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คำสอน

主題 11: 幕屋

[11-20] 香の壇 (出エジプト記 30:1-10)

香の壇
(出エジプト記 30:1-10)
「あなたは、香をたくために壇を作る。それは、アカシヤ材で作らなければならない。長さは一キュビト、幅一キュビトの四角形で、その高さは二キュビトでなければならない。その一部として、角をつける。これに、上面と回りの側面と角を純金でかぶせる。その回りに、金の飾り縁を作る。また、その壇のために、その飾り縁の下に、二つの金環を作らなければならない。相対する両側に作らなければならない。これらは、壇をかつぐ棒を通すところとなる。その棒はアカシヤ材で作り、それに金をかぶせる。それをあかしの箱を覆う垂れ幕の手前、私があなたとそこで会うあかしの箱の上の「贖いのふた」の手前に置く。アロンはその上でかおりの高い香をたく。朝ごとにともしびをととのえるときに、煙を立ち上らせなければならない。アロンは夕暮れにも、ともし火をともすときに、煙を立ち上らせなければならない。これは、あなたがたの代々にわたる、主の前の常供の香のささげ物である。あなたがたは、その上で異なった香や全焼のいけにえや穀物のささげ物をささげてはならない。また、その上に、注ぎのぶどう酒を注いではならない。アロンは年に一度、贖罪のための、罪のためのいけにえの血によって、その角の上で贖いをする。すなわち、代々、年に一度このために、贖いをしなければならない。これは、主に対して最も聖なるものである。」
 
 
香の壇
 

香の壇は祈りの場所

 
香の壇はアカシヤ材で作られ、四角形で、縦横一キュビト (45 センチ)、高さ二キュビトありました。聖所に置かれた香の壇は全体に金をかぶせてあり、回りには金の飾り縁がついていました。飾りふちの下には四つの金の環があって、壇を運ぶための棒を通すようになっていました。香の壇の上では、聖なる油とかおりの高い香以外のものを使うことはできませんでした (出エジプト記 30:22-25)。
香の壇は祈りの香が神にささげられた場所です。しかし、香の壇の前で祈る前に、まずその前で神に祈りをささげる資格があるかどうかを確かめなければなりません。聖なる神に祈る資格を得ようと思う者は誰でも、まず信仰によって罪を洗い流して罪のない者とならなければなりません。そのためには、全焼のいけにえと洗盤の信仰によって罪をすべて清めなければなりません。
神は罪人の祈りを聞かれません (イザヤ 59:1-3)。なぜでしょうか。神は、水と御霊の福音を信て罪をすべて洗い流された者だけを受け入れられるためです。神は青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布に表わされた真理によって、人類の罪をすべて洗い流されているのです。つまり、神は義人の祈りを聞くことだけを喜ばれるのです (詩篇 34:15、ペテロI 3:12)。
 
 
すべての人間の性質と現実
 
よく見るなら、人間はみな、みなさんと私を含めて、基本的に罪深い者の子孫として生まれるのですから、みな罪を犯します。一人一人がみな、悪を行なう者の子孫なのです。人間は本来、罪とともに生まれてくるのですから、邪悪なことを行なって生きることを免れません。みなさんが誰であっても、ご自分について考えてみなさい。神の前で、自分がずっと邪悪な存在であり、地獄に投げ込まれることを免れないのだということを認めるのです。何よりも、自分の行ないを神の前で調べると、罪から来る報酬は死と定めた神の律法に従えば、どうしても神による罪の正しい裁きを免れることはできないのです。
人間の心から出るものはよこしまな考え、殺人、姦淫、高慢、愚かさ等ばかりなのですから、機会さえあれば悪を行ないます (マルコ 7:21-27)。そもそも悪を行なう者の子孫として生まれ、状況と機会さえ与えられればいつでも罪を犯さずにはいられない人間の心が、どうして神の前で恥じることがなくなれるのでしょう。これは、人間の努力によっては不可能です。しかし、神の前で恥じることがなくなるようにする信仰がただ一つあるのです。それは、ここにあります。人はみな、青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布からなる真理、すべての罪を洗い流し、それによって恥じることなく神の前に立つことができるようにする真理を知り、信じなければなりません。ですから、水と御霊の福音が誰にも絶対に必要なのです。
人間はみな罪のために地獄に行く定めにあることを誰ひとり否定できません。これは、ただ認めるしかないのです。そして、神の前で自分が地獄に行く定めにあると知る者にとって、神がお与えくださった救済を心で信じることは、それほど難しいことではありません。正直に誠実に神に臨むとき、偽って心を隠すことはできません。ですから、神の正しい裁きを認めるようになります。誰もが、罪のために神の正しい裁きによって罰されることを免れないという立場に置かれています。
罪から来る報酬は死であると告げる神の正しい律法は、罪人が自分なりの考えや信仰によって回避できるものではありません。神の律法は詳細で正しいので、誰であろうとその前に立つ者に、自分が地獄に行く定めにあると認めることを強いるのです。罪人はみな、最も些細な罪であっても神の裁きを免れないと悟ります。
ですから、人間には人類全員を罪から救う救い主が必要なのであり、この救い主が誰であるかを知らなければなりません。それがイエス・キリスト、全人類の救い主なのです。イエスはこの世に来られ、世の罪を被られるためにヨハネからバプテスマを受けられ、十字架につけられて血を流されてすべての罪人の行なった不正の罰を受けられ、そうして罪のすべてからお救いくださった救い主です。
私たちはみな誤解して、罪の赦しを受けることは極めて難しいのだと思っていました。実際、聖書全体を知ってはじめて救われるのだとか、救済には何らかの良い行ないが必要なのだと考えていました。しかし、神のお与えくださった救済は、違います。この救済の真理は、神の律法の前で自らの良心を調べ、心の中にある罪を全部認め、水と御霊の福音を信じてすべての罪から救われる方法を開き、示しました。この真理は幕屋の入り口に予示されていました。
人類の罪の赦しは、青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布によって成就された、尊い救済の真理からきます。この真理を信じることによって、人はみな永遠の罪の赦しをただ一度で受けることができるのです。そのためには、誰もが自分は罪のために地獄に行く運命なのだと知り、青色・紫色・緋色の撚り糸という形で表わされた福音を信じ、それによって一度に罪の赦しを受けるのです。神がくださった福音は、青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布にこめられた真理の福音の中にある福音です。
人はみなこの真理の福音を信じなければなりません。この福音の中にある真理を信じなければ、罪から救われることができないためです。しかし、神が水と御霊の福音によって成就されたこの救済の真理を信じる者は、すべての罪から救われて神の子どもとなるだけの資格があるのです。ですから、神の前に行って祈ることのできる者になるためには、まず水と御霊の真理、罪の赦しの福音を信じなければならないのです。真の福音を心から知り信じてすべての罪から救われると、神に祈る資格を得ます。神に祈ることができるようにする信仰は、神からの福音、水と御霊の福音を心で信じることによって得られます。
幕屋の入り口の垂れ幕によって示された青色・紫色・緋色の撚り糸の真理を知り信じる信仰なしに神に祈ることは、誤りです。そのような信仰は、神を冒瀆して嘲るという罪を犯すようなものです。どうして幕屋に示された真理を心で信じることを拒んで神の敵となることができるでしょう。
青色・紫色・緋色の撚り糸の真理によって来られたイエス・キリストを信じることを拒むなら、それは、ただちに神の怒りを招くことになるのです。これは神に敵対する恐ろしい不信の行ないです。神の聖性を憎む罪を犯し続ける魂は、神が全うしてくださった救済を信じないで、自分なりの考えと意思によって信じます。そのような魂は、自らを「偽善」という名の無花果の葉で包み、神の愛と慈悲を憎むのです。
しかし、よろしいですか、そのような人々は、自分の心は欺くことができても神の裁きを免れることはできないのです。そうした不信者は、神の正しい律法によって恐ろしい罰を受けることになります。なぜでしょうか。その人たちが、主が罪を消してくださった水と御霊の福音を知ろうとも信じようともしなかったためです。
良心が自分の目にも汚れているとき、どうして聖なる神から罪を隠せるでしょう。それは不可能というものです。自分の罪を隠そうとする者は誰でも、神の愛と慈悲から取り残されます。自らの心を欺く者は、神と仲間の人間を欺く悪魔の邪悪なしもべになってしまいます。ただ自分の目を覆うことによって何とか神を欺くことができるという考え自体が、思い上がった考えからくる高慢さを反映しているのです。実際、自身の考えに頼る者は、水と御霊の福音に挑む者であり、すすんでサタンのしもべになろうとする者なのです。
そのような人々は、自分の心は欺くことができても、けっして神を欺くことはできないのです。その人たちは心を改め、神のみことばに従って信じなければなりません。どうして人間は水と御霊の福音を信じることなくして罪を洗うことができるでしょう。罪から来る報酬は死であると記されているのですから、神の前で自らの心を欺く罪人は、誰もけっして神の裁きを免れることができません。神の律法を認めるなら、人がみな罪のために地獄に行かなければならないことは明らかです。ですから、神のもとに行こうと思う者はみな、幕屋の入り口に表わされた福音の真理を信じて救われなければなりません。
しかしながら、自分が罪のために滅びる定めにあるのだということに気づくことができないために、大勢の人々は青色・紫色・緋色の撚り糸によってきた救済の福音を心に受けることもまたできないのです。その結果、みな地獄に向かっています。キリスト教徒になっているかどうかに関わらず、水と御霊の福音を信じない人々は同じ罰に臨むことになります。ですから、神の前で自らの良心を欺かず、心を水と御霊の福音に委ね、この真理の福音を信じるのです。
 
 

真理のみことばを信じて罪をきよめよ

 
人間には二つの良心があります。一つは肉の良心、他方は真理の福音に関わる信仰の良心です。この二つの領域に対して正直でなければなりませんが、この二つのうち、とりわけ真理の福音を認める信仰の良心は必ずもたなければなりません。神のみことばに照らして信仰の良心を調べるのです。イエスがバプテスマを受けられて人類の罪を負われ、十字架上で罰を受けられ、そうしてお救いくださったと信じるのです。そして、この信仰によって、良心から罪を洗い流すのです。これは、これ以上確実なものはない真理だというのに、真理の福音を信じない人々がいるのは腹立たしいことです。
良心をきよめるには、信仰の順序があります。第一に、人間は地獄に定められた者として生まれること。第二に、救い主がこの世に来られ、人類の罪のためにヨハネからバプテスマをお受けになり、十字架上で死なれ、死者の中からよみがえられ、そうしてすべての罪から救ってくださったことを知り、是認することです。罪人は、青色・紫色・緋色の撚り糸に表わされた水と御霊の福音への信仰によって咎から救われて永遠のいのちを受けなければなりません。
人間は罪から救われなければならないのに、青色・紫色・緋色の撚り糸によって成就された罪の赦しについて知っていても信じない人々がいるのです。どうしてそのようなことができるのでしょう。人間は、自分の不信の結果について責任を負わなければならないのですよ。青色・紫色・緋色の撚り糸という形で表わされた真理を知るだけで信じなければ、人は罪深いままです。そして、罪深いままであれば、神の律法によって罪を裁かれなければならないのではありませんか? 一人一人が、男も女も、みな神が青色・紫色・緋色の撚り糸によって満たされた救済の真理を心で信じて罪から救われなければなりません。
人間は、罪から救われるような信仰をもたなければなりません。水と御霊の福音だけを信じる信仰をもたなければなりません。みなさんは、青色・紫色・緋色の撚り糸に表わされた福音、主がバプテスマをお受けになって人類の罪をすべて負われ、十字架で血を流されて救ってくださったことを信じていますか? まず自分について考えたとき、ほんとうに地獄に行く定めにあると認めますか? 人間は地獄に行く定めにあるのに、それでも主は青色・紫色・緋色の撚り糸によって表わされた真理によって罪から救ってくださったのだと、わかっていますか? 
よろしいですか、主がこの世に来られ、バプテスマをお受けになり、血を流されたのは、人類の罪をすべて処理なさるためです。みなさんや私の罪を消し去るために、受肉されてこの世に来られ、三十歳のときにヨルダン川でバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになって、ただ一度で全人類の罪を負われ、十字架につけられて血を流されることによって、ただ一度で罪の罰を受けられたのです。ただ一度で、神は信じる者の罪をすべて消されました。
人は青色・紫色・緋色の撚り糸に表わされた真理を信じることによって、すべての罪から救われるのです。自分はほんとうにこの信仰によってすべての罪から救われているのかどうかを調べ、確認しましょう。青色・紫色・緋色の撚り糸によって救い主として来られたイエス・キリストを信じる信仰をもつのです。聖書には、「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」(ローマ 10:10) とあります。また、ローマ人の手紙第 10 章 17 節は、「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」と告げています。
キリストのみことばは、青色・紫色・緋色の撚り糸によって成就された救済を信じることによって人間は救われるのだと告げておられます。罪の赦しは自分なりの考えで信じて得られるようなものではなく、青色・紫色・緋色の撚り糸によって来た救済を心で信じることによって得られるものなのです。人をほんとうに罪から救うことのできる信仰は、水と御霊の福音を信じる信仰です。
では、この真理への信仰をもって神に祈るのですか? もちろんです。腰に真理の帯を締め、すべての祈りと願いをささげるのです (エペソ 6:14,18)。では、この真理とは、何でしょう? 
それは、主が人類救済のためにこの世に来られ、三十歳のときにバプテスマのヨハネからバプテスマを授けられ、世の罪をすべて負われ、両手と両足を十字架に打ちつけられ、唾を吐きかけられ、血を流され、そうして人類の罪を洗い流されたと告げている福音です。罪の赦しはこの真理への信仰によって成就したのだと告白するのです。主は、バプテスマと十字架上の血とによって世の罪のための罰を受けられ、人類を救ってくださったのです。
「主よ、あなたは深い愛から私を神の子どもにしてくださいました。」このように信仰を告白するのです。人間には罪しかなかったときに、主はそれでもバプテスマと磔刑とによって人類の罪をすべて消され、天の御国に入る資格をくださいました。この真理を信じて永遠のいのちを受けるのです。
この真理を信じない、どんな理由があるのですか。私について言えば、主が私を罪から救ってくださるためにあのようにバプテスマをお受けにならなくとも、文句をいう筋合いはありません。それでも、主は私のために実際にバプテスマを受けられ、血を流され、罪から救ってくださったのです。ですから、信じているのです。人がみなこの福音を信じてはいけない理由は、何もありません。罪人が水と御霊の福音の真理を信じなければ、必ず地獄に放り込まれます。しかし、みなさん一人一人が青色・紫色・緋色の撚り糸の福音を信じて罪から救われてほしいのです。
私自身、イエスを信じると言いながら罪人であった時代があります。良きキリスト教徒であろうとして、天の下にあって恥じることがないようにしようと懸命に努力しました。しかし、思いとは裏腹に、何度も罪を犯し続けました。唯一慰めとなったのは、他人と比べたときに、自分のほうが少なくとも少しはましだと思われたことでした。しかしながら、良心は、自分にはまだ罪があり、神の律法に従えば罪から来る報酬は死なのだから、自身の不正のために地獄に行く定めにあるのだと、告げ続けるのでした。
十年間のうんざりするような律法主義的生活の後、霊的には瀕死の状態になっていました。しかしながら神は、イエス・キリストが私のためにバプテスマを受けられ、罪を被ってくださったのだという恵みに目覚めさせてくださったのです。主は私の罪ばかりではなく、全世界のすべての人の罪を全部負われました。それから罪を十字架に運ばれ、十字架につけられてその上で死なれて罪の罰を受けられ、死者の中からよみがえられ、そうして、今も生きておられる真の救い主となられたのです。この真理の福音を知ったとき、信じるしかありませんでした。バプテスマと十字架上の流血とによってイエス・キリストが救済の神になられたと信じて、私の罪はすべて洗い流されました。私は信仰によって、心に罪の赦しを受けました。
神のみことば全部についてよく知っていたために罪の赦しを受けたのではありません。自分の良心の罪を知り、それをバプテスマによってイエス・キリストの上に移し、イエスが私の罪の報いを受けられるために十字架上で罰を受けられたのだと心で信じて罪を赦されたのです。この罪の赦しを受けたために、私は今福音を説いて生きているのです。みなさんと私は同じです。現実には、私たちの間には違いがありません。
みなさんと同じように、私もまた地獄に向かっていました。そして、みなさんと同じように、私もまた水と御霊の福音を信じて罪の赦しを受けたのです。主が人類の罪を消された福音を信じることによって、みなさんも私も信仰によって救われているのです。ですから、主に感謝をささげます。このように水と御霊によって完全な罪の赦しを受けて信仰の良心をもっているために、神のもとに行き、罪の赦しを受けた子どもとして祈ることができるのです。
聖書が香の壇で使う香は聖油とかおりの高い香から作られると告げていますが、イエスは、真理の聖なる福音によって洗い流すことによって人類をきよくしてくださったのです。遠い昔の旧約の時代、イスラエル人は神の命じられたとおりにこの香を作り、祭壇でたかなければなりませんでした。そうして、聖所では毎日香がたかれ、その香りが立ちのぼったのです。香とは、神への祈りのことです。
新約の時代には、聖所で香をたくには、まず真理の福音を信じて罪の赦しを心に受ける必要があります。つまり、真理の福音を信じることによって、人は祈りの香をたくことができるのです。それ以外にどうして、旧約の時代にたかれたように香をたくことができたでしょう。幕屋にあった全焼のいけにえの祭壇や香の壇といった設備はないのですから、どうして香を作って壇で焼くことができるでしょう。イエス・キリストが罪を消し去り、救ってくださったのですから、信仰によって祈りの香をたくことができます。罪の赦しを受けたときに心が信仰によってきよめられたのですから、熱烈な祈りによって神へと昇る香をたくことができるのです。
聖徒は水と御霊の福音への心からの信仰によって、罪がすべてイエス・キリストの上に移され、イエス・キリストは身代わりとなって罪の罰を受けられたのだと信じています。みなさんと私の心は、そうしてみな、きよくなったのです。心の罪がすべてイエスの上に移されたのですから、心は信仰によって、ただ一度で完全にきよくなったのです。罪が全部、ヨハネから授けられたバプテスマによってイエスの上に移されたのなら、その人の罪はすべてただ一度で洗われて消されたのであり、もはや心には何の罪も残っていません。福音を信じることによって罪が消されて清められたのですから、聖なる神のもとに行って助けを求めることができます。神に祈ることができるということは、信仰によるのです。今は真摯な思いの裏づけとなっている福音を確かに信じることによって、聖徒は罪の赦しを受けているのです。
みなさん、香の壇に行き、絶え間なく祈りなさい。「父なる神よ、どうか助けてください。私はこれこれの状況にあって、これこれが必要なのです。真の福音を広め、正しく生きたいのです。真に罪を赦された者にふさわしい、高潔な生を生きたいのです。それに、義の実を結びたいのです。主への信仰をお与えください。みこころに従って生きたいのです。」このように、必要とすることを求めるのが祈りというものです。これは、神の義にしたがって神の助けを求めることなのです。
おそらくみなさんには、さまざまな情熱や欲求があるでしょう。聖徒は水と御霊の福音への信仰によって義人となっているのですから、祈りによってあらゆるものを求めることができます。神に助けを求めて祈ることができる人々は、幸福です。聖徒はみな水と御霊の福音を信じて罪の赦しを受けているのですから、みな神に祈ることができるはずです。
神と水と御霊の福音への信仰によって罪の赦しを心に受けた者は、少なくとも聖なる神のもとに行き、助けを求める資格を得ているのです。そして、新たに生まれた信者はみな、明らかに本能的に、子どもが困ったときに親の助けを求めて泣くように、父なる神の救いを求めて祈るのです。聖徒に罪の赦しをもたらした信仰は、ただ神を父と呼ぶことを可能にしたばかりではなく、いつでも息子、娘として父なる神の助けを求めることをも可能にしたのです。信仰によって神がほんとうに聖徒の父となられたのですから、必要に応じて祈りによって助けを求めることができます。
もちろん、罪の赦しを受けた後でみなさんが個人的にどんな祈りをささげてきたのか、あるいは神がそれがかなえてくださったのかどうか、知りません。しかし、教会と結ばれて福音を広めることができるようにしてほしいと神に祈ると、神は確かに祈りに応えてくださるということは、わかっています。この過程で、私たちは他人のために祈るようになるのです。最初、誰もが自分の肉の必要とすることだけを祈ります。しかし、御霊の働きにより、他人のためにぜひとも祈らなければならないのだということに気づきます。そこで、他の魂の救済と水と御霊の福音を全世界に広めることについて祈ることに専念するようになります。なぜでしょうか。新たに生まれた聖徒の祈りが御霊に導かれているためです。主は、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」(マタイ 6:33) とおっしゃいました。
しかし、まだ霊的に未熟な新たに生まれた者の中には、どのようにして正しいことのために祈るのか知らない人々がいます。その人たちは、まだ祈りに対する神の答えを経験していないためです。これは、その人たちがまだ神の義の強力さを知らずにいるためです。信仰の薄い人々は、自分の祈りが聞き届けられるかどうか知らないばかりではなく、疑念に苛まれるのです。
ですから、自分たちより先に信じた人と一緒に祈らなければいけないのです。その信仰が若い人々は、神に祈ることをためらいます。そして、祈るときには、自分のほしいものだけを願います。「ください、ください、ください。」しかし、信仰して間もない人々が教会と結びつくと、たとえとりわけ深く神を信仰していなくとも、真の祈りがどんなものかを学ぶことができます。教会の信仰における先輩が、神の義のために祈っているためです。また、教会と結びついた者に御霊が信仰の祈りをお与えになるために、その人たちは徐々に神の義について祈るようになります。「義人の祈りは働くと、大きな力があります。」(ヤコブ5:16)
神に祈る権利をもつ新たに生まれた者の心からの祈りは、聞き届けられます。神を信仰する者の祈りには、実際に応えが得られます。人が神に祈るとき、父なる神に祈りを聞き届けられるためには、まず神がほんとうに父であり、信仰に応じて祈りに答えられるのだと信じなければなりません。ですから、信仰における先輩が集い、自分たちの足跡をたどる者のために、また、福音を広める正しいわざのために祈るとき、大いなるわざが行なわれるのを経験するのです。神を信じる信仰の先輩の横に立つとき、信仰において大きな助けを得ます。神は、救済の恵みばかりではなく人生の他の面においても人間が大いに助けを必要としていることをご存じなので、祈りに応えられます。神の教会と結びついた信仰をもつことが必要なのは、このためです。
神の喜ばれることのために祈ると、その信仰は大いに勇気づけられます。祈りのまねごとをしている霊的子どもがやがて長じてそうした祈りを自分でするようになるように、人はやがて、自分で父なる神に祈ることができるようになります。心から神を信じてそのようにする人々は、信仰によって本物の真理に従う道を歩むようになります。聖書にあるように、義人は信仰によってのみ生きるのです。自分のためだけに生きるのではなく、他の魂の救済のために生きるのです。
聖徒はどのようにして神に祈る資格を得たのでしょう。神がお与えくださった水と御霊の福音への信仰によって新たに生まれて得たのです。水と御霊の福音を信じて罪の赦しを受けた者にだけ、人が神に祈ることを可能にする大胆な信仰が与えられているのです。信仰は神の賜物です。祈る資格を得るということは、神からすばらしい信仰の恵みを受けるということです。
この地球上の数多くのキリスト教信者の中で、どれだけの人がそのような信仰によって祈る資格があると思いますか? ごく少数です。第一に、神からの最もすばらしい賜物の一つは、青色・紫色・緋色の撚り糸の体現する真理によって罪から救った信仰をもつようになったということです。第二は、子どもとして神に祈る力と資格を得たということです。そして、第三は、神の働き手として生きることのできる信仰をもつようになったということです。
 
 

神は罪人の祈りには答えられない

 
罪人の中には、イエスを信じると言いながら、山に登って主の名を絶え間なく叫んで罪を消してくださるよう祈る人々がいます。風の強い寒い夜にも、彼らは山に登り、体をビニールで包み、しばしばびくびくしながら、それでも熱心に祈りをささげるのです。しかし、その祈りは虚空に空しく響くばかりです。
彼らは一晩中祈りますが、神がほんとうに祈りを聞き届けてくださるという信仰は、何ももっていません。信仰がないというのに、その人たちがそんなに熱烈に祈るのは、単なる自己顕示であり、ただ他の人々に誇示するためなのです。その人たちの祈りは、応えられることのない祈りです。実際、その人たちはまだ心に罪があるのですから、心の底では祈りが神に届いていないことがわかっています。罪の赦しをまだ受けていないために、いくら祈っても、泣き、嘆き、声の限りに叫び、神に求めることを願ってどんなことをしようとも、祈りに応えはないのです。
その人たちは、神に祈るためにはまず罪の赦しを受けることが前提条件であることを知らなければなりません。しかし、多くの罪人たちは、水と御霊の福音を知るまでは他に選択の余地がないために、罪人として生き続けるしかないのです。主がお与えくださった水と御霊の福音を心で信じてただ一度で心をきよめられていないなら、その祈りは実際すべて空しいのです。罪人が神に祈ろうとするときはいつも、良心が叫びます。「祈りが神に届くと思っているのですか。好きになさい。どうしたって無駄なんですからね。」ですから、「これをください、あれをください」と神に祈り続けても、祈りは実際、無益なのです。
「わたしに祈るのなら、まず罪の赦しを受けなさい。」これが、神のみこころです。罪の赦しを受けていない者が神に祈ると、経験から、良心が自分の考えることと一致していないことがわかります。罪人が祈るときには、「主よ、これをください、それに、あれもください」と言い続けるのですが、祈りは聞き届けられません。それどころか、良心はただ「まさか。おまえの祈りは答えられないよ。罪深いのだからね」と告げるのです。罪人が良心においても自身の信仰を許容できないとき、どうして神を欺けるでしょう。どうして神に認められ、どうして祈りを聞き届けられることができるでしょう。罪人は単に、神に祈る資格がないのです。それどころか、自分の心さえもその祈りを信用していないのです。
 
 

信仰によって義となったとき祈りに報われるようになる

 
それまで罪人であった人々の多くの祈りは、幕屋の青色・紫色・緋色の撚り糸に表わされた水と御霊の福音を信じて罪の赦しを受けたなら、聞き届けられるようになります。水と御霊の福音を心の底から信じる人々自体は不完全でしょう。しかし、信仰によって神のもとに行くことができ、信仰によって大胆に神に必要なものを願い、祈ることができるのです。信仰によって罪の赦しを受けた人々がみこころに従って神に祈るときには、堂々と祈るようになります。
しかし、肉のために祈るときには、時にふさわしくないと感じます。他の魂のために水と御霊の福音を広めようとして祈るとき、私たち義人は最も幸福です。肉に妨げられることなく、福音を精力的に広めるために祈るとき、信仰の祈りによって、自身の限界という障害を克服することができます。しかし、時に、信仰によってそうした障害を乗り越えられないとき、挫折感を味わうことがあります。そのような時にできることは、ただ祈り、神はやがて答えてくださると信じることだけです。そして、実際、神はほんとうに祈りに答えてくださいます。
なぜすぐに祈りが聞き届けられないのだろうと短気に考えず、ただ祈って待てばよいのです。神は、人間が信仰をもって祈ることを求められます。そして、人間の祈りが神のみこころにかなうものならば、時が来たときにかなえてくださるのです。信仰によって罪の赦しを受けたとき、信仰をもって祈るとき、祈りの多くが実際にかなえられるのを体験します。
みなさんは、このような信仰をもって生きてきましたか? もしそうなら、その人はほんとうに神に祈ることができます。改めて自己を省みるとき、自分は地獄に行く定めにあると知ります。また、水と御霊の福音への信仰によって罪の赦しを受けてはじめて祈る資格が得られるのだということを再度確認します。ですから、祈ることができるのは、主が水と御霊の福音によって生涯に犯す罪をすべて消してくださったと信じて罪の赦しを受けた者だけなのだということを覚えておかなければなりません。
まだ新たに生まれていない人々の中には、自分のことを誇りに思う人が大勢います。みなさんは、どうですか? みなさんには、何か誇るべきことがありますか? 腕っ節が強いですか? 足腰が丈夫ですか? 体がどんなに丈夫でも、ありふれた風邪のウィルスにも勝てませんし、少しでも強い物理的力に長く耐えることができません。人間はほんとうに弱い存在なのです。みなさんは、人間がどんなに弱いか、わかっていますか? 人間は、蚊に刺されただけも死ぬことがあります。あるいは、歩いているときに落ちてきた石に打たれて死ぬこともあります。人間はつまらない存在です。自尊心を傷つけるようなことを一言でも言われたなら、心はひどく傷ついて、死んだようになります。そうではありませんか? もちろん、そうです。
六十歳になる前に死んでしまう人がどれだけいるでしょう。
三十歳にもならないうちに死んでしまう人が大勢います。人間とは、そのように弱い存在なのです。人間には、永遠に続くような強さは少しもありません。では、そのように弱い存在が、神のみことばを心の底から信じることなしに、思うだけで強くなるものでしょうか。誇るべきものが何もなく、強いふりをすることもできない──これが人間というものです。
ですから、自身の弱さを知らなければなりません。不完全さと罪とを知り、青色・紫色・緋色の撚り糸によって成就された真理の福音を心で信じ、それによって神に祈る資格を得るのです。人間には信仰が必要です。神をお喜ばせする信仰を心の底にもつには、水と御霊の福音を信じなければならないのですが、これを信じない人はまだ大勢います。この水と御霊の福音以外の福音によって、神に祈る資格を得ることができたでしょうか? イエスがこの世に来られてバプテスマを受けられて罪を被ってくださらなければ、みなさんの罪は消えたでしょうか? イエスが受けられたバプテスマを信じることなしに、心の罪をイエスの上に移し、洗い流していただけたでしょうか? 
答えは、いいえ、いいえ、絶対にあり得ません。イエスはヨハネから授けられたバプテスマによって世の罪を負われたために、十字架につけられ、血を流され、すべての罪の罰を受けられたのです。では、人はイエスのバプテスマと十字架なしに救われたでしょうか? もちろん、救われません。イエスは人類の罪をただ一度で被られるためにバプテスマを受けられ、人類の罪をきよめるために洗い流されたのです。また、イエスが十字架につけられたのは、人類の罪の罰を受けられるためでした。この水と御霊の福音の真理を信じることによって、聖徒は罪をすべて赦されているのです。
ですから、いつでも神のもとに行き、堂々と告白することができるのです。「主よ、私はこのように不完全です。でも、水と血によって救っていただいたので、もう罪がありません。主はこの地上に来られ、バプテスマを受けられて一度ですべての罪を被られ、世の罪を十字架に運ばれ、その罪の罰を受けられ、死者の中からよみがえられました。そして、それによって、真の救済の神となられました。この真理への信仰をもって、主を信じます。」つまり、信仰をもち続けると、不完全であるにも関らず、人はいつでも神のもとに行き、祈ることができるのです。聖徒は御国を広めるために祈ることができます。兄弟姉妹のために祈ることができます。また、まだ罪の赦しを受けていない他の魂のために祈ることもできます。
水と御霊の福音を信じてはじめて、人は常に天の下に何ら恥じるところがなくなるのです。水と御霊の福音へのこの信仰がなければ、空白を他のもので埋めようとする人々がいるでしょう。しかし、よろしいですか、そうした努力はまったく無駄なのです。その人たちの心が苦しみ、悩み、生きることが耐えがたいのは、そのためです。真理にしろ嘘にしろ、誰もが何かしらを信じたいと思います。自分を振り返ってみてください。
ほんとうに水と御霊の福音を信じる信仰をもって主を信じているのか、それとも、この水と御霊の福音を信じていないのかを確認してください。主は水と血とで罪を消してくださいました。これを信じるなら、まだ心に罪があるでしょうか? ほんとうに心の底からこの水と御霊の福音を信じているのなら、少しも罪がないはずです。この真理への心からの信仰によって、今、罪の真の赦しを受けなさい。
神が青色・紫色・緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布によって表わされた真理によって罪の赦しをお与えくださったので、人間はこの永遠の罪の赦しを受けることができるのです。このために、この真理を信じる者は神の子どもとなり、神の前に行くことのできる恵みをまとっているのです。ですから、互いに愛し合い、互いの欠陥を理解し、最後まで神のみわざに仕え、それから神の御前に進んで立つのです。
罪の赦しを受けた者は、すべての罪人を愛します。義人の心は、すべての罪人が青色・紫色・緋色の撚り糸という形で表わされた真理を知り、新たに生まれることを願います。しかし、世の中には、ほんとうに人を愛すことのできない人々がいます。それは強情な罪人、自身の信仰の良心を欺き、罪深いままなのに神を信じているのだと思い込んでいるキリスト教徒です。
水と御霊の福音を信じて心に罪の赦しを受けることによって、信仰の良心を守らなければなりません。最後まで信仰の良心を保ち、信仰を失うことなく、努力しましょう。そして、誰かが霊的に困難な状態にあるのを見たときは助け合い、支え合いましょう。何が起ころうと、義人は教会を離れてはなりません。義人が教会を離れれば、すぐさま死にます。神の教会を離れることは、家を失うようなものです。家を失うことは、避難所を失うようなものです。ですから、心はどこにも安らぎや慰めを見出すことができず、死んでしまいます。
教会は、羊が糧を与えられ、安らぎと慰めを得る所です。ですから、羊が力を失って疲れ果てると、みことばを聞いて心が強くなるよう、教会が助けるのです。心で信じてみことばを受け入れると、内に宿る御霊が喜び、心は強くなり、最終的には永遠のいのちを受けます。
義人はみな神に感謝をささげます。祈る資格をお与えになるために水と御霊の福音をくださったことを主に感謝いたします。ハレルヤ。神を信頼し、信仰に生きることができるようにしてくださるよう、生ける神に祈ります。