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คำสอน

主題 8: 聖霊

[8-10] 御霊によって歩みなさい (ガラテヤ 5:16-26, 6:6-18)

御霊によって歩みなさい
(ガラテヤ 5:16-26, 6:6-18)
「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。」
「みことばを教えられる人は、教える人とすべての良いものを分け合いなさい。思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行ないましょう。ご覧のとおり、私は今こんなに大きな字で、自分のこの手であなたがたに書いています。あなたがたに割礼を強制する人たちは、肉において外見を良くしたい人たちです。彼らはただ、キリストの十字架のために迫害を受けたくないだけなのです。なぜなら、割礼を受けた人たちは、自分自身が律法を守っていません。それなのに彼らがあなたがたに割礼を受けさせようとするのは、あなたがたの肉を誇りたいためなのです。しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。どうか、この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。これからは、だれも私を煩わさないようにしてください。私は、この身に、イエスの焼き印を帯びているのですから。どうか、私たちの主イエス・キリストの恵みが、兄弟たちよ、あなたがたの霊とともにありますように。アーメン。」
 
 
御霊によって歩むにはどうすべきか。
美しい福音を宣べ伝え、従うべき
 
使徒パウロは、ガラテヤ人への手紙で聖霊について書きました。ガラテヤ人への手紙 5:13-14 で、使徒パウロは述べました。「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という一語をもって全うされるのです。」
要するに、今日の聖句は、私たちが美しい福音を信じることによって罪から救われ、解放されているので、この自由を肉の欲の働く機会としてはならず、愛を通して互いに仕え、美しい福音に従わなければなりません。神が私たちをすべての罪から救ってくださったように、私たちにとって福音を宣べ伝えるのがふさわしいのです。パウロはまた、述べました。「もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい」 (ガラテヤ 5:15)。
 
 

聖霊に満たされるために御霊によって歩みなさい

 
ガラテヤ人への手紙 5:16 で、パウロは述べました。「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」 そして、22-26節で、パウロは述べました。「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。」 ここで、パウロは、私たちが御霊によって歩むなら、私たちは御霊の実を結ぶと告げています。聖霊は、私たちに御霊によって歩むことを求めておられます。しかし、私たちは肉によって歩んでいます。
私たち人間は、御霊の実を結ぶことができない肉をもって生まれます。たとえ御霊によって歩もうとしても、私たちの性質は変えることができません。そういうわけで、美しい福音を信じて内に宿る聖霊を受けている者だけが、御霊によって歩み、御霊の実を結ぶことができるのです。
聖書が御霊によって歩むように教えるとき、それは他の人々が罪を赦されるように、私たちが美しい福音を宣べ伝えるべきであることを意味します。私たちがこの美しい福音のために生きるなら、御霊の実を結ぶでしょう。言い換えれば、それは人間性を変えるという問題ではありません。この美しい福音とともに歩むとき、私たちは御霊の実、すなわち愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制を結ぶことができます。御霊の実は、私たちが他の人を罪から救い、永遠のいのちを得るのを助けます。
 
 

互いに対立する肉の欲と御霊の願望

 
パウロは、こう述べました。「肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです」 (ガラテヤ 5:17)。贖われている私たちは、肉の欲と御霊とを同時に持っているので、これら二つの要素は常に対立しています。その結果、どちらも私たちの心を完全に満たすことはできません。
御霊は、私たちに心の奥底から、美しい福音を宣べ伝え、主に仕えたいという思いに導かれます。私たちを霊的なわざに携わることに熱心にさせます。神の美しい福音を宣べ伝えることによって、人々を罪から救うのを助けます。
しかし一方で、私たちの願望は肉の欲をかき立て、御霊によって歩むことができなくなります。これは、御霊と肉の欲との永遠の対立です。人が肉の欲に取り付かれると、その人は肉のための備えをすることになってしまいます。肉は御霊に逆らって、その願いを定めます。この二つは互いに対立していて、そのため私たちは自分のしたいと思うことをすることができないのです。
それでは、御霊によって歩むことに何が関係しているのでしょう。そして、どのようなものが神に喜ばれているのでしょう。神は、美しい福音を宣べ伝え、従うことが、御霊によって歩む生活だとおっしゃいました。神は、彼らが霊的生活を送ることができるように、内に宿る聖霊を持つ者に、御霊によって歩む心をお与えになります。御霊によって歩むことによって、御霊の実を結ぶように、神が私たちに与えてくださった戒めとは、美しい福音を宣べ伝えることによって、他の人を罪から救うという警告であり、命令でもありました。聖霊によって歩むことは、神に喜ばれる生活を送ることを意味します。
御霊によって歩むためには、まず内に宿る聖霊が必要です。私たちの内に宿る聖霊を受けたいと思うなら、まず神がくださった美しい福音を信じなければなりません。心の奥底の中で美しい福音を信じないなら、内に宿る聖霊も受けず、罪からの救いも得られません。つまり、御霊によって歩むことができません。
御霊は、美しい福音を宣べ伝え、主に仕え、神に栄光を帰したいという欲求を与えてくれます。この欲求は、神にささげられ、全世界に美しい福音を宣べ伝える心から来ます。それはまた、美しい福音を宣べ伝えるために、必要なことを何でもやろうとする心から来ます。美しい福音を信じ、罪を赦された後に、聖霊を受ける者は、御霊によって歩み、福音を宣べ伝えることに自分自身をささげることができます。これが、上からの彼らの霊的な相続財産です。
内に宿る聖霊を持つ者は、肉の欲を持っていても、彼らの内に聖霊があるので、聖霊に従い、御霊によって歩むようになります。パウロは、「御霊によって歩みなさい」 と言いました。パウロが言いたかったことは、他の人々が罪を赦されるのを助けるように、イエスが私たちに与えてくださった水と聖霊の美しい福音を宣べ伝えなければならないということです。
時には、御霊によって歩みながら、肉に従って歩みます。肉の欲と御霊の欲求は、私たちの生活の中で互いに対立していますが、私たちがはっきりと認識しなければならないことは、内に宿る聖霊を持つ者は、御霊によって歩む生活を送るべきだということです。このようにしてのみ、神の祝福に満たされた生活を送ることができるのです。内に宿る聖霊を持っている者が、御霊の実を結ぶことを拒むなら、彼らは肉の実を結んで滅びます。彼らの実は腐りやすく、悲惨です。そこに、私たちが御霊によって歩んで生きる理由があるのです。
私たちは、「御霊によって歩みなさい」 と聞いていますが、「私の中に聖霊を感じることができないとき、どうすればいいのでしょうか」と思う人もいるかもしれません。私たちの中には、神が現れて直接私たちに語られた場合にのみ、内に宿る聖霊を認めることができると思う人もいます。しかし、これは誤解です。御霊は、水と御霊の美しい福音のために生きたいという願いを与えてくれます。
私たちは、聖霊が内に宿っていると確信していますが、肉に従って歩んでいるので、聖霊を感じることができないかもしれません。一部の人は、聖霊が私たちの中で眠っていると思うかもしれません。彼らは聖霊を受けていますが、それでもやはり肉とともに歩んでいます。
こうした人々は、自分の肉を慰めるだけで、肉のまま行動しますが、肉の漸進的な要求のために最終的に苦しみます。内に宿る聖霊を持つ者でさえ、肉の欲に従って生きるのは自然だと思うため、そうする傾向があります。しかし、肉に服従する者は、最終的には肉の奴隷になります。
主は、御霊に従って生きるようにと教えておられます。これは美しい福音に仕えることを意味します。また、水と御霊の美しい福音に完全に自分自身をささげなければならないことを意味します。福音を喜び、それによって生きることは、御霊に従って生きることです。御霊によって歩むことの意味を学ぶことによって、そのように生きなければなりません。みなさんは、御霊によって歩んでおられますか。
 
 

内に宿る聖霊を持っていない人は御霊によって歩むことができるのか

 
新しく生まれていない者は、御霊によって歩むことの意味を知りません。このように、多くの人々が聖霊を受けようとし、自分のやり方でそれを待ち焦がれています。彼らは、聖霊を願う行動が聖霊に満たされることと同じであると信じています。
たとえば、人々が礼拝のために、ある礼拝堂に集まると、牧師は声を上げて祈り、誰もが主の御名を叫び始めます。彼らの中には、まるで聖霊に満たされているかのように異言で話しますが、だれも自分自身でさえ、言っていることを理解できません。一方、彼らの一部は地面に倒れ、身体は有頂天に震え始めます。彼らは確かに悪魔に憑かれていますが、聖霊を受けていると思っています。人々が「主よ、主よ!」と叫ぶと、大騒ぎが起こります。彼らは主を呼び、涙を流して手をたたきます。この現象は通常、「聖霊に満たされている」と言われます。
説教師は、説教壇を叩きながら異言で話し、人々は「主よ!主よ!」と叫びます。彼らは、このような雰囲気を愛し、邪悪なトランス状態になりながら、エデンの園で善悪の知識の木の幻とイエスの顔を見たと言う人さえいます。彼らは、そうしたことを、聖霊を受ける、または聖霊に満たされる、聖霊とともに歩む方法だと誤解しています。彼らの誤って導かれた行為は、神のみことばと聖霊についての誤解から生じています。
「御霊によって歩みなさい。」 これは、神が新しく生まれた者に告げておられることです。それは、神に喜ばれることをするという意味です。パウロは、肉の行ないと御霊の実とを比較しました。彼は、言いました。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません」 (ガラテヤ 5:22-23)。
「御霊によって歩む」とは、美しい福音を宣べ伝え、他の人を罪から救うことです。そうすれば、御霊の実を結ぶことができるようになります。御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制であり、私たちは美しい福音によって生きるときにのみ、この実を結ぶことができます。美しい福音に仕え、宣べ伝えて、そのために自分自身を犠牲にするなら、聖霊に満たされる霊的生活を送ることができます。
御霊の実として、「善意」 とは善行をするという意味です。それは美徳をも意味します。美しい福音のために美徳を保ち、他の人のために何かをすることは、善意です。神の御前で最高の善とは、他の人のために福音を宣べ伝えることです。
そして 「親切」 とは、人々への思いやりの気持ちです。他の人に慈悲深い人は、忍耐を持って福音に仕えます。そして親切が平安のうちにあります。御霊によって歩む人は、主のわざが成し遂げられたことを見て喜び、主のわざを愛し、他の人を愛し、すべてのものに忠実です。強制的な義務を与えた人はいませんが、内に宿る聖霊がある人は、それが成し遂げられるまで主のわざに忠実です。その人は優しく、自制を維持しています。その人は、御霊の実を持っています。うちに聖霊を持つ人は、御霊によって歩まなければなりません。その人がそうする場合にのみ、御霊の実を結ぶことができるでしょう。
御霊によって歩むなら、御霊の実を結ぶこともできます。しかし、そうしないと、肉の欲とともに歩んでしまいます。聖書は、ガラテヤ人への手紙 5:19-21 で次のように告げています。「肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」
 
 
肉の行ないは明白
 
肉の行ないは明白です。第一の肉の行ないは、「不品行」 であり、異性との不適切な関係で付き合うことを意味します。第二は、「汚れ」 です。第三は、「好色」 であり、淫らであることを意味します。第四は、「偶像礼拝」 であり、神以外の偶像に仕えることを意味します。第五は、「魔術」 です。第六は、「敵意」 であり、聖霊のない人が肉に従って歩むなら、その罪深い性質に従って、他の人への憎しみを示さざるを得ません。第七は、「争い」 です。これは、友人や家族と喧嘩することを意味します。他に、「そねみ、憤り、党派心」 があります。こうしたものはすべて、肉とともに歩む人々の特徴です。
第十一は、「分裂」 です。人が肉に従ってのみ歩むとき、その人が教会の仕事をすることは不可能であり、結局その人は自ら進んで教会を去ることになります。第十二は、「分派」 です。肉によって歩む人は、自分の意志をかなえるためにそうします。しかし、その生活は神のみこころとは非常に異なっているため、最終的に、その人は美しい福音から背を向けます。分派とは、聖書の真理から分かれることを意味します。神のみことばへの信仰を持ち、御霊によって歩む者はだれでも、神のみこころから背を向けるようになることはありません。「ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のもの」 もまた、肉の行ないです。肉に従ってのみ歩む者は、最終的にそのようなことを行います。そういうわけで、主が 「御霊によって歩みなさい」 とおっしゃるのです。新しく生まれている私たちは、御霊によって歩まなければなりません。
新しく生まれていない者は、心に肉の欲しかありません。そういうわけで、彼らは、「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝」 に忙しくなるのです。新しく生まれていない偽聖職者は、信者たちに多くのお金を寄付するよう説得するために、「魔術」 を行ないます。彼らは、最も寄付をする人々に、教会の重要な責任と高い地位を与えます。肉によって生きる者は、他の人に 「敵意」 を示します。彼らは、教会を多くの宗派に分け、自分たちの宗派を誇り、他の人を異端として非難します。「争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ」 はすべて、新しく生まれていない者の心にあります。私たち聖徒が肉にだけ従って歩むなら、同じになるでしょう。
 
 
御霊は新しく生まれたキリスト教徒に聖霊の実を結ばせる
 
新しく生まれた者は、美しい福音を宣べ伝えるために生きなければなりません。私たちは、一人で主に従うのは難しすぎるので、神の教会に参加して、美しい福音に仕える仕事をしなければなりません。私たちは一緒に祈り、御霊の美しい福音によって歩む人になるために、私たちのエネルギーをささげなければなりません。御霊によって歩む人々は、水と御霊の福音を宣べ伝えるために生きています。言い換えれば、肉に従って歩むことは、自分だけのために生活を送ることを意味し、御霊によって歩むことは、他の人の魂を救うために働くことを意味します。新しく生まれたキリスト教徒の多くは、このような美しい生活を送っています。彼らは、他の人のために生きています。
美しい福音を聞いたことがない人々が、世界中に膨大な数います。私たちは、アフリカとアジアの人々を愛しています。私たちは、ヨーロッパとアメリカ、そして孤立した島々のすべての人を愛しています。水と御霊の福音を彼らに紹介することによって、私たちの愛を示すべきです。
私たちは、御霊によって歩まなければなりません。これを禁ずる律法はありません。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません」 (ガラテヤ 5:22-23)。これを禁ずる律法があるでしょうか。いいえ、これは私たちが従わなければならない御霊の律法です。パウロは、私たちに御霊によって歩むように告げました。私たちの主が、罪人のためにご自身のいのちをお与えになったように、私たちは他の人に福音を宣べ伝えなければなりません。他の人を罪から救うことは、御霊によって歩んでいるのです。私たちは、御霊によって歩むべきです。
ガラテヤ人への手紙 5:24-26で、パウロは次のように述べています。「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。」 私たちが御霊によって歩むなら、滅びた魂を救うために生きなければなりません。私たちは、御霊のわざをし、御霊とともに歩むべきです。神が私たちにお与えくださった聖霊は、私たちを心の中でイエス・キリストとともに生きるように導きます。聖霊は、愛の王です。神は、私たちを神の愛の伝道者として用いられます。
パウロは述べました。「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです」 (ガラテヤ 5:24)。パウロはまた、新しく生まれた者がイエス・キリストとともに死んでいると述べました。ほんとうに新しく生まれた者は、すでにイエスとともに死にました。私たちはそれを理解していませんが、イエス・キリストが私たちの罪を贖うために、十字架につけられたとき、私たちはイエス・キリストとともに死んだのです。言い換えれば、イエス・キリストが十字架につけられたという事実は、みなさんと私が十字架でイエスとともに死んだことを意味します。イエスの死は私たちの死であり、イエスの復活は私たちの保証された復活を象徴しています。みなさんと私は、信仰を通してイエス・キリストのうちに生き、死んでいます。信仰を持つことが必要です。私たちの信仰は、私たちを御霊によって歩むように導きます。
神は、私たちに御霊によって歩む力を与えてくださいました。したがって、すべての罪を赦されている私たちは、御霊によって歩むべきです。聖霊を受けている者は、自分の罪が赦されたことに感謝し、滅びた人々の救いのために、美しい福音を宣べ伝えることに、自分自身をささげなければなりません。人は、罪を赦されて新しく生まれても、主の教会から離れ、肉の欲に従って生きるなら、主に仕えることはできません。みなさんと私は、私たちの主イエス・キリストの日まで、水と御霊の福音によって生きるべきです。
 
 
決して虚栄に走らず、聖霊に満たされて生きよ
 
パウロは、「互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう」 と言いました。虚栄とは何でしょう。それは、肉の欲に従って歩むことです。この世には、自分の虚栄のために生きる人々が大勢います。多くの人々がお金を蓄え、覇権を争い、世俗的な美しさを愛し、今ここで生きています。こうしたものには、忠実性はなく、時間の経過とともに衰退し、消えていきます。そういうわけで、肉に従って歩む人々が虚栄に走っていると呼ばれるのです。人々が富を持っているとしても、心に本当の平和と満足があるのでしょうか。肉の実は、最終的に腐ります。地上の物は、他の人の魂には役に立たず、自分のためだけのものです。そうしたものは、自分の肉にだけ良いものです。
聖書には、こうあります。「ばらまいても、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでも、かえって乏しくなる者がある」 (箴言 11:24)。新しく生まれていない者は、お金をあまりにも惜しんでいます。世俗的なものが彼らにとってすべてなので、彼らは他の人を気遣う余地がありません。そういうわけで、彼らは自分の人生だけを望み、気にするのです。しかし、聖書には、正当な支払いを惜しんでも、かえって乏しくなる者があると告げています。人々は肉の欲に従って歩みますが、結果は強盗に出会って死んでしまうのと同じです。こうしたことはすべて、虚栄の結果です。
 
 
御霊の願望に従うことを愛する者
 
パウロは、御霊による生活を送ることを望んでいました。そして、彼はそうしました。彼は私たちに、神のみことばを通して生きるように教えました。ガラテヤ人への手紙 6:6-10 で、パウロは述べました。「みことばを教えられる人は、教える人とすべての良いものを分け合いなさい。思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行ないましょう。」
パウロは、神のみことばを知っている者に、教える人とすべての良いものを分け合うように勧めました。彼の意味する「良いもの」とは、御霊によって歩み、福音を宣べ伝えることを通して、滅びた魂を救うことによって、主をお喜ばせすることでした。新しく生まれた者は、同じ心と愛、同じ裁きを持ち、御霊を教え、御霊によって歩む者に加わるべきです。
「みことばを教えられる人は、教える人とすべての良いものを分け合いなさい。」 「良いもの」とは、教会を通して他の人を罪から救うことです。パウロは私たちに、同じ思い、同じ祈り、同じ献身ですべてのことをするようにと述べました。私たちは、一緒に主のわざをしなければなりません。
パウロは述べました。「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」 ここで、「侮る」とは、「嘲り、あざ笑う」という意味です。ですから、「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません」 とは、神を嘲ることも嘲笑うこともしてはならないという意味です。たとえば、神のみことばを軽んじたり、自分の言葉に翻訳したり、信じないというようなことがあってはなりません。パウロは述べました。「人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」 これは、自分の肉のことを蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のことを蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るという意味です。
水と御霊の美しい福音によって生きるなら、私たちは何を刈り取るのでしょう。私たちは、永遠のいのちと罪からの救済を刈り取ります。神の祝福を通して、他の人の魂を罪の贖いと永遠のいのちに導くことによって、御霊の実を刈り取るのです。
しかし、自分の肉のために生きる人々は、どうでしょうか。彼らは滅びを刈り取り、終わりには死だけがあります。彼らの死後、彼らに残されたものは何もありません。人は、何も持たずに生まれ、何も持たずに死にます。
人が他の人を罪から救うわざをするなら、彼らは御霊の実を刈り取り、永遠のいのちを持つでしょう。しかし、肉の欲に従って歩み続けるなら、その人は滅びを刈り取ることになります。それで、その人は呪いを刈り取り、その呪いを他の人に移します。したがって、信仰によって生きることについて、すべてを知っていたパウロは、肉に従って歩まないようにと私たちに勧めました。
「善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。」 パウロは、御霊によって歩んだ神のしもべでした。人々は聖書で、パウロが御霊によって歩んだと記されているのを見ると、ある人は、聖霊がパウロに、「パウロ、左に行って誰かに会いなさい」 あるいは、「あなたはその人を避けなさい」といったようなことを直接命じたと思うかもしれません。しかし、これは真実ではありません。
パウロは、救済の福音を他の人に宣べ伝え、魂を救うのを助けることによって、御霊によって歩みました。パウロはまた、御霊によって歩んだ者と一緒になって、主に仕えました。キリスト教徒の中には、御霊によって歩まず、肉の欲に従って歩む人々がいます。彼らは、パウロを歓迎せず、パウロに反対し、中傷さえしました。パウロは、イエス・キリストの弟子たちと戦って中傷した者とは、何の関係も望まなかったと言いました。
御霊によって歩みたいなら、福音によって生きなければなりません。割礼を受けた者は、パウロを迫害しました。ガラテヤ人への手紙 5:11 には、次のようにあります。「兄弟たち。もし私が今でも割礼を宣べ伝えているなら、どうして今なお迫害を受けることがありましょう。それなら、十字架のつまずきは取り除かれているはずです。」 割礼を受けた者は、「たとえイエスへの信仰によって新しく生まれたとしても、その人は割礼を受けなければならない。その人が包皮の肉で割礼を受けていなければ、神の子ではない」と言って、割礼を受けるように提唱した者たちでした。なぜ彼らはパウロを迫害したのでしょう。パウロは、イエスのバプテスマと十字架での血への信仰のみから、贖いと永遠のいのちの祝福を信じていました。これが、パウロが宣べ伝えたことです。
人々を義人とする信仰は、真理を学び、それを宣べ伝えることから来ます。パウロは、水と御霊の真理を非常に重要だと見なしました。真理を知っている者が御霊によって歩むことができ、割礼を受ける必要はないと信じていました。これが、パウロが説いたことです。しかし、割礼を受けた者は、割礼が救済において人の信仰の重要な部分であると信じていました。しかしながら、神によって伝えられた福音以外には福音はありません。したがって、私たちはそれに何かを加えたり、そこから何かを差し引いたりしてはなりません。
パウロが御霊によって歩んでいたとき、パウロは仲間のユダヤ人に無視され、迫害されました。「あなたがたに割礼を強制する人たちは、肉において外見を良くしたい人たちです。彼らはただ、キリストの十字架のために迫害を受けたくないだけなのです。なぜなら、割礼を受けた人たちは、自分自身が律法を守っていません。それなのに彼らがあなたがたに割礼を受けさせようとするのは、あなたがたの肉を誇りたいためなのです。しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です」 (ガラテヤ 6:12-15)。そして、パウロは割礼を受けた者に言いました。「あなたがたに割礼を強制する人たちは、肉において外見を良くしたい人たちです。彼らはただ、キリストの十字架のために迫害を受けたくないだけなのです。」
パウロは、肉の欲に従って歩んだ者を責めました。彼らは、行いによって肉の欲に従って歩んできて、彼らのような多くの人々がいました。 しかし、パウロは彼らとの関係を終わらせました。「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。」 イエス・キリストは、私たちの主なる神が召されたパウロと、すべての人を救うために、ヨハネからバプテスマを受けて、世の罪をすべて背負われ、十字架で死なれました。「この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。」 世界に対して死んだパウロは、イエス・キリストを通して再び生きました。
私たちは実際に、イエス・キリストのうちに死んでいます。しかし、時には、私たちはこの真理を忘れます。それを信じなければなりません。この真理への信仰を持っていないなら、肉の欲と家族に縛られ、これこそ私たちが主とともに歩むことを妨げてしまいます。私たちの肉はとても弱いので、家族でさえ、私たちを主に従うように助けることはできません。主だけが私たちを助けることができるのです。しかし今、私たちは世界に対して十字架につけられています。どうして死んだ人が地上の問題で地上の人々を助けることができるのでしょう。この世で死んでいる人々は、世のものを所有することはできません。
イエスは、よみがえられました。イエスの復活が、私たちを新しい霊的生活へと新しく生まれるようにしました。ここには、新しい仕事、新しい家族、新しい希望があります。私たちは、新しく生まれた民です。私たち、天国の兵士として、神のみことばを宣べ伝える責任があります。パウロは、肉体的な意味を通してではなく、霊的な方法を通して、他の人を救済に達するように助ける人になったのだと告白しました。パウロは、自分がすでに死んでおり、イエス・キリストを通して新しく生まれたのだと言いました。私たちの信仰に関して、同じ告白をする人になるように努力しましょう。
ガラテヤ人への手紙 6:17-18 で、パウロは次のように述べました。「これからは、だれも私を煩わさないようにしてください。私は、この身に、イエスの焼き印を帯びているのですから。どうか、私たちの主イエス・キリストの恵みが、兄弟たちよ、あなたがたの霊とともにありますように。アーメン。」 パウロは、主の焼き印を帯びていました。彼は、御霊によって歩むために、主のために健康を気にしませんでした。彼は、徐々に視力を失っていたので、書くことすらできませんでした。ですから、パウロが神のみことばを告げている間、テルテオのような仲間によって記録されたパウロ書簡は、少なくありませんでした。肉体的には弱かったにもかかわらず、パウロは御霊によって歩むことができることを喜んで告げました。「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」 (Ⅱコリント 4:16)。
パウロは、私たちが御霊によって歩むような人になることを勧めています。彼はまた、「御霊によって歩むとは、福音のために生きることを意味する」とも告げています。みなさんと私は、御霊によって歩むことの意味を心に留めておく必要があります。虚栄のものを追求してはならず、福音に仕えて、そのために生きなければなりません。私たちの残りの人生を、信仰によって御霊によって歩みましょう。
今、水と御霊の福音を信じることによって、本物の御霊が私たちの心の中にあります。私たちが福音に従って祈るなら、神は喜んで答えてくださいます。御霊の実を結ぶことは、御霊によって歩み、魂を贖うことです。御霊によって歩んで福音のために生きるとき、みなさんは御霊の実、すなわち愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制を結ぶことができます。私たちは、水と御霊の福音を宣べ伝えるために、滅びた者たちのために苦しみを受け、寛容になり、善をしなければなりません。
御霊の実は、善を行ない、彼らに内に宿る聖霊を受けるようにする福音を宣べ伝えることによって、滅びた魂を救う者に結ばせます。これが、御霊の実を結び、御霊によって歩むために必要なことなのです。