラエル人の代表でした。なぜなら、彼がすべてのイスラエル人の代わりにやぎの頭に両手を置いたからです。アロン自身が、やぎの頭に両手を置いたとき、イスラエル人のすべての一年の罪(当時は約200万人から300万人)が、アロンのふさわしい行いを通して、やぎの頭に移されました。それは人類にとって永遠の掟でした(レビ記 16:29)。

それは、「後に来るすばらしいものの影」(ヘブル 10:1)でした。さて、神がイエス・キリストを通して、後に来るすばらしいものの影を完成なさいました。イエス・キリストがどのように約束を成就なさったのかを見てみましょう。

最初に、父なる神は、約束された神の小羊として、傷のない人のかたちでイエス・キリストをお遣わしになりました。神のひとり子であり、聖なる神であられます。それで、イエスは傷のないすべての人類のいけにえになるのにふさわしかったのです。

第二に、イエスはヨルダン川でバプテスマのヨハネからバプテスマを授けられました。ここで私たちは、イエスにバプテスマを授けたバプテスマのヨハネが誰であったかを知る必要があります。バプテスマのヨハネは、大祭司アロンの子孫でした。ヨハネの父である祭司ザカリヤは、アロンの孫であるアビヤの血統で生まれたのです(ルカ 1:5, Ⅰ歴代誌 24:10)。ですから、バプテスマのヨハネは大祭司アロンの子孫でした。それは、バプテスマのヨハネが大祭司になる権威を持っていたことを意味します。さらに、イエスはヨハネを全人類の中で最もすぐれた人であることを承認なさいました。「確かに、私はあなたに言います、女性から生まれた人々の中で、バプテスマのヨハネよりも偉大な者は一人もいません。...ヨハネに至るまで、すべての預言者たちと律法とが預言をしたのです」(マタイ 11:11, 13)。それは、ヨハネが地上で最後の大祭司であり、神が約束なさり、準備なさった全人類の正当な代表者であることを意味します。

旧約聖書は、ヨハネを預言しました。「見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす」(マラキ 3:1)。「あなたがたは、わたしのしもべモーセの律法を記憶せよ。それは、ホレブで、イスラエル全体のために、わたしが彼に命じたおきてと定めである。見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ」(マラキ 4:4-6)。イエスは、次のようにおっしゃいました。「あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです」(マタイ 11:14)。

バプテスマのヨハネは来たるべきエリヤでしたが、すべての人をイエス・キリストに立ち返らせ、イエスを受け入れる準備をさせました。ヨハネはイエスの六ヶ月前に生まれました。ヨハネは主の道を整えるために、荒野にいる人々に悔い改めのバプテスマを授けました。ヨハネは人々に救い主イエス・キリストに備えさせるために、人々に旧約聖書の律法といけにえの制度を覚えさせるように導く必要がありました。それで、ヨハネは人々にバプテスマを施し、救い主がやがて来られて、按手の形で世のすべての罪を取り除くことを悟らせました。ヨハネのバプテスマは、罪人を神に立ち返らせることを求めました。非常に多くの人々がヨハネを通して神のみことばを聞き、自分の偶像を捨て、神に立ち返り、罪を告白しました。

それから、イエスはバプテスマのヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにいるヨハネのところに来られました。イエスは、次のようにおっしゃいました。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです」(マタイ 3:15)。ここで、すべての正しいこと(義)とは、ギリシャ語で「dikaiosune」であり、その意味は「公正、正義」です。それは、イエスがすべての罪人をその罪から完全に正しく公正な方法でお救いくださったことを意味します。すべての罪人をその罪から完全に正しく公正な方法で救うために、神が旧約聖書で定められた契約に従い、イエスは神が旧約聖書で定められた契約に従って、「按手」によってすべての罪を取り除かなければなりませんでした。ヨハネからバプテスマを受けることによって、人類の罪をすべて取り除くのは、イエスにとって最も適切な方法でした。イエスは、バプテスマによって世のすべての罪を負われたので、翌日、バプテスマのヨハネは、あかししました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ 1:29)。まさしくヨハネは、両手を置くことによってイエスにバプテスマを授けるために来ました。ヨハネがイエス・キリストの頭に両手を置いた瞬間、世の罪はすべて神の律法に従ってイエスに移されました。

第三に、イエスは私たちの罪の赦しのために十字架につけられました。イエスの最後の息の前に、イエスは「完了した」とおっしゃいました(ヨハネ 19:30)。イエスは私たちの罪の代価のために、ご自分のすべての血を流されました。そして、イエスは三日目に死人の中からよみがえられ、天国に昇天されました。イエスはバプテスマと十字架での血によって完全に世の罪をすべて消し去られたのです。

使徒パウロは、次のように述べました。「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと」(Ⅰコリント 15:3)。さて、みなさんは旧約聖書における罪の赦しのために、いけにえの動物がどのようにささげられたのか、そしてそれがなぜ後に来るすばらしいものの影なのかを理解しておられますか。

いけにえの動物を殺す前に、「手を置く」必要がありました。罪のためのいけにえをささげたときに、「いけにえの上に両手を置くこと」を省略していたなら、その不法のため、罪を赦されなかったでしょう。神はそのような不法のいけにえを受けたことは一度もありませんでした。いけにえの動物の上に両手を置くことを省略して、いけにえをささげることは、神の律法に反していました。

イエスの義の行為によって、すべての罪をきよめられるために、イエスはこの世に来られました(ローマ 5:18)。イエスの正しい行為は、イエスが世の罪を取り除くためにバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになり、罪から来る報酬を支払うために十字架につけられたということでした。イエスは、バプテスマと血によって来られました。しかし、残念なことに、ほとんどのキリスト教徒は、イエスの正しい行為の半分しか知りません。水と御霊の福音の全体を知るべきです。イエスの福音の重要な部分を省略して、イエスを信じることは、不法であり、空虚です。

使徒ヨハネは、ヨハネの手紙第一でイエスの福音の全体を明らかにしました。「このイエス・キリストは、水と血とによって来られた方です。ただ水によってだけでなく、水と血とによって来られたのです」(Ⅰヨハネ 5:6)。

私たちは罪深い性質の人として生まれ、最後の息をするまで罪を犯します。私たちは罪を犯すしかなく、神のさばきから逃れることはできません。私たち全人類は、「罪から来る報酬は死である」ため、地獄に行く定めにあります(ローマ 6:23)。「けれども、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました」(ローマ 5:20)。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ 3:16)。

神の御子イエス・キリストは、神の小羊としてこの世に来られました。ヨルダン川でバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになったとき、イエスは世の罪をすべて取り除かれました。ヨハネは全人類の代表として、イエスの頭に両手を置きましたが、その瞬間に、世のすべての罪がイエスの上に移ったのです。このように、イエスはバプテスマによってすべての罪を負われ、そうした罪を十字架に運ばれました。イエスは、すべての聖なる血を私たちの罪の報いとして流され、世のすべての罪を完全に贖われたのです。

それでイエスは、十字架で最後の息をする前に、大声で「完了した」と叫ばれました。イエスは何を完了なさったのでしょうか。すべての罪とその裁きが、イエスの義の行為によって完了しました。つまり、私たちはイエスのバプテスマと十字架での死によって、すべての罪を赦されたのです。イエス・キリストは、約2,000年前に世のすべての罪を消し去られ、新しい生ける道を設けてくださったのです(ヘブル 10:20)。今が神の恵みの時です。イエスのバプテスマと十字架での死を信じる者は誰でも、すべての罪を赦され、内に宿る聖霊を持つのです(使徒 2:38)。ハレルヤ!

そして、さらに何を言いましょうか。聖書には、私たちの救いのためにイエスのバプテスマを欠かすことのできない義の行為として書かれている節が非常に多くあります(マタイ 3:13-17、Ⅰペテロ 3:21、ヨハネ 6:53-55、エペソ 4:5、ガラテヤ 3:27、使徒 10:37など)。

みなさんは、この真理を信じますか。心に罪がないでしょうか。イエスは、みなさんの誕生から今まで、みなさんのすべての罪を負われたでしょうか。今から2000年前のバプテスマによって、みなさんの最後の呼吸の時まで、みなさんのすべての罪を取り除かれたでしょうか。では、みなさんはイエスのバプテスマと血を信じて、絶対に聖なるものとされているでしょうか。

今日のキリスト教は、水と御霊の福音を取り戻すべきです。水と御霊の福音についてもっと詳しく知りたい方は、ぜひThe New Life Missionにご連絡ください。Paul C. Jong牧師の本、電子ブック、オーディオブックを無料で入手できます。