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คำสอน

主題 11: 幕屋

[11-10] 洗盤に示された信仰 (出エジプト記 30:17-21)

洗盤に示された信仰
(出エジプト記 30:17-21)
「主はまたモーセに告げて仰せられた。『洗いのための青銅の洗盤と青銅の台を作ったなら、それを会見の天幕と祭壇の間に置き、その中に水を入れよ。アロンとその子らは、そこで手と足を洗う。彼らが会見の天幕にはいるときには、水を浴びなければならない。彼らが死なないためである。また、彼らが、主への火によるささげ物を焼いて煙にする務めのために祭壇に近づくときにも、その手、その足を洗う。彼らが死なないためである。これは、彼とその子孫の代々にわたる永遠のおきてである。』」
 
 
幕屋の庭の洗盤
 
青銅の洗盤
材料:青銅でできており、いつも水で満たされています。
霊的な意味:青銅は人類のすべての罪のさばきを意味します。人類のすべての罪のさばきを受けるために、イエスはヨハネからバプテスマを受けて、世の罪をご自身に負われました。そのように、洗盤の意味することは、こうした私たちのすべての罪がイエスにバプテスマによって移されたことを信じることによって、私たちのすべての罪を洗われることができるということです。
幕屋で仕えた祭司たちも、幕屋に入る前に洗盤で手と足を洗い、それによって死を免れました。青銅は、すべての罪のさばきを指しており、洗盤の水は、イエスがヨハネからバプテスマをお受けになったバプテスマを指しており、それによって、イエスは世の罪をご自身に負われたのです。つまり、洗盤は、イエスがすべての罪をご自分の上に移すことを受け入れられ、こうした罪の罰をお受けになったことを告げています。洗盤の中の水は、旧約聖書で幕屋の青色の撚り糸、新約聖書でイエスがヨハネからお受けになったバプテスマを意味します(マタイ 3:15、Ⅰペテロ 3:21)。
ですから、洗盤とは、イエスのバプテスマを指しており、2000年以上前にバプテスマのヨハネからお受けになったバプテスマを通して、イエスが私たちの実際の罪を含むすべての罪を負われ、一度でそうした罪を洗い流されたという事実に対する信仰を確認する場所なのです。
この世には、水と御霊の福音を信じることによって新しく生まれている義人がいます。彼らは、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布に啓示されたイエスのみわざによって、すべての罪が赦されたと信じることによって、罪の赦しを受けている人々です。しかしながら、罪の赦しを受けている義人でさえ、肉においては至らない存在であるため、毎日罪を犯さずにはいられず、そのような罪を実際の罪と呼びます。罪の赦しを受けている義人が実際の罪の問題を解決するためにやって来る場所とは、この洗盤にほかなりません。義人が実際の罪を犯すときはいつでも、彼らは幕屋の庭にある洗盤のところに来て、手と足を洗います。それによって、記された神のみことばを信じることによって、イエスがすでにすべての実際の罪を赦されているという事実を確認できます。
聖書では、水は時に神のみことばを指すのにも用いられていますが、水の最も重要な意味はイエスのバプテスマです。エペソ人への手紙 5:26 では、「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするため」とあり、ヨハネの福音書 15:3 には、次のようにあります。「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。」 洗盤は、罪の赦しを受けている聖なる聖徒が、肉がどれほど至らない存在であったとしても、すべての罪を水で赦されているという証拠を持つことを可能にします。
Ⅰペテロの手紙 3:21-22 には、次のようにあります。「そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。キリストは天に上り、御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えて、神の右の座におられます。」 こうした節の直前に、ペテロはノアの時代の水の霊的な意味を説明しています。ノアは罪人に警告していたにもかかわらず、罪によって投獄された魂は、言い換えれば、最初の世界のすべての汚物を洗い流す洪水のことでしたが、水を通して救われたのは、たったの八人だけでした。当時の洪水の水は、神のみことばを決して信じたことのない、すべての者を滅ぼしました。そして今、ペテロは洪水の事件から、イエスのバプテスマがこの水の対型であることを抽出しています。そのように、洗盤は救われたときも救われた後も、神の前でもう一度救済を確認する場所なのです。
信仰によって罪から救われている聖徒たちは、洗盤の水(イエスのバプテスマ)、青銅(すべての罪に対する神のさばき)、そしてイエスが彼らを罪からお救いくださったと信じることによって、神の恵みをまとわなければなりません。たとえ私たちが弱点や欠点に満ちていて、自分を義人として認識することさえほとんどできないとしても、イエスのバプテスマ(罪を負われること、水)とイエスの十字架の血(罪の罰、青銅)への信仰を再表明することによって、私たちが完全に義とされていることを間違いなく確認できます。私たちは、すでに私たちをすべての罪とその罰からお救いくださっている神のみことばを信じているので、私たちは常に罪のない義人になることができます。
私たちが信じている神のみことばは、イエスがヨハネからお受けになったバプテスマを通して、私たちの罪をご自身に負われ、私たちの身代わりに罪のすべての罰をお受けになるために十字架で血を流され、それによって私たちを罪から完全にお救いくださっていると告げています。神は、私たちがどんな状況であろうと、すべての罪から完全に救われている人であることを信仰によって確認できるように、幕屋の庭に洗盤を置きました。
 
 
あなたはすべての実際の罪から永遠に救われているか
 
イエスが十字架で死なれる前に、最後の晩餐の間、イエスは弟子たちと一緒に過越祭のパンと飲み物を分け合った後、ペテロと他の弟子たちの足を水で洗いたかったのです。すでにイエスはヨハネからお受けになったバプテスマを通して、弟子たちの罪をすべて取り除かれたので、洗盤の真理を彼らに教えたかったのです。イエスは、バプテスマをお受けになった後、過越の小羊として、木に吊るすことによって罪から来る報酬(死)を支払うことを彼らに告げました。このように、イエスの十二弟子たちは、イエスを信じた後も至らない存在でしたが、決して再び罪人にはなりませんでした。
同様に、イエスが弟子たちの足を洗ったという事実は、真理のみことばがあかしされたこと――つまり、イエスがすでに世の罪をすべて洗い流されたことを彼らに確認させました。このようにして、弟子たちは常にイエスが救い主であられることを世の人々に宣べ伝え、イエスがすでに成就なさった水と御霊の福音を広めることができました(へブル 10:1-20)。このように、洗盤は、真理を信じてすべての罪から救われた義人がイエスのバプテスマを思い出すことを可能にします。それはまた、神ご自身が彼らをお救いくださっているという救済の確信を彼らに与えます。
 
 
聖書は洗盤の大きさを記録していない
 
幕屋の他のすべてのものの大きさは記録されていますが、洗盤の大きさは記録されていません。これは、神の御子イエスがバプテスマによって、ご自身に罪を負われたという事実が限りなく素晴らしいことを示しています。また、罪と罰からお救いくださっているイエスの愛には限りがないことを教えてくれます。洗盤は、計り知れない神の偉大な愛を啓示しています。人間は生きている限り、罪を犯し続けるに違いありません。しかし、ヨハネからお受けになったバプテスマを通して、世の罪をすべて被られ、十字架につけられ、十字架で血を流されることによって、イエスは永遠に罪をすべて消し去られたのです。
洗盤は、幕屋で仕えた女性たちの青銅の鏡を溶かして作られました(出エジプト記 38:8)。これは、神のみことばが罪人に救済の光を輝かせ、彼らのやみを取り除くことを意味します。神ご自身が私たちの罪を洗い流されるように、神は洗盤をお作りになっていることを悟らなければなりません。この真理のみことばは、心の奥底に隠された人々の罪に光を当て、彼らの罪を永遠に洗い流し、彼らに罪の赦しを与え、それによって彼らを義人に変えました。つまり、洗盤はイエス・キリストが神のみことばで罪人を完全にお救いくださっているという真理を明確にあかしする役割を果たしているのです。
 
 
洗盤も青銅でできていた
 
洗盤を作るために用いられた青銅の重要性は何かをご存知ですか。青銅は、私たちが直面する罪の罰にほかなりません。もっと正確に言うと、イエスはバプテスマによって私たちの罪をすべて十字架に運ばれ、私たちの代わりに罰されたことを告げているのです。実際に私たちの罪のために罰されることになっていたのは私たちでしたが、洗盤の水を通して、罪がすべてきれいに洗い流されたことを再確認することができます。これを信じる人々は、信仰を通して裁かれている者となり、したがって、それ以上の裁きには直面しなくなります。
水で満たされた洗盤は、「青色、紫色、緋色の糸、それに撚り糸で織った亜麻布を通して、イエスはすでにみなさんの罪を洗い流され、みなさんを罪から完全にお救いくださった。神はみなさんをきよめてくださった」と告げています。つまり、洗盤は、罪の赦しを受けている義人が、罪を洗われて救われたことを証明する証拠なのです。
全焼のいけにえの祭壇は罪のさばきを意味し、幕屋の材料の中の青色の撚り糸に関連する洗盤は、イエスが新約聖書でバプテスマをお受けになって、私たちの罪を負われたことを教えてくれます。
誰かが自分の力で聖所に入ろうとすると、聖所から火が出て、この人を滅ぼします。アロンの子らでさえ例外ではなく、実際にその結果として死んだ子らもいました(レビ記 10:1-2)。神の義にかなった罪の引き受けとさばきに無知で、この真理を無視する人々は、彼らの罪のために死に引き渡されます。神の極めて精密な罪からの救済を信じる代わりに、自分の考えに従って信じることによって神の御国に入ろうとする人々は、間違いなく自分の罪のために火の裁きに直面するでしょう。罪の避けられないさばきのため、結果として彼らを待つのは、地獄だけなのです。
イエスは、私たちが聖所に入ることができるように、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布によって、罪からの救済を完成させました。私たちがすべての罪から完全に救われるのは、この真理を信じることによってなのです。神は、創造の前から人類を罪から救うというご計画をなさっており、聖書で、青色の撚り糸(イエスのバプテスマ)、緋色の撚り糸(十字架でのイエスの死)の真理を通して、神のみこころを詳しく教えてくださり、そして紫色の撚り糸(神が人となられた)という真理を通して、神のみこころを詳しく教えてくださいました。そして、このご計画によれば、神は確かに、こうした青色、紫色、緋色の撚り糸に啓示されたイエスのみわざによって、すべての罪人を罪と咎からお救いくださっています。
ヨハネの手紙第一 5:4 には、次のようにあります。「私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。」 そして、これに続く10節には、次のようにあります。「神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています。」 この救済のあかしとは何でしょう。水と血と御霊によって私たちの救いを与えてくださっている真理の福音は、神の御子への私たちの信仰のあかしです(Ⅰヨハネ 5:6-8)。つまり、私たちが信じている水と御霊の福音だけが、神が私たちの罪を洗い流され、私たちをご自分の民となさった証拠です。私たちがすべての罪から救われ、聖所に入り、神から与えられた「いのちのパン」を食べ、神の恵みのうちに生きる唯一の道とは、この水と御霊の福音を信じる以外にありません。私たちの罪を清める水と御霊の福音を信じることによって、神の教会と結ばれることによって救われ、信仰生活を送らなければなりません。
私たちが神の教会で神のみことばを糧とし、教会と結びつき、祈りが神に聞かれる義人として生きることができるのは、水と御霊の福音の真理によってなのです。この真理を信じると、青色、紫色、緋色の撚り糸の信仰を持ち、神の御前に恵みに包まれて生きる義人になることができます。神の民だけが生きられる信仰生活は、水と血と御霊を信じることによってのみ、もたらされるのです。イエスのバプテスマ、流された血、死を心から信じ、イエスが神ご自身であられると信じることによって、私たちはすべての罪から救われます。みなさんが神の教会に住むことを可能にしている信仰とは、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布への信仰です。
今日、多くの人々がこう言っています。「私たちがすべきなのは、イエスを信じることだけです。なぜそれほど複雑に悩むのですか。無駄な話し合いで時間を無駄にせず、私たちがふさわしいと思う方法で信じましょう。」 そのような人々にとって、私たちはキリスト教の問題児であるように見えるかもしれませんが、罪の赦しを受けずにイエスを信じるなら、その人は永遠の罰に直面しなければならないことは絶対に明らかです。水と血と御霊を完全に信じているわけではないので、偽りで欠陥のある信仰です。実際、それはイエスを救い主として信じていないのです。
もし私が見知らぬ人の好意を勝ち取るために、この見知らぬ人に対して盲目的に「私はあなたを信じています」と主張すると、この人は「この男は本当に私を信じているに違いない」と確信して、それについて喜ぶでしょうか。それどころか、彼はおそらく「あなたは私を知っていますか。私はあなたを知っているとは思いません」と言うでしょう。そこで、「でも、とにかくあなたを信じている」ともう一度言って、彼の気持ちを良くするために真剣な目で彼を見つめれば、彼はそれで喜ぶでしょうか。彼は私を、ただ自分の心を読み、彼の好意を伝えようとしている、骨のない愚者としか見なさない可能性がはるかに高いです。
盲目的に神を信じる人々も、神は喜ばれません。「私は神を信じます。イエスが罪人の救い主であると信じています」と言うとき、それから私たちは、イエスが罪人の咎をどのように処理なさっておられるかを知り、信じた後、神への信仰を告白しなければなりません。私たちがまったく性格を持たないかのように、軽率にまたは盲目的に信じるなら、私たちは決して救われません。私たちは、イエスがどのように私たちの罪を消されたのかを、最初に明確に知ることによって、信じるときにのみ救われるのです。私たちは誰かを信じていると言うとき、私たちはその人を十分に知っており、この人を信じられると考えているので、私たちはこの人に真の信頼を置くのです。私たちがよく知らない人に信頼を置くということは、私たちが嘘をついているか、あるいは裏切りの準備ができている愚か者であるということを意味しているにすぎません。そのように、イエスを信じると告白するとき、イエスがすべての罪をどのようにして消されたのかを正確に知らなければなりません。そうして初めて、私たちは最後の瞬間に私たちの主に捨てられず、新しく生まれた神の子どもとして天国に入ることができるのです。
私たちを天国に導く真の信仰とは、青色、紫色、緋色の撚り糸への信仰です。つまり、本物の信仰とは、水(イエスのバプテスマ)、血(イエスの死)、聖霊(イエスは神)を通して、私たちをお救いくださっている水と御霊の福音を信じることなのです。この真理を信じることが私たちの救いにつながるので、私たちをお救いくださっている主の恵みがどれほど素晴らしいかを知り、それを信じなければなりません。
信仰が完全であるかどうかは、この人が真理を知っているかどうかだけで決まります。みなさんが心で水と御霊の福音を信じるときにのみ、イエスを救い主として信じられます。そして、水と御霊の福音によって罪の赦しをくださっている救い主としてのイエスへの信仰こそ、私たちをすべての罪からお救いくださっている真の信仰なのです。
 
 

洗盤は私たちの罪を赦されている救済の確認

 
洗盤は水で満たされました。それは聖所の真正面に置かれました。洗盤は、罪の赦しを受けていることを私たちに思い出させ、信仰によるその受け入れを確認する場所です。それは、神が信者の罪をすべて清められたという事実の確認です。聖所で仕える祭司たちが汚れるたびに、洗盤で手足を洗ったように、罪の赦しを受けている人々は、罪を犯すたびに、神のみことばを通して自分自身を思い出し、自分たちを汚した、そうした罪をイエスがすでに消し去られ、身代わりに罰をお受けになることによって、そのような罪を洗い流しておられるのです。
私たちがこの世に住んでいる間、罪を犯さずにはいられないので、私たちは汚されます。そのとき、私たちを汚すこれらのすべての罪を何で洗い流すべきでしょう。私たちは、王の王イエス・キリストが、罪人をお救いくださるために、2,000年以上前に人の肉のかたちで、この地上に来られ、バプテスマを通して私たちの罪を負われ、十字架で血を流され、それによって、罪人をすべての罪からお救いくださっていることを信じることによって、罪を洗い流します。イエスがバプテスマによって、すべての罪を負われたという真理を信じるときにのみ、罪の赦しを受け、実際の罪を洗い流すことができます。つまり、神が青色、紫色、緋色の撚り糸によって、すべての罪をすでに洗い流されたという、この真理を信じるときにのみ、私たちは実際の罪も清めることができます。
 
 
私たちは洗盤の真理を知り、信じる信仰を持たなければならない
 
洗盤への信仰なしには、神が宿る聖所に決して入れません。私たちの行ないは、常に完璧であることができません。私たちは欠点があるので、私たちは時々罪を犯します。しかし、神のみことばは完全であるために、神が私たちにお与えくださっている救済は、それでも完全なのです。神は完全な救済によって私たちの欠点を洗い流されたので、信仰によって大胆に聖所に入ることができます。洗盤を通らない人は決して聖所に入ることができません。私たちは、イエスが2000年前にこの地上に来られ、青色、紫色、緋色の撚り糸を通して預言された水と血と御霊の福音で、世の罪をすべて消し去られたという真理への信仰がなければ、聖所に入ることができません。
青色、紫色、緋色の撚り糸を信じずに、神の聖所に入ることはできないように、もし私たちが水と御霊の福音を信じなければ、神の教会で神のみことばを信じて、神に祈り、神の恵みを受けて、神のしもべと聖徒たちと一緒に生きながら、神の恵みの御座に進む祝福を享受することができません。神が青色、紫色、緋色の撚り糸によって、すでに私たちをすべての罪から救われたと信じたときにのみ、私たちは神の教会で信者のみなさんと一緒に、神のみことばを聞いて信じ、神に祈りながら生きることができます。
洗盤は、私たちの罪からの救済の最終確認です。神は、罪の赦しの福音を信じる人々に、信仰の確証を与えるために、洗盤を聖所の真正面に置き、水で満たしました。この洗盤は、信じる義人の汚れた良心を清めます。
ヨハネの手紙第一 2:1-2 を読みましょう。「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。この方こそ、私たちの罪のための、――私たちの罪だけでなく全世界のための、――なだめの供え物なのです。」 アーメン。
罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストなのです。イエスは、義人の汚れた心を水で洗い流されました。イエスが十字架につけられる前日、最後の晩餐の間に弟子たちを集めて、たらいに水を入れ、足を洗い始めました。「わたしがバプテスマを受けたとき、わたしはあなたが後に犯す罪も含めて、あなたのすべての罪を負い、後であなたの代わりに十字架で罰されます。わたしもあなたの将来の罪をわたしに負わせ、そうした罪を消し去りました。わたしはあなたの救い主になりました。」
これは、過越の最後の晩餐の間に、イエスが弟子たちの足を洗われたということでした。イエスに足を洗われるのを拒否したペテロに、次のようにおっしゃいました。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります」(ヨハネ 13:7)。イエスは水と御霊の福音をほんとうに信じる人々の完全な救い主になることを望まれました。青色、紫色、緋色の撚り糸を信じる人々にとって、イエスは彼らの永遠の救い主になりました。
 
 
洗盤の用途
 
洗盤の用途
祭司たちが神にいけにえをささげる幕屋で働いたとき、洗盤は彼らのすべての汚れを洗い流すために用いられました。祭司がイスラエルの民の罪を贖う「いけにえ」を神にささげるために、いけにえのささげ物を殺し、その血を取り、それを部分に切り分けて、それによって付着した汚れを洗い流す必要がありました。祭司がいけにえをささげる間に汚れたとき、彼らは水で洗わなければならず、洗盤は、このすべての汚れを洗い流した場所だったのです。
霊的であれ肉であれ、私たちが罪を犯したときはいつでも、そして神の戒めを破って汚れたときはいつでも、この洗盤の水ですべての汚れを洗い流さなければなりません。祭司は、望むと望まなかったかどうかにかかわらず、自分の体がきよくないものや汚れたものに触れたときはいつでも、体の汚れた部分を水で洗わなければなりませんでした。
このように、神を信じるすべての人が汚れたものや、きよくないものと接するときはいつでも、洗盤の水はそのような汚れをすべて洗い流すために用いられます。要するに、洗盤の水は新しく生まれている者の汚れを洗い流すために用いられるよう、与えられたのです。そのため、洗盤には神のあわれみが含まれています。洗盤の意味は、信じるか信じないかを選択できる選択項目ではなく、イエスを信じる者にとって絶対に必要な必須項目です。
神は、幕屋の他のすべての道具の大きさを定められ、高さ、長さ、幅であるべきキュビトの数を指定なさいます。しかし、神は洗盤の大きさを指定なさいませんでした。これは洗盤特有の特徴です。これは、毎日実際の罪を犯す私たちに、メシヤがお与えになった無限の愛を啓示しています。このメシヤの愛には、すべての罪を洗い流す按手のかたち、つまりバプテスマが見られました。祭司たちが務めをしている途中に汚れたとき、大量の水を使わなければならなかったので、洗盤は常に水で満たされていなければなりませんでした。したがって、洗盤の大きさはこの必要性に依存していました。洗盤は青銅でできていたので、祭司は水で洗われるときはいつでも、罪の裁きを思い起こしました。
幕屋で仕えていた祭司は、手と足の汚れをすべて洗盤で洗い流さなければなりませんでした。青銅が神のさばきを啓示するなら、水は罪の洗いきよめを啓示します。へブル人への手紙 10:22 は、「からだをきよい水で洗われた」と告げており、テトスへの手紙 3:5は、「聖霊による、新生と更新との洗い」と告げています。こうした聖句のように、新約聖書のみことばも、バプテスマの水で汚れを洗い流すことについて多くを語っています。
祭司たちが自分たちの生活の中で生じた汚れを洗盤の水で洗い流したなら、今日の新しく生まれたキリスト教徒である私たちは、イエスのバプテスマを信じることによって、私たちの生活で犯した実際の罪をすべて洗い流すことができます。旧約聖書の洗盤の水は、メシヤこの地上に来られ、ヨハネからお受けになったバプテスマで、世の罪をすべて洗い流していることを示しています。
神は聖書を通して、イスラエルの民が犯した罪だけでなく、人類の歴史全体のすべての人々が犯した実際の罪はすべて、ヨハネからお受けになったバプテスマでイエスに移されたのだと教えておられます。イエスがヨハネからバプテスマを受けられたとき、イエスはマタイの福音書 3:15 で次のようにおっしゃいました。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」 イエスは、人類の代表ヨハネから、同じ按手の形であるバプテスマをお受けになることによって、人類の罪をすべてご自分のからだに受け入れられたのです。
したがって、私たちのすべての罪がバプテスマによって、メシヤであられるイエスの上に移されたと信じることによって、私たちは心の汚れた罪をすべて洗い流すことができます。私たちはすでにこの真理を信じることによって、すべての罪をイエスの上に移したので、私たちがすべきことは、神の御子が世の罪を十字架まで運ばれ、十字架につけられ、ご自分の血を流され、人類のために完全ないけにえのささげ物になられ、それによって私たちをすべての罪から救い出されたと信じることだけです。これをみなさんの心で信じていますか。メシヤが私たち自身のいけにえのささげ物になられたと、ほんとうに信じる人々は永遠に救われます。
 
 

実際の罪の問題も、イエスのバプテスマを信じることによって解決される

 
聖書は、実際の罪をすべて洗い流す方法を教えてくれているでしょうか。旧約聖書で、祭司は洗盤の水で汚れを洗い流したように、新約聖書では、イエスがヨハネからお受けになったバプテスマを通して、世の罪をご自身に負われて、イエスは神の義を成就なさっておられると信じることによって、実際の罪の赦しを受けることができます。結局、すべての罪は真理を信じることによって洗い流されるのです。
イスラエルの民が神に罪のためのいけにえをささげる時、彼らは羊またはやぎのような傷のないいけにえの動物を幕屋に連れてきて、罪を告白し、そのいけにえの動物の頭の上に手を置いて、罪をすべていけにえに移し、罪を受け入れたこのいけにえのささげ物を殺しました。それから、その喉を切り、その血を取り、全焼のいけにえの祭壇の角に血を塗り、残りを地面に注ぎました(レビ記 第4章)。一年分の罪でさえ、贖罪の日の罪のためのいけにえを通して、信仰によって一度に贖われました (レビ記 第16章)。結局のところ、旧約聖書の罪のためのいけえにと同じ方法――すなわち、ささげ物と同じ方法、すなわち、私たちの罪を消しに来られたメシヤのバプテスマと十字架の血を信じることによって、罪の赦しを受けるのです。
旧約聖書の按手は、新約聖書でイエスがお受けになったバプテスマと同じです。私たちのメシヤは、ヨハネからバプテスマをお受けになり、十字架につけられることによって、すべての罪を処理なさって洗い流されました。神が私たちをすべての罪から完全にお救いくださっているのは、メシヤのバプテスマと十字架の血のみわざによるものであるのに、罪を赦されるために私たちにできることは、これ以上あるでしょうか。私たちが覚えて、信じておかなければならないことは、私たちの弱さのために日常生活で罪を犯したとしても、こうしたすべての罪は水と血とを通して来られたイエス・キリストによって洗い流されたということです。私たちは神を信じているにもかかわらず、私たちの欠点のため、私たちはまだ弱さと不法に陥っています。しかし、このすべてをご存じである私たちの神は、メシヤをこの地上に遣わされ、バプテスマによって人類の罪をメシヤの負わせ、メシヤをいけにえとなさることによって私たちをお救いくださいました。
全焼のいけにえの祭壇と洗盤を幕屋の庭に置くことによって、神は私たちが、神の家である聖所に入る前に、毎日犯したすべての実際の罪を洗い流すことをお許しになっています。しかしこれは、日々の悔い改めの祈りで実際の罪を洗い流すことを想定しているという意味ではありません。
それどころか、私たちのすべての罪をきよめるのは、メシヤのバプテスマと十字架での血への信仰です。神は、義人がイエスを信じた後に過ちを犯し、罪と悪行を犯すとき、洗盤の主であられるメシヤがお受けになったバプテスマを信じることによって、そのような罪をすべて洗い流されなければならないと定められました。
多くの人々は、イエスの負われた罪と裁かれたことを、盲目的に一つの束に結びつけて、それらを同じであると考える傾向があります。しかし、私たちは弱さから日々実際の罪を犯すので、罪の洗いきよめと罪のさばきは、二つに分けられなければならないのです。イエスがヨハネからお受けになったバプテスマと十字架での死とは、すべての罪を負われ、そうした罪をさばかれ、私たちを罪から完全に救われるためでした。この信仰のうちに、私たちはこうして罪のさばきを一度に受けることができます。このように、私たちの実際の罪の問題は、メシヤのバプテスマを信じることによって解決されなければなりません。一つの完全な救済が完成されるのは、バプテスマと十字架の二つの要素を結びつけることによるのです。これが、罪の完全な赦しの真理なのです。私たちの罪の問題の解決に関する限り、私たちはイエスのバプテスマと十字架を互いに分けることによって、それを考え、信じなければなりません。
祭司が幕屋でいけにえの動物を殺したとき、彼らは汚れと血を飛び散らすことによって汚されました。私たちは、彼らがどれほど汚れたか想像することすらできません。祭司はこの汚れを全部洗い流さなければなりませんでしたが、幕屋の庭の洗盤に水がなかったら、彼らはそうすることができなかったでしょう。一年分の罪を赦した大祭司であろうと、普通の祭司であろうと、洗盤の水ですぐに自分の汚れを洗い流すことなく、この人はまだ汚物とともに暮らさざるを得ませんでした。
大祭司があらゆる汚物を持っていたとしても、幕屋の庭に洗盤があったので、彼は常にきよめられることができました。祭司が一年の全体の罪を完全に赦されたとしても、この人がきよめられるのは、日々の罪をこうして洗い流すことによってでした。神は、神にいけにえをささげた祭司たちが、このように彼らの汚れをすべて洗盤で洗い流さなければならないとお定めになりました。そうして、私たちは神がなぜ洗盤を幕屋の庭に置いたのかがわかります。また、なぜこの洗盤が全焼のいけにえの祭壇と聖所の間に置かれたのかを知ることができます。
 
 
なぜ私たちは洗盤を必要とするのか
 
洗盤に暗示されている真理とは、ヨハネの福音書 第13章に啓示されています。過越祭の間に、最後の晩餐を弟子たちとともに過ごした後、イエスは弟子たちの足を洗い始め、ペテロの番が来ました。イエスが彼の足を洗おうとなさったとき、ペテロの足を洗えるように足を差し出すようにおっしゃいました。しかしながら、ペテロは、「私があなたの足を洗うべきですのに。主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか」と言って、断りました。
ペテロは、先生がその弟子たちの足を洗うのはふさわしくないと思ったため、断りました。「どうして先生に足を洗うように頼むことができるというのですか。できません。」
ペテロはイエスの奉仕を断り続けました。ここでイエスがペテロに語ったことは、きわめて重要です。
「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります」 (ヨハネ 13:7)。これがイエスのおっしゃった意味です。「あなたは、わたしがなぜ足を洗わなければならないのか、今は理解できない。しかし、これが確かにあなたの実際の罪の問題を解決する鍵となるだろう。あなたはこれから多くの実際の罪を犯すことになるが、わたしはあなたの将来の実際の罪さえも、わたし自身にすでに負っているのだ。こうした罪のために、わたしは十字架でわたしの血を流さなければならない。したがって、あなたはわたしがあなたの将来の実際の罪さえも処理したメシヤであることを知り、信じなければならない。」
ペテロの心において、メシヤが自分の足を洗ってくださることは単純に非倫理的であるように見えたので、ペテロは洗われることを拒否しました。しかし、イエスはペテロに「あとでわかるようになります」とおっしゃり、ペテロの足を洗われました。
「わたしがあなたの足を洗うときにのみ、あなたはわたしと関係を持つことができる。わたしがなぜあなたの足を洗っているのか、今はあなたにはわからない。だが、わたしが十字架につけられて天の御国に昇天した後、わたしがなぜあなたの足を洗っていたか、わかるようになる。わたしはあなたのメシヤだから、わたしはすでにあなたの将来の罪さえも、わたしのバプテスマで背負い、あなたの罪のためのいけにえのささげ物となることによって、わたしはあなたの救い主になっているのだ。」
私たちの主がおっしゃったように、ペテロはその時何も理解していませんでしたが、主のよみがえりの後、ペテロはそれを悟るようになりました。ほんとうに、これはペテロの実際の罪さえも消し去った出来事でした。
「私はこの世で実際の罪を犯さざるを得ないので、メシヤであられるイエスがバプテスマのヨハネからのバプテスマで、こうした実際の罪さえもご自身に負ってくださったのだと信じる。メシヤのバプテスマは、こうした将来の実際の罪さえも処理なさった。イエスはバプテスマによって、こうしたすべての罪をご自分で負われ、世の罪を十字架まで運ばれ、十字架につけられることによって、すべての罪の罰をお受けになった。そして死者の中からよみがえられることによって、イエスは私たちをすべての罪からほんとうに、そして完全にお救いくださっているのだ。」
後になって初めて、ペテロは主を三度裏切りさえした後、これを悟り、信じるようになりました。ペテロが、ペテロの手紙第一 3:21 で、「そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです」と語ったのは、このためです。ここで、「型」という言葉は、「旧約聖書に対応している新約聖書の人物など、以前のタイプまたは象徴によって予示されたり、特定されたりするもの」を意味します。ですから、前の文脈は、イエスのバプテスマがまさに旧約聖書の「水」の対型であることを明確に告げています。
旧約聖書では、一年分の罪の赦しを受けるために、贖罪の日の罪のためのいけにえが神にささげられたとき、イスラエルの民を代表する大祭司は、いけにえの上に罪を移すために、いけにえのささげ物に両手を置いて、イスラエル人が犯してきた罪を告白しなければなりませんでした。この按手の方法は、イエスのバプテスマと同じ形式でした。旧約聖書では、いけにえのささげ物がすべてのイスラエル人の罪を受け入れたため、そのささげ物は血を流して死ななければなりませんでした。喉が切られ、すぐに血がすべて流されました。それから祭司は、動物の皮をはぎ、それを部分に切り分け、そしてその肉を火で焼いて、それを神にささげました。
旧約聖書のいけにえのささげ物の実体であるメシヤが、この地上に来られ、按手を通して私たちの罪を受け入れ、十字架で血を流され、私たちの代わりに死なれたのです。したがって今日、みなさんと私は、イエス・キリストのバプテスマと十字架での死を通して、罪の赦しを受けています。そして、私たちの日常生活の中で犯された実際の罪は、主がお受けになったバプテスマと十字架で流された血とで、すでにきよめられていると信じることによって、私たちの毎日の生活で犯された実際の罪を洗い流さなければなりません。私たちはこの真理を知り、信じなければなりません。私たちは、イエスがご自分にすべての罪を負わされ、バプテスマによってすべての実際の罪を洗い流されたと信じたときにのみ、そのすべての罪から救われることができます。つまり、実際の罪を犯すときはいつでも、水と御霊の福音への信仰を確認しなければなりません。そして、こうした実際の罪でさえイエスのバプテスマと十字架ですでに消されているという真実を反芻することによって、私たちはいかなる場合でも救いを失うことはできず、罪悪感に襲われたときはいつでも救いを一度に回復することができます。
日常生活で罪の赦しを受けている義人が犯した毎日の罪さえも、イエスがすでに消し去っておられるので、罪の赦しが水と血と御霊によってもたらされた、これらの義人は、水と御霊の福音への信仰を通して、実際の罪を洗われるように、神は彼らに洗盤をお与えになりました。
神が、会見の天幕で仕えていた女性が使用していた手鏡は自分自身の反射を提供するために、それを集めて溶かすことによって、洗盤を造られたのは、このためです。私たちの弱さのために実際の罪を犯し、絶望に陥るたびに、私たちは洗盤のところに行き、手と足を洗わなければなりません。洗盤の役割とは、イエスがヨハネからバプテスマをお受けになったときに、人類の罪を一度にすべて背負われたことを思い出させることです。私たちの主が、こうした女性の手鏡を溶かすことによって、イスラエル人に洗盤を作らせ、それを水で満たし、この水で祭司の手と足の汚れをすべて洗いきよめるために祭司にお与えになったのは、罪の赦しを受けている義人にこの真理を教えるためだったのです。
私たちは、イエスが神の御子、創造主、人類の救い主であると信じています。そして、私たちはメシヤが人の肉のかたちで、この地上に来られ、ヨハネからお受けになったバプテスマを通して、ご自身のからだに移されたすべての罪を受け入れられたことを覚えておかなければなりません。つまり、この世で実際の罪を犯したり、自分の弱さに陥ったり、弱さが明らかになったときはいつでも、メシヤが肉のかたちで来られ、バプテスマをお受けになって十字架につけられ、それによってすでにすべての罪を消し去っておられることをさらに思い出さなければなりません。
私たちがこれを覚えておらず、信じていないなら、たとえ罪の赦しを受けているとしても、私たちは再び実際の罪に縛られ、古い罪深い自分に戻ることになります。ですから、私たちの弱さと欠点のために犯したすべての罪は、すでにイエスのバプテスマを通してイエスに移されているのだと、毎日信じなければなりません。メシヤが、ヨハネから受けたバプテスマで私たちのすべての罪を負われ、それらをすべて洗い流されたことを、毎日思い出し、もう一度信じ、確認しなければなりません。
イエスがヨハネからバプテスマをお受けになり、血を流されることによって、世の罪を負われたことを信じずに、イエスを信じることによって、罪の赦しを受けることができる人は、この地球上で誰ひとりいません。そして、たとえ人々が罪の赦しを受けているとしても、実際の罪を犯さない人は一人もいません。ですから、イエスのバプテスマを信じなければ、誰もが罪深く、決して神のみこころがすべての人に成就されることはなかったでしょう。神が私たちに御子をお与えくださり、ヨハネからバプテスマを受けさせ、血を流させるために御子を十字架にささげられたのは、このためです。
イエス・キリストを私たちのメシヤと信じるなら、私たちのすべての罪は、ヨハネからお受けになったバプテスマを通してイエスに移され、十字架まで世の罪を運ばれ、十字架につけられ、血を流されることによって、すべての罰をお受けになったと信じなければなりません。私たちは、イエスのバプテスマと血を信じることによって、罪の赦しを受けます。私たちの罪はすべて、この真理を信じることによって消されています。私たちは心で神の愛を信じることによって義に達しているのです。私たちの心は今、罪がなく、きよく、汚れがありません。しかし、私たちの肉にはまだ欠点があります。私たちが毎日イエスのバプテスマを覚えておいて、常にこの信仰を思い出さなければならないのは、このためです。私たちの欠点と弱点が明らかになったときはいつでも、悪い考えが浮かんで私たちが汚されたときはいつでも、邪悪な考えが立ち上がって私たちが汚されたとき、および私たちの行動が誤った状態に向かうときはいつでも、イエスがヨハネからお受けになったバプテスマで、そうしたすべての罪を負われ、この真理をもう一度信じて心をきよめられたことを覚えているときにのみ、私たちの主は喜ばれるのです。
私たちは罪を犯すときはいつでも、まず神の前で罪を認めなければなりません。それから、こうしたすべての罪がすでにバプテスマを通してイエスの上に移されたことをもう一度信じなければなりません。イエスのバプテスマのみわざによってきよめられている私たちは、このみわざを信じることによって毎日の実際の罪をきよめられなければなりません。私たちがイエス・キリストのバプテスマを通してすべての罪を洗い流すことができるという事実を絶対に覚えておいて、信じなければならないのは、このためです。
神が全焼のいけにえの祭壇と幕屋の間になぜ洗盤を置かれたのかを調べています。私たちが神のところに行く前に、きよい体と心で行けるように、神は全焼のいけにえの祭壇と幕屋の間に洗盤を置かれたのです。私たちは、イエスのバプテスマと十字架を通して完全な罪の赦しを受けている義人になった後でも、私たちの心は、喜んでも不本意でも、罪を犯すたびに汚される傾向があります。私たちが全焼のいけにえの祭壇を通り過ぎて神の御前に行くとき、私たちは洗盤でこの汚れをきよめなければならないのは、このためです。私たちがすべての汚れの中で最も小さな汚れさえあるなら、神の前に行くことができないので、洗盤の水で洗い流して、きよさのうちに神の御前に入ることができるように、神は全焼のいけにえの祭壇と幕屋の間に洗盤を置かれたのです。
 
 
神の前で正しい良心とは、どのような良心なのか
 
ペテロの手紙第一 3:21 では、イエスのバプテスマを「正しい良心の神への誓い」と定義しています。ここで、「正しい良心」とは、イエスがヨルダン川でヨハネからお受けになったバプテスマで、毎日犯されるすべての実際の罪を含む、人類のすべての罪をイエスが洗い流されたことを信じている人です。私たちの罪を主ご自身が負われるために、私たちの主はヨハネからバプテスマをお受けになり、それによって私たちの罪をご自分のからだに受け入れられました。イエスは私たちのすべての罪をご自分のからだに負われたので、十字架で死ななければなりませんでした。私たちが主のなさったことを無視し、信じないなら、私たちの良心は邪悪になるだけです。私たちがイエスのバプテスマを信じなければならないのは、このためです。私たちは神の前に正しい良心がなければなりません。肉においては、100%完全に生きることはできないでしょうが、私たちは少なくとも自分の良心において、神の前で正しい良心を持つことができなければなりません。
約半世紀前、朝鮮戦争の廃墟で韓国がすべてを失ったとき、窮状を和らげるために外国からの援助が殺到しました。孤児院は最初にそうした援助を受けることになっていたにもかかわらず、そうではなく、悪質な人々の中には、それらを自分のポケットに入れ、自分の富を築いた人もいました。彼らには良心がありませんでした。外国が粉ミルク、小麦粉、毛布、靴、衣服、その他の援助物資を贈ったとき、サポーターが、悲惨のうちに裸で空腹の人々がきちんと服を着せられ、養われるように、送ってくれました。一部の邪悪な公務員や詐欺師は、そうした援助品を転用するであろうことを想像すら、ほとんどできませんでした。
正しい良心のある人々は、彼らを貧しい人々の間で公平に分配したでしょう。外国の援助を自分たちの富を築く機会に変える代わりに、飢え死にしそうになっている貧しい人々の間に公平に分配した人々は、正しい良心をもって生きていたために、神の前で恥じることは何もなかったでしょう。しかし、そうしなかった人々は、自分たちの良心によって盗人であると非難されたでしょう。もちろん、こうした盗人が今でも悔い改めてイエスのバプテスマを信じるなら、罪をすべて洗い流されることができるでしょう。
私たちの罪をイエスご自身に負われ、実際の罪をすべて消し去るために、イエスはこの地上に来られ、バプテスマを受けられたのです。このようにヨハネからバプテスマをお受けになって、イエスは一度で私たちの罪を洗い流されました。「では、あなたに何がイエスのバプテスマを信じないほどに誇りに思わせているのですか。あなたはどんな自信をもって信じていないのですか。イエスのバプテスマへの信仰なしに、天国に入るには十分良いのですか」と言って、イエスのバプテスマを信じない人々を非難したいと思います。
私たちがほんとうに正しい良心のある人々になりたいのであれば、イエスがヨハネからお受けになったバプテスマによって、実際の罪をすべて洗い流さなければなりません。そうするために、私たちは、イエスが私たちの全生涯で犯す、すべての罪をご自分に負われ、そうした罪をすべて洗い流されていることを心に信じなければなりません。私たちのメシヤであられるイエスが、十字架に行かれる前にヨハネからバプテスマをお受けになったのは、このためです。
姦淫の場で捕えられたひとりの女に、イエスはおっしゃいました。「わたしもあなたを罪に定めない。あなたをさばくこともしない。」 なぜでしょう。イエスはすでにこの女の姦淫の罪をご自身に負わされていたため、またイエスご自身もこの罪の罰を受けることになっていたからです。イエスは、おっしゃいました。「わたしはあなたの罪のために罰される人である。しかし、わたしのバプテスマを信じて、あなたのすべての罪を洗い流されなさい。だから、わたしを信じて、あなたのすべての罪から救われなさい。また、信仰によって罪のすべての罰から救われ、すべての罪を洗い流されなさい。あなたの良心の罪がきよめられ、わたしから水を飲むと、二度と喉が渇くことはありません。あなたの良心の罪を清め、二度と渇かないように、わたしから水を飲みなさい。」
今日、みなさんと私は、イエスが私たちを罪から救われた方であると信じています。イエスが確かにバプテスマによって私たちの罪を負われ、すべて洗い流されたとほんとうに信じていますか。私たちの主は、バプテスマをお受けになることによって、罪をきよめられました。私たちは今、正しい良心のうちに神のところに行くことができます。なぜでしょう。私たちの主はすべての罪をご自分に負われ、バプテスマをお受けになることによって、罪を洗い流され、こうした罪を十字架に運ばれ、十字架につけられ、私たちの身代わりとなって罰され、死者の中からよみがえられました。ずいぶん前、イエスはこの地上に来られ、33年の生涯を通して、バプテスマによって、私たちの罪をすべて負われ、そうした罪を洗い流されたのです。
私たちの行ないによる罪でさえ負われて洗い流されることによって、主は私たちが神のもとに行き、義人となり、イエス・キリストのいけにえを通して、すべての罪をさばかれるようにしてくださっています。つまり、私たちが神を父と呼び、神の御前に行くことができるのは、この主を信じることによってなのです。そのように、イエスの水と血と御霊のみわざを信じる者は、正しい良心を持っている人です。それとは対照的に、イエスのバプテスマと磔刑である主の義のみわざを信じないのは、確かに邪悪な良心を持つ人なのです。
 
 
今日、多くの人々は迷信的な信仰のために神のみことばを真剣に取らない
 
神のみことばを単なる装飾品であるかのように捨てる多くの嘘つきたちは、天の御国に入るには神への信仰に対しても善を行うべきだと宣べ伝えるだけです。そして救済に関しては、彼らは十字架の血についてのみ話し、肉の経験を通して神にお会いするために祈ったり、断食するために山に登らなければならないと間違って考えます。この信仰ほど間違っているものはありませんが、彼らは絶対に確信しています。彼らは次のように言います。「私は自分の罪に悩まされたので、一晩中起きて祈りました。『神よ、私は罪を犯しました。主よ、あなたを信じます。』 その日、私はまだ夜も悩まされましたが、徹夜で祈り続けた後、夜明けが来たとき、突然、火の塊が私に押しつけられたかのように感じました。そして、ちょうどその時、私の心はすっかりきよめられたのです。つまり、私の心の罪は雪のように白く洗い流されました。ですから、私が新しく生まれたのは、この時でした。ハレルヤ。」
そのような考えは、神のみことばを無益に変える、人が作り出した無知で愚かな考えでしかありません。そのような神秘的な無益なことを言い、それによって人々を欺き、他の人を地獄の火に導く人々を、神が多くの折り目で罰せられることを覚えておかなければなりません。
「私の耳はとても痛いです。しかし、私たちが信じるなら、癒されると、主がおっしゃったことを信じました。『主よ、信じます』と言って、私の痛みに耐えました。私がこのように信じたとき、その痛みはすべて消えたのです。」
「私は潰瘍(かいよう)にかかっていたので、何かを食べるたびにひどい腹痛を感じました。それで食べる前に私は祈りました。『主よ、私はここが痛いです。しかし、あなたは私たちが信仰をもって祈るすべてのものをお聞きになるとおっしゃいました。私はまだあなたのみことばを信じています。』 案の定、消化に問題はありませんでした。」
こうしたことは、何でしょう。これらは人々がみことばを通して主に会わなかった場合です。こうした事件は、みことばを信じない信仰の偽りを示しています。これらは、みことばを通して受けた彼らの祈りに対する答えではなく、ただ彼らの神秘的な信仰です。彼らはみことばではなく神を信じますが、自分の感情や経験に基づいた誤った混乱を信じています。とても残念で悲しいのは、今日のキリスト教徒には、そのような神秘家が非常に大勢いるということです。
このように、神のみことばを脇に押し出し、彼らの感情や経験に基づいて盲目的にイエスを信じることは、迷信的な信仰にすぎません。 みことばによって信じていないのにイエスを信じていると主張する人々は、自分が悪霊に憑かれているかどうかを調べる必要があります。「私は祈りながらイエス様に会いました。イエス様は私の夢の中に現れました。私は熱心に祈り、私の病気は癒されました。」 口が半分無傷の人なら誰でもそのような主張をすることができますが、これは神から与えられた信仰ではなく、サタンから与えられた偽りの信仰であることは明らかです。
青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を通して、主は私たちにご自身を明らかになさっています。私たちの主は、今日の時代に、新たな異なる方法でご自身を明らかにしておられるのでしょうか。イエスは本当に幻想や夢の中で私たちの前に現れるのでしょうか。イエスはご自分の足に巨大な鎖を引きずり、血を流していて、頭にとげの冠があり、こう言います。「よろしいですか。このようにして、わたしは、あなたのために非常に苦しみました。さて、あなたはわたしのために何をしますか。」――このように、主は私たちにご自身を明らかになさるのでしょうか。これはすべて、たわごとです。
それでも、このような夢を見た後、次のように神の前で誓いを立てる人々がまだいます。「主よ、私はあなたのしもべとなり、残りの人生で心を尽くしてあなたに仕えます。ここに礼拝堂を建てます。ここに教会を建てます。私はこれからもずっと自分の十字架を負い、国全体と世界全体であなたをあかしします。」
実際、通りや公共の場でそのような祈りの説教者に容易に出くわすことがあります。彼らも例外なく、夢の中でイエスを見たり、祈りながら主の声を聞いたりして、このように生きることを決心したと言う神秘家です。しかし、主はみことばを通してのみ、ご自身を明らかにされます。特に神のみことばがすべて人類に完全に与えられた、この時代に、イエスは夢の中で、または私たちが祈っている間、私たちに語られることはありません。夢は人間の潜在意識の複雑な領域から生まれます。こうした人々は、片思いのうちにイエスについてあらゆる想像力をもち、ただ考えすぎているため、このような夢を抱いているのです。
眠りにつく前にいくつかの問題について深く考えていると、夢の中でこの問題に取り組んでいることに気づくでしょう。このように、夢はみなさんの潜在意識から作られています。考えすぎると、色んな奇妙な夢が見られるのは、このためです。それらはすべて信仰とは何の関係もありませんが、物理的な変化や潜在意識の反映にすぎません。
人々がイエスの十字架での血について多くのことを考えるなら、彼らの夢の中で、イエスは頭にとげの冠をかぶって現れるのは、このためです。それ自体、そのような夢には何の問題もありません。しかし、この夢を真剣に受け止めることは重大な間違いです。イエスが彼らの前に現れ、血を流し、実際にこうおっしゃったとしたらどうでしょう。「あなたはわたしのために何をしてくれますか。あなたは残りの生涯をわたしのために禁欲主義者として生きなさい。わたしのために、あなたは何の所有物も持ってはならない。」 彼らがこのように生きることができるように、実際にすべての所有物をささげる愚かな人々がいます。真剣に受け止めた夢のために恐怖を感じた人、あるいは、それによって人生が変わった人がおられるでしょうか。これは、神秘主義にほかなりません。
神は、みことばを通して私たちに会ってくださいます。神は私たちが祈りのうちに夢や幻想でお会いできる方ではありません。神のみことばは旧約聖書と新約聖書に記されており、私たちの霊がみことばを通して神にお会いできるのは、私たちに説かれたみことばを聞いて、それを心に受け入れるときなのです。言い換えれば、みなさんの霊が神にお会いできるのは、みことばを通してであり、唯一みことばを通してなのです。
イエスがバプテスマによってご自分にすべての罪を負われたことを知るようになったのは、みことばからです。私たちが心で信じるようになっているのは、このみことばを聞くことによってです。イエスがなぜ十字架で死ななければならなかったのかという質問に対する答えは、みことばにもあります。イエスが十字架で死なれ、私たちをお救いくださっているのは、イエスがバプテスマをお受けになって私たちの罪を負われたからです。私たちは、みことばによって神を知るようになり、みことばによって神を信じるようになるのです。イエス・キリストが神であることもまた、みことばを通してのみ知られ、信じられています。
 
 
私たちはどのように神を信じるようになったのかそれは神の記されたみことばのためではなかったのか
 
神のみことばがなかったら、どうして私たちはすべての罪を消したイエスにお会いし、信じるようになったのでしょうか。神のみことばがなかったら、私たちの信仰は何もなかったでしょう。「これは私が思うことだ」――私たちは自分の考えを口に出すでしょうが、これは真理ではありません。私たちの心が真実ではないもので満たされているとき、本物の真理は私たちの心に入ることができません。言うべき正しいことは、「これは私が思うことだ」ではなく、「これは聖書が告げることだ」です。私たちが聖書を読むとき、神によって語られた真理が私たちの心に伝わり、私たちの以前の考えの誤りを訂正します。
水と御霊の福音へのみなさんの信仰は何でできているでしょう。それはみなさん自身の考えでできているのでしょうか。あるいは、みことばを聞いて水と御霊の福音を知り、信じるようになって新しく生まれている者になったのでしょうか。私たちが心で神を信じてお会いするようになっているのは、みことばによるのです。幕屋の庭の門が青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布で刺繍されていたのは、このためです。
洗盤に溜められた水とは、イエス・キリストが私たちの罪をすべて負われたバプテスマを意味します。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです」(マタイ 3:15)。神のみことばを通して、私たちはイエスがご自分に世の罪を負われたバプテスマを知るようになりました。みなさんと私が生涯に犯す罪をすべて負われたイエスのバプテスマを知るようになったのは、みことばですから、このみことばは私たちの心にバプテスマの信仰を持たせているのです。洗盤に啓示された真理を見いだすようになるのは、みことばによるのです。
神のみことばから、洗盤が青銅でできていたことが分かります。聖書では、青銅はさばきを意味します。このように、青銅の洗盤の意味とは、自分自身を映す鏡の役割を果たしている律法の前に自分自身を見ると、私たちはみな罰されることになるということです。洗盤が幕屋で仕えている女性の鏡で作られたのは、このためです。主は、この地上に来られ、バプテスマをお受けになって、十字架で死なれることによって、罪のために罰されることを免れなかった私たちをお救いくださっています。私たちは、記された神のみことばを通して、イエスが私たちの罪をすべてご自身に負われ、十字架に行かれ、罪の罰を受けてくださったのは、バプテスマを受けられたからであったと知るようになりました。そして、私たちが救われているのは、この真理を心に受け入れて信じることによってなのです。みなさんはどうでしょう。みなさんはどのように救われていますか。
神秘主義に従うある宗派で、彼らは自分のメンバーが救われた月日がいつであるか、その救いの正確な日付を知っていなければならないと主張します。そして、この宗派の牧師は、イエスを信じて祈るために山に登り、自分が何者でもないことを悟ったときに救われたのだと、多くの信者たちの前であかししたと言われています。その人は、自分が新しく生まれた正確な日時を決して忘れていなかったことを、非常に誇りに思って主張しました。これは確かに撚り糸で織った亜麻布とは何の関係もありませんが、感情的にすぎません。この牧師の信仰は、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布とは何の関係もありません。この宗派によって教えられた救済は、神のみことばによってできた真の救済とは何の関係もなく、それは彼ら自身の行いによるものです。
実際に自分自身に催眠術をかけることは可能です。人々は自分たちが罪のない者だと主張し続け、このように何度も考え続けると、自分たちで催眠術をかけてしまい、罪のない者になります。彼らがこの呪文を自分に唱え続けるなら、彼らは実際にほんとうに罪のない者になったように感じるかもしれませんが、そのような感情は長く続くことはありません。ですから、すぐに彼らはまた「私は罪がない人。私は罪がない人」と唱えて、催眠術をかけなければなりません。これは、なんという自己中心的で、真実ではなく、無知で、迷信的な信仰でしょう。
撚り糸で織った亜麻布とは、旧約聖書と新約聖書の神のみことばを意味します。青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布で刺繍されていた幕屋の庭の門、聖所の門、至聖所の門はみな、イエスが私たちの救済の入口になられ、旧約聖書と新約聖書に記されているとおりに私たちの救い主になっておられることを告げています。したがって、神が私たちに語られている、この救済がどれほど確実であるか、神にほんとうに感謝します。
私が祈るとき、私は感情に訴えることやショーを催すこともしないのは、このためです。私はすべてを神に任せ、神を信じて祈るだけです。「父よ、私たちを助けてください。私たちに、全世界に福音を宣べ伝えさせてください。私の仲間のすべての伝道者と聖徒たちを守ってください。福音に仕えることができる働き手をください。この福音が広まるようにしてください。信者たちがあなたのみことばを悟るようにし、信じるようにさせてください。」 これが、私が祈るときに言うことです。私は自分の感情をかき立てるように祈ったり、泣いたりしません。このちんぷんかんぷんのどれも私の祈りの一部ではありません。
一部の人々は、どんなに頑張っても感情を揺さぶることができないとき、長い間死んだ父親や母親が涙を流し、他の人に真剣に受け止められるように祈りをささげることさえ考えます。そのような発明された祈りは、神に吐き出させるゴミの束のようなものです。人々はまた、イエスの磔刑を考えて感情をかき立て、盲目的に「主よ、私はあなたを信じます!」と叫び続けます。
しかし、これは本当にそのような人々の信仰が強いことを意味するのでしょうか。みなさんが自分の罪について考え、「主よ、私は罪を犯しました。私が義にかなった生活を送れるように助けてください」と言って、感情をかき立てようとするなら、実際に自分を感情的に奮起させる可能性がかなり高いです。そのような感情的な経験と思い切り泣く集会を持つことは、多くのストレスを発散させることができるので、多くの人々がリフレッシュして、これが信仰のすべてであると考えます。彼らの生活は問題に満ちていますが、そのような感情的な経験は、少なくとも、しばらくの間彼らをもっと良い気分にさせるので、このように宗教生活を続けます。
 
 

あなたは、主が青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を通して私たちのところに来ておられると信じなければならない

 
私たちの主は、みことばを通して私たちのもとに来られました。したがって、みなさんは自分の感覚を待つべきではなく、神のみことばがみなさんに告げることを聞かなければなりません。重要なのは、この神のみことばを心で信じるかどうかです。みなさんが祈るとき、自分の感情に集中しようとしないでください。むしろ、その感情を適切なレベルに制御すべきです。なぜでしょう。この世には、彼らの感情的な穴を利用するために感情的に興奮し、啓示を受けたい人に近づく多くの嘘つきたちが大勢いるからです。人々は感情を追求することによって知的部分を失うことがよくあるため、「偉大な霊的復興」の旗の下で復興会が開かれるとき、多くの場合、狙いは参加者の感情を刺激することだけです。
しかしながら、神のみことばを宣べ伝えることは、このような世界の偉大な霊的復興会のような人々の感情を刺激しないために、私が新しく生まれている今、私が試みたとしても、そのような復興会を続けることはできません。私は、真理のみことばによって新しく生まれているので、長い間、私の霊的な生活に侵入していた感情的な側面に別れを告げてきました。
神のみことばを聞き、私たちの知性を用いて、心の中で信じる私たち義人は、決して感情的に興奮するのは好きではありません。私たちは、誰かが神のみことばをありのまま語っているのかどうかをすぐに認識し、この人がほんとうにみことばを信じて語っているのかどうかをすばやく見極めることによって、真理を信じています。青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布の真理を知って信じている私たちの心には、聖霊がおられるので、私たちはみな、感情的な刺激が真理とはかけ離れていることを認識し、心に本物の真理だけを受け入れます。
イエスは、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布によって、私たちのもとに来られました。この真理はどれほど素晴らしいでしょう。みなさんをお救いくださっている主の愛は、どれほど素晴らしいでしょう。神のみことばに記されたイエスの四重のみわざを通して、私たちはみな、イエスがバプテスマによって私たちの罪をすべて負われ、十字架で死なれ、それによってすべての正しいことの成就によって、みなさんをお救いくださっているのだと信じるようになっています。
この真理を心の中で信じているでしょうか。福音を宣べ伝える人々は、撚り糸で織った亜麻布のうちに、つまり旧約聖書と新約聖書の神のみことばのうちに、福音を広めなければならず、その中身は青色、紫色、緋色の撚り糸でなければなりません。そしてそれを聞く人々は、それを心に受け入れ、心からそれを信じなければなりません。
 
 

洗盤の水が私たちの罪を洗い流す

 
イエスはバプテスマを通して、私たちの罪をすべて負われ、すべて洗い流されました。イエスのバプテスマは、洗盤の水を指します。それは、罪のために地獄に定められた私たちを清め、神の御前に立たせることを可能にしています。イエスはバプテスマを通して、すべての罪をご自分に受け入れられたので、十字架に行くことがおできになり、十字架につけられて、そうした罪を洗い流されました。イエスのバプテスマと十字架の両方は、イエスがすべての罪の罰を受けてくださったことをあかしします。バプテスマと十字架を通して、イエスは私たちのすべての救済を成就なさいました。
悔い改めの祈りをささげても、決して私たちの罪をきよめることはできません。私たちの罪がすべて洗い流されているのは、イエスがバプテスマによってすでに私たちの罪を負われたからです。私たちがすべての罪の罰から解放されているのは、このみことばを聞いて、イエスが私たちのためにしてくださったことを信じることによってなのです。イエスが受けてくださった罰のおかげで、私たちはすでにイエスのバプテスマへの信仰を通して罪の罰を受けているのです。ほんとうに、私たちは信仰によって救われています。ある意味では、救済はまったく単純です。救済の賜物と愛を信じるなら救われますが、信じなければ救われません。
 
 
神によって成就された救済を除けば、救われるために私たちにできることは何もない
 
神が私たちをお救いくださらなければ、私たちは救いのために何もすることができません。私たちの主は、創造の前にこのように私たちをお救いくださることをお決めになり、私たちの救済を成就なさったので、すべては神がどのようにお決めになるかにかかっているのです。父なる神は、御子と聖霊を通して私たちをお救いくださることを決められ、その時が来ると、ご自分のひとり子イエスをこの地上に遣わしました。イエスが30歳になり、救済のみわざを成就する時が来たとき、父はキリストにバプテスマを授けさせ、十字架で死なせ、よみがえらせて、それによって私たちをお救いくださっています。私たちは、主が私たちのためにしてくださったことを旧約聖書と新約聖書のみことばから学び、心の中で信じることによって救われるのです。心の中で信じて救われることは、私たちの心に信仰を受け入れることに他なりません。
みなさんは、この聖書のみことばが神のみことばであると信じますか。この聖書は、初めから存在していた神ご自身であり、そのみことばに他なりません。神のみことばである旧約聖書と新約聖書のみことばを通して、私たちは神を知り、神にお会いすることができます。そして、旧約聖書と新約聖書のみことばを通して、私たちは、神が青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を通してお救いくださっていることを認識し、信じることができます。また、この真理を実際に信じる人々は救われるので、彼らはこのみことばが確かに力を持っていることを、あかしできます。私たちは自分の狭い考えで神のみことばを判断したり、測定するべきではなく、むしろそこから神が私たちをどのようにお救いくださっているかを認識しなければなりません。
みなさんが旧約聖書と新約聖書から、青色(イエスのバプテスマ)、紫色(イエスは王の王)、緋色(十字架)、それに撚り糸で織った亜麻布(旧約聖書と新約聖書の神のみことば)のみことばを聞いて信じられることを願い、祈っています。みなさんが神のみことばを脇に置き、生涯の残りをみなさんのものさし棒で神のみことばを判断するなら、みなさんは決して救われません。
神のみことばをよく知らない自分を認識するなら、信仰の先人の言うことに注意深く耳を傾けなければなりません。牧師、働き手、素人であろうと、自分に説かれた神のみことばに耳を傾けるとき、そして彼らが説いていることが確かに神の前で正しいとき、みなさんがすべきことは、それが正しいことであると認め、それを心の中で信じることだけです。
みことばを広める人々は、それはとても簡単なので、それを広げませんが、彼らが広げているものは神の前に正しいので、そのようにします。彼らが正しい知識――つまり、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布の真理である水と御霊の福音を宣べ伝えるのは、このためです。 神のみことばに間違っている一つの些細な点もないために、誰から聞いたとしても、それが神の真のみことばであるなら、私たちは「はい」と言って、それを受け入れる以外にできることは他にありません。
私たちは神のみことばを信じなければなりません。「信じる」とは何でしょう。受け入れることです。信頼することです。言い換えれば、主は私たちのためにバプテスマを受けられたので、私たちはすべての弱点を主にお渡しし、主にすがります。「主はこうなさることによって、私をお救いくださったのですか。私はあなたを信頼し、信じています。」 このように信じることが真の信仰です。
この世界の神学者の中で、正しく知り、信じている人を見つけるのは非常に困難です。彼らは洗盤に到達する前でさえ、庭に入ることすらできず、幕屋の庭の門で立ち往生しています。彼らが幕屋に関する説教をするとき、彼らはその庭の門を巧みにすぼめるために誠実な努力をし、そして彼らが幕屋に関する本を出版するとき、彼らは庭の囲いの9m以上を占めた巨大な門を除外するイラストを挿入します。
時折、幕屋の庭の門について大胆に説教する人もいますが、彼らは青色の撚り糸の根本的な実体を知らないので、「青は空の色だ」とだけ言っています。それで彼らは、青色の撚り糸はイエスが神ご自身であることを啓示する空の色であり、緋色の撚り糸はイエスがこの地上にいる間に十字架で流された血を指し、それによって幕屋の庭の門の真理を非常に巧妙に覆い隠しました。紫色は、どうでしょうか。紫色は、イエスが王の王であり、神ご自身であると告げています。別の色の撚り糸で真理を繰り返す必要はないために、イエスの神性は、すでに完全に紫色の撚り糸に保持されています。
青色の撚り糸の真理は、イエスがこの地上に来られ、ヨハネからバプテスマをお受けになって、人類の罪をすべて一度に負われたことです。しかし、この世の神学者たちは、このイエスのバプテスマを認識していないので、それを知ることも、宣べ伝えることもできず、自分の無駄なことを語るだけです。青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布によって来られたイエスを信じることをせずに、新しく生まれていない人々は、イエスがバプテスマによって罪をすべて負われ、彼らの罰をお受けになったことも知りません。そのため、彼らは霊的に盲目になって、みことばを解決できなくなっているために、自分の考えに基づいて恣意的に解釈することによって、みことばを宗教化しています。彼らは次のように教えます。「イエスを信じなさい。そうしたら、あなたは救われるでしょう。そして、これからは良くなって、柔和になりなさい。」 彼らは、イエス・キリストへの信仰を単に自分たちの善行を強調するだけの単なる宗教に変えています。
どんなに一生懸命やっても良くなれないということを知っている人々は、人類の意志を呼び起こして善をしようという言葉に簡単に騙されます。宗教も同じように「やれば、できる」とか「聖なる者になるために最善を尽くそう」などの古いパターンに従います。すべての宗教に共通するテーマは、人類のまともな考え、努力、意志を非常に高く評価することです。例えば、仏教についてはどうでしょうか。仏教は、人類の限りない努力と意志を強調し、「殺してはならない、真理を求め、善になりなさい」と言って、信者たちに自分で聖なるものになるようにと教えています。ある意味では、その教えはキリスト教の教義に非常によく似ています。キリスト教と仏教が互いに正反対の位置関係にあるにもかかわらず、非常に密接に関連しているように見えるのは、どちらも単なる宗教にすぎないからです。
宗教と信仰は互いに完全に異なります。真の信仰とは、神の義によってのみ私たちをお救いくださっている主が私たちにお与えくださっている賜物を認識し、心に受け入れることです。信仰は、主がこの地上に来られ、バプテスマをお受けになって私たちの罪をご自身に負われ、十字架につけられて罪のすべての罰をお受けになったと、心の中で信じることによって、罪の赦しを受けることです。主が水と御霊によって私たちをお救いくださって、すべての罪と罰から救い出されていると信じることは、信仰です。信じますか。私たちは、ほんとうに心の中で信じなければなりません。
 
 

神はすでにあなたと私をすべての罪からお救いくださっている

 
そのため、私たちがすべきことは、これを心の中で信じ、受け入れることだけです。これは、ほんとうに従順な神の子どもが神の前にしなければならないことであり、他のすべてはそれほど重要ではありません。神はみなさんを愛しておられるので、ひとり子をこの地上に遣わされ、バプテスマを授けさせて、みなさんの罪をひとり子に負わせ、十字架につけさせ、血を流させ、罰することによって死に至らしめ、よみがえらせ、それによってみなさんをすべての罪からお救いくださっているのです。
では、みなさんがこの真理を信じないなら、神はどのように感じられるでしょう。今でも、みなさんが神の心を喜ばせる従順な息子や娘になりたいのなら、神が御子を通して、みなさんの罪をすべて消し去られ、みなさんをそうした罪からお救いくださっているのだと信じなければなりません。心の中で信じ、感謝の気持ちを信じるなら、みなさんの口で告白しなければなりません。みなさんは神を信じるのを願っているのに、心に信じるのがとても難しいと感じていますか。では、みなさんの信仰を口ではっきりと告白してみてください。このようにみなさんが信じると告白すると、信仰は植えつけられ、少しずつ成長します。信仰は勇敢にそれを取る人々に属します。
ひとたび、私が本物のダイヤモンドの指輪を持っていると仮定しましょう。さらに私がみなさんにこの本物のダイヤモンドの指輪を与えると仮定しますが、みなさんの一人は、指輪が本物のダイヤモンドでできていると信じることができないと言って、それを受け入れることを拒否します。指輪は本物のダイヤモンドの指輪ですが、この人は信じなかったので、それはその人にとってダイヤモンドではないので、その人は本物のダイヤモンドの指輪を手に入れる機会を失っています。
信仰とは、このようなものです。権威ある宝石学者が、指輪は本物のダイヤモンドでできていることを書面で証明した場合、彼らはそう信じるようになります。神は、ご自分の記されたみことばを通して、私たちに与えられた救済が本当であると詳細に私たちに語っておられます。そして、神のみことばがそうあかしするために、神による救済を信じる人々は、信仰の民です。「それが実際に本当であると信じるのは難しいですが、絶対者であられるあなたがそうだとおっしゃっているので、私はそう信じています。」 人々がこのようにして信じるとき、彼らは信仰の民になることができ、そして最も貴重な贈物は約束されたとおり、彼らのものになります。
一方、異なる信仰もあります。詐欺師がダイヤモンドリングを模倣し、誰かがその鮮やかな色に酔いしれて、それが本物であると確信して、それを購入したと仮定しましょう。この人は自分が賢明な選択をしたことを完全に確信していますが、実際にはその人は騙されました。指輪がダイヤモンドではないのに、ダイヤモンドでできていると主張する偽証人を信じるとき、この偽のダイヤモンドは、こうした人々にとって本物のダイヤモンドと同じです。なぜなら、指輪がダイヤモンドでできていると盲目的に信じているからです。しかし、もちろん、彼らが持っているのは単なる偽物です。同様に、偽りの信仰を持つ人々がいます。彼らが信仰を確信しているにもかかわらず、それは神のみことばから来たのではないために、それは偽りで根拠のない神秘的なものです。
神は、次のようにおっしゃいました。「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」 神のみことばは神ご自身であり、みことばは私たちが水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができないと告げています(ヨハネ 3:5)。神は、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布によって刺繍された幕屋の庭の門を通過しないと、幕屋の庭に入ることができず、最初に洗盤で手と足をきれいに洗わない人々は、幕屋に入ることができないと告げています。このみことばだけが真理なので、これ以外のものはすべて偽物です。
真理への信仰だけが本物の信仰であり、他のものへの信仰はすべて偽物です。どれほど熱心に人々が信じているとしても、神のみことばではないものは、最後の最後まで神のみことばではありません。イエスがバプテスマと十字架の血によって、すべての罪を消されたとおっしゃったとき、みなさんがすべきことは、ただ信じることだけです。そうしたとおっしゃっているのは、神であられるので、みことばへのこの信仰は本物です。私たちの主が本当にこれを行わなかったなら、これは主の悪事であり、みなさんの信仰自体は間違っていません。一方、主が確かにそうされたにもかかわらず、みなさんが信じなかったために救われなかったなら、これは明らかに全部みなさんの責任です。私たちがすべきことが信じることであるのは、このためです。私たちは神が教会を通して私たちに語っておられることを信じなければなりません。信じますか。
教会を通して語られたみことばとは何でしょう。青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布によって、私たちのもとに来られたイエス・キリストのみことばです。教会は、イエスがバプテスマによって私たちの罪を負われ、イエスが神ご自身であり、そしてイエスが十字架で私たちの罪の罰を受けてくださったという、神のすべてのみことばを広めなければなりません。イエスがこのようにして私たちをお救いくださっているという、この真理への信仰は、神によって保証された本物のダイヤモンドへの信仰なのです。
幕屋に啓示された神のみこころと霊的な意味をまず知り、次にそれらについて話すとき、それは簡単なことです。しかし、幕屋の外部の形式、それの原本のヘブライ語の言葉、あるいは歴史的背景に関する表面的な知識だけを追求するなら、私たちはまったく利益をもたらさず、頭痛に終わってしまうだけです。
イエスのバプテスマを信じてください。イエスは、私たちの心にもある汚れた罪である闇をきよめるバプテスマをお受けになりました。バプテスマとは、罪を洗い流すこと、移すこと、葬ること、渡すこと、覆うことです。イエスが私たちの罪を負ってくださったのは、イエスがそのようなバプテスマをお受けになったからです。これを今信じていない人々はみな死に、地獄に追放されます。「洗いのための青銅の洗盤と青銅の台を作ったなら......その手、その足を洗う。彼らが死なないためである。これは、彼とその子孫の代々にわたる永遠のおきてである」 (出エジプト記 30:18, 21)。信じられないのは、呪われることです。信じられないのは、地獄に追放されることです。みなさんが信じないなら、エホバののろいと滅びがみなさんの上に降り、みなさんは永遠の火に投げ込まれるでしょう。
「その手、その足を洗う。彼らが死なないためである。」 神は大祭司にこれをおっしゃり、それは彼とその子孫の代々にわたる永遠のおきてであるとおっしゃいました。イエスを救い主として信じたい人はみな、イエスのバプテスマと十字架の血を信じなければなりません。信仰は勇敢にそれを取る人々に属します。信じることによって救済を心に受け入れるとき、救済はみなさんのものになります。真理は、私たちがそれを信じているときにのみ、私たちに利益をもたらすことができるのです。私たちは、神が私たちにおっしゃったことを信じなければなりません。心にとって、不信よりも大きい障害はありません。
神は、祭司が神の前に来るとき、祭司はまず青銅の洗盤で手と足をきれいに洗わなければならないとおっしゃいましたが、それでも洗盤の水で手と足を洗う信仰のない人があまりに大勢います。洗盤に啓示された、この信仰を持たない人はみな、神の前で死ぬことになります。みなさんの心の中で、水と御霊の福音を信じ、きれいに洗われ、それによって神の前に行き、死を免れ、天国を賜物として受けてください。みなさんが神の前でどれほど多くのことを議論し、主張しても、機会が与えられたとき、信じていないために罰されます。みなさんの中で誰も、真理を信じていないために死に直面するようなことがないように願って祈ります。
イエスのバプテスマと十字架の血で罪を消し去っている救済の真理を信じなければ、みなさんは大きな被害を受けるでしょう。信じておられますか。洗盤を通して罪と罰からお救いくださったことを神に感謝しなければなりません。
幕屋の残りの部分については、本書の続きで説明します。こうした本の言葉を通して、みなさんが神の子どもとなる特権を持っておられることを願っています。