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主題 11: 幕屋

[11-15] 幕屋の板につけられた銀の台座二個と二つのほぞ (出エジプト記 26:15-37)

幕屋の板につけられた銀の台座二個と二つのほぞ
(出エジプト記 26:15-37)
「幕屋のために、アカシヤ材で、まっすぐに立てる板を作る。板一枚の長さは十キュビト、板一枚の幅は一キュビト半。板一枚ごとに、はめ込みのほぞ二つを作る。幕屋の板全部にこのようにしなければならない。幕屋のために板を作る。南側に板二十枚。その二十枚の板の下に銀の台座四十個を作らなければならない。一枚の板の下に、二つのほぞに二個の台座を、他の板の下にも、二つのほぞに二個の台座を作る。幕屋の他の側、すなわち北側に、板二十枚。銀の台座四十個。すなわち一枚の板の下に二個の台座。他の板の下にも二個の台座。幕屋のうしろ、すなわち、西側に、板六枚を作らなければならない。幕屋のうしろの両隅のために板二枚を作らなければならない。底部では重なり合い、上部では、一つの環で一つに合うようになる。二枚とも、そのようにしなければならない。これらが両隅となる。板は八枚、その銀の台座は十六個、すなわち一枚の板の下に二個の台座、他の板の下にも二個の台座となる。アカシヤ材で横木を作る。すなわち、幕屋の一方の側の板のために五本、幕屋の他の側の板のために横木五本、幕屋のうしろ、すなわち西側の板のために横木五本を作る。板の中間にある中央横木は、端から端まで通るようにする。板には金をかぶせ、横木を通す環を金で作らなければならない。横木には金をかぶせる。あなたは山で示された定めのとおりに、幕屋を建てなければならない。青色、紫色、緋色の撚り糸、撚り糸で織った亜麻布で垂れ幕を作る。これに巧みな細工でケルビムを織り出さなければならない。これを、四つの銀の台座の上に据えられ、その鉤が金でできている、金をかぶせたアカシヤ材の四本の柱につける。その垂れ幕を留め金の下に掛け、その垂れ幕の内側に、あかしの箱を運び入れる。その垂れ幕は、あなたがたのために聖所と至聖所との仕切りとなる。至聖所にあるあかしの箱の上に『贖いのふた』を置く。机を垂れ幕の外側に置き、その机は幕屋の南側にある燭台と向かい合わせる。あなたはその机を北側に置かなければならない。天幕の入口のために、青色、紫色、緋色の撚り糸、撚り糸で織った亜麻布で刺繍をした幕を作る。その幕のためにアカシヤ材の柱五本を作り、これに金をかぶせる。それの鉤も金で、また、それらの柱のために青銅の台座五つを鋳造する。」
 
 
板
幕屋自体は、48枚の板を使用して構成されていました。南側と北側にそれぞれ板二十枚、西側に板六枚、うしろの両側のために板二枚でした。板一枚ごとに、長さ 4.5m(15フィート)であり、幅約 67.5 cm(2.2フィート)と測定されました。板一枚ごとをまっすぐに立てるために、銀の台座二個と、正しくはめ込まれたほぞが二つありました。このことは再度、神の救いがキリストへの信仰による恵みによってのみ与えられることを示します。
 
 

救済はキリストへの信仰による恵みによってである

 
ほとんどのキリスト教徒は、「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです」という、エペソ人への手紙 2:8-9の有名な聖句を知っており、暗唱さえします。しかし、残念なことに、神の恵みが正確に何であるか、彼らが救われるために持つべき信仰とは、何であるかを知りません。しかしながら、銀の台座二個と、正しくはめ込まれたほぞの奥義が、神の救済の奥義を明確に示します。
私たちが、板の下に置かれた「二つのほぞと二個の台座」の真理を悟るために、まず福音の基本的真理を知っておく必要があります。天幕の入口は、どれも青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布で刺繍されていました。これら四つの色は、私たちが罪と滅びから救われるために、イエスのバプテスマと血が必要とされることを示します。そして、それらが私たちに、どんな疑いからも解放するイエスの救済の真理を信じることを可能にしているのです。青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布に啓示された、私たちを救っている真理に関する明確な知識を持ち、それを信じなければなりません。
イエスは、次のようにおっしゃいました。「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」(ヨハネ 8:32)。ですから、私たちはみな、天幕の入口の垂れ幕と至聖所の垂れ幕に啓示された四つの色に隠されている霊的真理を知ることによって、完全な罪の赦しを受けなければなりません。青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布は、天幕の入口の材料なのです。
つまり、イエス・キリストは、ヨハネからバプテスマをお受けになり、ご自分の身体の上に私たちのすべての罪をただ一度で負われ、世の罪を運ばれ、十字架で血を流されることによって、私たちを世のすべての罪から一度で救われた、私たちの救い主であられ、信じる者の王であられるのです。王であられるイエス・キリストが、私たちを罪から完全に救うことがおできになったのは、バプテスマをお受けになり、十字架につけられたからです。したがって、青色と緋色の撚り糸は、私たちが罪から救われるために取り残すことのできない明瞭で確かな真理を教えているのです。私たちの罪を負われるために、イエスはヨハネからバプテスマをお受けになり、世の罪を運ばれ、十字架で血を流されることによって、私たちをただ一度ですべての罪から救われ、こうして救済のみわざを完了なさいました。
ここで私たちは、青色の撚り糸(イエスのバプテスマ)、緋色の撚り糸(イエスの流された血)、紫色の撚り糸(イエスは私たちの王であられる)、それに撚り糸で織った亜麻布(イエスは精密なみことばの神であられ、私たちを義とされた)という、これら四つがみな、私たちの救いに用いられた材料であることを信じなければならないのです。それにもかかわらず、これらの一つだけを信じることによってすべての罪から救われようとするなら、そのような救済は完全ではないことを認識しなければなりません。なぜでしょうか。板を支えるための銀の台座に、はめ込まれるように、幕屋の板一枚ごとの下には二つのほぞがあったからです。
聖書において、「銀」とは、神の賜物である「神の恵み」を指します。ローマ人への手紙 5:1-2 には、次のようにあります。「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。」 私たちの救いは、私たちの信仰が神の恵みに正しく一致するときにのみ、私たちに授けられることができるのです。幕屋の板一枚ごとの下には二つのほぞがあり、これらのほぞが板を支えるための銀の台座に、はめ込まれたように、私たちはイエスのバプテスマと十字架の血との両方を同様に信じるときにのみ、私たちの救いが完成されるのだと、神はおっしゃいます。
私たちはみな、なぜ板一枚ごとに二つのほぞが突き出ていたのかについて、その理由と本質とを信じなければなりません。
これら二個の台座と板の二つのほぞとは、新約聖書の時代にイエス・キリストが来られ、バプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになり、十字架につけられ、十字架で血を流して死なれ、それによって私たちの救いを完全に成就なさるという、水と御霊の福音の影なのです。
つまり、罪の赦しの恵みは、イエスが人類の罪を消し去るために、ヨハネからバプテスマをお受けになり、十字架でご自分の血を流されることによって成就された正しい救済を、実際に信じる者の心にだけ授けられるのです。ですから、私たちが罪から救われるには、イエスのこれら二つのみわざを信じる信仰が必要なのです。実際のところ、幕屋のすべてのものは、私たちを罪からお救いになっているイエスの詳細な肖像を示します。主がイスラエル人に、幕屋の板一枚ごとに二つのほぞと銀の台座二個を用いるようになさったのは、理由がないわけではありませんでした。
神が私たちにくださっているバプテスマと流された血とのみわざを通して、私たちはすべての罪とそのすべての罰から完全に救われています。つまり、私たちが神の子どもとなる特権を受けているのは、水と御霊の福音を信じることによるのです。純金のような私たちの信仰は、この神の賜物を受けることによって築かれています。
 
 
あなたはイエスを信じているにもかかわらず、自分がほんとうは何者であるかをまだ知らないのか
 
みなさんは、ご自身を良い自分であるとお考えですか。どのような状況においても、いかなる種類のものであれ、自分には、いかなる不義も全く許さない誠実な性格であるとお考えですか。神の戒めを毎日心の中で守り、実生活において従い、実行しようとしているからといって、みなさんは神の前で何とか義とされているのだとお考えですか。私たちがしていることは、内密に姦淫や不品行を犯しながら、義人のふりをしているだけなのです。
今日、ケーブルテレビや衛星放送で、何百ものチャンネルが視聴可能です。24時間放送のこうしたチャンネルは、独自の専門番組を放送し、そうしたものを絶え間なく配信しています。こうしたチャンネルの中で商業的に最も成功している専門番組は、何より、アダルトチャンネルです。単にチャンネルを切り替えるだけで、あらゆる種類のポルノが視聴可能であるそのようなアダルトチャンネルが、たくさんあります。ポルノのウェブサイトはどうでしょう。言うまでもなく、ポルノのスパムメールの洪水が今、世界に溢れています。あらゆる人が、そうした淫らなウェブサイトの悪を激しく非難しますが、彼らの成功は、「需要・供給の法則」を考えると、無数の人々が実際に密かにそうしたものを楽しんでいるということにすぎません。
この現象は、私たち人間が根本的に堕落しており、淫らなのだということを示しています。聖書は、不品行、姦淫、好色を引用することによって、人類の罪深い心を指摘しています。神は、こうしたものが人の心から出て、人を汚すのであり、明らかに罪なのだとおっしゃいました。では、私たちはみな罪に満ちているのではありませんか。神は繰り返し、私たちに内在する本質は罪深い、とおっしゃいました。
しかし、私たちは本当にこれを認めているでしょうか。どうですか。目を閉じ、耳を塞ぐことによって、私たちに内在する罪の性質から逃れることができるでしょうか。私たちは心と思いの想像力で、あらゆる罪を犯さざるを得ません。私たちは、そのような罪から遠ざからなければならないと、どんなに自分に言い聞かせても、どんなに頑張って試そうとしても、そうしたことはみな無駄です。実際に、私たちの肉は、肉欲の罪を犯さない完全な聖徒になることは決してできないばかりでなく、罪から遠ざかりたいとは願わず、実際に罪に対する親和性があるようなものです。人類の肉と心は、いつも聖いものから遠くかけ離れており、その上、罪との距離を縮めたいと思うだけでなく、もっと大きな罪を犯したいと思っているのは、事実なのです。
東洋では、多くの人がその誕生から孔子の教えを学ぶので、そうした教えを実践するために大変な努力をします。一方、西洋では、カトリック教や律法主義的キリスト教会が、その宗教界を支配しています。多くの西洋人は、神の律法を守ろうと一生懸命努力し、もっと頑張っている限り、さらに聖くなるのだと考えていました。しかし、宗教的背景が何であるかにかかわらず、彼らが神の前に身を置いて、真の自己が露呈されると、みな同様にただの罪の塊であり、悪を行なう者の子孫なのです。
人間は不法者であり、欠点に満ちており、塵と土からできた罪の塊なのです。認められるためではなく、誠実な心から善行をしており、その善行のためにいかなる賞賛を受けて、実際に不快感を抱くような、表面上は良い人たちでさえ、根本的な性質が神の前に映し出されると、罪の塊であり、悪を行なう者の子孫であるという事実を免れないのです。人類の義を提唱することは、神の前に大きな悪事なので、人々はその罰を認め、神の愛である水と御霊の福音を受け入れない限り、罪の罰から逃れることができません。神の前では、人類の努力は塵のように小さくもなく、何らかの良きものに変換されません。人類の意志は神の前には、汚れでしかありません。
聖書では、人間はしばしば木として暗示されます。アカシヤ材の丸太そのものは、神がまず柱を金で覆わない限り、神の神殿の入り口の柱として立てられません。神によって与えられた救済の恵みがなければ、人々は火の裁きに直面せざるを得ない塵にすぎません。
しかしながら、神は、私たちが単なる罪人のままだったにもかかわらず、メシヤであられるイエス・キリストにバプテスマを受けさせ、血を流させて死なせることによって、私たちのすべての罪とそむきを消されました。そのような救済は、メシヤが来られる約千年前に、ダビデ王によって詳細に預言されました。「東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。主は、私たちの成り立ちを知り、私たちがちりにすぎないことを心に留めておられる」(詩篇 103:12-14)。
私たちが神の義を知る前は、人類の義が生活の基準でした。私もまた、神の賜物の救済を知らず、みことばへの信仰を持っていなかったとき、そのようだったのです。実際、私自身の義はなかったのですが、まだまともな自分だと思っていました。そこで幼少期から不正を許すことができず、とうてい対抗できない人々とさえ、喧嘩したときが何度もありました。「正しい人生を生きる」が私の座右の銘でした。このように神の前で自分自身を見ることができなかったので、自分自身の義に満たされていました。ですから、私は他人よりも良い自分だと考えて、正しく生きようと努力しました。
しかし、私のような存在は、神の義の前に単なる罪の塊にすぎませんでした。神が守るようにと命じられた613項目の律法の一項目さえも守れるような人ではありませんでした。律法を守るだけの意志があったという事実そのものが、私が罪を犯すこと以外に、完全に何もできないことを告げる神のみことばにそむいた不義だったのです。人類の義はみな、神の前で不義にすぎません。
好色と堕落の洪水に囲まれて、神とその律法を失っているこの世代はまた、罪の意識をも失っています。しかしながら、私たち人間は罪を犯すしかなく、その結果、例外なく地獄に行くしかないということを認識する必要があります。
 
 
私たちは不義で罪に満ちていたが、主が水と御霊の福音で私たちを罪からお救いくださることによって、今ご自分の民となさっておられる
 
私たちはみな不義でしたが、救済の賜物を通して、主は私たちのような存在をすべての罪からお救いくださっています。高さ 4.5m(15フィート)、幅 67.5cm(2.2フィート)と測定された、聖所の板一枚ごとは、金で覆われたアカシヤ材でできており、聖所の壁として立てられました。板一枚ごとの下に、銀の台座二個が板を支えるために置かれました。ここで銀の台座とは、神がご自分で、みなさんと私を完全にお救いくださっていることを啓示します。
イエス・キリストがこの地上に来られ、私たちの罪を負われるためにバプテスマをお受けになり、十字架で死なれることによって、私たちの罪に対する罰をお受けになり、それによって私たちを世のすべての罪とすべての罰からお救いくださったという点で、神が私たちをお救いくださっている真理とは、神の愛なのです。主がお与えくださっている救済の賜物を信じることによって、私たちは新しく生まれています。主が私たちにお与えくださっている救済の賜物とは、金のように朽ちることがないので、永遠に変わりません。
主が私たちにお与えくださっている救済とは、イエスのバプテスマと血からなり、それが私たちのすべての罪を完全にきれいに消し去っているのです。みなさんと私が、心と思いと実際の行いによって犯す、すべての罪から完全に救い出されているはずなのは、主が私たちをすべての罪からお救いくださっているからなのです。神がお与えくださっている救済の賜物を心の中で信じることによって、私たちは神の尊い聖徒になっています。幕屋の板一枚ごとを支えた二個の台座によって、神は水と御霊による救済について告げておられます。私たちが神の子どもになっているのは、100パーセント神の恵みと賜物なのだと、神はおっしゃっているのです。
私たちからイエスのバプテスマと血への信仰を除外するなら、私たちには何も残りません。私たちはみな、罪のために罰される定めにあるような存在でした。私たちは、罪から来る報酬が死であることを示す神の律法によって、確かな死の前に震えるように定められ、待ち受ける正しい火の裁きを悟って嘆くようになっていた、死すべき人間だったのです。水と御霊の福音への信仰を除外するなら、私たちには何も残らないというのは、このためです。
今、罪が浸透する時代に生きている私たちの運命は、火の裁きだけを待つという運命だったことを決して忘れてはなりません。私たちは、そのような死すべき存在だったのです。しかしながら、神が私たちに水と御霊による救済をくださっているので、神の恵みが完全に私たちに授けられています。メシヤがこの地上に来られ、ヨハネからバプテスマをお受けになり、十字架で血を流して死なれ、死人の中からよみがえられ、そうして私たちをすべての罪、すべての悪、すべての罰からお救いくださっています。この完全な水と血の福音を信じることによって、私たちは今、すべての罪から救われており、信仰をもって神に感謝するしかありません。
私たちは肉において不完全でありながら、私たちの働き手、宣教師および私は、全世界に水と御霊の福音を宣べ伝えています。この時代は、そのような堕落した時代でありながら、私たちは水と御霊の福音を信じているので、どんな邪悪さをも含まず、純粋に主に仕えることができているのです。この心をもつようになったのは、自分の力によるのではなく、主が救済の恵みをまとわせてくださることによって、聖さをお与えくださったからです。
私たちがこの救済の力をまとっているのは、主が私たちを罪と罰から完全にお救いくださっているからであり、また、私たちが純粋に主に仕えることができているのは、完全にこのためです。主が私たちを水と御霊によってすべての罪からお救いくださっているので、私たちは自分の不完全さにもかかわらず、もはや罪、欠点および罰に縛られずに、主に仕えることができるのだと、私は信じています。
 
 
私が今の私になっているのは絶対に神の恵みによる
 
ほんとうに、私たちの主の恵みがなければ、こうしたことはすべて不可能です。水と御霊の福音を全世界に広めることと、この福音に純粋に仕えることは、主の恵みがなければ、まったく不可能だったでしょう。みなさんと私が福音を守り、仕えながら生活を送ることができるのは、100%神が私たちにお与えになっている救済の恵みによるのです。
私たちは、信仰によって神の神殿の柱になり(黙示録 3:12)、神の御国の民となっているのです。主が私たちに金のような信仰をくださっているので、私たちは今、神の家に住んでいます。世が罪に浸されて溺れているこの時代、ほとんどの人々が神を忘れたり、冒瀆さえする時代に、私たちは、きよい水で洗われてきよくなり、きよい水を飲んで、純粋に主に仕えることができます――私は、この祝福にどれほど深く感謝しているかは、言葉で表わせません。
私たちの信仰は、確かにこのようなものです。私たちはどのように義とされることができたでしょう。私たちは、自分の中に何も善がないのに、どうして自分を義であると呼べるでしょう。どうしてみなさんと私のような罪深い存在が罪のない者となれたでしょう。みなさんの肉の義によって、罪のない者や義とされるのでしょうか。肉の思い、自分なりの努力、自分の行ない――こうしたものの何かが、みなさんを罪のない者や義とされるのでしょうか。水と御霊の福音への信仰がなくて、義とされたのでしょうか。青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布に啓示された神の救済への信仰がなくて、義とされたのでしょうか。メシヤによって成就され、神のみことばに啓示された水と御霊の福音による救済を信じることなしに、義とされたのでしょうか。決して、そうなることはできなかったでしょう。緋色の撚り糸だけを信じることによっては、私たちは決して義とされることがありません。
私たちの救い主であり、メシヤでもあられるイエス・キリストが、私たちの身代わりとなってすべての罪を消し去るために、ヨハネからお受けになったバプテスマによって、私たちの生涯のすべての罪を含む、世の罪をすべて背負ってくださったので、私たちは信仰によって罪のない者になっています。罪人あるいは大祭司が、旧約聖書のいけにえのささげ物の頭の上に手を置いたときに、罪を負わせたのと同様に、新約聖書の時代には、イエスがヨハネからバプテスマを授けられることによって、ご自分に移された世の罪をすべて負われたのです。イエスは、実際にバプテスマによって私たちの罪をすべて負われました(マタイ 3:15)。イエスは、ヨハネによって「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ 1:29)とあかしされました。
イエスは、バプテスマをお受けになって、私たちの救いのために、その後の生涯の三年間を生きられ、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、十字架に歩まれ、ご自分の身体を神にささげられることによって、私たちのすべての罪と罰を終わらせ、私たちに新たないのちをお与えくださっています。
イエス・キリストがローマ兵によって十字架につけられたとき、静かにご自身をささげられ、両手両足を釘づけにされたのは、ヨハネからお受けになったバプテスマによって、私たちの罪を負われたからです。イエスは十字架に掛けられ、ご自分の中にあったすべての血を流されたのです。そして、「完了した」(ヨハネ 19:30)とおっしゃって、私たちの救いを終えられたのです。
イエスがこのように死なれて、三日目に死人の中からよみがえられ、天の御国に昇天され、私たちに永遠のいのちをくださることによって、救い主となっておられます。イエスがバプテスマのヨハネから受けられたバプテスマを通して、世の罪を背負われることによって、そしてイエスの十字架、よみがえり、昇天によって、完全な救い主となっておられます。ですから聖書は、「これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です」(ヘブル 10:18)と述べているのです。
 
 

十字架の血だけへの信仰と漸進的聖化の教義は、決してあなたを罪から完全に救っていない

 
キリスト教徒は、イエスの十字架の血だけを信じることによって、罪から完全に救われることができないのだと知るべきです。人々は目と行ないで毎日罪を犯すのですから、ただ十字架の血だけを信じることによっては罪を消し去ることができません。この頃、人々の生活の中で犯されている最も蔓延した咎(罪)とは、不品行です。淫らな性行為、わいせつな行為の文化が世界に広まるにつれて、この罪が私たちの肉に深く植え付けられています。聖書は姦淫してはならないと命じますが、今日の現実は、それらを取り巻く環境のために、多くの人々が望まなくとも、この罪を犯してしまいます。
神は、だれでも情欲をいだいて女を見る者が、すでに心の中で姦淫を犯したとおっしゃいます(マタイ 5:28)。それでも、私たちの目が毎日見るものはみな露骨です。そこで、人々は毎分毎秒そのような好色の罪を犯しているのです。そのような場合、どのように彼らは悔い改めの祈りをささげることによって聖なるものとされ、神の御国に入ることができるのでしょうか。彼らはどのように義とされるのでしょう。長い間自分自身を鍛錬すると、その心が義とされ、年をとると、何らかの形で聖なるものとされるのでしょうか。性格がより柔和になるのでしょうか。より忍耐強くなるのでしょうか。もちろん違います。何が起こるかというと、真逆の事です。
支配的なキリスト教徒の教義は、「漸進的聖化の教義」です。この教義によると、キリスト教徒が長い間イエスの十字架での死を信じ、常に悔い改めの祈りをささげ、常に主に仕えると、徐々に聖なるものとなり、優しくなるというのです。その教義は、イエスを信じ始めてから時が経てば経つほど、私たちは罪とは関係がなくなり、行ないは高潔になり、死期が近づく頃には完全に聖なるものとされ、それゆえに全く罪がない者になるのだと述べています。
また、いつでも悔い改めの祈りをささげていたでしょうから、服が洗われるように、毎日罪を洗い流していたでしょう。したがって、いずれ死ぬときには完全に義とされている者として、神のもとに行くだろうと教えます。このように信じている人は大勢います。しかし、これは人間の作った考えによって生み出された仮説的な推測にすぎないのです。
ローマ人への手紙 5:19には、次のようにあります。「すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。」 この節によると、私たちはみな、ひとりの従順によって罪のない者にされるとなっています。みなさんと私ができなかったことを、イエス・キリストがご自分でこの地上に来られたときに達成なさったのです。みなさんと私が自分たちを罪から解放できなかったことをよくご存じであるイエスは、私たちに代わって罪を贖ってくださり、みなさんにも私にも、これまでできなかったことです。この地上に来られ、バプテスマをお受けになり、十字架につけられ、死人の中からよみがえられることによって、イエスはみなさんと私をすべての罪から一度で救われ、きよめてくださっています。
イエス・キリストが罪の赦しによって、ご自分の民に救済をお与えくださることができたのは、イエスご自身が神のみこころに従われたためでした。メシヤとして神のみこころに従われたイエス・キリストは、バプテスマ、十字架、よみがえりによって、救済の恵みを授けてくださっているのです。こうして救済の賜物を私たちにお与えになることによって、イエスは罪の赦しを完全に成就なさいました。そして今、主が罪からの私たちの救いを成就なさっておられるので、信仰によって、私たちはこの救済の恵みをまとっているのです。それは、私たち自身の努力によっては決して達成できないことでした。
しかしながら、ほとんどのキリスト教徒は、イエスがお受けになったバプテスマを信じず、代わりに十字架で流された血だけを信じ、自分の行ないを通して聖なるものとされようとしています。つまり、イエスはヨハネからバプテスマをお受けになったときに人類の罪を負われたにもかかわらず、人々は未だにこの真理を信じません。マタイの福音書第 3 章によると、イエスが公生活で最初になさったのは、ヨハネからバプテスマをお受けになることであったと教えています。これは、四つの福音書の著者全員によって証明された真理です。
人類の代表であり、女から生まれた者の中で最もすぐれた者であったバプテスマのヨハネから、イエスはバプテスマを授けられることによって、私たちの罪を負われましたが、それでも尚、この事実を無視し、信じない人が非常に大勢います。そのような人々は、イエスのバプテスマを信じることなくイエスを信じ、イエスが十字架で流された尊い血だけを熱心にたたえます。イエスの十字架での死に心を痛め、感情を引き立て、賛美において、ありとあらゆる大騒ぎをして叫びます。「♫血には素晴らしい力がある。♪力が、不思議な力が小羊の尊い血にはある♫」 つまり、その人たちは、自分たちの感情、活力、力に活気づけられて、神のもとに行こうとします。しかし、そうすればするほど、より偽善的になり、きよいふりをしても、実際には心の中に罪がひそかに蓄積しているのだということを認識しなければなりません。
 
 

水と御霊の福音を知ることさえなしに、どうしてイエスを救い主と信じられるのか

 
私たちは、人々が幕屋について話すのを聞くと、彼らが本当に話していることに関して、まるでわかっていないのをよく見かけます。幕屋を信じるようになると、どうして自分の都合がよく、適切だと思う方法で、ただ信じることができるのでしょうか。主が成就なさっている罪からの救済は、非常に高度なものですから、成就された私たちの救いがどれほど高度で具体的なものであったかを、神は私たちに悟らせるようになさいました。
幕屋を通して、主が水と血である青色と緋色の撚り糸によって、私たちをお救いくださっていることを悟らせるようにもなさいました。私たちの罪を消し去るために、主が「ただ水によってだけでなく、水と血とによって」(Ⅰヨハネ 5:6)来られたことを悟るようになります。私たちが信じている水と血と御霊は、一つです。神が私たちをお救いくださっているのは、人として来られ、バプテスマのヨハネからバプテスマを授けられ、死なれ、死人の中からよみがえられることによるのです。
幕屋を通して、私たちはこの救済の詳細な肖像を発見し、信じることができています。私たちは、板一枚ごとの二つのほぞと銀の台座二個を調べることによって、イエスが私たちを罪からお救いくださっている方法を悟るようになりました。青色、紫色、緋色の撚り糸に啓示されたイエスのみわざを確かに信じなければならない真理を、私たちはこのようにして見つけたのです。
聖書を除いては、どこにも救済の源を見つけることができません。私たちには、バプテスマと十字架のこれら二つの要素でできている救済の賜物が必要です。この真理を信じる人々は、神によって生まれた者になることができます。水と御霊によって私たちを罪から救い出されることによって、神は私たちの救いを完全に成就なさっています。
つまり、二つのほぞは、板一枚ごとの下に作られ、銀の台座二個に、はめ込まれました。この真理は、私たちと罪の赦しのために絶対に必要とされ、極めて重要です。何よりも重要なのは、私たちが青色、紫色、緋色の撚り糸の真理を信じないなら、決して救われることがないので、神が私たちのために完了なさった救済を信じることです。
聖なる幕屋の板一枚ごとがまっすぐ立つために、銀の台座二個が必要とされたように、イエス・キリストを信じるようになると、神の恵みの二つの真理が絶対に必要とされるのです。それらとは何でしょう。それらとは、イエスがバプテスマをお受けになって私たちの罪を負われ、そうした罪を十字架まで運ばれ、十字架につけられることによって、私たちの罪の罰と呪いをすべて受けられたというものです。義人とされる人は誰でも、完全な救済のこれら二つの恵みを心から信じるときにのみ、そうされるのです。救済の賜物の二つの要点である、イエスのバプテスマと十字架の血への信仰が、私たちを神の家に堅く立たせるのです。二つのほぞが銀の台座二個に、はめ込まれたので、板一枚ごとはまっすぐに立つことができました。
このように、私たちが神のほんとうの潔白な民にされるのは、救済の二つの要点を信じる正しい信仰によるのです。イエスがくださった水と血の福音を信じることによって、私たちは永遠に変わらない金のような信仰を受けます。青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布に啓示された、この水と御霊の福音を信じることによって、私たちは罪の完全な赦しの救済を受けている聖徒となるのです。
 
 
これまでの神学と、水と御霊の福音の時代
 
原始教会の時代を除いて、西暦313 年のミラノ勅令以後に、キリスト教は今日のキリスト教を含め、イエスのバプテスマを省く十字架の福音を広めてきました。原始教会の時代からキリスト教を新しいローマ宗教としてキリスト教を合法化した 313 年まで、キリスト教は水と御霊の福音を宣べ伝えていましたが、その後にローマカトリック教会が宗教背景を支配するようになりました。そして14世紀初頭から、人の作った考えを中心に、人間性の復権を求める文化が、最初に北イタリアの一部の豊かな都市国家の間で出現し始めました。これがルネサンスです。
16世紀までに、イタリアで始まったこの文化の底流は、西欧諸国全体に広がり始め、人文主義的な人工哲学を学んだ学者たちは、神学を研究し始めました。彼らは、自分の頭で聖書を解釈して、キリスト教教義を築き始めました。しかし、真理を知らなかったために、聖書を健全に全体的に理解できませんでした。そこで、彼らが自分の頭で理解できなかったことを、世俗的な知識と思考とを組み込むことによって乗り越え、こうして独自のキリスト教教義を生み出したのです。
その結果、無数のキリスト教教義や神学がキリスト教の歴史に生じました――ルター主義、カルバン主義、アルミニウス主義、新神学、保守主義、合理主義、批判神学、神秘神学、自由主義神学、フェミニスト神学、黒人神学、果ては無神論的神学などがあります。
キリスト教の歴史は、ずいぶん長いと思われるかもしれませんが、実際はそれほど長くはありません。原始教会の時代以来300年間、人々は聖書について学ぶことができましたが、この後すぐに、キリスト教の暗黒時代である中世が続きました。この時代の間中、平信徒にとって、聖書そのものを読むことは、断首刑によって処罰されるべき犯罪でした。神学の風が吹き始めたのは、1700 年代までではなく、その神学が活発に溢れて拡大したとき、キリスト教は1800年代と1900年代に栄えているように見えました。しかし今、多くの人々は、神秘的教義に陥り、独自の個人的な経験に基づいて神を信じています。しかし、その神学の多様性にもかかわらず、キリスト教のすべての分派によると、信仰の一つの共通の特徴というのは、イエスの血だけを信じているということです。
しかし、これは真理なのでしょうか。みなさんがこのように信じたとき、みなさんの罪は実際に消えたのでしょうか。みなさんは毎日罪を犯します。毎日、心、考え、行ない、欠点で、罪を犯します。では、みなさんはイエスが十字架で流された血だけをただ信じることによって、そうした罪を贖われることができるのでしょうか。イエスがバプテスマをお受けになることによって、私たちの罪を背負われ、十字架で死なれたのは、聖書的な真理なのです。しかし、十字架の血だけを信じ、毎日悔い改めの祈りをささげることによって、罪が贖われていると言う人々が非常に大勢います。みなさんの心の罪と良心が、そのような悔い改めの祈りをささげることによって、きよめられたのでしょうか。これは不可能です。
もし、みなさんがキリスト教徒であるなら、みなさんは今、イエス・キリストがこの地上に来られ、ヨハネからバプテスマをお受けになることによって、世の罪を負われたという、この真理の救済を知り、信じなければなりません。これにもかかわらず、みなさんはまだこの真理を無視し、知ろうとも信じようともしないのでしょうか。そうだとしたら、イエスを嘲り、イエスの御名を卑しめ見下すという罪を犯しており、ほんとうにイエスを救い主として信じていると言うことはできません。イエス・キリストによって成就された、この救済からイエスのバプテスマを省いて、みなさんが好きな方法でイエスを信じることによっては、決して救済の恵みをまとうことができません。
それにもかかわらず、多くのキリスト教徒は、イエスが私たちの罪を消し去られているという真理をありのままに信じず、それどころか、自分自身の考えに従って、信じたいと思う曲がった真理は何でも信じます。現代では、そうした人々の心は誤った教義的な信仰によってますます頑なになり、彼らの罪は、ただ十字架の血だけを信じることによって消されることができるのだと信じています。
しかし、神によってご計画された救済の答えは、次のとおりです。イエスのバプテスマ、イエスの十字架での死、イエスのよみがえりを信じることによって、私たちは永遠に罪の赦しを受けることができるのです。それにもかかわらず、この救済の真理からイエスのバプテスマを除外し、次のような方程式を不変の法則だと誤解し、誤って信じることによって、イエスを信じる無数の人々が増加しています。「イエス(十字架と復活) + 悔い改めの祈り + 高潔な行ない = 漸進的聖化を通して受けた救済。」 このように信じる人々は、罪の赦しを受けたと口先で言っているだけなのです。しかしながら、真実は、彼らの心が実際に、まだ未解決のままで残っている罪の堆積に満たされているということです。
みなさんは、まだ心に罪がありますか。今イエスを信じていても心に罪があるなら、明らかに、みなさんの信仰に関連する重大な問題があるのです。みなさんの良心がきよくなく、罪があるのは、イエスを単なる宗教の問題として信じているからです。しかしながら、みなさんの心にまだ罪が残っていることを認識できるという事実こそが、それ自体、極めて幸運なことなのです。なぜでしょうか。罪があるとほんとうに認識している者は、この罪のために地獄に定められることを避けられないと認めるため、彼らがそうすると、彼らはついに心の貧しい者になることができ、それによって真の救済のみことばを聞くことができるのです。
みなさんが神から罪の赦しを受けたいのなら、その心が準備されなければなりません。神の前に心の用意ができている人々は、「神様、罪の赦しを受けたいのです。長い間イエスを信じてきましたが、まだ罪があります。罪から来る報酬は死ですから、私は地獄に投げ込まれるしかないのです」と認めます。このように、そうした人は、自分自身を神の前に全体的に罪深いのだと認めます。神のみことばを認める者、神のみことばが告げるとおりに確かに成就されると信じる者――彼らは、心が用意された人たちに他なりません。
神は、そのような魂に例外なく会ってくださいます。そのような人々は、神のみことばを聞き、自分の目でみことばを見て、確かめ、そして、そうすることから、「ああ、私は間違って信じていたのだ。それに、無数の人々が今、間違って信じているのだ」と悟るようになります。そして、水と御霊の福音を信じることによって、他の人が何を言おうと、罪の赦しを受けるのです。
 
 

すべての罪から救われている者は、水と御霊の福音を信じて信仰を守らなければならない

 
しかしながら、この世は、新しく生まれた者の心さえ動揺させ、汚すことのできる邪悪な教義が無数に満ちています。主イエスは、私たちに警告なさいました。「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに十分気をつけなさい」(マルコ 8:15)。しかし、そのようなパン種の教えがどれほど多くあるかを数えることもできず、ただ一度聞くだけでも人々の心を汚すのです。私たちは、この世がどれほど不品行の中で揺れているかを認識しなければなりません。
信じる私たちは、自分たちが今生きている時代がどのようなものであるかを正確に知り、信仰を守らなければなりません。しかし、このような罪深い世の中に生きているにもかかわらず、心の中には、主が私たちを罪から救ってくださっているのだという揺るがぬ真理があります。私たちの不変の救済を証言するあかしのみことばが、水と御霊の福音なのです。世に動揺することも、世に引きずり込まれもしない真理への信仰を持たなければなりません。
この世からのすべてのものは、真理ではありません。義人は世に打ち勝つと、神はおっしゃいました。義人が悪魔に打ち勝ち、世に勝利するのは、不変の真理の福音への信仰によるのです。不完全な存在であるにもかかわらず、私たちの心、思い、身体は、まだ神の家にあり、信仰をもって救済の福音の上に堅く立っているのです。私たちは、主がお救いくださっていることによる水と血の福音の上に堅く立っています。
このため、私たちは神に深く感謝しています。この世でどのような罪にあふれていても、少なくとも私たち義人には、ほんとうに心の中で金のように輝く、潔白な良心と信仰があります。私たち義人はみな、この信仰によって世に打ち勝つ生活を送るでしょう。主の再臨の日まで、主の御国にいると同時に、私たちみながこの信仰をたたえるでしょう。私たちは、お救いくださった主を永遠にたたえ、この信仰をお与えくださった私たちの神をたたえます。
神の前に私たちとともにあった、この裏表のない信仰が岩の上に建てられているのですから、いかなる状況下でも揺らぎません。ですから、この地上で生きている時に何が私たちに起こっても、私たちは主の前に立つ日まで信仰によって心を守ります。たとえこの世のすべてが破壊されるとしても、この世が罪に溺れても、この世がかつてのソドムとゴモラより悪くなっても、私たちはこの世に従わず、慎んで神を信じ、神の義を求め、神の真の恵みである、救済のこれら二つの恵み(イエスのバプテスマと十字架での死)を広めるわざをやり続けるのです。
 
 
真の福音を信じるふりをする者
 
実際には水と御霊の福音を信じていないのに、まだ青色、紫色、緋色の撚り糸の真理を信じているふりをする人々もいます。しかし、そのような人々は水と御霊の福音を心から信じていないため、心に罪があることがわかります。彼らは、その仲間から借りていた斧の頭を水の中に落としてしまった人のようです(Ⅱ列王記 6:5)。
同じような方法で、必要に応じて、ほんの少しの間、水と御霊の福音を利用する人たちもいます。しかし、この水と御霊の福音が真理であると信じることなしには、宣べ伝えたり交わりを持つときに真の信仰をもって語ることができません。真理への信仰のない人々は、悲劇的に途中で信仰生活を放棄してしまうのです。しかし、水と御霊の福音の真理は変わらず、この水と御霊の福音を信じなければならないのは、このためです。
しかし、何人かの人々は、「祭司職が変われば、律法も必ず変わらなければなりません」と記されている、へブル人への手紙 7:12 を引用して、「律法も変わっている。だから、イエスが成就なさった救済は、旧約聖書にある同じ方法によって本当に成就されたわけではなかったのだ。イエス・キリストが来られ、修正された方法である、ただ十字架で死なれることによって、我々を救われたのだ」と主張します。また、「神が我々の罪を御子に移されたのは、イエスが十字架で死なれた時だったように思われますよ」と主張する人もいます。
しかし、そのような主張はみな、不完全であり、根拠がありません。「では、これは神が罪のなかったイエスを十字架につけられて、そうして初めて世の罪をイエスの上に移されたということなのですか」と尋ねることによって、こうした主張に容易に反論できるのです。私たちが神のみことばを信じるとき、自分自身の考えを主張するのではなく、ありのままに信じなければなりません。私たち自身の論点をもつことはあっても、聖書がそうした論点を誤りであると教えているなら、私たち自身の義を取り除いて、神のみことばを信じる必要があります。
時間が経つほど、感謝し、貴重であるのは、主が水と御霊の福音でお救いくださっているという事実です。私たちが自分自身の考えに照らして信じたとき、信仰生活は危険であり、教会から離れて倒れてしまいそうになる時があります。しかし、二つのほぞが銀の台座二個に、はめ込まれることによって幕屋の板一枚ごとを支えたのと同様に、イエスがバプテスマをお受けになって私たちの罪を負われ、血を流されたという、イエスの真理への信仰は、私たちを堅く支えてくれるのです。私たちの主は、ヨハネからバプテスマをお受けになって、十字架につけられて血を流され、罰をお受けになることによって、私たちをすべての罪からお救いくださっています。ですから、私たちの信仰は永遠に揺らぐことがありません。
箴言 25:4には、次のようにあります。「銀から、かなかすを除け。そうすれば、練られて良い器ができる。」 この聖句のように、人類の罪のそうした汚れたものによって、肉の考えに多くの不道徳で邪悪で堕落したものが浮上するにもかかわらず、イエスはバプテスマと血で、私たちをきよめておられ、神の義の働き手としてくださっています。主は、私たちを世の罪からきよめてくださっています。ヨハネからバプテスマをお受けになり、それによって私たちの罪をただ一度で受け入れられ、そして十字架につけられて血を流され、私たちの罪の罰をすべてお受けになることによって、イエスは私たちを世の罪からきれいにお救いくださっています。
ですから、水と御霊の福音を信じる者は、永遠の救済を保証されているのです。私たちの振る舞いは、時に心配しがちに見えますが、銀の台座がその二つのほぞに固定されることによって板一枚ごとを支えたのと同様に、水と御霊の福音が私たちの信仰を堅く支えてくれます。
 
 
私たちを支える永遠の救済の恵み
 
さて、一緒に幕屋の板をまとめる横木に、目を向けましょう。出エジプト記 26:26-27には、次のようにあります。「アカシヤ材で横木を作る。すなわち、幕屋の一方の側の板のために五本、幕屋の他の側の板のために横木五本、幕屋のうしろ、すなわち西側の板のために横木五本を作る。」 幕屋の全体的な形は長方形でした。柱は、天幕の入り口に置かれており、至聖所の垂れ幕のためのものであり、残りは板でできていました。これらの板は、横木五本でまとめられていました。
これらの横木をまとめるために、板一枚ごとに金の環が四個つけられていました。アカシヤ材でできた横木そのものはまた、金で覆われていました。横木五本は、幕屋の北側、南側、西側の三方の板につけられました。板が金の環を通した横木によってまとめられていたので、それらの板は固定されました。ですから、それらの板の下は銀の台座で支えられ、側面は横木五本で一緒にまとめられ、板はしっかりと立って固定されていました。
そして、48枚の板が横木五本でまとめられ、互いに支え合っていたように、神の民もまた、水と御霊の福音によって神と一緒に結ばれています。神の教会は、水と御霊の救済の賜物を受けている者が集まって、信仰生活を送る場所です。イエスはペテロに、教会を岩の上に立てよう(マタイ 16:18-19)とおっしゃいました。ですから、罪の赦しを受けている者の集まりによって、神の御国が形成される場所が、神の教会なのです。神は、青色、紫色、緋色の撚り糸に啓示されたイエスのみわざによって、私たちを世の罪から完全にお救いくださっていることを示しておられます。
出エジプト記 26:28には、次のようにあります。「板の中間にある中央横木は、端から端まで通るようにする。」 この中央横木は、一面の板すべてを一度に結合するのに十分な長さで作られました。では、板の中間にある中央横木が、端から端まで通るようにするというのは、どういう意味なのでしょう。それは、義人が互いに団結し、その信仰が互いに親しく交わることを意味します。つまり、主がお与えくださった水と御霊の福音を通して成就された救済を信じることによって、彼らは信仰のうちに互いに親しく交わることができます。義人は信仰によって真摯に向き合うことができるのです。私たちが仲間の聖徒や宣教師に会って交わりをもつときに、実際にこの心の交わりを感じられるのは、このためです。
 
 
「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ」
 
エペソ人への手紙 4:3-7に目を向けましょう。「平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。しかし、私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。」 使徒パウロは、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさいと告げました。イエスのバプテスマと十字架――これら二つでできている救済の賜物を受けるとき、平和が心に入ってきます。私たちが罪の赦しを自分の心に受けると、キリストのうちにある一つの家族になります。つまり、一つの体になるのです。
「主は一つ。」 私たちをお救いくださっているイエス・キリストは一つです。「信仰は一つ。」 みなさんは、何を信じていますか。青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布に啓示されたイエスの水と血、御霊の救済を信じています。「バプテスマは一つ。」 使徒パウロは、もう一度イエスのバプテスマを強調しています。ここでは十字架を指していたのではなく、すべての信者を無条件にきよめたイエスのバプテスマを強く主張していたのです。私たちにとってイエスのバプテスマを信じることは、バプテスマを受けてキリストにつく者とされ、キリストをその身に着たということです(ガラテヤ 3:27)。「神は一つ。」 神は唯一です。この神は、ひとり子を遣わされることによって、私たちをお救いくださっています。
こうしたことはみな、水と血と御霊への一つの信仰を指しています(Ⅰヨハネ 5:8)。私たちの心がお互いに交わることができるのは、水と御霊の福音への信仰をもつときです。罪の赦しを受けている者は、真摯に向かい合うことができます。何回か、お互いを完全に理解できないことはあるでしょう。しかし、板の中間にある中央横木が、端から端まで通るようにしていたように、本当に心の底に罪の赦しを受けているのなら、彼らはみな互いに親しく交わりをもつことができます。「この兄弟も罪から救われているけど、肉は弱くて、心には肉欲の名残がたくさんあるのだ。みんなと同じように、この人も、悪を行なう者の子孫だけど、主はそれでも水と御霊の福音で、この人の罪を贖っておられるのだ。」 このように、互いを理解するようになり、主をたたえます。
人々がどんなに不完全であろうとも、罪の赦しを受けて教会にとどまるなら、顔色がパッと明るくなり、考えは輝き、心もまた晴れやかになります。そして、互いに親しく交わりをもつことができるようになるのです。義人は互いに真摯に向き合うことができます。何がこういうことを可能にしているのでしょう。信仰がそのことを可能にするのです。彼らが真摯に向かい合うのは、それ以外の状態によるのではなく、信仰によるのです。では、他の人と親しい交わりをもつことができないのは、どう説明できるでしょう。私たちがキリストのうちにいない人々と心を分かち合うことができないのは、彼らが心の中に真理、水と御霊の福音を信じていないからです。この水と御霊の福音を信じない人々は、私たちとまったく親しい交わりをもつことができません。
兄弟姉妹のみなさん、神の教会とは正確には何のことでしょう。それは、聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた人々の集まりです(Ⅰコリント 1:2)。イエス・キリストがバプテスマをお受けになって罪を洗い流してくださり、そうした罪を背負われ、十字架で罰を受けられることによってお救いくださり、死人の中からよみがえられて救い主となられたという、真理を信じる者の集まりです。神の教会とは、水と御霊の福音を信じることによって、一つになっている人々の集まりに他なりません。
私たちが教会にいるときに真摯に互いに向かい合うことができるのは、この信仰が私の心とみなさんの心の両方にあるからです。神が私たちをご覧になるとき、その外観をご覧にならずに心の底をご覧になるのと同様に、罪の赦しを受けている私たちもまた、外観を見ず、互いの信仰の中心を見て、交わりをもちます。「この人は、本当に心に真理を信じているだろうか。」 ――私たちは、このことを求めるのです。どんなに性格が異なっていようと、その人が「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ……すべてのものの父なる神は一つ」を信じている限り、まったく問題になりません。
私たちは信じているので、私たちは幕屋の柱と板になっており、そして信じているので、神の家族になっているのです。みなさんは、水と御霊の福音を信じているでしょうか。純金(信仰)が神の家で輝くのと全く同じように、全世界を通じて救済の光を広めているのは、私たちが信じているからです。私たちが、最近になって罪の赦しを受けたばかりの人々と心を分かち合うことができるのは、聖霊がその人の心のうちにも宿っておられるからです。私たちが罪の赦しを受けてさえいれば、私たちはみな互いに親しい交わりをもつことができますが、罪の赦しを受けていなければ、お互いに親しい交わりをもつことができません。外観に基づいて人々を差別する罪人は、異なって、お互いを容姿、富、名声といった表面的なものに基づいて扱うのですが、私たち義人は、全くこのことを心の中でしません。義人には差別がありません。
人々がまず罪の赦しを受けると、私はよく彼らに尋ねます。「あなたは、本当に罪の赦しを受けていますか。まだ罪がありますか、それとも、罪がすべて消されていますか。ところで、あなたは聖書について多くの謎があるでしょうね。信仰生活を続けていくうちに、ゆくゆくはそうしたことを尋ねてください。それに、あなたの欠点が明らかになるでしょう。また、途中で欠点が明らかにされ、おそらく何らかの間違いをすることもあるでしょう。でも、すべてうまくいくように、教会の指導者や先輩たちが助けてくれますよ。」 
兄弟姉妹のみなさん、私たち義人には教会が必要です。幕屋もまた、神の教会を意味します。水と血を信じない人々は、神の教会に来て、そこに住むことができません。青色、紫色、緋色の撚り糸に啓示された水と御霊の福音を信じない人々は、教会に来て、住むことができません。真理を信じる者だけが、教会に住み、神の民と働き手になり、神の栄光も見るのです。人々が神の子どもとなれるのは、血だけ、あるいは肉の何らかの能力によるものではありません。一部の牧師がどんなに権威があろうとも、水と御霊の福音を信じていないのなら、その人は神の子どもではありません。
 
 

水と血とによって来られたイエスが私たちを完全にお救いくださっている

 
主がこの地上に来られたときになさったことは、誕生、バプテスマ、流血、よみがえりであると要約できます。こうしたことはみな、罪の赦しのみわざです。イエスは、青色、紫色、緋色の撚り糸のみわざにより、ご自分の使命を成し遂げておられます。幕屋に啓示された青色、紫色、緋色の撚り糸は、罪からの私たちの救いのためのものでした。私たちが自分のやり方で神を信じるべきではないほどに、神の救済は非常に綿密なものです。私たちは、神の救済をありのままに信じる必要があります。
私たちの信仰は、イエスのバプテスマと十字架での血という、救済の二つの真理と正しく一致しているべきです。二つのほぞが銀の台座二個の穴に正確に、はめ込まれていたのは、このためです。イエスが私たちにお与えくださった真理を、世の知識の一つに過ぎないものとみなして、そのようなものとして信じることはできません。みなさんと私は、銀の台座二個に啓示されたイエスの救済のみわざを信じることによって、神の前で罪から救われている者です。
幕屋はイエスの救済の詳細な方法を教えており、この救済は実際に、すでに私たちのために成就されているのです。神がみなさんにお与えになっている救済の二つの賜物を信じてください。幕屋に用いられた金は、信仰を暗示します。みなさんが真理をありのままに信じるなら、救済と主の栄光はみなさんのものになる可能性がありますが、信じなければ、みなさんのものになりません。みなさんは、信仰によって幕屋の中に住み、神の栄光に包まれ、主に守られたいですか、それとも、信じないままで、永遠に呪われたいですか。十字架の血だけを信じるのなら、救われることができません。十字架の血とバプテスマが一つであると信じなければなりません。主の賜物は、これら二つでできているのです。
私たちがこれら二つの要素(イエスのバプテスマと流血)の両方を信じるときにのみ、神の御霊が私たちの心に宿るのです。聖霊は、これら二つを信じない者の心には決して宿りません。口先だけで信仰を告白しても心の中に信じていないのなら、ならびに、知識が単なる知的訓練にすぎないのなら、決して救われることがありません。救われるためには、まず明確な境界線を引き、救いの境界線を定めなければなりません。「これまで、私は救われていなかった。私が信じていた救いは、本物ではなかった。でも、水と血とによって来られたイエスを信じることによって、今は救われている。」 人々は少なくとも一度、まず罪人になるときにはじめて、義人となることができます。救われていない者として、罪のために罰される定めにあると認め、それから水と御霊の福音を信じることによって、完全に救われた者とならなければなりません。
イエスのバプテスマと血である、青色と緋色の撚り糸によって、私たちは自分たちの完全な救済を受けなければなりません。イエスのバプテスマと血とによって、主は完全な救済の賜物を私たちにお与えくださっています。自分自身の考えに基づいて信じるのを防ぐために、主は幕屋も通して、この救済を詳細に啓示なさったのです。この救済は非常に貴重で完全なので、すべての人にとって信じる価値があります。主の救済のただ一つの解釈、十字架の血だけを信じるのではなく、イエスのバプテスマと血の両方を一度にそろって信じてください。私たちの中にまだ救われていない人がいるのなら、今にでもこの真理を信じることによって救われることが、私の心からの願いです。
まだイエスの血だけを信じる人がおられますか。そのような不十分な福音をまだ信じているキリスト教徒が非常に大勢います。しかし、私の願いは、そのような間違った信仰が、再び私たちの心のいずれかに決して入り込むことがないということです。私は、どんなことが起こっても、救われていない者の群衆に属することができません。私たちは、これら二つのもの(青色と緋色の撚り糸)――すなわち、イエスのバプテスマと血とを信じることによって、完全に救われている者です。主が私をお救いくださっていることによる、救済のこれら二つの賜物を、神に感謝いたします。神が私の救いを完全に成就なさっておられるので、私はすでに呪いと裁きからも解放されているのです。
ほんとうに、青色と緋色の撚り糸から起こる、私たちの救いは、あらゆる言葉を超える貴重なものなのです。みなさんの救いは、ただ十字架の血によるのではなく、イエスのバプテスマだけによるのでもなく、バプテスマと十字架の血との両方によって完全とされているのであり、みなさんが神の子どもになることができるのは、これら二つを信じることによるのだということを忘れず、信じてください。幕屋の板の銀の台座二個と二つのほぞに隠された奥義、水と御霊の福音のみことばを信じることによって、私たちは永遠のいのちを受けています。
私たちを世の罪からお救いくださっている主に、すべての感謝をささげます。ハレルヤ!