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Khotbah-Khotbah

主題 11: 幕屋

[11-8] 幕屋の庭の門の色 (出エジプト記 27:9-19)

幕屋の庭の門の色
(出エジプト記 27:9-19)
「幕屋の庭を造る。南側に面して、庭の掛け幕を、その側のための長さ百キュビトの撚り糸で織った亜麻布を、張る。柱は二十本、その二十個の台座は青銅で、柱の鉤と帯輪は銀とする。同じように、北に面して、その長さで、長さ百キュビトの掛け幕とする。柱は二十本、その二十個の台座は青銅で、柱の鉤と帯輪は銀とする。また、西に面して庭の幅には五十キュビトの掛け幕、その柱十本、その台座十個とする。前面の東に面する庭の幅も五十キュビト。片側に寄せて、十五キュビトの掛け幕と、その三本の柱、その三個の台座とする。他の片側にも十五キュビトの掛け幕と、その三本の柱、その三個の台座とする。庭の門には、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を使った長さ二十キュビトの刺繍した幕と、その四本の柱、その四個の台座とする。庭の周囲の柱はみな、銀の帯輪を巻きつけ、その鉤は銀、台座は青銅とする。この庭は、長さ百キュビト、幅は五十キュビトに五十キュビト、高さ五キュビト、幕は撚り糸で織った亜麻布、その台座は青銅とする。幕屋の奉仕に用いるすべての用具、すべての釘、庭のすべての釘は青銅とする。」
 
 
庭の門
新しく生まれている者の信仰と名前だけのキリスト教徒の信仰との間には明確な違いがあります。前者は、神が私たちのすべての罪を消し去ったことを知り、信じています。後者は、単に宗教的慣習として、自分の考えに基づいてイエスを信じています。しかし、本物の真理を宣べ伝えている人々が、誤った教えを広めて繁栄している、こうした間違った信仰を持つ人々を見て、落胆さえするほどに、宗教的な問題としてのみ神を信じる人々は非常に盛んになっています。彼らは、非常に多くのキリスト教徒がそのような欺きと不正の偽りの宗教に引き込まれていることを明確に知っているので落胆しています。
私もしばらくこれにがっかりしました。真理に出会って、ほんとうに新しく生まれ、神のみわざの器として用いてくださった神に心から感謝し、神の真理が広く行き渡ることを願っていたので、私は彼らの宗教生活が嘘にだまされているのを見た時、深く悲しまざるを得ませんでした。
それにもかかわらず、聖霊が私の心におられること、そして私の欠点にもかかわらず、私の心には罪がないことは明らかです。ですから、私の心には感謝の気持ちがあり、自分の信じている福音を恥じることはありません。私がこの福音を世界中の人々に宣べ伝えるとき、この真理のみことばを聞いて信じるなら、彼らも神と人々との両方の前で恥じることはありません。彼らがこの真理を信じると、彼らはみな本当に神の子どもになるからです。
みなさんも確かに信仰によって同じ祝福を受けることができます。みなさんは神学を勉強していないにもかかわらず、この水と御霊の福音の真理をただ信じるなら、みなさんは罪の赦しを受け、神の子どもとなり、聖霊を心に受けます。そして聖霊によって、みなさんは神のしもべとともに歩むこともできます。これは明らかな真理であり、こうして信じることが真の信仰なのです。
私は偽りに満ちた世界に住んでいますが、この真の信仰が私の心にあるので、この瞬間まで真理の福音を宣べ伝え続けることができています。幕屋の主題についてのみことばを宣べ伝え始めてから、私は偽り者の計画について、もっとはっきりと知るようになり、こうして真理を見分けるようになりました。この幕屋の真理をあかししているのは、このためです。幕屋を通して本物の真理の宣教によって、人々が真理と偽りを見分けることができるということは、私に大きな喜びをもたらします。
この幕屋に関する本を書いているときに、私にとって最も難しい課題はその用語に対処しようとすることでした。幕屋に関連する難しい用語集が誤った情報を伝えないように、また、読者が誤って解釈しないようにするために、私は原本を調べて、この問題にかなり注意を払いました。幕屋についての私自身の理解と知識にもかかわらず、幕屋の様式とその隠された霊的な意味は、知識が非常に限られている人々に説明されなければならなかったので、幕屋の重要性をどれほど正確かつ完全に説明できるのかわからず、その仕事について少し心配しました。
もちろん、人々が最初にそれを聞いてすぐに理解し、信じることができれば素晴らしいでしょう。しかし、ローマは一日で建てられませんでした。同様に、すべての問題のように、真理と真の信仰の宣教も一日で成し遂げられるのではなく、少しずつ核心を深く掘り下げていくうちに、徐々に達成されていきます。そのため、最初から深く掘りすぎると、誰もがそれを理解できるわけではないため、特に心配しました。これは、この本を書くときに直面した最も手に負えそうもない課題の一つでした。
それにもかかわらず、神の助けを借りて、本はついに大した問題もなく出版されました。言うまでもなく、私はとても幸せであり、感謝しています。この本を通して、そして真理を偽りから区別することによって、私は、水と御霊の福音の今日の信者たちがいかに貴重で、明確で、そして疑う余地のないほど救われているか、そして対照的に、この水と御霊の福音以外の他の福音の信者の信仰は、宗教的で無益であるということを明らかにします。それゆえ、私は何よりも、私を罪からお救いくださった神に感謝しています。
今日、多くのいわゆる福音主義者がいます。彼らはイエスを信じているからといって罪のない者であると無条件に主張しています。彼らの心はあらゆる根拠のない、妄想的な信仰で満たされています。幕屋を研究していると、彼らの信仰がいかに無益であり、偽りであるかをさらにはっきりと認識するようになりました。この認識のおかげで、私の救いに心から神にさらに感謝します。
 
 
幕屋の庭の門と囲い
 
幕屋の庭の柱
今日の聖句から、幕屋の長方形の庭の長さは45mであり、その幅は22.5m(75フィート)でした。キュビトは0.45m(1.5フィート)に等しい長さの単位です。幕屋の庭は、四方を60枚の柱で囲まれていたので、それぞれの柱の高さは2.25m(7.5フィート)でした。その東側には門があり、幅9mの長さでした。囲い全体の残り(約135m(123ヤード)のうち、約126m(115ヤード))が、白亜麻布の掛け幕に囲まれていました。
幕屋の庭の門は、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布で刺繍されており、それは幅9 m、高さ2.25 m(7.5フィート)でした。つまり、これらの四本の異なる撚り糸は、幅9 m(30フィート)、高さ2.25 m(7.5フィート)の垂れ幕を作るために刺繍されました。青色の撚り糸はまず全長と幅で白亜麻布に刺繍され、次に紫色の撚り糸を2.25 mの高さで刺繍し、次に緋色の撚り糸を2.25 m (7.5フィート)の高さで刺繍し、続いて高さ2.25 m(7.5フィート)の、カーペットのように刺繍された厚くて丈夫な垂れ幕を作って、白い撚り糸を刺繍しました。このようにして、高さ2.25 m(7.5フィート)、幅9 m(30フィート)の長さに刺繍された垂れ幕が、幕屋の庭の東に四本の柱に掛けました。
そのように、幕屋の庭に入るには、カーペットのような垂れ幕を引き上げなければなりませんでした。他のほとんどの門とは異なり、幕屋の門は木製ではありませんでした。その柱は木製でしたが、こうした柱に掛けられていた門は、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布で刺繍された垂れ幕でした。
以前、ツアーでサーカスを見に行って、テントがどのように建てられているかを見たことがあるでしょう。その入口は通常、厚い生地でできていました。幕屋の庭の門は、このような入口に似たところがありました。分厚い生地でできていたように、入るためには固いドアのように押したり引いたりはせず、代わりに引き上げられました。これは、幕屋の庭の門だけでなく、幕屋の聖所と至聖所の門もそうでした。
なぜ神はイスラエル人に、幕屋の庭、聖所、そして至聖所の三つの門すべてを、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布で刺繍するようにおっしゃったのでしょう。このご命令の背後に神のみこころが何であったかを明確に見つける必要があります。ヘブル人への手紙は、旧約聖書の良いものはすべて、後に来るすばらしいものの、すなわちイエス・キリストの影であることを教えています(ヘブル 10:1)。
同様に、幕屋の庭の門は、イエス・キリストのバプテスマ、十字架での死、イエスご自身の神性に精密に関連しています。そのように、旧約聖書を理解に苦労しているときは、新約聖書を見ることによって、この理解に達することができます。実体を見ることなしには、影を把握することは難しいですが、影を映している物または人を見ると、それがどういうことであるかがわかるのです。神が旧約聖書から罪人の救い主として備えてくだっている救い主が誰であり、その方を幕屋の実体として知り、そのみわざが私たちをすべての罪から救っているのだと、明確に認識しなければなりません。
では、罪人の救い主になっておられる方、幕屋の本物の実体とは誰でしょう。それはイエス・キリストにほかなりません。救い主イエス・キリストがどのようにこの地上に来られ、どのようにして私たちを罪からお救いくださっておられるかを調べると、青色、紫色、緋色の撚り糸によって罪人をお救いくださっているという確かな真理を見つけ出すことができます。
イエスによる罪人の救済を理解する上で、幕屋の庭の門の色に現われた真理を知り、信じることが最も重要です。幕屋を掘り下げるとき、私たちがまず認識すべきことは、その庭の門が四本の撚り糸でできていたことです。そして、この門の奥義を解き明かすと、イエス・キリストのすべてのみわざをしっかりと理解することができるようになります。こうした四本の撚り糸で刺繍された門の垂れ幕を見ることによって、イエスをどのように知り、信じなければならないか、そしてどのような信仰が間違った信仰であるかを正確に理解することもできます。
幕屋の外庭は、実際に羊の囲いを思い出させます。私たちのメシヤであられるイエスは、実際には神の羊の囲いの門であり、また良き羊飼いにもなっておられます(ヨハネ 10:1-15)。庭の囲んでいる柱について考えると、羊の門あるいは、新しく生まれた聖徒たちである羊の良き羊飼いとなっておられるメシヤを思い出させます。
羊飼いは羊を守るために羊飼いの周りに実際に支柱を立て、そこに入口を作って、この入口を通して羊飼いは羊を守っています。この入口を通して、羊飼いは自分の羊と親しい交わりを持ち、こうした羊を守っています。実際のところ、彼の羊ではないすべての動物は、この入口を通って入ることができません。羊飼いは羊と狼を区別します。羊が羊飼いを必要とするのは、このためです。
しかし、こうした羊の中には、羊飼いによって導かれることを拒否している羊がいる可能性があります。彼らは羊飼いの声に耳を傾けておらず、羊飼いに導かれることを拒否しているために、不忠実で危険な道であるのに、それは美しく良い道だと考えて、そのような羊は死の道に入るかもしれません。こうした羊は実際に羊飼いによって、いのちを救われ、よく養われ、羊飼いゆえに自分たちの生活を美しく送ることができます。
 
 
イエス・キリストは幕屋の門の四つの色を示された
 
幕屋の門として建てられた垂れ幕は、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布で刺繍されていました。幕屋の門を造るために、こうした四つの異なる色の撚り糸が用いられました。これらの色は、この地上に来られたメシヤが、迷える羊――つまり、世界中の霊的イスラエル人――を罪からお救いになり、罪のない神の民に変えるために成就しなければならない四つのみわざを象徴しました。
実際に四つのみわざによって私たちのところに来られたメシヤのことを知っているなら、明確な真理は私たちがこの信仰によってすべての罪を洗い流され、残りの人生を水と御霊の福音を宣べ伝えることにささげ、まさにこの信仰によって天国に入るでしょう。したがって、メシヤが青色、紫色、緋色の撚り糸によって私たちのところに来られ、私たちをすべての罪からお救いくださっているという真理のみことばを、誰もが実際に知っていなければなりません。
メシヤの四つのみわざを信じて、罪の赦しを受けたいですか。それでは、幕屋について学びましょう。こうした四つのみわざを知っている人々は、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布で刺繍された罪の赦しを受けることによって、実際に義人になります。
イスラエルの民は、四つの異なる色の撚り糸で刺繍された幕屋の門を見て、実際に将来メシヤが来られ、こうした四つのみわざを成就なさると信じなければなりませんでした。
 
 
すべての罪人が信じなければならない真理
 
幕屋の庭の白亜麻布の掛け幕を見ていたなら、神が本当にどれほど聖なるお方であるかを悟ることで救い主の必要性を認めたでしょう。実際、神の聖さを知るようになったすべての人は、「神よ、私はただの大きな罪の塊であるため、私たちの罪のために地獄に定められていることを認識しています」と言って、認めざるを得ませんでした。庭の柱を覆う白亜麻布を見ると、その清さと威厳がとても偉大なので、人々は心の中にある罪を認識し、神とともに生きるのに完全にふさわしくないことに気づいているでしょう。心がまっすぐでない人が神の前に行こうとするときはいつでも、彼らの罪は常に明らかにされます。そのように、人々は自分の罪が明らかになることを恐れているので、神の前に行くのをためらっています。
しかし、そのような罪深い人々が、救い主が青色、緋色の撚り糸で罪の問題を解決していることを悟ると、彼らは心の中に救済と希望の大きな確信をもって、神の前に自信をもって行くことができます。
幕屋の門に示された四つの真理は、メシヤが人の肉のかたちでこの地上に来られ、ヨハネからお受けになったバプテスマで、世の罪をすべてご自身に負われ、十字架で血を流されたことを告げています。水と御霊の福音を通して、幕屋の庭の門の四つの色の真理を正確に知り、信じる人々は、永遠の罪の赦しを受けることができます。キリストがバプテスマと十字架の血ですべての罪から私たちを完全にお救いくださったという真理は、幕屋の庭の門の四つの色のような救済というのは、真理であるイエスのバプテスマと磔刑なのです。
青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布は、罪人をすべての罪からお救いくださっているメシヤのみわざを私たちに実際に示しています。神が人類にお与えになっておられる救済の真理とは、こうした青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布に啓示されています。実際、心の中に罪がある人は、水と御霊の福音に啓示された救済の真理を信じて罪をすべて赦されます。
この世界には無数の宗教が出現しています。こうしたすべての世俗的な宗教は、自分たちの考えで作った教義を思いついたので、人々はすべて聖なるものに到達しようとしています。しかし、こうした世俗的な宗教を通して、一人の罪さえも洗い流されたことはありません。その理由は、彼らがただ罪に満たされていることにも気づかずに、自分の考えに基づいて自分の救いの教義を作り、信じていたからです。すべての人が自分で聖になることは決してできない大きな罪の塊なので、罪の根本的な性質を取り除こうとするのがどれほど難しいとしても、誰もこれを達成することはできません。罪からお救いくださることのできる救い主が、絶対に必要なのは、このためです。つまり、イエスが必要です。人間にはイエス・キリスト以外に真の救い主がいないことを認識しなければなりません。
神の律法は、罪人が神の家に入ることを許しませんから、メシヤがほんとうに私たちのすべての罪を消してくださったと知り、信じていなければなりません。
人類の罪をただ一度で赦している福音とは、水と御霊の福音にほかなりません。私たちの聖なる神が必ず罪人のすべての咎を罰されるために、世俗的宗教の教義への信仰を置くことは、罪のためにより大変な困難へと向かうだけです。
青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布によって啓示された真理は、新約聖書の時代に水と御霊の福音によって成就されました。みなさんは、誰かが幕屋の庭の門が緋色の撚り糸だけ、あるいは紫色と緋色の撚り糸だけで作られたと主張しているのを聞いたことがありますか。もしそうなら、たった今この瞬間から、幕屋の門は、実際に青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布で刺繍されていたことを認識しなければなりません。神は、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を刺繍した幕で、幕屋の庭の門を作るようにと、イスラエル人に明確にお命じになりました。
それでも、多くの人々は、幕屋の庭の門が緋色の撚り糸だけで刺繍されたものと間違って考えているため、主の四つのみわざの奥義を解き明かすことができていません。彼らがイエスを信じていても、その心に罪があるのは、このためです。キリストが青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布のみわざによって、すべての罪を取り除かれたと認識し、この真理を信じてください。こうした青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布によって成就された救済のみわざは、みなさんを確かにすべての罪から完全に救っているのです。イエスは、こうした四つのみわざによって、みなさんの罪をすべて取り除かれたのだと認識しなければなりません。つまり、この真理を知らないままに、自分なりの罪の赦しの基準を定めることは、単純に間違いです。
一部の人々は、幕屋の庭の門に用いられた青色、紫色、緋色の撚り糸の意味が何であるかに気づかないまま、「イエスを救い主と信じるだけで、人は無条件に救われるのだ」などと言う人々がいます。実際、キリスト教団体の指導者たちにイエスの四つのみわざについて尋ねると、その多くがそれについて知らずにいることがわかります。彼らは、緋色の撚り糸のみわざだけを信じていると言います。もう一つ信じているとしたら、紫色の撚り糸のみわざも信じていると言うでしょう。しかしながら、私たちの主は実際に、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布によって、人類救済の務めをすべて完了なさったのです。そのように、主が救済の四つのみわざを私たちのために実行なさったと信じなければなりません。幕屋の門の青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布に啓示された真理を知ることを願う心を持つ者はだれでも、実際にそれを知り、信じることができるのです。
「青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布の真の意味は、どのように理解すべきだろう。」 こうした撚り糸と亜麻布の真理を求めて、誰かにこの質問を尋ねていたなら、「あなたは聖書をあまりにも深く詳細に知ろうとしてはいけません。あなたに害をもたらすかもしれませんよ」と叱られ、みなさんの好奇心は無視されるかもしれません。すると、多くの人々は落胆し、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布に関する好奇心を失うかもしれません。そして、みなさんは、門に詳細に啓示されたメシヤにお会いすることは、決してなかったでしょう。
実際のところ、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布の役割を認識することなしに、メシヤに会おうとする人々は、キリスト教を世の宗教の一つとして信じる信心家にすぎません。神の家に入るには、幕屋の庭の門に用いられた青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布に啓示された神の救済の四つのみわざの真理を正しく知っていなければなりません。そして、この真理を見つけている者は、新約聖書の時代に、主が水と御霊の福音によって、この四つのみわざを成就なさったと知らなければなりません。
神はモーセに、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布で、幕屋の庭の門を織るようにお命じになりました。では、これの霊的意味とは何でしょう。幕屋の庭の門に用いられた青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布のそれぞれの色は、イエスが私たちの罪を消されるためになさったみわざです。したがって、こうした撚り糸と亜麻布は、互いに密接に関連しています。そのように、水と御霊の福音に耳を傾け、信じる人々は、イエスの四つのみわざとして永遠の罪の赦しを信じることができるのです。
これにもかかわらず、青色、紫色、緋色という色に現われた救済の真理を知ろうともせずに無視することは、すなわち、メシヤに対する完全な無関心の現われであり、神に敵対する者になっているのと同じです。実際、多くの人々が青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布に現われた真理に無関心なままで、キリスト教を世にある数多くの宗教の一つにすぎないものにしています。イエスの四つのみわざに無関心であるなら、それは、彼らがキリストに敵対する世俗的宗教の産物である証拠です。しかしながら、幸いなことに、この世には、まだ水と御霊の福音を捜している人々が大勢いるので、まだ希望はあります。
幕屋の庭の門に啓示された罪の赦しの霊的真理に関する知識があると、人は天にあるすべての霊的祝福を受けることができます。この信仰は、メシヤにお会いするために知り、信じなければならない、必要な信仰なのですから、一度だけではなく、永遠に宿し続けなければなりません。みなさんがほんとうにキリスト教徒であるなら、この真理に耳を傾けなければなりません。
神の家に入りたいと思う者はだれでも、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布に現われた真理を見いだし、それにしたがって神をたたえなければなりません。
 
 
預言の成就者として来られたメシヤ
 
神はみことばによって、メシヤが処女の体から生まれると預言なさいました。イザヤ書 7:14 には、次のようにあります。「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」 一方、ミカ書 5:2 では、メシヤはベツレヘムに生まれると述べています。「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」 この旧約聖書のみことばによって預言されたとおり、メシヤは確かにこの地上に来られました。メシヤは、神のみことばに基づいて、預言の成就として、人の肉のかたちで来られました。
では、人類史のどの時点でメシヤは来られたのでしょう。イエス・キリストは、いつこの地上に来られたのでしょう。ローマ帝国の皇帝アウグストゥスの治世(紀元前27年 - 西暦14年)の間に、この地上に来られました。イエスは、ヨハネからバプテスマをお受けになり、十字架につけられ、十字架で血を流されることによって、みなさんや私をすべての罪と罰からお救いくださるために、この地上に来られました。
イスラエルがローマ帝国の植民地となり、アウグストゥスが皇帝として君臨したとき、イエスは人類の救い主として来られました。イスラエルはローマの植民地だったので、ローマ法に従う必要がありました。当時、皇帝アウグストゥスは、全ローマ帝国にいる者に対して、故郷に戻って、国勢調査に登録を命じていました。
アウグストゥスの命令に従って、直ちにこの国勢調査が始まりました。国勢調査は、イスラエルに住んでいる人々を含んだ帝国内のすべての人間を記録しようとしていたので、イスラエル人はみな、それぞれの故郷に帰らなければなりませんでした。この瞬間から、イエス・キリストはすでに人類の歴史の中ですでに働いておられました。
 
 
旧約聖書のみことばの成就を見よ
 
当時、ユダの地では、メシヤはすでに処女マリヤの胎内に宿っておられました。このマリヤはヨセフと婚約していました。王たちは、イスラエルの十二部族のうち、ユダ族からのみ生まれると神が約束なさったように、マリヤとヨセフはどちらもユダ族の出身でした。
ですから、ローマ帝国の皇帝アウグストゥスが国勢調査の実施を決定したとき、ユダ族のマリヤはすでに子宮に赤ん坊を宿していたのです。マリヤは産気づいて、出産が迫っていたのですが、皇帝の命令のために、国勢調査の登録をするためにヨセフの生まれた町に行かなければなりませんでした。したがって、マリヤはすぐにでも出産が起こりそうだったのですが、ヨセフとともにベツレヘムに向かいました。マリヤの陣痛が始まると、部屋を見つけなければなりませんでした。しかし、町の中に空いた部屋は見つかりません。したがって、彼らは厩舎に行き着いたとしても、彼らにとって利用可能な場所を何でも使わなければなりませんでした。そして、マリヤは厩舎で赤子イエスを出産したのです。
西暦一年、イエスが生まれ、飼葉桶に入れられました。全能の神は、この地上に人の肉のかたちで来られました。かつて動物が居たところに、人類の救い主がやって来られたのです。これは、イエスが私たちのメシヤとなられるために、この最も卑しい場所にお生まれになったことを意味しており、このすべてのことは創造以前に神によって定められており、ご計画になっていたのです。人々は、ヤーウェ神が人類の歴史を動かしておられることは知っているかもしれませんが、神ご自身が実際に人々をお救いくださるために、この地上に来られたとは、誰ひとり認識できていません。したがって、神は、すべての人間を罪からお救いくださるために、人の地味な身体で、この地上にお生まれになるために、ご自身を低くなさることによって、だれでも救うであろうことを誰もが悟ることを可能になさいました。
では、なぜイエスはあらゆる場所のうち、ベツレヘムでお生まれになったのでしょうか。私たちはまた、なぜイエスが飼い葉桶で生まれなければならなかったのか、なぜイスラエルがローマに植民地として支配されていた時だったのか、疑問に思うかもしれません。しかし、これらのすべては、ご自分の民を罪からお救いになるために慎重に描かれた摂理の下に来たことをすぐに知ることができます。
ヨセフとマリヤが故郷の国勢調査をしたとき、確かにこの町の出身であることを証明する証拠を提出し、正確な身分を文書化しなければなりませんでした。祖先がほんとうに何世代にもわたってベツレヘムに住んでいたことを証明する必要な証拠を示すことができる場合にのみ、国勢調査に登録することができました。そこで、人々は先祖が誰であり、誰の家に属していたのかを明らかにし、そうした家系のすべての詳細を国勢調査に記録しなければなりませんでした。これらのどれも捏造したり省略したりできなかったので、神はヨセフとマリヤの正確な身分を歴史的に記録なさることによって、人類の歴史もイエスの誕生をあかしするようになさったのです(マタイ 1:1-16、ルカ 3:23-38)。これらすべては、神が旧約聖書のみことばの預言を成就するためになさった、みわざです。
ミカ書 5:2 には、次のようにあります。「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」 神は、ヨセフとマリヤがまさにベツレヘムの町に到着するようになさり、預言されたベツレヘムの町に、誕生の日が訪れ、救い主がお生まれになったのは、神がその預言者たちの預言を成就なさる、このみわざをなさったという意味です。これは確かに、人類の罪をすべて消し去るために、神のご計画なさった成就なのです。イエスがベツレヘムという小さな町にお生まれにならなければならなかったのは、旧約の予言のみことばを成就するためでした。イエスがベツレヘムの小さな町で生まれなければならなかったことは、旧約聖書のみことばの預言を成就なさるためでした。
イエス・キリストがベツレヘムの小さな町で生まれる何百年も前に、神はすでに上記のように、預言者ミカを通して預言のみことばをお与えくださっていました(ミカ 5:2)。同様に、預言者イザヤは、メシヤがどのようにして罪人の救い主となられるために、ご自分の民のところに来られるかを、私たちの主が来られる約700年前に預言しました(イザヤ 第53章)。イエス・キリストは確かに、神が預言者ミカによって預言されたとおりに、ベツレヘムでお生まれになったように、イエスは常に預言のみことばをすべて成就なさいます。
マリヤとヨセフが先祖の町に国勢調査を登録しに出かけたとき、預言は歴史的事実として成就されました。神は、まさにマリヤがベツレヘムに到着する時、赤ちゃんが生まれる時を確かになさって、マリヤがベツレヘムの町で出産せざるを得ないようになさり、神のみことばを成就なさいました。
ここで、私たちの神は、私たちに預言のみことばを語られ、それに応じてそのようなみことばすべてを成就なさる神であられることがわかります。これから、幕屋の庭の門に用いられた「撚り糸で織った亜麻布」が、神のみことばの精密さと完全さを暗示していることもわかります。神は、創造の前から人類救済を具体的にご計画になっておられ、預言のみことばに基づいて、これを必ず成就なさっておられます。
ですから、旧約聖書のみことばは確かに神のみことばであり、新約聖書のみことばもまた神のみことばであると認識することができます。私たちはまた、神が確かに全宇宙とこの地上のすべての歴史を支配なさり、動かしておられることを悟り、信じることもできます。つまり、神が全宇宙を創造なさったように、すべての人々、すべての歴史、すべての人の状況を完全に支配しておられることを示しておられるのです。したがって、神はそれが何であれ、ご自分がそれをお許しにならない限り、自分の意志によって何も達成することができないことを示しています。
赤子イエスがこの世に誕生なさって来られたとき、宿には部屋がなかったために、動物の休む場所で出産せざるを得ませんでした。そして、イエスご自身が確かにベツレヘムの町でお生まれになりました。これらすべてが、神の忠実さによると、神の預言なさった摂理の素晴らしい成就であったことを認識しなければなりません。
したがって、この宇宙の歴史を動かすお方は、私たちを罪から救っておられる救い主であられる神であることを信じなければなりません。この真理は、神がすべての主であられるために、すべてを支配なさることを示す、神のみことばなのです。
このように、ベツレヘムという小さな町でのイエスの誕生は、偶然のことでもなく、また、聖書のみことばを操作することによって勝手にでっち上げられたことでもないことが証明されました。これは神ご自身がおっしゃったことであり、また、神ご自身がイエスを通して成就なさったことでもあります。
私たちはこれを知り、信じなければなりません。メシヤによる救済が青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布によって成就されている真理であると、心に受け入れ、信じなければなりません。神は、罪の赦しもまた偶然に成し遂げられることではなく、神の摂理によって備えられたイエスの四つのみわざを通して成し遂げなられることであると示しておられます。
さらに、これはまた、キリスト教が多くの世俗的な宗教の一つではないことをも示しています。世俗的な宗教の創始者は人間に過ぎませんが、キリスト教の創始者は救い主イエスであり、神は、私たちのこの救い主が神ご自身であられるという事実からキリスト教の真理が始まることを私たちに示しておられます。つまり神は、私たちの信じているキリスト教が単なる世俗的な宗教ではないことをあかしなさっておられるのです。この世の他の宗教とは違って、キリスト教は神のお与えくださった恵みのすべてによって確立されているのです。ローマ人への手紙 11:36 に「というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように」と記されているように、神は、ご自分のひとり子を救い主としてお与えくださり、私たちの罪の赦しのために水と御霊の福音をくださり、内に宿る聖霊と天の御国をお与えくださいました。したがって、私たちはみな、神とそのみことばを心で恐れ、従うべきだと、知り、心の中で信じなければなりません。
この地上でのメシヤの誕生は、創造の前に父なる神によって決められた救済のご計画に従ったものです。私たちの救いは、このうちに完全に計画されていました。神は私たちに、この真理が青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布の実体であると明確に認識できるようになさっておられます。したがって、罪の赦しとして水と御霊の福音を通して、私たちのところに来ている救済を認め、そう信じなければなりません。みなさんと私がすべての罪から救われることができたのは、この信仰によってなのです。この四つの色の真理も、水と御霊の福音のみことばへの信仰によって、完全にされると信じなければなりません。
 
 

私たちを青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布によってお救いくださっている救い主イエス・キリスト

 
イエス・キリストが罪人を罪から救われたみわざは四つあります。青色の撚り糸(イエスのバプテスマ)、紫色の撚り糸(王の王としてのイエス――つまり、神ご自身)、緋色の撚り糸(イエスの血)、そして撚り糸で織った亜麻布(旧約聖書と新約聖書の具体的なみことばによる、すべての罪人の罪からの救済の完了)です。イエスは正確に青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布によって、救い主となられました。
水と御霊によって私たちのところに来られたイエスが、青色の撚り糸(イエスのバプテスマ)、紫色の撚り糸(イエスは神)、緋色の撚り糸(イエスの血)、それに撚り糸で織った亜麻布(イエスは新約聖書と旧約聖書のみことばによって、救済を完成なさったイエス)によって、私たちを罪からお救いくださったことを信じなければ、決して罪とその罰から救われることはできないのだと認識しなければなりません。罪とその罰から私たちをお救いくださることなしに、私たちの主は完全な救い主になることはできなかったでしょう。
幕屋の庭の門の幕がなぜ青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布で刺繍されていたのかを霊的に悟らなければなりません。幕屋の庭の門は、誰もが明らかに門を認め、それを容易に見つけることができるように、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布で作られていました。この門を通して、神は、誰もが輝く家に入ることができるようになさったのです。
幕屋自体は神の輝く家です。幕屋の庭の囲いと門に現われた救済の真理を悟ることなしに、神の家に入ることができる者は誰ひとりいません。神は、幕屋を囲む白い亜麻布の幕の聖さを無視し、門から幕屋に入るのではなく、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗だとおっしゃいました。救済の門とは、イエス・キリストを指します(ヨハネの福音書 第10章)。
聖書が、この門は青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布で刺繍されていると告げるのは、神が旧約聖書と新約聖書の真のみことばを通して、イエス・キリストが神の御子としてこの地上に来られ、ヨハネからバプテスマをお受けになり、十字架で死なれ、死者の中からよみがえられ、それによってメシヤになっていることを明確に示しておられるのです。このようにして、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布の奥義を見いだすことができます。イエス・キリストは、私たちをこの世の罪の裁きからお救いくださるために来られた神の御子であられること、旧約聖書と新約聖書のみことばを通して、今や人類救済を成し遂げておられる救い主であられることを、神が私たちにお許しになっておられることを信じなければならないのです。
私たちは、幕屋の庭の門が青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布で刺繍されていた理由を実際に悟ることができなければなりません。青色の撚り糸は何を教えてくれるでしょう。紫色の撚り糸と緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布は何を教えてくれるのでしょう。神のご計画を悟ると、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布のみわざはみな、私たちにとって神の救済のご計画と永遠のいのちの真理であり、それによって罪の赦しの信仰を通して、私たちは神の御国に入ることができるのだと悟ることもできます。
私たちが青色、紫色、緋色の撚り糸を知り、信じているというとき、イエスがバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになり、十字架で血を流された理由、メシヤとは誰か、旧約聖書のいけにえの制度の奥義、新約聖書の水と御霊の福音について、よく知っているという意味です。要するに、幕屋の庭の門に暗示された真理とは、永遠に救われる真理をひたすら求めるすべての信者にとって不可欠なものです。
多くの人々が幕屋の知識を十分に持っているように見えるかもしれませんが、実際にはそうではありません。幕屋の庭の門に刺繍された青色、紫色、緋色の撚り糸が何を意味するのか、人々は実際には何も知らないのです。青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布の奥義は理解しにくいので、多くの人が学び、信じたいという真の願望を抱いています。しかしながら、この奥義は誰にも理解できるものではないために、多くの人々が自分の意見に基づいて誤って解釈してしまうのです。実際、多くの宗教指導者は、自分の宗教的目的のために、この幕屋の庭の門を使用するだけで、彼らが感じた方法でこの真理を誤って解釈し、誤解しています。しかし、神はもはやキリスト教徒がこうした嘘つきに欺かれ続けることをお許しにはなりません。こうして、神は、幕屋の庭の門に用いられた青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布の真理の意味を明確に説明なさり、それによって彼らを罪から救われなければなりませんでした。
新約聖書のヨハネの手紙第一 5:6-8 には、次のように述べています。「このイエス・キリストは、水と血とによって来られた方です。ただ水によってだけでなく、水と血とによって来られたのです。そして、あかしをする方は御霊です。御霊は真理だからです。あかしするものが三つあります。御霊と水と血です。この三つが一つとなるのです。」 この聖句は、私たちの主が人の肉のかたちで、この世に来られ、バプテスマによって私たちの罪を負われ、血を流されることによって、私たちをお救いくださったと明確に告げています。幕屋の庭の門が青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布で刺繍されていたのは、このためです。
第一に、青色の撚り糸は私たちに何を示しているでしょう。それは、イエスについての真理の一部、すなわち、この地上に来られ、ヨハネからバプテスマをお受けになって世の罪を負われ、罪人の実際のメシヤとなられたイエスについての真理の一部を示しているのです。実際、イエスがヨルダン川でヨハネからお受けになったバプテスマこそ、世の罪をすべてただ一度で負われたイエスの真理です。イエスは実際に、全人類の代表者であるバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになって、世の罪をすべて負われました。このようにして、すべての人間の罪がキリストの頭に移されたのですから、この真理を信じる人々は心に罪がありません。
第二に、幕屋の庭の門に刺繍された紫色の撚り糸の実際の意味は、何でしょう。それは、イエスが実際の王の王のであられることを告げています。事実、イエスは被造物ではなく、創造主であられ、この地上に来られた実際のメシヤなのです。メシヤであられるイエスは、実際にすでに人間の肉のかたちで、この地上に来られました。そして、イエスはヨハネから受けられたバプテスマを通して世の罪をご自分のからだにすべて負われ、ご自分のいけにえの死とよみがえりによって、メシヤを認め、恐れ、信じる民をすべての罪とその裁きからお救いくださっています。
イエスは、実際には私たちの絶対的な神であられ、絶対的なメシヤであられます。イエスは絶対的な救い主です。イエスはバプテスマによって世の罪をすべて被られたので、十字架で血を流して死なれ、死者の中からよみがえられ、すべての罪をすべて洗い清めてくださっただけでなく、身代わりとなって私たちの罪のさばきをも受けてくださったのです。
第三に、緋色の撚り糸は、イエスが十字架で流された血を指しており、信じる者にキリストが新しいいのちをお与えになっておられることを意味します。この緋色の撚り糸の真理は、イエス・キリストがヨハネからお受けになったバプテスマで、世の罪を負われることによって、私たちの罪のさばきをお受けになっただけでなく、罪に対して死んだ人々にいのちを与える信仰をお与えになって、信じる者に新しいいのちをお与えくださったということを告げています。イエスのバプテスマと流された血とを信じる人々に、イエスは確かに新しいいのちをお与えにくださっているのです。
では、撚り糸で織った亜麻布とは、どういう意味があるのでしょう。それは、新約聖書によって、神が旧約聖書に記された救済のお約束を成就なさったという証拠です。そして、新約聖書で、イエスがバプテスマで世の罪をすべて負われ、十字架で私たちのために裁かれたとき、神が契約のみことばによってイスラエル人と私たちに約束なさった救済を成就なさいました。
ヤハウェ神は、イザヤ書 1:18 で次のようにおっしゃいました。「『さあ、来たれ。論じ合おう。』と主は仰せられる。『たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。』」 また、旧約聖書のいけにえの制度は、幕屋でいけにえがどのようにささげられ、その下でイスラエルの民の罪が、按手でいけにえの小羊に移されたかを管理し、神がイスラエル人と私たちになさった約束でした。これは、将来、神の小羊を通して、世のすべての人々を日々の罪、年ごとの罪からお救いくださるという、神のお約束の啓示だったのです。
これはまた、来たるべき約束されたメシヤのしるしでもありました。そこで、新約聖書の時代に、イエス・キリストが旧約聖書の方法に従ってバプテスマをお受けになり、世の罪をすべてただ一度で負われたとき、それは神の契約の成就だったのです。神は、約束のみことばを私たち全員にお与えくださって、神が実際に約束なさったとおり、それらすべてを成就なさったことを示しておられます。イエスがお受けになったバプテスマは、契約の神がすべての契約を成就なさっておられるという、この真理を明らかにしています。
 
 

水と血と御霊によって来られたイエス・キリスト

 
イエスはなぜヨハネからバプテスマをお受けになったのでしょう。その理由は、人類の罪をすべてご自分に負われ、私たちに代わって罪の裁きをお受けになるためでした。人類全体の罪をすべて消し去られ、私たちの真の救い主となられるために、イエスはバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになり、十字架に行かれ、十字架で血を流して死なれました。そうなさることによって、イエスは私たちのすべての罪を洗い流されただけでなく、私たちに代わってこうした罪のすべてのさばきもお受けになり、それによって私たちの永遠の救い主となられました。私たちの罪はすべて、イエスがヨハネからバプテスマをお受けになったときに移され、イエスはこの世の罪を十字架まで運ばれました。キリストが私たちの身代わりとなって裁かれ、血を流され、死なれたのは、バプテスマによってすべての罪を負われたからであり、さらに世のこうした罪を十字架まで運ばれたからです。
イザヤ書 53:5 には、次のようにあります。「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」 主のバプテスマによって、共通の祖先アダムから私たちにまで受け継がれた原罪と、私たちが生涯を通して犯す私たち自身の実際の罪はすべて主の上に移されました。そして主は、こうしたすべての罪のために裁かれました。このように水と血とによって私たちのところに来られることによって、主は私たちのすべての罪を消し去られました(Ⅰヨハネ 5:5-8)。
では、私たちのすべての罪を処理なさり、それらすべてを消された、この私たちの救い主であられ、メシヤであられるイエス・キリストとは誰なのでしょう。創世記 1:1には、次のようにあります。「初めに、神が天と地を創造した。」 みことばで宇宙を創造なさった、強大な神とは誰だったのでしょう。その方は、罪人のメシヤであられ、バプテスマの水によってみなさんと私を世の罪からお救いくださるために来られた方、世のすべての罪のために裁かれるために、十字架で血を流される救い主として来られた方です。水と血と御霊によって、イエスは私たちを罪とさばきからお救いくださっています。私たちの主は、すべての罪を負われ、私たちの身代わりとなって、こうした罪を裁かれるために救い主として、私たちのところに来られました。
実際にメシヤが私たちの神であられるので、イエス・キリストは、実際、神の御子であられ、神ご自身であられます。
「イエス」という名は、「ご自分の民をその罪から救ってくださる救い主」という意味です(マタイ 1:21)。一方、「キリスト」は、ギリシャ語で「バシレウス」というのは、「王の王」を意味します。イエスは全宇宙を造られた創造主、すべての絶対支配者、罪人の救い主、サタンを裁く王の王であられます。
この絶対的な神は実際に、ご自身のかたちに似せて人を創造なさいました。神ご自身の被造物である私たちが、罪のため、罪に陥り、滅びに定められたように、この王の王が私たちを罪からお救いくださるために約束なさり、この約束を成就なさるために、主が私たちのところに来られました。私たちを神の民全体と罪のない者となさるために、主ご自身が水と血と御霊によって私たちのところに来られたのです。
創造主であられるメシヤは、すべての罪を消し去られるために、実際に人の肉のかたちでこの地上に来られ、ヨルダン川でヨハネからバプテスマをお受けになって、すべての罪をご自身に負われました。そして、十字架で死なれることによって、イエスは私たちのすべての罪のために身代わりとなって裁かれました。イエスは実際私たちにとってまさにメシヤであられたので、そして私たちの救い主であられ、私たちのいのちの主であられるので、私たちはイエスを信じることによって、新しい永遠のいのちを得ることができました。メシヤが確かに私たちの神になっておられます。幕屋の門が青色、紫色、緋色の撚り糸で刺繍されていたのは、このためです。これは、すべての罪とその裁きから私たちを救う水と御霊の奥義だったからです。
主が確かに私たちを罪からお救いくださったという真理は、曖昧ではありません。私たちの主が、実際に主の水と血を通して私たちをお救いくださっているという主の明確な真理は別として、救済を曖昧に約束なさらず、大まかにそれを成し遂げられたのでもなく、主を勝手に信じる人々の信仰を承認することもできません。したがって、私たちの主は名目上の主を信じる人々に、次のようにおっしゃいました。「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです」(マタイ 7:21)。
にせ教師たちは、実際に人々にイエスの御名によって聖霊を受けさせ、イエスの御名によって悪霊を追い出し、イエスの御名によって多くの奇蹟を行なったと主張します。しかし、マタイの福音書 7:23 で、神は彼らにおっしゃいました。「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。」 これは、キリスト教徒の中には、実際にはまだ罪深いままで、裁きの日に罪を裁かれて地獄に投げ込まれる人が大勢いることを示しています。
実際、はっきりと告白するキリスト教徒が大勢います。「イエスは私たちの救い主。イエスは私たちをすべての罪から明らかに救われた。」 しかし、そのような主張をしたにもかかわらず、彼らは実際に、メシヤがバプテスマによって罪を確かに負われ、十字架で血を流されることによって罪とその罰をお受けになったことを学ぼうともしませんでした。こうした人々は、単に多くの世俗的な宗教の一つを実践しているかのように、名目上信じているだけなので、まだ罪深いままでありながら、神の前に行くでしょう。
そのように、「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」(ヨハネ 8:32)と、イエスがおっしゃっている真理に従って信じていないため、彼らは主に認められていません。人々がイエスを信じているかどうかにかかわらず、心に罪がある者は、罪が見いだされない神の御国に入ることはできません。彼らは、そこに入る資格がないからです。したがって、彼らはこの地上にいる間に、青色、紫色、緋色の撚り糸の真理を信じることによってのみ、天国に入る資格があることを確認する必要があります。こうした青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布で、幕を刺繍することによって幕屋の庭の門を造ることは、メシヤの摂理でした。罪のために地獄に向かっている人々は、これを信じなければなりません。
こうした人々は真理に関して何も知らず、自分たちが誤った知識を得て、イエスを信じているので、彼らはまだ罪深いままです。彼らは、幕屋の材料に隠された真理に従って信じる代わりに、自分たちで救い主を考え出し、こうした考えに基づいて自分たちの救済の教義を作り、救済は神に悔い改めの祈りをささげ、漸進的聖化に達しようとすることによって、自分の努力を通してもたらされると信じているため、まだ心に罪があります。
この世にはイエスを救い主として信じることを主張していますが、実際にイエスのバプテスマとその血を信じていない人が大勢います。この世には、青色、紫色、緋色の撚り糸を救済として信じる代わりに、イエスの血を信じるだけで、たとえ罪深いままであるとしても、神の聖なる御国に入ることができると考えている人が大勢います。
 
 
旧約聖書と新約聖書の照合
 
神は、イザヤ書 34:16で、神のあらゆるみことばには対応するペアがあるとおっしゃいます。言い換えれば、神のみことばはすべて、一致するのです。神は、旧約聖書の神のみことばが新約聖書の神のみことばと照合するかどうかを、自分で見て確かめなさいとおっしゃいました。旧約聖書に記されていることは、新約聖書に対応するみことばがあります。例えば、イスラエル人は旧約聖書で両手を置くことによって、彼らの罪をいけにえの子羊に罪を移しましたが、新約聖書では、これはイエス・キリストが世のすべての罪を負うためにバプテスマをお受けになって、こうしてすべての罪を移されたことと一致しています。
イエスは水と血とによって、いけにえのささげ物と罪人の救い主として、この地上に来られました。バプテスマをお受けになって世の罪を負ってくださらなければ、十字架で死なれる必要はまったくなかったでしょう。主は私たちのすべての罪を、青色、紫色、緋色の撚り糸で明らかに消してくださいました。これも、みことばで神によって約束なさったので、主はこのみことばを通して私たちのところに来られ、私たちの緋のような罪を洗い流され、雪のように白くなさいました。
この真理を悟る前に、実際、私たちは間違いなく無限の罪であふれていました。したがって、私たちは神の前で自慢することは何もありません。神の前に自慢できることは何もないだけでなく、神の前に自信を持つことは何もありません。つまり、私たちが賢いふりをすることさえできるものはありません。神の前で言えることは、「はい、あなたは正しい」という言葉だけです。
もし神が「あなたは地獄に定められた咎の種」とおっしゃるなら、私たちは「はい、そうです。どうかお救いください」と言えるだけです。そして、神が「水と血と御霊によって、このようにあなたがたを救っている」とおっしゃいます。そうしたら、私たちは「はい、主よ。信じています」と言えるだけです。
私たちは常に「はい」としか言えません。神の前に立つと、私たちは次のように神には言えません。「私は、これもあれもしました。これほどよく教会に仕えました。私は心からイエスを本当に信じていました。他の誰も想像できないような頑固さで信仰を守りました!」
主は実際に私たちのすべての罪をどのようにして消されたのでしょう。主は、青色、紫色、緋色の撚り糸を通して、そして旧約聖書と新約聖書のみことばを通して、私たちのすべての罪を消されたことを示されました。旧約聖書では、青色、紫色、緋色の撚り糸で私たちの罪を消されましたが、新約聖書では、イエスが人の肉のかたちで、この地上に来られ、ヨハネからお受けになったバプテスマで、すべての罪をご自分に負われ、十字架で血を流されて、すべての罪とその罪のさばきを処理なさることによって、救い主になられました。
バプテスマをお受けになることによって、私たちの主は世のすべての罪を一度に負ってくださいました(マタイ 3:15)。私たちの世の罪はすべて、イエスの肩に移されました。このようにして、バプテスマで世のすべての罪を負われた後、イエスは、こうした罪を十字架に運ばれ、十字架につけられ、血を流され、再び死者の中からよみがえられ、それによってすべての罪をほんとうに消し去られたのです。このように、イエス・キリストは私たちの確かな救い主になられました。
私たちが受けている神の義とは、水と血と御霊によって、この地上に来られたイエス・キリストを信じることによって得られた義です。これは、私たちが自分で成し遂げたものではなく、まさに神から受けた救済なのです。私たちは、神の前で誇示することは何もありません。
事実上、私たちは、確かな救い主となっておられるイエス・キリストを信じることによって、すべての罪から救われます。つまり、罪人であった私たちは、実際にイエスのバプテスマと、私たちのために流されたイエスの血を信じることによって、罪の赦しを受けたのです。
もしイエスの救済のみわざが私たちの救いにおいて70%を占め、残りの30%が私たちの行いや罪を犯さないように努力することを占めるなら、私たちは徐々に聖化され、私たちの救いが少しずつ完成するために、徹夜で熱心に祈ったり、悔い改めの祈りをささげて毎日を過ごしたり、団体に仕えたり、そうでなければ、可能な限り何から何までしていたでしょう。
しかし、使徒パウロは、ローマ人への手紙で、次のように述べました。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」(ローマ 7:24-8:1)。パウロがこのように告白した通りに、私たちもまたパウロがしたようにイエス・キリストを信じなければなりません。聖書は、イエス・キリストが私たちをこの死のからだから完全に100%お救いくださっていることを告げています。では、だれが私たちを罪に定めることができるでしょう。イエス・キリストは私たちの弱さに関係なく、すでに私たちを100%救ってくださっておられるため、誰も私たちを罪に定めることはできません。
 
 
あなたも私も、霊的パリサイ人だった
 
みなさんの一部は、長い間イエスをほんの少し知っていて、信じていたかもしれません。つまり、みなさんは水と御霊の福音に出会う前でさえ、イエスを救い主として信じていました。私自身も、十年間、新しく生まれていないキリスト教徒でした。
私たちがイエスを救い主として信じたとき、むしろ、爽やかな経験でした。この始まりは、青色、紫色、緋色の撚り糸の真理を知らなくても、イエスをただ救い主と信じることによって、無条件に救われるだろうと考えたほどに、非常にさっぱりしていました。
私が最初にイエスを信じたとき、私の心は喜びで満たされていました。ですから、イエスを最初に信じたときはとても喜んでいましたが、約五年後、自分自身を見つめるようになり、自分が犯した罪に縛られ続けていることに気づき、自分はまだ自由ではなかったことに気づきました。私のキリスト教徒としての最初の生活の五年間に、みなさんは私が罪を犯したと思いますか、まったく犯さなかったと思いますか。みなさんが私をご存じであるかどうかにかかわらず、答えは極めて明確です。もちろん私はそうでした。この間、真理を知らなかったとき、罪を犯すたびに私は苦しみ、この苦痛を取り除くために、悔い改めの祈りをささげなければならず、時には三日間の断食することさえありました。心の重荷が少し軽くなったと感じると、「♫驚くばかりの 恵みなりき ♫この身の汚れを知れるわれに♪」と、神をたたえることができました。しかし、この後にもちろん、私は再び罪を犯してしまったでしょう。私には多くの欠点があり、汚点がたくさんあったので、自分がそうすることを嫌っていたとしても、毎日罪を犯しました。罪に関するすべての問題を完全に解決することは一度もできませんでした。
このような状況下で、さらに五年が経ち、私がキリスト教徒として約十間働いていたとき、突然、何年にもわたって犯した罪の数を知ってショックを受けました。自分がそのような大きな罪を毎日犯しているのを見ると、私は深く悲しみ、すっかり落胆しました。そして律法の前に立ったとき、私は本当に自分がいかに罪深いかを悟りました。私が神の前に立つのはますます困難になり、良心的に、イエスをよく知り、信じることを主張することさえできない罪人になりました。ですから、キリスト教徒としての十年目には、自分の罪深さを自分自身に告白せざるを得ませんでした。
最初にイエスを信じたとき、私は実際には自分がかなり良いキリスト教徒だと思っていました。しかし時が経つにつれ、神の前で自慢するものは何もないことに気づくようになりました。「私は実際にはパリサイ人だ。私自身が今日のパリサイ人だから、パリサイ人は聖書だけに見つかるというわけじゃない」と認識しました。
パリサイ人々とは、もったいぶった神聖さのうちに親切な人々です。毎週日曜日、聖書を小脇に抱えて教会に行く途中、彼らはキリスト教徒の仲間に「おはようございます!ハレルヤ!」と叫びます。そして、彼らが礼拝しているとき、誰かが十字架について話しているのを聞くたびに、彼らは泣いてしまいます。私自身も、イエスの血を思い浮かべながら、多くの涙を流しました。これこそが真の礼拝をささげることだと思いました。しかし、この世で暮らしながら、罪を重ねて、誰もが最終的に自我を見いだします。ですから、人々は再び悔い改めの祈りをささげることに頼ります。彼らは実際にしばらくの間気分が良くなるかもしれませんが、彼らが犯してきた罪があまりに多いために、遅かれ早かれ、すべて悔い改めの祈りを使い果たすでしょう。一部の人々は異言で話し、後に幻想を見ますが、それらはすべて無益です。彼らがどんなことを試みたとしても、心にある罪の問題を解決するために、何の役にも立ちませんでした。
彼らが、神の前で単に価値のない存在にすぎないことに最終的に気づき、自分たちの罪のために地獄に定められていることを認めるなら、たとえこの認識が遅れても、それはまだ幸運な結果でしょう。実際、私たちがイエスを信じていた時間が長ければ長いほど、私たちが本当にどれほどひどい罪を犯しているかを理解するほどです。しかし、パリサイ人はこれを隠すのが得意です。彼らは、自分たちの信心深さのために周りの人々からさえ認められるほどに、心の罪を隠すことと偽善者を演じることがとても上手です。
この世の宗教家は、お互いを非常に尊敬しています。しかし、彼らが他の人からどれほど尊敬と承認を得ようと、彼らが神の前に立つとき、彼らは大きな罪の塊にすぎないのです。
私たちは真理を知らなかったとき、かつて私たちも悔い改めの祈りを熱心にささげていました。しかし、しばらくすると疲れてしまい、「主よ、あなたがやりたいことを何でもなさってください。私には罪がたくさんあります。私は再び罪を犯しています。今では、恥ずかしくなりすぎて、それについて話すことすらできなくなっています」と祈ってしまいます。恥ずかしいことですが、私たちが罪を告白するときはいつでも、神は喜ばれ、神が義で私たちをお赦しになり、不義から清められたことを語られたので、私たちは神に次のように祈り続けました。「主よ、私は罪を犯しています。主よ、どうかお赦しください。」 それにもかかわらず、私たちの罪はまだ心に残っていました。
人々が頭を垂れて神に祈るときはいつでも、彼らの良心は自分たちの罪を思い出させ、自分たちの心を食い尽くします。私たちの良心は、「非常に多くの罪が犯されたので、あなたはあえて神に祈ることもできるのか」と私たちに告げて、心を苦しめます。
それで、しばらくして、私たちには言うことが何もないので、「主よ、主よ」と叫んでしまいます。ますます頻繁に、私たちは自分自身が山を登っていて、主の御名を大声で言っているのに気づきました。人々の注意を引くことの恥ずかしさを避けるために、私たちは夜遅くに山に登り、そこでいくつかの洞窟に入り、主の御名を叫びました。しかし、これも自分たちに発作があっただけのようで、罪は、こうしてまだ私たちのうちに残っていました。
私たちはまた、自分たちがもはや罪深くないほどに、「神は、私の罪を消してくださっているほどに、非常にあわれみ深い。私は三日間断食して祈った。さらに、私はそれほど罪を犯していない。私たちのあわれみ深い神は、私をお赦しにならないことがあるだろうか」と自分自身に言い聞かせて、自分の良心を慰めようとしました。
しかし、たとえ神のあわれみのために、神を賛美していたとしても、私たちは本当に自分自身を欺くことができるでしょうか。私たちが神の前で罪深いままでいたら、どうして自分の心を欺くことさえできたでしょう。私たちは、決してそうすることはできなかったでしょう。私たちが教会の指導的地位にどれだけ高く昇格したとしても、他の人からどれだけ称賛されたとしても、まだ自分自身で罪を犯し続けている限り、こうした罪から決して解放されることはできず、ついには偽善者になってしまったでしょう。
罪深い欲望は私たちの心の中で浮かび上がり続けました。イエスの十字架での血については数え切れないほど話し、ただ十字架の血を考えるだけで多くの涙を流し、良いキリスト教徒でしたが、水と御霊の完全な福音に出会うまでは、まだ罪深いままでした。キリスト教のすべての儀式に従って生きているにもかかわらず、私たちはまだ罪がありました。これがパリサイ人の宗教でした。この地上にはこのような信仰を持つ人々が未だに大勢いて、彼らは私たちのキリスト教団体の中にも見られます。
 
 

私たちのすべての罪は水と御霊の福音を信じることによって消えた

 
水と御霊の福音を知る前、そしてこの福音を信じる前に、私たちはみな心に罪がありました。青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布のこの真理を信じる前に、私たちの良心は罪深いものでした。正直に言うと、私たちはみな神の前で罪深く、聖書が「罪から来る報酬は死です」と告げているので、罪のために地獄に定められていました。このように、私たちは罪のため、大いに苦しめられました。そして、私たちの罪に対する神のさばきのため、肉体的にも霊的にも地獄に定められていました。
私たちは多くの人々をキリスト教に改宗させ、教えました。しかし、私たちは自分自身の良心すら清めることができなかった間、働いていました。これを神の前で否定することはできませんでした。私たちは心が罪深く、地獄に定められていることを神の前で認めました。
私はいつも、未解決の質問がありました。「主がこの地上に来られたとき、なぜ主はバプテスマを受けられたのか。」 なぜイエスがバプテスマをお受けになったのかを知らなかったのです。なぜ、そして何の目的のために、イエスはバプテスマを受けなければならなかったのでしょう。私たち自身の水のバプテスマは、イエスへの信仰のしるしとして理解できましたが、なぜイエスがバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになったのかをまったく理解できませんでした。なぜイエスはバプテスマをお受けになったのでしょう。なぜでしょう。
それで、何人かのキリスト教団体の指導者たちに尋ねました。「牧師、質問があります。よろしいですか。」 彼らは私にどうぞと言ったので、私は彼らに尋ねました。「それは聖書についてです。イエスが新約聖書でヨハネからバプテスマを受けたのは明らかです。しかし、なぜイエスがバプテスマを受けたのかは分かりません。理由をご存じですか、牧師。」 それから彼らはにっこり笑って言いました。「そんなことも知らないんですか。日曜学校の子供たちでさえ知っていることですよ。それは、聖書の原本にもあるし、聖書の辞書にもあります。イエスは、私たちに謙遜を示すために、模範としてバプテスマをお受けになったのではありませんか。」
私は尋ね続けました。私は、キリスト教徒になった直後から答えを探し始めました。その質問に対する答えを求めて何年も費やすしかありませんでした。私は、この質問に関するすべての学術研究を調べました。このようにすべてを調べ、尋ね、調査したにもかかわらず、イエスのバプテスマを明確かつ決定的に説明したものはどこにも見当たりませんでした。主が私に、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布に現れた水と御霊の福音について啓示なさるまで、私は最終的な答えを見つけるのに苦労していました。
イエスのバプテスマの未解決のパズルにとらわれている間に、マタイの福音書 3:13-17を読む機会に出くわしました。「さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。『私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。』 ところが、イエスは答えて言われた。『今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。』 そこで、ヨハネは承知した。こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天からこう告げる声が聞こえた。『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。』」
このみことばを読んで、ようやく悟りました。「そうだ、これだ!イエスがバプテスマを受けたのは、イエスが旧約聖書のいけにえのささげ物だったからだ。これが、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布に隠された救済の真理なのだ。」
バプテスマのヨハネは、実際には神が旧約聖書で遣わすと約束なさったエリヤでした。神は、マラキ書 4:5で、さばきの日の前に、エリヤを遣わすとおっしゃり、それでマタイの福音書 11:14 は、イエスが私たちのところに遣わすと約束なさった、このエリヤは、バプテスマのヨハネにほかならないと告げています。それで私はエリヤについて分かりましたが、なぜイエスがバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けにならなければならなかったのかはわかりませんでした。そこで私は、マタイの福音書 3:13-17 に戻り、その聖句をもう一度熟読しました。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。』……こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。……『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。』」 それから、私の疑念はすべて解消されました。「すべての正しいことを実行するために」、イエスは実際にバプテスマをお受けになりました。イエスは確かに、バプテスマによってすべての人を救うという、この義を実行なさったのです。
幕屋のいけにえの制度に従って、いけにえのささげ物の頭に両手を置いたときのように、バプテスマは旧約聖書の手を置くことと同じです。罪人が全焼のいけにえの祭壇の前に、こうした「いけにえのささげ物」を連れてきて、その動物の上に手を置いて、それによって自分の罪を告白し、いけにえのささげ物にそうした罪を移すために、大祭司がイスラエルの民のすべての罪を告白し、イスラエルと自分自身のために、すべての罪をいけにえのささげ物に移すために、および、イエスが新約聖書の時代にバプテスマのヨハネからバプテスマを受けるために――これらすべてが互いに照合します。イエスが世の罪をすべて負われ、すべての罪を消すために、このようにしてバプテスマ(手を置くこと)をお受けになったことを、ついに悟りました。
そこで、聖書の原本を調べました。表現を調べたところ、「このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです」の部分は、ギリシャ語で「Ἄφες ἄρτι, οὕτως γὰρ πρέπον ἐστὶν ἡμῖν πληρῶσαι πᾶσαν δικαιοσύνην.」と記されています。ここで、「このようにして」と「正しいこと(義)」とは、ギリシャ語では「hoo’-tos gar (οὕτως γὰρ)」と「dikaiosune (δικαιοσύνην)」に相当します。前者は「このように」、「適切に」、「この方法でのみ」、「最もふさわしい」、または「この方法で」という意味です。そして後者は、「神に受け入れられる正しいこと(義)、公正、または公平」を意味します。
それは、イエスが罪人を罪から救われたことを告げていました。イエスがバプテスマをお受けになり、血を流されることによって、神の義を成就なさったことを告げていました。つまり、それは、バプテスマによって私たちの罪をすべて負われたことを意味しているのです。私たちは今、私たちに多くの混乱とさまよいの原因を引き起こしたものの真の意味を認識したために、私たちのパズルはすべてこのように解決されました。イエスが十字架へ行かれ、そうした罪のさばきとして十字架で死なれたのは、バプテスマによってすべての罪を負われたからです。これが水と御霊の福音に見いだされる真理でした。
つまり、私たち新しく生まれている者は、イエスがヨハネからお受けになったバプテスマが私たちの救いに不可欠の要素であり、主がバプテスマによってただ一度で世の罪をご自身に負われたことを悟るようになりました。同じ真理をみなさんも水と御霊の福音のうちに悟らなければなりません。そうしてはじめて、みなさんの魂は照らされることができるのです。
実際、イエスがヨハネからバプテスマをお受けになった日のことを決して忘れることはできません。罪がみなイエスの上に移されたのだと知った日を決して忘れることができません。この真理の認識に伴って、私たちは心に起こった変化を見てきました。その変化は湖で広がる波のように、私たちの心の中に広がりました。闇を貫いて、夜明けのまばゆい光が内に入り、私たちは救済の真理を知るようになったのです。
 
 

イエスがお受けになったバプテスマは世の罪をイエスの上に移した

 
マタイの福音書 3:13-17を読んだ後、私は長い間一言も発することができませんでした。私は実際には罪深い者でしたが、イエスは、「このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです」とおっしゃって、バプテスマをお受けになりました。したがって、イエスが十字架で血(緋色の撚り糸)を流さなければならなかった理由とは、イエスのバプテスマ(青色の撚り糸)でした。このイエスは神ご自身(紫色の撚り糸)でした。そして、旧約聖書と新約聖書のみことば(撚り糸で織った亜麻布)で、イエスは救済の真理を教えてくださいました。言い換えれば、イエスは私たちのすべての罪を負われたのです。
では、私たちにはまだ罪があるのでしょうか。イエスがバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになったとき、すべての人の罪がイエスに移されました。私たち自身の罪もイエスに移されたでしょうか。その時、世の罪がイエスに移されたでしょうか。私たちがまだ母親の子宮にいたときに私たちがすでに持っていた罪は、世の罪でしょうか。私たちが1歳のときに犯した罪はどうでしょうか。これらも世の罪ではありませんか。私たちが子供の頃に犯した罪はどうでしょう。これらもまた世の罪に属していませんか。
私たちが正しい立場にあることを確認するには、こうした質問を自分自身に問いかける必要があります。このように、信仰とは、私たちがみことばとともに正しい地点に立つようにすることです。私たちが十代で犯した罪も世俗的な罪なので、私たちが幼少期に犯した罪は確かに世の罪です。成人期には言うまでもなく、生涯に犯す罪はすべて世の罪です。そのような世の罪はすべてイエスの上にすでに移されました。そうではありませんでしたか。もちろん、そうでした。私たちの主は私たちの罪だけでなく、あらゆる人間のすべての罪を負われたと記されています。ですから、「私たちのすべての罪は確かにイエスの上に移された。それなら私たちにはまだ罪があるのか。いいえ、もはや私たちのうちに罪は残っていない!」と悟りました。
バプテスマのヨハネが 「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ 1:29)とあかししたのは、イエスが実際にヨハネからバプテスマをお受けになったからです。イエスは、人類の初めから終わりまで、これまで生きてきた、そしてこれから生きるであろうすべての人の罪をすべて取り除かれました。だれもが生涯を通じて犯したすべての罪、そしてすべての人の子どもの罪でさえ、すべてイエスによって取り除かれました。この世がどれほど長く続くかにかかわらず、何千年も何十億年にもわたって、私たちの主はバプテスマによってそのすべての民の罪を負われ、肩の上のこうした罪を十字架まで運ばれ、十字架につけられ、それによって私たちのために罪のさばきをすべてお受けになったこと――これが、私たちが悟ったことです。
新しく生まれている私たちが、このため、イエスが再び死者の中からよみがえられ、救い主になられたことを悟ったように、そう信じたとき、すべての質問に答えられました。
私たちの主がこのようにお受けになったバプテスマと十字架で血を流されることとによって、私たちの罪をすべて処理なさいました。聖書が、幕屋の庭の門の青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布について語り、またヨハネの手紙第一 5:4-6 で、イエスが水だけによってではなく、水と血とによって来られたと告げているのは、このためです。こうして私たちは、次のように悟るようになりました。「だから聖書は、私たちの救い主イエスがバプテスマをお受けになって、すべての正しいこと(神の義)を実行なさったと告げているのか。これが真理なのだ。だけど、キリスト教指導者たちはみな、この真理について知らないから、この真理を教えてくれなかったのだ。」
青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布の神の真理が、私たちは罪のない者だと告げるときにのみ、私たちは罪のない者になります。他の魂の救済を誰も承認することはできません。他人の良い言葉を得ることは無益です。人々が私たちに言うこと――人々が私たちにかなり良いキリスト教徒である、あるいはA+のキリスト教徒であると格付けしていることさえ――罪からの救済をどのように構成できるでしょうか。人々が私たちを認めたときではなく、キリストが青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布によって私たちの罪を消されたことを、神のみことばが私たちに告げる場合にのみ、私たちは罪のない者になるのです。
神のみことばは、イエスが私の罪だけでなく、みなさんの罪も消してくださったと告げています。メシヤであられるイエス・キリストがすべての人々の罪をすべて消しておられるため、信じるだけで、私たちはみな、罪の赦しを受けるようになることを教えてくれます。こうして水と御霊を通して罪の赦しを受けることによって、私たちは幕屋の庭の門に入ることができるのです。
 
 

完全な信仰とは何か

 
幕屋の庭の門には、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布で刺繍されていました。だれもが、私たちの主がこの地上に来られ、こうして私たちをすべての罪からお救いくださったと信じる完全な信仰を持たなければなりません。主がこの地上に人の肉のかたちでお生まれになり、ヨハネからバプテスマをお受けになり、十字架で死なれ、死者の中からよみがえられ、それによって私たちの救い主となられたと信じるとき、私たちはみな神の子どもになることができます。私たちの行ないは欠陥だらけで、私たちの肉は無価値ですが、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を心の中で信じることによって、私たちは罪のない者になっています。ですから、義人になるということは、信仰によってのみ可能なのです。青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を通して現れた救済を信じることによって、私たちは神の義に包まれています。要するに、水と御霊の福音を信じることによって、神の子どもになっているのです。
まだ完全に理解しておられない人もいるかもしれません。もしそうなら、みなさんがしなければならないことは、ただこの本を読み続けるか、神の教会に出席することだけです。ここまでは幕屋の一般的な側面だけを説明してきましたが、詳細な説明を読み始めれば、幕屋について完全に理解することができるようになります。子どもでさえ容易に理解できるほど、とても簡単です。
人々がイエスについての大まかな知識に基づいて信仰を築くとすれば、千年だろうと一万年だろうと、どれほど長くイエスを信じても、罪から救われることは決してないでしょう。彼らは毎日罪があるでしょう。それから罪の呪いから逃れることができないために、毎日泣きます。物事がうまくいき始めると、神が助けてくださっているのだと考えます。しかし、状況が少しでも悪くなると、「これは、什一献金をささげなかったからかな。それとも先週の日曜日に教会へ行かなかったからだろうか。私は罪を犯し、神に正しく仕えることができず、そうしたことのために、神は私を実際に罰しておられるのだと思う」と疑問に思います。このようにして、聖書には「律法は怒りを招くもの」(ローマ 4:15)と告げているために、彼らは律法の中に閉じ込められて死んでしまうのです。
本当に完全な信仰を持つためには、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布によって、私たちのところに来られたイエス・キリストの四つのみわざを正しく知り、信じなければなりません。私たちは、イエス・キリストによって与えられた真理を悟らなければなりません。四重の真理を明確に理解し、それを信じるときにのみ、神の前に完全である信仰を持つことができ、ほんとうに神の完全な子どもになることができるのです。私たちは、イエスのこうした四つのみわざを信じることによって、罪のない者になっているので、罪の束縛から自分を解放しようとして闘いをしなくても、常に罪のない義人なのです。私たちは、意志の力を発揮しなくても、罪のない信仰の民です。そして、自分の善行や試みがなくても、私たちは罪がみな雪のように白く洗い流された、神の完全な子どもなのです。
両親に見守られて遊んだり、安らかに眠っている赤ちゃんのように、この真理を信じることによって、私たちは実際、父なる神のあわれみ深い目の前で、私たちの心に平安と平穏を得ているのです。みなさんの行ないが至らなくても、みなさんが至らないほど、みなさんは私たちの主の愛をもっと感じるために、すべきことは、ただ主のみわざを信じることだけなのです。
みなさんは罪の赦しを受けるように騒いでいますが、まだ青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を信じる信仰を持つことができないのでしょうか。この真理を知っている者は今、罪の赦しを受けるために騒ぎ立てる必要はありませんが、ただ静かに信じてください。信仰によって神の子どもになっている者は、水と血と御霊によって来られた方イエス・キリストをほんとうに知り、信じている人々です。彼らは表面的な行動で神に仕えるのではなく、まず信仰を持って神を愛し、神に仕えます。私たちは信じているので、神は聴衆を授けてくださり、私たちとともに歩んでくださいます。神を信じているので、神は助けてくださいます。私たちは、信仰を置くバプテスマと血とでお救いくださっているイエスを信じているので、神の正しいみわざに仕える神のしもべになっているのです。
私たちは今、神が完全な罪の赦しの救済をお与えくださるために、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布で幕屋の庭の救済の門を刺繍して、それを作られたという真理を悟らなければなりません。聖書は、イエスが水と血と御霊によって来られ、旧約聖書にある幕屋の庭の門の青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布によって、私たちを罪からお救いくださっていることを告げています。私たちの主は、罪からの救済の門になっておられます。私たちは、実際にそして事実上、すべての罪からお救いくださっているメシヤの四つのみわざを信じ、そしてもう一度信じなければなりません。
 
 
イエスがヨハネから受けたバプテスマは幕屋の庭の門に現われた青色の撚り糸の実体
 
イエスのバプテスマ
もう一度、マタイの福音書 3:13-17 に目を向けましょう。「さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。『私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。』 ところが、イエスは答えて言われた。『今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。』 そこで、ヨハネは承知した。こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天からこう告げる声が聞こえた。『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。』」 このとき、イエスがバプテスマをお受けになったとき、処女マリヤからお生まれになってから30年になります。ここで「さて」という言葉は、バプテスマのヨハネとイエスの両方が30歳になった時を指します。
イエスより六ヶ月早く生まれたバプテスマのヨハネは、人々に悔い改めのバプテスマを授けていた、この地上の人類の代表でした(マタイ 3:11、11:11)。イエスが30歳になられたとき、バプテスマをお受けになるために、ヨルダン川で人々にバプテスマを授けていた、このヨハネのところに来られました。しかし、バプテスマのヨハネは、イエスにそうさせまいとして、言いました。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」 すると、イエスがおっしゃいました。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」 そこで、ヨハネは承知し、イエスはヨハネからバプテスマをお受けになりました。聖書はまた、イエスがこうしてバプテスマをお受けになった時、天が開け、天から「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」という声がしたと記録しています。
ここのマタイの福音書 3:15 で、イエスはヨハネからバプテスマをお受けになった理由を私たちに教えています。この真理は、幕屋の庭の青色の撚り糸を指します。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」 ヨハネから受けたイエスのバプテスマの目的とは、幕屋の青色、紫色、緋色の撚り糸――「このようにして、すべての正しいことを実行するのは、[二人]にふさわし[かった]のです」――で現われた神のみわざを通して、罪人の咎を赦すことでした。
イエス・キリストがバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになって、すべての人の罪を負われることは、神の正しい愛であり、すべての罪人救済というみわざの成就でした。ヨハネの福音書 3:16 では、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」と告げているようにです。イエスは、私たちが罪のために罰されることがないように、私たちを世の罪からお救いくださるためにバプテスマを受けられたのです。したがって、二人がすべての正しいこと(義)を実行することは、二人にふさわしいことだったので、イエスがヨハネからバプテスマをお受けになることによって、神のすべての正しいこと(義)を実行なさり、人類のすべての罪を負われたのは、このためです。
「神のすべての正しいこと(義)」とは何でしょう。上の節では、イエスがバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになった理由は、父のすべての正しいことを実行するためであったことを教えてくれました。
ここで、私たちは神のすべての正しいこと(義)が実際に何であるかを正確に知る必要があります。「すべての正しいこと」とは、イエス・キリストがヨハネからバプテスマをお受けになり、人類の罪をすべてご自身に負われたことを指します。イエスのバプテスマによって、イエスはご自身に世の罪をすべて一度で負われたのです。イエスの誕生の目的は世の罪をすべて一度で消し去ることであったように、イエスがヨハネからお受けになったバプテスマは明らかに正しいことでした。神のすべての正しいこと(義)を実行することは、世の罪をすべて消し去る義のみわざを実行すること――つまり、救済を実行することを意味しました。
イエスのバプテスマは、神が私たちを罪からお救いになるために不可欠な方法でした。神は旧約聖書の中で、私たちの罪を消し去るために、バプテスマのヨハネを人類の代表として立て、御子イエス・キリストにバプテスマを授けさせ、それによって私たちの罪をすべて御子の上に移すように定められました。これに他ならないのは神のあわれみのみわざでした。神は私たちを深く愛されたので、神は、私たちを神の子どもになさり、私たちの罪を消し去るという正しいみわざを完成なさるために、イエスにヨハネからバプテスマを受けさせました。イエスがバプテスマをお受けになって水から上がられたとき、神が「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」とおっしゃったのは、このためです。つまり、父なる神は、「バプテスマによって、わたしの息子があなたがたの罪をすべて負ったのだ」とおっしゃったのです。
言い換えれば、イエス・キリストはこの地上に来られ、ヨハネからバプテスマをお受けになるという方法によって、私たちのすべての罪を最もふさわしい方法で一度に負われ、それによって私たちの罪を消すためのいけにえのささげ物となられたのです。
イエスがそうした罪を十字架まで運ばれ、十字架につけられ、その尊い血を流され、それによって私たち全員の救い主になられたのは、神の御子が私たちのためにバプテスマを受けられたためであり、そうして私たちの罪をご自身に負われたからです。言い換えると、イエスは私たちの罪のためにバプテスマをお受けになり、十字架の血によってご自身を犠牲となさり、死者の中からよみがえられることによって、イエスは信じる私たちをお救いくださっているのです。死者の中からよみがえられ、救済のみわざを完了なさった後、今は神の御座の右に着座しておられ、時が来ると、確かに再臨されます。この真理とは、水と御霊の福音であり、救済の核心なのです。
幕屋の庭の門に関して、出エジプト記 27:16には、次のように記録しています。「庭の門には、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を使った長さ二十キュビトの刺繍した幕と、その四本の柱、その四個の台座とする。」 そこで、幕屋の庭の門は、こうした青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布で刺繍されていました。これは、私たちが救済の賜物を信じることによって天の御国に入るという真理を告げています。
幕屋の庭の門に刺繍された青色の撚り糸は、イエスがこの地上に来られ、バプテスマをお受けになったときに、すべての罪がイエスの上に移されたという事実を指します。
紫色の撚り糸とは、私たちの罪のためにバプテスマをお受けになったイエス・キリストが、根本的には全宇宙とその中にあるすべてのものを造られた創造主ご自身であられ、みなさんと私の主であられたことを告げています。紫色とは王の色であり(ヨハネ 19:2-3)、したがって、イエス・キリストは王の王であり、すべての主であられることを告げています。「キリスト」という言葉は、「油そそがれた者」という意味であり、王、祭司、または預言者だけが油そそがれることができました。そのように、イエス・キリストは人の肉のかたちでこの地上に来られましたが、彼の真の正体は実際に王の王でした。つまり、イエスは主であられ、全宇宙を造られた創造主であられたのです。イエスは、全能の神ご自身であり、父なる神のひとり子でした。
幕屋の門に刺繍された緋色の撚り糸とは、この王の王が、人の肉のかたちでこの地上に来られ、バプテスマによって私たちの罪を負われた後、十字架につけられ、血を流されたときになさった犠牲を指します。イエス・キリストはバプテスマをお受けになり、ご自分の尊い血を流され、こうして私たちのためにご自身を犠牲になさることによって、私たちに代わって私たちの罪の報酬を支払われたのです。緋色の撚り糸は、イエス・キリストの血の犠牲を表しています。
最後に、撚り糸で織った亜麻布とは、神の複雑な旧約聖書と新約聖書のみことばを指します。聖書は、旧約聖書と新約聖書のみことばを通して、私たちの救いについて語っています。旧約聖書から、神は罪人の救い主として私たちのところに来ることを約束なさいました。そして新約聖書で、神が約束なさっておられたように、神ご自身であられるイエス・キリストが、確かにこの地上に来られ、バプテスマをお受けになり、十字架で血を流されました。私たちの罪のためにいけにえとして、ご自身をささげてくださったのです。
青色の撚り糸で、神はイエス・キリストが私たちを罪からお救いくださるために、この地上に来られ、バプテスマによって私たちのそうした罪を負ってくださったという、みことばを明らかになさいました。そして紫色の撚り糸で、バプテスマをお受けになった、このお方が実際には神ご自身であられることを明らかになさいました。そして、緋色の撚り糸で、神は救い主としてこの地上に来られ、バプテスマをお受けになり、世の罪を十字架まで運ばれ、尊い血を流されることによって、みなさんと私を罪からお救いくださっていることを明らかになさいました。
一方、この救済が旧約聖書から約束された神のみことばによってもたらされたことは、撚り糸で織った亜麻布によって明らかにされました。幕屋の庭の門がこうした青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布で刺繍されていたのは、このためです。幕屋の庭の門を見ると、この門は、神がどのように私たちを罪からお救いになり、ご自分の民とされたのかを明らかにしており、明確に示しています。そのように、幕屋の庭の門に用いられた四本の撚り糸の霊的な意味をすべて信じなければなりません。
幕屋の庭の門の色について言えば、聖書はまず、その青色の撚り糸に触れています。私たちは通常、紫色、青色、緋色の撚り糸の順序で考えますが、聖書は実際には青色、紫色、緋色の撚り糸の順序で示しています。これは、青色の撚り糸の重要性を示しています。イエス・キリストが確かに私たちの救い主としてこの地上に来られた時、ヨハネからバプテスマを受けられなかったなら、私たちは罪を清めることができなかったでしょう。私たちを世の罪からお救いになるために、すべては父のみこころに従順であることにおいて、イエスがヨハネからバプテスマをお受けになり、十字架につけられたのは、このためです。
イエスは、すべてのものを創造した宇宙の主であられ、私たちの神であられます。私たちをこの地上に生まれさせ、私たちに新しいいのちをお与えになり、私たちのいのちを支配なさる神ご自身です。私たちを罪からお救いくださるために、全人類の代表からバプテスマを受け、それによってすべての罪をご自身に負わせなければなりませんでした。つまり、イエス・キリストが私たちの真の救い主になっておられるのは、ヨハネからバプテスマをお受けになることによってなのです。
イエス・キリストがこの地上に来られたのは、私たちを罪から救い出すためでした。そしてイエスがバプテスマをお受けになったのは、私たち自身のすべての罪をご自身に負われるためでした。そもそもキリストのバプテスマがなければ、キリストは十字架につけられなかったでしょう。幕屋の庭の門が、イエス・キリストが私たちを罪からどれほど正確にお救いくださったか――すなわち、キリストの救済の具体的な方法を明確に示しているのは、このためです。
幕屋の庭の門の色は、イエス・キリストがこの地上に来られ、ヨハネから受けたバプテスマによって人類の罪をすべて負われ、十字架につけられた――言い換えれば、イエスはすべての罪をご自身で処理してくださるであろうことを告げているのです。イエスがバプテスマを受けられたとき、天国の扉が開かれ、父なる神は、次のようにおっしゃいました。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」 イエス・キリストは、私たちのメシヤであり、救い主であられますが、神の御子でもあられ、まさしくご自身のみことばで全宇宙を造られた創造主であられます。イエスは聖なる神であられるように、真の救い主となられるために、バプテスマをお受けになることによって、私たちのすべての罪を負うことがおできになりました。
全宇宙を創造なさり、それを支配なさっておられるイエス・キリストは、罪からの明確な救済を私たちに示してくださっています。みなさんと私がほんとうに救われているのは、イエス・キリストが私たちの罪を消し去るためにこの地上に来られ、バプテスマによってそうした罪をすべてご自身に負われ、十字架で死なれたからです。イエス・キリストは、私たちの生死を支配なさり、全宇宙を創造あさり、私たちの祖先と全人類をこの地上に連れ出した創造主であられます。イエスは、まさに青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布の実体でした。
神ご自身が、罪人のいけにえのささげ物として、この地上に来られました。私たちをお救いくださっているイエスは、この神、全能者、あわれみ深い神であられました。イエス・キリストが神のすべての正しいこと(義)を実行なさったのは、イエスがバプテスマによってすべての罪をご自身に負われたからであり、イエスは世の罪を十字架まで運ばれ、十字架につけられ、ご自分の尊い血を流されたのは、このためです。幕屋の庭の門に現われているように、イエス・キリストは私たちの罪をすべて消し去るために、私たち自身のいけにえのささげ物となられました。
幕屋の庭の門だけでなく、聖所の門、至聖所の門、そして神の家のその覆いもすべて、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布で刺繍されたのは、このためです。みなさんと私が、信じることによってすべての罪を洗い流されるのは、イエス・キリストがみなさんのためにバプテスマをお受けになったからです。イエスは、すべての正しいこと(義)を実行するためにバプテスマをお受けになって、この正しいこと(義)とは、イエスのバプテスマによってすべての人の罪をご自身に負わせることによって成し遂げられました。したがって、私たちがしなければならないことは、そのとき私たち自身のすべての罪もイエスに移されたことを認識し、そう信じることです。
しかし、恣意(しい)的かつ無謀に、イエスを信じるキリスト教徒は非常に大勢います。彼らは、頑固すぎて不法の自分の宗教的信仰を放棄することができず、最初から神に挑んでいます。私たちは、イエスがくださった救済の道に従って、イエスを信じなければなりません。イエスは、次のようにおっしゃいました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハネ 14:6)。イエスは私たちにおっしゃっています。「わたしが道です。わたしはあなたを天国に導く道です。わたしが羊飼いであり、道であり、真理なのです。わたしは、確かにあなたを救う、いのちです。」 私たちを罪からお救いくださることによって、イエス・キリストは私たちにとって新しいいのちの主になっておられるのです。
 
 
私たちがイエスを信じるときイエスをどのように理解し、信じるべきか
  
イエスがこの地上に来られ、私たちをお救いくださっているという同じ道を信じることによってのみ、私たちはすべての罪から救われるのです。「信仰」という言葉には、「頼る」「すがる」「委ねる」などの意味が含まれています。年を取りすぎると、一人で生きるのが難しくなりすぎるので、高齢者はよく自分の子どもたちに頼ります。同様に、私たちが神に委ねて生きるのは、自分で罪を消すことはできないからです。自分で罪を犯さないようにしようとしても、私たちは常に罪を犯してしまう生活を送っています。神を信じ、神が私たちのためにしてくださったことを信じることによって、私たちの救い主イエス・キリストに信頼を置くのは、罪から自分自身を解放することができないからです。
 私たちはイエスを信じて救いを求めるとき、まず正しい信仰とはどのような信仰なのかを知らなければならないのは、このためです。2,000年以上前に、イエスはみなさんと私――確かに、この世のすべての人間――を罪からお救いくださるために、この地上に来られました。30歳になると、バプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになり、それによって世の罪をすべてご自分に負わせました。私たちはみな、この事実を信じなければなりません。イエスがみなさんと私の罪だけでなく、世のすべての罪をバプテスマによってご自分に受け入れられたとき、過去、現在、そして未来のすべての罪も、イエス・キリストによってすでに負われたのだと信じなければなりません。
 しかしながら、イエスがバプテスマをお受けになったとき、世のすべての罪だけでなく、彼ら自身のすべての罪もイエスに移され、十字架の血だけを信じ続けているという、この事実を多くの人々はまだ無視しています。幕屋のすべての門が、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布で刺繍されていたことを誰もが分かっているにもかかわらず、どの信仰が正しい信仰であるかを簡単に識別できる人がいないのは、そのためです。
 イエス・キリストが私たちをお救いくださるために、この地上に来られたとき、私たちを平手打ちで救うことはなさいませんでした。みなさんと私が完全に救われているのは、イエスが実際にバプテスマによって私たちの罪をすべて負われ、磔刑によって私たちの罪の罰をすべてお受けになったからです。このようにして、イエス・キリストが人類全体を救っておられるのです。私たちの主が、「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」(ヨハネ 6:37)とおっしゃったのは、このためです。
 私たちがイエスを信じていると言うとき、イエスの性格だけだったり、イエスの全能性だけを信じているのではありません。むしろ、キリストが神であるという事実にもかかわらず、この地上に来られ、バプテスマによってみなさんと私の罪をすべて負われ、私たちのために十字架で犠牲になられたのだと信じることによって、救われるのです。幕屋に現われた救済を見ると、イエスを信じると告白するときに持っているべき正しい信仰が何であるかが明確にわかります。
 今日、十字架の血だけを信じ、「♫罪 重荷をのぞくは♪ 血の力 主の血は♫」と絶え間なく唱え、自分たちの熱意の中で、「主よ、私は信じます!」と盲目的に叫んでいる人が大勢います。彼らがどれほど熱心にイエスを信じているとしても、十字架の血だけを信じることによっては、罪から解放されることはできません。
 私たちは生涯を通じて、罪から解放されることは決してできないようになっているので、絶対に救い主が必要であり、この救い主とはイエス・キリストに他なりません。みなさんと私をお救いくださるために来られたイエス・キリストは、救い主、王の王、全宇宙とその中のすべてのものを造られた創造主、そして私たちのいのちの主であられます。イエスはこの地上に来られ、バプテスマによって私たちの罪をご自身に負われ、十字架で死なれることによって、私たちの罪を清めてくださいました。つまり、バプテスマと十字架で罪のすべての罰をお受けになったイエス・キリストを救い主として信じることによって、救われます。これが、幕屋の庭の門が明確に決定的に私たちに示しているものです。
 
 
宗教的にのみイエスを信じる人々
 
 最近では、人々は、ただ十字架の血を信じるだけで救われると主張しています。そのような空しい主張をすることは、彼らの宗教的信仰の表示に過ぎません。こうした人々は、「私が神に悔い改めの祈りをささげたとき、聖霊は私の心の中で私に語りかけました。『わたしの子よ、わたしはあなたの罪を許している』 私が聖霊の声を聞いたとき、私はどれほど感謝したことか!」と言います。そのような信仰が自分たちの信仰のあかしであると言って、そのような主張をするのです。
 しかし、私たちの救いは自分たちの感情的な感覚によってもたらされるのではありません。むしろ、私たちは人格のすべての側面、つまり知識、感情、意志を通して救われます。つまり、救い主であられる神が私たちをどのように救われているかを最初に知り、それらかそれを信じることによって救われなければなりません。しかし、宗教についてはどうでしょう。これらは何でしょう。宗教とは、人々の考えに基づいて構築された人工の制度に他なりません。
 ずっと昔、私の家族で、母はシェフでした。私は以前、母の助手で、台所の周りで母の後を追い、聖書のヤコブのように、母が必要とする助けを尋ねました。 母が食事を用意する台所で忙しかったとき、私は食堂でテーブルを置くことに忙しかったのです。母と私は、素晴らしい組み合わせだったのです。朝起きると、私たちは火を起こし、テーブルを準備し、食事の後、ほうきで台所の床を掃きました。朝の雑用はこのほうきで終わりました。
 これは、当時の韓国特有の光景ではありませんでした。しかし、もっと興味深いことは、台所の床をきれいにするために使用された、まさにこのほうきが、表向きは私たちが求めるものを私たちに与える神に突然変わったということでした。つまり、このボロボロになったほうきに実際に祈る人々がいました。そのような不条理は私たちの生活の中で頻繁にありました。これだけでなく、家族や近所に何か不幸があるときはいつでも、かつてシャーマンを呼び出して魔術を行いました。当時の人々は汎神論を信仰し、神々がいたるところにいると信じていたため、地面を掃くために使用された、このほうきが神に変わるだけでなく、祖先の名前が書かれた先祖の位牌(いはい)、丘の上の大きな岩、または実際に目で見たすべてのものは、神々になり得ました。
 最近は、このような無知が次第に人々から抜け出してきましたが、あの頃は何でも神になってしまうことがよくありました。そのため、当時最も活発的な事業の一つは、魔術に他なりませんでした。魔女が魔術を行ないながら、理解できない呪文を唱えているのを、見たのを覚えています。私はかつて魔女が呪文を唱える方法を真似て、「アブラカダブラ、アブラカダブラ、日光が来ても、日光が来ても、日光が来ればすべてが私のもの。カボチャの樽は献身の欠如のために壊された。アブラカダブラ、アブラカダブラ。」 もちろん、そうした意味は分かりませんでした。
 そのような魔術が近所の家の一つで行われたとき、かつて村全体からみんなが集まってそれを見ていました。そのような場面の最重要点とは、わけもわからずに笑いながら、死んだ豚の頭に紙幣が詰め込まれるところでした。魔女の呪文とその効力を判断するために詰められた紙幣の数は、どれほどだったでしょう。この魔術は、朝日が差すまで一晩中続きました。
 私の古い知人の中に、処女の幽霊に取り憑かれていると主張する人がいました。彼は、処女の幽霊に取り憑かれていたので、ほとんどすべての悪魔を追い払うことができると主張していました。処女の幽霊はおそらく他の者よりも多くの力を持っていたようです。結局のところ、より強力な悪魔に直面したなら、彼自身がこの悪魔を追い出すのではなく、絞め殺される可能性がありましたが、それでも彼はすべての園芸品種の悪魔を追い出すことができると主張しました。彼は、魔術師にほかなりませんでした。
 他の人と同じように、彼はいつものようにいつもの時間を過ごしました。しかし、誰かがその悪魔払いを行なうように頼んだときはいつでも、彼は魔術師の衣装に着替え、壮大なショーを行いました。人々は、神のみことばとは何の関係もない原始的な宗教に従い、あらゆる狂気や恥ずべきことを信じるようになるのは、人々の心が迷信的な思いによって占められているからです。
 言い換えれば、人々は自分たちの宗教を作り上げてきました。先ほどの話のように、彼らは自分たちで神々を捏造(ねつぞう)しました。人々はこのような本能を持っているので、キリスト教徒だとしても、イエスが自分たちのために十字架につけられたと言われると、自分たちの感情に容易に圧倒され、気に病んで、盲目的にイエスを信じてしまうことがあります。そして、イエスが神の御子であり、全宇宙を創造なさった創造主であると彼らが言われると、彼らはただそれを愛し、再び無条件に信じます。彼らはまた、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」と聞くのが大好きであり、さらに、本物の理解なしに無条件にそれを信じます。神のみことばには誤りがないので、彼らが初めて良いことばを聞いたときでさえ、彼らが言うことはみな、ただイエスを愛しているということです。
 しかし、彼らがイエスへの信仰を告白しているにもかかわらず、イエスは心がまだ罪深いままであるそうした人々を裁くために来られるのです。イエスはまた、水と御霊の福音を信じる人々を連れ去るために来られます。水と御霊の福音の真理を知らず、自分の考えだけに基づいてイエスを信じる人々のほとんどは、自分の宗教生活の始まりから約10年で、本当に神の律法に従って生きることができない罪人であることを最終的に悟るでしょう。
 私もイエスを恣意的に信じていました。かつて私は、いつも賛美を歌っていましたが、ただキリストにお会いしていることを喜んでいました。しかし、イエスを知ってから律法を知るようになり、律法を知ってから自分の罪を知るようになりました。私の罪を知った後、私は罪の永遠のさばきがあることを悟り、その結果として、罪の苦しみが続きました。
 この罪の苦しみを解決するために、私は悔い改めの祈りをささげました。しかしながら、そのような信仰は、人々が祝福されるためにすべてのものに祈った迷信のようなものでした。神のみことばに記された律法を知るようになって、自分の罪を悟った後、心が非常に痛くなったので、悔い改めの祈りをささげなければならないと思い、そのような悔い改めの祈りが私に心の安らぎをもたらしました。しかし、罪はまだ私の良心に残っており、私の魂がまだ罪の束縛の中にあることを見いだし、私は苦しみ続けました。
 このように、イエスを信じて愛するようになったのは、自分の罪に縛られていたからではなく、自分の罪を悟るようになったのは、イエスを信じたからです。そして、苦しみが私のところに来たのは、こうして私の罪を悟った後でした。「私はイエスを信じるのが早すぎたに違いない」という考えもして、若い頃の早い段階でイエスを知って信じるようになったことさえ、後悔しました。しかし、私はイエスを信じることを単にやめることはできませんでした。そして、この罪の束縛から抜け出すために、悔い改めの祈りをささげましたが、こうした祈りが根本的に問題を解決することはできなかったので、役に立ちませんでした。
 普通の人は自分が罪を犯している時でさえ、彼らが犯した罪を知りませんが、教会に通い始めると律法について聞いて罪を悟るようになり、したがって罪の中に閉じ込められるようになります。それで彼らは最初に感情的な悔い改めの祈りをささげることによって、自分の罪の問題を解決しようとしますが、時間が経つほど、彼らは自分たちが自分の罪に縛られていて、そうした罪を赦されなければならないことを悟ります。
 彼らが悔い改めの祈りをどれほどささげても、彼らが祈れば祈るほど、彼らの罪は消え去るどころか、罪がさらにはっきりと現われ、罪の存在をさらに思い出させることを、さらに悟ります。この時点から、そのような人々の宗教生活は曲がりくねった痛みを伴い、苦しみ続けます。彼らは、次のように疑問に思います。「私は最初に信じたとき、とても気分が良かったのに、なぜ5年、10年経った今は、あの頃よりもずっと気分が悪いのだろうか。なぜ私は昔より悩んでいるのだろうか。」 彼らは、自分たちが最初に信じた時にとてもしっかりと保っていた彼らの救済の信仰さえ、もはやそこにはないことを悟ります。彼らはイエスを信じた後に罪深くなったと思ったので、あらゆる教義を自分の信仰に合わせることに頼り、結局そのような宗教家になってしまいました。
 こうした人々が、最終的に単なる宗教家になってしまうのは、イエスが青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布によって罪から救っておられるという真理について無知であるからです。彼らはイエスを信じていると告白していますが、その心には平安がないので、まだ悩んでいます。そのような人々は、たとえ彼らが試みるとしても、彼らは神ご自身以外のものを信じることが偶像崇拝を犯していることをすでに知っているために、別の神に変えることに頼ることさえできません。彼らはイエスだけが神の御子であり、イエスだけが神ご自身であり、救い主であることを明確に知っているので、彼らは別の神を信じることさえできません。しかし、彼らは真理を知らないので、彼らは苦しみの中に生きており、いつも自分の罪に悩まされています。
 青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布によって来られたイエス・キリストを知り、信じなければならないのは、このためです。結局、宗教家になったこうしたキリスト教徒は、イエスが王であられること、イエスが十字架で血を流されたこと、そして聖書の言葉が神のみことばであることを知っています。
 しかしながら、彼らが知らないのは、イエスが自分たちの罪だけでなく、世のすべての罪もイエスのバプテスマによって、イエスご自身に負われたということです。この無知が、彼らが信仰を告白しながらも罪人として生きている理由であり、彼らが罪人のために予約された場所に行くことになってしまう理由なのです。そのようなキリスト教徒の宗教家たちは、イエスが自分たちの罪をどのように正確に処理なさったのか全くわからないので、彼らは立ち上がるときはいつでも、自分の感情を信じています。その結果、象の一部に触れて、象を理解しようとする盲人のように、実際の現実は彼らが信じているものと一致しません。彼らは自分たちの信仰の何が悪いのかを全く気づいていないのは、このためであり、それでまた混乱の中にいるのは、このためです。
 
 
青色の撚り糸の真理を信じないとしたら私たちに何が起っていたのか
 
   幕屋の庭の門から青色の撚り糸を除外しながら、イエスを救い主として信じたとしたら、どうなるでしょうか。神が幕屋の庭の門を青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布で刺繍することによって建てるように命じられたのに、モーセは代わりにイスラエル人に紫色と緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布だけで門を建てるように語って、イスラエル人が確かにこのように門を完成させたとしたら、神は何をおっしゃったでしょう。神は、それをご自分の幕屋の門として、お認めになるでしょうか。神は、そのようにそれを決してお認めにならなかったでしょう。神はイスラエル人に幕屋の門を異なる色の四本の撚り糸で建てるようにおっしゃったので、それに従って建てられなければ、幕屋の門と呼ばれることは決してなかったでしょう。四本の撚り糸のうち、一本の撚り糸も除外されません。
   幕屋の庭の門は、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布で刺繍されていなければなりませんでした。神ご自身であられるイエスが人の肉のかたちで、私たちの救い主としてこの地上に来られ、ご自分のからだに世のすべての罪を負われ、十字架で死なれ、死者の中からよみがえられ、それによって私たちの罪を雪のように白く洗い流されているため、私たちが罪から救われているのは、このイエス・キリストを信頼して、信じることによってなのです。幕屋の門の色は、罪から救われるために、イエスをどのように信じなければならないかを教えています。幕屋の門に現われた真理を信じる者はみな罪から救われています。彼らはみな、雪のように白く、罪の赦しを受けています。イエス・キリストは、みなさんと私を雪のように白くなさって、私たちの罪を洗い流しておられます。みなさんと私の実際の救い主になっておられます。
   これが、まさに幕屋の門に現われた真理です。しかし、紫色と緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を信じていると告白しているにもかかわらず、今日では青色の撚り糸の暗示を信じていない人が大勢います。
   本書の予備調査をするために、一度キリスト教書店に行ったことがあります。そこでは、最も有名なキリスト教徒の指導者たちによって書かれた幕屋に関する本をいくつか見つけました。しかしながら、幕屋の庭の門にさえ触れなかった人もいれば、次のような根拠のない主張をした人もいます。「幕屋の庭の青色、紫色、緋色、それに撚り糸で織った亜麻布が私たちに告げていることは何でしょう。青色は空の色なので、イエスが神であられることを教えています。緋色とは、イエスがこの地上に来られたときに、イエスが十字架で流した尊い血を指します。紫色はイエスが王であることを私たちに伝えます。」
   このような解釈は、正しくありません。イエスが神であられることは、紫色の撚り糸を通して、私たちに語られています。神が紫色の撚り糸を通してイエスが王の王であり、主の主であることをすでに私たちに告げておられるのに、なぜ神は再び青色の撚り糸でこれを繰り返すのでしょうか。そうした人々は、彼らがそれを正しく解釈することができなかった青色の撚り糸の奥義を知らないからです。
   彼らは十字架の血しか知らないので、緋色の撚り糸に大きな重点を置いています。幕屋の門の彼らの絵を見ると、それは白色と赤色の大半を占めていることがわかります。青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布の四色が、幕屋の庭の門に明確に示されなければならないのに、彼らの図面には、紫色の撚り糸がいくつかあり、緋色と白い撚り糸だけが示されていますが、青色の撚り糸はまったく示されていません。
   青色の撚り糸の真理を悟ることもせず、そのような耐え難い信仰について語っている人が、この世には非常に大勢います。彼らは、イエスが私たちの罰をお受けになるために、バプテスマによってご自分に世の罪を一度で負われたことに気づいていないにもかかわらず、イエスの十字架の血だけを信じて救われると主張する今日の多くの人々が大勢います。そのような人々の心は、いつも罪深いままです。今日、明日、その先へ――実際に死ぬまで――そのような人々は罪深さから解放されることができないので、苦しめられたままです。ですから、「死ぬまで私は神の前で罪人だ」と告白する人もいます。しかし、イエスを信じているにもかかわらず、死ぬまで罪人のままでいることは、これが本当に正しい信仰なのでしょうか。
   イエスを信じた後、正確にいつ義とされるのでしょうか。天国は、イエスのバプテスマと血を信じることによって、罪のない者になっている人々のために用意された場所ではないのでしょうか。天国は確かに罪深い者のためではなく、義人のための場所です。罪から確実に救われ、罪のない者になっている義人だけが、天国に入ることができるのです。
   イエスを信じているにもかかわらず、死ぬまで罪人であると宣言する人々は、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を知らないので、何度もイエスへの信仰を告白したとしても、救済の確信はありません。彼らがイエスを信じて、イエスに祈るときでさえ、彼らは自分たちの祈りが答えられるだろうという確信を持っていません。彼らはイエスを信じていますが、イエスに助けられることも愛されることもありません。彼らは、献身を示している間は愛されていると感じるかもしれませんが、献身を緩めると、まるで神に見捨てられたかのように感じ、神に憎まれているように感じます。彼らは、神にささげ物と献身をささげるときにのみ、神に愛され、祝福されるのだと考え、ささげ物を神にささげられないとき、神はもはや自分たちを愛しておられないのだと考えます。彼らが困難な時期に遭遇すると、神は彼らを憎み、なぜそのような困難な時期を経験しなければならないのか理解できず、最終的に自分たちの惨めさのために神を責め、もはや神を信じないと考えます。
   結局、そのような人々と神との間の信頼は壊れます。彼らの信仰は彼ら自身の思考と感情の産物なので、それは非常に恣意的で、不安定で、間違っています。私たちが神のところに行くとき、私たちは感情を捨てなければなりません。
   私たちが神のところに行くとき、罪のために地獄に定められていた私たちを、イエス・キリストがバプテスマと血とによってお救いくださっているという真理を明確に信じる信仰だけをもって行かなければなりません。神のみことばと律法のみことばの前で、水と御霊の福音の前で、そして私たちの良心で、私たちは例外なく地獄に定められざるを得ない人であったことをはっきり認識しなければなりません。私たちが本当に罪深い存在であり、神がどのように私たちを罪からお救いくださっているかを知り、学び、信じ、信頼するときにのみ、イエス・キリストがすでに私たちの真の救い主になっておられることを悟ることができます。
 
 
真の信仰によってのみ救済の賜物を受けることができる
 
   したがって、みなさんと私は、私たち自身の善行をすることによってではなく、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を信じることによって、罪から救われていることを認識しなければなりません。そして、イエス・キリストが私たちを罪からお救いくださるために、この四重の真理のうちに、明らかに私たちのもとに来られたことを知り、信じなければなりません。イエスは、メシヤとして来られるために旧約聖書で約束なさり、そしてこの約束なさったとおり、イエスは確かにこの地上に来られ、イエスのバプテスマによって、私たちの罪と全人類の罪を一度でご自分に負われました。それからイエスは、こうした世の罪を十字架に運ばれ、十字架につけられ、尊い血を流され、そして「完了した」(ヨハネ 19:30)と叫んでから死なれました。三日目に死者の中からよみがえられ、さらに40日間あかしなさり、戻られることを約束なさって、神の御座の右の座に昇天なさいました。私たちはこれらを信じなければなりません。
   「わたしは、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布のみわざによって、あなたがたを確実に救っている。それで、わたしは、この救済の真理を信じる人々を連れ去るために戻ってくる。また、わたしは彼らに神の子どもとなる特権を与える。この真理を心の中で信じている人々のために、わたしは彼らの罪をきよめ、雪のように白くし、彼らに聖霊を与え、彼らをわたし自身の子どもとする。」 これが、主が私たちにおっしゃっていることです。
   私たちは、このみことばを信じなければなりません。私たちの主は、すでにこうした約束を成就なさっており、主は実際にこの地上の人々の生活のうちでみわざをなさっておられます。イエスは、この真理を信じる人々を守られ、彼らのためにあかしなさいます。こうして、私たちの主のバプテスマと血のみわざによって救われ、神の恵み、保護、愛のうちに宿り、義人の生活を送るのです。私たちが信じて罪から救われているのは、神が私たちをお救いくださっておられるからです。
   幕屋に関するこの本が全世界のすべての言語に翻訳されるとき、私は全世界の人々が真理への信仰を通して罪から救われると確信しています。罪の赦しは、イエスの血によってのみもたらされると主張する人々は、もはやそのような主張をすることができなくなりますが、代わりに彼らの主張がどれほど間違っているかを悟るようになります。彼らはもはや何か偽りにしがみつくことも、これが救済であると主張することもできなくなります。イエスの血を信じるだけで救われるとは、決して言えなくなります。
   幕屋の庭の門には、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布による救済の明確なみことば、水と御霊の福音が見いだされます。これは、旧約聖書から約束され、預言された神のみことばであり、神がバプテスマと磔刑ですべての罪からの救済を成就なさることによって、新約聖書でこの約束を守っておられるため、この救済の賜物を喜びと感謝の気持ちで信じるなら、私たちはみな、永遠の罪の赦しを受けることができます。
   これは、とても簡単で完璧なみことばですが、みことばへの純粋な信仰がなければ、全宇宙を知り尽くしても理解できない真理でもあります。私たちが神のみことばをそのまま信じなければならないのは、そのためです。それは私たちが無知のままでいるわけにはいかないほど貴重な真理なので、みなさんと私は水と御霊の福音を最も確実に信じなければなりません。幕屋に現われた青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布の真理を、私たちに自由に、そして簡単に教えてくださることによって、神は、私たちにこの貴重な救済の賜物を私たちの信仰とともにお与えになっています。
   この真理を信じるみなさんも私も、神の真理への愛を感謝します。それでも、青色、紫色、緋色の撚り糸の本物の真理を知らずに、人々を教え、彼らの誤った道に導いている人々が大勢います。彼らにも、私たちはこの真理を広めたいと思います。真理の無知によって心を痛めている人々に、罪から解放され、救済の門に入るようにと願って、私たちはこの水と御霊の真理の福音を宣べ伝えています。私たちが幕屋の真理を宣べ伝えるとき、それを信じる人々は救われますが、信じない人は罪に定められます。私たちがイエスを信じることを決心したなら、青色、紫色、緋色の撚り糸の真理を知って、イエスを信じなければなりません。
   最初から青色、紫色、緋色の撚り糸の真理は、誰も知りません。神は、次のようにおっしゃいました。「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」(ヨハネ 8:32)。真理とは何でしょう。真理とは真の福音(エペソ 1:13)、つまり、青色、紫色、緋色の撚り糸に現われた水と御霊の福音です。青色、紫色、緋色の撚り糸を正しく知り、信じることが、真理への正しい信仰なのです。
   神はなぜ真理が私たちを自由にするとおっしゃったのでしょう。みなさんは、どのようにして罪から救われていますか。青色、紫色、緋色の撚り糸を信じることによって、すべての罪から救われているだけでなく、みなさんの心も聖霊が宿られたでしょうか。みなさんの心と良心の両方から、みなさんの罪は明らかに消えているでしょうか。みなさんは本当に神を信じて、本当に神がみなさんの父であられることを心の奥底から告白できますか。神は罪のない者だけをご自分の子どもであると認めておられるので、幕屋の庭の門に刺繍された青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を知り、信じる人々の信仰だけをお認めになります。罪人は神の子どもではありません。水と御霊の福音を信じる新しく生まれている者だけが、神が私たちにお与えになっている唯一の福音であり、父なる神の子どもたちです。
   この世で生きている間、私たちは多くの困難、苦労、苦しみに直面しますが、神は私たちとともにおられるので、私たちは幸せです。私たちは至らない存在ですが、私たちは祝福された生活を送り、神の義を信じ、神の義を私たちに授けている福音である青色、紫色、緋色の撚り糸の福音を全世界に宣べ伝えています。
   何よりも、青色、紫色、緋色の撚り糸について、神に感謝いたします。私がイエスを最初に信じたとき、どれほど献身的に信じたかにかかわらず、私の心はまだ罪深いままであって、このために私は非常に苦しみました。イエスを信じることをどれほど誠実に告白したとしても、罪は私の良心に明らかに存在していました。人は、自分の良心を見ることによって、神の前で罪深いかどうかを知ることができます。言い換えれば、良心にまだ罪がある者は、罪の赦しを受けることがまだできていない人々です。彼らの良心がすべての罪の中で最も小さい罪さえあるなら、これは彼らが罪の赦しを受けていないという証拠です。
   しかしながら、私が罪のすべての問題、最も小さな罪さえ解決する真理を知ることができなかったとき、あらゆる質問と疑問が私の心に生じたとき、結果として、青色、紫色、緋色の撚り糸を通して、神は私に会ってくださいました。
   このみことばは、私たちが以前に読んだマタイの福音書の一節で見つかりました。マタイの福音書 3:13-17 を読みながら、私は、「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです」(マタイ 3:15)という節に出くわしました。それから私は、イエスがバプテスマをお受けになって水から上がられたとき、神がご自分の義をあかしなさり、このイエスのバプテスマを通して、すべての罪が消されたように、すべての正しいこと(義)が実行されたことを悟り、信じました。
   イエス・キリストがヨハネからバプテスマをお受けになったとき、すべての罪は明らかにイエスの上に移され、一度でそうした罪が十字架で解決されました。イエスがバプテスマをお受けになった理由を悟り、信じた瞬間、私の罪がすべて私から切り離されたので、私の未解決の罪に関するすべての問題と疑問が答えられました。真の神のみことばである水と御霊の福音を知り、信じることによって、この罪の赦しを受けたという事実、この罪の赦しの真理に非常に感謝しました。
   主が記されたみことばを通して私のところに来られ、私はこの水と御霊のみことばを通して、心の中でそれを信じることによって、私の罪の赦しを受けました。それ以来、旧約聖書と新約聖書のみことばを通して、青色、紫色、緋色の撚り糸の福音を多くの人々にあかししてきました。そして今でも、こうしたすべての真理と救済の奥義を広め続けています。真の福音は、人間独自の考え、教義、または感情的な経験から作られたものではありません。
   青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布によって、主は私たちの罪を消し去ってくださいました。青色、紫色、緋色の撚り糸を通して、世界中のすべての人が救済の真理を明確に理解し、この真理が水と御霊の福音にほかならないことを認識するようになります。これは、この終わりの時に絶対に必要とされる真理でもあります。無数の人々がこの真理を信じるようになるでしょう。
   今日の時代は、人々の義が壊れており、その悪が蔓延している時代です。周囲の状況が悪化すると、人々は根本的に宿った悪をすべてこぼします。それにもかかわらず、私たちの主は青色、紫色、緋色の撚り糸の福音を通して、みなさんと私を罪からお救いくださいました。この祝福はどれほど感謝し、貴重なものでしょう。私は、喜びと幸せに溢れているために、この明確な救いを主に感謝します。
世界は今、神が預言する終わりの時代に向かっており、すでにこの時代に入っています。このような時に、献身的に神に仕える人々が少なくなり、信者の信仰さえも弱まるとき、そして水と御霊の真理以外のものに身をささげようとするなら、心に傷が残るだけです。神を信じているとき、青色、紫色、緋色の撚り糸の福音を信じなければ、心に意味のあるものを残さず、具体的な実を結ぶこともないために、失望するだけです。
幕屋の四色――青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布――の福音の真理は明確な真理であるため、それはこの暗い世界で唯一の最高の福音です。幕屋に現わされた真理を知り、信じることによって罪の赦しを受けている私たちの生活を送ることは、私たちにとって価なしの祝福、貴重な贈物、そして大きな幸せです。
幕屋の門に現われた青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布の真理を知り、信じている人々は、偽りではなく真理に仕えているので、彼らの心には永遠に大きな喜びがあります。
また、幕屋の庭の門に啓示された真理を知り、信じていますか。みなさんはそれを知り、信じなければなりません。