(ローマ人への手紙 第 8 章 9-11 節)
「けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」
人が真のキリスト教徒であるかどうかは、神の御霊がその人の中に住んでおられるかどうかで区別されます。イエスを信じようと信じまいと、その人が心の中に御霊をもっていないのなら、どうしてキリスト教徒といえるでしょう。パウロは、イエスを信じるかどうかは最も重要な問題ではなく、イエスが神の義を見いだしたことを信じるかどうかが大事なのだと言っています。聖徒に必要な真の信仰とは、御霊が内に住むのに必要な信仰です。内に聖霊が存在するかどうかが、キリスト教徒であるかどうかを決めるのです。
ですから、パウロは、「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません」と言ったのです。彼は、「だれでも」という言葉を使っています。その人が神父だろうと、福音伝道者だろうと、信仰復興者であろうと、同じことです。心の中に御霊をもたない人は、キリストのものではありません。御霊を受けるよう導かれた神の義を信じない人は、地獄に行く定めの罪人なのです。ですから誰もが、神の義を伝える水と聖霊の福音を心にかけなければならないのです。
御霊が内に住むということは、それはイエスのバプテスマへの信仰によって罪に対して死んだということなのです。しかし、私たちの霊は新たに得た義のゆえに生きています。また、主が再臨なさった時には、私たちの死すべき体はいのちをも受けるのです。御霊をお与えになった方のことを考えなければならないのは、このためです。
神の義を信じる信仰をもたない人は、キリストのものではありません。一方、神の義を信じるならば、神の御霊がその人の中に住みます。この信仰がなければ、御霊は人々の上に力をもちません。ですから、神の義を伝える贖罪のみことばをもたないなら、一応は信仰を告白し、日曜の礼拝のたびに使徒信条を唱えても、その人はキリストのものではありません。キリストのものでないのなら、どんなに善であろうとしても、その人の霊は呪われ、永遠の滅びに至るのです。