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主題 9: 使徒パウロのローマ人への手紙

[Chapter 3-3] 主のことを神に感謝するか (ローマ 3:10-31)

(ローマ 3:10-31)
「それは、次のように書いてあるとおりです。
「義人はいない。ひとりもいない。
悟りのある人はいない。
神を求める人はいない。
すべての人が迷い出て、
みな、ともに無益な者となった。
善を行なう人はいない。ひとりもいない。
「彼らののどは、開いた墓であり、
彼らはその舌で欺く。」 
「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」 
「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」 
「彼らの足は血を流すのに速く、
彼らの道には破壊と悲惨がある。
また、彼らは平和の道を知らない。」 
「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」
さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自分の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行ないの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です。神が唯一ならばそうです。この神は、割礼のある者を信仰によって義と認めてくださるとともに、割礼のない者をも、信仰によって義と認めてくださるのです。それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。」
 
 

人間には、肉において誇るべきことがない

 
ローマ 3:10-12 には、「悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない」とあります。
神の前では、人間はみな肉のために罪に満ちています。人は肉によって義になることができるのでしょうか。神の前に、本来義である肉があり得るでしょうか。人間はけっして肉によって義になることができません。肉はイエス・キリストによって罪から救われることなくしては、けっして義になることができません。
罪が消された者は、肉において誇れることが何もありません。罪が消された者もまた肉において迷い出ずにはおられず、善を行なうことができません。主に仕え、霊の働きをしなければ、善く生きているとはいえません。イエスが「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です」(ヨハネ 3:6)とおっしゃったように、肉はその欲望に従って生きるだけであり、御霊は御霊に従って生きるのです。肉はけっして霊に変わることがありません。
人間はみな罪深く生まれ、罪のもとに生き、無益に死に、いずれは地獄の火の池に投げ込まれるのです。人間を罪のすべてから救うために神がひとり子をこの世に遣わされなければ、望みはなかったでしょう。人間に何か希望があるなら、それは神が真の希望をくださったためです。神がおられなければ、人間には義も希望もなかったでしょう。これは、みなさんや私を含め、この世のすべての人間の運命について調べると、そのとおりなのです。
人間は万物の霊長とされていますが、罪深く生まれ、意思に関わらず無益に生き、地獄に行くように定められているのです。人間とは、実にはかないものです。人間のはかないありようは、よくカゲロウにたとえられます。カゲロウは生まれたかと思うとその日のうちに死に、空しく塵に還るのです。イエスがおられなければ、何の希望もありません。どんなに有名であろうと、いかに優れた業績があろうと、人間がその生においてすることは、生まれ、食べ、飲み、死に、地獄に行くことだけです。人間は空しく生き、空しく消え、永遠の罰を受ける定めにあります。
しかしながら、神は罪の意識を与えるために律法を定められ、イエス・キリストの内の罪の赦しによる恵みによって義人にしてくださいました。神はひとり子イエスを遣わされ、イエスは人類の罪をすべて被られ、そのバプテスマと血とを信じる者のためのなだめの供え物として十字架につけられました。イエスを人間のなだめの供え物となさり、人間を義人にしてくださいました。
罪の赦しを受けている者は、どうして義人になれるのでしょう。罪の赦しを受けている私たちには、肉の義があるのでしょうか。神の前に誇れるような点があるでしょうか。肉においては何一つ誇れるものがありません。神と主のおかげで聖徒は喜び、感謝をささげます。罪の赦しと救済の保証、そして永遠のいのちを受けているためです。
罪の赦しを受けている私たちは、神なしには無価値です。人間の肉には何か誇るべきものがあるでしょうか。いったい肉は義なのでしょうか。七、八十年の生で何か誇ることがあるでしょうか。人間には何も義がありません。神の前で何を誇るのでしょう。肉には、ほんとうに何も誇るものがありません。肉には神の前で誇ることはありません。0.1%だってありません。
 
 

唯一誇れるものは神の義

 
聖徒が誇るのは、「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました」と記されているように、主がお救いくださったことです。主が永遠のいのちであり、救い主です。主は義人にしてくださいました。イエスが完全に救ってくださったので、私たちは義人なのです。肉や律法の行ないにおいては何一つ誇れるものがありません。バプテスマをお受けになったこと、すべての正しいことを実行するために世の罪をすべて洗い流してくださったことを主に感謝し、たたえます。
聖徒は信仰による義をもつようになりました。主は世のすべての人を一人残さず罪から救われました。神による救済が人を幸福にし、希望を与えます。新たな力を与えます。主以外には何一つ誇れるものがありません。神の前で自身の義を誇るどころか、人間は恥ずべき存在です。大勢の人が行ないと自身の義を誇り、神に努力をささげようとしますが、その独善的自我は汚い服のようなものです。人間だけなら互いに何かしら誇れるものがあるでしょうが、神の前で誇れるものは何もありません。
主は人類の完全な救い主であられます。「イエス」とは、「救い主」という意味であり、「キリスト」とも呼ばれます。これは、人間の形で来られた救い主が神であられたということです。私たちは主を「イエス・キリスト」と呼びます。イエスは、救い主で神であられます。聖徒は主に感謝し、たたえ、主の前で義の働きをし、誠実に生きます。神が完全に救ってくださったためです。神を信じる者だけが義の働きをすることができます。
聖徒が罪なしに正しい働きができるのは、主が世の罪をすべて取り除かれ、人類を罪のすべてから救う救い主となられたためです。人間は、自分の力では罪の問題を解決できません。罪を除くことも、肉で善い行ないをして神の義を守ることも、人間にはできません。
神は人類の罪をすべて消し去られ、聖徒は神から義を受けました。私たちは義人です。自身の善行によって肉を聖化して義を保つことができるでしょうか。それができるのなら、その人はイエスの兄や姉でしょう。イエスは、けっしてそのような人の救い主にはなれません。人間には、無意識のうちに肉の能力と感情によって義を保とうとする本能があります。肉の行ないは本能によります。人間は危険に遭うと本能的にそれを免れようとし、おいしい食べ物を見るとたくさん食べようとし、何か面白いものがあると、遊ぼうとします。
人間は本能的に肉で神の義を保とうとします。肉は本能的に働くからです。しかし、それはできません。聖徒が救われているのは、自分の義によってではありません。肉によって律法をよく守り、善行をし、あるいは神に献身しても、けっして救われません。人間の業績は、神の義には 0.1% も含まれません。神がこの世に人間の形で来られ、磔刑に処される前、すべての正しいことを実行なさるために、人類を完全に罪から救ったバプテスマをバプテスマのヨハネからお受けになったことを信じて聖徒は義人になりました。
 
 
人類を救った主は完全な救い主
 
主は人間が死ぬまでに犯す罪をすべて取り除かれ、すべての義を満たされて完全な救い主となられ、人間を義人になさいました。神はすべての義を満たされ、人類を完全になさいました。神は、人間が霊的働きをできるようにしてくださいました。たとえ肉は世俗的な働きをしていようと、神の義を受けて罪のない者になっているのですから、神の前で霊的に働く資格があります。しかしながら、まだ罪を消されていない者は、霊的働きをすることができません。彼らにはその資格がありません。
聖徒は霊的なことを行なう資格を神から与えられています。そこで、霊の働きを行なえるのです。聖徒は肉のこととは別に、神の義の働きができます。神が救い主となられたのは、実に完全なことです。人間を含めてすべてのものを創られた神は、救済の神として示されています。この世に来られ、すべての義を満たされたためです。人間との関係において、神は人類を救った主、救い主になられました。
弱く力ない者が救ったのであれば、救済は不完全でしょう。どこかしらうまくいかないところがあったかもしれません。ところが、お救いくださったお方は、そのような者ではありません。すべてのものを創られた創り主の神です。ヨハネ 1:3 には、「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない」とあります。
イエスとは、誰でしょう。救い主です。救い主とは誰でしょう。神、創り主です。神は完全に救ってくださいました。救済が完全なのは、神が救ってくださったためです。それは永遠に続きます。しかしながら、主が創り主でなく被造物の中の人間であれば、救済は無効でしょう。それは長くは続かず、その義は汚いぼろ布のようなものだったでしょう。完全なレザーの服を着たなら、たとえサッカーをしたり滑り台に乗ったとしてもそれはけっして擦り切れないでしょう。しかし、完全な服でなければ、すぐに擦り切れます。
人類を救われた主は、不完全ではありません。人類を救った主は完全な神であられます。人類の罪をすべて被られるためにバプテスマをお受けになり、十字架につけられ、死者の中からよみがえられ、今は神の右手の座に着かれているイエスによる救済は、信者の肉がどんなに弱くとも、けっして無効になりません。これが、神のくださった救済です。
 
 
信仰によって生きるために自身の義は打ち砕く
 
聖書では、自身の義に満たされた者は様々な困難を経ています。神がそうした困難によって彼らの義を打ち砕こうとなさるためです。王たちの記録には、「ただし、高き所は取り除かなかった」のような部分がいくつもあります。これは、人間自体は肉において完全ではなく、主を信じて完全になったという意味です。
みなさん、どんなに弱い存在であっても、神は完全に救ってくださったのです。自身の義によってだけ生きるならば、死ぬのです。しかし、神であられる主は、罪から完全に救ってくださいました。どんなに弱くとも主の義のために生きたなら、主は喜ばれます。イザヤ 53:5 には、「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた」とあります。神は人間の咎をただ一度で取り除かれました。義が損なわれるのではないかと恐れてびくびくする必要はありません。
世の中にはガラスのような性格の人がいます。アメリカに行った姉妹がいました。その人はいつでも実に気高く、注意深く話し、けっして呪いませんでした。彼女は、罪の赦しを受けていたのですが、ひどくよこしまな人には、「まあ、悪い人ですね」と言います。彼女は、自分の義に満ちてはいたのですが、それでもイエスのバプテスマと十字架上の血を信じて罪の赦しを受けました。しかしながら、罪の赦しを受けた後もまだ自分の義に満ちていました。そこで、自分の義が壊れることのないよう、表現にはとても気をつけていました。ああした人は大勢います。その人たちの義は長もちするでしょうか。じきに壊れます。
救われていても、肉には弱点があるでしょうか。あります。みなさんは、完全に善い生活をしていますか? 罪の赦しを受けた後、御霊とともに歩んではじめて完全に生きることができるのです。義の働きだけが、神の目には善とみなされるのです。御霊とともに歩み、働くならば、賞賛に値します。肉においては何一つたたえられるものがありません。罪の赦しを受けた聖徒の中には、壊れるのを恐れて義を守ろうとする人がいます。
しかしながら、主はそうした人を喜ばれません。人間の義は、いつかは壊れるものです。すぐに壊れたほうがいいのです。十年か二十年もすれば、いずれにしろ壊れます。ですから、内面的人間が信仰に生きられるよう、外面的人間は今壊れたほうがいいのです。自身の義はいずれは壊れるものなのに、人々は壊すまいとします。
主は救い主となられました。救い主は、まことに完全です。神であられる主は、救い主となられました。主は、みなさんも私も救ってくださいました。みなさんは、肉の弱さのためにまた罪人になるのでしょうか。いいえ。神はすべての義を全うされました。人間の義は、水と御霊によって新たに生まれた後に何度も壊れています。人間の悪は、主に従っていても何度も露呈されます。内向的な人の場合は隠そうとしているときに表われ、外交的な人の場合は他の人々に明かされます。自身の義が表われると、それは壊れます。しかし、主の義は堅く立っています。
 
 
肉によって生まれた者は肉、御霊によって生まれた者は霊
 
神であられる主が完全な救い主となられたことを信じてください。ですから、信仰によって生きるのです。神は人間の義が壊れることを望まれ、それを喜ばれます。ヨハネ 3:6 には、「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です」とあります。肉は霊になれません。仏教では、世俗的存在からの解放の教えがあります。それによると、肉は霊になれるとことになっています。肉はけっして霊になれません。だめです。誰にそんなことができるでしょう。いいですか。誰にもできないのです。
ソン・チョルという、現代仏教で極めて有名な韓国の僧が数年前に亡くなりました。その方は二十年近くも壁に向かって瞑想し、真理を求めました。悟りを得るために十年間、眠るときにもけっして横になりませんでした。その十年間、座ったまま眠りまでして、内から来る悪い考え、姦淫・好色・殺人・盗み・よこしま・高慢・愚かさを打ち消し、良い考えだけをもとうとしました。大勢の人が彼を生き仏だと思いました。しかしながら、肉の欲望をまったく消すことができないことを自覚していました。そこで、二十年間深山で精神修養をした後、死の間際に辞世の詩を残しました。
「生涯数多の男女を欺き、罪は高き山よりも高し。終わりなき地獄に落ち、嘆きは数をも知らず。一片の赤陽、青山の陰に沈む。」世界中の宗教関係者が僧の超越的な人格と深い教えを尊敬していました。しかしながら、本人は実際には、地獄に行くと言っています。
肉はけっして霊になれません。しかし、魂は救済を信じて新たに生まれて神の子供になることができます。義によってよみがえらせてくださる神の恵みによって、新たな被造物になるのです。人間は自身の努力によっては新たになれません。
刑務所で宣教する聖職者・僧・カトリックの神父たちは、以後は善良に生きなさいと囚人たちに教えます。しかしながら、肉はけっして変わりません。神は、人間が自身の義を捨て、主が救い主であられることを堅く信じることを望まれます。イエスのバプテスマと十字架を信じなさい。そうすれば、救済に深い信仰をもつのです。
 
 
神は信者を探される
 
主は、人類のためのなだめの供え物となられました。父なる神を人類から隔てるものを取り除かれるためにバプテスマをお受けになりました。人類の罪を贖われるために十字架につけられ、身代わりとして裁かれて、すべての罪から救ってくださいました。神が人類のためのなだめの供え物となられたのです。
主はおっしゃいます。「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。」(ローマ 3:25-26)
神はこの世に来られ、すべての義を満たされました。この世の人はみな罪がありません。神の完全な救済を信じさえすれば、誰ひとり地獄に行きません。地獄に行くのは、信じないためです。自分自身の義と偽善を捨て、イエスのバプテスマと十字架上の死とを信じて神を救い主として受け入れるなら、救われます。神は世の罪をすべて被られ、消されたのですから、神の視点からすれば、人間は罪のない状態で生きているのです。
私は神を信じます。みなさんもそうでしょう。神は救い主であられます。私たちには罪がありません。神であられる主が完全に救ってくださったのです。ただ一つ残った問題は、以後の生涯をどのように過ごすかということです。どのように生きればよいのでしょう。御霊とともに歩むのです。自分の罪を消すことについて頭を悩ませることはありません。「今までに犯されて来た罪を……見のがして来られた」というのは、罪があるからといって神は人間を滅ぼされないという意味です。罪を取り除くためにバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになり、十字架につけられて、神がすでに罪から救ってくださっているのですから、人間には罪も裁かれる理由もありません。ですから、神は罪のために人間を罰することはなさいません。神は、この真理を心で信じる者を探されます。
聖書は義人が一人もいないとしていますが、聖徒は神への信仰によって義人にされています。神はおっしゃいます。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」「彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。また、彼らは平和の道を知らない。」「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」(ローマ 3:10-18)
神はこの世に来られ、この世に生きている間にあらゆる悪を行なって無益な者となった人間たちの罪をヨルダン川ですべて取り除かれました。これを信じていますか? 
さて、神はご自分がすべての罪から救ってくださったと信じている者を探されます。主の目は義人の上にあります。神は、私たち義人を励まされます。神は私たちの面倒を見てくださり、常に共にあられ、守ってくださり、共に働かれます。神は聖徒に義の働きを託されました。人間が肉の悪を嘆いては、イエスは人間以上に嘆かれるでしょう。「わたしがすでに罪のすべてから救っているのに、なぜ嘆くのです。」 
今するべきことは、神を信じ、御霊とともに歩み、魂を収穫するために福音を宣べ広めることです。それが聖徒のするべきことです。これを信じていますか? 自身の義を誇示したり、自分の義を他人と比較して誇り、義を立てようとしてはなりません。義人ではない人をけなしてはなりません。実際、生まれながらに義人である人はいないのです。
 
 
バプテスマと十字架によってお救いくださった主に感謝をささげる
 
人類を完全に救った神の愛以外には、神の前に誇るべきものは何もありません。するべきことは、神による救済を誇り、たたえ、神に栄光をささげ、水と御霊の福音を宣べ広めることだけです。人間は、罪や地獄に行くことについて心配する必要はありません。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」(ローマ 8:1)けっして。わかりますか? 主が義のみわざによって救ってくださったということと結びつかなければ、その人は地獄に行きます。しかしながら、信じるなら、地獄に行くことを心配することはありません。
神であられる主は、イエスのバプテスマと血とによって罪のすべてからお救いくださいました。なんとありがたいことではありませんか。「人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの教えです。それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です。」(ローマ 3:28-29)
神はユダヤ人の神であられるばかりではなく、外国人にとっても神であられます。すべての人間の神であられます。神であられる主は、罪のすべてからお救いくださいました。そのために、この世に来られ、人類の罪をすべて負われるためにバプテスマを受けられ、十字架につけられて人類の罪の裁きをお受けになりました。こうして、主は全人類の神、救い主となられたのです。これがローマ書第 3 章の結論です。使徒パウロはこれを信じていました。聖徒もまた、これを信じています。
使徒パウロは肉の弱さのことだけではなく、律法とは別の神の義についても話しています。人は律法の行ないによっては救われません。何によって救われるのでしょう。神の救済への信仰によって。神であられる主はなだめの供え物となられ、それまでに犯された罪を被られました。ですから、信じない者は聖霊に敵対する罪を裁かれます。この世には罪がないのですから、神は人間が肉の弱さから犯す罪を裁かれません。
こういうわけですから、神であられる主を信じるのです。信者には滅びも裁きもありません。神は信じる者の神であられます。ですから、以後の生涯を御霊とともに歩むのです。肉は欲望のために生きようとします。それでも聖徒がいつでも御霊のことを行なえるのは、罪がみなすでに赦されているためです。神であられる主は、ユダヤ人と外国人両方の神であられます。神はまた、信じる者と信じない者両方の神であられます。これは、全人類が罪から救われることを神が望まれているということです。神は不信者の救い主となられます。神はすでに信じる者の神になっておられます。
神であられる主に心の底から感謝をささげます。神であられる主がおられなければ、この世に人間の肉の形で来られなければ、そして、ヨルダン川で人類の罪をすべて取り除くためにバプテスマをお受けになることがなければ、私はどんなに惨めだったでしょう。主が完全な救い主となられなければ、罪の赦しを受けた後でまた罪人となっていたでしょう。人間は死ぬまで弱いからです。神であられる主に感謝いたします。