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主題 9: 使徒パウロのローマ人への手紙

[Chapter 3-4] ユダヤ人はどういう点で外国人にまさるか (ローマ 3:1-31)

(ローマ 3:1-31)
では、ユダヤ人のすぐれたところは、いったい何ですか。割礼にどんな益があるのですか。それは、あらゆる点から見て、大いにあります。第一に、彼らは神のいろいろなおことばをゆだねられています。では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、彼らの不真実であることは、神の誠実さを無益なものにするのでしょうか。絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは、「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため。」と書いてあるとおりです。しかし、もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか。人間的な言い方をしますが、怒りを下す神は不正なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。もしそうだとしたら、神はいったいどのように世をさばかれるのでしょう。でも、私の偽りによって、神の真理がますます明らかにされて神の栄光となるのであれば、なぜ私がなお罪人としてさばかれるのでしょうか。「善を現わすために、悪をしようではないか」と言ってはいけないのでしょうか──私たちはこの点でそしられるのです。ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが。──もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。
では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。
それは、次のように書いてあるとおりです。
義人はいない。ひとりもいない。
悟りのある人はいない。
神を求める人はいない。
すべての人が迷い出て、
みな、ともに無益な者となった。
善を行なう人はいない。ひとりもいない。
彼らののどは、開いた墓であり、
彼らはその舌で欺く。」
「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」
「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」
「彼らの足は血を流すのに速く、
彼らの道には破壊と悲惨がある。
また、彼らは平和の道を知らない。」
「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」
さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。
しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自分の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。
それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行ないの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です。神が唯一ならばそうです。この神は、割礼のある者を信仰によって義と認めてくださるとともに、割礼のない者をも、信仰によって義と認めてくださるのです。それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。
 
 
<ローマ 3:1>では、ユダヤ人のすぐれたところは、いったい何ですか。割礼にどんな益があるのですか。
アブラハムの子孫であるユダヤ人は、他の民族に比べて非常に有利な点がありました。ユダヤ人は親たちの生き方や神から多くの霊的教えを受け、神のみわざを実際に見ながら育ったのです。彼らは契約のしるしとして、また神の民として、肉の割礼を受けました。みことばによる契約を結んだ神の民として、多くの恵みを受けました。
しかし、使徒パウロはローマ人への手紙第 3 章で、ユダヤ人と外国人はいずれも神の義を信じるだけで罪から救われると述べています。では、ユダヤ人はどういう点で外国人にまさるのでしょう。みことばを与えられている点です。ユダヤ人は、はるか昔の祖先の時代から、みことばを聞いてきました。ユダヤ人が外国人にまさるとされたのは、彼らが神のみことばを伝えてきたためです。しかし、神はユダヤ人を捨てられました。イエス・キリストが神の御子であられることを彼らが信じなかったからです。
現在のキリスト教徒の中にも、そうした信仰をもつ人は大勢います。彼らはイエスを救い主と認めて教会に行くのですが、罪人なのです。彼らはキリスト教徒になっても、キリスト教徒になる前と同様に罪人です。イエスを信じていても、その信仰は無益です。イエスを信じるようになっても神の義を得ていないからです。今日でも、そのような信心家は大勢います。
 
<ローマ 3:2>あらゆる点から見て、大いにあります。第一に、彼らは神のいろいろなおことばをゆだねられています。
神の祭司とは、みことばを伝える仕事を託された者です。神は、みことばを民に伝える役目をしもべに託されました。ですから、ユダヤ人はすばらしい幸いを受けたのです。神は彼らの祖先に話され、彼らの中からしもべを選ばれ、みことばを伝えられたのです。今は外国人でさえ彼らの祖先を通じてみことばを聞く恵みを受けています。
 
 

神の義を信じなかったために

 
<ローマ 3:3>では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。
ユダヤ人はみことばを託され、それを仲間と分け合いました。しかし、自分ではみことばを信じていなかったなら、それが何の役に立つでしょう。みことばはまた、イエスを信じ、今日のキリスト教の指導者になった人々にも伝えられました。神の義の示された水と御霊のみことばを信じていないキリスト教指導者は大勢います。では、彼らに何の得があるのでしょう。そうした人が神の義のみことばを信じないからといって、神の義の真実が消えるでしょうか。いいえ、消えません。神の義は永遠です。
使徒パウロは神のしもべであり、神の義を伝える福音をユダヤ人と外国人に広めました。しかし、ユダヤ人は使徒パウロの説いた神の義を信じず、また、イエス・キリストが救い主であるとも考えませんでした。しかし、だからといって、父なる神がイエス・キリストを通じて成就された義が無になるということではありません。人間が神の義を信じないからといって、神の義が消えるでしょうか。神の義を信じない者がいたところで、神の義が無になるでしょうか。人間が信じないからといって、神の義は消えません。つまり、人間が信じないからといって神の義が無になることはないのです。人々が信じないからといって、どうして神の義が無になるでしょう。ユダヤ人が信じなくとも、外国人は神の義を信じます。それは、誰でも神の義を心で信じる者はすべての罪から救われるからです。ユダヤ人は他の民族に比べてまことに有利な立場にいましたが、神の義を信じなかったため、神に捨てられました。
人間の道徳や善行では、ユダヤ人も外国人も罪から救われないのですから、ユダヤ人は自分たちのほうが上だと言っていても、罪から救われはしません。つまり、神の義を成就したイエス・キリストを救い主と信じなければ、ユダヤ人も外国人も罪から救われないのです。神はユダヤ人にも外国人にも同じ義をお与えになりました。ですから、神はご自分の義に背を向けたユダヤ人を捨て、外国人に同じ信じる機会をお与えになったのです。
 
 

信仰による義

 
使徒パウロのメッセージは具体的には次のように表現できます。「神は賜物としてご自分の義、罪からの救済をくださった。旧約の約束が、イエス・キリストのバプテスマと十字架上の血とにより新約で成就された。福音が罪をみな除いた。」
イエスのバプテスマと十字架上の血に神の義の福音が示されているのに、信じない人々がいます。神は、ご自分の義を信じる者に神の子どもになる恵みをくださいました。神の恵みを人間が信じないからといって、神の義は消えませんし、無効にもなりません。
神の義を含む福音を聞き、心で信じさえすれば、誰でも神の義を受けられます。神の義を信じることなしに神を信じていると称している人は、神を嘘つきだと嘲っているのであり、神に対して罪を犯しているというのは、そのためです。彼らは神に敵対しているため、罪のために滅ぼされることになります。神は、罪人を罪からお救いになるためにすべての義を成就なさいました。しかし、パウロの時代にも今日と同じように、これを信じない人々がいました。人々が信じないからといって、神の義は無になりません。ですから、使徒パウロは「では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、彼らの不真実であることは、神の誠実さを無益なものにするのでしょうか」と言ったのです。
神は救済の賜物、神の義をすべての人間のためにご計画になりました。そして、御子イエスのバプテスマと血とによってご計画を実現なさいました。これが神の義です。ですから、神の義は信じる者に栄光と高貴さをもたらすのです。
神が人類にくださった最高の賜物とは何でしょう。神の義です。神の義とは何でしょう。神は御子をこの世に遣わされ、御子の血で罪をすべて贖われて罪人をみな解放なさり、神の子どもになる資格をくださいました。神は最初から、つまり創造の時から、人間に神の子どもになれるという恵みをくださっているのです。
しかしながら、多くの人は神の義を信じていないため、いまだに罪に囚われています。神の義を信じないからといって、神の義が消えるでしょうか。いいえ、絶対にそういうことにはなりません。神の義は永遠の力であり、永遠に存在します。罪人を救う神の義は永遠に消えません。神の義を受け入れる者は誰でも罪の赦しと永遠のいのちを受けます。しかし、信じない者は終わりの日に地獄に行きます。ですから、聖書には「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られる」(ローマ 3:4; 詩篇 51:4)とあるのです。
神は人間にご自分の義をくださると予め約束なさり、主がそれを完全に実行なさったのです。ですから神は、恵みを受けるべき者には恵みをお与えになり、呪われるべき者は呪われるのです。
聖書には「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため」とあります。
神のみことばが人間の肉の形で来られ、罪からお救いくださいました。ですから、パウロは「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られる」と述べているのです。
主が昇天されたのは、神の義をすべて満たされたからです。主は最後まで誠実です。主は悪魔サタンに、すべての被造物に、そしてご自身にも誠実なのです。しかし、私たち人間は誠実ではありません。人間は都合が悪ければ、自分でした約束も変えます。しかし、神は誠実なので、人間になさった約束を破られず、すべて実現なさいました。ですから、信仰の基は神の義に置かなければなりません。
 
 
人間の不義が神の義を明らかにするとしたら
 
<ローマ 3:5-6>もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか。人間的な言い方をしますが、怒りを下す神は不正なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。もしそうだとしたら、神はいったいどのように世をさばかれるのでしょう。
ローマ 3:5 には、「もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか」とあります。人間は偽りに満ちていますが、主は誠実です。
みなさんは神の義をご存じですか。人間の弱さが神の義をより明らかに示すということをご存じですか。神はまことに誠実で正しいのです。神は救済の主です。神は約束をなさり、すべて実行なさった真の神です。人間は生まれた時から邪悪ですから、罪を犯さずにはいられません。しかし、そうした邪悪さによって神の義がいっそう明らかになるのです。
人間が邪悪だから、神の義はより明らかになるのです。みなさんはこのことについて何か疑問がおありでしょう。実際のところ、救い主がこの世に来られ、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けられて神の義が示されたのです。主が来られたのは、人間は死ぬまで罪を犯さずにはいられないからです。この真理は、神がくださった水と御霊の福音に明らかに示されています。人間はみな、これまで罪を犯してきました。そして、この先もまた犯し続けるでしょう。ですから、主は神の義を満たして世の始めから終わりまでの人類の罪をただ一度でみな消し去られたのです。神は、罪を犯さない高潔な人々は救われません。では誰を罪から救われるのでしょう。罪のために地獄に定められた罪人を救われます。これが義によって成就された神の完全な愛です。
自らの行いを神の御前で省みるなら、人間には何ら愛すべき点がありません。犯した罪のために地獄に行くしかなかった時、神はひとり子を遣わされ、悪魔の手から人類を救われたのです。聖書に「もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか」(ローマ 3:5)とあるのは、そのためです。人間が罪を犯せば犯すほどに神の義が明らかになるのです。これが使徒パウロの告げている福音です。
しかし、これは、悪を行って人生を送ってもいいということではありません。人間はどんなにがんばっても神の御前で正しく生きることができないということなのです。アダムの子孫である人間には、たとえそうしたくとも正しく生きる力がありません。ですから、人はみな神の義を信じなければならないのです。神の義を信じるには偽善を捨て去らなければなりません。神の義を受け入れるのではなく、高潔な生き方をしようとする人は、誤った偽善的な信仰に陥ります。不可能なことだからです。
神の御前で高潔に生きることができるのは 、神の義をもつ者だけです。神の義を知り、信じることなく高潔に生きられる人は誰もいません。人間には義がないからです。では、罪を犯さずにいられない人間が、どうしたらすべての罪から救われるのでしょう。神の義が必要です。神の義は光を放ちます。ですから、救われるために自分の義を築こうという考えを改める必要があります。使徒パウロ自身、神の義を信じて罪から救われたと述べています。
では、新生していない人は罪からの救済をどう理解しているのでしょう。そうした人は、イエスを信じなければならない、また、正しい生き方をしなければ罪から救われないと主張します。ですから罪を免れないのです。ほんとうに生涯の罪全部から救われている人は、神の義を信じています。そうした人は神の義を尊しとしてたたえます。神の義だけを誇り、肉の義は捨て去ります。つまり、信仰によって罪から救われているのであって、人間の義を加えて救われたのではないのです。
もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか。(ローマ 3:5)
人間の悪は神の義と愛の尊さを証明するだけです。聖書には、次のようにあります。
でも、私の偽りによって、神の真理がますます明らかにされて神の栄光となるのであれば、なぜ私がなお罪人としてさばかれるのでしょうか。「善を現わすために、悪をしようではないか」と言ってはいけないのでしょうか。──私たちはこの点でそしられるのです。ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが、──もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。
聖書には、神の義を信じないで人間の考えから神の義に敵対する者は、裁かれて地獄に行くとあります。神の義を信じないため、その名が『裁きの書』に書かれているというのです。そうした人は悪を改め、悔い改めて神の義を信じ、罪から救われなければなりません。使徒パウロは、「人間的な言い方をしますが、怒りを下す神は不正なのでしょうか。絶対にそんなことはありません」と言いました。人間が地獄に行くのは、罪を犯したからではなく、神の義を示す真理を信じないからなのだというのです。すべての人間を罪から救った、神による救済は間違っているのでしょうか。いいえ。
 
  

神の義を知らない者

 
<ローマ 3:7>でも、私の偽りによって、神の真理がますます明らかにされて神の栄光となるのであれば、なぜ私がなお罪人としてさばかれるのでしょうか。
ここは、人間は生まれつき罪をもっているため、本能的に罪を犯すのというのです。パウロは「人間の罪深さのために神の義がより明らかになったらどうでしょう」と言っています。つまり、神がイエス・キリストをこの世に遣わされ、バプテスマによって世の罪をすべて被らせ、十字架上で血を流して罪をみな消されたので、神に栄光が添えられるというのです。主は、罪の塊として生まれた人間が生涯に犯す罪をみな贖われました。
当時の人々はパウロに反論して言いました。「では、私たちは正しい働きを何もしなくてもよいのですね。ただ信仰によって罪から救われたというのなら、罪がなくなった今は、ますます多くの罪を犯すのではありませんか。」
しかし、この点を理解しておかなければならないのですが、人間は、そうしたくて罪を犯すのではないのです。罪を犯さずにはいられないから罪を犯すのです。人間は罪人として生まれているので、生涯罪を犯し続けるのです。リンゴの木がリンゴの実を結ぶのがまことに自然なことであるように、罪人としてこの世に生まれた者が罪を犯すのもまた、自然なことなのです。罪を犯してばかりいる、あらゆる罪の実を結ぶ者を、神はその義によって救われました。聖書は、人間は神の恵みを加えるためにますます罪を犯しはしない、自分の力では罪から救われない罪人は、ただ神の義を信じるだけで救われるとしています。
 
 
「意図的に罪を犯そう」という人々への反論 
 
<ローマ 3:8>「善を現わすために、悪をしようではないか」と言ってはいけないのでしょうか。────私たちはこの点でそしられるのです。ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが、────もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。
これは、当時の嘘つきたちにだまされて、神の義を信じないで自分の考えに固執する人のことを言っています。今日でも、嘘つきにだまされているキリスト教徒は同じことを言います。ローマ書は二千年ほど前に書かれましたが、現代人も当時の人々と同じようなことを言います。「イエスが罪をみな消してくださったのなら、それを信じている人は、それまで以上の罪を意図的に犯すだろう。」
そうした人は、肉の考えに基づいた判断から、こういうことを言うのです。イエスは人間の行いには関わりなく、すべての罪を贖われました。しかし、人々は、罪を犯し続けていては救われないという考えに縛られていて、神の義を明かす水と御霊の福音を信じることができません。ですから、神のくださった救済の真理に至れないのです。
罪の赦しを受けた人も、新生していない人も、罪を犯し続けます。しかし、人間が犯し続けるそうした罪はみな、明らかに神の義が除いているのです。ですから、誰もが神の義を信じて罪からの救いを受けられるのです。人間の肉は不完全なままなのですから、罪の赦しを受けた後でも罪を犯さずにはいられません。しかし、罪の赦しを受けると、罪を犯すことにある種の制約が生じるのです。人間が罪の赦しを受ける前に次々と罪を犯すのは、自分のしていることが罪だと認識していないからなのです。しかし、罪の赦しを受けた義人は、罪とはどのようなものかを知っていますから、意図的には罪を犯しません。
神の義について、使徒パウロに反論して「良いことが起こるよう、悪いことをしよう」と言う人々がいました。しかし、パウロは「私たちはこの点でそしられるのです。ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが、────もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです」と述べました。そうした人は神の義を信じていないのですから、罪の裁きを受けるのは正しいことです。なぜでしょう。神の義への信仰をもたず、自分の肉の考えに固執して神の義に逆らい、偽善的な行為をしているからです。主がすべての罪からお救いくださることは、人間自身の義とは何の関わりもありません。しかし、神の義を信じる者とそうではない者との間には、大きな違いがあります。信じる者は真理により救われますが、信じない者は真理による救済を受けられないため、地獄に行きます。イエスが躓きの石だと神がおっしゃったのは、そのためです。神の義を信じるなら、どんな大罪を犯していようと義人になり、永遠のいのちを受けます。どんな善行をしていようと、神の義を信じないなら、罪のために神に裁かれ、永遠の滅びを受けます。ですから、イエスは偽善の道を歩む者の躓きの石になられるのです。
罪をもつ義人は、いるでしょうか。いいえ、あり得ません。では、罪を犯す義人はいるでしょうか。はい、います。「神の義を信じていても、将来も罪を犯すだろうから、義人にはなれない」と心配している人がいます。しかし、この点は確実に把握しておかなければならないのですが、人は善行によってではなく、神の義だけによって義人になるのです。神の義は、この福音を信じるようになった後で犯す罪をも含めて、人間がこの世で犯す罪をすべて取り除いたのです。私たちは、イエスがヨルダン川でのバプテスマによって世の罪をすべて被られたと信じて、義人になっています。
聖書には、「この地上には、善を行ない、罪を犯さない正しい人は一人もいないから」(伝道者の書 7:20)とあります。罪を犯す義人はいます。しかし、神の義を信じるようになってから罪人になる者はひとりもいません。借金をすべて返済しても、まだ負債があるでしょうか。イエスが人間の罪をみな消されたのは、金持ちの父親が、息子が一生のうちで買い物するだけのお金を既に払っているなら、息子がどれほどつけで買い物しようと、まったく借金がないのと同じことです。
人間は罪を犯さないで義人になろうとしても、できません。人間は罪を犯さずにいられるような完全な体をもちません。人間は空腹になれば、食べなければなりません。人間にはあらゆる欲求や欲望があるのですから、罪を犯さずにはいられません。人間は誰もそのように定められています。ですから、「キリスト教徒になってから罪を犯さずにいれば、義人になるのだ」といった、肉の考えは捨てなければなりません。罪を犯さない人間はいません。ただ神の義を信じて罪からの救いを受けられるのです。
新たに生まれていない人は肉の考えにだけ従います。聖書には「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です」(ヨハネ 3:6)とあります。私たち人間には、生涯罪を犯し続ける者を罪のない者とすることはできません。しかし、神の義には、生涯罪を犯し続ける罪人を罪のない者とする力があります。良心に照らしても義人とされるよう、人間の罪をすべて清められるのは神です。罪を犯す私たちが義人とされ、神を父と呼べる恵みをくださいます。神には、ご自分の義を記録した真理のみことばを信じる者を世の罪から解放する力がおありです。これを信じるのが真の信仰です。自分なりの偽善的な信仰では義人にはなれません。
新たに生まれていない人は、いつも自分の考えに囚われています。罪人が自分の考えから抜け出せないのは、そのためです。イエスを信じていると言っていても、イエスを信じる者を神の義が完全に救ったことをけっして理解できません。ですから、罪から新たに生まれたければ、神の義のみことばを聞き、信じる必要があります。義人のあかしする神の義を聞く罪人は、新生します。新たに生まれた義人の中には御霊が宿っておられるからです。よろしいですか、ほんとうに新たに生まれたいのなら、新生した人に会わなければなりません。イエス・キリストの示された神の義を信じて、人間は罪のない者になれるのです。
 
<ローマ 3:4>絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため」と書いてあるとおりです。
人間は本質的に嘘つきです。しかし、神は真実そのものです。神は旧約で、人間を罪から救う救い主を遣わそうと約束なさいました。そして、救世主を遣わされたのです。救世主イエス・キリストが人間の肉の形でこの世に来られ、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けられ、世の罪をみな被られて十字架上で死なれ、復活なさり、それを信じる者が神の民となれるよう、罪人を罪から救われました。語られた真実によると、神はサタンに勝利なさいました。神が嘘つきだとは誰にも言えません。
 
<ローマ 3:5-6>もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか。人間的な言い方をしますが、怒りを下す神は不正なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。もしそうだとしたら、神はいったいどのように世をさばかれるのでしょう。
聖書には「たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです」とありますが、人間には真実がありません。人間は嘘をつき、罪に満ちているのです。しかし、神の義は真実で、変わることがありません。使徒パウロが、人間が罪を犯し続けるために、神の義が増したと述べているのは、そのためです。これは、神の義の完全さ、人間の悪と弱さを示しています。ですから、神の義を信じさえすれば、神の定められた救済の律法により救われるのです。
神は、人類をご自分の義の内でだけすべての罪から解放する救済の真理を定められました。ですから、神の義を信じない者に神の怒りが下されるのは、ふさわしく、正しいことなのです。神の義を信じないで罪人になった者に神は裁きの怒りを下されます。神の義を信じない者に怒りが下るのは間違いでしょうか。いいえ。神は愛の神ですが、怒りを受けるにふさわしい者には怒りを下され、慈悲に値する者には慈悲をお与えになるのです。
 
 
もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか
 
<ローマ 3:7>でも、私の偽りによって、神の真理がますます明らかにされて神の栄光となるのであれば、なぜ私がなお罪人としてさばかれるのでしょうか。
使徒パウロは主のみことばについての考えを続けます。
たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。
パウロ自身、自分が弱さから嘘をつき、罪を犯すにつれ、神の義はますます豊かになるのだと理解するようになりました。ですから、自分は神の義を信じているけれど、それでも弱さのために不信者と同じように裁きを受けるのだろうかと問うています。罪の赦しを受けた者が弱さのせいで神の裁きを受けることは、絶対にありません。これが神の義であり、真理です。どうして罪人が神の裁きを受けないことがあるでしょう。イエスはバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになって、世の罪をみな被られたので、十字架上で血を流され、すべてを贖うことがおできになったのです。パウロが、「神の義を信じる信仰をもちながら、どうして罪人のように神の裁きを受けることがあろうか」と修辞的に問うているのは、そのためです。彼は、自分の弱さがあるから神の義がますます明らかになるのだと、真の信仰を告白しています。
ユダヤ人はアブラハムの子孫であるという点で外国人にまさります。神はアブラハムの子孫にいけにえの制度とともに律法を与えよう、また、救い主を遣わそうと約束なさいました。アブラハムの子孫であるユダヤ人は信仰の先人からみことばを託されました。
ローマ 2:17 は、ユダヤ人がどういう点で外国人にまさるかを語っています。ユダヤ人は割礼を受けている点で外国人にまさります。割礼とは、神がアブラハムとその子孫の神であるという印でした。割礼とは男の包皮を引っ張って切り取ることで、霊的には、水と御霊の福音を信じて罪を切り離して罪から救われたことを示していました。しかし、ユダヤ人は肉体的には割礼を受けていても、霊的割礼は受けませんでした。
ユダヤ人は肉体的には、神のみことばを託されたアブラハムの子孫でしたが、霊的に外国人にまさる点はありませんでした。彼らはイエスを信じず、水と御霊の福音によって罪の赦しを受けていなかったからです。では、今日、キリスト教徒は他の宗教の信者と比べて何がすぐれているのでしょう。主のくださった水と御霊の福音を信じていないのなら、キリスト教徒も異教徒と何も変わりません。キリスト教を信じるということは、イエスを自分の救い主と信じることであり、これはイエスのバプテスマと十字架上の血を信じるということです。
世界には儒教、仏教、ヒンズー教、イスラム教、キリスト教等々、数多くの宗教があります。中でもイスラム教、カトリシズム、仏教、ヒンズー教は大宗教です。しかしながら、人間の罪を贖う真理をもつ宗教はあるでしょうか。ありません。人間の罪を消し去る宗教はありません。聖書には、「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も人間に与えられていないからです」(使徒 4:12)とあります。仏教徒もキリスト教徒も心に罪があるのに、キリスト教はどんな点で他の宗教よりすぐれているのでしょう。仏教では、罪を犯すと大金を寄付し、菩薩の加護を願って「唵 - 麼 - 抳 - 鉢訥 - 銘 - 吽(オン - マ - ニ - パド - メ - フン)」と唱えます。キリスト教徒は教会に行き、大金を寄付し、教会のために奉仕して安らぎを覚えます。このように、キリスト教には他の宗教にまさる点がないのですから、無益です。
聖書には、水と御霊によって新たに生まれてはじめて神の御国に入ることができるとあります(ヨハネ 3:3-5)。しかし、今日のキリスト教徒は水と御霊によって新たに生まれることの意味を知らないのですから、イエスを信じていても何の益もありません。実際、使徒パウロがここで述べていることは、すべてのキリスト教徒にとって難解なのです。
 
 
すべての人は水と御霊の福音に戻らなければならない
 
最近は、どうしたら新たに生まれるか知らずに教会に行く人が大勢います。しかし、そうしたキリスト教徒である罪人もまた、水と御霊の福音を信じて神の御前に戻らなければなりません。そうした人が他の人々をキリスト教に導こうと努力しているのはわかります。しかし、ただ自分たちの教会に来させることができるだけで、神の義について教えることはできません。当然です。水と御霊の福音のみことばを知らないのですから。ですから、父なる神がイエス・キリストを通じてお与えになった水と御霊の福音を信じて罪の赦しを受けなければなりません。そして、心に神の義を受け、神の許に戻るのです。
ローマ書はユダヤ人のためにだけ書かれたのではありません。今日のまだ新生していない人たちに水と御霊の福音に還れと告げてもいるのです。キリスト教徒はみな自分の信仰を反省し、「私は水と御霊の福音を信じているだろうか」と考えてみて、間違いを信じていたのなら、正しい信仰に戻らなければいけません。
聖書に「主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである」(イザヤ 11:9)とあるように、水と御霊の福音は世界中に豊かに広まっています。私の国、韓国の人々も水と御霊の福音を知らないとは言えません。私たちは 1991 年以来、この福音を宣べ広めてきているのですから。キリスト教徒が結婚するときはキリスト教の結婚式をし、死ぬと、キリスト教の伝統にしたがって葬儀が行われます。そして、死後は祖霊に対する儀式ではなく記念会をします。儀式は他の宗教と違っていますが、実際のところ、内容は変わりません。彼らもまた水と御霊の福音を知らない罪人だからです。
ですから、キリスト教徒はみな水と御霊の福音への信仰に戻らなければならないのです。真の神の義を理解し、信じている新生者に会い、水と御霊の福音を聞かなければなりません。そうすると、聖書に記された、神のご計画である罪の赦しの福音を得られるのです。この福音を聞いても捨て去る人がいます。しかし、私たち新生者は神の御前で心から感謝しています。
新たに生まれる前の私は、イエスがバプテスマを受けられた理由がほんとうにはわかっていませんでした。ですから、いろいろと質問しました。しかし、聖書を熟知し、深い信仰をもっている人々の中にも答えを知っている人は一人もいませんでした。ところが、神は真理を理解させてくださったのです。マタイ 3:15 から、この真理がわかります。真理とは、イエス・キリストがバプテスマによって罪をみな被られたということです。このバプテスマは人類救済の型であり、主はこれにより神の義を満たされたのです。神はその義でお会いくださり、ただ一度で罪をみな取り除いてくださいました。そして、私を全世界に水と御霊の福音を広める福音伝道者にしてくださいました。私はこれまで神の御恵みにより水と御霊の福音を説いてくることができました。
福音がこのように説かれなかったなら、人々の魂は死に、信仰を失い、永遠に神と切り離されていたでしょう。すべての人にこの福音を宣べ広めなければならないのは、そのためです。世のすべての教会は水と御霊の福音を信じる信仰で満たされなければなりません。誰でも、神の義を含む水と御霊の福音を信じるなら罪の赦しを受け、神の義を得た者となります。神の義を信じる者はすでにすべての罪の赦しを受けています。そのように信じて神の義を受けた者は、神の義のために生きる者になります。神の義を信じる者は天の聖なる恵みを受けます。
  
 
神の義を成す水と御霊の福音とは何か
 
神はほんとうに水と御霊の福音よって人類を世の罪からお救いくださったでしょうか。はい、みな救ってくださいました。神の義は水と御霊の福音の中に示され、あかしされています。水と御霊の福音には世のすべての人を罪から救う真理が含まれています。
では、水と御霊の福音とは何でしょう。神は世の罪人をすべての罪からお救いになるために御子イエス・キリストをこの世に遣わされました。イエスがお生まれになり、三十歳になられるとヨルダン川に行かれ、全人類の代表であるバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられ、人類の罪全部を被られました。マタイ 3:15-16 を見ますと、イエスはバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられ、世の罪をすべて被っておられます。そして十字架につけられて血を流され、負われた罪の裁きを受けられました。これこそが水と御霊の福音です。イエスのバプテスマと十字架上で流された血とが水と御霊の福音の内容であり、それは罪人の罪がみな洗い流されたことを告げているのです。神はそのようにしてお救いくださいました。イエスがこの世に来られ、ほんとうになさったことを告げるのが水と御霊の福音なのです。この福音は、教義でも作られたものでもありません。実際に罪人を罪から救ったみわざです。
聖書には、こうあります。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネ 3:16-17)
父なる神は、この世に生きるみなさんと私を膨大な罪からお救いになるためにひとり子をこの世に遣わされました。神がひとり子イエスをこの世に遣わされたのは、地獄に定められた人間を深く愛されたからです。イエス・キリストはこの世に来られると、神の愛、すなわち神の義を満たされるためにバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになり、世の罪をすべて取り除かれました。父なる神が人間を愛されたのは口先だけのことではなく、深く愛しておられたイエスを遣わされ、世の罪全部を被るようになさったのです。
水と御霊の福音は世の罪全部を取り除きました。イエス・キリストは神の御子としてこの世に来られ、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けられて人類の罪を全部負われ、十字架上で死なれ、死からよみがえられました。こうして、それを信じさえすれば世の罪全部の贖いを受けられるという恵みをくださったのです。イエスのバプテスマと血を信じれば、実際に救われます。罪からのこの救済は神の義によって与えられた真の救済だからです。神の真の愛は消えません。
イエスを信じる者が罪から救われ、信じない者が罪の報いとして罰を受けるのは、そのためです。主がその愛から人類の罪を消すために行われたバプテスマと血のみわざを人間が信じないからといって、神のみことばも、神がくださった罪の赦しも、消えません。罪の赦しをもたらした神の義は、たとえこの宇宙が消えても、なくなりません。
では、みなさんと私の信仰にどういう益があるか、考えてみましょう。信じるのと信じないのと、どちらがためになるのでしょう。神は人間を深く愛されたので、人間にお尋ねになることなく、ご自分の一存で罪を除いてくださいました。これは、神の側がその義によって世の罪から救ってくださったということです。人間の側がイエスのバプテスマと血とを信じるなら、神は罪の赦しと永遠のいのちをくださいます。しかし、信じない者は罪のために滅ぼされます。ですから、この真理を信じることがためになるのです。
神は、人間の犯した最も恐ろしい罪さえもバプテスマによってイエスに移されました。この世の人間が全生涯に犯す罪を全部、普通の人間が日常に犯す罪も、はなはだしい詐欺行為も、凶悪な犯罪者による恐ろしい罪も、すべて取り除かれました。イエスはバプテスマのヨハネから受けられたバプテスマと十字架上の血とにより、罪をすべて贖われました。ですから、水と御霊の福音のみことばを信じる者は罪の赦しの恵みを受けますが、信じない者は恵みを受けられません。
偽り多い人間の信条が神の誠実を無にするでしょうか。いいえ、できません。間違った信仰をもつ者は、イエスの受けられたバプテスマと十字架の血とによって成就された罪の赦しを信じません。たとえ彼らが信じていなくとも、神の義はけっして消えません。たとえそうした人が、イエスの十字架上の血だけを信じれば罪の赦しを受けられるのだと信じていたとしても、その心には罪があります。十字架の血だけではすべての罪から救われません。
イエスはこの世に来られ、十字架上で血を流すだけで罪人の罪を除かれたのでしょうか。いいえ、そうではありません。イエスはこの世にお生まれになり、三十歳のときにバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになって世の罪を被られました。これは、イエスが後に十字架上で裁きを受けるために、まずバプテスマによって罪を被られたということです。ですから、イエスは十字架に釘打たれて死なれ、死からよみがえられたのです。イエスはバプテスマによって罪を被っておられなくとも、十字架上で血を流して死なれたでしょうか。いいえ、そういうことはできませんでした。主がバプテスマによって罪をみな被られずに十字架上で死なれたなら、その死は人間には何の関わりもないことになります。イエスがまずバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになり、それから十字架上で死なれたのは、そのためです。イエスはバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになっていたからこそ、十字架に行くことができたのです。イエスはバプテスマを受けられて人類の罪全部を一度で被られました。イエスのバプテスマと十字架上の死とを信じる者だけが救われるのは、そのためです。
聖書には、「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼のうち傷によって、私たちはいやされた」(イザヤ 53:5)とあります。
イエスが十字架上で死なれたのは、バプテスマによって人類の罪をみな被っておられたからです。そうでなければ、イエスはけっして十字架上で傷を受けることがなかったでしょう。まことに、主は人類の違反と咎のために傷を受けられたのです。
では、なぜ人々はイエスのバプテスマと血の両方を信じないのでしょう。なぜ水と御霊の福音を信じないのでしょう。それは、イエスがバプテスマのヨハネから受けられたバプテスマがすばらしい恵みである理由を知らないためです。イエスがバプテスマのヨハネから受けられたバプテスマは重要ではないと言う人がいます。イエスが受けられたバプテスマは象徴的なものであり、単に謙虚さを示しているのだというのです。そして、尋ねます。「イエスの受けられたバプテスマが罪の赦しのためにそんなにも大事だったのなら、なぜ聖書は十字架上の血だけを重視しているのです?」 
しかし、神は、イエスが旧約の犠牲が頭に受けた按手と同じ形で受けられたバプテスマの重要さを何度も語っておられます。イエスはヨルダン川でバプテスマを受けられ、そこで人類の罪全部が取り除かれたのです。ヨルダン川は神の義によって世の罪が新約で完全に終わった場所です。これは旧約にあるヨルダン川での出来事に関係しています。たとえば、契約の箱を担いだ祭司たちが川に足を踏み入れると、ヨルダン川はその流れを止めました(ヨシュア 3:11-17)。また、ナアマン将軍がヨルダン川に七度身を浸すと、病が癒えました(II 列王記 5:14)。旧約にはヨルダン川に関する記述がいくつもあります。
旧約にはまた、「手を置く」ことの例も数多くあります。その一つでは、罪人は罪の赦しを受けるために幕屋に犠牲を連れて行かなければなりませんでした。それから動物の頭に両手を置いて罪を移したのです(レビ記 4:1-32)。
イエスはこの世に来られると、幕屋のいけにえの儀式で行われたのと同じ形でバプテスマを受けられ、血を流され、世の罪をみな消されました。
しかしながら、大方のキリスト教徒は、イエスがバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられた理由を知らず、「十字架上で罪をみな処理なさった」とだけ信じています。そうした信仰は人間の考えから出たものに過ぎません。イエスが十字架上で罪をみな被られたとは、聖書のどこにも書かれていません。かえって、イエスがヨルダン川でバプテスマのヨハネから受けられたバプテスマによって神の義をすべて満たされたとする記述がいくつもあるのです(マタイ 3:13-17; ガラテヤ 3:27; ローマ 6:3-4; ペテロ I 3:21)。イエスが十字架上で死なれたのは、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けられ、罪をみな被っておられたからです。イエスがその血で世の罪を消すことがおできだったのは、救い主としてバプテスマを受けておられたからです。
結果に至るには、一定の手順を踏まなければなりません。ですから、手順を明確に説明できるなら、その人は結果を完全に理解しています。完全に理解できてはじめて、神の義である水と御霊の福音を宣べ広めることができるのです。聖書には、水と御霊の福音によって新たに生まれてはじめて神の御国に入ることができるとあります。ですから、十字架の血だけを信じていたのでは、神の御国に入れないのです。
イエスの十字架上の血だけを信じているのでは、真理の半分だけを信じていることになるのです。それは完全な信仰ではありません。聖書の核心となる点は何度も繰り返し述べられていますが、それは水と御霊の福音とイエス・キリストの神性と人格です。聖書の告げる罪の赦しとは、イエスがバプテスマを受けられ、十字架上で死なれて人類を罪から救われたみわざをいうのです。
キリスト教徒はみな水と御霊の福音の真理を信じなければなりません。さもなければ地獄に行くのですから、絶対に信じなければならないのです。水と御霊の福音のみことばを信じるなら、罪の赦しを受けて天国への道を歩むことになります。しかし、たとえすべてのキリスト教徒がイエスの受けられたバプテスマを信じなくとも、神の義は消えません。イエスを救い主と信じているからといって、すべてのキリスト教徒が新たに生まれているわけではありません。イエスを信じていると言いながら、主のくださった水と御霊の福音を信じないのなら、イスカリオテのユダのように罪のために呪われる道を歩んでいるのです。真の信者は、イエスの受けられたバプテスマと十字架の意味とを知って、罪全部から救われます。神の義は永遠に存在します。人間は神の義を信じなければなりません。水と御霊のみことばは、人間が信じようと信じまいと、神の側でご計画になり、成就なさったみわざだからです。父なる神が人類を罪からお救いになるために、ひとり子を通じて成就なさった神の義は永遠です。
ペテロもユダも神の前で等しく罪を犯しましたが、二人の信仰には明らかな違いがあります。ペテロは三度イエスを否定し、呪いさえしたのです。しかし、自分の救い主が誰であるかを理解すると、主の御許に戻り、罪をみな消してくださったイエスを信じて救われました。ユダはどうでしょう。ユダは銀貨三十枚のためにイエスを裏切った後で罪悪感に苛まれ、自分の罪を償おうとして首を吊りました。まるで自分の行為の責任を取ることが可能であるかのように。真の悔い改めとは、たとえペテロのように、はなはだしい罪を犯した者であっても、イエスがくださった水と御霊の福音を信じて罪の赦しを受け、神の子どもになることなのです。ユダのように罪の責任を取ろうとするのは偽りの悔い改めです。
神の誠実に戻らなければなりません。神の御許に戻るには、信仰をもつことです。神は水と御霊の福音によってお救いくださいました。罪に落ちた人間を心から愛しておられたからです。これを信じるのです。イエスがほんとうに罪からお救いくださったことを告げる、この福音を信じる信仰に戻らなければなりません。信じない者はみな地獄に行きます。神は誰も地獄に行くことをお望みではありません。世のすべての人が水と御霊の福音を信じて天国に行くのを待っておられます。神をあまり長くお待たせしてはいけません。
 
 
人間には偽りがあるが、神は真実
 
ローマ 3:4 には次のようにあります。
絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため」と書いてあるとおりです。
彼はここで「たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです」と述べています。神の約束なさったとおり、主がこの世に来られて人類を罪から完全に救われたからです。ですから、人間は偽り者だけれど、神は真実だというのです。
人間はいつでも不正直で邪悪です。しかし、神は常に正直で真実です。神の真実であられることは、どこに示されているでしょう。水と御霊の福音に示されています。ですから、嘘から救われる唯一の道は、神が語られ、人類のために成就なさった水と御霊の福音を信じることなのです。水と御霊の福音はあらゆる嘘と罪を滅ぼし、人間をあらゆる悪から抜け出させます。
神は人間の罪をどのように測り、裁かれるのでしょう。その人の心に罪があるかどうか、つまり、水と御霊の福音を信じているかどうかに基づいて罪を裁かれます。みことばを信じる信仰をもつ人は、神の御前に進み、天国に行きます。信じない人は神みことばの定めにしたがって罰を受けます。ですから、みことばを信じて罪と嘘を滅ぼすのです。
ダビデは詩篇 51:4 で悔い改めの祈りをささげています。「あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。」ダビデは姦淫の罪を犯しました。そのうえ、他人の妻を奪うだけでは足りないとでもいわんばかりに、女の夫を殺したのです。ダビデは直接手を下したわけではありませんが、激しい戦場に送り出し、間接的に殺したのです。ダビデはそういう人でした。情欲・姦淫・殺人、神の御前での偶像崇拝は、みな神の律法に背くことです。
当時、ナタンという預言者がいました。ナタンはダビデに、羊を一頭だけもっていた人の話をしました。「羊を一頭だけ飼っている人がいました。また、数多くの羊を飼う金持ちの男がいました。ある日、金持ちの家に客が来ると、金持ちは羊を一頭しかもたない貧しい人から、一頭きりの羊を奪い、それを客に食べさせました。」
それを聞いたダビデは怒って言いました。「なんという悪人だ。それは誰です。そういう人は神の呪いを受けるだろう。」
預言者ナタンはダビデに言いました。「あなたこそは、その金持ちです。」 
ダビデは何も言えませんでした。ダビデは神の御前で告白しました。「あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。私の判断ではなく、主の判断で裁いてください。私が悪を行ったとおっしゃるなら、神よ、私は悪を行いました。私に罪がないとおっしゃるのなら、私には罪がありません。」
ダビデは、このように完全に神の裁きと罪の赦しに身を任せました。イエスを信じる者もまた、神の御前ではそうなのです。ある状況では、自分が良いか悪いかは、神がどう裁かれるかによって決まります。神が良いとおっしゃるなら良いのであり、だめだとおっしゃるなら、だめなのです。ですから、聖書にはこうあります。
「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため」と書いてあるとおりです。
神は、人類を救うために救い主を遣わそうとおっしゃり、ほんとうに救い主を遣わされました。父なる神は人類をお救いになるためにイエス・キリストを遣わされ、バプテスマを受けさせ、十字架上で血を流させ、死者の中から復活なさったのです。イエスはこの世に来られ、約束どおりにすべてを実行なさいました。罪の赦しをもたらすみことばを信じるなら、罪の裁きから救われます。イエスがみことばどおりに神の約束を成就なさったからです。しかし、もしみことばをありのままに信じなければ、罪のために呪われます。神は約束を誠実に実行なさったので、敵に勝利なさいました。
神のみことばは真実となり、したがって真実のみことばがあらゆる嘘を打ち破るのです。神はただの一度も嘘をつかれません。わずかの悪も行われません。神の義は完全です。神はその義によって罪人をすべての罪から救おうと約束なさり、水と御霊の福音によって約束を実現なさいました。
  
 
イエスを信じていても地獄に行く人々
 
神の約束はすべて成就しましたから、イエスを信じてはいても、水と御霊の福音を信じないために罪を犯した人は、神の御前に立った時、地獄の裁きを受けます。彼らは言い訳して「私はイエスを信じているのに、わずかばかり罪を犯したからといって、なぜ地獄行きの判決を下すのです」と言うでしょう。すると、神はおっしゃいます。「あなたが地獄に行くのはふさわしいことです。わたしはあなたの罪を消すと約束しました。そこで、この世でバプテスマを受け、約束どおりにあなたの罪をみな被りました。それなのに、あなたにはまだ罪がある。ですから、あなたが地獄に行くのはふさわしいのです。」 
そうなのです。罪の赦しは心から信じて、心に受けるのです。信じる者は罪がないので、恵みと幸いを受けます。信じない者は、律法に照らすと罪が明らかになるため、罰を受けるのです。神はすべて約束どおり実現なさいました。そして、みことばのままに信じる者には報われ、信じない者は罰されるのです。イエスを信じる者が全員天国に行くわけではないというのは、そのためです。イエスを信じるに際しては、自分なりの信仰をもつ前に水と御霊の福音について正しく理解しておくほうがよいのです。水と御霊の福音は新約・旧約のいたるところに現れます。神の義を信じている者は、神の御前でいつでも正しい信仰を告白できるので、天国に行きます。人間の義は汚れていますが、神はご自分の義を着せてくださいます。
どんな信仰をもって神の御前に行くかということが、まことに重要です。神の義のみことばを信じる信仰をもって神の御前に進まなければなりません。幻想体験や奇跡といったものをもって行ってはいけません。大事なことは、なぜ罪の赦しを受けたのかということです。水と御霊の福音の内に神の義を見出し、信じなければなりません。神の御前に立った時、神の義のみことばを信じる信仰があれば認められ、神の御国に入ることができます。
人間の肉体は弱いので、この世で罪を犯します。しかし、水と御霊の福音を信じる信仰があれば、罪の裁きと悪魔サタンの妨害を免れることができます。
「離れていけ、悪魔サタン。主がヨルダン川でバプテスマを受けられ、十字架上で血を流された。イエスが『バプテスマを受けるのがふさわしいことだ』とおっしゃったとき、すべての正しいことが行われたのではないか。イエスはバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになり、それにより、人類の罪をみな被られた。主は、私が死ぬまでに犯す罪をみな被られた。イエスのバプテスマは罪をみな被られるためだったのであり、その死は私の死であり、イエスが十字架上で血を流されたのは私に代わってそうなさった。また、イエスの復活は私に新たないのちをくださるためだった」と言えます。そうした信仰をもって悪魔サタンを叱責できます。「主イエス・キリストの御名により命じる。私から離れて行け。」
悪魔サタンは真の罪の赦しの福音への信仰を見ると、離れていきます。
みなさんも私も、強い意思とよい記憶力があるから最後まで神の御前で信仰を保つというわけではありません。よろしいですか、神の御前にあっては、神の義への信仰をもっていながら神を否定することはできないのです。地獄は神の義を信じない者のために用意されています。しかし、信じる者は賜物として御霊を受け、神の子となり、天の永遠のいのちを得ます。義人には御霊の働きはますます明らかになります。
 
 
人間の犯す罪が神の義をますます明らかにする
 
ローマ 3:5 には、「もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか。人間的な言い方をしますが、怒りを下す神は不正なのでしょうか」とあります。
人間の犯す罪が神の義をますます明らかにするのでしょうか。そうです。人間にはあまりに多くの欠点があります。人間は母の胎内に宿った時から墓に埋められるまで罪を犯します。では、人間はどれほどの罪を犯すのでしょう。海岸の砂粒よりもたくさんの罪、空の黒い雲よりも大きな罪を犯します。人間はまことに多くの罪を犯しますが、そうした罪によって神の義がますます明らかになるのです。人間は死ぬまでずっと罪を犯しますから、神の義と愛がますます明らかになるのです。人間は不完全ですから、水と御霊の福音の内にある神の義がますます明らかになります。人間には欠点や弱さがありますから、神による人類救済がますます明らかになるのです。
では、神が罪人を裁かれるのは間違いなのでしょうか。いいえ。神が罪人を裁かれ、信じない者に怒りを下されるのは、ふさわしいことです。神はご自分の義を信じる者を民となさって胸に抱かれ、富と栄光を永遠にお与えになります。彼らに神の義が示されているからです。神は人間が生涯に犯す罪をみな消し去るという驚くべき恵みをくださいましたが、たとえそれを信じない者の罪を神が裁かれたとしても、悪いことは何もありません。
怒りを下す神は不正なのでしょうか。
これは、神が罪を犯されるかという問いです。神の義を含む水と御霊の福音を信じない人に神が怒りを下されるのは正当なことです。イエスを信じていると言いながら、心に罪があるために地獄に行く人は、神が不正だと言って抗議できるでしょうか。いいえ、できません。なぜでしょう。神は明らかに、ひとり子の正しい働きによって人類の罪をみな取り除いておられるからです。父なる神はひとり子イエス・キリストを遣わされ、バプテスマによって罪をみな被らせ、十字架上で死なせ、そうして全人類を罪の裁きから救われたのです。ですから、水と御霊の福音を拒まない限り、犯した罪をみな赦されるのです。
しかし、人間が神の義を信じないために地獄に行くのは、誰にも止められません。また、そうした人に神が怒りを下されるのは当然のことです。神には何も悪いところがありません。ですから、人間は実際、自分の運命を自分で決めているのです。イエスが神の義によって成就なさった水と御霊の福音を信じて罪の赦しを受けるか、福音を受け入れないかによって運命は決まります。ですから、信じない者に神の怒りが下り、地獄に送られるのはふさわしいことなのです。
神の御前で最も深刻な罪は、御子イエス・キリストをこの世に遣わされた神の愛、イエスのバプテスマによって人類の罪を取り除いた愛、イエスが十字架上で死なれて罪をみな贖われた、その愛を受け入れない罪です。そうした罪を犯す人は、神がひとり子を通じてお与えくださった罪の赦しの救済の真理を信じません。神の義を心に受けないからです。それが最大の罪です。ですから、信じない者が地獄に投げ込まれるのは、ふさわしいことなのです。
キリスト教徒の中にも地獄に行く人がいるのでしょうか。もちろん、います。イエスのバプテスマと十字架の血を信じないで自分なりの義に固執するなら、地獄に行くしかありません。なぜイエスを信じている者の心に罪があるのでしょう。神の義を信じないで、自分なりの義に固執しているからです。自分なりの義に固執し、自分の行いの義をもって神の御前に行くような人は、心に罪があります。神の義を信じ、神のくださった救いに感謝する者は、他の魂が罪から救われることを願い、神の働きに使われることを喜びます。神は、主への犠牲、福音のための犠牲は喜ばれますが、自分なりの義によってささげるものは受け取られず、かえって、その人を追い払われます。なぜでしょう。神は、ご自分の義を知って信じる者を喜ばれるからです。
  
 
自分の弱さが神の義をますます明らかにすると信じるか
 
ローマ 3:6-7には「絶対にそんなことはありません。もしそうだとしたら、神はいったいどのように世をさばかれるのでしょう。でも、私の偽りによって、神の真理がますます明らかにされて神の栄光となるのであれば、なぜ私がなお罪人としてさばかれるのでしょうか」とあります。
使徒パウロは水と御霊の福音を信じて信仰を語り、神の真実と救済の栄光は、自分の弱さのためにますます明らかになったと述べています。彼は言います。「私の嘘によって神の真実が増すのに、どうして罪人のように裁かれることがあろう。」
主は、嘘つきのような欠点のある者を救われました。ですから、人間を罪から救った救済の義は、人間の欠点が明らかになるほどに、ますます明るく輝くのです。
人間は実際、神の栄光に至れません。人はみな罪を犯すのですから。聖書の中心主題は、そうした人間が主イエス・キリストの救済の恵みを信じて神の栄光を増したということなのです。人間の弱さから出た悪に神の恵みが注がれるのです。自分の罪を認めれば認めるほど、水と御霊の福音によって罪を除いてくださった神の義が、心の中でますます大きくなります。そうなのです。しかし、恵みが豊かになるようにと意図的に罪を犯しはしません。
罪の赦しを受けた後で間違いを犯したり、欠点や弱さが表面に出るたびに、水と御霊の福音への信仰によってすべての罪から解放されます。欠点が明らかになるたびに罪がみな贖われるのですから、神の愛の偉大さ、果てしなさがわかり、神をたたえようという気持ちになります。使徒パウロは、そういうことをここで述べているのです。
嘘によって神の真実が増すとしたら、どうでしょう。私は犯した罪のために裁かれるでしょうか。そうはなりません。私は裁きを受けません。神のくださった救いは私の犯す罪よりも大きいからです。使徒パウロがローマ書で繰り返し述べているのは、このことなのです。神による人類救済が大いなるもので、イエスがくださった罪の赦しが偉大なため、それを信じる者は裁かれることがなく、神の義を受けて義人として天国に行くのです。
義人とは、神の義を信じて罪がなくなった者です。義人とは、罪の赦しを受け、つまり、神の義を信じて心に御霊を宿している者です。神は永遠に義人を愛されます。神は絶対に義人を地獄に送られません。ご自分の民を永遠に愛されるからです。どんな不完全な人間であっても、神の義を信じる者は神の民とみなされ、天国に送られます。しかし、その信仰を裏切る者には救済と天国の恵みは与えられません。それは御霊を冒瀆する罪であり、そうした罪はけっして赦されないのです。ですから、御霊を冒瀆する罪はけっして犯してはなりません。終わりの時には悪魔サタンが義人に福音、すなわちイエスがバプテスマを受けられ、罪をすべて被られ、十字架上で死なれ、死者の中からよみがえられたのだとする信仰を捨てさせようとします。しかし、信仰の人は、けっして水と御霊の福音を否定できません。
義人はけっして神の義を否定できません。絶対に否定できません。悪魔サタンがどんなに誘惑し、脅そうとも、この真理を否定しない強い信仰は、終わりの時に殉教を受け入れる助けとなります。信仰を守ることができるのは、イエスが救ってくださったことを教える、この福音がまことに尊いものだからです。
神の義が増すようにと罪を犯すのは、正しいことでしょうか。ローマ 3:8 には次のようにあります。
「善を現わすために、悪をしようではないか。」と言ってはいけないのでしょうか。──私たちはこの点でそしられるのです。ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが、──もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。
神の義の恵みが増すようにと罪を犯すのは正しいことでしょうか。神の義をますます明らかにするために罪を犯し続けるべきでしょうか。いいえ、いけません。当時、義人を貶めようとして、こうしたことを言った人々がいました。現在でも神の義を信じない人は、使徒時代の人々同様、このように他人をけなします。
彼らは言います。「神の義によって罪全部の贖いを受けているなら、神の義が増すように、ますます多くの罪を犯すのでしょう。」しかし、次のことを理解していなければなりません。神の御前で罪の赦しを受けたからといって、ますます罪を犯すようなことはありません。人間の心も体も死ぬまで弱いから、そうしたくなくとも罪を犯してしまうのです。罪の赦しを受けたから、より多く罪を犯すということではないのです。
罪の赦しを受けた義人がより多く罪を犯すということはありません。聖化されて罪のなくなった心には御霊が宿られます。ですから、汚れた罪はそこにとどまれないのです。しかし、肉体はまだ弱いので罪を犯します。弱いから罪を犯すのです。罪がみなすでに消されたと告げる恵みを享受しようとして、より多くの罪を犯すわけではありません。罪の赦しを受けた後に犯した罪は、人間の弱さからきています。また、救済を受ける信仰はあっても、神のみことばを信じる信仰が薄いために罪を犯すこともあります。
たとえば、印刷所で宣教会の本の印刷を終え、教会の前までトラックで運んで来ました。さて、私たちは本を三階まで運び上げていたとしましょう。力のある人は簡単に本を運べます。しかし、それほど力のない人は、どうでしょう。その人は他の兄弟姉妹により多くの仕事をしてもらおうとするのではありませんか。それは、自分のことだけ考える身勝手さの罪ではありませんか。しかし、その罪は弱さから出ているのです。人間は弱さから罪を犯さずにはいられないのです。
私たちを見て、「あなたはもう罪の赦しを受けています。神の義を明らかにするために、これからもっと多くの罪を犯していくのではありませんか」と言う人がいます。しかし、それはまったくの間違いです。私たち神の義を信じる者は罪の赦しを受けており、罪を罪と知っているのですから、より以上の罪を犯すことはできません。人間の肉は弱いのですから、この世に生きていると、どうしても罪を犯します。しかし、それでも私たちに罪はありません。神の義を信じて罪をみな贖われているからです。ですから、使徒パウロは、イエスを信じていると言いながら水と御霊の福音を信じない者は、神の目からすると罪人であり、そうした者が裁きを受けて地獄に行くのはふさわしいことだと言うのです。この信仰は、まことに驚くべきものです。
ローマ書は二千年ほど前に書かれています。ローマ書の書かれた西暦百年当時にも、現在私たちを批判している人々と同じことをパウロに言った人々がいたのです。かつても今日と同じように、神の義を成す水と御霊の福音を誤解して義人を貶める人々がいたというのは、驚くべきことではありませんか。驚くべきことです。聖書は神のみことばですから、今日でも変わりません。
悪魔サタンは、いつでも同じ方法で新生者を攻撃します。ですから、悪魔サタンがどんなに攻撃しようと、どんなに教会を攻撃しようと、私たちは神の義を信じる信仰によってサタンの攻撃に打ち勝たなければなりません。悪魔サタンは今も昔も同じ方法で教会を攻撃しています。彼らは義を得た者たちを貶めます。自分たちは罪の赦しを受けていないからです。彼らは言います。「好きなだけどんどん罪を犯せばいいのです。どれほど罪を犯しても罪がないのだから。神の義をもっと明らかにするために、もっと罪を犯さなければいけません。」 
もし私たちが罪を犯すとしたら、それは弱さのせいなのです。しかし、弱さから犯す罪でも、神の目からすると悪であることはわかっています。そこで神の御前で罪を認め、主がその罪も被ってくださったと信じて、罪のない者として生きるのです。人間が弱ければ弱いほど、神の義は心の中で大きくなり、より栄光に満ちたものになるのは、そのためです。
ですから、使徒パウロは尋ねます。「ではユダヤ人はどんな点でまさるのでしょう。」
イエスを信じることにどんな益があるのでしょう。水と御霊の福音を信じていなければ、キリスト教徒に何の益もありません。キリスト教徒が水と御霊の福音を信じなければ、つまり、神の義を信じないのなら、十字架の血だけを信じていても、イエスを信じることに何の益もありません。何の益もないのですから、他のどの宗教を奉じても同じことです。神の義を示す水と御霊の福音を心で信じて、はじめて信仰の益があるのです。罪の赦しを受けた義人であっても、この世で罪を犯します。しかし、罪を認め、「イエスが遠い昔にすでに罪をみな被ってくださっているのだから、罪は贖われている」と信じるだけでいいのです。そうなのです。罪の赦しを受けたから、もう罪の罰を心配しなくていいからといって、より以上に罪を犯しはしません。
イエスを信じておられるみなさんは今、水と御霊の福音に帰りなさい。そうすれば、神の義を受け、自分のものとできるのです。神の義を信じる恵みが心にあれば、福音の実が豊かに実ります。
 
<ローマ 3:8>「善を現わすために、悪をしようではないか」と言ってはいけないのでしょうか。──私たちはこの点でそしられるのです。ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが、──もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。
神の義を知らない人は、知っている者に「神の義を含む水と御霊の真理が、この先犯す罪までもみな取り除いたというのなら、その人は罪を犯し続けていいわけですね」と言います。しかし、使徒パウロは、罪の赦しを受けた後に犯す罪は、弱さのために犯してしまうのであって、意図的なものではないのだと言い切っています。神の義の福音を自分の考えで歪めてはいけません。人間は弱いから、死ぬまで罪を犯すのです。神の義を信じて罪の赦しを受けているからといって、意図的に罪を犯すわけではないのです。人間は弱い存在です。人間は弱い存在だから、生涯の最後の瞬間まで、また、世の終わりまで罪を犯さずにはいられないのです。
みなさんは何の理由もなしに、意図的に罪を犯すのですか。人間がこの世で罪を犯すのには理由があります。弱いからなのです。しかし、主はバプテスマを受けられて、みなさんや私が将来犯す罪までも一度で被られました。それから十字架上で死なれ、そのようにして罪をみな消してくださったのです。ですから、神の義を信じる信仰を間違ったものとみなしてはいけません。わかっていただきたいのですが、そうした考え方は、みことばに沿って神の義を含む福音を信じ、信仰により一度で永遠の罪の赦しを受けるものとは違っているのです。
現在でも、大方のキリスト教徒は道徳的な信仰生活を専らにしています。彼らはそうするしかないのです。道徳的に何かまずい点があったら自分がどうなるかを心配しているからです。しかし、神は、すべての人間がご自分の義の内にある罪の赦しを信じることをお望みです。神の義を含む水と御霊の福音を信じないのなら、永遠に罪人のままです。罪の赦しを受けないのですから。
 
 
基本的に義人は一人もいない
 
<ローマ 3:9>では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。
ここは、神の義を信じる者も罪の下にいるということではありません。神の義の福音を信じる者は、すべての罪から逃れています。しかし、当時のユダヤ人はイエスを信じなかったため、罪がありました。
ここには「私たちは他の者にまさっているのでしょうか」とあります。これは、ユダヤ人もギリシャ人も基本的に罪の下におり、神の義によって罪の赦しを受けるということです。使徒パウロはここで、まず人間の基本的な罪深さを述べ、神の義を含む福音の力をすべての外国人と同様、ユダヤ人やギリシャ人にも説明しています。使徒パウロは、すべての人間が罪の下にいると言います。これは、この世には義人が一人もいないということです。人間は常に罪を犯さずにはいられないからです。パウロは、神がその義によって罪人を義人に変えたと言っているのですが、誰もそれを理解できません。
神の目からすると、人間はみな罪人です。しかし、イエスが神の義によって義人になさいました。第 10 句に「義人はいない、ひとりもいない」とありますが、これは、神の義によって世の罪がみな消されたと信じないで義人になる者は一人もいないということです。神の義を信じなければ、真の目覚めはありません。信じなければ義人になれないからです。ですから、宗教で「聖化」ということが言われるようになったのです。しかし、どんなに禁欲的に生きても、宗教の枠組みの中でどんなに人格を磨くことに励もうと、聖化に至ることはできません。ですから、神の義を知る以前の人間は、みな罪人なのです。
義人はいない。ひとりもいない。
罪人と生まれても、神の義を信じて義人になることは可能です。また「悟りのある人はいない」ともあります。これは、罪人は自分が地獄に行く運命にあることに気付きもしないということです。神の裁きの恐ろしさを知りません。神の目に自分が罪人であることを悟らず、地獄に向かっているのです。これはすべての人間の罪深い状態を要約しているのです。パウロによると、ユダヤ人は外国人にまさらず、外国人はユダヤ人にまさりません。誰もが罪の下にあり、したがって、誰もが全能の神の怒りと最後の裁きを受けることになるのです。
パウロは詩篇 14:1-3 を引用して、「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない」と告げました。これは人間の本質を的確に言い表しています。これは人間のまことに恐ろしい状態を率直に認めるものです。人間には神をお喜ばせすることができず、神を理解して求める力もありません。人間は生まれた時からまったく堕落した存在なのです。
人間の義を積み重ねている人々には、人間は生まれながらに罪の塊だという全的堕落論は受け入れがたいものです。この説が人間の尊厳を軽んじているというのです。しかし、ほんとうのことではありませんか。大方の人は、人間が完全ではないことはすすんで認めますが、人間の義が存在しないということは、容易に認められません。人間は神の義を失っており、真理の道から外れてさまよっているということは認めても、完全に義の道から逸れて滅びの道にいるということは、ほとんどの人が認めようとしません。人間の義を求める人は、神の義に敵対していることを認めず、神を求めている振りをしています。
神の義を認めず、人間の義を立てようとして敵対する人は、絶対に地獄の罰を免れません。そうした信仰や行いは極めて邪悪です。人間の義だけを求めている限り、人は神の義を理解しようとしません。それは無知の状態から脱していないからです。自分が神の目には傲慢であることを理解しないと、神の義を知る必要を覚えません。そうした人が神の御前に行かないのは、病気の人が治療を受けに医師のところに行かないのと同じようなものです。人間は自分が健康だと思い込んでいる時には、病院に行こうとは考えません。しかし、重病だとわかると、病院に行きます。自分には霊的義がないこと、そのために滅ぼされるのだということを知ると、そうした罪の病を癒せる唯一のお方であるイエス・キリストを探し、御許に戻ろうとします。
 
 
悟りのある人はいない
 
「悟りのある人はいない」というのは、自分が罪のために地獄に行くのを理解している人が一人もいないという意味です。自分が地獄に行くことになると思う人も、まれにはいます。しかし、それも感覚的なものにすぎず、「罪から来る報酬は死」という神の律法に基づいたものではありません。ですから、治療を受けるためには、神のみことばに照らして自分の霊的状態を調べなければならないのです。まず、無意味な人生を送った後は、神の義をもたないために魂が地獄に行く運命にあるのだということを理解しなければなりません。ほんとうにこれを理解するなら、神の義を見出します。
すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。(ローマ 3:12)
人間はみな迷い出て、みな、無益な者となりました。「みな迷い出」たというのは、神の義を理解しないために人間の考えのほうに逸れていったという意味です。真実の裁きの基準は神の義だけです。すべては神の義に始まり、終わります。神だけが義であり、神だけが人類のために義のみわざをなさったからです。
正しい裁きは神の内にだけあります。人間には正しい裁きをする力がありません。それなのに自分の考えにとらわれ、「私はこう考える」とか、「私はこのように信じている」と言います。自分の考えの方を重視するからです。人はみな自分の考えを重く見、神のみこころには無関心です。このように自分の考えを捨てられないのでは、神の義を見出せません。ですから、神を求めず、みことばを信じる信仰に戻りません。自分の考えが正しいと思っているからです。しかし、神の真実は神の義の内にだけあります。神のみことばは規範、ものさしです。真理のみことばがすべての基準であることを理解しておかなければなりません。
 
 
信心家がよく引用する言葉
 
<ローマ 3:10>それは次に書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。」
共通の祖先アダムとイブから生まれている人間はみな、祖先から罪を受け継いでいます。詩篇 51:5 でダビデは「私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました」と告白しています。ダビデは、罪と悪とをもった罪深い状態で母の胎から生まれたこと、母は罪の中で彼を孕んだが、自分はその時からすでに罪の塊であったことを告白しました。しかし、彼は神の義を信じ、神が幕屋のいけにえの制度によりお与えになるいけにえにより、義人になりました。
ローマ5:19 には、「すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされた」とあります。
生まれた時からもともと罪をもたない人間は一人もいません。パウロは、この世には生まれつき義人である者が一人もいないこと、水と御霊の福音を信じる者を神がその義によって義人にしてくださったことを述べています。神の義に照らして聖書を理解しなければなりません。神は、人間はそもそも生まれつき罪人だが、ご自分の義によって義人になったのだとおっしゃいます。
ローマ 3:10 を読んで、イエスを信じて神の義を受けた者であってもみな罪人なのだと考えてはいけません。ここでパウロの述べている罪深い状態は、神の義を信じる前のことなのです。これは、この世には義人は誰もいないという意味ではありません。神の義を信じる前の状態について述べているのです。
 
 
信心家が「義人はひとりもいない」と言う理由
 
この部分を自分の勝手で利用するキリスト教徒が大勢います。ここを引用して、自分の信仰が正しいものだと考えます。罪をもちながらイエスを信じるような信仰が、聖書に照らして正しいのだと言うのです。ですから、そうした人には、正しい意味を明確に伝え、正しい答えに導かなくてはなりません。
 
 
神の義に出会っていないため、みな罪の下にいる 
 
ローマ 3:9 には、こうあります。
それではどうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。
使徒パウロは、自分もまた罪の下にいると言っているのでしょうか。この問いを頭に入れてこの部分を読まなければなりません。まず、パウロはローマ 3:9-18 が自分にも該当するものと考えていたかどうかを知る必要があります。また、水と御霊の福音を信じて神の義を得た者や自分もまたそこに含まれているのかどうかを考えなければなりません。答は「いいえ」です。言葉を換えて言えば、パウロがローマ 3:10-18 を書いた時には、義人のことを考えていたのではないのです。
普通、誰か別の人の言ったことを引用する際には引用符を使います。ローマ 3:10 を見ますと、「それは、次のように書いてあるとおりです」で始まっています。使徒パウロの ローマ 3: 10 は、詩篇 14:1 からの引用です。こうあります。「それは、次のように書いてあるとおりです。『義人はいない。ひとりもいない。』」 
時間的に見ますと、これはイエス・キリストのくださった 水と御霊の福音を信じる前のことを言っているのでしょうか。それとも、真理を信じるようになった後のことでしょうか。これはキリストのくださった救済に出会う前の心の状態について言っているのです。キリストがこの世に来られ、神の義によってただ一度で罪からお救いくださった後の人間の心の状態について言っているのではありません。ですから、キリストが来られた後にも義人が一人もいないということではないのです。ここは、神の義を信じる前の状態を言っているのです。神の義を信じる前は、誰も義人ではないということなのです。
これは、旧約の時代には義人が一人もいなかったということでしょうか。いいえ、旧約にも義人はいました。旧約の登場人物の中には、やがて来る救世主を信じて義人になった人々がいました。彼らは、やがてこの世に来てバプテスマと血とによって罪を消し、すべての罪から救ってくれるイエス・キリストを信じて義人になりました。ですから、過去も現在も、キリストの義なしに義人になった者は一人もいないのです。キリストのくださった神の義を信じることなく義人になった者が一人もいないということなのです。
「主がこの世に来られ、すべての正しいことを実行なさいましたが、その義を信じても、まだ私たちには罪があるのではありませんか」とお尋ねになる方がおられるでしょう。それは違います。すべての人が罪人というわけではありません。神の義を信じて義人になった人が義人なのであり、神の義を受けていない人は罪人です。イスラエル人でも外国人でも、主を信じて信仰によって罪の赦しを受けた人以外に義人はいないということなのです。
 
   
罪人の心の状態
 
<ローマ 3:11>悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
義人がおらず、罪人しかいなかったなら、罪人の心の状態はどうだったのでしょう。第 11 句には、「悟りのある人はいない。神を求める人はいない」とあります。では、罪人は自分の罪がわかるでしょうか。いいえ、わかりません。これは、自分が罪人であることを自分で知ることはできないということです。創世記 1:2 には、「地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた」とありますが、これは、人間の心は罪のために混沌として闇に満ちているため、自身の罪深さに気づきようがないというのです。自分の心の中の罪を見て、罪を犯すのを正当化しようと、理由や言い訳を考えます。ですから、自分が実際は罪の塊で罪人だということがわからないのです。みことばに「悟りのある人はいない」とあるように、罪人には自分の罪深さがわかりません。
刑務所にいる人でさえ、ありとあらゆる理屈や言い訳で自分を正当化しようとします。罪人は自分がどのような罪人であるかを知りません。罪人はまず、自分が悪を行う者の子孫であって、生まれながらに罪をもっており、地獄に行くしかないことを理解しなければいけません。
では、罪人は神を求めるでしょうか。罪人は神を求めるふりをしますが、ほんとうに神を求めているのではありません。神は生きておられ、すべての人間にご自分を求める心をお与えになっています。ですから、宗教心があるように見える人がいるわけです。しかし、心から神を求めているわけではありません。罪人が神を求めても、神の義を信じる信仰がなければ、お会いできません。
 
<ローマ 3:12>すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。
神の義を信じていないために心に罪がある状態では、いつでも罪を犯していて、無益な人生を送ることになります。ですから、罪人はほんとうに正しい行いが一つもできないというのです。神から何の見返りも期待せずに、ほんとうに善行のできる人がいるかどうか、考えてみましょう。
神は、罪人はほんとうの意味で正しいことをすることができないとおっしゃいます。また、人間はみな自分の利益のことばかり考えるともおっしゃいます。みなさんはほんとうの善行をしておられますか。真の善行とは、自分の利益にはまったく関わりのない行為です。この世には真の善行を行える者が一人もいない、人間はみな自分の利益の追求のために道を誤るのだと、神はおっしゃいます。人間が善を行えないのは、悪を行う者の子孫であって、生まれつき罪の塊だからです。人間はためにならないことばかりし、良いことがまったくできない、罪の種なのです。
罪人にほんとうの善行ができるでしょうか。真の善行とは、神が価なしにくださるアガペーです。それだけが真の愛であり、真の善行なのです。人間の善行や愛には必ず条件がつきます。結局、何らかの代償を必要としない善行はありません。人間は自分に不利な状況になると、背を向けます。義人どころか罪の種であり、いつ友に刃を向けるかわからないのです。ですから、罪人は真の善行ができません。人間は無益な存在です。
神は、人間が「無益な者」だとおっしゃいましたが、これはどういう意味なのでしょう。人間は神の観点からすると無益な存在だということなのです。神はそのようにご覧になっているのです。罪を犯すまいと努力し、見かけを清くして神の御前に行くことが何か役に立つでしょうか。山に行って何日も叫びながら祈ったり、断食したりすることが何かの役に立つでしょうか。無益です。
罪の種が罪を犯すまいとするのは、世の中のためにはなるでしょうが、神には何の益もありません。そうした人は、神の目にはかえって悪人であり、偽善者で、悪魔の子らのようなものなのです。しかし、だからといって、罪を犯すよう努めろと申しているわけではありません。人間は自分が何者であるかを知ったなら、自分の本性を認め、神の御前で慈悲を求めなければなりません。
「罪を犯さずにまともな暮らし方をしたら、神はお喜びになるだろうか。そうするのを神はお喜びになるだろう」と考える方がおられるでしょう。義人が神の御前で正しく生きるのは有益なことです。しかし、罪人が神の御前で罪を犯すまいとするのは無益です。無益なことです。
ある仏教の僧侶が禁欲的な生活をし、いつも一室に閉じこもり、壁に向かって瞑想し、厳しい戒律を守って暮らしました。禁欲的な戒律にしたがっていましたが、何も有益なものは得られませんでした。ただ、人間は人間にすぎないということに気づいただけです。いずれにしろ、そうしたことは神の御前では無益です。人間が罪を犯すかどうかは、神にとっては益でも損でもありません。神には関わりのないことなのです。罪人は罪の報いとして地獄に行き、罰を受けます。しかし、それは神にとって損でも益でもありません。たとえ世のすべての人が地獄に行ったとしても、たとえみな滅ぼされたとしても、神には何でもないことです。ですから、神は罪人について「みな、ともに無益な者となった」とおっしゃったのです。人間はまったく無益な存在です。
「善を行なう人はいない。ひとりもいない。」とあります。罪人はほんとうに良い行いができません。人間の義は政治家の政治活動のようなものです。敵でも味方でも、必要なものは何でも利用し、役に立たなくなれば捨てるのです。必要とあれば、昨日の敵は今日の友になります。人間の義は損得次第で変わるのです。まだ新生していない罪人とは、そういうものです。
 
<ローマ 3:13>彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、
罪人の喉は開いた墓のようなものです。生涯、食べるために生きているからです。罪人は、食べていくために死ぬまで偽りや殺人を犯します。神の義を知りも信じもしない人が罪の塊で、悪しか行わないというのは、そのためです。ですから、神の義を信じなければならないのです。生きるために食べるのか、死ぬために食べるのかを知るには、その人が神の義を信じているかどうかを知らなければなりません。人間は罪の塊であり、悪いことしかしない、悪を行う者の子孫です。
人間が生まれつき善であると誰が言えるでしょう。聖書が人間を悪を行う者の子孫(イザヤ 1:4)と定義しているのは、親から罪や悪を受け継いで生まれてくるからです。しかし、社会のためになるような活動をしている人間は、高潔そうに見えます。
遺伝子学者は、人間の DNA が基本的に利己的だと言います。つまり、DNA はそれぞれ必死に生き残ろうとして、他の DNA と争うのです。これは人間の基本的な性質ではありませんか。しかし、人々は社会のために規範や法を作り、他人のためになることをしようとします。各人が自分の利益だけを追求していたのでは、お互いのためにならないからです。利己主義者にも何かしら良い点があるように見えるのは、そのためです。
しかし、人間の喉は死ぬまで、基本的には開いた墓として働くのです。人間はもともと罪人だからです。罪人は嘘つきです。まるでほんとうのことを言っているかのように嘘をつきます。動物の仲間にも罪人ほど邪悪なものはいません。
聖書では人間の舌・唇・喉について何と言っているでしょう。人間の喉は開いた墓であると言っています。墓とは、死人を埋葬した場所です。聖書は人間の喉が開いた墓だとしています。これは、人間は死ぬために食べ、生きるという意味です。人間はみな喉があるので話すことはできるけれど、既に死んでいるようなものだというのです。したがって、やがては食べているうちに死にます。罪人の生は生きているのではないということ、呼吸してはいても、すでに死の生を送っているということをわかっていただきたいと思います。
さて、続きです。
彼らはその舌で欺く。
人間は生涯だましあった後、この世を去ります。様々なことについて嘘をつきます。神に対して偽りを言い、自分自身を欺き、家族に嘘をつきます。生涯あらゆる人に嘘をついた末に、この世を去ります。罪の赦しを受けていない罪人の口からは、嘘しか出ません。罪人の口は罪を犯すのに忙しく動きます。罪人は、すべての人間を救う神の義について話せないのですから。
罪人の唇には蛇の毒があります。何か食べ物を与えられると、恵みを吐き出します。そうでないときは呪いを吐き出します。罪人の唇には危険な蛇の毒があります。罪人は人を殺すほどの毒をもって生きています。いつでも外見はいかにも感じが良く、やさしそうですが、口からは嘘や毒のある言葉、他人を傷つける言葉しか出ません。大事な場面、あるいは獲物を目の前にしたとき、冷酷に毒を吐きかけます。
たとえば、仏教で「涅槃に入る」というのは、まことに正しく良いことのように思われます。しかし、これは毒の言葉で、人間をますます神から引き離すものなのです。キリスト教もまた、聖化の教義で毒を広めます。「聖化」とは、神の御前で懸命に聖く生き、神の姿に近づき、やがては死ぬ前に神のように聖くなることを目指すものです。これは人間の本質を理解しない、無知から出た呪わしい言葉です。
「信仰義認」とは、イエスへの信仰によって義人とされることをいいます。これは、信仰によって神の義を得るということではありません。そうではなくて、罪があっても、ともかくキリスト教徒だからといって、神が罪を見逃してくれるという意味なのです。ですから、これは多くのキリスト教徒を地獄へと導く恐ろしい教えなのです。人々に目隠しし、天国に行くと言っているのですから。
 
<ローマ 3:14>彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。
実際、人間の心や罪人の口を満たす呪いと悪のようなものは動物の世界には見当たりません。自分が罪人であったときのことを振り返ってみれば、罪人の口がどれほど穢れ、邪悪なものかおわかりになるでしょう。罪人は罪を犯していても、それとわかりません。自身の本質が罪と同じようなものなのですから、罪が悪いものと感じないのです。聖書にも、偽預言者は何か食べ物を与えると祝福するけれど、何も食べ物を与えなければ、口から呪いを吐き出すとあります。神の義を知りも信じもしていない聖職者の中には、教会員が何か良いものを与えると、満足そうにする人がいます。また、口から呪いを吐き出す人もいます。それは、罪人が本質的に悪の塊だからです。だから聖職者や平信者、霊的外国人までも必ず、神の義を含む水と御霊のみことばを信じなければならないのです。
罪人はみな神の義を信じなければなりません。神の義により、賜物として御霊を受けるのです。神の義を信じて御霊が心に宿ると、悪はすべて除かれ、神のしもべとなって神の義を行うようになります。罪人は生涯、罪を犯しながら生きていきます。悪と呪いに満ちているからです。彼らは自分に不利な時はいつでも呪いと悪とを吐き出します。
人間は不完全ですから、一人きりでは生きられません。ですから、他の人々の間で暮らす必要があります。また、共生のためには法と秩序、規則が必要です。人間の本質は邪悪で罪深いものだからです。自分に危害が及ばないように、また、他に危害を及ぼさないように、法に従うのです。高潔に生きるためすすんで法を守ろうという精神があるから、ということでは絶対にありません。罪人は呪いと悪に満ちています。ですから、悪を抑えるために法が必要なのです。人間は状況次第で、追い詰められたときなどには、呪いと悪を吐き出します。
 
<ローマ 3:15>彼らの足は血を流すのに速く
神の義を知らずに生きている人は心に罪があります。彼らが罪人とされるのは、そのためです。心に罪をもつ罪人は、罪を犯すのを楽しみ、ためらうことなく罪を犯します。邪悪な罪と縁を切りたいのなら、神の義を含む水と御霊の福音を信じなさい。そうすれば、足は罪に従うことから離れていきます。
主は、木はその種類に応じて実を結ぶのであり、良い木は悪い実をつけないとおっしゃいました。犯したくない罪を欲し、罪を犯し続けているのなら、心に神の義があるかどうかを調べる必要があります。神の義を知らずにイエスを信じるのは、悪い木に良い実をつけようとするようなものです。
罪人は罪を犯したくてたまりません。なぜ罪人は罪が好きなのでしょう。罪人はいつでも「何をしようか」と考えていますが、これは、「どんな罪を犯そうか」ということなのです。キリスト教徒の観点からすると、肉の楽しみを求めるだけではなく、殺し、危害を加え、殴り、盗み、だまし、他人を踏みつけにしたりもします。罪人自身は罪と悪の種ですから、暗い夜には罪への欲求が高まり、あらゆる罪を犯します。人は血を見ると興奮し、苦痛の呻きを聞くと快感を覚えます。人間は悪を行う者の子孫であり、いつでも可能な時は、すみやかに罪を犯すのです。これは、新たに生まれていない者が、みなそういうふうだということです。ローマ 3:9-18 はそのことを述べているのです。
新たに生まれた義人は、肉に関しては自分もまたそうした血を受けているのだということを認識しなければなりません。これを理解すると、罪人に教えを伝える必要のあることがわかります。自身がいかに罪深い種であるかを罪人が明瞭に理解したなら、私たちは福音を伝えることができます。罪人のパンは罪であり、義人のパンは神の義を信じてそれを宣べ広めることです。
 
 
神の義を信じて罪の問題を解決しなかった場合
 
<ローマ 3:16>彼らの道には破壊と悲惨がある。
よろしいですか、心に罪のある罪人には滅びと苦難だけが待っています。どんなに神の恵みを求めたとしても、やがて破壊と苦難を注がれるだけなのです。神の義を心に受け入れないからです。神の義は真理の恵みの道へと導きます。これまで苦しい人生を送ってこられたのは、心に罪があったからです。罪から逃れる道は神の義、すなわちイエスのバプテスマと十字架とを信じることです。罪人の人生は破壊と惨めさに覆われています。何の恵みもありません。罪人は生まれてから死ぬまで苦難に満ちた呪われた生を送るのです。新たに生まれていない人に幸福があるでしょうか。いいえ、ありません。
「テレビや映画を見ると、幸せそうな人がいますし、ハッピーエンドになる話もあります。それに、知り合いには幸せだと言っている人が大勢います」とおっしゃる方がおられるでしょう。テレビや映画は人生に存在しない夢や希望を人々に見せます。自分は幸せだと言っている人は、自分に嘘をついているのです。また、大勢の人が、真の幸福を知らないで、くだらないものを求めています。そうした人の内面は罪に満ちており、行く手には破壊と苦難が待ち受けるのです。
神の義を信じて罪から救われなければならないのは、そのためです。破壊と苦しみの地獄に続く道から救われるには、水と御霊の福音を信じて神の義を受け、神の子どもにならなければなりません。神の義を信じて罪から救われ、教会にとどまらなければ、生涯、破壊と苦しみばかりを受けるのです。
罪人の人生は運命づけられています。すべての罪人の人生は次のように要約できます────「罪人は笑い、それから泣く。議員に当選し、それから落選する。事業に成功し、それから破産する。宝くじに当たり、お金のために殺される。」
聖書にあるように、罪人の人生には破壊と苦難ばかりがあるのです。
合衆国での航空機事故で夫を失い、かなりの賠償金を得た女性がいました。大金をもっていますから、なんでもできたはずです。大きな家と高級車、衣類を買い、新しい夫を得、この世でほしいものは何でも手に入りました。大金持ちだったので、望むことは何でもできました。しかし、近所の人たちとの関係はよくありませんでした。近所づきあいが必要だとも思っていませんでした。ある日、その人が自宅のプールで死んでいるのを発見されます。でも、水泳中の事故ではなかったのです。泳げなかったのですから。ほしいものをすべて持っていながら、まだ若いうちに殺されたのです。罪人にはほんとうの幸福はありません。たとえこの世のすべてを手に入れても、罪人には苦難と滅びだけがあるのです。
 
<ローマ 3:17>また、彼らは平和の道を知らない。
神の義を理解しない者は心の平安への道を知りません。みなさんは問題をいつも神の義で解決しておられますか。実際、神の義は罪と呪いと痛みをすべて解決します。
たいていの人は自分の力で安らぎを得ようとします。安らぎを求めて、ある人はヨガをし、あるいは物質的な物を手に入れ、また別の人は悔い改めの祈りをささげます。しかし、どれも永遠の安らぎは与えてくれません。永遠の安らぎは一時的なものではありません。それは救い主イエスの受けられたバプテスマと、流された血とを信じて得られるのです。人間に安らぎをもたらす唯一のものは旧約と新約、神のみことばを信じる信仰です。水と御霊のみことばは人の心を安らぎの道へと導きます。
罪人に安らぎはあるでしょうか。罪人の心に安らぎはあるでしょうか。罪の赦しを受けていない人の心には安らぎや慰めはありません。いつでも不安で、罪の重みに鬱々としています。いつも罪の裁きの日を待っています。生きている限りは楽しく生きようとします。終わりの日の来ることをひどく恐れているからです。彼らは食べ、楽しみ、一時的な快楽のために生きます。惨めな終わりの来ることを知っているからです。罪人に「人生の目的は何ですか」と訊くと、相手は「楽しむことです」と答えるでしょう。
韓国の墓地に行くと、墓石が立っています。有力な一族は墓の前に石像を置いていますが、一般の人は墓の両側に石柱を二本置いています。これは快楽を意味します。「このために生き、それが機能しなくなって死んだ。」
そこで、死後の世界にも楽しめるよう、死んだときに男根のような柱を墓の両側に立てるのです。石柱をよく見ると、それぞれリスがついています。一方のリスは柱を登り、もう一方は走って下っています。これは性的快楽を表しています。人間は性的快楽のために生き、時が来ると下ります。ですから、その楽しみをあの世にもっていくために二本の柱を刻んで立てるのです。
罪人の人生はこの世での楽しみのためにあります。息子と娘のいる良い家庭をもち、安楽に暮らすのが人生の唯一の目的です。新生していない罪人の人生の目的は、快楽を求めることですが、やがては、何の満足も得ず、何も成し遂げることなく死にます。
罪人の心に安らぎはあるでしょうか。心に罪があるのに、どうして安らぎがあるでしょう。神の義を理解できないのですから、また、誰もそれについて教えないのですから、心の安らぎはありません。ですから、みなさんが他の人に神の義の福音を伝えなければならないのです。多くの人が神の義について知るように、神の義を宣べ広める人がいなければなりません。神の義を宣べ広めなければならないのは、主にお会いしたみなさんと私です。
罪人に安らぎはありません。観光地で美しい風景を見ていても、悩みや心配事に満ちています。おいしいものを食べ、友人と笑い合っていても、心には悩みや心配事が重くのしかかっています。安らぎを知らない人は、絶対に神の義を受けなければなりません。神の義を伝える水と御霊の福音を聞き、理解し、信じて罪の赦しを受けて、はじめて慰めを得るのです。神の義を受け入れてはじめて、ついに神と交われます。しかし、真理のみことばを聞いたことがなく、罪に満ちた罪人は、罪の赦しと慰めを得ることができません。ですから、罪人には安らぎがないのです。
 
<ローマ 3:18>彼らの目の前には、神に対する恐れがない。
神の義を理解しない罪人は、現実の世界で神を恐れずに暮らします。それは罪のために心の目が曇っているからです。目が曇っている人は、昼間でもどこに道があるのか知らずに生きています。罪人とは、何を信じるべきか、神の義とは何か、水と御霊の福音とは何かを知らない人です。ですから、罪のために地獄に向かっているというのに、何も恐れることなく生きているのです。明日地獄に投げ込まれようと、神の義には何の興味ももちません。パウロによると、罪人には神を恐れる気持ちがあるのでしょうか。いいえ、ありません。では義人には神を恐れる気持ちがあるでしょうか。はい、あります。
罪人は神を恐れ敬うのではなく、恨みに思う傾向があります。彼らは恨み言を口にします。「神はどこにいるのです。神がいるのなら、あんな悪人を放っておくでしょうか。盗んだ金で贅沢な暮らしをしている人、大勢を殺した人を放っておいて、私のようなまともな生き方をしてる者をこんなに苦しませておくでしょうか。」
神が世の苦しみの中に罪人を放っておかれるのには理由があります。罪人は相応の苦しみをなめることがなくても神に頼ろうとするでしょうか。神は、罪人がご自分の許に戻るようにと、世の悪人や苦痛を意図的に放置なさるのです。罪人が「神様、救ってください」と言って、ご自分の許に戻るようにと、神は世の中をそのように捨て置かれるのです。しかし、神の意図を理解せず、神はいないと主張し、神をまったく恐れない人がまことに大勢います。神を恐れないのですから、死の瞬間までこの世で快楽を求めます。
韓国では儒教を奉じている人が大勢います。祖先を崇めることを重んじ、それが「孝」だと考えています。しかし、韓国の道徳で最高の徳とされる「孝」も、それがあまり自分の得にならないと思えば、それほど重視されません。儒教と「孝」を奉じている人が、大金を得るためには、父祖が埋葬されている土地を売るのです。もちろん、彼らの祖霊は神ではありません。死んだ人の霊に過ぎません。しかし、敬うように教えられた祖霊をさえ恐れないのなら、どうして真の神イエス・キリストを恐れる気持ちをもてるでしょう。
罪人は無知で、正しいことをしません。喉は開いた墓で、舌は偽りを吐きます。唇には蛇の毒があり、口は呪いと悪に満ちています。足は血を流すために急ぎ、その道には滅びと苦しみがあります。彼らは平和の道を知らず、その目には神への恐れがありません。これが罪人というものです。
イエス・キリストのくださった神の義を信じる人間が現れる前、この世に義人はいませんでした。ユダヤ人の中のごく少数の者以外、完全な義人はいなかったのです。しかしながら、律法の前で罪人となった人々を水と御霊の福音が世の罪から救うようになりました。
聖書は、「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」としています。これは信仰義認のことではありません。イエス・キリストが来られた後、神の義を信じる者は義人となり、信じない者は地獄に定められています。
私たちの周りにいる罪人は、ほんとうの意味で善を行うことができず、その足は血を流すために急ぎます。彼らは罪を犯すのに忙しく、何をするべきかを知りません。愛や善行について話し、慈愛深いふりをしていますが、実際は嘘つきの罪人です。
罪人の本質は、まさに聖書の告げるとおりなのです。大事なことは、人間の本質をどう見るかということです。みなさんはまだ、邪悪な人間もいれば、義人もいるのだと考えておられますか。しかし、聖書は人間を罪の塊だとみなしています。人間は確かに死ぬまで罪を犯すからです。罪人も同様に見なければなりません。「この人は少しましな罪人だ。でも、あの罪人はよくない」といった見方をしてはいけません。罪人は悪を行う者の子孫であって、蛇の毒をもち、人を傷つけることを喜び、足は血を流すのに速いと見なさなければなりません。これは人間がもともと罪の塊だということです。新たに生まれていない人は獣のように肉の快楽を求め、謙虚なふりをする恐ろしい人なのです。慈悲深いふりをする人は、悪に満ちています。私たちもまた、罪人をそのように見なければなりません。
罪人はこの世に生まれ、血を流すのに速く、生涯、快楽のために罪を求めます。彼らの人生の目的はより多くの富を得、より多くの罪を犯す方法を見つけることです。罪人は、この世を去る時まで好きなだけ罪を犯して生きます。罪人はそういうものなのです。許容される罪人と油断ならない罪人といった区別はできません。いずれも同じ罪人だと見なければなりません。この世で教育を受け、洗練された人は、罪を上手に隠します。教育のない人は露骨に罪を犯します。しかし、両者の本質はまったく同じ、罪人の子孫なのです。
人間の本質を明らかに理解していれば、神のみことばを正確に解釈し、罪の赦しを受けていない人々に福音を伝えることができます。
義人でも神に従う人と従わない人に分けられます。しかし、私たちはいずれも義人と見なします。欠点はあっても、少なくとも水と御霊の福音を信じているからです。悪を行う者と罪人とは、不完全な人というよりは、恐ろしい人と見なさなければなりません。神のみことばを信じないために魂が地獄に落ちるべく定められた人は、獣のようなものです。実際は獣より悪いのです。ですから、そのようなものと見なすのがふさわしいのです。人間は動物より高い知能をもって敵を攻撃しますが、敵を倒すためのその攻撃は残酷で容赦がありません。神のみことばに照らしても、自分の都合のために他人を踏みつけにしてもいいと考える罪人をひどく邪悪なものとして見下すのはふさわしいことです。
イスラエル人は、自分たちは神の選ばれた民であり、外国人はみな獣だと考える信仰をもっていました。もちろん、イスラエル人は肉体的には選ばれた民であっても、霊的には外国人と変わりませんでした。
水と御霊の福音によって新たに生まれた私たち義人には、神をお喜ばせする信仰があります。私たちには霊的に戦って勝利し、哀れな魂を救う心構えが必要です。罪人は地獄に定められている魂です。神の義を含む福音を罪人に宣べ広めなければなりません。彼らは地獄に定められているからです。しかし、まず彼らの真の自己を明らかにしなければ、救うことはできません。向こうからやって来て救いを求めるのでなければ、救いようがありません。彼らの罪を鋭く指摘し、本質的な罪深さと運命を理解させたなら、罪から救うことができます。相手をよく理解したうえで戦わなければ敗れます。みなさんは罪人をどのように考えておられますか。新たに生まれていない人の中にも高潔な人はいるという考えでおられますか。これまでそのように考えてこられたのなら、みことばを信じ、そうした考えを捨て去るのです。
彼らの足は血を流すのに速く、
これは、新たに生まれていない人は獣よりひどいという意味です。最近はハイジャックやテロが頻繁に起こっており、罪のない人が大勢犠牲になっています。テロのニュースがあると、人々はテロリストのことを悪し様に言います。テロリストは悪辣極まりない「けだもの」だと言いますが、実際、そう言っている人の口は、内にある罪のため悪や残酷さに満ちているのです。新たに生まれた義人は罪人をそのように見て福音を伝えなければなりません。人間の内には言いようもないような悪が満ちているのですから、穏やかで品のある人を見て、他の人とは違うと思うのは間違いです。そうした人はより以上に危険です。偽善の鎧を堅くまとっていますから、攻めるがのがまことに難しいのです。
宗教団体の中には、孤児院を建て、未婚の母や孤児を収容し、保護しているところがあります。これはすばらしいことのように思われます。しかし、その陰にはたとえようもない悪と偽り、謀があるのです。彼らは良き羊飼いに見えても狼です。神の義を知り、信じていないキリスト教徒を含む信心家はみな、心に呪いと悪が満ちていて、ちょっとした刺激でそれがこぼれ出ます。私たち義人は時に他人のことを悪く言うことはあっても、実際は残酷な気持ちからそうするのではありません。
罪人をどう見たらよいのでしょう。ローマ 3:9-18 にあるように見なければなりません。物事を理解するようになった罪人や、神を求め、善行をする立派な人間がいると思っておられたかもしれません。でも、これからはそのように考えてはいけません。「罪人は神の義に関心をもたず、罪を犯すのが好きで、毒に満ち、無益で、地獄に行くしかない哀れな人間だ。だから、彼らもまた神の義の福音を信じなければならない。私たちには、彼らに福音を伝える使命があるのだ」と考えなければなりません。
ローマ 3:9-18 は、イエス・キリストを信じる前の人間の本質について述べています。この部分は、キリストのくださった神の義を信じる者には該当しません。これが該当するのは罪人だけです。使徒パウロは旧約の詩篇 14:1 を引用して、イエス・キリストによって義人になった者と、イエス・キリストのくださった水と御霊の福音を知らない罪人、旧約の危険な罪人と同じような人がいることを告げているのです。つまり、ここは神の義を通じてイエス・キリストにお会いしていない罪人について述べているのであり、義人について述べているのではないのです。これをよく理解しておかなければなりません。
罪人であるキリスト教徒は、この部分を、たとえイエスを信じていても罪はあるという主張を正当化する根拠にしてます。しかし、ここをそのように理解するのは間違いです。使徒パウロはここで、やがて来るイエスを信じていたイスラエル人を除いて、ユダヤ人も外国人も、イエスがこの世に来られる前には罪人であったと言っているのです。神が罪人に律法をお与えになり、罪人に神の義をお与えになるためにイエスを遣わされたのは、そのためだというのです。
イエス・キリストは神のお約束にしたがって、聖霊によりマリヤの胎に入り、この世に誕生なさいました。イエスは三十歳になられると、バプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになりました(マタイ 3:13-17)。バプテスマのヨハネからバプテスマを受けられて世の罪をみな被られたイエスは、十字架上で血を流され、人類の身代わりとして罪の罰を受けられ、死なれました。世の罪を負われたイエスを信じる者には、もはや裁きがありません。義人になっているのですから。ローマ 3:9-18 は、そうした罪人はイエス・キリストによって義人になること、自分の罪深さに気づいてイエス・キリストを信じ、神に救われなければならないと言っているのです。
「義人はいない、ひとりもいない」を引いて、義人がいるはずがないと言う人は、その信仰のせいで地獄に行きます。私たちは、イエス・キリスト、すなわち救い主のバプテスマと十字架上の血を信じて確かに義人になっています。これを知りも信じもしていない人は、たとえキリスト教社会に属してはいても邪悪で、血を流すに速く、無情で、呪いに満ちた罪人です。新たに生まれた義人以外の人をそのように見るのは、ふさわしいことです。地獄に定められた人を憐れみ、福音を伝えるのが私たちの義務であり、神のみこころであるのは、そのためです。ですから、「義人はいない」の部分をよく理解しておかなければなりません。神の義を心で信じなさい。使徒パウロは福音を「私の福音」と呼びましたが、みなさんもまた、ご自分のものと呼べる福音をもってください。
 
 
怒りをもたらす道 
 
<ローマ 3:19>さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。
 律法は何を伝えているのでしょう。また、誰に対するものなのでしょう。神の律法は罪の力の下にいる者に、罪とは何かを教えるのです。神がお与えになった律法の働きは、人間の罪を指摘するだけではなく、神の義を信じないのなら、世のすべての人は神の恐ろしい裁きの下にいるということを教えることにあるのです。
人間はみな、罪をもって生まれてきているのですから、罪や違反を犯さずにはいられない状態にあります。ですから、神の律法の主題である「罪から来る報酬は死」という真理の裁きの下にいるのです。誰の口も神の律法の前では閉ざされます。神が罪人のためにそうした律法を定められたからです。神が自ら罪人のために定められた死の律法を、どうして人間に変えられるでしょう。律法を変えることは誰にもできません。罪人はただ律法に従って裁きを受け、滅ぼされるしかないのです。
神が罪人のために定められた律法には誰もが従わなければなりません。そして、神に抗議するのをやめて口を閉じ、憐れみを求めて祈るしかありません。神が慈悲によってお与えくださった義を心で信じなければなりません。罪人にはどうしても神の義が必要なのです。
律法は怒りをもたらします(ローマ 4:15)。
律法はまた、律法の下にいる者に語りかけます。神は律法をお与えになって、人間は律法にしたがって生きることはできないことを教えられました。神はそうした律法を人間にお与えになったのです。神は、守らせるために律法をお与えになったのではありません。では、律法を無にするのが神のみこころなのでしょうか。いいえ。
律法は、神から離れた人間に罪を気づかせ、イエス・キリストに戻らせるのです。しかし、律法を守って救いを受けようとする罪人は、律法のせいで平安の道を知らずに生きています。第一に、彼らの生は神との戦いの状態にあります。罪のために神との関係が平和的なものでないからです。第二に、他の人々と円満な関係にありませんから、互いに呪い、攻撃し合います。第三に、自分自身に対しても安らかではありません。いつでも不安で、心配な状態にあります。
そうした罪人が安らぎを見つける唯一の道は、神の義をくださったイエス・キリストを信じることだけです。イエス・キリストは、神と人の関係の妨げになっていた罪を取り除かれ、その義によって神と人との和解のための橋を築かれました。ですから、罪人は神の義の内に神と和解しなければなりません。また、神と、また神の義の内で他の人々と交わりをもつ必要があります。それが穏やかに生きる道に通じるのです。
苦痛とは、邪悪な人間が経験するものです。邪悪な人間の道には困難と破壊があります。ですから、神の義を知らず、信じない者は、本能的に互いに相手を滅ぼそうとします。真の安らぎは、神の義を知り、信じて得られるのです。
 
 
神を恐れない
 
ローマ 3:18 は、人類と神との関係が壊れ、人間の心の罪のためにその生はだめになり、その結果、みことばを信じないとしています。人間は愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、這うものの形に似た物と代えてしまいました。罪人の心に神への畏れがないのが、無神論者になった証拠です。聖書はここで、そのことを指摘しています。神の義を頼みにしないなら、神の呪いと滅びを受けます。実際、全能の神を恐れないということは、神の怒りを受ける状態にあるということなのです。神の義を受けないのは御霊に対する冒瀆の罪です。そうした罪には、神が必ずやふさわしい罰を下されます。赦されざる罪なのですから。
人々は罪の只中にありながら、唯一神聖なお方、怒りの裁きをくださるお方である神を恐れません。かえって被造物を恐れます。それは内にある罪のためなのです。これは、なんという矛盾でしょう。彼らは目に見える、やがては腐る被造物を恐れますが、その御前に立って罪を告白しなければならないはずの神は恐れません。詩篇作者が「幸いなことよ。すべて主を恐れ、主の道を歩む者は」と言ったのは、もっともなことです。これは正しいことです。
パウロが述べたように、人間は罪のために破壊に臨んでいます。では、人間を滅ぼす罪の問題をどうしたら解決できるのでしょう。人間は真の神イエス・キリストが成就なさった神の義を信じて罪から救われなければなりません。その信仰だけが罪の裁きから人を救うのです。
 
 
律法の行いで義人とされる者は誰もいない
 
<ローマ 3:20>なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。
 人は律法の行ないによって罪のない者となることはできません。キリスト教徒が聖化の教義を信じて悔い改めの祈りを熱烈にささげ、律法の条項をまじめに守っていたとしても、罪を洗って罪なき者となることはできません。律法を信じたからといって、罪を清めることはできないということを認識しなければなりません。では、どのような信仰なら罪を洗い流せるのでしょう。神の義を信じたなら、ただちに罪をみな清められます。律法によって罪を自覚するようにはなっても、それで神の義を受けることはできません。これを知り、正しい信仰生活を送らなければなりません。
使徒パウロは、律法によって罪を自覚せよと言いました。律法を守って義人になれるでしょうか。律法によって義人になることはできません。律法を守って聖化され、神の御国に入ることができるでしょうか。いいえ、できません。新たに生まれていない人はみな、律法を守らなければならないと考えているため、神の律法の下にいます。そのため、毎日悔い改めの祈りをささげ、日々律法を守って暮らそうとします。これは、第一歩を間違えたために悪い行いをしているのです。間違えて第一ボタンを二番目のボタン穴にはめれば、残りのボタンはすべて間違ったボタン穴にはめられることになります。律法は、人間が完全な罪人であることを教えるために与えられました。ですから、神の律法を誤解して、律法を守ろうとするのは無知から来る過ちであり、混乱した宗教的思考からきているのです。律法の役割を誤解しているから、そういうことをするのです。自分の力で聖くなって神の御国に入ることができるでしょうか。いいえ、できません。
聖化の教義に基づく考え方によると、世のすべての宗教が同じような教えをもっていることになっています。仏教には涅槃に入ることについての教えがあります。キリスト教には聖化の教義があります。しかし、この教義は人間の肉の考えから出たものであり、真理からきたものではありません。ですから、これは悪魔的なものとみなされます。イエスは、人間が徐々に聖くなり、やがて終わりの日に天の御国に入るとおっしゃったでしょうか。いいえ。私たちは主の義によってただ一度で聖化され、内に御霊を宿すようになったのです。ですから、内に御霊をもたない者は義人ではありません。どんなに懸命にイエスを信じ、高潔な生き方をして聖くなろうと努力しても、罪人は罪人にすぎません。外見は清く見えるかもしれませんが、それでも内も外も汚す罪があります。罪人とは、そうしたものなのです。
しかし、神の義によって罪全部を赦された者は違います。人間は悪を行うことは免れませんが、罪の赦しを受けた後は、より清い生き方をするようになります。人間は罪に染まって生まれ、そのため、そのつもりがなくとも罪を犯してしまい、生涯罪を広めることを免れません。罪の菌を広めたくなければ、罪の病を根本的に治療する神の義という薬をとらなければなりません。神の義を信じる者は御霊の実を結びます。内に御霊がおられるからです。
神の御前で律法を守っても義人になれないもう一つの理由は、律法を完全に守れる者が一人もいないからなのです。律法を完全に守れば、誰でも神から義人と認められるでしょう。しかし、実際のところ、人間には律法の規定すべてを実践することができません。かえって、人はみな律法の条項に違反するのです。ほんの少しの規則も守れないというのに、どうして律法の条項を全部守れるでしょう。どうしたらいいのでしょう。
  
 
律法と預言者があかしした神の義
 
<ローマ 3:21>しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。
 「神の義」とは「水と御霊の福音」のことです。神の義の福音のあかしはどこにあるでしょう。神の律法と預言者によるあかしが必要です。神は幕屋のいけにえの制度で、イエス・キリストが犠牲となられ、按手によって人類の罪をみな被られ、血を流して死なれると預言なさいました。すなわち、水と御霊の福音は旧約で預言された福音なのです。イエスの受けられたバプテスマは、犠牲に行った按手と同じものであり、動物を犠牲とし、血を流すことは、イエスが十字架上で死なれるのと同じことなのです。イエスがこの世に来られ、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けられて世の罪を被られ、世の罪を負われた状態で十字架上で死なれ、罪の罰を受けられたことによって、神の義は成就されました。これが罪人を罪から救った神の義です。
パウロ書簡を注意深く読みますと、しばしば「以前」と「今」とを対照しているのがわかります。パウロがそうした手法を用いているのは、律法に縛られた暗い過去と、現在の栄光の救いとの両方を経験していたためです。彼が変わったのはダマスコに行く途中でのことです。それ以前、パウロは実際のところ、イエスとその弟子たちの敵だったのです。彼はあらゆる方法で原始教会の信者を除こうとしました。そして、大方のユダヤ教狂信者がそうであるように、自分は正しいことをしているのだと思っていました。しかし、実際は神を知ることなく、自分の義によって神に敵対していたのです。
ダマスコへの道の途中でイエス・キリストがパウロの前に現れ、ご自分が神の御子イエスであり、パウロの迫害を受けているのだと告げられたのです。その時、天の真実が新たな光となってパウロを照らし、彼の心から闇をすべて除きました。パウロは傲慢と偏見・迫害を改め、キリストとその義に仕えて生きるようになります。パウロは「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました」と述べています。
邪悪な罪を抱えたままで裁きに臨むのを免れるには、どうしたらよいのでしょう。人間の力では不可能です。パウロは神の怒りではなく義を信じました。罪のために神の裁きの怒りを受けることを免れる唯一の道は、神の義を信じることです。この道をくださった神に感謝し、従わなければなりません。
パウロはイエス・キリストへの信仰によって神の義を信じ、神の罪のない子どもに変えられました。大方のキリスト教徒は罪をもっていながら、神の罰を受けることになるだろうとは思っていません。ともかくイエスを信じているので、大丈夫だと思っているのです。ですから、神の義を信じる信仰をもたないために罪をもっていながら、自分の観点から見て、救いを受けたと錯覚しているのです。
しかし、今はキリストのみわざのおかげで、罪を裁かれることなく神の義の内に生きる道があるのです。それは「キリスト・イエスによる贖いのゆえに」(ローマ 3:24)受ける神の義によるのです。
では、ご自分の心を調べてください。イエスを信じる前は罪がありましたか。神の義を知り、信じておられるなら、罪はないでしょう。イエスを信じるようになって何か変化があったとしたら、それは、以前は人間の義を信じていたのが、今は神の義を信じているということでしょう。神の義を信じることなくイエスを信仰するなら、神はその信仰をお認めになるでしょうか。いいえ。神の義を理解したうえでイエスを信じると、神はその人がご自分の義を得たものとお認めになります。ですから、神の義を知っていなければなりません。キリスト教徒でありながら、神の義を知らないために信じないでいるなら、その信仰は誤ったものです。このことをよく理解したうえで神の義を知り、信じていなければなりません。
 
 <ローマ 3:22>すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。
 イエスのバプテスマと十字架上の死によって成就された水と御霊の福音のみことばを信じる者は、誰でも神の義を受けるのであり、そこには何の差別もありません。イエス・キリストを信じることは神の義を信じることです。神の義はイエス・キリストの内にあり、イエス・キリストは神の義なのです。ですから、誰であっても罪人はみな罪の赦しを受けるために、イエス・キリストがバプテスマのヨハネから受けられたバプテスマと十字架の血を信じなければなりません。
 
 
信仰義認か水と御霊の福音か 
 
<ローマ 3:23-24>すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
 イエス・キリストの内の贖いは、神の義を信じる罪人を罪のない者とするのに十分でした。罪人は神の義を信じて、はじめて罪の赦しを受けられるのです。神の観点からすると、神は人間にその義をくださる代価として相応の犠牲を払っておられます。人間の側はというと、犠牲をささげることなく、ただ信じさえすれば神の義を受けられるのです。神のみことばは、主イエスが救済であること、神の義だけを信じるべきことを告げています。
ローマ第 3 章は、信仰によって義人になることについて述べています。ローマ 3:24 は「神の恵みにより、キリスト・イエスの贖罪のおかげで、価なしに義とされた」と告げています。私たちはキリストの贖罪のおかげで価なく義人になっています。では、主の恵みによって神の義を得るというのは、まだ罪があっても義人とみなされるということなのでしょうか。罪があっても義人とされるのでしょうか。それとも、実際にもはや罪がないから、義人とされているのでしょうか。聖書に基づいてはっきりお答えしましょう。
 
 
義認の教義は正しいか
 
キリスト教神学における義認の教義は正しいでしょうか。いいえ。義認の教義とは、たとえ罪があっても、キリスト教徒はイエスを信じているために罪なしとされるという考えです。使徒パウロは先の引用部で義認の教義について述べているのでしょうか。私たちはイエス・キリストの内の贖いによって罪がなくなったのです。主がバプテスマによって罪を被られ、十字架上で死なれたので、私たちは罪のない者となったのです。主が成就なさった救済を信じて罪のない者となったのです。神がそうした信仰をご覧になり、真理を信じる者を罪のない義人となさったのです。義人というのは、罪のない者のことです。ですから、キリスト教神学でいう義認の教義は、イエスは人間の罪全部を永遠に取り除かれはしなかったとする、否定的で間違ったものなのです。
律法の働き、つまり、律法を守ることで義人になろうと努力する人がいます。しかし、正しい生き方をして罪のない者になるのは不可能です。正しく生きて罪のない義人になるというのは、世の宗教から出た願望に過ぎません。そうした考えは、宗教的に見れば理屈にかなっているのかもしれませんが、霊的観点からすると、けっして正しくはないのです。
律法主義的キリスト教徒はローマ 3:24 「神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められる」を、「キリスト教徒は罪があっても、単にイエスを信じているというだけで罪なき者と見なされる」と解釈しています。イエスは水と御霊によって世の罪を洗い流されたのです。「贖い」というのは、「身代を払って救う」ことです。合衆国では奴隷解放に関連して南北戦争がありました。その戦争は、次のような事情で起こりました。
南部の富裕層は、奴隷が解放されたら働く者がいなくなるので、自分たちが働かなければならなくなる。だから奴隷を自由にしてはならないと主張しました。それに対して北部では、「いや、奴隷は自由にしなければならない。彼らも私たちと同じ人間なのだ」と言いました。やがてそれが政治的対立となり、戦争が起こったのです。
戦争の前、黒人は一般に白人の奴隷でした。奴隷たちは通常、結婚式は行いませんでしたが、それでも子どもをつくりました。奴隷に大勢の子どもができると、持ち主は子どもを市場に連れて行き、売りました。奴隷市場では奴隷に値をつけ、競売をしました。いちばん高い値をつけた者が奴隷を手に入れました。このようにして、人間が別の人間を売り買いしたのです。これがいわゆる奴隷制度です。
奴隷は持ち主の所有物でした。奴隷の値段は「代価」と呼ばれました。奴隷を解放するには代価を支払わなければなりませんでした。罪の奴隷となった人間を贖うために、イエスは何をなさったでしょう。人間の代価を支払うためにイエスは何をなさったでしょう。主は人間を罪からお救いになるためにこの世に誕生なさり、バプテスマを受けられて人類の罪をみな負われました。そのようにして罪をみな被られたので、十字架に行かれて血を流して死なれ、三日目に復活なさり、四十日間あかしなさり、昇天され、父なる神の右手の座に着かれ、救い主となられました。主は恵み、つまり贖罪によって、価なしに人間を義となさいました。私たちはこれを信じて罪の赦しと新たないのち、神の義を受けました。
神の恵みにより、キリスト・イエスの贖罪のおかげで、価なしに義とされた。
しかし、世の多くの人は、イエスが水と御霊の福音によってお救いくださったことを信じていません。今日のキリスト教社会には、キリスト教を単なる世の宗教の一つに堕落させるような信仰の持ち主が大勢います。義認説を教える牧師は、その典型です。義認説を唱えるのは、どういう人でしょう。キリスト教社会の哲学者です。そうした人は自分の考えに沿うように聖書を解釈します。そうした人が主を拒むのです。
英国の清教徒は故国で激しい迫害を受けたためにアメリカに移住しなければなりませんでした。アメリカに着いて最初にしたことは、教会を建て、礼拝をすることでした。その後、神学を教えるために神学校を設けましたが、その教員が宗教哲学者たちでした。哲学者である聖職者が神学の専門家として指導したのです。そうした人がローマ 3:24 の「神の恵みにより、キリスト・イエスの贖罪のおかげで、価なしに義とされた」を読んで、「イエスを信じさえすれば、罪があっても義人とされる」と教えたのです。「贖い」や「神の恵み」といった語の意味は知っていましたが、水と御霊の真理との関連においての理解はしていませんでした。ですから、この部分の解釈を誤り、やがて、いわゆる義認説を作り上げたのです。
義認の教義とは、「キリスト教徒は、たとえ罪があっても義人とされる」という教えです。そうした神学の専門家が生徒に教え、義認説を学んだ生徒が牧師になって、義認説が世界中に広まったのです。
「聖徒」という語は、「罪が微塵もない人」という意味ですが、義認説を信じる自称聖徒に、実際のところ心に罪があるかどうか尋ねると、「罪のない人などいませんよ」と答えます。彼らは言います。「聖書に『義人はいない。ひとりもいない』とあるのですから、義人がいるはずはありません。」
彼らが義認説を奉じるのは、水と御霊の真理を知らないからです。義認説はそうした人が作り出し、現在に至るまで広めてきたものなのです。キリスト教徒は神学者からそうした教義を教えられると、何の疑問もなく信じます。
しかし、彼らは間違っているのです。神は、そうした罪のある者を罪なき者とはなさいません。地獄に行くべき者は必ず地獄に送られます。恵みを受けるべき者には恵みを、慈悲を受けるべき者には慈悲をお与えになるのです。裁きを受けるべき者は、必ず裁かれます。しかし、大勢が誤りを信じるようになっています。世界中で神学者の間違った教えが影響を及ぼしているからです。人々は教会に行き、互いを聖徒、執事、長老、牧師と呼び合いますが、みな心に罪をもちながら、救われた罪人だと称しているのです。義認説を信じる人は、いずれもみな罪人なのです。仏教徒には罪があります。いわゆるキリスト教徒にも同様に罪があるのです。したがって、みな神の義を得ていません。信仰によって神の義を受けていない人は、いずれも単なる信心家に過ぎません。
キリスト教には、そうした信心家がまことに大勢います。信心家であるキリスト教徒は真のキリスト教徒ではありません。神の義を得た者だけが真の信仰生活を送れます。その人に罪があるかどうかという単純な白黒で判断するなら、仏教徒やキリスト教徒はみな等しく罪があるのです。ですから、義認説を信じる信仰はみな間違いです。
では、義認説はどこから生まれたのでしょう。哲学者の頭の中で作られたのです。彼らは「価なしに義とされた」という部分を読んで、義認説の根拠としたのです。「罪があっても義人とされます。聖徒とされます。」 聖徒と呼ばれる理由は、その人がイエスを救い主と信じているからだと言います。
イエスのくださった水と御霊の福音を信じると、実際に罪がなくなるのです。つまり、みなさんの罪も私の罪も、イエスのバプテスマについたときにイエスに移されたのです。イエスは人類全員の罪をみな被られましたか、被られませんでしたか。被られました。イエスは十字架に行かれ、バプテスマによって負われた罪の裁きを受けられました。それから三日目に死からよみがえられ、昇天され、父なる神の右手の座に着いておられるのです。そのイエスが救い主です。
イエスを信じて罪の赦しを受けたのなら、それは神の賜物ですか、それとも努力して救済を受けたのですか。救済は神からの賜物です。「賜物」とは、神の恵みだということです。聖書には「神の恵みにより、キリスト・イエスの贖罪のおかげで、価なしに義とされた」とあります。みなさんと私は恵みによって神の義を受けたのですか、それとも自分で罪のない者になったのですか。私たちは、神の義である水と御霊の福音の贖いを信じて、罪から救われました。これは義認説によって得たものではありません。
イエスとは誰でしょう。救い主です。聖なる神、聖なる御子、そして聖霊が御子を通じて世の罪全部からお救いくださったのです。私たちは神の成就された義を信じて罪のない者になったのです。神が御霊の賜物として心におられるのは、私たちの心に罪がないからです。ですから、「私は義人です。見ての通り、私には欠点や弱さがあり、いろいろ間違いを犯します。でも、心には罪がありません。イエスがそのバプテスマと十字架の血とによって罪をみな除いてくださったと信じているからです」と言うのです。
義認説を信じる人の信仰は間違っています。彼らのいうキリスト教には多くの誤解が含まれています。義認説を教える人は、神を信じようとする人たちにひどく悪いことをしているのです。彼らの信仰は多くの人に有害です。みなさんはよく義認説や聖化説といったものを聞かれるでしょう。しかし、じつのところ、そういう教義を信じている人は滅びに向かっているのです。彼らはみな罪をもっているというのに、イエスを信じているから罪はないのだと考えています。
イエスはバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになった時に人類の罪をみな被られました。信仰をもち、イエスがすでに罪をみな消してくださったことをいつも思い起こすなら、私たちの内に罪はあり得ません。みなさんと私は本物の義人です。欠点のある人間ではあっても、水と御霊の福音を信じているのですから。私たちにはほんとうに罪がありません。
ヨハネI 1:9 は、「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」と告げています。これは、私たちが罪を告白するたびに神が罪を消してくださるという意味ではなく、水と御霊によって神の義が成就されたので、罪がみなすでに贖われていることを信じるという意味です。これは、イエスがくださった水と御霊の福音を信じるなら、罪の赦しが得られるということです。
 
<ローマ3: 25-26>神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自分の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。
「その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました」とは、神がイエスをなだめの供え物になさったという意味です。血を流すのは死を意味します。すなわち、神はすでに、イエスの死によって罪をみな消し去るという、罪の赦しをご計画になっていたのです。イエスはバプテスマを受けておられたので、身代わりとして死ぬことが可能だったのです。「その血による、また信仰による、なだめの供え物」という部分の意味を理解しておかなければなりません。ここは、神が御子を殺されたのは、いけにえの血、つまりいけにえのささげ物の死によって罪の代償が支払われ、罪の赦しが成就されたからだというのです。
罪から来る報酬は死です。ここで「死」というのは肉体的な死だけではなく、霊的な死、つまり、地獄に行くことをも意味しています。神が律法をくださったのは、何が罪であるかということ、人間は毎日罪を犯さずにはいられない存在であるということを律法を通じて知るようになさるためです。人間には絶対にイエスが必要なのです。イエスは神と人間との仲介者としてこの世に来られ、バプテスマを受けられて人類の罪をみな被られ、罪の贖いとして血を流されました。そうして神と人とを和解おさせになったのです。ですから、これを信じる者を神は子どもになさり、神は私たちを子どもと呼ばれるのです。これが神の義によってすでに成就されている罪の赦しです。
聖書には、「ご自分の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです」とあります。ここで何かを「見のがす」というのは、「捨て置く、無視する」という意味です。対応する必要があるものをそのままにしておくということです。これはまた、「気にしない」という意味でもあります。
神はまことに長い間、忍耐されます。神は人間を創られ、長い間我慢しておられます。人間はまことに多くの罪を犯してきましたし、これから先も数多くの罪を犯すでしょう。しかし、聖書にはこうあります。
神は、イエスをその血による信仰のなだめの供え物となさってご自分の義を示されました。それは、忍耐によって今までに犯されてきた罪を見のがして来られたためです。
これは、神がその義を示され、人間のために正しいみわざを行われたという意味です。神はまことに正しいみわざを行われ、罪をみな除いてくださいました。ご自分の義を信じる者を罪のない者になさいました。
さて、「忍耐によって今までに犯されてきた罪を見のがして来られたためです」の部分をよく見ましょう。永遠の神は私たちのように時間をご覧になるでしょうか。いいえ、そうはなさいません。神には世界の終末さえお見通しです。つまり、人類の全歴史が神にとっては過去のことなのです。ですから、ここは────人生が八十年にしろ、九十年にしろ────人間が生まれた時から死ぬまでに犯した罪を神がみな見逃されるということなのです。
現在、韓国では老人人口が増えつつあります。韓国人も長寿です。たいていは七十年以上生きます。高齢化により、社会的な問題が生じています。
ある人が三十歳の時に罪の赦しを受けたとしましょう。三十歳の時に罪の赦しを受けると、七十年の寿命があるとするなら、この先四十年ほど罪を犯していくことになります。しかし、主が二千年ほど前にこの世に来られ、三十歳の時にバプテスマを受けられ、三十三歳で十字架につけられ、罪の報いとして罰を受けられ、死者の中からよみがえられられ、救い主となられたのです。主は、私たちがおよそ二千年後にこの世に生まれることをご存じでした。また、私たちが死ぬまで罪を犯していくこともご存じでした。そこで、罪をみな被られたのです。これは、私たちの子どもや孫の罪を被られたというだけではなく、子孫が最後の日までに犯す罪までも、みな被られたということです。
ですから、「今までに犯されてきた罪を神の忍耐によって見のがして来られた」というのは、神の観点からすると、人間が今日犯した罪も、将来犯す罪も、すでに除いているという意味なのです。人間の観点からすると、それは私たちの時間の枠組みの中で将来犯す罪です。しかし、神の観点からすると、過去にすでに消し去っている罪なのです。神は永遠の罪を取り除かれました。神は永遠に存在するお方だからです。ですから、未来に生まれた人間が多くの罪を犯しても、神の視点からすると、すでにそうした罪は遠い昔に取り除かれています。つまり、人間が犯す罪はみな、神の目には過去に犯された罪に過ぎないのです。
「今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られた」というのは、神がすでに取り除いておられるからです。人間は毎日罪を犯します。しかし、神の観点からすると、遠い昔にひとり子イエスによりすべて取り除いておられるものなのです。父なる神はイエスをこの世に遣わされ、三十歳になられると、バプテスマのヨハネから受けられたバプテスマによって世の罪を被らせ、この世の罪を負われたまま十字架につけられて死なせ、復活おさせになりました。ご自分の義を示されるため、神は罪を取り除かれました。そして、ご自分が正しいのであり、イエスを信じる者は犯した罪を移して義人になっているのだとおっしゃいます。人間の罪はずっと以前に神が取り除いておられるからです。
こうしたことを「はい」と言って受け入れる信仰をもたなければなりません。人間は現在形で罪を犯しますが、神はそうした罪は気になさいません。イエスが既にこの世の罪を全部取り除いておられるのですから。たとえ不完全さから、いまだに罪を犯していようと、水と血によって来られたイエスを信じて罪の赦しを受けているなら、神の目にその人は義人なのです。これは、自分の罪深い本質を認め、イエス・キリストを主として受け入れるなら、その人には罪がないという意味です。ですから、聖書には、人間がこれまで犯してきた罪を神が見のがされたとあるのです。
もちろん、だからといって、好きなだけ罪を犯していいということではありません。私たちは、そうしたくなくとも罪を犯しますか、犯しませんか? 犯します。私たちは意図的に罪を犯しますか、それとも弱さから罪を犯すのですか? 人間は弱いから罪を犯すのです。完全なら、意思が堅固なら、罪を犯さないでしょう。罪を罪と知っているのですから。では、私たちの意思はどうでしょう。すぐに変わります。朝に誓いを立て、決心しても、夕方にはすっかりだめになり「なぜこんなことをしたのだろう」と思うのです。そうして、夜にはまた意思のナイフを研ぎます。もう一度誓いを立て、決心し、一日を始めます。一日、一週間はもつかもしれません。しかし、一ヶ月もしないうちに、すっかりだめになるのです。
人間は現在という時間の枠組みの中で罪を犯し続けても、そうした罪はみな、神にとっては過去のものなのです。神はすでに人間の罪をみな赦しておられます。ですから、聖書には、「ご自分の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです」とあるのです。神は義のみわざをご計画になり、ご計画のとおり、人間の罪をみな消されました。そして、みわざを成就されたイエス・キリストを信じる者に「あなたは義人です。あなたには罪がありません」とおっしゃいます。これは、神が人間を罪から救ってくださったということです。これがおわかりですか? 
神を信じ、サタンに攻撃されても負けないためには、こうしたことを理解していなければなりません。しかし、義認の教義を信じている人に、罪があるかどうかと尋ねると、たいていは罪があると答えるのです。中には、「イエスが十字架上の血で贖ってくださったのですから、私には罪がありません」と言う人もいます。そこで、将来犯す罪はどうするのかと尋ねると、悔い改めの祈りをささげればいいのだと答えます。義認説を信じている人は、こういうものなのです。悔い改めの祈りを信じて罪の清めを受けると言う人はみな、義認説を唱える罪人であるキリスト教徒です。
悔い改めの祈りをささげれば罪の赦しを受けるのですか? それとも、イエス・キリストがこの世に来られ、バプテスマによって人間の罪をみな被られ、十字架上で死なれて罪の罰をみな受けられ、死からよみがえられて罪をみな消してくださったと信じて罪の赦しを受けるのですか? 罪をすべて除かれるためには何を信じればいいのでしょう。悔い改めの祈りをささげるたびに罪が除かれるのでしょうか、それとも、イエスが水と御霊によって罪をみな消してくださったと信じて罪は除かれるのでしょうか。
聖徒は悔い改めの祈りをささげてではなく、水と御霊の福音を信じて罪のない者となったのです。もしある人が誰かを刺し殺して「すみません。悪いことをしてしまいました。息子さんを殺しました。申し訳ありません。二度と人を殺しません。どうか赦してください」と言ったなら、罪は赦されるでしょうか。その人は罪の代償を払わなければなりません。刑務所に入り、死刑か終身刑を宣告されるでしょう。そうでなければ、「赦してください」と言っただけで赦されるものでしょうか。韓国の諺に「言葉だけでなら、一個のおにぎりで韓国人全員でも養える」というのがあります。
義認説を信じる人は、悔い改めの祈りをささげるたびに罪の赦しを受けると言います。しかし、どうして悔い改めの祈りで罪の赦しを受けられるのでしょう。イエスがバプテスマによって人類の罪をみな被られ、十字架上で血を流されて裁きをみな受けられ、それによって罪をみな消してくださったことを知り、信じて罪の赦しを受けるのです。義認説を唱えるのは、仏教徒が、お経を唱えながら木魚を叩けば魂を地獄から救えると教えるようなものです。
律法は、生涯にただ一度罪を犯しただけでも、その人は罪人だとしています。人間は母の胎内から罪をもって生まれてくるのですから、たとえ生涯一度も罪を犯さなくても、罪人なのです。ですから、地獄に行くのです。それでも、一般の人はそうは考えていません。では何歳で罪を認めるのでしょう。だいたい七歳から死ぬまでの罪をそうと認めます。
律法の行いで神に善人と認められるためには、ゆりかごから墓場まで一度も罪を犯してはなりません。誤って一度でも罪を犯せば、すべては無益になります。たとえ 99.9% 律法を守れたとしても、たった一度罪を犯せば、すべては無益になるのです。
たとえば、ある仏教僧が洞窟に入り、心にある汚れた欲望を消し去るために四十日間瞑想したとします。二十日後、女性を幻に見ます。その女性は裸で、誘惑をしかけてきます。最初は誘惑に負けまいとして「去れ」と言いますが、やがて女性がそばにいて仕えてくれるのをうれしく思うようになります。すると、四十日間の瞑想は無になります。
韓国の高名な仏教僧で李聖哲と言う人がいました。その人は何十年も壁に向かって瞑想し、死の直前に次のような意味の詩を作りました。「数多くの男女を欺き、罪は最も高い山よりも高い。地獄の底知れぬ淵に落ち、悲しみは果てしがない。一片の赤陽が青い山の辺にかかっている。」これを最後の教えとして、亡くなります。このお坊さんは「私は地獄に行く」と言ったのです。
人間が高潔に生きようとするのは悪いことではありません。しかし、完全に正しく生きることは不可能です。私たちキリスト教徒は高潔に正しく生きなければなりません。また、御霊に導かれなければなりません。そして、神のために生きることを必ず念頭においていなければなりません。世の宗教を信仰する人が、ツァラアトに冒された人の膿を吸い出し、がん患者の身代わりとして死んだとしても、どんなに高潔な生き方をしたところで、イエスのくださった水と御霊の福音によって罪をみな消した愛をもっていなければ、地獄に行くのです。そうした信仰をもたなければ、地獄に行くのです。つまり、義認説は誤った教義なのです。水と御霊の福音を信じていると言いながら、実際にまだ心に罪をもつ人は、まだ罪人なのですから、間違った信仰をもっているのです。
水と御霊の福音を心で信じると、ほんとうに罪は消えます。しかし、理屈でだけ理解していたのでは、罪人でいるしかありません。結果が大事です。神の観点からすると、信じているかどうかが大事なのです。ほんとうに真の福音を信じているなら、どうして罪がまだあるのでしょう。
ですから、義認説を信じている人は神を嘘つき呼ばわりしていることになります。神には、人間が過去に犯した罪も将来犯す罪も消すことができなかったと言っているのと同じことなのですから。北朝鮮の国家主席金日成が生存中、私は、イエスはそのバプテスマで金日成の罪までも取り除かれたと説きました。厳密に言って、神はご自分の一存で人間の罪を取り除いておられるのです。しかし、金日成は罪人です。イエスがバプテスマによって罪を取り除かれ、十字架上で死なれて、すべての罪からお救いくださったことを信じなかったので、罪をもっていたからです。
義認の説に基づいてイエスを信じている人は、過去の罪の赦しは受けているけれど、将来犯す罪は、悔い改めの祈りをささげて赦しを受けなければならないと考えます。これは、「イエス、あなたは嘘つきです」と言うような信仰です。これはひどい間違いです。こうした信仰では、イエスをまったくの嘘つき、人を欺くカルト指導者扱いしていることになります。
世のカルト指導者は、信仰の名の下に人々からお金を巻き上げます。しかし、主イエスはカルト指導者ではありません。イエスは人間に新たないのちをくださり、罪を一度でみな除き、消し去るためにこの世に来られました。バプテスマを受けられて人類の罪をすべて被られ、三十三歳の時に十字架に釘で打ち付けられ、血を流され、死者の中からよみがえられ、ほんとうに罪からお救いくださいました。そうなのです。イエスは詐欺師ではありません。
しかし、まだ義認説を信じておられるなら、それはイエスを詐欺師扱いなさっているのです。キリスト教徒になって十年もたってから「イエス様、お赦しください」と言っているのは、もう一度十字架上で死んでくださいと言っているのと同じことです。「私はまた罪を犯し、また心が汚れました。どうか、もう一度、私の代わりに罪を贖ってください」とお願いしているようなものです。しかし、自分の感覚や心を清めたいのなら、水と御霊の福音の泉に行き、神のみことばの水で自らを洗い清めなければならないのです。信仰によって自分を清めなければなりません。世のキリスト教徒の中には、心に罪をもち、実際、神を貶め、神を嘘つき呼ばわりして敵対している人々がいるのです。
義認説を信じてはいけません。この説は間違った教義の一つです。私は新たに生まれる前、いわゆる義認説、聖化説、予定説その他の説を学びましたが、それらは十年もの間、意味をなしませんでした。福音派を含め、大方のキリスト教徒は、こうした教義を信じています。そうした人々を見ますと、口では罪がないと言っているのですが、厳密に言って、実際には罪があるのです。韓国の救済派は、罪の赦しを受けたと言っています。しかし、彼らが罪を犯すと、どうなるでしょう。この世でふさわしい罰を受けたら、問題はないのだと言います。そうした信仰はみな、義認説を信じる人間の間違った考えから出ているのです。彼らは言います。「私はイエスを信じていますから、罪はありません。たとえ私の心に罪はあっても、神様は罪のない者とみなしてくださるはずです。ですから、私には罪がありません。」 
しかし、ほんとうに罪の赦しを受けている人は、実際、心に罪がないのです。みなさんは心に罪がおありですか? いいえ、ありません。聖書には、「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり」(エペソ 5:26)とあります。ヘブル 9:14 には、「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離させ、生ける神に仕える者とすることでしょう」とあります。また、ヘブル 10:22 には、「私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか」とあります。
以上の部分から、聖書は十字架上の死とともにイエスのバプテスマの水をも重視していることがわかります。キリストはバプテスマをお受けになり、十字架上で死なれて、すべての罪からお救いくださいました。イエスは人間の心から罪をすべて取り除かれました。つまり、人間が行いによって犯す罪、頭の中で犯す罪、意図的に犯す罪、意図せずに犯す罪、弱さから犯す罪等々をみな被られたのです。人間が罪を犯すと、それは心の板に記録されます。そこで、人間は良心の痛みを覚えます。良心は罪の感知器です。イエスはバプテスマを受けられた際に人間の心を苦しめる罪をみな被られ、十字架上で死なれて、罪をみな取り除かれました。生ける神に仕えさせるためです。神が死んだ行いから心をきよめてくださったのは、そのためです。
人間は時に自分を欺きます。切羽詰まると良心の声を無視し、その場しのぎに本心と違ったことを口にします。しかし、神は、死んだ行いから心をきよめたとおっしゃいました。イエスはバプテスマを受けられ、十字架上で死なれて、人間が主のバプテスマと血とを信じさえすれば、心の中で犯した罪、実際に犯した罪全部の赦しを受けるようになさいました。人間は罪の赦しを受けた後でも頭の中で罪を犯すのですが、自分の肉の欠点を認め、神の成就なさったみわざを信じているなら、いつも完全にきよいままでいられます。
主は水と血で人間の罪を全部消してくださいました。福音を信じている者が、人間の罪をすべて消し去った主のすばらしいみわざを思い起こすなら、御前に立つその日までずっと、主は恵みで満たしてくださいます。ですから、より頻繁に教会に通い、みことばを聞き、礼拝しなければならないのです。神の義を信じて罪のなくなった者であっても、この生では罪を犯します。そして、御霊が教会に語られるみことばを聞くことができなければ、また心が汚れます。すると、罪はなくとも、心がどこまでも邪悪になり、この世でまったく無益な者、この世でますます多くの罪を犯す者となるのです。ですから教会が必要なのです。何か悪いこと、望ましくないことが頭にあっても、教会に来てみことばを聞き、信仰を再確認し、主を仰ぎ、主が水のバプテスマと血により罪をみな除いてくださったというみことばを聞くと、御霊が「そうです。そうなのです」とおっしゃいます。そこで、気持ちがよくなります。「ああ、そうなのか。ずいぶん楽になった」と思います。
みなさんも私もそのようにして、罪の抑圧なしに信仰に生きることができるのです。そして、神と交わり、神のくださる恵みの中で生きられるのです。
これを信じておられますか。教会から遠く離れるのは、つらいことでしょう。教会から離れていたり、牧師や先輩をけなしたりしていては、霊的に正しい生き方はできません。そういうことをしていると、ひどく邪悪になります。
 
<ローマ 3:27-28>それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょう。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行いの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの教えです。
 問題は、罪を除くのは行いによるのか、それとも信仰によるのか、どの福音によって人は罪がなくなるのかということです。使徒パウロは、人は信仰の律法によって義人になると言いました。信仰の律法とは何でしょう。神は出エジプト記でイスラエル人のために律法を定められ、幕屋といけにえの制度について具体的に指示しておられます。また、レビ記は神の御前でどのようにしてささげ物をすれば罪の赦しを受けられるかを詳細に述べています。まず、傷のない小羊か山羊を連れて行かなければなりません。両手を動物の頭に置き、罪を告白し、罪を犠牲に移します。それから動物の喉を切り、血を採って祭司に渡します。祭司はその血を全焼のいけにえの祭壇の角につけ、残りの血は地面に注ぎ、動物を細かく切って全焼のいけにえの祭壇で焼いて神にささげました。これが日々の罪を贖うためのささげ物をする方法でした。
レビ記は罪のためのささげ物について詳細に述べています。そこでは普通の人や祭司・長老たちが日々の罪のためのささげ物をする方法を説明しています。一年の罪のためには二頭の山羊を用意し、大祭司がその一頭に按手を施し、イスラエル人が過去一年に犯した罪を全部移しました。次に喉を切って血を採り、全焼のいけにえの祭壇の角に血をつけました。それから聖所に入り、香の壇の角に血をつけ、また、あかしの箱の上で七回散らしました。いけにえの動物を細切れにし、神の御前で焼きました。
次に大祭司は、生きた山羊をイスラエル人の前に引いて行きました。生きている山羊の頭に両手を置き、イスラエル人のすべての咎と、すべてのそむきを、どんな罪であっても、これを全部それの上に告白し、これらをその山羊の頭の上に置き、係りの者の手で荒野に放ちました(レビ記 16:20-21)。旧約で、神はイスラエル人の一年分の罪の赦しのために、そうしたいけにえの制度を定められたのです。
旧約のこの啓示にしたがい、イエスが人類の罪の贖いのために、いけにえの子羊としてこの世に来られ、手を置く形でバプテスマを受けられ、十字架上で血を流され、死者の中からよみがえられました。ですから、人はそれを信じて罪の赦しを受けるのです。では、罪の赦しは律法の行いよって得られるのでしょうか。いいえ、罪の赦しは信仰の律法によって受けるのです。
信仰の律法というのは、イエス・キリストのしてくださったみわざを信じて神の義を得るという意味です。神は旧約で、救済の約束として、いけにえの制度を定められました。その約束を成就なさるためにイエスがこの世に来られ、バプテスマを受けられてこの世の罪をみな被られ、十字架上で死なれて罪を贖われ、死者の中からよみがえられました。人間はイエスを信じて罪の赦しを受けるのです。神の義は律法の行いでは得られないというのは、そのためです。自分の得た義を誇ることができないのは、そのためです。聖書は、人間は律法の行いではなく、信仰によって義と認められると結んでいます。いけにえの制度で約束された御子のみわざによって神が罪をみな消してくださったと信じて、義人になるのです。
 
<ローマ 3:29-30>それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です。神が唯一ならばそうです。この神は、割礼のある者を信仰によって義と認めてくださるとともに、割礼のない者をも、信仰によって義と認めてくださるのです。
 神がイスラエル人と外国人に罪の赦しをくださる方法に何か違いがあるでしょうか。ありません。神はイスラエル人の神であられるばかりではなく、外国人の神でもあられます。神は同じ神であり、罪の赦しを受けるための律法と信仰もまた同じなのです。三一神は、すべての人間が信仰によって罪の赦しを受けられるよう、イエスを通じて人類の罪をみな消すことをご計画になりました。そして、水と血によって成就されました。神はイスラエル人と外国人を同じ方法で救われました。
 
<ローマ 3:31>それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。
 信仰の律法によって救われたからといって、律法を無効にできるでしょうか。いいえ、できません。律法を確立するというのは、十戒を含めた六百十三項目だけが律法なのではなく、神が人間に告げられたことすべてが律法とみなされるからです。ですから、結局のところ、律法は無効にできません。律法は信仰によってますます確固としたものになるのです。信仰によって律法を確立するというのは、律法によって神のご命令を知り、律法によって罪を知り、主が律法の定めるいけにえの制度にしたがってお救いくださったと信じて、罪の赦しを受けるからです。
私たちは罪の赦しを受けていますが、律法のおかげで何が正しく何が悪いかを理解し、悪いことを改めることができます。律法が正しい行いの基準です。ですから、人間が律法という基準を知っていると、律法が確立するのです。律法とは、罪に関する神の戒めです。律法があるために、自分がどれほどだめな存在であるかを認識することになりますが、そのたびにますます神への感謝の念が深まり、信仰は安定します。主が水と血によってお救いくださったので、律法が確立するのです。律法の前に立つたびに、ますます神を認めることになるのです。
この信仰は義認説から出たものではありません。真理を信じて実際に罪の赦しを受けるのです。義認説を信じる人は、「人がキリスト教徒になると、神が原罪だけを取り除いてくださる、悔い改めの祈りをささげるたびに行いによる罪を取り除いてくださる、徐々に聖化するよう導いて、お救いくださる」と言います。しかし、絶対にそうではありません。イエスは人類救済のためにこの世に来られ、バプテスマを受けられ、十字架上で死なれ、罪をみな除いて、お救いくださいました。聖徒はそれを信じて義人になりました。義認説を信じる人は大勢いますが、主は罪の赦しによって実際に完全な義人としてくださったのです。義認説によるのではないのです。神に感謝いたします。
  
 
神は以前に犯した罪を見逃された
 
<ローマ 3:25>しかし、聖書にはこうあります。神は、イエスをその血による信仰のなだめの供え物となさってご自分の義を示されました。それは、忍耐によって今までに犯されてきた罪を見逃してこられたためです。
神の義とは、イエス・キリストがこの世で受けられたバプテスマと十字架の血によって成就された救済の真理です。ローマ 3:25 にある「その血による」というのは、イエス・キリストが十字架上で血を流されたのは、三十歳の時に、神の義を満たしたバプテスマを受けられたからだというのです。イエス・キリストが神とすべての罪人を和解させた「なだめの供え物」となられたのは、バプテスマによって世の罪を被っておられたからです。ですから、イエスは神の義を満たされ、信じる者の罪をみな消し去った主となれたのです。
「今までに犯されて来た罪を・・・・・・見のがして来られた」というのは、どういう意味でしょう。これは神の視点から述べているのです。神がこのようにおっしゃったのは、神の義を信じる者が犯した罪は、神の視点からすると、ずっと以前に取り除いたものであるからです。神の義を信じる者の罪をイエスがご覧になるとき、それは、遠い昔にバプテスマと十字架の血によって取り除いた世の罪なのです。ですから、彼らの犯す罪は、もはや問題にならないし、ご自分も気になさらないとおっしゃるのです。この恵みは神の義から来ます。
つまり、「今までに犯されて来た罪を・・・・・・見のがして来られた」というのは、二千年ほど前に神がその義によって罪をみな贖っておられるという意味なのです。今私たちが犯している罪はみな、神に移されたものだと見なさなければならないというのは、そのためです。「見のがす」というのは、世の罪は神の怒りを招くものではないということです。罪がすでに贖われているからです。これは神の義によって成就しました。私たちは、この神の義を信じて義人になりました。
 
<ローマ 3:26>今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。
神は、イエスを信じる者にも信じない者にも、時空の枠組みを超えてご自分の義を示されます。神はご自分の義によって救われ、その義の偉大さを示されました。そして、この西暦二千年にも、ご自分の義を信じる者を、時空を超え、イエス・キリストを通じて罪のない者になさろうと思っておられます。
イエスの観点からすると、世の罪はもはや問題ではありません。主ご自身がずっと以前にすでにバプテスマと十字架上で流された血によって神の義を満たされ、贖っておられるからです。しかし、神の義を信じない者については話が違います。ですから、イエス・キリストが深刻な問題になさる罪について正しく理解し、そうした罪を犯さないように気をつけなければなりません。
イエス・キリストは、人間が犯している罪よりも、神の義を感謝の念をもって信じることをせず、理解しようともしない者の不信のほうを問題になさいます。神の目に他の何よりも深刻な罪は、この世の罪をみな消した神の義を信じない罪です。神は、イエスを信じる者を罪のない者になさいます。水と御霊の福音に神の義が完全に示されているからです。神はその義により、信じる者を罪のない者になさるのです。これは神の義によるのであり、義認の教義によるのではありません。
「今の時にご自身の義を現わすためであり」というのは、イエスがこの世に来られ、バプテスマのヨハネから受けられたバプテスマと十字架上で流された血とによって義を示されたという意味です。神はひとり子を遣わされ、バプテスマのヨハネからバプテスマをお受けにならせ、十字架に釘でつけられるようになさり、人類にご自身の義を示されました。そして、それを信じる者には、一度ですべての罪からの救いをお与えになりました。ですから、聖徒は神の義を心で信じて義人になったのです。
神はイエスのバプテスマと血によって罪をみな取り除いてくださいました。これを信じる者には罪がありません。私たちは神の義を信じているので、罪がないのです。つまり、私たちは生涯に犯す罪全部から救われているのです。ですから神は、人間が過去に犯した罪や今犯している罪、それに将来犯す罪をもみな見逃すとおっしゃっているのです。
 
<ローマ 3:27>それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょう。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行いの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。
 さらに続きます。
 人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です。神が唯一ならばそうです。この神は、割礼のある者を信仰によって義と認めてくださるとともに、割礼のない者をも、信仰によって義と認めてくださるのです。それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです(ローマ 3:28-31)。
 聖書に記されたことはすべて神のみことばなので、私たちは信じるのです。「律法を確立する」(第31句)は、律法の行いに関しては、罪の裁きを免れることができないという意味です。つまり、人間は律法にしたがって神に裁かれると、地獄に行くことを免れない弱い存在だということです。しかし、神の義がすべての罪から救い、完全にしてくれました。これは、私たちが完全になったのは、神の義を信じて罪全部から救われたからだという意味です。神の義を信じて罪の赦しを受けても、私たちの行いにはまだ欠点があります。しかし、主が完全に救ってくださったのです。
私たちは神の義を信じてすべての罪から救われました。それならば、自分で誇るべきものは何もありません。神の義を満たしたイエスのすばらしいみわざへの信仰だけが誇れるものなのです。律法の行いでは神の義を受けられません。水と御霊の福音を信じてはじめて、受けられるのです。聖書には、「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」とあります。神は、人間の行いではなく、ご自分の義を信じる信仰をお求めになります。
これを覚えておかなければなりません。神の義を理解しようともせず、神の義を義認説のようなものとみなしている教会におられるなら、そこを出て、神の義を信じてキリストと結びついている教会に行かなければなりません。すると、神の義により、川の流れのような安らぎが心に満ちます。
義認説は律法主義者の信じる教義です。今、みなさんが神の義を理解し、信じておられるなら、もはや律法主義者ではなく、神の聖徒です。神を信じる者は、神の義を理解し、神の義を得るのを可能にする救済の律法があることを知っていなければなりません。
どういう原理によってでしょうか。行いの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。
私たちは行いによってではなく、神の義を信じて救われました。
聖書には「彼らの不真実であることは、神の誠実さを無益なものにするのでしょうか。絶対にそんなことはありません」とあります。
神の義を信じる者は安定していますが、信じない者は転びます。神の義を信じない者は安らいで生きることができません。そうした人は、みことばを受け入れないのですから、律法に照らして神の裁きを受けます。
聖書にある神の義を信じる信仰をもたなければなりません。イエス・キリストはすばらしい力をもつ救済を成就されましたが、それを自らのものとしないなら、無益です。神のみわざを自らのものとする唯一の道は、信じることです。聖書に「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」(ヘブル 11:6)とあるのは、そのためです。使徒パウロがローマ書で何度も信仰について語っているのもまた、そのためです。たとえば、ローマ 3:22 でパウロは「イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ」るとしています。また、25 節では、「神は、イエスをその血と信仰によるなだめの供え物となさいました」と述べています。さらに「人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです」(28 節)とも述べました。
信仰は善行ではありません。信仰によって得られた救いが神の義を示すのです。神は、その義により人間から罪の重荷を取り除いてくださいました。イエス・キリストのバプテスマと血への信仰により、神は罪のすべてからお救いくださいました。
 
<ローマ 3:28>人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの教えです。
神の義は信じる者に罪の赦しをもたらします。人間は律法を守ったり、悔い改めの祈りをささげたり、義認説を唱えたりして「義人」(罪のない者)とされるのではありません。神の義によって成就された罪の赦しを信じて、義人とされるのです。
今日、大方のキリスト教徒は神の義を、神学者が恣意的に作った義認説と同様に見なしています。しかし、神の義と義認説とは明らかに別物であることを理解する必要があります。神の義はイエスのバプテスマと血によって成りましたが、義認説はせいぜい知能指数 120~140 くらいの人間の頭脳の産物です。これは神学者が作った教義で、人間は、この世に生きている限りは罪を犯し続けることを免れないのを見て、自分の頭脳で神の義を理解しようとし、「イエスを信じさえすれば、神はその人を『罪のない聖徒』と呼ばれるのだ」と結論づけたものなのです。こうした教義は誰にでも作れます。しかしながら、はっきりさせておきますが、神の義は人間の作った教義ではないのです。
 
<ローマ 3:29>それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です。
神の義の福音は、信じる者すべてに罪からの救いを与えるのです。神の義の福音は特定の民族や人種のためのではなく、これを信じる人なら誰にでも適用されるのです。神はユダヤ人の神であるとともに、外国人の神でもあります。すべての人は神の被造物であり、罪はみな、神が全人類にくださった神の義によって清められているのです。神の義を信じる者はみな、罪のない者になる恵みを受けています。神はご自分の義を信じる人々の神です。
 
<ローマ 3:30 >確かに神は、異邦人にとっても、神です。神が唯一ならばそうです。この神は、割礼のある者を信仰によって義と認めてくださるとともに、割礼のない者をも、信仰によって義と認めてくださるのです。
アブラハムの子孫であるイスラエル人とそれ以外の人々が信仰によって得る神の義は、誰にとっても同じです。今でも、神はご自分の義を信じる者を見守っておられます。神は義人の神だからです。神は、ご自分の義を信じる信仰をもつ者を罪のない者となさいますが、信じないために罪のある者は、ただイエスを信じているからといって、罪のない義人とはなさいません。よろしいですか、神はそうした信仰はお認めにならないのです。神の義を信じて罪のない者となったことを神に感謝しなければなりません。みなさんに神の義の恵みが永遠にありますように。
  
 
神は律法を確立なさる
 
<ローマ 3:31>それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。
神の義を信じて罪のなくなった人は、どのように神の律法を理解するのでしょう。律法を無効にするのでしょうか。いいえ。神の義を信じる者は、神の律法のおかげで、罪に対してずっと敏感になっています。神のくださった律法のみことばが神の義の重要さを教えてくれるので、ますます感謝の念が深まります。
神の義を信じて義人になっても、もはや律法の下にないからといって、好き勝手に罪を犯すことになるかもしれないと心配している人がおられるかもしれません。みなさんは、以前は律法の抑圧の下におられても、今は愛の救済の律法を信じ、律法にしたがって歩む義人になっておられるのですから、そうしたことを心配なさる必要はありません。神の義を信じるようになった後、何か悪いことをしたらどうなるだろうかと心配する方がおられます。人間は根本的に、まことに弱いものなのです。神がその義によってすべての罪からお救いくださったのは、そのためです。ですから、真の自己をご覧になり、水と御霊の福音のみことばをくださった神に感謝の念をもち、神の義の愛をすべての人と分け合うようになってください。そうすれば、みなさんも神の義のしもべになるのです。
神の義は神の律法を通じてますます明るく照らします。二つは互いに補い合います。神はその義によってお救いくださいましたが、律法自体は無効になさいませんでした。神の律法は永遠で、完全です。神がそれをご計画になり、実行なさったのですから。
私たちは、イエスが水と御霊の福音を成就なさった救い主だと信じて、神の義を得ています。
水と御霊の福音の役割は以下のようにまとめられます。
(1)人間の傲慢を除く(ローマ 3:27-28)。
(2)すべての人に救済への唯一の道を示す(ローマ 3: 29-30)。
(3)福音は、ある人々のいうように、神の律法を無益にはしない。かえって、律法を完全にする(ローマ 3: 31)。
パウロは、律法とは別に、神の義を信じて罪から救われることについて述べました。しかしながら、使徒パウロは、神の義は律法を無にするのではなく、律法は神の義をより確かなものにすると述べました。それは、律法が神の義を明らかにするからです。