(ローマ 3:1-31)
「では、ユダヤ人のすぐれたところは、いったい何ですか。割礼にどんな益があるのですか。それは、あらゆる点から見て、大いにあります。第一に、彼らは神のいろいろなおことばをゆだねられています。では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは、
「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため。」と書かれてあるとおりです。
しかし、もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか。人間的な言い方をしますが、怒りを下す神は不正なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。もしそうだとしたら、神はいったいどのように世をさばかれるのでしょう。でも、私の偽りによって、神の真理がますます明らかにされて神の栄光となるのであれば、なぜ私がなお罪人としてさばかれるのでしょうか。「善を現わすために、悪をしようではないか。」と言ってはいけないのでしょうか。──私たちはこの点でそしられるのです。ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが、──もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。それは、次のように書いてあるとおりです。
「義人はいない。ひとりもいない。
悟りのある人はいない。
神を求める人はいない。
すべての人が迷い出て、
みな、ともに無益な者となった。
善を行なう人はいない。ひとりもいない。」
「彼らののどは、開いた墓であり、
彼はその舌で欺く。」
「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」
「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」
「彼らの足は血を流すのに速く、
彼らの道には破壊と悲惨がある。
また、彼らは平和の道を知らない。」
「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」
さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行ないの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの教えです。それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です。神が唯一ならばそうです。この神は、割礼のある者を信仰によって義と認めてくださるとともに、割礼のない者をも、信仰によって義と認めてくださるのです。それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。」
人間が信じないからといって神の義が無効になることはない
使徒パウロは、律法を全うすることと神の恵みの贖いとは、人間の行ないによって与えられているのではなく、信仰によるのだとしています。神による救済のおかげで聖徒は罪から救われ、義人となっているのです。
「では、ユダヤ人のすぐれたところは、いったい何ですか。割礼にどんな益があるのですか。それは、あらゆる点から見て、大いにあります。第一に、彼らは神のいろいろなおことばをゆだねられています。では、「いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、彼らの不真実であることは、神の誠実さを無益なものにするのでしょうか。」絶対にそんなことはありません。」(ローマ 3:1-4)
ユダヤ人のすぐれたところは、みことばが託されているという点です。ユダヤ人は祖先からみことばを伝えられてきました。神からみことばを託され、それが伝えられてきたので、自分たちは外国人よりすぐれていると思っています。しかしながら、聖書は、神がユダヤ人を見放されたとしています。彼らが自分たちを罪から救ったイエスを信じなかったためです。
パウロは次のように述べています。「では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、彼らの不真実であることは、神の誠実さを無益なものにするのでしょうか。絶対にそんなことはありません。」人間が信じないからといって神の義が無効になることはありません。「神の誠実さ」とは、「神にうそ偽りのないこと」を意味します。神の誠意と罪からの救済は、ユダヤ人が信じないからといって無効にはなりません。信じる者は誰でも救おうという神の約束のみことばは、人々が信じなくとも無にならないのです。
ユダヤ人が信じなくとも、外国人は信じます。信じる者は誰でも罪から救われると神はおっしゃいます。ですから、神はユダヤ人にみことばを託しておられたのですが、真理のみことばが約束どおりに実行なさったことを彼らが信じなかったために、見放されました。
使徒パウロは、次のように主張しています。神はすべての人類に救済の賜物をお与えになりました。神は、旧約で約束なさり、ひとり子イエス・キリストを世に遣わされ、それを実行なさったとおっしゃいます。神の福音を信じる者もいれば、信じない者もいます。そこで、信じる者は誰でも約束どおり神の子供になる恵みを受けます。また、信じない人間がどれだけいようと、神の恵みは取り消されることがありません。
真理を信じる者は誰でも神の大いなる愛を受ける
真理のことばを聞いて信じる者は誰でも神の大いなる愛を受けることができますが、信じない者は、神をうそつき呼ばわりしているのです。実際、神は約束を実行なさったのですが、信じない者たちは神による救済から除かれています。彼らが罪の赦しの恵みを信じないためです。
パウロは、「彼らの不真実であることは、神の誠実さを無益なものにするのでしょうか。絶対にそんなことはありません」と述べました。神は、かつて約束なさり、そのみことばに誠実に救済の賜物と栄光とをすべての人にお与えになったのです。
聖書では、神の賜物とは何だとしているでしょう。聖書は、父なる神が御子を遣わされ、御子による罪の赦しを信じる者に神の子供になる恵みをお与えになったとしています。世界創造以前にすでに、神はその義によって、全人類にご自分の子供になる恵みと罪からの救済をお与えになることをご計画になりました。そして、これを誠実に実行なさいました。ですから、信者はみことばにしたがって恵まれているのですが、信じない者はそのために裁かれるのです。
信じない者が地獄に行くのは当然です。神は、人間がみことばへの信仰によって救われるように律法を定められました。また、人間が信じなくとも神の誠意が無効になることはないともあります。聖徒は神による救済の誠実であることを受け入れて恵みを受けています。
「たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは、「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため。」と書かれてあるとおりです。」(ローマ 3:4)
人間はみなうそをつきます。神は真実です。なぜでしょうか。神は、「それは、『あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため。』と書かれてあるとおりです」とおっしゃっています。恵まれるべき者には恵まれ、呪われるべき者は呪うと事前に約束していると神はおっしゃいます。信じる者に恵まれ、信じない者を神が呪われるのは正しいことです。神はおっしゃいます。「たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。」
「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため。」神は、みことばにあるとおり人間を救うとおっしゃっています。みことばは肉となり、人間たちの間に住まれ、お救いくださいました。ですから、主はみことばによって義となられたのです。
主は、神の記されたみことばによってサタンに勝利なさいました。主は約束なさったことを実行なさったのですから、ご自分にもサタンにも、また、すべての霊的存在にも正しく誠実なのです。しかしながら、人間は誠実ではありません。人間の行ないは、自分に不利なときはすぐに変わります。それに対して、神はけっして約束を破られません。ですから使徒パウロは、信仰はみことばに基づかなければならないと言っているのです。
人間の悪は神の義を明らかにする
ローマ 3:5 には、「もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか。人間的な言い方をしますが、怒りを下す神は不正なのでしょうか」とあります。人間はみな不義ですが、その不義が神による救済の義を明らかにするのなら、どうなのでしょう。人間の罪が神の義を明らかにするのなら、どうでしょう。
神の義は、人間の罪と悪とのゆえにより明らかになります。神はほんとうに誠実です。神は、みことばにより人類を救おうと約束なさり、約束なさったことを実行された救済の主、救い主で真の神であられます。人間の弱さのために神の義が明らかになるのなら、どうでしょう。人間は死ぬまで罪を犯すのですから、人間の弱さは神の義をいっそう明らかにします。
神が愛の主であると、どうしてわかるでしょう。自身の弱さからそれを知ります。人間が生涯最後の日まで罪を犯すために、神の愛は人間によって明らかになるのです。主は、世の罪をただ一度で消されたとおっしゃいます。罪を犯さない善人だけを愛されたなら、神の愛は不完全でしょう。けっして愛されない罪人を、神は真の愛から認め、対応なさいます。
人間はよこしまであり、神を裏切ります。人間は神を信じず、神の前に何の愛すべき点もありません。罪人とは、悪をだけ行なう者ですが、人類を罪と咎のすべてからお救いくださったイエスは、神の人類への愛を成就なさいました。
神は、人間がサタンの欺きのために罪を犯し、地獄に行く定めにあったとき、義と愛とによって人類をサタンの闇と呪いとから救うためにひとり子を遣わされたのだとおっしゃいます。それが、神の愛と恵みです。
「もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか」と使徒パウロは言いました。この部分の解釈は、信者と不信者とで異なっています。信じない者は、天の御国に入るために善行をして神の恵みを受けようとします。しかし、パウロはそれとは対照的に、「もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか」と言っています。パウロは、人間というものは神の義を行なうことができず、神の前で罪を犯すことしかできないのであり、人間の邪悪さが神の真の愛を明らかにすると述べているのです。そのとおりなのです。人間はみな邪悪であって、義であることはできません。しかし、主が罪のすべてから救ってくださったのです。
神の義を信じて救われている
使徒パウロは、人間は義であることができず、罪の罠に捕らわれていると述べています。主はそのような罪人を罪から救われ、愛されます。人間は毎日罪を犯すことを免れないのですから、主の完全な愛が必要なのです。人間はただ、イエスの絶対的な愛、価なく与えられる恵み、イエス・キリストによる救済の賜物によって救われています。
使徒パウロは、自分が救われているのは神の義のおかげだとしています。神がすべての罪人をお救いくださるためになさったことの内に神の義が示されています。パウロは、福音を信じて救われたと語っています。神の義は水と御霊の福音に明かされています。救済は、神がしてくださった義のみわざによるのです。ですから、罪人は信仰によって罪のすべてから救われているのです。新たに生まれていない者は、天の御国に入るためには善行をしなければならないと考えます。
パウロはわざと悪事をしようとは言っていないのですが、人々は神の義を受けることなしに善行をしようとするために、地獄に行ってしまいます。そうした人々は、地獄に行くことを免れるために悔い改めて改心し、神のくださった救済を信じなければなりません。
誰が神の前で善を行なえるでしょう。一人もいません。では、どうして罪人はその罪から救われるのでしょう。考えを改めるのです。使徒パウロは信仰によって救われたと述べています。しかし、人々はどう考えているのでしょう。善行をすれば救われると考えています。人々が救われないのは、このためです。イエスを信じて救われ、完全な罪の赦しを受けている人々は、神の義を誇り、それを尊しとします。
しかしながら、イエスを信じてはいても新たに生まれていない人々は、善行をすれば天の御国に入れるし、しなければ地獄に行くのだと考えています。そうした信仰は誤りです。使徒パウロの信仰は、新たに生まれた者と同じものです。イエスを信じているつもりでも、新たに生まれていない人々の信仰は誤っています。信仰に行ないを加えようとするからです。信仰に善行を加えても救われません。神の義──イエスのバプテスマと十字架上の死──を信じて人は救われるのです。
義人は故意に罪を犯すことができない
「もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか。」聖書は、人間の不義は神の義と愛とを明らかにするだけだとしています。聖書にはまた、次のように記されています。「でも、私の偽りによって、神の真理がますます明らかにされて神の栄光となるのであれば、なぜ私がなお罪人としてさばかれるのでしょうか。「善を現わすために、悪をしようではないか。」と言ってはいけないのでしょうか。──私たちはこの点でそしられるのです。ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが、──もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。」(ローマ 3:7-8)信じない者の名は裁きの書に記されていて、その人たちは火の池に投げ込まれるのです。ですから、そうした人々は悔い改め、改心し、水と血によって成就された救済を信じなければなりません。
使徒パウロは、「人間的な言い方をしますが、怒りを下す神は不正なのでしょうか。絶対にそんなことはありません」と述べています。人々は、「イエスが罪から救ってくださっているということを信じないからといって、神が不信者を罰して地獄に送るのは不正ではありませんか」と言って反論します。しかし、パウロは、「怒りを下す神は不正なのでしょうか。彼らは真実を信じないのですから、地獄に行くのは正しいことなのです。神は不正ではありません」と語ります。
ローマ 3:7 には、「でも、私の偽りによって、神の真理がますます明らかにされて神の栄光となるのであれば、なぜ私がなお罪人としてさばかれるのでしょうか」とあります。すると、人々は、「何ですって。罪の赦しを受けているからといってわざと罪を犯すのですか。神の義によって救われているからもっと嘘をつくのでしょう。故意にもっと罪を犯すのですか」と尋ねるでしょう。しかし、聖書には、彼らは神の救済を知らず、神の愛を信じもしないで、邪悪な心からそのようなことを言うのだとしています。
ですから、人間の罪深さと嘘のために神の誠意が豊かに輝かしくなっているとパウロは言うのです。しかし、人々は自分なりの考えからパウロを誤解し、「何もせずに信仰によって救われていると信じているのなら、もっと罪を犯すでしょう」と言います。
罪を犯そういう気持ちがあってはじめて罪を犯すというのは、誤りです。人間は生まれながらに罪人なのですから、罪を犯すことを免れないのです。りんごの木がりんごを実らせるのは、自然なことです。聖書は、罪深いものとして生まれた人間が罪を犯し続けるのもまた当然だとしています。主はそのような罪人を義によってお救いくださいました。人間は主の救済を受け入れてはじめて救われるのです。
「善を現わすために、悪をしようではないか。と言ってはいけないのでしょうか。──私たちはこの点でそしられるのです。ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが、──もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。」(ローマ 3:8)イエスを信じていると思いながら偽教師に欺かれている人々は、このように考えます。ローマ人への手紙は、約二千年前、使徒パウロによって記されました。当時、大勢の人々が、今日の不信者同様に、このように考えました。偽の信者はパウロの時代の不信者とまったく同じように考えて、「罪の赦しを受けて罪がなく、未来の罪もまた赦されているとわかっていたら、わざと罪を犯すのですか」と言います。
不信者は、肉の不誠実な考えに応じて行動します。彼らは肉の誤った考えのために、神の救済の真理に入ることができません。もちろん、義人も罪の赦しを受けた後でまだ罪を犯しますが、それには限度があります。聖書は、罪人が罪を犯し続けるのは、水と御霊によって新たに生まれる前には自分が罪を犯していることを知らず、それが罪であると知らないためだとしています。しかしながら、聖書にはまた、義人は神の支配下にあるために、野放図に罪を犯すことはできないともあるのです。
使徒パウロに「神は罪のすべてから救ってくださっているのですから、良いことが起こるように悪いことをするのではないですか。神の義がいっそう明らかになるように、もっと罪を犯したらいいでしょう」と言う人がいました。パウロは、そうした人々が罪に定められるのは正しいことだとしています。これは、彼らが裁かれて地獄に行くのがふさわしいことだというのです。なぜでしょうか。彼らが信仰ではなく自身の行ないに依存しているためです。
神の義はけっして無効にならない
使徒パウロは言います。「では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、彼らの不真実であることは、神の誠実さを無益なものにするのでしょうか。」人間が信じないからといって、それが神による救済を無効にするのでしょうか。信じるなら人は救われます。しかし、信じなければ罪の赦しの恵みを失います。神の義は揺るぎません。わかりますか? 地獄に行く人々は信じないことを選んでいるのですから、自らすすんで地獄に行くのです。罪からの救済という神のみわざと恵みとは、けっして無効になりません。確固としてあるのです。
主による救済は、律法の行ないに基づいた人間の努力とは何の関わりもありません。それは信じる者にだけ関わるのです。信じる者は神の真理によって救われますが、信じない者は、神の真実を拒んで救われていないために地獄に行きます。神は、「躓きの石、妨げの岩」(イザヤ 8:14)を設けられました。イエスを信じる者は、どんなに悪い人間であっても義人とされ、永遠のいのちを受けます。イエスを信じない者は、どんな善人であろうと、罪の報いとして地獄に行きます。イエスは罪の赦しを信じない者の躓きの石、妨げの岩なのです。
罪のある者は誰も義人ではない
使徒パウロは、善良であるふりをしている人々に救済への信仰について語っています。そこで、ローマ書は信仰について語っている神のみことばとみなされています。自分は義人だという者について疑問をもつ人々がいます。実際、イエスに罪を赦されている者は、罪がみな赦されているのですから義人です。「イエスは誠実です」とは、「イエスは誠実に罪人を罪から救われた」という意味です。自分は「救われた」罪人であるという人々がいますが、神の前にそのような人はあり得ません。罪から救われた後で、どうして罪人であり得るのでしょう。イエスが救ってくださったのなら、その人は救われているのです。イエスが救ってくださらないのなら、罪人なのです。救済には中間というものはありません。
罪のある義人はいるでしょうか。罪のある義人は一人もいません。罪があるのならその人は罪人であり、イエスを信じているのなら罪がないのです。日々の罪・未来の罪の問題は、どう解決できるのでしょう。人々は、毎日罪を犯し、死ぬまで罪を犯すのだから、罪人であることを免れないと考えます。しかしながら、イエスがヨルダン川で未来の罪をも含めて世の罪を取り除かれ、磔刑に処されたと告げている福音を信じて、聖徒は義人にされているのです。
「罪のある義人」というのは、まったく意味をなしません。借金を返したのに、まだ負債者だなどというのは筋が通っていますか。昔、金持の男がいて、その息子がクレジットで毎日町中の店でお菓子を買うという悪い習慣をもつようになって成長したとしましょう。しかしながら、裕福な父親は、息子が死ぬまで毎日お金を払わずにお菓子を食べ、生涯あらゆる店で作る借金をすっかりまかなうだけの金を予め支払ったとしましょう。
主は、ヨルダン川で罪をただ一度で被られる義のみわざによって人類を救ってくださいました。主は人類全員を完全に救われました。ですから、どんなに弱い人間であっても、けっして再び罪人にはならないのです。神のなさったことを否定しないなら人間は義人にされると、神はおっしゃいます。
肉の思いがあっては、福音を信じることも新たに生まれることもできない
自分を「救われた」罪人であると考えているキリスト教徒は、肉の心で考えます。霊的な心をもつということは、神のみことばを信じるということです。肉の心は人間の心です。それは人間の知恵です。肉は罪を犯さずにはいられません。しかし、イエスのバプテスマと十字架とを信じて、人は義人になれるのです。聖書は、罪を犯すまいとすることによってはけっして聖化されて義人になることがないと告げています。
イエスを信じるようになってから、二度と再び罪を犯さない聖い人間になり、天の御国に入ることができるものでしょうか。あるいは、ただ一度の救済だけでそうなるのでしょうか。罪人はほんとうに罪の赦しの恵みによって義人にされるのでしょうか。肉の心によって義人になるのは不可能です。肉はけっして義になりません。空腹を覚えるといつでも、肉は何か食べる物を求めます。
肉には欲情や欲求があるのですから、肉が聖化されるのは不可能です。ですから、人間はイエスの水と血を信じてはじめて義人にされるのです。これ以上罪を犯さず、自分の力で雪のようにきよくなって天の御国に入ることができるでしょうか。罪を避けて聖くなろうとするのは、欲望と肉の情熱をもつ人間の高慢な考えです。不可能です。
肉の心で信仰について考えていては、福音を信じることも新たに生まれることもできません。イエスは、「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です」(ヨハネ 3:6)とおっしゃいました。
肉の心によって義人になることはできません。今日までどんなに徹底的に悔い改め、イエスを信じていようと、明日罪を犯すだろうから、それは不可能だと思うでしょう。「今でも罪を犯し続けているのに、どうして罪がないといえるのだろう」と思うでしょう。肉体があれば当然肉の考えをもつのに、義人になることができるでしょうか。肉によって聖化されることはできません。
神は人間を義人になされる
しかしながら、人間にはできなくとも、神は完全にお救いくださることができます。神は人間の良心をきよめ、人間に「自分は義人であり、神は父なる神、救い主だ」と告白させることがおできになります。よろしいですか、信仰は真のみことばを心で信じるところから始まるのです。信仰は真理のみことばから始まります。真のみことばを心で信じて、聖徒は義人になりました。肉の行ないによっては、けっして義人になれません。
しかしながら、新たに生まれていない者は自分の考えに捕らわれていますから、そこから解放されることができません。そうした人々は、肉の心によってだけ考えるために、自分は義人だと告げることがけっしてできません。自分は義人であると言うことができる信仰は、神のみことばの真実を知ることから始まるのです。本当に新たに生まれたいのなら、確かに新たに生まれた人から真のみことばを聞くのです。そうすれば、必ず新たに生まれることができます。新たに生まれた人の内の御霊が真実によって働くことを喜ばれ、「すべてのことを探り、神の深みにまで及ばれる」(コリントI 2:10)ためです。御霊は新たに生まれた義人の内に宿られるのですから、義人から神のみことばを聞いて、人は新たに生まれることができるのです。これを覚えておいてください。新たに生まれる恵みを受けたいのなら、新たに生まれた義人に会わなければなりません。
アブラハムは、イシュマエルとイサクの父になりました。イシュマエルは、女奴隷から生まれました。イサクが生まれたとき、イシュマエルはすでに十四歳でした。イシュマエルは、自由民から生まれたイサクをいじめました。実際に相続する権利があったのはどちらでしょう。自由民サラから生まれたイサクが相続権をもっていました。
イシュマエルの方が年長で丈夫だったのですが、イサクが嗣子として認められていました。なぜでしょうか。イサクは神のみことばによって生まれたためです。人間の考えによって築かれた信仰は、砂の城のようなものです。神のみことばの真理を知り、信じてはじめて人は新たに生まれることができます。
「では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。それは、次のように書いてあるとおりです。義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ 3:9-10)この部分は、どういう意味でしょう。新たに生まれる前の人間の状態でしょうか、それとも新たに生まれた後の状態を指しているのでしょうか。人間はみな、新たに生まれる前は罪人です。「義人はいない」とは、イエスが世の罪をすべて除かれる前の状態をいうのです。イエスを信じることなしには、人はけっして聖化されません。
「漸進的聖化」は、異教の偶像礼拝者からきたものです。聖書には、「義人はいない。ひとりもいない」とあります。どうして自らを訓練して聖化できるのでしょう。人間は自分の力では義人になれません。自力で義人になる者は一人もいませんし、義人になった者もいません。自身の努力によって罪がなくなった者は一人もいません。それは、神のみことばへの信仰によってのみ可能なのです。聖書には、「悟りのある人はいない。神を求める人はいない」(ローマ 3:11)とあります。
すべての人が迷い出た
すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。(ローマ 3:12)
人間は神の前で有益でしょうか。人間は神の前で無益です。まだ新たに生まれていない者はみな、神の前には無益です。神の被造物でありながら、雨を送ってくれないというので腹を立て、神に敵対して戦い、呪いながら天を指すのではありませんか。
「すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。」心に罪のある者が、どうして神に栄光をささげられるでしょう。罪の問題を解決できない罪人が、どうして神をたたえられるでしょう。どうして罪人が主をたたえられるでしょう。罪人は、神に栄光をささげることができません。
最近、賛美宣教が盛んになっています。かつて罪人は、黙示録の言葉を引用してゴスペルの歌詞を書いたものです。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」(黙示録 5:13)もちろん主は賛美を受けるにふさわしいお方ですが、義人だけが神をたたえることができるのです。神は罪人からのたたえを喜んでお受けになると思いますか? 罪人のたたえはカインのささげ物のようなものです。主をたたえているつもりでも、彼らのたたえは無益で、何もない空に向けて歌っているのです。なぜでしょうか。神は彼らを喜ばれないためです。神はけっして罪人の祈りを聞かれません(イザヤ 59:1-2)。
聖書には、みな迷い出て、みなともに無益な者になったとしています。「すべての人が迷い出」たとは、みことばを拒み、自分の考えを信じたということです。真の裁きは、みことばによって行なわれます。神だけが裁かれます。人間には裁くことができません。「すべての人が迷い出」たというのは、自分の考えを頼ったということです。そうした人々は、いつでも「私はこのように考え、こう信じています」というようなことを言います。自分の考えを捨てない者は、自分の考えを優先させます。そこで、みことばに戻りません。
新たに生まれていない者は、自分が判断の主体であると考えます。神のみことばに何が記されているかは、そうした人には重要ではありません。自分の考えに固執し、真偽は自分の判断で決め、「私はこのように考えるので、こう信じるのです。それは私の考えていることとは違います」と言います。どうして真実を見出せるでしょう。神は、人間はみな自分の考えに迷い出たとおっしゃいます。自分の考えに迷い出てはいけません。そうではなくて、主に戻るのです。人間は、正しい方法で救われなければなりません。真のみことばの前で裁かれるのです。では、義とは何でしょう。
みことばによって新たに生まれよ
義とは、神の真実であるみことばです。神のみことばは規範、すなわち「物差し」です。よろしいですか、神のみことばが標準、あるいは基準なのです。
「初めに、ことばがあった。」(ヨハネ 1:1)父なる神と聖霊とともにあった方は、誰でしょう。神、ことばです。ことばは神です。イエス・キリスト、人類の救い主、王の王は、ことば、神です。
最初にことばが神とともにあったと記されています。神のともにあったのは誰ですか? ことばです。ですから、ことばはイエス、救い主で神であられます。救い主は神です。主は正確には「ことば」と言い表わされます。ですから、神のことばは人間のことばとは異なります。ことばは神だからです。みことばを自分の肉の考えで理解しようとするのは、実に無知なことです。
ですから、神はご自分のことばと信仰に堅く立つ者を使われます。みことばに堅く立つ人は誠実で、神の目に有用な人であり、神はそのような人に恵まれるのです。
人間は善を行なうことができるでしょうか。神であられることばは、義人はいない、ひとりもいないとおっしゃいます。しかしながら、「善行をしている人がいるではないか」と考える人がいます。実のところ、人々は神の前で偽善を行なっているのです。よろしいですか、新たに生まれる前、人間には義であるところは何もないのです。
人間はみな神に抵抗します。人間は、聖く善良で慈悲深いふりをして互いにだまし合い、また神さえも欺こうとします。善人のふりをするのは、神に挑むということです。神だけが善なのです。新たに生まれることなく、神の愛と義とを信じないで善を装うことは、神に敵対し、神の真実に逆らうことです。
深刻な罪人だけが神に裁かれるのだと思っていますか?たとえキリスト教徒であっても、新たに生まれていないのなら、神の怒りを免れません。ですから、偽善的な生き方を捨て、神のみことばを聞きなさい。新たに生まれなさい。そうすれば、神の裁きを免れます。
新たに生まれていない人々の間で、善行をすることに執着していない悪人を見たことがありますか? 人間は、ただ善人であろうとします。誰がそれを教えたのでしょう。サタンです。人間は本来けっして善ではありません。人間は、罪が神の前で消されると良い生き方ができます。では、神はわざと悪を行なえとおっしゃるでしょうか。いいえ。神は、罪の赦しを受けよとおっしゃいます。人間は生まれる前にすでに悪に感染しており、地獄に定められているためです。神は、人間がみな真のみことばを受けて救われることをお望みです。
サタンは常に不信者の口を通して嘘をつく
「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」「彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。また、彼らは平和の道を知らない。」「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」(ローマ 3:13-18)
「彼らはその舌で欺く。」人間はみな嘘をつくのが上手です。神はサタンについて、「彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです」(ヨハネ 8:44)とおっしゃいます。新たに生まれていない者はみな、「ほんとうのことを申し上げます。これはほんとうです」と言いますが、彼らはみな嘘をついているのです。
言っていることが正しいと主張する人たちは、嘘つきです。みなさんは、詐欺師が他人をだまそうとして「私は嘘つきの詐欺師です」と言うのを聞いたことがありますか。彼らは、自分の言うことはみな真実であるかのように話します。彼らはいかにももっともらしく、「よいことを教えましょう。これに投資なさったら、大儲けできますよ。百万ドル投資なさったら、すぐに元金と同じだけ儲かります。二年で一千万ドルが手に入ります。すばらしい投資です。投資なさりたいですか」ともちかけます。新たに生まれていない者は、いつでもそうした人の言葉にだまされます。
サタンが嘘をつくときには、自分にふさわしい話し方をします。新たに生まれていない牧師は、いつでも嘘をつきます。高額の献金をすれば金持ちになれると主張します。長老になったらお金持ちになれるなどと、聖書のどこかに書いてありますか。なぜ人々は長老になろうとするのでしょう。長老になろうとするのは、長老になったら神が物質的な恵みをくださると思い込まされているからです。長老になったら富の恵みを受けられると信じているからだまされるのです。彼らは欺きの罠にはまっています。
そのような嘘にだまされて長老になったことがありますか?長老になった後、乞食のような暮らしをしている人が大勢います。私の周りにはそういう人が大勢います。新たに生まれていない偽預言者は、自分の教会の金持ちを長老に任命します。なぜでしょうか。長老に大金を教会に寄付させたいからです。時に、盲目的な信奉者にしようとして、お金のない人を長老にすることがあります。
「長老になれば富に恵まれる」とよく言われていますが、それは嘘です。聖書にはそんなことは書かれていません。聖書は、神のしもべは富に恵まれるよりは迫害されたとしています。主は、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」(マタイ 6:33)とおっしゃいました。
「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり」と聖書にあります。人間には、ほんとうにマムシの毒があります。新たに生まれていない人は、義人に何と言うでしょう。その人たちは義人を呪い、マムシのように話します。聖書には、「彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。また、彼らは平和の道を知らない。」「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」とあります。
律法の目的
「……と書かれてあるとおりです」というのは、その部分が旧約からの引用であることを示しています。使徒パウロは何度も旧約を引用しています。パウロは、「彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。また、彼らは平和の道を知らない。彼らの目の前には、神に対する恐れがない」と述べました。新たに生まれる方法を知らないままに地獄に行く人々は、気の毒です。
ローマ 3:19 には、「さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです」とあります。
神は律法に則って怒りを下されます。パウロが「律法の下にある人々に対して言われている」と述べたのは、神が罪人を啓発なさるために、実生活ではけっして律法を守ることのできない、新たに生まれていない、罪を知らず、罪を罪と思わない人々に律法をお与えになったためです。神は、人間がそれに従って生きるようにと律法をお与えになったのではありません。では、神は律法を廃止したとおっしゃるのでしょうか。いいえ。神がモーセを通して律法をお与えになったのは、人間が自己の罪を知るようになさるためです。神は、守らせるために律法をお与えになったのではありません。神の律法は、人間がいかに罪深い存在であるかを教えるためにあるのです。
律法の行ないによっては誰も義人になれない
ローマ 3:20 には、「なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです」とあります。新たに生まれたキリスト教徒は、律法の行ないによっては誰ひとりけっして義とされないと知っています。使徒パウロと神のしもべはみな、「律法の行ないによっては、誰ひとりけっして義人とされない」と言います。律法を守っている者も、将来守る者も、一人もいません。ですから、律法の行ないによってはけっして義人になれないと告白するのです。行ないは人を義人にしません。
使徒パウロはこれを知り、信じていました。人は律法を守って義人になれるのでしょうか。律法は人間を義人にするでしょうか。聖書の内容に照らすと、イエスを信じるようになってから善行をすると、肉の体が変化して義人になり、天の御国に入れると信じるのは正しいでしょうか。いいえ、そうではありません。それは嘘です。徐々に義人に変わって神の御国に入れるというのは、嘘です。新たに生まれていない者はみな、行ないにおいて神の律法を守らなければならないと考えているために、律法の下にあります。そこで律法を守ろうとし、毎日赦しを求めて祈ります。これは、最初のボタンを掛け違えたからそうなっているのです。律法は、人間が罪人であることを教えるのです。罪人が律法を守ろうと努力するのは、真の救済に反することであり、肉のものである自身の考えと無知から生じたことなのです。それは誤った信仰です。
人間は徐々に聖化されていくとする聖化の教義は、世の世俗的宗教にも見出されます。仏教には、キリスト教の漸進的聖化説に類似した教義、涅槃についての教えがあります。人間の体は徐々に聖化されていき、やがては天の御国に入れるのだと主張する人は大勢います。しかし、実際は、主がただ一度で人間の霊を聖化なさったのです。
義人さえ肉の体を聖化することはできません。御霊をもたない者は聖化されません。善行を行なおうと努力すればするほど、いっそう深刻な罪人になります。その人たちは心に罪があるためです。どんなに外見を清くしようとしても、内に罪が満ちているために、しばしば何かしら汚いものが出てきて、人を汚します。それが罪人の真の姿なのです。
罪の赦しを受けている者の状態は、それとは正反対です。彼らは肉においては罪を犯さずにはいられませんが、それでも清い生を送ることができます。罪に感染して生まれた罪人は、生涯罪を広めます。罪は意思に反して生じるからです。その人たちはただ一度で罪を除く注射を受けるしかありません。注射とは、神の真実の福音です。罪の赦しのみことばを聞き、罪から救われるのです。新たに生まれることばを聞き、罪の赦しを受けなさい。
誰が完全に律法に従って生きられるでしょう。新たに生まれた者であっても、誰が完全に律法に従って生きられるでしょう。一人もいません。ローマ書には、「律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです」とあります。実に単純なことです。アダムとイブは無垢の時代にサタンに欺かれ、罪の下に売られました。神のみことばを知らない、二人の子孫に罪が伝えられました。子孫は罪を受け継いでいながら、自分たちが生まれながらの罪人であることを知りませんでした。
イスラエル人の祖先アブラハムは信仰によって義人とされましたが、アブラハムとヤコブの時代の後、人々は信仰と罪深い存在のことを忘れました。そこで神は罪の意識をもたせるために律法をお与えになり、彼らが神の約束を信じて罪を赦されるようになさったのです。これを信じていますか?
律法とは別に神の義が示された
ローマ 3:21 には、「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました」とあります。使徒パウロは、神の義が律法とは別に明かされたと言っています。「律法と預言者によってあかしされて」というのは、旧約を示してます。水と御霊の福音こそが、いけにえの制度によって示された神の義です。福音は、人間が罪のためのいけにえによって罪の赦しを受けることへと導く義を示します。
ローマ 3:22 は、「イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません」と告げています。信仰は心にあります。信仰の創始者・完成者はイエス・キリストです。ヘブル 12:2 には、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」とあります。信仰の創始者・完成者はイエスであり、聖徒は真の神であられる真の「ことば」を信じています。すべての罪から救われ、信仰によって生きるためには、新たに生まれた神のしもべから聖書の真の言葉を学び、信じなければなりません。心でイエスを信じるのです。
神は、「イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません」とおっしゃっています。ですから、聖徒は真のみことばを心で信じて義人とされ、口で告白して完全な救済を確認しているのです。人は行ないによっては救われません。信仰によるのです。主と教会にだけ感謝をささげます。
罪がみな消されたのに、行ないに縛られているのですか?神を心で信じるなら、その人は肉の弱さがあっても義人なのです。御霊は心の中で「あなたは義人です」とおっしゃって、みことばをあかしなさいます。御霊は、人がみことばを聞いたときにそれを理解するよう導かれるためです。みなさんは、みことばを聞いてから信仰によって救われましたか?
「イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」真実であるみことばを学び、信じる者は、誰でも罪のすべてから救われます。
イエスは世の初めから終わりまでの罪をすべて洗い流された
ローマ 3:23-25 には、次のように記されています。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。」
聖書は、誰もが罪を犯して神からの栄光を受けることができないとしてます。罪人は地獄に行くのですが、聖徒は神の恵みと愛によって罪の赦しを受け、価なく義人とされました。聖徒は神からの栄光を受け、義人になりました。神はイエスをその血と信仰によるなだめの供え物となさいました。
第 25-26 節は、次のようにあります。「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。」ここで「お示しにな」ったとは、全宇宙の罪の赦しのために神が御子イエスを罪の赦しのためのなだめの供え物として遣わされたという意味です。
イエスはバプテスマによって世の罪をすべて取り除かれました。イエスはアルファであり、オメガであられます。世界の初めと終わりについて考えてみましょう。神は、世の初めから終わりまでの罪を全部洗い流した信仰によって救ってくださいました。神はイエスをその血と信仰によるなだめの供え物となさいました。私は、福音を信じるようになってはじめて、「それは、ご自分の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです」の部分を理解できました。
イエスがバプテスマと血によって人類の罪をすべて洗い流されたとする言葉を信じて罪はみな除かれました。罪の赦しはただ一度で受けましたが、肉はまだ罪を犯し続けます。肉は弱さのために罪を犯します。しかしながら、聖書は、「今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られた」と告げています。今でも肉の犯している罪、それにと将来犯す罪は、神の視点からすると、今までに犯されてきた罪なのです。
なぜでしょうか。神がイエスのバプテスマを人類救済の基本的な始点となさったためです。ですから、肉が現在犯している罪は、神の視点からすると過去の罪なのであり、罪の赦しはイエス・キリストがただ一度で成就なさっているのです。現在の罪はすでに消されているのです。「今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られた」というのは、主がすでに世の罪を贖われたことを示しています。世の罪がすべて、イエスのバプテスマと十字架によってすでに赦されているのです。
ですから、神は世界の初めから終わりまでに犯された罪をすべてすでに消しておられるのです。つまり、神の眼には罪はみな以前に犯されているのです。この世の人々は、すでに神の御子によって消された罪を犯しています。2002年に犯される罪を、約二千年前にイエスがすでに洗い流しておられます。これが分かりますか?
神は、みなさんや私の罪を含めて世の罪をすでに消しておられます。これがどういうことか、わかりますか? 理解していないと、ほかの人に福音を広めるときに混乱するでしょう。「今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られた」とは、二千年程前にすでに消しておられるので、神はすべての罪を見逃してこられたという意味です。イエスがヨルダン川でバプテスマを授かり、十字架につけられておられるので、全人類の罪はすでに裁かれています。イエスがこの世に遣わされただ一度で全人類を完全に義人となさったので、神は罪をすべて見逃されます。ですから、イエスのバプテスマと十字架とを信じない罪の他には、世のすべての人が犯している、すでにご自分が消された罪を神は責められません。
使徒パウロの言わんとしていることが分かりますか? これは、救われている者にとって、とても重要です。新たに生まれていない者は、無知のために地獄に行きます。みことばを聞き、正しい知識をもちましょう。これは、他人に福音を説く際、また、信仰にとても役立ちます。
では、私たちの誇りはどこにあるのか
聖書には、「ご自分の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです」とあります。神はイエスをなだめの供え物となさっているので、過去の罪はすでに消されているとお教えになります。ですから、聖徒は信仰によって義人になっています。
第 26 節には、「今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです」とあります。「今の時に」神は世の滅びることのないよう、永遠のいのちをお与えになりました。「今の時に」、神はイエス・キリストが神の義を示し、約束を成就するために遣わされました。主は神の義を示されました。神は真実の救済によって愛を示されるためにひとり子を遣わされ、バプテスマを受けて十字架につけられるようになさいました。
主は、救い主として罪人のところに来られました。「今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。」神は正しく、ただ一度で世の罪を除かれました。聖徒は心でイエスを信じているので、罪がありません。イエスを真実に信じる者には罪がありません。主が彼らを洗い、未来の罪からさえお救いくださっているためです。イエスのなさったことを心で信じることで人は救われます。人間の行ないは、神による救済にはほんの 0.1% も含まれていません。
ローマ 27-31 には、次のようにあります。「それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行ないの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの教えです。それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です。神が唯一ならばそうです。この神は、割礼のある者を信仰によって義と認めてくださるとともに、割礼のない者をも、信仰によって義と認めてくださるのです。それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。」
「律法を確立することになる」というのは、行ないによっては救われないということです。人間は不完全で弱く、律法の前には地獄に行かなければなりません。しかしながら、神のみことばが聖徒を義人にし、完全にしました。みことばによって救われているためです。主は、人間の肉はすべての罪から救われた後でもまだ不完全だとおっしゃいますが、それでも罪のすべてから完全に救ってくださいました。イエスが救ってくださったと信じて、人は神の許に行くことができます。
「それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょう。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行ないの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。」神の定められた律法を知っておかなければなりません。また、律法は御国で永遠にあり続けるのです。「どういう原理によってでしょうか。行ないの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです」と神はおっしゃいます。これが理解できますか?神は、世の罪のすべてからお救いくださいました。真理にしたがって信じて、聖徒は救われました。よろしいですか、律法の働きによっては救われないのです。
ローマ書第 3 章で、神は使徒パウロを通して信仰の律法について語られました。神は、「その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。」(ローマ 3:3)とおっしゃいます。信者は信仰に堅く立ちますが、不信者は転落します。真理の福音への完全な信仰をもたない者は、イエスを信じていると思ってはいても、地獄に行きます。
神はすべての罪から完全に救ってくださった
神が律法を定められたのは、自分の考えに基づいて信じる者が信仰の律法で躓くようになさるためでした。神はすべての罪から完全に救ってくださいました。ローマ書第 3 章は、信仰の律法について語っています。聖徒は真のみことばを信じて救われました。聖徒は天の御国を相続し、信仰によって安らいでいます。不信者には安らぎがありません。地獄に行きます。なぜでしょう。第一に、彼らは神の真理のみことばを受けなかったために、神の真理の律法によって裁かれるのです。救済は神の愛によってくるものです。聖徒は真理を知り、主がなさったことを心で信じて救われています。わかりますか?
この信仰と教会とをこの地上にくださった主をたたえます。もういちど、教会に罪の赦しの奥義をあかした使徒パウロのもっていた真理と信仰とみことばをくださった主に感謝いたします。心の底から神をたたえます。
バプテスマと十字架上の死によって救ってくださった主に感謝いたします。この信仰と教会がなければ、人間は地獄に行くしかありません。人間は本来けっして救われない罪人です。しかし、聖徒は義を心で信じました。心で義を信じて神の子供になり、口で告白して救われました(ローマ 10:10)。