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主題 3: 水と御霊の福音

[3-1] 永遠の救い (ヨハネの福音書8章1-12節)

永遠の救い
( ヨハネの福音書8章1-12節 )
「イエスはオリブ山に行かれた。さて、朝早くにイエスが再び聖殿に来られると、民はみなイエスのもとにやって来ました。そしてイエスは座って彼らに教えておられました。そこで書記官とパリサイ人たちは、姦淫の現場で捕らえられた女をイエスのところに連れてきました。そして、彼女を真ん中に置いたとき、彼らはイエスに言った、『先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。さて、モーセは律法の中で、このような者は石打ちにすべきだと命じました。しかし、あなたはどうおっしゃいますか?』このように言ったのは、イエスを告訴するための条件を得ようと、イエスを試すためであった。しかしイエスは、まるで聞こえていないかのように、かがみ込み、指で地面に文字を書きました。それで彼らがイエスに尋ね続けると、イエスは立ち上がって彼らに言った、『あなたがたの中で罪のない者が、まず彼女に石を投げなさい。』そして再び、彼はかがみ込み、地面に文字を書きました。それから、それを聞いた人々は、良心の呵責を感じて、年長者から最後まで、一人ずつ出て行った。そしてイエスだけが残され、その真ん中に女が立っていた。イエスは立ち上がって、その女以外に誰も見えなかったとき、彼女に言われた、『女よ、あなたを告訴している人たちはどこにいるか?お前を定罪した者はいないのか?』彼女は言った、『主(イエス様)よ、だれもございません。』するとイエスは彼女に言われました、『私もあなたを定罪しない。行って、もう罪を犯すな。』それからイエスは再び彼らに話しかけて、『わたしは世の光です。わたしに従う者は暗闇の中を歩むことはなく、命の光を持つであろう。』」
 
 
イエス様はどれほどの罪を消し去ったでしょうか?
世界のすべての罪
 
イエス様は私たちに永遠の救贖を与えてくださいました。イエス様を救い主として信じれば、救われない人はこの世にはいません。イエス様は私たち全員を救贖してくださいました。自分の罪について苦悶している罪人がいるとすれば、それはイエス様がバプテスマによってすべての罪から救いを与えてくださったことを理解していないからです.
私たちは皆、救いの秘密を知り、信じるべきです。イエス様はバプテスマによって私たちの罪をすべて負われ受け、十字架で死ぬことによって私たちの罪の裁きを負ってくださいました。
あなたは水と聖霊の救い、即ちすべての罪からの永遠の救いを信じるべきです。あなたはすでにあなたを義人にしてくれた主(God)の偉大な愛を信じるべきです。イエス様がヨルダン川と十字架であなたの救いのためにしてくださったことを信じてください。
そしてイエス様は私たちの隠れた罪もすべてご存知でした。ある人々は罪について誤解を持っています。彼らは、ある罪は救贖されることができないと思っています。イエス様はすべての罪を、その一つ一つを救贖してくださいました。
この世には、主(イエス・キリスト)が取り除いてくださらなかった罪はありません。主(イエス・キリスト)はこの世のすべての罪を救贖したので、もう罪人はいません。あなたのすべての罪、さらには将来の罪をも救った福音を知っていますか?それを信じて救われてください。そして主(God)の栄光に立ち返ってください。
 
 
姦淫中に現場で捕まった女
 
世界中で姦淫をする人は何人いるのでしょうか?
全ての人々
 
ヨハネの福音書8章には、姦淫の現場で捕らえられた女が登場します。そして、彼女がどのようにイエス様によって救われたのかが分かります。彼女が受けた恵みを分かち合いたいと思います。人間は皆、生涯を通じて姦淫を犯すと言っても過言ではありません。誰もが姦淫を犯します。
もしそう見えないとしたら、それは私たちがあまりにも頻繁にそうしているから、そうでないように見えるだけなのです。なぜか?私たちは多くの姦淫に囲まれて生きているのです。
私はその女を見て、私たちの中に姦淫を犯していない人がいるのだろうかと考えます。捕まった女のように、姦淫をしていない人はいません。私たちは皆、していないふりをしているだけなのです。
私が間違っていると思いますか?いいえ、そんなことはありません。内面をよく見てください。地球上の誰もがやっていることです。道行く女性を見つめながら、思いの中で、行為の中で、いつでもどこでも姦淫を犯しているのです。
彼らは自分たちがそうしていることに気づいていないだけなのです。生涯を通じて数え切れないほど姦淫を犯したことを死ぬまで気づかない人がたくさんいます。摘発された人だけでなく、摘発されていない私たち全員も同様です。すべての人は心の中で、そして行為の中でそれを行っています。これは私たちの生活の一部ではないでしょうか?
動揺していますか?本当のことです。私たちは、恥ずかしいから黙っているだけなのです。私は、最近の人々が常に姦淫を犯していると信じていますが、彼らがそれを行っていることに気づいていないと思います。
人は魂でさえも姦淫を犯します。主(God)に創造された私たちは、自分の魂の中で姦淫を犯していることに気づかずにこの地に生きています。主(God)は全人類の唯一の夫であるため、他の神々を崇拝することは霊的な姦淫です。
現場でつかまった女も私たちと同じ人間であり、救贖された私たちと同じように主(イエス・キリスト)の恵みを受けました。しかし、偽善的なパリサイ人たちは彼女を彼らの真ん中に立たせ、あたかも裁判官であるかのように彼女に指を向け、石を投げつけようとしました。彼らは彼女を嘲笑し、あたかも自分たちが純粋で、姦淫を犯したことがないかのように裁こうとしていました。
クリスチャンの皆さん、自分が罪の塊であることを知っている人は、主(God)の前で他人を判断しません。むしろ、彼らは自分たちも生涯姦淫を犯していることを知っているので、私たち全員を救い出してくださった主(God)の恵みを受けているのです。自分がずっと姦淫を犯してきた罪人であることを気づいている人だけが、主(God)の前に救贖される資格があるのです。
 
 

誰が主(イエス・キリスト)の恵みを受けるのでしょうか?

 
姦淫をせず純潔に生きる人が主(イエス・キリスト)の恵みを受けるのか、それとも自分が罪人であることを認める、無価値な人が主(イエス・キリスト)の恵みを受けるのか?自分を罪人と認める者こそ、主(イエス・キリスト)の救いという豊かな恵みを受けるのです。自分ではどうすることもできない者、 軟弱く無力な者が救いを受けるのです。彼らは主(イエス・キリスト)の恵みの中にいる者です。
 
誰が主(God)の恵みを受けるのでしょうか?
ふさわしくない人々
 
自分には罪がないと思っている者は、救われることはできません。救贖するものが何もないのに、どうやって主(イエス・キリスト)の救いの恵みを受けることができるでしょうか?
書記官とパリサイ人たちは、姦淫の現場で捕らえられた女をイエス様の前に引きずり出し、彼らの真ん中に立たせてイエス様にこう尋ねました。「さて、モーセは律法の中で、このような者は石打ちにすべきだと命じました。しかし、あなたはどうおっしゃいますか?」なぜ彼らは女を主(イエス・キリスト)の前に連れてきて、主(イエス・キリスト)を試したのでしょうか?
彼ら自身も何度も姦淫を犯していたのに、イエス様を通して彼女を裁き、殺そうとし、その責任をイエス様に押し付けようとしていたのです。
イエス様は彼らが何を考えているかを知っていて、その女についてすべてを知っていました。そこでイエス様は、「あなたがたの中で罪のない者が、まず彼女に石を投げなさい」と言われました。すると、書記官とパリサイ人たちは、最年長の者から最後まで、一人ずつ立ち去り、イエス様と女だけが残されました。
去ったのは書記官とパリサイ人、宗教指導者たちでした。彼らは、あたかも自分たち自身が罪人ではないかのように、姦淫の現場で捕らえられた女を裁こうとしていたのです。
イエス様はこの世界でご自身の愛を宣言されました。彼様は愛のホストでした。イエス様は人々に食べ物を与え、死人を生き返らせ、やもめの息子に命を与え、ラザロを生き返らせ、らい病を癒し、貧しい人々のために奇跡を起こされました。そして、イエス様はすべての罪人の罪をすべて取り除き、彼らに救いを与えました。
イエス様は私たちを愛しておられます。イエス様は何でもできる全能者ですが、パリサイ人や書記官たちはイエス様を敵だと考えていました。だからこそ、彼らはその女をイエス様の前に連れて行き、イエス様を試したのです。
彼らは尋ねました、「さて、モーセは律法の中で、このような者は石打ちにすべきだと命じました。しかし、あなたはどうおっしゃいますか?」彼らはイエス様が彼女に石を投げなさいと言うでしょうと思いました。なぜ?もし私たちが主(God)の律法に書かれていることに従って裁くなら、姦淫を犯したすべての人は例外なく石打ちの刑に処されることになるでしょう。
すべての人は石で打ち殺されるべきですし、すべての人は地獄に行く運命にあります。罪の報いは死亡です。しかし、イエス様は石で打てとは言われませんでした。代わりに、「あなたがたの中で罪のない者が、まず彼女に石を投げなさい」と言われました。
 
なぜ主(God)は私たちに613もの律法を与えたのでしょうか?
自分たちが罪人であることを気づかせるために
 
律法は怒りをもたらします。主(God)は聖なる方であり、その律法も聖なるものです。この聖なる律法は、613箇条として私たちに与えられました。主(God)が613条の律法をお与えになったのは、私たちが罪人であること、不完全な存在であることを悟らせるためです。私たちが贖われるためには、主(God)の恵みを仰がなければならないことを教えているのです。もし私たちがこのことを知らず、書かれていることだけを考えていたなら、私たちは皆、その現場で捕らえられた女性のように石打ちにされて死ななければならなかったでしょう。
主(God)の律法の真理を知らなかった書記官やパリサイ人たちは、その女を石で打ってもよいし、もしかしたら私たちも石で打てると思ったのかもしれません。無力な女に誰が石を投げられるでしょうか?たとえ彼女が現場で捕まったとしても、この世の誰も彼女に石を投げることはできません。
もし女と私たち一人一人が律法のみに従って裁かれたら、女だけでなく私たちも恐ろしい裁きを受けることになるでしょう。しかし、イエス様は罪人である私たちを罪と公義の裁きから救ってくださいました。私たちのすべての罪にもかかわらず、主(God)の律法を文字通り適用すれば、私たちの中で誰が生き残ることができるでしょうか。私たち一人一人が地獄に行くことになるでしょう。
しかし、書記官とパリサイ人は、律法については書かれている通りにしか知りませんでした。もし主(God)の掟が正しく適用されれば、彼らによって定罪された者と同じように、彼らも確実に殺されるでしょう。実際、主(God)の律法は人間が自分たちの罪を理解できるように与えられたものですが、人間はそれを誤解し、誤って適用したために苦しんできました。
今日のパリサイ人は、聖書に登場するパリサイ人と同じように、律法は書かれている通りにしか知りません。彼らは主(イエス・キリスト)の恵み、公義、真理を理解する必要があります。彼らが救われるためには、救いの福音を学ぶ必要があります。
パリサイ人たちは言いました、「律法の中で、このような者は石打ちにすべきだと命じました。しかし、あなたはどうおっしゃいますか?」彼らは自信を持って石を持ちながら尋ねました。彼らは、イエス様がそれについて何もおっしゃらないだろうと確信していました。イエス様が餌に食いつくのを待っていたのです。
もしイエス様が律法に従って裁いていたなら、イエス様もまた彼らによって石で打たれたであろう。彼らの目的は二人を石打ちにすることだった。もしイエス様が女を石で打つなと言ったら、彼らはイエス様が主(God)の律法を軽んじたと言い、冒涜の罪でイエス様に石を投げつけたでしょう。それはなんと恐ろしい陰謀だったのでしょうか!
しかし、イエス様はかがみ込み、指で地面に何かを書きました、そして彼らはイエス様に尋ね続けました。「あなたは何と言いますか?あなたは地面に何を書いていますか?私たちの質問に答えてください。あなたは何と言いますか?」彼らはイエス様に指を向けて嫌がらせを続けました。
イエス様は立ち上がって、彼らの中で罪のない者が最初に彼女に石を投げるべきだと言いました。それからイエス様はかがんで地面に書き続けました。それから、それを聞いた人々は、良心の呵責を感じて、年長者から最後まで、一人ずつ出て行きました。そしてイエス様は一人残され、女がイエス様の前に立っていました。
 
 
「あなたがたの中で罪のない者が、まず彼女に石を投げなさい」
 
罪はどこに記録されますか?
私たちの心の板と行為書に
 
イエス様は彼らに、「あなたがたの中で罪のない者が、まず彼女に石を投げなさい」と言い、地面に書き続けました。それから、年長の者から一人ずつ出て行きました。より多くの罪を犯していた年長のパリサイ人たちが最初に出て行きました。そして、若い者たちも出て行きました。イエス様が私たちの間に立っておられ、私たちがその女の周りに立っていたとしましょう。もしイエス様が私たちに、罪のない者が先に石を投げなさいと言われたら、あなたならどうしますか?
イエス様は地面に何を書いていたでしょうか?私たちを創造された主(God)は、私たちの罪を2つの異なる場所に書き記します。
まず、主(God)は私たちの罪を私たちの心の板に書き記されます。
「ユダの罪は、金剛石の鉄筆で記録され、彼らの心の板と彼らの壇角に刻まれた。」(エレミヤ書17:1)
主(God)はユダを通して私たちに語りかけます。人間の罪は金剛石の先の鉄筆で刻まれています。それらは私たちの心の板に記録されます。イエス様はかがみ込み、地面に人間は罪人であると書きました。
主(God)は私たちが罪を犯していることをご存知であり、私たちの心の板に罪を刻まれます。第一に、主(God)は私たちの行い、つまり私たちが律法の前では軟弱いために犯した罪を記録されます。罪は心に記録されているので、律法を見ると自分が罪人であることがわかります。主(God)はそれを私たちの心の中に、良心に記録してくださったので、私たちは主(God)の前に罪人であることを知っています。
そしてイエス様は二度目にかがんで地面に字を書きました。聖書には、私たちのすべての罪もまた、主(God)の御前で行為書に記されているとあります。(黙示録20:12)人の名前とその罪は書に記録されています。そしてそれらはその人の心の板にも記録されます。私たちの罪は、行為書と心の板に二度記録されています。
罪は老若男女問わず、すべての人の心の板に記録されています。だからこそ、彼らはイエス様の前で自分の罪について何も言えなかったのです。女に石を投げようとしていた人々は、主(イエス様)の言葉の前には無力でした。
 
二箇所に記録されている私たちの罪はいつ消されますか?
私たちがイエス様の水と血の救いを心に受け入れる時です。
 
しかし、あなたが救いを受けると、行為書にあるあなたの罪はすべて消去され、あなたの名前はいのちの書に記されます。命の書に名前が載っている人は天国に行きます。彼らの善行、主(God)の国と主(God)の義のためにこの世で行ったことも、いのちの書に記録されています。彼らは天国に受け入れられます。罪から救われた者は永遠の国に入ります。
すべての人の罪は2つの場所に記録されます。したがって、誰も主(God)を欺くことはできません。心の中で罪を犯したことがなく、心の中で姦淫を犯したことがない人は一人もいません。私たちは皆罪人であり、皆不完全です。
イエス様の救いを心の中に受け入れていない人は、自分の罪について苦悶するしかありません。彼らは自信がありません。彼らは自分たちの罪のために主(God)を恐れ、主(God)と他の人の前でも恐れています。しかし、彼らが水と聖霊の救いの福音を心に受け入れた瞬間、彼らの心の板と行為書に記録された罪はすべて一掃されます。彼らはすべての罪から救われます。
天には命の書があります。水と聖霊の救いを信じる人々の名前はその書に記録されており、彼らは天国に入るでしょう。彼らが天国に入るのは、この世で罪を犯していないからではなく、水と聖霊の救いを信じることによってすべての罪から救われているからです。それは「信仰の法」です。(ローマの手紙3:27)
クリスチャンの皆さん、書記官やパリサイ人も、姦淫で捕らえられた女と同じように罪人でした。
実際、彼らは罪人でないふりをして自分自身を欺いたので、より多くの罪を犯しました。宗教指導者たちは、正式な許可を得た泥棒でした。彼らは魂の泥棒、命の泥棒でした。彼らは自分たちがまだ救われていないにもかかわらず、あえて他の人に自信を持って教えた。
律法に従って罪のない人はいません。しかし、人が義となるのは、罪を犯さないからではなく、すべての罪から救贖され、その名がいのちの書に記されているからです。大切なのは、自分の名前がいのちの書に記されているかどうかです。人は罪から解放されて生きることはできないので、救われなければなりません。
天国に入るかどうかは、あなたが信じるか信じないかにかかっています。主(God)の恵みを受けるか受けないかは、イエス様の救いを受け入れるか受け入れないかにかかっています。捕らえられた女はどうなったのでしょうか?彼女は、自分が死ぬことを知っていたので、目を閉じてそこに立っていました。おそらく恐れと悔い改めで泣いていたのでしょう。人は死に直面すると自分に正直になります。
「ああ、主(イエス様)、私が死ななければならないのは当然のことです。どうか私の魂をあなたの御手に委ねてください、そして私を憐れんでください。イエス様、どうか私を憐れんでください。」彼女はイエス様に救いの愛を懇願しました。「主(イエス様)よ、もしあなたが私を裁かれるなら、私も裁かれます、そして、もしあなたが私に罪がないと言うなら、私の罪は消去されます。それはあなた次第です。」おそらく彼女はこれらすべてのことを言っていたのでしょう。すべてはイエス様に委ねられました。
イエス様の前に連れてこられた女は、「私は悪いことをしました。姦淫を許してください」とは言いませんでした。彼女は言いました、「どうか私を罪から救ってください。あなたが私の罪を贖罪してくれるなら、私は救われます。そうでなければ、私は地獄に行くでしょう。あなたの救いが必要です。私には主(イエス様)の愛が必要です、そして主(イエス様)が私を憐れんでくれる必要があります。」彼女は目を閉じて自分の罪を告白した。
そこでイエス様は彼女に尋ねました。「女よ、あなたを告訴している人たちはどこにいるか?お前を定罪した者はいないのか?」彼女は「主(イエス様)よ、だれもございません」と答えました。
するとイエス様は彼女に言われた、「私もあなたを定罪しない。」イエス様は彼女を定罪しませんでした。なぜなら、イエス様はすでにヨルダン川でのバプテスマを通して彼女のすべての罪を負われ、彼女はすでに救われたからです。今、彼女の罪のために裁かれなければならなかったのは、女ではなくイエス様です。
 
 
彼は、「私もあなたを定罪しない」おっしゃいました。
 
彼女はイエス様によって定罪されたのでしょうか?
いいえ
 
この女はイエス様にあって救いの祝福を受けました。彼女はすべての罪を救贖されました。私たちの主イエス様は、私たちの罪をすべて救贖し、私たちはみな義であるとおっしゃいます。
彼は聖書で私たちにそうおっしゃいます。イエス様はヨルダン川でのバプテスマによって私たちの罪を取り除かれ、私たちの罪を償うために十字架で死なれました。イエス様は、バプテスマと十字架の裁きという救贖を信じる者すべてを救贖されたと、はっきりと教えておられます。私たちは皆、記録されたイエス様の言葉を必要とし、その言葉をしっかりと握る必要があります。そうすれば、私たちは皆、救贖によって祝福されるのです。
主(イエス様)様、私にはあなたの前で誇れるものは何もありません。私には才能がありません。私の罪以外、あなたに見せるものは何もありません。しかし、私はイエス様が私の救いの主であると信じています。彼はヨルダン川で私の罪をすべて取り除き、十字架ですべてを贖ってくださいました。彼はバプテスマと血によって私の罪をすべて取り除きました。私はあなたを信じています、主よ。」
これがあなたが救われる方法です。イエス様は私たちを『定罪』していません。水と聖霊の救贖を信じる者に、主(God)の義なる子となる権利を与えてくださったのだ。
親愛なる友人の皆さん!女は救われました。姦淫で捕らえられた女は、イエス様の前に救いによって祝福されました。私たちもそのように祝福されることができます。自分の罪を知り、主(God)に憐れんでくださるよう願う人、イエス様にある水と聖霊の救いを信じる人は誰でも、主(イエス様)から救いの祝福を受けます。主(God)の前に自分の罪を認める人は救われます。罪を犯しても自分の罪に気づかない人は、救いの祝福を受けることはできません。
イエス様は世の罪を取り除きました。(ヨハネの福音書1:29)イエス様を信じれば、世界中のどんな罪人でも救われることができます。イエス様はその女に、「私もあなたを定罪しない」と言われました。彼女の罪はすべてすでに主(イエス・キリスト)のものであり、主(イエス・キリスト)は私たちの罪をすべてご自身に負われ、私たちの代わりに裁かれることになっていたため、主(イエス・キリスト)は彼女を定罪しませんでした。
 
 
私たちもイエス様の前に救贖されなければなりません
 
主(God)の愛と主(God)の裁き、どちらが大きい?
主(God)の愛
 
石を手にしたパリサイ人たちも、今日の宗教指導者たちも、律法を文字通りに解釈しています。律法には姦淫してはならないと書いてあるから、罪を犯した者は石打ちの刑に処されると信じています。彼らは姦淫を犯していないふりをしながら、女を見て欲情を抱きます。彼らは贖われることも、救われることもありません。パリサイ人や書記官はこの世の道徳主義者でした。彼らはイエス様に呼ばれた者ではありません。これらの人々は、イエス様から「私もあなたを定罪しない」という言葉を聞いたことがありません。
その喜びの言葉を聞いたのは、姦淫で捕らえられた女だけでした。もしあなたが主(イエス様)の前に正直であるなら、あなたも彼女のように祝福されるのです。「主(イエス様)様、私は生涯姦淫を犯します。でも、しょっちゅうしているので、していないように見えるだけなのです。私は毎日何度も罪を犯しています。」
私たちが律法の前に立ち、自分が死ななければならない罪人であることを受け入れ、主(イエス様)と正直に向き合い、「主(イエス様)様、私はこういう者です、どうか救ってください」と言っているのと同じように自分を認めるとき、主(イエス様)は救贖を通じて私たちを祝福してくださいます。
イエス様の愛、水と聖霊の愛は、主(God)の公義な裁きに勝ったのです。「私もあなたを定罪しない」主(イエス様)は私たちを罪に定めず、「あなたは救われた」と言われます。私たちの主イエス・キリストは憐れみの主(God)です。私たちを世のすべての罪から救い出してくださいました。
私たちの主(イエス・キリスト)は公義の主(God)であり愛の主(God)です。水と聖霊の愛は、主(God)の裁きよりもさらに偉大です。
 
 

彼の愛は彼の公義よりも大きい 

 
なぜ主(イエス・キリスト)は私たち全員を救ってくださったのでしょうか?
なぜなら、主(イエス・キリスト)の愛は公義よりも大きいからです。
 
もし主(God)がご自身の公義を完成させるために裁きを強行したのであれば、すべての罪人を裁き、地獄に送ったことでしょう。しかし、私たちを裁きから救ってくださるイエス様の愛の方が大きいので、主(God)は独生子イエス様を送ってくださいました。イエス様は私たちのすべての罪をご自身の身に負われ、私たちすべてのために公義な裁きを受けられました。さて、イエス様を救い主として信じる人は誰でも、その方の子であり義人になります。主(イエス様)の愛は主の公義よりも大きいので、主(イエス様)は私たちすべてを救われました。
主(God)がご自身の公義だけで私たちを裁いていないことを主(God)に感謝しなければなりません。イエス様が書記官、パリサイ人、そして彼らの弟子たちに語ったように、主(God)が望んでいるのは憐れみと主(イエス様)についての知識であり、私たちのいけにえではありません。毎日牛やヤギを殺し、それを主(God)の前に捧げ、「主(God)よ、毎日私の罪をお赦しください」と祈る人もいます。主(God)は私たちの祭物を望んでおられるのではなく、水と聖霊の救いに対する私たちの信仰を望んでおられます。主(God)は私たちが贖われ、救われることを望んでおられます。主(God)は私たちに彼の愛を与えたいと願っておられ、私たちの信仰を受け入れたいと願っておられます。皆さん、わかりますか?イエス様は私たちに救いを与えてくださいました。
イエス様は罪を憎んでおられますが、主(God)に似せて造られた人間に対しては燃えるような愛を持っておられます。私たちを主(God)の子どもとすることを、創世前から決めておられ、バプテスマと血によって私たちの罪をすべて洗い清めてくださいました。主(God)は私たちを救贖し、イエス様にあって衣を着せ、主(God)の子どもとなるように私たちを創造しました。これこそが、彼の被造物である私たちに対する主(God)の愛です。
もし主(God)が主(God)の公義の律法に従ってのみ私たちを裁いたとしたら、罪人である私たちは皆死ななければなりません。しかし、主(God)は御子のバプテスマと十字架の裁きを通して私たちを救ってくださいました。あなたはそれを信じていますか?旧約聖書で確認してみましょう。
 
 
アロンはスケープゴートに手を置いた
 
イスラエルの代表として生きたヤギに罪を転嫁したのは誰ですか?
大祭司長
 
この世のすべての罪は、旧約聖書の按手と新約聖書のバプテスマによって取り除かれました。旧約聖書では、大祭司が無傷のヤギの頭に手を置くことによって、イスラエルのすべての年ごとの罪が贖われました。
「アロンは生きているヤギの頭に両手を置き、イスラエルの子孫のすべての罪悪と、彼らの犯したすべての罪を、その上に自白しそれをヤギの頭にのせ、適切な人の手によって荒野に送らなければならない。」(レビ記16:21)
これが旧約の時代に彼らが贖罪された方法です。日々の罪から贖われるために、傷のない小羊かヤギを聖幕に持ってきて、祭壇にささげました。そしていけにえの頭に手を置くと、その罪はいけにえに転嫁されました。それから、いけにえは殺され、祭司はその血を祭壇の角に塗りました。
祭壇の四隅には角がありました。これらの角は黙示録20章12節で説明されている行為書を象徴しています。そして残った血も地面に撒かれました。人間は土から作られているため、地面は人間の心を表します。人々はこうして日々の罪を贖うのです。
しかし、彼らは毎日罪のためのいけにえを捧げることはできませんでした。そこで主(God)は、彼らに年に一度、一年分の罪を贖いすることを許可しました。これは7月10日、贖罪の日のことでした。その日、イスラエルの民全員の代表である大祭司長は、二頭のヤギを連れてきて、その上に手を置いてイスラエルの民の罪をすべてその上に転嫁し、イスラエルの民の贖いをするために主(God)の前に捧げました。
「アロンは生きているヤギの頭に両手を置き、イスラエルの子孫のすべての罪悪と、彼らの犯したすべての罪を、その上に自白しそれをヤギの頭にのせ。」(レビ記16:21)
主(God)はアロンをイスラエルの民の大祭司長として任命しました。すべての人が一人一人いけにえに手を置く代わりに、大祭司長がすべてのイスラエルの民を代表して生きたヤギの頭に手を置き、1年間の罪を洗い流しました。
そして彼はイスラエルのすべての罪を主(God)の前でこう語りました。「主(God)よ、あなたの子供イスラエルが罪を犯しました。私たちは偶像を崇拝し、あなたの律法のすべての条項を破り、あなたの御名をむなしく呼び、他の偶像を創造し、あなたよりもそれらを愛しました。私たちは安息日を聖く守らず、両親を尊重せず、人を殺し、姦淫と窃盗を犯しました...私たちは嫉妬と喧嘩にふけりました。」
彼はすべての罪を列挙しました。「主(God)様、イスラエルの民も私も主(God)の律法を何一つ守ることができませんでした。これらすべての罪を贖罪するために、私はこのヤギの頭に手を置いて、すべての罪をこのヤギに渡します。」大祭司長はすべてのイスラエルの民のためにいけにえに手を置き、すべての罪をいけにえの頭に転嫁しました。手を置くことは「渡す」ことを意味します。(レビ記1:1-4、16:20-21)
 
旧約の時代、贖罪はどのように成就されたのでしょうか?
贖罪のいけにえの頭に手を置くことによって
 
主(God)は、イスラエルの民に贖罪祭の儀式を与え、彼らがすべての罪を転嫁して贖われるようにしました。彼は、無傷の贖罪のいけにえがなければならないこと、イスラエルの人々のすべての罪のために贖罪のいけにえの頭に手を置くこと、贖罪のいけにえが人の代わりに死ぬことを指定しました。
贖罪の日、贖罪のいけにえは殺され、その血は聖所内に持って行かれ、贖罪所に七回振りかけられました。こうしてイスラエルの民は、第七の月の十日に一年間の罪を贖いました。
大祭司長はいけにえをささげるために一人で聖所に入りましたが、人々は外に集まり、血が贖罪所に振りかけられると、大祭司長のエポデの衣にある金の鐘が七回鳴る音に耳を傾けました。そうしたらイスラエル民は、自分たちの罪がすべて贖罪されたと喜んだでしょう。黄金の鐘の音は、喜びの福音の音でした。
イエス様が特定の人々を愛し、彼らだけを救ったというのは真実ではありません。イエス様はバプテスマによって世のすべての罪をただ一度で取り除きました。主(イエス様)は私たちをただ一度で救いたかったのです。私たちの罪は毎日贖われるものではなく、ただ一度で救われたのです。
旧約聖書では、按手と贖罪のいけにえを通して贖罪が行われました。アロンはイスラエル民全員の前で生きたヤギの頭に手を置き、その年に人々が犯した罪をすべて列挙しました。彼はみんなの前でヤギに罪を転嫁しました。では、人々の罪はどこにあるのでしょうか?それらはすべてヤギに転嫁されました。
それからヤギは『適切な人』に連れ去られました。ヤギはイスラエルの罪をすべて背負って、水も草もない砂漠に連れて行かれました。そしてヤギは灼熱の太陽の下、砂漠をさまよい、最後には死ぬことになりました。ヤギはイスラエルの罪のために死にました。
これは主(God)の愛、救いの愛です。このようにして、彼らは一年間の罪を償ったのです。しかし、私たちは新約の時代に生きています。イエス様がこの世においでになってから約2000年になります。彼はいらっしゃって、旧約聖書の中で述べた預言を成就なさりました。彼はいらっしゃって、私たちの罪をすべて贖ってくださいました。
 
 
私たち全員を救贖ためです
 
「イエス」の意味は何ですか?
おのれの民を罪から救ってくださる救い主
 
マタイの福音書1章を読んでみましょう。
「彼がこのことを思い巡らしていたとき、主(Lord)の天使が夢の中で彼に現れて言った、『ダビデの子ヨセフよ、恐れることなくマリアをあなたの妻に迎えなさい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者である。』」(マタイの福音書1:20-21)
主(God)は、世のすべての罪を洗い流すために、処女マリアの体を借りて御子をこの世に送りました。彼は天使をマリアに遣わして、「見よ、あなたはみごもって男の子を産み、その名をイエスと名づけなさい」と言いました。それは、御子がマリアを通して来られ、救い主となることを意味していました。イエス・キリストとは、ご自分の民を救う方、つまり救い主を意味します。
イエス様が世の罪をすべて取り除く方法は、ヨルダン川でのバプテスマを通してでした。バプテスマのヨハネからバプテスマを受け、世の罪はすべて彼に渡りました。マタイの福音書3章13-17節を読んでみましょう。
「この時にイエスがガリラヤからヨルダン川に行き、ヨハネにバプテスマを受けようとされた。するとヨハネは『私があなたからバプテスマを受けなければならないのに、あなたが私のところに来るつもりですか』と言い、それを止めようとした。しかし、イエスは答えて言われた、『今、許諾せよ。私たちがこのようにして、すべての義を成就するのはふさわしい(合當)ことである。』それから、ヨハネは許諾した。イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、主(God)の聖霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また天から声があって言った、『これは私の愛する息子であり、私が喜ぶ者です。』」
イエス様は私たち全員をすべての罪から救い出すためにバプテスマのヨハネのところへ行きました。
イエス様は水の中に入り、ヨハネの前に頭を下げました。「ヨハネよ、今、私にバプテスマを授けなさい。私たちがこうしてすべての義を成し遂げるのがふさわしいからです。わたしは世のすべての罪を取り除き、すべての罪人を罪から救うため、バプテスマによって彼らの罪を取り除く必要がある。今すぐに私にバプテスマを授けよ!許可せよ!」
それゆえ、すべての義を成し遂げることがふさわしかったです。イエス様はバプテスマのヨハネからバプテスマを受けました。そしてまさにその瞬間、私たちの罪が取り除かれる 主(God)の義がすべて成就したのです。
このようにして主(イエス・キリスト)は私たちの罪をすべて取り除いてくださいました。あなたの罪はすべてイエス様にも転嫁されました。これがわかりますか?
イエス様のバプテスマと聖霊による救いを信じて救われてください。
 
すべての義はどのようにして成就されたのでしょうか?
イエス様のバプテスマを通じて
 
主(God)は最初にイスラエルの人々に、按手と贖罪のいけにえを通じて彼らの全ての罪が洗い流されることを約束されました。しかし、全員が個別にヤギの頭に手を置くことは不可能であったため、主(God)はアロンを大祭司長として聖別し、彼がイスラエルのすべての民のためにいけにえをささげることができるようにされました。こうして、主(God)は彼らの一年間の罪をすべてただ一度で贖罪のいけにえの頭に移されました。これが主(God)の知恵であり、救いの能力です。主(God)は知恵があり、驚くべきお方です。
主(God)は私たちの世界を救うために、彼の御子イエス様を遣わされたのです。こうして贖罪のいけにえが用意されました。イエス様の頭に手を置いて、世の罪をすべてイエス様の上に渡す、全人類の代表者が必要でした。その代表がバプテスマのヨハネでした。マタイによる福音書11章11節で、主(God)は全人類の代表をイエス様の前に遣わされました。
それは人類最後の大祭司長、バプテスマのヨハネでした。マタイの福音書11章11節に書かれているように、「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりも大きな者はいない」彼は人間の唯一の代表者です。主(God)はヨハネをあらゆる被造物の代表として遣わし、イエス様にバプテスマを与え、世の罪をすべてイエス様に渡すことができました。
もし地球上の80億人が今イエス様のところに行き、それぞれが自分の罪をイエス様に渡すために彼に手を置かなければならなかったとしたら、彼の頭はどうなるでしょうか?もしこの世の80億人以上の人々がイエス様に手を置かなければならないとしたら、それは決して美しい光景ではないでしょう。熱心な人の中には、彼の髪がすべて抜け落ちてしまうほど強く押しつける人もいるかもしれません。主(God)はその知恵によってヨハネを私たちの代表者に任命し、世の罪をすべてイエス様にただ一度で渡しました。
マタイの福音書3章13節には、「この時にイエスがガリラヤからヨルダン川に行き、ヨハネにバプテスマを受けようとされた」と記されています。それはイエス様が30歳のときでした。イエス様は誕生から8日後に割礼を受けました。そしてそれから彼が30歳になるまでの彼に関する記録はほとんどありません。
イエス様が天の大祭司長になるのに30歳になるまで待たなければならなかった理由は、旧約聖書を成就するためでした。申命記の中で、主(God)はモーセに、大祭司長の職に就くには、少なくとも30歳以上でなければならないと言われました。イエス様は天の大祭司長です。これを信じますか?
新約聖書のマタイの福音書3章13節から14節には、「この時にイエスがガリラヤからヨルダン川に行き、ヨハネにバプテスマを受けようとされた。するとヨハネは『私があなたからバプテスマを受けなければならないのに、あなたが私のところに来るつもりですか』と言い、それを止めようとした。」人類の代表者は誰ですか?バプテスマのヨハネです。では、天の代表者は誰ですか?イエス・キリストです。代表者が会いました。では、どちらが上ですか?もちろん、天の代表者です。
当時の宗教指導者たちに「毒蛇の群れよ!悔い改めよ!」と叫ぶほど大胆だったバプテスマのヨハネが、突然イエス様の前で謙遜になりました。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが私のところにおいでになるのですか?」
このときイエス様は、「今、許諾せよ。私たちがこのようにして、すべての義を成就するのはふさわしい(合當)ことである」と言われました。イエス様は主(God)の義を成就するためにこの世に来られ、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けたときに成就されました。
「それから、ヨハネは許諾した。イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、主(God)の聖霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また天から声があって言った、『これは私の愛する息子であり、私が喜ぶ者です。』」
これがイエス様がバプテスマを受けたときに起こったことです。イエス様がバプテスマのヨハネからバプテスマを受け、世の罪をすべて負われたとき、天国の門が開かれました。
「バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は侵掠を受けており、侵掠する者たちがそれを奪い取っている。」(マタイの福音書11:12)
すべての預言者と主(God)の律法はバプテスマのヨハネに至るまで預言していました。「バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は侵掠を受けており、侵掠する者たちがそれを奪い取っている。」イエス様のバプテスマを信じる者は誰でも例外なく天国に入ることができます。
 
 
「私もあなたを定罪しない」
 
なぜイエス様は十字架で裁かれたのでしょうか?
なぜなら、彼が私たちのすべての罪を負われたからです。
 
イエス様はバプテスマのヨハネにバプテスマを受け、世の罪をすべて背負って行かれました。そしてその後、イエス様はその女に、「私もあなたを定罪しない」と言いました。イエス様はヨルダン川で世界のすべての罪を負われ、女ではなくイエス様がそれらの罪で裁かれなければならなかったので、女を定罪しませんでした。
イエス様は世の罪をすべて消し去られました。「罪の報いは死亡である。」(ローマの手紙6:23)ため、イエス様が十字架上で耐えなければならない苦しみをどれほど恐れていたかがわかります。彼はこの裁きを主(God)から取り除いてくださるようオリブ山で三度主(God)に祈りました。イエス様は人間の肉体を持っていたので、痛みを恐れたのは理解できます。イエス様は裁きを履行するために血を流さなければなりませんでした。
旧約聖書の贖罪のいけにえが罪を償うために血を流さなければならなかったのと同じように、イエス様は十字架で犠牲にされなければなりませんでした。イエス様はすでに世の罪をすべて取り除かれ、今度は私たちの救いのために自分の命を捧げなければなりませんでした。彼は主(God)の前で裁かれなければならないことを知っていました。
イエス様の心には何の罪もありませんでした。しかし、すべての罪はバプテスマを通してイエス様に転嫁されたので、主(God)は今、ご自身の御子を裁かなければなりませんでした。このようにして、第一に主(God)の公義が実現し、第二に、主(God)は私たちの救いのための愛を私たちに与えてくださいました。したがって、イエス様は十字架で裁かれなければなりませんでした。
「私はあなたを定罪したり、裁いたりしません。」私たちのすべての罪は、意図的か非意図的か、知っているか知らないかに関わらず、主(God)によって裁かれなければなりませんでした。
主(God)は私たちを裁かれたのではなく、バプテスマによって私たちの罪をすべて背負ってくださったイエス様を裁かれたのです。主(God)はその愛と憐れみのゆえに、罪人を裁くことを望まれませんでした。バプテスマと十字架の血は、私たちに対する主(God)の救贖の愛でした。「主(God)がこのように世を愛し、その独生子をお与えになったのは、彼を信じる者が滅びずに永遠の命を得られるようにするためである。」(ヨハネの福音書3:16)
これが私たちが主(God)の愛を知る方法です。イエス様は姦淫の現場で捕らえられた女を定罪しませんでした。
彼女は姦淫の現場で捕らえられたので、自分が罪人であることを知っていました。彼女は心の中で罪を犯していただけでなく、肉体においても罪を犯していました。彼女が自分の罪を否定することはできませんでした。しかし、彼女はイエス様がすべての罪を取り除いてくださったと信じたので、救われました。イエス様による救いを信じるなら、私たちは救われます。信じてください!それは私たち自身の利益のためです。
 
最も恵まれているのは誰ですか?
罪のない人
 
すべての人は罪を犯します。すべての人は姦淫を犯します。しかし、すべての人が罪のために裁かれるわけではありません。私たちは皆、罪を犯していますが、イエス・キリストの救いを信じる人は心に罪がありません。イエス様の救いを信じる人が最も幸福です。最も祝福されるのは、すべての罪から救われた人々、つまり、イエス様の中で義とされた人々です。
主(God)はローマの手紙4章7節で幸福について、「不法が取り除かれ、罪が覆われる者は福である」と語られています。私たちは皆、死ぬまで罪を犯します。私たちは主(God)の前に失礼であり、不完全です。私たちは主(God)の律法を知っていても罪を犯し続けます。私たちはとても軟弱いのです。
しかし、主(God)は独生子のバプテスマと血によって私たちを救い出し、あなたも私も、もはや罪人ではなく、主(God)の前に義人であると告げてくださいました。主(God)は私たちに、私たちが主(God)の子供であると言われます。
水と聖霊の福音は救いの福音です。あなたはそれを信じていますか?信じる者たちに対して、主(God)は彼らを義人、救われた者、そして主(God)の子供たちであると認めます。この世で一番幸せな人は誰ですか?信じて救われた人。あなたは救われましたか?
イエス様はあなたの罪を負われなかったのですか?いいえ、イエス様はバプテスマによってあなたの罪をすべて負われました。信じなさい。信じて、すべての罪を救ってください。
 
 
ほうきで掃き払うように 
 
イエス様はどれだけの罪を取り除いてくれたのでしょうか?
世界のすべての罪
 
ヨハネの福音書1章29節を読んでみましょう。「その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、『見よ!世の罪を背負って行く主(God)の小羊である!』」(ヨハネの福音書1:29)
「見よ!世の罪を背負って行く主(God)の小羊である!」
バプテスマのヨハネはヨルダン川で世の罪をすべてイエス様に渡しました。翌日、彼はイエス様が世の罪をすべて背負って行く主(God)の小羊であることを証言しました。彼は世のすべての罪を肩に負いました。
世界のすべての罪とは、人間がこの世の創造から終わりまでの世界で犯すすべての罪を指します。約2000年前、イエス様は世の罪をすべて背負って行き、私たちを救いました。主(God)の小羊として、イエス様は私たちの罪をすべて背負い、私たちのために裁かれました。
私たち人間が犯した罪はすべてイエス様に転嫁されました。そして彼は世のすべての罪を背負って行く主(God)の小羊となりました。
イエス様は救い主として、世のすべての罪人を救う者としてこの世に来られました。私たちが罪を犯すのは、軟弱いからであり、邪悪だからであり、無知だからであり、軽薄だからであり、不完全だからです。これらの罪はすべて、ヨルダン川でのバプテスマによってイエス様の頭に渡されました。そして、イエス様は十字架での肉体の死によってそのすべてを終わらせられました。イエス様は葬られましたが、3日後に復活しました。
すべての罪人の救い主として、勝利者として、裁き主として、彼は今、主(God)の右に座っています。主(イエス様)は私たちを続けて救う必要はなく、私たちがしなければならないのは救われたことを信じることだけです。信じる者には永遠の命が待っており、信じない者には滅びが待っています。他に選択肢はありません。
イエス様はあなたたち全員を救ってくださいました。あなたたちは地球上で最も幸せな人々ですあなたの連弱さのせいで将来あなたが犯すであろうすべての罪を、イエス様はすべて持って行ってくださいました。
あなたの心に罪は残っていますか?―いいえ。―
イエス様はすべてを持って行ったのでしょうか?―はい!そうです。―
すべての人は同じです。誰も隣人よりも聖ではありません。しかし、偽善者が非常に多いため、自分たちは罪人ではないと思っています。しかし確かに彼らも罪人です。この世は罪を育む温室です。
女性は家を出るとき、赤い口紅を塗り、顔にパウダーを塗り、髪をカールして、素敵な服を着て、ハイヒールを履きます。男性も床屋に行って髪を切り、身だしなみを整え、清潔なシャツとおしゃれなネクタイを締め、靴を磨きます。
しかし、彼らは外見的には王子と王女のように見えるかもしれませんが、中身は最も汚いゴミ捨て場と同じです。
お金は人を幸せにするのでしょうか?健康は人を幸せにするのか?いいえ、救いだけが人々を本当に幸せにします。どんなに表面的には幸せそうに見えても、心の中に罪があれば、その人は惨めなものです。彼らは裁きを恐れて生きています。
救われた人は、たとえぼろ布を着ていてもライオンのように大胆です。彼らの心には何の罪もありません。「ありがとう、主(イエス様)よ、あなたは私のような罪人を救い、私の罪をすべて消し去ってくださいました。私が取るに足らない存在だということはわかっていますが、私を救ってくださったあなたを讃美します。私は永遠に罪から救われます。主(God)に栄光を!」
救われた人は本当に幸せです。主(イエス様)の救いの恵みを受け、祝福された人は本当に幸せな人です。
『世の罪を背負って行く主(God)の小羊』であるイエス様が私たちの罪をすべて背負ってくださったので、私たちには罪がありません。彼は十字架で私たちの救いを『完成』させました。あなたや私の罪も含め、私たちのすべての罪も『世の罪』に含まれており、したがって私たちは皆救われました。
 
 

主(God)の御心によって 

 
イエス・キリストのうちにあるとき、私たちの心の中には罪があるのでしょうか?
いいえ、そうではありません
 
親愛なる友人の皆さん、姦淫で捕らえられた女性はイエス様の言葉を信じて救われました。救贖の祝福を受けたので、彼女の物語は聖書に記されています。しかし、偽善的な書記官やパリサイ人たちはイエス様から逃げました。
イエス様を信じればそこは天国ですが、イエス様を離れるとそこは地獄です。主(イエス・キリスト)の使役を信じるなら、それは天国のようなものですが、主(イエス・キリスト)の使役を信じないなら、それは地獄のようなものです。救いは個人の努力によるものではなく、イエス様の救いによるものです。
ヘブルの手紙10章を読みましょう。「律法は、これから来る良いことの影であり、それらの真の形象ではなくから、年ごとに絶えずささげられるこれらの同じいけにえをもってしても、進み来る者たちをいつでも完全な者にすることはできないのである。そうでなければ、仕える者たちがただ一度で浄潔され、再び罪を悟ることがないでしょうから、どうして差し上げる仕事をやめなかったでしょうか。しかし、それらの祭祀には、毎年罪を思い起こさせるものがある。これは雄牛やヤギの血で罪を能く取り除くことができないからである。だから、彼が世に臨む時、おっしゃった、『あなたは、祭祀と礼物を望まず、わたしのために一つの身体を準備して下さった。全焼の燔祭と贖罪祭も、喜ばれていない。』その時、わたしは言った、『主(God)よ、ご覧ください、巻物の本に私を指して記録されている通り、主(God)の御旨を行うためにまいりました。』上におっしゃるように、『あなたは、祭祀と礼物と全焼の燔祭と贖罪祭と(すなわち、律法に従ってささげられるもの)を望まれず、喜ばれもしない』とあり、その後におっしゃるように、『ご覧ください、わたしは主(God)の御旨を行うためにまいりました』とある。すなわち、第一のものを廃することが、第二のものを立てるためである。この意に従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度に捧げられたことによって、私たちが聖さを得たのである。」(ヘブルの手紙10:1-10)
「主(God)の御意によって」イエス様は私たちの罪をただ一度で背負うために自らの命を捧げ、ただ一度で裁かれて復活されました。
したがって、私たちは聖なるものとなりました。「私たちが聖さを得たのである」(ヘブルの手紙10:10)と過去完了形で書かれています。それは、救いについて改めて言及する必要がないことを意味します。あなたは聖なるものになりました。
「そして、祭司長ごとに毎日立って仕え、しばしば同じいけにえをささげますが、このいけにえはいつでも罪を取り除けない。ただキリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげた後、主(God)の右に座し、その後、自己の敵が自己の足台とされるまで待っておられる。主(イエス・キリスト)は、一つのいけにえによって、聖別された者たちを永遠に完全にしてくださった。」(ヘブルの手紙10:11-14)
皆さんは永遠に聖なる存在になりました。明日罪を犯したら、また罪人になるのですか?イエス様はその罪も取り除いてくださったのではありませんか?そうです。未来の罪も取り除いてくださったのです。
「また、聖霊が私たちに証ししてくださる。主(God)がこう仰せられた、『それらの日の後に、彼らと結ぶ御約束の言葉はこれである。わたしはわたしの法を彼らの心に置き、彼らの考えに記録するだろう。』言われた後、また『私は彼らの罪と彼らの不法を二度と記憶しない』とおっしゃった。これを取り除いたので、再び罪のためのいけにえはもうない。」(ヘブルの手紙10:15-18)
『これを取り除いたので』という表現は、イエス様が世界の全ての罪を取り除いたという意味です。イエス様は私たちの救い主です。私の救い主とあなたの救い主。私たちはイエス様を信じることによって救われました。これがイエス様における救いであり、主(God)からの最大の恵みであり最大の贈り物です。すべての罪から救われたあなたと私は、すべての中で最も祝福されています。
 
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あなたは真正に水と聖霊によって新しく生まれたのか? [新改訂版]